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六章 鳥の願い

 始まりの泉に残ったレイシは、エフラの民の女性に捕まっていた。

彼女はメルナシアと言って、ランティスの幼馴染みらしい。そう言えば、最初に皆と顔を合わせた時、ランティスと一緒にいたような気がする。

明るい茶色の髪をポニーテールに結った、エフラの民には珍しい快活な女性だった。

「ちょっと聞いてます?レイシさん!」

「聞いてるよ!でもさあ、なんでアルディオの話ばっかりなの?」

「え?そうでした?」

指摘してやると、メルナシアは目を泳がせてとぼけた。一体全体、彼女はどうしたというのだろうか。

獣人を許せない村に、物資を届けてくると言ったら、ついて行くと言われて、こうして一緒に馬車に揺られているのだが、道すがらずっと、アルディオの愚痴を聞かされているのだ。アルディオは、半獣人と人間との橋渡しの為に、半獣人の集落に出入りしていたが、こんな可愛い知り合いがいるとはしらなかった。水臭いなぁ、紹介してくれてもよかったじゃないか?とレイシは、もう会えない相棒のことを思った。

それにしても、馬車が操れるというから、同行をメルナシアに頼んだのだが、なんだろう、なんだか、面白いことに巻き込まれてしまった。

「そうだよ。あの人王様だからね、包丁の使い方がわからなくて当然だよ?そんなに責めたら、可哀想だよ」

「王様だって、知らなさすぎですわ!ランティスは使えますよ?」

「人間は仕事、分担してるからね。ランティスは長っていうより、みんなの世話係みたいだしさ。子供と遊ぶのも慣れてたね」

「レイシさんも慣れてますよね?」

「そう?オレ、したいようにしかしてないよ?イシュラースじゃ、ああいう子供はいないしね」

レイシの脳裏に、幻夢帝・ルキの姿が浮かんでいた。仲間で子供といえば、レイシにとってはルキが真っ先に上がる。だが、グロウタースの民の子供とはまるで違うが。

レイシはルキに、どうやら気に入られているようで、ちょくちょく名指しで仕事を頼まれた。そしてルキは、猫の姿でついてくる。レイシもルキが好きだった。悪友。彼とはそんな感じなのだった。

「あの……」

急にメルナシアは、歯切れ悪くこちらを窺ってきた。手綱を握っている手が、どこかそわそわしていた。

「何?」

「夫婦って、どんな感じ?」

「え?どんなって……メル、誰かと結婚するの?」

「え?いいいいいいえ!」

メルナシアはあからさまに動揺した。そしてレイシは、道中の会話の意味を、やっと理解した。彼女はどうやら、アルディオを好いているらしい。だけど、まだ、始まってすらいないようだけど、結婚って、気が早すぎじゃないか?とも思った。

「あー、そういうこと。人間って、短命だけどいいの?」

確実において逝かれるよ?とレイシは、一応忠告した。

「そんなに短命なのですか?」

「えっとね……アルディオ、あと五十年くらいしか生きないかな?メルは、一六十くらいだっけ?長命種と人間の混血って、どれくらい寿命あるの?」

「そうですね……どちらの血が色濃く出るかで違いますよ?わたしの血が濃く出てくれれば、寂しくないかしら……」

おーい、その前にやることあるよね?と、レイシは遠慮なく笑った。

「アハハ。その前に捕まえないとね。アルディオ、鈍そう」

「そうなの!あの人鈍いんです!行ってしまう前に告白したのに、流されてしまって……」

――アルディオさん!私、帰って来ることを待っていますわ。好きです

――ありがとう、メルナシア。では

――あ、ちょっと!アルディオさん!

