すれちがう【1】
決して開けてはいけないと言われた扉の先にあったのは。壁一面の自分の姿画。失くしたと思っていた帯留め、ハンカチ、櫛。そして床には…おびただしく自分の名前が書かれた紙が散らばっていた。
「こ、殺される!!!!!!!」
この部屋から逃げ出そうと振り向くと、背後には温度の無い瞳で自分を見下ろす夫が立っていた。
マツリが綿帽子を被ったのは、17の冬だった。まだ女学校へ通っている最中の身であった。学友達は涙を浮かべてマツリを門から送り出した。
マツリの生家は帝都一番の老舗の「すや」という呉服屋だ。強かな父親が取り付けてきたのは、紡績業で財を成した振興の松葉財閥の息子との縁談だった。明らかな政略結婚である。相手の息子はハクといい、マツリよりも5つ年上で、既に父親の仕事を手伝っていた。近頃その頭角を現し始めた才人であると評判の人物である。須屋の方はどう見ても娘をコネクションとして大きな後ろ盾を得ようとしているのは明らかだったが、松葉がどうして大事な一人息子を、と問われれば一重に松葉財閥が家に足りぬ「歴史」を求めたからであった。
婚約の初の顔合わせは由緒ある料亭で行われた。互いの両親と当人同士が机を挟み向かい合って座った。このときマツリは初めてハクの姿を見た。美しく、冷たい印象の人だと思った。細くて艶のある黒髪は、ハクの白い肌をより白く見せた。暦年の職人たちが目をかけるという御仁と聞いていたため、勝手に厳めしい様相を想像していたマツリだったが、長くて繊細な睫毛のかかる黒目がちの目や、薄い唇からは儚げな印象を受ける。
自分の夫になるのがどのような人か。マツリはずっと心の内に漠然とした不安を抱いていた。もしも女を侮り無体を強いてくるような人だったら、あるいは何も言わず3歩下がって後ろを歩けという人だったら。所詮は愛を前提としない家のための契約である。相手の人間性に対してマツリが文句を言う権利は初めから持っていないのだ。
両親たちは始終和やかに縁談の段取りの話を進めた。そこにはマツリの意思も無ければ、ハクへの配慮も無い。母親に「こんなに素敵なところに嫁げてよかったわね」と言われてマツリは作った笑顔で頷き、同じようにハクも母親の「かわいらしいお嬢さんでよかったわね」という言葉に表情を崩さず丁寧に頭を下げた。
その後、マツリは挙式までハクに会うことは無かった。その日が来るまで結婚の支度を整えたり、女学校へ通える残りの日を寂しく数えたりして、どことなく心許無いまま落ち着かない日々を送った。
いよいよ挙式当日となっても、マツリはハクと言葉を交わすことは無い。二人だけになる瞬間が幾度かあったが、ハクが大人しく置物の様に構えていたため、マツリも話しかけるのを躊躇われた。物静かな人なのだろうか、とマツリは思った。披露宴の最中は入れ替わり立ち代わり、どちらかの関係者が挨拶にやってきた。ハクは誰に向かっても同じくように、静かに物越し柔らかく応対した。マツリはというと、嫁は口を開くなという慣習を強いられ、ただニコニコとハクの隣に控えているだけであった。
そしてとうとうハクの人となりが分からないまま、二人の暮らす家に送り出されることになる。
着いた家は帝都の街の一角にある木造の屋敷だった。数年前からハクが暮らしているとのことだが、夫婦と数名の使用人が暮らすにしても十分な広さがある。マツリは共に家を出てきた手伝いのナツと顔を見合わせた。流石財閥というだけあるが、これまでハクひとりが使っていたという家が、予想外に立派な造りで驚いた。まだ若い自分達が住むには恐れ多いような気さえした。中庭には様々な植物が植えてあった。四季折々の景色が楽しめるらしい。マツリはこの中庭を一目見て気に入った。不安が立ち込める新生活の慰みになると思った。
マツリの部屋には、既に買い揃えられた調度品が置かれていた。実家の須屋が持ち込んだ桐箪笥の他にも、木目の美しい机や鏡台が揃えられ、窓辺に置かれた花瓶には南天の枝が活けられていた。マツリは新鮮な気持ちで部屋の中をぐるぐると歩き回る。来たばかりなので当然ではあるが、人の部屋に居るような不思議な感覚だった。
よそ行きの重たい着物を脱ぎ、部屋用の着物に着替えた。体力的にも精神的にも疲れ果てていたが、旦那となったハクのもとへ行かねばならない。気が重たいのは仕方がない。マツリは顔に出さないようにと自分に言い聞かせた。
