告白【3】
結婚してから数か月。マツリがハクと共に食卓に着いたのは初めてのことだった。ハクを上座に置こうとしたが、ハクは固辞し、結局マツリは向かい合って座った。八重とナツはその様子を見て目を見開いた。
「や、八重さん。一体どういう風の吹き回しでしょう」
八重は「分からない」と首を左右に振る。二人はこっそりと居間に座る二人を見守った。
「八重の食事はとても美味しいですね」
「…私もそう思います。貴女にもそう思っていただけて良かった」
一見非常に穏やかな風景である。先に聞こえたマツリの怒号は何だったのか。ナツと八重は不思議で仕方ない、という面持ちで互いに見合った。
(こうして話している分には、特別妙な方ではないのに)
マツリは箸を動かしながら、ハクのことを観察していた。背筋を伸ばし、脇を適度に締めた食事の姿勢は美しい。マツリが弱冠苦手とする魚の骨取りも見事なものだった。茶碗を持つ骨ばった長い指が繊細な雰囲気を醸している。
食事中の会話の受け答えも特別問題なかった。「良かった」と言った際にわずかにほほ笑んだ表情は、どこか儚さを湛えており、人を惹きつける何かがある。先のような姿を見ていなかったら、マツリも頬を染めていたかもしれない。
始終穏やかに食事が終わり、湯飲みを傾けながらマツリは「あ」と小さく声を上げた。ハクは目で「どうしたのか」と問うた。
「ナツ」
「はい奥様」
「白田さん、今日のアレ持ってきてくださった?」
「ああ、はい。ちゃんと」
「…?」
二人だけで通じるざっとした会話にハクは首を傾げた。そして何かパタパタとしている
と思えば、彼女たちが抱えて持って来たのはたくさんの布、糸等の材料だった。ハクの表情がピシリと固まる。
「ハク様」
「…は、はい」
どこか怯えるような様子のハクに、マツリは真っ直ぐに向き合った。
「私、上手く行くかは分かりませんが…召し物を作りたいのですが」
「しゅ、趣味じゃなくて…?」
「はい」
「それは自立して出て行こうと…」
「出て行きません」
顔を青くするハクに向かってマツリははっきりと言い切った。
「好きにして居ろと言ったのはハク様です」
「そうですが…」
マツリの決意の固い目を見て、ハクは弱った様に視線をウロウロと彷徨わせた。どうしたものかと逡巡しているようだった。
これを許せば、いつかマツリが家を出て行ってしまうかもという不安と、マツリが出て行かないと言った言葉を信じたい気持ちがハクの心の中でせめぎ合っていた。
「ハク様」
どっしりとしたマツリの声が部屋に響く。
「ようございます。分かりました。私も性急だったでしょう。私たちの間には信頼関係がありませんもの」
「!」
事実を突きつけられ、ハクは鋭いものがヒュンと深く心臓に突き刺さったような痛みを覚える。事実だが、面と向かって言われるとこうも悲しく寂しい気持ちになるのか、と胸に重たいものがぶら下がった。
「私達、お互いのことをよく知りませんから…」
マツリの言葉にハクは思わず「いえ」と口を挟んだ。
「貴女の事でしたら、幾分か。帝都女学校では家庭科目は常に『優』。お友達は同じ商家の方が数名。皆嫁いでからはあまり会えていらっしゃらない様子。貴女の近頃の過ごし方は、家の用事と、中庭の手入れ。後はご実家のお店に行かれたり。帝都でお好きな店は服屋と甘味処。貴女は洋物がお好みで、よく召し上がるのはプリン・ア・ラ・モード。アイスクリームも気に入ってらっしゃる。スプーンを口元に宛てるのが癖ですね。あれは本当にかわいらしい。それから…」
スラスラと語り出したハクに、マツリの顔はみるみるうちに青ざめた。反対にハクの表情は水を得た魚のように生き生きと、溌剌と、生気を取り戻していく。
