暴露【1】
夜も更けた頃、やっと仕事を終えて家に戻った。もう11時を回っている。ハクはなるべく音を立てないように玄関の戸を開けた。暗い家の中明りを灯すと、近づいてくる足音に気が付いた。足取りから八重だろうと察した。
「お帰りなさいまし」
「八重。ただいま。いつも言っているが、寝ていてくれて構わないよ」
「そうは参りません」
八重はいつもと変わらない様子でせっせとハクの世話を焼く。ハクは申し訳なさそうに笑い、帽子を手渡した。そのときふと、華やかなものが目に留まった。マツリが生けたのだろう、色とりどりの花が飾られていた。
綺麗だ、と素直な感想を口にすると、八重はうんうんと深く頷いた。
「中庭のお花でございます。今朝奥様が生けられました。本当によくお庭をお世話してくださっています」
ハクは花を見て目を細めた。彼女が来てから、家の中が華やいだ。マツリの人柄だけでなく、彼女のこうした気遣いがハクの心を和らげていた。
「何か召し上がりますか」
「いや、いい」
「ではお茶を」
八重の小さな背中を追い、廊下を進む。中庭の縁側を見てしまうのは、ハクの癖となった。そこに当然マツリはいなかったが、彼女がよく手入れしている植物が目に入った。元々無かった花木を見て、ハクはふっと表情を緩ませた。
―逃げられなかった。それどころか、捕まえてくれた。必死に言葉を交わせてくれた。悪戯にではなく、自分の心を覗こうとしてくれた。
(あの時、僕は…嬉しかった)
自分の闇に関わらせてはならないと固く思っていた決意が揺らいだあの日。在り方の形は変えられると言われ、ハクは目が覚めたようだった。
嬉しい反面、自分の内面を誰かに露わにされることが恐ろしくも感じた。ハク未だ踏ん切りがつかないでいる。好転すれば僥倖、彼女がただ巻き込まれるだけの結果になるならば、ハクはこのまま口を閉ざしたままの方がましだと思っている。
(臆病だ。そんなこと、起こってみないことには分からないのに)
ハクは自嘲した。
「ハク様。マツリ様が今日買ってみえたお菓子がありますが」
ハクが中庭を眺めている間に、八重が勝手場から小さな箱を持って来た。
フッと、ハクは気持ちが軽くなった気がした。八重が持ってきた箱の中には、綺麗な半生菓子が入っていた。
「…彼女にとっては、何でもないことなのだろうけど、心遣いが嬉しい」
ポツリと呟かれたハクの言葉を、八重は漏らさず聞き取った。八重はハクが眺めていた中庭に目を向け、再びハクへと視線を戻した。
「ハク様も、よくお気づきになられると思いますよ」
八重の言葉に、ハクは眉を下げて笑った。
白田は朝から気分がよくなかった。いや、正確には昨日の夕方からだ。白田の内ポケットの中には、ハク宛の手紙が入っていた。ため息をひとつ吐くと、ハクの屋敷へと車を走らせた。
「おはようございます」
「おはようございます、奥様」
マツリはいつも通りだった。白田もいつも通り微笑む。
白田はマツリの表情が以前よりも引き締まったように感じた。そして、ハクの表情が弱冠和らいだことにも気が付いている。白田は二人の関係を注意深く見ていた。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
朝の儀式が終わると、ハクは車に乗り込んだ。そしてすぐに、座席に封書が置いてあることに気が付く。ハクの表情は一瞬にして生気を失った。
白田は後部座席の温度が一気に下がったのを感じ取った。白田の胸の中には黒いものが広がる。恐らく、ハクの中にはそれ以上のものが渦巻いているはずだ。白田は極めて事務的に尋ねた。
「…お返事は」
「いつもの通りだ。それと…」
「はい」
「…マツリさんには、言わないでくれ」
―言うなではなく、言わないで。
少しの言葉の違いに、白田はハクの胸中を慮った。以前であれば、手紙が来ようとマツリの名前が出てくることはなかった。白田は判断に迷った。白田がハクの命令に背いたことは無い。だが、「お願い」ならどうだ。
(こんなの、ただの屁理屈だ)
白田のハンドルを握る手に力が入った。バックミラーに映るハクはただただ無表情だった。
張り詰めていたものが、一気に緩んだようにマツリは肩の力を抜いた。「ううん」と小さく唸りながら、首を回す。
