すれちがう【5】
そうと決まればマツリは意欲的だった。最初から急にたくさん稼げるとは思っていないし、自分の場所を作るにはコツコツとやるしかない。少しずつ、自分で今からできることを探す。色々と思案した結果、ひとつの答えに辿り着いた。
「やっぱりこれよね」
マツリは立派な箱に入った裁縫道具を取り出した。女学校でも嫌という程習ったし、何より実家が呉服屋である。「呉服屋の娘が何も仕立てられないとは恥ずかしい」という教育方針の下、マツリはみっちりと鍛えられた。
「家では着物ばかりだったけれど、女学校では洋装も習っていたのよ」
「腕に覚えがあってよかった」と得意げに笑うマツリに、ナツは「お裁縫はいつも一番でしたものね」と懐かしそうに笑った。作ったものを店に置いてもらえるよう交渉しようと、楽しそうに計画を練る二人の様子を見て、依然として抵抗を覚えている八重はがっくりと肩を落とし、ため息をついた。
数日して、仕事から一人で戻ったハクは勝手場を覗いた。八重が自分の夕食の用意をしている。ここ最近、八重から発せられる空気がビシビシと突き刺さるようなものであることに、ハクは気が付いていた。何と言えばよいものかと、ハクは頭を悩ませている。ダン、と八重が漬物を包丁で叩き切る音が大きく響いた。ハクが居間で待たずに、勝手場にやって来たことを気配で察したのであろう。
「八重…」とハクは声をかけた。八重は振り向かなかった。包丁をカタンと手放し、小さい背中を震わせていた。
「坊ちゃん…あんまりでございます…。あれでは奥様が…」
「八重…」
「奥様が何をなさろうとしているか、ご存じですか…!?松葉の奥方とあろうお方が、自ら働こうとなさっているのですよ!?そんなことどうしてさせられましょう!」
「何…?」
「ご自身の身をご自身で守ろうとしてらっしゃるんです!」
ハクは八重の言葉を聞くと、眉を寄せて思案顔になった。口元に手を当てたまま口を閉ざし、くるりと八重に背を向けて歩いて行く。その背中に向かって八重が「ハク様!」ともどかしそうに呼びかけるも、ハクは答えなかった。結局ハクは自室に籠ったまま夕食も摂りに現れず、八重は仕方なく部屋の前に盆を置いたが、それが手を付けられたのは八重が諦めて床に着いた頃だった。
「奥様、あちらの反物屋もご覧になりますか?」
「そうね、あと糸ももう少し欲しいわ。ハイカラなやつ」
朝早く、能面のような顔で機械的にハクを送り出すと、マツリとナツは二人で第5区の商業街にやって来た。様々な布や糸、ボタンを調達するためだ。すっかり夢中になり、もう正午を回ったところである。二人で両手いっぱいの袋を携え、そろそろ昼にしようかと歩いていると、背後から突然声をかけられた。肝を潰した二人が咄嗟に振り向くと、そこには朗らかに笑う白田が立っていた。「お二人でおでかけですか」と尋ねながら、白田は二人が持っている袋を攫う。
「まあ、悪いですから。大丈夫ですよ、私達」
あまりに自然に荷物を持ってくれた白田に、マツリは悪い気がした。すると白田はケロリとして、夕方屋敷に寄るから一緒に車で運ぶと言う。できる男だ、とマツリとナツは思った。
「白田さんはどうしてこちらに?」
ナツが不思議そうに尋ねると、白田は「ちょっとね、野暮用で」と曖昧に答えた。仕事のことはあまり聞いてはいけないことなのだろうか、と察したナツは追及せずに「そうですか、ご苦労様です」と労いの言葉をかける。白田は返事をする代わりに笑みを深めた。
