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すれちがう【4】

 家の主であるハクが突然連れてきた見知らぬ女性。


 どう応対したものかと狼狽える八重に、ハクは素っ気なく「構わないでいい」と言って女を連れて自室の方へ向かった。二人は振り返ることもせずに歩いて行く。


「………」


 マツリはショックで何も言えずその場に立ち尽くした。八重も堪えたのだろう、心臓を押さえるように胸に手を当てて息を乱している。ナツは咄嗟にマツリの両肩を支えるように手を添えた。


(あれは誰?ハク様とどういう関係なの?)


 口元を両手で押さえながら、マツリは動揺した気持ちを落ち着けようと必死だった。心臓は早鐘を打っている。冷静になろうとすればするほど、自分の置かれている状況が楽観視できないものであると実感してしまう。マツリはナツと八重を残し、足早にその場を去った。


 月の光がほのかに降り注ぐ、暗い中庭の一点を見つめながら、マツリは縁側で膝を抱えていた。


 愛のある結婚ではない。互いに支え合う夫婦生活を送っているわけでもない。それでも。不貞を働いていい理由はどこにもない。はっきり言って、幻滅した。最初は妻を当然の如く虐げるそこら中に居る旦那とは違い、何て心の広い人だと思った。それがどうだ。マツリもハクの気を引きたいわけでは無いが、すげなくされれば傷つくのは人として当たり前のことである。加えて『不貞』という行為は、仮にも『夫婦』という間柄である以上、極めて悪質な規則違反ではないか。


(ハク様は…本当はあの女性と一緒になりたいのかもしれない…。ずっと前からそういう関係だったなら、私は邪魔なはずだわ)


 これまでの出来事や状況を振り返ると、マツリは今までのハクの行動に合点がいった。そもそも想っている女性がいたのであれば、マツリと睦まじくしようとする意志が無いのにも頷ける。櫛を贈ってくれたのもきっと身形くらい整えておけという意思表示か、無心したと思われたか、いずれにせよマツリが喜ぶような意図はなかったのだろう。



 マツリは今までの自身を悔いた。自由を得られたと言って喜び、ありがたがっている場合ではなかったのだ。


(あの方にどういう意図があったのか、どういうご事情があったのか…きちんと伺うべきだった……)


 いくら好きでもない夫でも、どんなに興味が無くとも、家を出たマツリが支え合ってゆかなくてはならない人間は一人しかいない。否応なくさせられた結婚により、既にマツリは「須屋の家の子」ではなく、一人で世の中に放り出されていたのである。そしていよいよ、自分が本当に「ひとり」であることをマツリは痛烈に自覚した。


 ここは誰の家で、自分は誰の稼ぎで生活をしているのか。嫁いだ女子の立場の弱さを嫌でも考えざるを得ない。それに今までの暮らしを喜んで教授してしまった。また、自分の結婚は自分だけの問題ではないということは痛い程分かっている。マツリはハクに強く出ようにも、実家に訴えようにも、気が引ける要素が次々と思い浮かぶ。ハクの行いが不当で不実だと腹が立つ一方で、自分の立場を鑑みてはどうしようもない心許無さを覚えた。


 マツリは今後のことに思いを馳せる。いよいよハクが家まで愛人を連れてきたとなれば。ハクも政略結婚の駒であるので、勝手に離縁の手続きを進めることはできない。故に考えたくは無いが、妾として彼女を置くことは十分にあり得る。しかし、最悪な場合、本当の本当に自分が邪魔になった場合、どうなるか…。マツリは考えてはならないことを考え、恐怖と罪悪感に身を震わせた。


 どうするべきか。マツリは空を仰いだ。ぽかりと浮かぶ月は丸く、優しく。疲弊したマツリの心に柔らかな光が染み入った。




 マツリが縁側から動かなくなってからどのくらい経っただろう。八重も勝手場の椅子に置物のように呆然と座ったままだ。ナツは何度も時計を見ては何度も縁側の様子を窺った。ナツ自身も、マツリに起こった出来事に腹を立てたり、マツリを心配したりと、考えや気持ちに整理をつけることができずにいた。ぼんやりと火の一点を見つめていたナツは、湯が沸く音とそれに紛れて聞こえた足音にハッとした。


