告白【1】
その日は存外、ハクの帰りが早かった。まだ夕陽が出ている時間に表で車の音がした。マツリは自身の前に置いていた風呂敷と櫛の入った木箱を持つと、静かに立ち上がった。
廊下で八重とすれ違い、ハクが既に部屋へ向かったことを確認した。八重は確固たる意志を湛えたマツリの顔つきに、今から家の中で起こりそうな嵐を予感して暗い気持ちになったが、何も言わずにマツリの背中を見送った。
マツリは西日が差し込む廊下を進んだ。ハクの部屋は廊下の奥の角部屋にあたる。不安や緊張が無いわけでは無かった。それでも不透明な蟠りを抱えたままにしておくことはできない。例え、今以上に疎ましがられ、冷たく扱われる可能性があろうとも。
そして一枚の飾り気のない扉の前にやって来た。開けるなと釘を刺されたハクの部屋。マツリは意を決して部屋の戸を叩いた。
「……」
固唾を飲んで中からの反応を待つ。
しかし。
「……?」
待てども、何の返事も音も無い。マツリは首を傾げた。部屋にいないのか、はたまた徹底した居留守を使われているのか。わずかに拍子抜けしたような気持ちを携え、マツリは試しにノブに手をかけた。
「!!」
部屋に鍵はかかっておらず、すんなりと戸が開いてしまった。マツリの心臓はうるさく脈打ち始める。
(どうしよう)
わずかに開いている戸の隙間。ハクは中に居るのだろうか。それとも。マツリは自身を奮い立たせた。これで怖気づいていては、とても今から話なんてできない。「えい」と心の中で掛け声をかけ、開きかけの戸を指先でツイと内側へ押した。
暗い部屋はカーテンが全て閉じられており、マツリが戸を開けて初めて光が入った。ぼんやりと部屋の中のものが浮かび上がる。
決して開けてはいけないと言われた扉の先にあったのは。壁一面の自分の姿画。失くしたと思っていた帯留め、ハンカチ、櫛。そして床には…おびただしく自分の名前が書かれた紙が散らばっていた。
(この呪術めいたものたちは…!!)
咄嗟にマツリの本能が警鐘を鳴らした。疎ましく思われているとは思っていたが…明らかに不気味で異様な雰囲気に、『殺意』『呪い』という言葉がマツリの脳内を占領した。
「こ、殺される!!!!!!!」
この部屋から逃げ出そうと振り向くと、背後には温度の無い瞳で自分を見下ろす夫が立っていた。
「―――――!!」
もうだめだ。マツリは絶望した。脳内にこれまでの人生の重大場面や些細な出来事が一気に駆け巡り、「ああ、これが走馬灯か…」といらぬ分析をした。人間限界を超えると達観してしまうらしい。
「見ましたね…開けてはならないと言ったのに…」
抑揚のない声でハクがぼそりと口を開いた。昔話を聞かされて育ったマツリは、このセリフが出てきたときは碌なことにならないものだと既に学習していた。青ざめて固まるマツリを見下ろすハクはそれ以上何も言わず、二人は膠着状態に入った。マツリは逃げたくとも背後はハクの部屋、正面はハクと逃げ場がない。
マツリの頭が真っ白になったその時。
「ハク様~。持って来ましたよ。奥方のスケール1/1人形~。って…あら?」
呑気な声と共に何やら大きな箱を担いだ白田が裏口から登場した。そして固まっている二人を見つけて目をぱちぱちとさせた。
「何、見られちゃったんですか。秘密の部屋。大事な奥方コレクション…」
白田が言い終わる前に、ゴン、と大きな音が廊下に響いた。マツリの視界が急に明るくなる。目の前にいたはずのハクは視界から消え、向かいの壁が見えた。マツリは無言で視線を落とす。
そこには、膝を床に着け、耳まで赤くなった顔を震えながら両手で覆う夫、ハクがいた。
「見られた……死にたい…」
「………」
絶句して立ち尽くすマツリと、プルプルと震えながら小さくなるハクを見て、白田は状況を把握し、担いでいるソレを丁寧に下ろした。
電灯を点けた部屋の中は、薄暗さの生み出す不気味さは無くなったものの、部屋の異様さが明るみになった。
部屋の床に散らばっていた『松葉マツリ』のおびただしい文字。思わず口から出たマツリの「呪い…?」という呟きをハクは被せるように否定した。