二人の様子を黙って見ていたナツは、現状をどう受け止めたらよいのか非常に困っていた。マツリに一向に興味がないと思っていたハクが、どこでどうやって知ったのかマツリの交友関係や好みや癖までも嬉しそうに本人に語っている。ハクの印象が想像と異なりすぎて、ナツは頭の中がぐるぐるとしてきた。
マツリの引きっぷりは見事なもので、二人の距離の遠さ、温度の違いを明らかにしていた。
「どうしてご存じなんですか!」
「それは…」
「いえやっぱりいいです!」
なぜそんなことを知っているのかという疑問よりも恐ろしさが勝った。マツリは奇妙な新生物に出会ったような気持だった。きょとんとしているハクに向かってマツリはビシッと宣告する。
「今後は、そういうのおやめになってください」
「そういうの、とは」
「私のことをやたらとお調べになることです」
「妻の心配をすることは何か問題でしょうか…」
憂いを帯びたハクの美貌に思わず「ぐっ」と息詰まるマツリだったが、懐柔されてなるものか。マツリはゆっくりと「やたらと、お調べになるのはおやめください」と言い聞かせるように言った。
ハクはがっくりと肩を落とし、しょんぼりと頷いたが、『やたらと調べる』の程度を落として果たしてどのようなことになるのか、マツリの胸中にはなお不安が残った。しかしこうして釘を刺した後は、その都度現行犯で注意していくしかない。諦めてはダメだ、しっかりしなくてはとマツリは心を強く持とうと気合を入れた。
「おはようございます」
「白田さん。おはようございます。昨日はありがとうございました」
定時に家にやって来た白田にマツリは頭を下げた。白田も丁寧に頭を垂れた。二人は「ふう…」と一呼吸遠い空を眺めた。どちらも頭に浮かぶのはハクのことである。マツリはどんな気持ちで白田がハクの言うことを聞いていたのか疑問だった。
思ったことを直接口に出すと、白田は一瞬目を丸くした後に眉を下げて笑った。
「私は坊ちゃん、おっといけない。昔からハク様のお世話係ですからね。お諫めはしますけど、結局あの方の言うことお聞きしたくなっちゃうんですよねえ。ま、アレな話しちゃうと、それでお給金いただいてるんで!」
白田は「にこり」と聞こえてきそうな程パッと笑った。マツリは白田の瞳の中に、狂気じみた光を垣間見たような気がした。決して給料のためだけに働いているとは思えなかった。
(この人も、やっぱりちょっと私の感覚と違うわね…。主のためなら、何でもやる…人当たりよく笑ってはいるけれど…)
ナツはどうだろうか。マツリはナツの人柄を思い浮かべる。
「…」
いや、彼女は彼女の中にしっかりとした考えがある。マツリが道から外れそうになったら、どんなことをしてでも止めるだろう。それが彼女の誠実であり、私への愛情だ。ハクと白田。マツリとナツ。同じ主従関係でも、在り方の違いにマツリはカルチャーショックを受けた。
マツリがそうこう考えている間に、用意を整えたハクがやって来た。マツリを認めて、ハクは鼻の頭をほんのり赤くした。
「おはようございます」
「…おはようございます」
ここ最近では珍しくなっていた、穏やかな挨拶だった。わずかに顔を綻ばせたハクはやはり儚く美しく。朝の薄い光が一層そう感じさせた。
「いってらっしゃいませ」
「…朝日が貴女の髪を濡らすようですね」
ハクは睫毛を光らせながら、くるりとマツリに背を向けると車に乗り込んだ。小さくなる車の影が見えなくなるまでマツリは立ち尽くした。全く意図せず顔に熱が集まった。
マツリは下ろして三つ編んだ髪を両手でギュウと握った。
「…だ、だから何だと言うのよ…!」
美しいのは貴方だ。見てくれだけは完璧のくせに。アレコレと妙な怒り方をしながら、マツリは赤い顔を俯かせて門から屋敷まで小走りで戻った。玄関にはナツと、どこか嬉しそうに笑う八重がマツリを待っていた。
お読みいただきありがとうございます!