ハクを送り出して戻ってきたマツリのその姿を見て、八重は「お疲れですか」と心配した。マツリは苦笑いして大丈夫だと答える。
「旦那様は昨日も遅うございましたが、お菓子だけは召し上がりました」
「さっきお礼を言っていただいたわ。ありがとう、八重」
「いいえ私は何も。…近頃、旦那様のお顔が柔らかくなられたように思います」
八重は嬉しそうだった。
少しずつでいい、ハクの気持ちを和らげてあげたい。マツリにも、それがどうしてか分からなかった。自分の偽善かおせっかいか。はたまた好奇心か。いずれにせよ、マツリがハクとこの先も共に生きてゆくためには、必要不可欠なことだと思っていた。「何とかしなくては」という思いは一貫して変わらない。
確かに、ハクという人を奇妙だと認めている。しかし、マツリは不思議とハクを嫌うことは無かった。そもそも理由も分からないまま、マツリは人を嫌うことができない性分だった。自分に対して明らかな悪意が無ければ尚更だ。
先日、それとなく八重に尋ねてみた。ハクは何かに悩んでいることはないか。しかし八重の答えは「分からない」の一言だった。その表情が寂しさと、憂いを孕んでいたのが印象的だった。長年よく世話してくれている八重にさえ何も零しはしないのか、とマツリはある意味感心した。
「おかえりなさいませ」
「…ただいま」
―ここ数日、ハクの様子がおかしい。
本人は取り繕っているつもりかもしれないが、酷く硬い顔をしている。その顔に、マツリはピンとくるものがあった。何かあったかと聞いてみたが、ハクは誤魔化すように笑うだけだった。
「お待ちを」
虚を付かれたように、白田は目を丸くして呆けた顔をした。マツリが捕まえたのは、帰りがけの白田だった。有無を言わせない雰囲気で、マツリは白田に迫った。ハクに見つからないように、一緒に外へ出る。
「ハク様に何かありました?」
マツリは直球で白田に質問を投げた。白田は何と答えようかと考えを巡らす。その姿を見てマツリは【白田は知っている】ことを確信した。
「以前もあのようなお顔をされたことがありました。八重が言っていた、数か月に一度気を立てることがあると」
「…」
白田は唇に手を当てた。
(「マツリさんには言わないでくれ」)
ここ数日、白田も考えていた。マツリがハクの変化をよく観察していること。ハクの奇妙さに直面し、明らかに気分を害しながらも切り捨てずにいること。それどころか、実家に告げ口もしていないようだった。
白田は正直、マツリがここまで踏み込んでくるとは思わなかった。共に食事を摂り、パーティに出席する。普通の奥方が過ごす「普通」の姿を表面的にハクが繕えていれば満足かと思った。
「悪戯にお聞きになっているのではありませんね?」
白田の雰囲気が変わった。確認するというよりも、脅すような物言いにマツリは憤慨した。
「…美しい着物を縫製するのに、どれだけの手間がかかっているかご存じですか」
「は?」
「ひと針ひと針、丁寧に正確に縫うんです。売り物にするにはとても神経を使う。ですがその手間を省くことはできません」
「つまり、非常に面倒だとは思っていらっしゃるけれども、必要なこととご認識して首を突っ込んでおられると」
白田の歯に衣を着せぬ物言いは、マツリの言わんとすることを適切にとらえていたが、いささかマツリの感情を害した。むっとするマツリに対し、白田の表情は途端に柔らかくなった。その変化にマツリはギョッとする。
「失礼いたしました。奥様のお気持ちは分かりました。…今度、いいところに連れて行って差し上げます。旦那様には内緒です」
白田は深く一礼すると、車を走らせて去って行った。残されたマツリは怪訝な顔で見送る。
「いいところ…?」
マツリは首を傾げた。白田が何かを教えてくれるということだろうか。それがハクの異変と何か関係があるのだろうか。考えても、今のマツリは白田の協力を期待するしかなかった。
「……はあ…」
とぼとぼと屋敷の廊下を歩く。マツリは先ほど白田に言ったことを少し反省していた。あれではあまりにも冷たすぎる。
「…私にどうにかして差し上げられるなら、お力になりたい、とも思っているわ…」
誰かに言い訳するように、こそっと口に出すと罪悪感が少しだけ薄まったような気がした。
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