と、こんな感じだったらしい。

「振られたんじゃなくて?ていうか、積極的だね。エフラの民なのに」

「人間相手に奥手でどおしますか!人間はすぐ誰かとくっついてしまうので、即行かないと取られるの!」

人間とエフラの民とでは、寿命が五倍は違う。エフラの民のように、百年位時間をかけていたら、死んじゃうからなとレイシは思った。

「いつ帰ってきます?」

「いつだろうねぇ?カルシエーナに殺されないといいけどねー」

なんか、かなり怒ってたみたいだからねーと、レイシは意地悪い笑った。

「あの人死ぬんですか?だったら、押し倒しておけばよかった!」

「ホント、積極的だね」

「永遠ではないので……レイシさんなら、わかりますでしょう?」

「あーそうだね。オレもいつ死ぬかわかんないや。風の城はそういう城だからね」

「インリーさんと、離れ離れになること、考えたりします?」

「未だに、離れたほうがいいかもしれないって、思うよ。オレ、混血精霊だし。彼女は、風の王の娘だからね。でも、できないんだ。オレがいなくなったら、インリー、壊れちゃうから」

「そんなに?」

「メルが思うようなのとは違うよ。オレはインリーの、居場所なだけなんだ。存在理由なんだよ。愛とは違うよ」

「レイシさんは好きなんですね。インリーさんのこと」

「えっ?オレ、そんな顔してる?」

「してますよ。すごく、切ない顔してますわ。ちゃんと伝えればいいのに。あ、怖いんだ?」

「あはは。うん、たぶんすごく怖いんだ。インリーに、その気がないんだって、わかることが」

「あの、精霊って夫婦関係解消できるのですか?」

「できるよ。簡単なんだ。婚姻の証を壊せばいいだけだから」

「壊しませんよね?」

「インリーにその気がないってわかったら、目の前で壊すよ」

「そんなに?」

「うん。そんなに。そんなに、彼女のことが好きなんだ。伝わらないけどね」

「切ない……」

「メル、頑張ってねー」

「帰ってこなかったら、頑張りようがないですわ!」

「アハハ」

メルナシアは、アルディオとランティスの代わりに、獣人との橋渡しをしていた。獣人の方に引け目と遠慮があるため、長い時間がかかりそうな予感はしている。だが今は、三王が帰ってくるまでの間、争いを起こさないことが目的なのだ。インリーの歌も一役買って、その目的はなんとか達成できそうな雰囲気だった。

 メルナシアと別れたレイシは、かえらずの森の方を見やった。

インリーは一人、かえらずの森にソラビト族を救出に行ったが、首尾はどうだろうか。インリーの歌なら難なく懐柔できそうだが、彼女は自分の能力を過小評価しているからなと、レイシは思った。

その原因はオレにあると、レイシは思っていた。ずっとレイシとくっついている為に、インリーは自分自身の望みに薄いのだ。精霊の力は、想いや感情にかなり左右される。レイシは怒りと憎しみをコントロールして戦っていた。インジュの相棒でいるには、その方が都合がいいからだ。レイシが先に怒れば、インジュは冷静でいなければならず、内なるオウギワシに翻弄されなくてすむ。たがが外された感情も、コントロールできれば使えるなとレイシは、グレるのも悪くなかったなと、今なら思えていた。

 レイシはインリーを、強い精霊だと思っている。

固有魔法を未だ発現できていなくても、そばにいるだけで、こんなに力をくれる彼女が、弱い精霊であるわけがないと思っていた。インリーは花の姫の娘なのだなと、常々感じる。風の王を心身共に守るシェラのように、インリーに守られているなと感じるからだ。

インリーの力は、与える力だと、シェラが教えてくれた。

その力があれば、この血まみれだとリティルが言っていたこの地は、浄化できるかもしれないなとレイシは思った。憎しみで戦う為に、レイシの心はそのたび傷ついた。その傷ついた心を、無意識に、その天性の慈しみで癒してしまう彼女なら、できる気がした。どうすれば、インリーはわかってくれるのだろうか。

君は花の姫に似て、花の姫にはできない、心さえも癒せる凄い精霊なのだと、気がついてほしい。その力を、オレだけの為に使っていては勿体ないと、レイシは思っていた。

こんな――憎しみに焦げた心を癒して守るだけに使っていて、いいわけがないのに……。

 レイシは、遠く北の大地から、よく知っている力が吹き上がったのを感じた。

父の力だとわかった。しかし、足の下、地面からはその力が一向に伝わってこなかった。この地の穢れが、リティルの力を阻害しているのだとすぐにわかった。

インリーには、ゲートを開く能力がない。本数に限りのある、風の鏡も持たせてもらっていないと言っていた。リティルが渡したゲートの玉は、一方通行だと言っていた。インリーがソラビト族を連れてここへ引き返してくるとしたら、おそらく一週間かかるだろう。

