すれちがう【3】
あの夜以降、特別諍いも無く変わらない日々が続くことに安堵していたマツリだったが、夫であるハクとこの生活の難しさに段々と気が付くことになった。
それはマツリがハクとのやり取りで作った心のささくれも忘れかけた頃のことだった。マツリがいつものように起きて髪をまとめ上げようとすると、あるべきはずのところに櫛が無いことに気が付き、「あれ」と首を捻った。キョロキョロと手近なところを探しても見つからない。もうハクが家を出る時間になる。マツリは仕方なく手櫛で何とか髪を撫でつけ、そのまま部屋を出た。
「おや奥様。今日はいつもとご様子が違いますね」
ハクを迎えに来た秘書の白田がマツリの姿を見て言った。白田はハクよりもいくつか年上で、目配りのきく男だ。前髪を後ろに掻き上げているため精悍な顔がよく見える。ハクとは違って愛想も良く、使用人たちと和やかに会話をしているのをよく見かける。マツリもこれまでに白田とは幾度も言葉を交わしている。
マツリは苦笑いしながら「櫛が見つからなくて。お見苦しくてすみません」と答えた。
「あらそれは大変」
「ねえ…どこに置いたかしら。あ、縁側かもしれません。昨日梳りながら夜風に当たっていたのでした」
白田は「まだ冷えますからお気をつけて」と言うと、丁度やって来たハクに腰を折った。ハクは髪を下ろしたままのマツリを見て一瞬眉を寄せたが、何も言わなかった。
(やっぱりみっともなかったかしら…)
ハクの反応を見たマツリは、顔を俯けて右肩に寄せた髪をいじりながらカラコロと下駄を鳴らして門から屋敷へと戻った。
「うーん?無いわねえ」
「どうされました?」
「あ、ナツ。私の櫛見かけなかった?」
「櫛ですか?いつもお使いの?私は見ておりませんが…皆に聞いてきましょうか」
マツリは軽く首を振って「自分で聞くから大丈夫」と伝え、昨日の自分の行動を思い返しながら縁側を後にした。
結局その日櫛が見つかることは無く、マツリは忘れた頃にひょっこり出てくることを期待するしかないという結論に辿り着いた。ここには一本しか持ってこなかったので、新しいものを買うことにした。そしてどうせならと、明日小間物屋に行くついでに行きつけの菓子屋に寄ろうという計画まで立てたのだった。
次の日の朝は仕方が無いので八重のお古の櫛を借り、紐で髪を簡単に括るとマツリは部屋を出た。玄関先ではいつものように白田がハクを待っている。白田はマツリを見てヒラヒラと手を振った。マツリは「どうしたのだろう」と思いながら朝の挨拶をする。
「これ。昨日ハク様に言われて買ってきました。ハク様に言われて」
白田が差し出したものは小さな木箱だった。マツリは首を傾げながら木箱を受け取った。木箱はツルツルとしており、よく磨かれた上等なものだった。マツリは怪訝な顔で白田を見上げた。白田は困ったように笑う。
「ご自身で渡してくださいって言ったのですけどね。あのヒト頑なで」
「ハク様が…?あの開けてもよろしいでしょうか」
どうぞ、という意を表しながら白田はニコニコと頷いた。マツリは緊張しながら丁寧に蓋を外した。すると中には、綿に包まれた螺鈿細工の櫛が入っていた。マツリは目を丸くして白田を見た。
「これ…!」
「何度も言いますが、ハク様からですよ」
ハクが自分にこれを。マツリの胸がドキリと跳ねた。櫛を失くしたと知ったからだろうか。それで自分のためにハクが気を回してくれたのだろうか。マツリはしげしげと櫛を眺める。艶やかな漆塗りに、虹色に光る螺鈿が映えた。丁寧な仕事の成果であることは勿論だが、ハクからという事実がその美しさに拍車をかけていた。白田は頬を紅潮させて櫛を見つめるマツリを微笑ましく見守った。
「…っ」
そうしていると、ハクが身支度を整えてやって来た。ハクは櫛を手にするマツリを見て足を止めた。マツリはハクに気が付き、元気よく朝の挨拶をした。白田は依然として微笑みを絶やさず、ハクに視線で合図する。マツリは櫛を手にしたままハクに歩み寄った。
