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すれちがう【2】

「奥様、お迎えが来ておりますよ」


 イヤリングはどれがいいかと部屋の鏡とにらめっこしていると、ナツがやって来た。マツリは部屋の壁に掛かる時計を見て慌てた。迷いを断ち切り「こっちでいいか!」と大ぶりの赤い石がついたイヤリングを急いで耳に付ける。着物の裾を直して荷物を持ち、ナツに向かって「どう?」と訊きながら階段を駆け下りた。


「素敵です」

「このレースの帯揚げ、とってもいいわね。お母様にお礼を言わなくちゃ」


 マツリは実家の呉服屋から送られてきた着物と帯を見て満足気に笑った。呉服屋の娘が野暮ったい恰好をしているわけにはいかない。


「特に今日は。お義母様とのお茶だもの。ヘンな格好はしていけないわ」


 マツリが嫁いで数か月が経った。相変わらず夫のハクとは同じ家に住みながら疎遠で、顔を合わせるのも朝の送り出しのときのみである。一方、ハクの母親は新しくできた娘を存外に可愛がった。率直で陰日向の無い人柄は、マツリのさっぱりした性格とよく合った。マツリは当の息子よりもその母親との方が打ち解けているという不思議な状況の下に居た。


 迎えに来た車は、外国のモダンなデザインで通りがかる人の目を引いた。運転手は既にマツリのためにドアを開けようと、後部座席の近くで待機していた。車の中に他に影は無い。義母は別の方法で待ち合わせ場所に向かっているようだ。マツリは草履をつっかけると、小走りで車に向かった。運転手は危ないから走らなくていいとマツリを折り目正しく窘めた。はしたなかったと思ったマツリは顔を赤くして静々と歩いた。


 車窓から見る帝都は今日も変わらず栄えている。外国の文化や技術が流入してから、この国は一気に様変わりした。田畑だった地域に家が建ち、建物が増えた。地方から出稼ぎに出てくる人が続々と仕事を求めて集まってくる。古くからの特権階級の他にも、財を築いて成り上った家々が社会に台頭してきた。マツリのような子女が学校に通えるようになったのも、社会の変化の一端である。


 帝都は第1区から第10区まで、大まかな役割毎に区画が分けられている。第1区は政治の機関とやんごとない人々の家々、第2区は高級住宅街、第3区は上級の商業街、といった具合だ。マツリを乗せた車は今、住まいのある第7区から第3区へと向かっていた。



 第3区にあるハイカラなカフェでマツリは義母と落ち合った。義母は先日マツリの贈った薄手のさらりとした肩掛けを素敵に着こなしていた。上品な桜色のそれは、落ち着いた灰色の着物をよく引き立てていた。マツリは義母の気遣いと、流石のセンスに顔を綻ばせた。


 二人はそれぞれコーヒーと焼き菓子を注文し、他愛のないことを語らう。巷で話題の噂話や、帝都で起きた出来事、流行の着物の話、家のこと等をひとしきり話し終えると、義母は「そういえば」と思い出した様に「うちの息子の様子はどう?」とマツリに尋ねた。マツリは笑顔のままピシリと固まった。


 マツリはこの義母のことは好きだが、この質問は苦手だった。どう、と訊かれても応えようがない。何せ朝の一瞬しか顔も見なければ、声も聞かない。何と答えればよいのかといつも困ってしまうのである。義母の方も、この時だけは「ええと」とか「ああ~…」と言って言葉を濁すマツリに、ある程度の察しを付けていた。


 義母は息子の身を案じているだけではない。この質問に対してマツリが明るい顔でハクと共に過ごした時間を話してくれることを願っているのである。歯切れ悪く、困った様子のマツリの態度から、今回もまだ打ち解けていないのかと義母は内心とても残念がった。しかしこういうことは自身が煩く口を出すことではないと心得ている松葉財閥の大奥方は、本心を少しも表に出すことなく「変わりないようね」と優しくマツリに微笑みかけた。


 義母の胸中を知らないマツリは、義理の「娘」としては仲良くやれても、大事な息子の「嫁」としては至らないと義母に呆れられはしないかと不安になった。そのことだけが、満足な生活の中で、綺麗な布をぽつんと墨で汚したような罪悪感をマツリに抱かせている。