「兄貴!かえらずの森の崩壊、始まってる?」

『地震が増えていますね。時間の問題です』

レイシは銀色に輝く光から水晶球を取り出すと、インファに尋ねた。兄はすぐに答えてくれた。

「大地の礎以外なら、力使ってもいいよね?」

『ええ。ですが、あなたでは……』

「わかってるよ!でも、ないよりマシだろ。インリーはまだ?」

『手こずっていますね。そろそろ端から崩れるかもしれませんね』

「インリー……兄貴、眠る羽目になったらごめん!」

レイシはインファの返事を待たずに、水晶球を光の中にしまうと空に舞い上がった。


 ソラビト族のことを、頼まれたインリーは、無人のかえらずの森に降り立った。

ひっそりと静まり返っているが、息を殺している気配が僅かにしていた。

――かえらずの森に、ソラビト族がいるんだ。どうしても、森を動かないと頑なで……

出発前、レイシと共に泉に残るインリーに、ランティスが心配そうに相談してきた。

そ、そんな籠城している人達を、わたしが何とかできると思ってるの?と、インリーはびっくりしていた。そんなインリーに、リティルはブレスレットから玉を一つ外して託した。

――一方通行だけどな、かえらずの森までこれで行ける。インリー、説得してみろよ

父に言われては、できないとは言えず、インリーは自信なさげに頷いて、白い光のような花びらの踊る小さな玉を受け取った。

「こ、こんにちは……あ、あの!ここにいると、危ないから、安全なところに行こう?」

――インリー、君ならできるんじゃない?やってみなよ。失敗したっていいからさ

レイシは、いつの間にか、父の隣にいてもおかしくない力と、存在感を手に入れていた。変わらずに笑ってくれるから、インリーはレイシの隣にいるにすぎない。本当は、わたしはレイシの隣にふさわしくないと、インリーは思っていた。けれども、自分からは離れることなんてできずに、レイシが許してくれていることに甘えていた。

レイシはどうして、妃として、隣に置いておいてくれるのだろう。夫婦はおろか、恋人のようなことも、何もしてあげていないのに……。

レイシは自分が、精霊達になんと呼ばれているのか知っているのだろうか。

風の王の懐刀――蒼の獣王。

王と呼ばれているのだ、あの人は。だからインリーは、獣王妃だ。

「ね、ねえ、出てきて!海に沈んじゃうんだよ?」

ソラビト族って、どんな種族なんだろう?と、インリーは途方に暮れていた。もう、どうしたらいいのか、わからない。

ハアと、インリーはため息をついた。

「わたし……何の為にいるの?」

レイシにもう自分は必要でないことは、インリーには本当はわかっていた。もう、レイシは守られなくても、自分で歩く力があるから。レイシはたぶん、存在理由をなくしたわたしの、存在理由になるために隣にいてくれているのだと、インリーは薄々わかっていた。

「わたし……レイシの邪魔、してるかな……?」

インリーは途方に暮れて、その場にうずくまった。

 木漏れ日が温かくて、とても崩壊寸前とは思えない、すがすがしさだった。

夕暮れの太陽王・ルディルの弟子になって、レイシはメキメキ頭角を現した。レイシは一人で飛ぶことはないが、皆に重宝がられていた。彼の固有魔法である見破りレーダーは、魔物狩りにもってこいなのだ。大型の魔物はインジュと組み、数の多い魔物狩りではインファやノイン、時にはリティルと組むこともあった。

誰と組んでも合わせられる柔軟性で、誰とでも共闘できた。そんな中、インリーはレイシと組んで魔物狩りに出たことはなかった。それどころか、一緒に仕事をしたことすらない。許されたのは、今回が初めてだった。

「わたしは、何の為に、生まれてきたの?」

え?