本人がいくら「呪いではありません」と主張しても、何かしらの怨念めいた強い感情が込められているのは明らかで、マツリはハクの否定に「それなら良かった」と安堵することなど微塵もできない。
そして壁に隙間なく張られたマツリの姿画。これも気味が悪いとしか言いようがなかった。皆美しい顔で微笑んでいたが、実物よりもちょっと美人に描いてあるところがマツリの感情をいささか害した。
おまけに部屋の隅では先ほど搬入されたマツリの等身大の人形がジッとこちらを見ている。動き出しそうなほど精巧な作りでこれまた非常に不気味である。中身確認のために梱包から解放されたばかりだった。
これらは何なのか。最も視覚的に衝撃的で異様なそれらについて、当然気になって仕方がなかったマツリだが、尋ねる勇気が出なかった。
とりあえず、散らばっていた半紙を無言で片付け、マツリとハクは向かい合って座った。白田は二人を見守るように部屋の隅に落ち着いた。ハクはまだ耳を赤くして俯いている。
(何から聞けばいいのか…)
絶賛大混乱中のマツリは一体どうやって話を切り出したらよいのか分からなかった。
(落ち着かない…)
マツリは等身大の彼女の視線に耐えられなくなり、スックと立ちあがった。
つかつかと人形のところに行き、容赦なく後ろ向きにした。マツリの背後から「ああ…!」と悲壮な声が聞こえてきた。
「だってずっと見られているんですもの!」
責めるように言ったつもりのマツリだったが、ハクは「そ、そうですね…」と照れ臭そうにしている。マツリに強い口調で言われたからなのか、等身大の彼女が見つめていたからなのかは判断がつかなかったが、どちらにせよマツリは全身で引いた。
「奥様、お気持ちは分かります」
白田が神妙に同意を示し、マツリは白田に「説明しろ」と目で訴えた。白田も何から言ってよいやらという様子で、困ったように頭を掻く。マツリはソロリソロリと部屋を歩き、確かに見覚えのある物を指さした。
「これは」
「初っ端で申し訳ありませんが、それは私もよく知らなくて。ねえハク様、アレは何?」
ハクはびくりと背中を震わせた。ギギギ、と音がしそうな動作で二人の方へ首を向ける。
「そ、それは…あの…縁側とか、居間で見つけて…」
「私のですが」
「…」
ハクは無言で視線を逸らした。明らかに「知っています」という顔だった。
「盗んだんですか…あんた…」
白田の呆れた声に、もはや弁明の余地なし、と思ったのだろうか。ハクはぺしゃりとマツリに平身した。
マツリは「ええええ」と思いながら、今度は自身の持ってきた木箱を指さす。
「だってアレ!え?そういうこと?代わりにくれたってことですか?」
無言で頷くハク。
「そりゃ、礼を言われることじゃないですね…」
問題の櫛の他に、マツリが失くしたと思っていたものが数点。櫛を失くした時には嫌な思いをしたため、失くしたことを口外しなかった。じろりとハクに視線を戻すと、ハクは恐る恐ると部屋の一角を指さした。
「あそこに…渡そうと思っていた代わりのものが…」
そこにはきれいな包みが弱冠埃を被って積み上げられていた。包装紙のマークからして、高い百貨店で見繕ってきたものだと分かった。マツリは何とも言えない気持ちになり、再び口を閉ざした。
マツリは久しぶりに手にした櫛とハクを交互に眺めた。
(…縁側に置きっぱなしにしたのを、この方が持ち去って、代わりの物を用意して。ああ、櫛を置いているから部屋には入るなって言ったのね)
実際部屋見れば入ってはいけない部屋だということは十分に分かったが、あのタイミングでハクが釘を刺した理由をマツリは理解した。納得と共感はさっぱりできなかったが。
さて、事実確認はまだ残っている。現時点ですでにマツリはどっと疲れていたが、一番気になることを聞かずにはいられない。
「―あの女の人は?」
マツリは蹲るハクに尋ねた。ハクは悲壮な顔をゆっくりと上げた。何かに耐えるように両目をぎゅっと瞑り、顔全体、いや耳も首も全てが真っ赤だった。
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