違和感【2】
マツリは第三区の百貨店に来ていた。店員が勧めてくる手袋を見比べてため息をつく。それは全くの無意識に出たものであり、気分を害してしまったかと狼狽える店員に慌てて取り繕った笑顔を向けた。
(駄目ね。ぼんやりとしてしまうわ)
あのパーティの日。確かにマツリはハクと白田がまだ何かを隠しているように思えたものの、聞いてもはぐらかされた挙句、「貴女が心配になることなど何も無い」と優しく言われたのを「立ち入るな」と察することが出来ない程無神経でもなく、胸にモヤモヤを抱えたまま口を噤むしかなかった。
二人から得られた情報は彼らからの有耶無耶な説明と、運良く耳にした「異常ありません」というハクへの白田の小声の報告だけであった。
(本当に、私の出る幕ではないような内々の事であれば私も身を測って引き下がるけれど…)
本当にそうなのかどうか。彼らの言うことを鵜呑みにしてはいけないと、マツリは申し訳なさを感じつつも警戒を捨てきれないでいた。
悩んでいた二組の手袋を結局保留にし、マツリは売り場を離れた。別の用事を言付かって別行動していたナツは、すでにマツリを待っていた。マツリが何も買っていないことに気が付くと、いいのかと問う。マツリはううんと唸りながら、明後日の方を向いた。
「いいかと聞かれると…微妙なところね。でも家にあるものはまだ幾度も着けていないし、それに探してもどれもちょっとイマイチというか」
「華やかな世界のことは分かりかねますが…皆様たくさんお召し物をお持ちなのでしょう?」
「そう。絶対呉服屋が開けるわよ」
マツリはハクの連れでパーティや懇親会といった類のものに顔を出すようになった。それはハクの仕事上出た方が都合が良く、また「松葉」という名が掲げられるときは妻として挨拶やら何やらやらなくてはならないと判断したからである。
松葉の創立記念パーティの後、マツリはハクを問い詰めた。今までそういう席が無かったのは自然か、と。答えは否だった。ハクはどういうわけかマツリの出席を免除していた。マツリは呆れ、同時に腹を括った。
ハクは有事の際以外はマツリの自由を尊重している。マツリもそれを理解しており、素直に感謝している。だが、マツリも自分の事だけを考えてやりたい放題できる性分ではない。やるべきことがあるならば相談してほしい。ハクが女を侮って理不尽を働く輩ではないことは分かった。マツリもハクを知るためにも、出来ることはやるという気概を見せていた。
(それに…全然顔を見せない無礼な嫁と思われるのも心外だわ…)
実際、公の場に顔を出してみると取引相手は配偶者連れが多く、マツリの眉間は静かに寄った。ハクの結婚は知れ渡っているはずだ。ハクが奇異の目で見られていたのではないかとマツリは心配になった。
一方ハクはというと、会う人会う人に嬉しそうに「妻です」と紹介する。あまりにも嬉しそうなので、マツリも紹介された方もどことなく赤面していることにハクは気が付いていない。
普段大人しく、淡々としているというイメージをハクに対して持っていた人々は、ハクのマツリへの愛情を微笑ましく思い温かい眼差しをハクとマツリに向ける。そんな彼らに対して、マツリはしょっぱい気持ちになる。
(思われているほど可愛いものではないのですよ…)
度々マツリは思い出す。ハクの部屋にずらりと並んでいた姿画、そして等身大の人形。それほどアレらの衝撃は大きかった。普段ハクと接する際は何事も無かったようにしているが、例えばハクが穏やかにほほ笑む瞬間や、柔らかく「いってきます」と言う瞬間―それは傍から見れば心を奪われるような―そんな時にマツリの脳内にまるで警鐘のように蘇るのだった。
マツリはハクの感情に対して初めこそ気味悪く思い恐怖したものの、段々と冷静に考えられるようになってきていた。
(何を心の内に抱えたらそうなってしまうのだろう)
穏やかなハクの内側には何があるのだろう。マツリのことを愛していると訴えながら、己の内部には踏み込ませない、そんなハクの態度にも気が付いている。
マツリは真っ直ぐにハクを見ようと努めた。その心の形を見極めようと。
「あらあれは旦那様と白田さんではありませんか?」
マツリはナツの視線の先を追った。するとそこには確かに、見知った姿の人間が丁度立派な建物から出てきたところだった。ナツはお声をかけてきます、と小走りで彼らに向かった。マツリも駆け寄ろうと思ったが、走るのははしたないとハッとすると、背筋をピンと伸ばし、できる限り優雅に見えるように努めながら、全速力で歩いた。
(人目があるわ。気を付けないと…!)