インリーは驚いて顔を上げた。すると、周りをいつの間にか、表情のない人形のような綺麗な顔に囲まれていた。

「あ、あなた達がソラビト族さん?」

「理由が、ない」

「え?理由?生まれた理由?」

「大地の、終わり、我らも、共に」

「そんな!まだ、生きてるんだよ?生まれた理由なんて、これから、探せば!」

探せば?レイシと離れて、探せばいい……

ハッと見開いたインリーの瞳から、不意に、涙がこぼれた。

「……さ、がせないよね……?今更……同じなの?あなた達は、わたしと……」

泣き出したインリーを見つめて、ソラビト族は声を合わせて歌い始めた。慰めてくれているようだった。

――心に 風を 魂に 歌を 祈ろう 祈ろう 続いていける 

――歌おう 歌おう 風の奏でる歌

――続いていけるよ 君が望むなら

――たとえ 世界が 否定しても 続いていけるよ

――心に 風を 魂に 歌を すべて 振るわせて 歌おう

――終わらせないで 諦めないで 打ち鳴らして

――続いていこう 歌声で 世界を 満たし続ける

――たった一つ 揺るがない わたしの願い――……

風の奏でる歌?でも、歌詞が違う?

「待って!この歌、この歌はあなた達のことだよね?だったら、行こう?わからないなら、一緒に探すよ?わたしもわからないけど、でも、このまま終わっていいわけない!わたしと一緒に行こう?」

「もう、続いていけない、我らは、滅びる」

「でも、ここでいいの?終わりの場所も、選べるんだよ?見せてあげる、わたしがきっと」

インリーは、その明るい声で風の奏でる歌を歌った。

──心に 風を 魂に 歌を 君と築く未来が 今 目の前にある

──さあ わたしに 手を伸ばして 掴んだ手が まばゆい羽根に変わる

──恐れるな 傷ついても 誓え 瞳の輝きを失わないと――……

「ええ?待って待って!そんなに抱っこできないよ!」

歌い終わったインリーに、ソラビト族が押し寄せた。九人に抱きつかれて、もう何が何だかわからない状態になってしまった。

「でも、一緒に来てくれるんだね?よかった……」

そう言って、インリーは嬉しそうに笑った。

 でも、どこへ行けばいいのだろう。始まりの泉でいいのだろうか。だが、ここはもう崩れる。残るのは、始まりの泉と、力の川で繋がる北の大地だけだ。彼等をつれて、行くしかなかった。

「きゃあ!」

不意に大きな揺れが襲った。立っていられなくて、インリーはソラビト族達と共に、地に伏すしかなかった。大地の終わりが近いんだと、インリーは悟った。行かなければ、ここから離れなければ、崩壊に巻き込まれる!

インリーが、森の外へと促そうとしたそのとき、自分達に向かって割れ目が伸びてくる様が見えた。インリーは身を強ばらせた。白鳥に化身しても、インリーには自身を巨大化できない。皆を乗せて飛ぶことはできなかった。この腕で守れるのは、二人、せいぜい三人だ。あとの六人を犠牲に?嫌だと思ってしまったインリーは動けずに、ただ地割れが迫るのを見つめていた。

