告白【2】
「あの人は…仕事でよく使う料亭の…」
小さい声で話始めたハクに、マツリはすかさず「恋人では?」と鋭い視線を向けた。ハクは青ざめて頭をブンブンと横に振る。
「じゃあどういう方なんですか?どうしてここに連れて来られたんです?」
ハクの様子から、愛人の類ではないことは察したが、部屋にあふれる自分を模ったアレコレに理解できない恐ろしさを抱いているマツリは、いっそのこと「恋人です」と言ってくれた方がマシだったかもしれない、とさえ思い始めていた。
「その…最近貴女が素っ気ないから……気を引きたくて…」
「は?」
「何ですって?」
「すみません…」
段々と小さくなるハクの声を漏らさず聞いた二人は一斉に顔を歪めた。ハクはいたたまれない、という風にまた顔を覆った。白田はマツリの顔を見てギョッとした。マツリの顔には露骨に呆れと失望、そして嫌悪が浮かんでいた。
(これはまずい)
白田は自身も随分と呆れていたが、パッと顔を明るくして「まあまあ」と言って場を取り繕うとした。
「無理に明るくする必要はありません」
冷たいマツリの声がバッサリと白田を制する。白田は心の中でハクに助勢できなかったことを謝り、ピタリと口を閉じた。
ハクは絞り出すようにぽつりぽつりと事情を話し出した。要約すると、次のような感じである。
あの日、昼から接待のために料亭を訪れたハクはどこか暗かった。料亭の顔なじみの女は琴葉と言った。琴葉はハクの様子を怪しがり、何かあったかと尋ねた。ハクは琴葉に、女の人の気を引くためにはどうしたらいいかと相談した。
琴葉は「よくある例」としていくつかハクに案を授けた。そのうちの一つが、『嫉妬させる』であった。嫉妬とは自らが想われている場合に相手に起り得る感情だが、ハクはこの案に非常に興味を持った。
『贈り物をする』や『褒めちぎる』といった、始めやすいところをすっ飛ばしたのだ。よくよく事情を知らない琴葉は必死過ぎるハクを半ば憐れんで協力したが。いざ家に来てマツリの表情を見れば、琴葉はこれが失敗だったとすぐに察した。
「奥方を傷つけただけです。いけないわ、こんなこと…。私、すぐに謝ってきます」
マツリに事情を知られたくないハクは、琴葉を引き留めた。
「静かに…」
そしてそのまま予定通りに琴葉を家の裏口から帰したのだった。
「すみません、よく分かりません…」
「え、も、もう一度…」
「いえ、流れは分かりましたが」
マツリの目は死んだ魚のようになっていた。白田は「もう見ていられない」と思った。
「奥様、心中お察しするところではありますが、このハク様という人、仕事は丁寧、実直な方ではありますが、その、実に奥ゆかしく、不器用な一面もありまして。特にご婦人のこととなると…」
ハクも意を決して立ち上がり、白田に並んだ。
「あ、愛しているのです!貴女を…!」
ハクは「言ってしまった…!」とぎゅっと目を瞑った。
白田の背後にはマツリの姿画や後ろ向きの等身大人形、先ほど片付けた半紙が並ぶ。マツリはプルプルと震えながら、ハクと白田に向かってビシッと人差し指を向けた。行儀が悪いとかは構っていられない。ハクと白田はぎくりと肩を強張らせる。
「愛しているからって何してもいい訳がないでしょう!!!!!」
屋敷中にマツリの怒号が鳴り響いた。
ハクと白田は正座していた。強いられたのではなく、自主的にそうした。目の前には烈火のごとく怒っているマツリが仁王立ちしている。
「まず、この気味の悪い私の姿画やら、人形やらは捨ててください!こんなもの愛でられていると思うとゾッとします!」
ハクは悲壮な顔をしたが、反論してはいけないと本能的に理解し、口を開くことを断念した。
「でも何だかそのまま燃やすのはとても良くない気がします…」
「あ、それなら私が縁の神社か寺に訊いてきますよ!」