「マツリお嬢様!」


 無意識に昔の様に呼んでしまったことにも気が付かず、ナツは勝手場に現れたマツリに駆け寄った。


「今、八重さんとお茶をお持ちしようかと」

「八重…」

「奥様…私は何と申し上げたらよいか…」


 八重はやっと口を開いた。ハクを古くから知っている八重である。今回のことは彼女も酷く傷付いたに違いなかった。マツリは八重に近づくと、自分よりも背の低い八重を労わるように抱きしめた。八重は「ああ奥様…」と顔を覆う。マツリはナツに向かって「お茶は三人分お願いできる?」と言って眉尻を下げた。




 自分の部屋に場所を移し、暗い面持ちの八重と、マツリを心配しつつハクへの怒りを湛えたナツを向かいに座らせ、マツリは努めてどっしりと構えた。


「私、少々考えまして」

「今から討ち入りに行きますか!」

「待って」


 前のめりになって腰を浮かせたナツを、マツリは片手を挙げて押しとどめる。不満げに肩をすくめたナツの代わりに口を開いたのは八重だった。


「奥様…奥様がご自身を責められることはございません。奥様は使用人にもよくしてくださいますし、家の事もようやってくださいます。それから顔を背け、ないがしろになさったのは坊ちゃんでございます。そもそも、ご自身との関りを遠慮なさったのは坊ちゃんで…」


 八重は青くなって言葉を切った。マツリがどうのではない。事の起こりも何もかも、ハクによるものなのだと気が付いた八重は、今にも倒れてしまいそうな様子だった。


「真面目で、お優しい方でしたのに…一体何がどうなったのでしょう…」


 消えてしまいそうな声で呟くと、八重は俯いて何も喋らなくなった。部屋に痛ましい空気が流れた。沈黙を破ったのはマツリだった。無理に場を明るくしようとしても仕方が無いので、落ち着いて話すよう心掛けた。


「あちらに物言いに行ったり、自分をむやみに卑下したりしようというのではないのよ」


 起きてしまった現状を嘆いてばかりいてもどうしようもない。マツリは考えた。『自分は』どうすべきか。


「急に大それたことはできないけれど、自立しようと思って」

「それって…つまり?」

「ハク様に何もかも依拠したままでは、何があるかわからないでしょう?私自身の居場所というか、立ち位置というか。個人収入というか…」

「え!?もしかして働くとおっしゃってます!?」


 「うん」とマツリは神妙に頷いた。ナツは予想外のことに驚いた顔のまま固まった。しかし途端にすすり泣く声が聞こえ、マツリとナツはギョッとして八重の方を向いた。


「松葉財閥に名を連ねる奥方ともあろうお方が…お手を煩って賃金を稼ごうとは…!」


 八重は体を前に折りたたむようにして小さくなって嘆いていた。マツリとナツは顔を見合わせた。さめざめと泣く八重の方へ体を乗り出し、マツリは八重の手を取った。八重は泣き顔のままマツリと目を合わせる。


「ほら、今の世の中、社会に出て働いていらっしゃる女性も多いのよ。百貨店のお化粧品売り場の方だって、バスガイドの方だってとっても格好いいわ」


 八重はマツリやナツの祖母程の年齢で、かつ松葉という大きな家に仕えてきた。彼女からすれば、『女は家』という考えで当然だ。しかし、マツリは大きく動く社会と共に少女時代を送っており、八重程の固定観念は持ち合わせていない。確かに働く必要のない程収入のある家の奥方が賃金や地位を求めて自分で働いているかどうかと問われれば、実際のところそんな話は耳にしたことが無いが。マツリはその辺りに言及するのは避け、八重を安心させるように、手をぎゅっと握った。




 夜の闇、月の光に影が二つ揺らめいた。


「いけないわ、こんなこと…」

 

 女の声が咎めるように囁く。


「静かに…」


 低い男の声と共に、床板がギシリと鳴った。


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