「インリー嬢、立ちたまえ」

ため息交じりの声が、上から振ってきた。そして、ドラゴンの大きな影。

「ゾナ?来てくれたの?」

「オレは、グロウタースで、あまり力を振るってはいけないのだよ?」

見れば、地割れが目の前で止まっていた。ゾナが、時を、止めてくれているのだということがわかった。

カジトヴィールを地上へ降ろしたゾナは、インリーに白い手鏡を手渡した。風の城の応接間に固定されたゲートである、風の鏡だった。

「城でルディルが待っている。君は一足先に彼等を連れて帰りたまえ」

インリーは差し出された手鏡を見つめて、一向に受け取らなかった。

「わたし、レイシの所に戻りたい。ゾナ、みんなをお願いできない?」

「それは、願ってもないが……レイシの所へ行くなら、急いだ方がいい」

ゾナはそう言って、始まりの泉の方角を振り仰いだ。その方角から、何か大きな力を感じた。インリーの知っている、暖かくて大きな、そして哀しみと苦痛を纏った力だった。

「レイシ!こんな所まで届く力……死んじゃうよ!」

どうしよう……ここからインリーの翼では、休みなく飛んでも三日はかかってしまう。とても、間に合わない。

「インリー嬢、次元の扉を開く力を、使う時ではないのかね?」

「わたしにそんな力、ないよ!」

「君はどう見ても、シェラ姫の血の方が濃いと思うのだがね。申し訳ないが、風の精霊としては中級だ。なぜ花の姫の力を使わないのかね?」

「そんなこと、言われても……わたしは、風の精霊で……」

「インリー嬢、今、次元の力を使わねば、レイシは助かっても、しばらく眠る羽目になるが、いいのかね?」

彼と離れ離れになってもいいのか?と、ゾナは、コバルトブルーの瞳で、選択を迫るようにジッと見つめてきた。

「オレは、風の城に、彼等と共に戻るとしよう。そろそろ魔法も切れるのでね」

ゾナは鏡を掲げた。波紋のような透明な力が広がったかと思うと、彼の目の前にひずみが生まれて、丸く口を開けた。

さあと促すと、ソラビト族達は、素直にゾナに従って、ゲートを越えていった。

「インリー嬢、レイシは立ち直ってはいないよ。彼は今でも、過去に囚われているのだよ。リティルがいるから、ここにいるにすぎない。レイシの行動を阻害できるのは、リティルだけなのだよ。残念ながら、今の君では彼を繋ぎ止めることはできはしないよ」

時を司る精霊のゾナには、レイシを縛る時の鎖が見えていた。リティルがいるから、辛うじて過去へ引き戻されずに”今”に立っているだけだ。

しかし、リティルはここで――

レイシは、リティルが北の大地でしようとしていることに気がついた。それ故の行動だった。彼の兄が、命は救うだろう。だが、リティルがいなければ、このまま目を覚まさないのではないか?ゾナにはそう思われた。

インリーには、レイシを”今”に繋ぎ止める力がある。ここから遠く離れた、彼の下へ今すぐに行くことができれば、レイシを救うことができる。

固有魔法と呼ばれる、精霊一人一人がもつ特別な魔法は、強い思いによって生まれる。

固有魔法を持たないインリーには、まだ、無限の可能性があった。そして、彼女は風の王の為に、花の姫が産んだ娘だ。平凡であるはずがないと、ゾナは信じていた。

――がんばりたまえ。君の居場所は、レイシの隣なのだろう?

ゾナは上空で待機していた片割れの龍、ミリスヴィールを呼び寄せると、ゲートを潜り行ってしまった。

 取り残されたインリーに、止められていた時が再び動き出して、地割れが迫った。それを空へ飛んで躱したインリーは、始まりの泉に落ちる銀色に輝く、まるで刀身のような光を見た。

レイシの力だった。そして、そのずっと向こうから、父の――リティルの風の力を感じた。「大地の礎?お父さん!」

北の大地から始まりの泉の下にある根幹までは、かなりの距離がある。根幹はかなり穢れていた。風であるリティルには、泉の上からでは大地の礎は行えないとしても、これはかなり負担のかかるやり方であることが、インリーにもわかった。

「お父さん!」

大地の礎は精霊の命を削る。こんな、穢れた大地で行うべき奇跡ではない。根幹の穢れが浄化されなければ、リティルの力は届かない。力を逆流させるだけでもかなり負担なのに、さらに穢れを浄化しながら?インリーには、父が死んでしまうような気がした。

「レイシ……お父さんを助けるためなの?だから?」

混血精霊のレイシには、大地の礎は行えない。人間の血が邪魔をして、上手く大地と同化できないのだ。レイシが行えば、途方もない時間留め置かれることになってしまう。

レイシは、父の力が根幹に届かないのを感じて、真上から根幹の浄化を行っていた。けれども、レイシの力をすべて使い尽くしたとしても、この地の穢れは浄化し尽くせないほどに、血塗られていた。そして、穢れの苦痛がレイシの力を逆流して、彼を苦しめるだろう。

「行かなくちゃ……わたしなら、助けられる!」

行きたい!レイシの隣へ!