「あらあ奥様が顔を赤くして歩いていらっしゃいますよ、ハク様」
「…見えている」
「裾が捲れないように頑張っていらっしゃるんですわ!」
三人は懸命に歩いてくるマツリを温かい目で見守り、到達するのを待った。
「奇遇ですね~。お二人はお買い物ですか?」
「ええ。でも気に入るものがなかったのでもう帰ろうかと」
マツリが到着すると、白田は朗らかに尋ねた。ハクと白田は商談をしていたらしい。どうやらうまく話がまとまったようで、どことなく二人は機嫌が良さそうに見えた。
白田はマツリの言葉を聞いて何かを閃いたように、顔を輝かせた。どうしたのかとマツリは首を傾げる。
「ハク様、今日はもう上がられてはいかがでしょうか」
「何を。まだ他の皆が働いているというのに」
「いつも誰よりも働いているんだから今日くらいは許してくださいよ。ほら、ちょうど奥様にお会いしたんだし、夫婦でお茶でもなさってきてはいかがですか?」
「「え」」
ハクとマツリは揃って声を上げた。ナツは白田の提案に瞬時に賛成し、即座に白田の隣に付いた。力強く頷き、マツリに向かって「行ってらっしゃいまし!」と言う。マツリは固まった。
(ちょ、っと待って。え?二人で?ハク様と?)
屋敷で過ごすときは、いつも何だかんだ誰かが傍にいる。昔からハクを知る八重が近くにいる安心感といったら計り知れないものがある。しかし、今はどうだ。周りに人がいるから物理的には二人だけではないが、事実上の二人きりだ。
マツリの脳内では会議が開かれていた。
(間が持つかしら)
(何か食べればいいのよ!お菓子の感想でも言ってなさい)
(例の変なスイッチが入らないかしら)
(私の話題は厳禁!)
ぐるぐると考えを巡らせ、ハクはどうだと隣を見れば。
「…………」
(て、照れていらっしゃる!!!!!!)
ハクはほんのりと顔を赤らめ、押し黙っていた。ぱちりとマツリと目が合うと、期待を込めた眼差しが光ったが、マツリを気遣っているのか困った様に眉を下げた。
「嫌だ」と言えば、もしくはそれに準じた態度を取ればすぐにハクは退くだろうと、マツリは察した。しかし―。
(何でしょう、この…いじらしいと思ってしまう気持ちは…)
気が付けば、マツリはゆっくりと頷いていた。ハクと目を合わせたまま。
白田はナツを連れて屋敷に戻りますと言って去って行った。後で自動車で迎えに来ると言った白田を、悪いからとマツリは遠慮した。帰りは頑張って歩くか、馬車を拾えばいい。ハクも白田にそのまま今日は上がるようにと指示を出した。そうしてナツと白田は楽しそうに帰って行った。
さて。ぽつんと残された二人はぎこちなく佇んだ。妙な沈黙がマツリには耐えがたかった。
そういえば、とマツリは思った。白田は松葉の屋敷に間借りしていると八重から聞いたことがある。仕える主人はその家を出ているというのに、どうして白田は残っているのだろう。マツリは軽い気持ちで隣に立つハクに尋ねた。この場の空気が温まればという願いも込めた。
「何かと都合が良くて。彼にはあちらでの仕事もありまして」
ハクの声のトーンがわずかに下がったのを聞いた瞬間、マツリは話題の選択をしくじったことを悟った。ピシリと固まったマツリに、ハクは曖昧にほほ笑んだ。その笑顔には翳りが一瞬ちらついた。
(立ち入ったことを聞いてしまったかしら…)
ゆらりと歩き始めたハクの儚げな横顔からは何も読み取ることができない。マツリは「ああ、こういう人なのよね」と寂しさを覚えた。結婚してから数か月のハクは、ずっとこうだった。ここ最近、違う姿を見ただけである。
(分からないわ)
数歩歩いたところで、ハクはマツリを気にして振り返った。周りの人間は自然とその美しさに目を奪われた。ハクは気分を害している様子は無く、気遣うようにマツリに微笑んだ。マツリの胸には、もどかしさやある種の寂しさが顔を出す。
幾度も心に立ち上るもやを振り切る気持ちで、マツリは深呼吸するとハクに向かって足を踏み出した。
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