朗らかに手を挙げる白田を、ハクは恨めしそうに横目で見た。白田はこれで主人の妙なお使いをしなくていいと清々している。マツリは白田の申し出を神妙に受け取り、「よろしくお願いします」と頷いた。
「それから、私の私物は返していただきます。そして、この櫛はお返しいたしますわ」
「えっ…!」
「だっていただく理由がありませんもの」
白田はマツリの容赦のない『お片付け』に思わず口がに緩みそうになった。隣にはこの世の終わりという顔をしているハク。いつもの涼し気な顔はどこに置いてきたのやら。
(しっかりした子が嫁いできてくれたものだねえ)
マツリは弱冠表情を崩している白田に気が付き、「何か?」と鋭い視線を向ける。完全に白田のことを共犯とみなしていた。白田は「あららいけない」と心の中でほくそ笑み、「いえ」と口元を引き締めた。
「最後に!」
マツリが二人の目の前にドスンと置いたのは件の風呂敷に包まれた大金だった。
「こちらも!どういうおつもりかは分かりませんが!お返しいたします!」
「それは困ります!!」
ハクは勢いよく抵抗した。マツリの眉が吊り上がる。
「結構です。もう十分必要な分は家に入れていただいています。私個人に下さらなくても大丈夫です」
「それは、貴女が手ずから働くからですか…!?」
「ええ。私も反省いたしました。弱い立場を甘んじて受け入れて生きていく義務はないのです」
「困ります!」
「何がだ」とマツリは目で凄んだ。あまりの迫力に白田は再び吹き出しそうになる。ハクは顔を真っ赤にしながら半泣きで訴えた。
「貴女が自立してしまったら!ここから出て行ってしまうのでは!!?」
「は」
『ポカン』と音が聞こえたような、間抜けな間が落ちた。マツリの目は点になる。
(…とても単純だわ…でも…)
マツリは頭が痛くなってきた。ハクの行動原理が全て「マツリのことが好きだから」に拠っていると思うと、ゾッとする。結局『ハクが』マツリのことを好きだからという枠の中だけで起こっていることであり、マツリ自身の意思や行動は尊重されていない。
「出て行かないで欲しい」という意思も、ハクがマツリをこの家に留めておきたいがためである。愛の無い結婚であれば『外聞が悪い』だとか『妻は家にいるもの』という理由が筆頭に来ても不思議ではないのだ。
(どうしてこんなに執着されているの?)
マツリには何も思い当たる節が無い。結婚初日から今までずっと疎遠だったはずなのに。ハクの常軌を逸した行動の理由は。マツリは今考えても理解できようがなかった。
「…出て行きませんから」
ため息混じりにポツリと呟くように言うと、ハクはバッと顔を上げた。その過剰な「嬉しい!」という表情にすら、マツリは抵抗を覚える。この違和感は何なのか。
ハクという人間について、マツリは何も知らない。もう夫婦となってしまった身であるが、この結婚について、この夫について、マツリが何かを判断できる材料は余りにも少なかった。
「あの…やり直しましょう。普通に」
「え…」
「奥様…」
マツリも床に膝を付き、ハクに視線を合わせた。
(知らなくてはならない)
マツリの中に燃えるのは、好奇心か、責任感か。この狂気の一片を見てしまった以上、マツリは後に下がることはできない性分だった。またハクのことを恐ろしいと思う一方、「何とかしなくては」と強く思ったのである。
(風向きが、変わるかもしれない)
大量の半紙と姿画、来たばかりの人形を車に積んだ白田は薄暗い空を眺めた。屋敷からかすかな驚きの声が聞こえてくる。共に夕食を取るとマツリが宣言したのであろう。
「あんたが頑張んないと駄目ですよ、坊ちゃん」
屋敷を見遣り、わずかに笑うと白田は車に乗り込み松葉の屋敷へと帰って行った。
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