 大地の片眼のような湖を、見下ろせる上空から、レイシは北の大地の方角を見やった。

感じる……力の川が流れていると、教えてくれたリティルの言葉の通り、その流れを感じる。しかし、すぐそばまで、リティルの力はきているのに、この真下にある根幹にまで届かずに、邪魔されていた。このままでは、リティルの力が根幹に力を与える前に、かえらずの森が崩壊してしまうかもしれない。

間に合わなかったら、インリーはソラビト族を見捨てられずに、一緒に海に沈むかもしれない。そんな想像をしてしまったら、無理でも、何でも動かない選択はできなかった。

レイシには、始まりの泉は、綺麗な風景にしか見えなかった。しかし、ここは、リティルの力でさえも拒まれる、穢れに侵されている。

――太陽光には殺菌作用があってな、結構凄い浄化ができるんだわ。案外繊細なおまえなら、焼き尽くさずに穢れだけ浄化することができると思うぞ?

師匠である夕暮れの太陽王・ルディルの言葉が蘇ってきた。

そのときは、ふーんという程度にしか思っていなかった。その為に、そういう風に力を使おうと思ったことすらなかった。どんな気持ちで、何を思えば、根幹の穢れを浄化できるのだろうか。

憎しみや怒り……その力を使って戦う力を引き出しているレイシには、風の皆が当たり前に使う慈しみや優しさで、どうやって魔法を使っているのかわからなかった。

けれども、今その力を使えなければ、インリーを守れない。ずっと守ってくれている彼女を悲しませる。それは嫌だなと思った。

「大地の――礎?父さん、やっぱり!」

力の川を遡る巨大なオオタカの影。父の決定に怒りを覚えたが、すぐに怒りは消えてなくなった。オオタカの輝きが、何かに遮られるように瞬く様が見えたからだ。

リティルが穢れと戦っているのだと、わかった。しかし、あんなに強い父が手こずっているのがわかった。この穢れを導いたのは、セビリアという先代の破壊の精霊だ。その精霊の意識と、戦っているのかもしれない。

――レイシ、憎しみの反対は愛なんだよ。ありがとな、レイシ

「父さん……オレ、この力が憎いんだ。この血が嫌なんだ。だけど、父さん、オレ、あなたが大好きだよ!恨んでるなんて言ってごめん!オレ……父さんが必要としてくれるなら、父さんを助けられるなら!この力を……愛せるかも、しれない……」

レイシは左手首にある腕輪を外した。自分でつけたとわかる傷がそこにはあった。

インファが止めてくれた。セリアがリティルと話せと背中を押してくれた。リティルは、受け止めてくれた。インリーには、話せないままだった。

――インリー……オレには君が必要だよ。オレにないもの、全部持ってる君が!

 レイシは、瞳を閉じると根幹に向けて両手をかざした。

笑うインリーを思い浮かべて、歌うインリーの声を思い出して……みんなに、ここで生きるみんなに、幸せになってもらいたいと願って!インリーの心を真似る。

銀色の光が、湖に突き立つように落ちた。

「痛っ!」

レイシの光を、穢れの苦痛が逆流していた。この痛みを知っている。憎しみで燃える炎。レイシは、力を振るうたび心に鋭い痛みを感じていた。そのことを、風の城の誰も知らない。兄のインファでさえも。インジュはもしかすると、気がついているのかもしれない。そして、インリーは無意識に癒し続けてくれていた。

皆は、インリーの本当の価値を知らない。無意識に大魔法を操る、彼女の本当の姿を知らない。やはり、風の王の副官の妹なんだと思う。憎しみや怒りという、負の感情でしか力を引き出せない歪んだ精霊を、無意識に守り続ける、女神。

その力を、レイシは独り占めにしていた。後ろめたい。彼女の力は、この世界の為に使ってこそ価値があるのに。

――レイシ……無茶――するなよ……?

寄り添うような声が聞こえた。レイシの力が穢れを浄化し、同じように穢れと戦うリティルと、僅かに繋がっているようだった。

「アハハ。無茶するよ。オレ、怒ってるんだよ?父さん!」

――意識を――失う前に、離脱――しろ……よ?