 その夜、マツリは考えていた。すっかり影しか見えなくなった中庭の木々を、縁側に腰かけて眺める。今の生活に何の不満も無い。午前はお手伝い達と共に家のことをし、終われば中庭の手入れをする。午後は実家の店に顔を出して客の相手をしたり、趣味の生け花の稽古に通ったり、街を散策したり。夫婦の愛は無いが、割り切った関係と思えばこの上なく楽しくかつ暮らしやすい環境なのだ。


(いくらお互い好きに生活しているといっても…こうも疎遠では…世間の「普通」の家ではありえないわよね。お義母様も詳しくは知らないからあれ以上何もおっしゃらないけれど…)


 ハクとマツリの夫婦生活の現状を知っているのは使用人たちとハクの秘書の白田くらいで、公には「普通」の夫婦として生活していることになっている。義母やその他の人には、ハクが大人しい人だから打ち解けるのに苦心していると思い込まれているのだ。


 どうしたものか、と思っていると玄関の戸が開く音がした。ハクである。マツリは立ち上がった。こうして起きているのだ。「おかえりなさい」くらいは言うべきだろうと、玄関の方へと足を進める。奥から八重が「おかえりなさい」と出迎えている声が聞こえた。八重は素早い。遅れを取ったと思い、マツリは足を速めた。


 明りの灯った玄関に顔を出すと、ハクは腰をかけて靴を脱ぎ終わったところだった。


「おかえりなさいませ」

「あら奥様」


 ハクはマツリの声に勢いよく振り返った。意表を突かれたのか、目を大きく開いている。びっくりさせた、とマツリは些か悪戯心がはしゃいだ。思わず緩んだ顔でハクに一歩近づく。


「………」

「ハク様!」


 しかしハクは何も言わず、それどころかすぐに表情を固くして立ち上がると、足早に暗い廊下へ去って行ってしまった。八重は慌ててハクを追いかける。残されたマツリは唖然とハクが消えた方を見つめた。あまりに素っ気なく、冷たい態度にマツリは驚いた。マツリの胸はチクりと痛みを覚える。マツリはぼんやりとしながら、裸足でペタペタと廊下を戻った。上履きは縁側に置き去りにしてきたままだった。


 ハクに「今日は何もしなくていい」と言われてきた八重は暗い部屋の中に人影を認めた。労し気なため息をついてパチリと部屋の電灯を点ける。居間の机で頬杖をついていたのはマツリだった。八重はそろりとマツリの傍に座った。


「気に障ることをしてしまったかしら」


 頬杖をついたままポツリと呟くマツリに、八重は静かに首を振って否定する。快活ないつもの様子は影を潜め、マツリからは暗い雰囲気が漂っていた。「ハク様は」と八重は落ち着いた声で話しかけた。


「何カ月かに一度、このように気を立ててお帰りになる日があります。今日は日が悪うございました。奥様が気に病むことはありません」

「そうなの…?どうして?」

「私にはそれがどうしてなのかは分かりません。これも今に始まったことではなく…ご実家にいらっしゃるときからそうだったと思います」


 長く共にいる八重さえ知らないことらしい。八重も心配しているのだろう、八重は唸りながら俯いた。マツリは八重が自分を励まそうと適当なことを言っているのではないと分かった。


(これで私が落ち込んだままでは、八重に悪いわね)


 マツリは八重の丸みがかった背中にそっと手を添えた。


「話してくれてありがとう。分かったわ。そういうときがあるって心得ておく」


 明るさの戻ったマツリの顔を見て、八重は安堵したようににっこりと笑った。



 次の日、マツリはハクをいつもと変わらない態度で見送った。ハクはマツリを見て気まずそうな顔をした。一瞬何かを言おうとする素振りを見せたが、結局「行ってきます」以外の言葉を発することはなかった。


(機嫌の悪いときは、私にだってあるもの)


 マツリは小さくなる車の影を見つめながら腕を組んでうんうんと頷いた。空にはひらひらとどこからか飛んできた桜の花びらが踊っていた。


お読みいただきありがとうございます!

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