二人は白田に荷物を預けて別れると、少し歩いて喫茶店に入り昼食を摂った。自分では作ることが難しいオムライスやスパゲティに舌鼓を打ちながら、窓の外の街行く人々の様相を観察する。丸い襟の白いブラウス、足首が見え隠れするふんわりとしたスカート。どんな形にするか、どういう雰囲気にしたいか、何が売れ筋か、それに乗っかった上でどうやって差別化を図るか。流行を追いかける雑誌なんかも買っておくといいかもしれない。マツリは膨らむ想像を早く形にしたかった。二人はあれやこれやとアイデアを出し合いながら、軽い足取りで屋敷に帰った。
「ただいま。八重、八重の好きな菱屋のお饅頭を買って来たわ」
「すぐお茶を淹れます」
「…おかえりなさいまし…」
ご機嫌な二人を迎えたのは沈痛な面持ちの八重だった。マツリは八重が自分が働くことをまだ受け入れられていないのだと思った。できれば八重にも応援してもらいたいが、無理強いはできない。マツリは眉を下げて「八重…」と柔らかく声をかけた。
しかしよく見ると、八重は小刻みに震えていた。
「八重?」
何だか様子がおかしい八重に、マツリは不穏な気配を察する。不在の間に何かあったのだろうか。ナツも異変に気が付き、すぐに履物を脱ぐと八重を支えるように肩を抱いた。
「八重さん、どうなさったの?」
「は、ハク様が…」
ドキリ、とマツリの心臓が嫌な風に脈打った。また何かあったのだろうか、と不安が過ぎる。八重が悲しい思いをしたのではないかと心配になった。
「は、ハク様が…?どうしたの、八重…?」
「あの、こ、これを…」
八重が着物の袂から何かを取り出した。風呂敷に何かが包まれているようだった。八重が震えながら差し出すそれを、マツリは戸惑いながら受け取った。
(何…?箱ではなさそうだし、紙かしら…まさか、離縁状とかそういう…)
ぐるぐると嫌な予感が胸に渦巻く。包みを持つ手の感覚が無くなっていくような気がした。八重が目を逸らし、ナツがジッと見守る中、マツリは意を決して風呂敷を開いた。
「な、何これ…!!」
出てきたソレに、マツリは目を見張った。ナツは思わず息を飲んだ。風呂敷から現れたのは、厚い紙幣の束だった。ざっと目で数えただけでも相当な額であることは確かだ。道理で八重が震えながら袂に仕舞っていたわけだ、とマツリは納得がいった。しかし。
「どうしたのこのお金は…ハク様が?どういうこと?」
マツリでさえ、手にしていたくない量の紙幣である。こんなものを渡された八重も気の毒だ。ハクは一体どういうつもりでこれを八重に預けたのだろう。
「ハク様が…いえ、申し訳ございません…!」
突然、八重は頭を下げた。マツリとナツは困惑して顔を見合わせた。八重は頭を下げたまま、弱弱しい声で続けた。
「昨日ハク様に、奥様が働き始めようとしていることを訴えてしまいました…そして本日奥様方がお出かけになられた後、しばらくしてハク様が一度帰っていらして…それを私に…」
「な、何かおっしゃっていた?」
「いいえ、すぐにまた出て行かれてしまったので…」
マツリは心の中に強い感情が一気に膨れ上がった。無意識に手の中の大金を握る力が強まる。
「好きに過ごせと言ったのはあちらなのに!事情が知れたら今度はお金に物を言わせて大人しくさせようと言うの!?不干渉で何も知らないまま、頭を空っぽにして飼われていればよかったってことかしら!?」
ナツと八重はマツリの激昂にたじろいだ。マツリは足音を立てて自室に向かう。興奮して息は荒く、目は血走っていた。マツリ自身、高ぶった感情を抑えることができなかった。ピシャリと部屋の障子を閉めると、マツリは深呼吸をして真っ直ぐに前を向いた。
「…よし」
この夜、マツリは帰宅したハクのところへ対決しに行く決意を固めた。風呂敷に包まれた大金と以前もらった櫛を揃え、マツリはハクを待った。夫の帰りをこれほど待ち侘びたのは、結婚してから初めてのことだった。
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