ハクは既に着替えており、居間で湯飲みを傾けていた。マツリは「よし」と気合を入れ、廊下から姿を現した。ハクはマツリに気が付き、勝手場の方へ向かって「八重」と声をかけた。八重と呼ばれた老年の女性は「はい」と落ち着いた声で返事をした。
「八重がじきに茶を持ちます。…どうぞこちらに」
ナツは八重を手伝うため勝手場に失礼し、マツリはハクの向かいに腰を下ろした。ハクからマツリ自身に声をかけられたのは初めてだった。マツリはドキドキしてハクの様子を窺った。ハクはわずかにマツリの方へ顔を向けると、淡々とした調子で「これからのことですが」と話を切り出した。ハクの伏し目がちな目が静かに瞬く。マツリは自然と姿勢を正した。
「私は仕事で家を空けることが多い。基本的に貴女の好きなように過ごして構いません。食事も私を待つ必要はない。慣れない家ですから、不都合もあるでしょう。何かあれば八重か、私の秘書の白田に」
マツリはパチパチと目を瞬いた。ハクは言うべきことを言い終わると、空になった湯飲みを置いて立ち上がった。
「今日はお疲れでしょう。よく休んでください。では」
ハクはそれだけ言うと緩やかに流れる川の如く、わずかな衣擦れの音を残して居間を後にした。入れ替わるように八重とナツが茶を持ってきた。八重が「あれまあ、ハク様」と呆れたような声を上げる。ナツもてっきりしばらく二人で憩うのかと思ったのか、ハクの退場を意外そうに見ている。
「マツリお嬢さん、ハク様は…」
ナツが気を遣いながら声をかける。しかしマツリは勢いよくナツの手を取った。
「ナツ!!」
「はい!」
「あの方とってもいい方だわ!!!」
妻としての務めも何も言われなかった!それどころか、自由にしていていいと!周りから聞いた婚姻の話や今まで見てきた自分の母親の生活によれば、マツリにとって結婚とは自由の放棄そのものという認識だった。いつでも夫を優先し、監視され、従うことこそ善という在り方がまだ社会には色濃く残っていたし、女学校でもそう教わった。―ただ、すでに子女たちの意識は段々と慣習と乖離しており、マツリはずっと従来の在り方に疑問を抱いていたが―しかしそれがどうだ。自分の夫となった人物は何ともあっさりとマツリに自由を認めた。裏を返せば、ハクが結婚自体やマツリ自身に興味がないとも考えられるが、マツリからすればそんなことは些細な事である。好きでもない相手に無理に尽くさなくてもよいのだから。
疲れも吹っ飛ぶ僥倖にマツリは上機嫌でナツと八重と共に熱い茶を飲んだ。八重はマツリやナツの祖母程の年齢だが、腰が低くよく気の付く穏やかな人だった。須屋家からマツリに着いてきたのはナツ一人。ここでの住み込みはナツと八重のみで、後は午前だけ来る通いの手伝いが二人いるそうだ。白田という人も明日にはやってくるだろうという話だった。
気の重たくなる未来を想像していたが、こうなればこの家のことや松葉の家のこと、そしてハクのことを聞くのはマツリにとっては何の苦でもなく、積極的に質問をした。緊張や不安に押しつぶされ、婚約から今まで小さくなっていたマツリはようやく本来のさっぱりとした明るさを取り戻したのだった。
「いってらっしゃいませ」
朝早く家を出ようとするハクを送り出すため、マツリは時間を合わせて門までやって来た。ハクは面食らったような顔をした。
「…いってきます」
軽く頭を下げるとハクは家の前に待っていた自動車に乗って行ってしまった。マツリは自動車を見て「あんな高価なものを所有して、しかもお迎えがくるのか」と感心した。白い息を吐いて「そうかそうか」と、冷たい空気の中自身の体を抱き、門から屋敷に点々と続く敷石をぴょんぴょんと踏みながら屋敷に戻る。玄関に入ると、ナツが待っていた。
「流石にハク様に何もしないは気が引けるから」
「ご立派なお心がけと存じます」
昨日八重から聞いた。ハクの帰りはいつになるか分からない。夕方のときもあれば、深夜のときもある。ただ、朝だけはきっちり決まっている。どれほど前の日が遅かろうと、朝7時に家を出るとのことだった。それならば。マツリは最低限の「妻」を演じようと、朝の送り出しだけは欠かすまいと決めたのだった。自由をくれた人間に全く顔を合わさないのも礼儀に反すると思った。
こうして、マツリの結婚生活は幕を開けた。
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