「あの、これお気遣いいただき申し訳ありません。ありがとうございます。大事にいたします」
ハクは視線をマツリから逸らし、言葉を紡ごうと口を開いた。しかし何を思ったのか、すぐに唇を閉じ、代わりに長く息を吐いた。
「礼を言われることではありませんから。…それと、私の部屋は決して開けぬよう」
声を低くしてそう言うと、ハクはマツリと目も合わせずに脇を通り過ぎた。
(また、だわ…)
マツリは櫛を手にしたままハクの背中を見つめる。外へ出るハクを白田が咎めるように「坊ちゃん!…ハク様!」と言って追いかけた。マツリは心が追いつかず、門まで着いて行くことができなかった。
空振りしているような感覚だった。ハクの思いが分からない。だらしない嫁だと呆れられたのだろうか。それとも、新しい櫛を無心しているように受け取られたのだろうか。春に残る冬の冷たい風にさらされたように、温かかったマツリの心はひゅうと冷やされた。それと同時に、マツリの手の中にあるものは一瞬にして冷たいただの櫛になってしまったのである。マツリの気持ちは沈み、部屋へ向かう足取りは重たく、午前の手伝いのハナの挨拶に「おはよう」と返した顔はどこか影があり、ハナは心配そうにマツリの背を見送った。
(無関心ではないのかもしれない)
マツリは自分の部屋の机の上に置かれた木箱を見つめながら思った。無関心ではなくむしろ…。
「疎ましく思っていらっしゃるのかもしれない」
好きに過ごしていろというのは、「自分に関わるな」という警告だったのかという気さえしてくる。言われなくとも今までだって戸に手をかけたこともないハクの部屋。余計な警戒をされているのは明らかだった。割り切った生活と前向きに受け入れていたのは自分だけで、ハクの方はそもそも嫌々の暮らしなのかもしれない。せめてと思っての朝の見送りも、自主的にやっている家の仕事への手出しもハクにとっては迷惑なのではないだろうか。
マツリは暗い谷の底に落とされたような気持だった。完全にハクと関わらずに過ごすべきか。正解が分からず、鬱々とした気持ちで机に突っ伏した。ぐるぐると先のやり取りが頭の中で繰り返される。どこかにハクの気持ちを読み取るヒントは無いかと細かく記憶を辿るが、マツリの気持ちを晴らすようなことは思いつかなかった。
「白田さん」
「奥様。よかった、もうお見えにならないかと思いました」
「その…迷ったのですが」
マツリはビクビクと玄関の様子を窺いながら、ハクが現れる前に白田を捕まえた。白田はマツリの姿を認めると、ホッとした様子で表情を緩ませた。
頼まれてもいない朝の送り出し。続けようかどうしようかマツリは非常に悩んだが、櫛を受け取っておきながら、ハクに素っ気ない態度を取られたからといって顔を見せなくなるのはいかがなものかと考えた。後ろ暗いことを嫌うマツリにはとても我慢がならなかったのだった。
マツリはハクの気に障らないよう気を遣いながら、静かに控えめに淡々と「いってらっしゃい」と頭を下げた。
『疎ましく思われているのではないか』という心配が確信に変わったのは、それからひと月ほど経ってからのこと。夜、夕餉を終えてマツリがナツや八重と共に憩っている時だった。玄関の戸が開く音が廊下から聞こえてきた。八重は反射的に素早く立ち上がり、足早に居間を出た。マツリとナツも慌てて八重の後を追う。
「まあ、ハク様…」
「……」
八重は驚いたような、呆れたような声を上げた。追いついたマツリはその光景に絶句する。帰宅したハクと共に居たのは、綺麗な着物を着た見知らぬ女性だった。女は凛とした顔つきで、唇には真っ赤な紅を差していた。ハクの影に隠れながらマツリに見せた表情には、哀れみがはっきりと浮かんでいた。