「ヤダよ。根幹を浄化し尽くすまで、オレ、やめないよ!」

――困った――ヤツだな……じゃあ、もう少し――手伝って……くれよな

「任せてよ!……父さん?」

――五年で――戻れなかっ……たら、ごめん――な……

「五年?兄貴とそういう約束なの?セビリアがいるの?父さん!」

――もう――話すな……見、つか――る

リティルはセビリアと戦っていると、レイシは確信した。そして、旗色は悪いらしい。レイシではこの大陸を救えない。リティルを邪魔するセビリアを、こちらに引き付けることができたら……

 レイシは瞳を開いた。まばゆい光の中、始まりの泉の本当の姿がレイシの目にも見えた。赤黒い染みがついた、思わず目を背けたくなるような、おどろおどろしい大地だった。あの上で、皆笑って生活している。アルディオが好きだと言って、彼の帰りを待っているメルナシアがいる。今は笑っている澄んだ心は、やがて、この穢れにまみれて喜びや優しさを忘れていってしまう。だから、リティルは大地の礎を使ったのだ。自分の存在を一時失っても、ここに暮らす人々の心を、確実に守る為に。皆に、未来を夢見せるために。

風の王・リティルの、底なしの優しさ。それは、リティルの三人いる父の一人に報いるために、育まれた心だった。精霊として覚醒する前、リティルの為にと自分の歩む道を歪め、多くの血にまみれて果てた、ウルフ族のビザマという父。

正義感の強かった父が、正気を保ったまま、悪とされる行為に次々手を染めていったことが、それをさせてしまったことが、リティルには未だに悔しい。だから、自分らしく生きてほしいと願い、それを守りたい。だから、自己犠牲ともとれる力の使い方をしてしまう。

知っていた。そんな風の王の心を、城の皆が全力で守っていることも。そして、リティルは必ず帰るという約束も守っている。その瞳はいつも、未来を見ている。

 レイシは足下を見下ろした。レイシの光の落ちる湖だけが、澄んだ色をしていた。

レイシも、風の城の一員だ。偉大な風の王の為、戦いたい。

「インリー、ごめん。オレ、君の隣に戻れないかも。原初の風、一度だけでいいから君の輝きを、貸してくれないかな?」

風の王から守るように託された、風の至高の宝石の四分の一。ここにいるという意志だけを感じさせて、ずっとレイシの中に住んでいる。恩恵も得られないが、影響もない居候だ。彼女に、こんなふうに話しかけたのは、初めてだった。

原初の風は答えた。レイシの中からスウッと抜け出ると、キラキラ輝く金色の光を放った。原初の風は、悪しき者が垂涎する至高の宝石だ。セビリアは、この光に釣れてくれるはずだ。

――レイシ!ダメだ!

焦ったリティルの叫びが聞こえた。父がこんなに焦るなら、たぶん、セビリアをこちらに引き付けられる。根幹にさえ、リティルが到達できれば、この勝負、勝てる!

レイシは、北の大地の方を見た。今、アルディオがいるあの場所。たぶん、王様としてはもの凄く頼りない彼が、もう一度、自分を信じてみると言ってくれた彼が、きっと未来を繋いでくれる。

レイシの大好きな育ての父が守ってくれる、この大地の未来を、アルディオは引き継いでくれる。

レイシは、家族以外の誰かをこんなに信頼できる、今の自分が不思議だった。その人の為に、行動しようとしているこの心が、本当に自分のものなのか自信がない。けれども、こんな心も自分の中にはあったのかな?と少しだけ、自分が好きになる。

――父さん……きっと、全部、父さんのおかげなんだよ?

「ありがとう、父さん。でも、もういいんだ。オレには全部、過ぎた宝物なんだ」

原初の風も、インリーも……

「全部、風の王に返すよ。……オレ……オレに――」

――幸せをありがとう

恥ずかしくて、言葉にできなかった。最後かもしれないのに、ずっと見守ってくれていた父に、言えなかった。

 レイシは原初の風を、銀色の光に包むと北の大地へ向かって放つ。自分と同じ力の存在に、インジュなら気がついて、受け取ってくれると信じて。

澄んだ色をしていた湖面から、赤黒い血の柱がレイシの光を侵しながら逆流していた。正の感情で力を振るってこなかったレイシには、負の感情その者であるセビリアの意識を、止めきれなかった。

この血のような水柱に飲み込まれたら、この脆弱な体はきっと消えてなくなる。

そうしたら、この魂はどうなるんだろう?魂を葬送する鳥であるインサーリーズが、この大陸で死した魂をその背に乗せて、上空にずっと待機している。その一つに加わるんだろうかと、レイシはボンヤリ思った。新たな命として、ここに生まれ落ちてもいいかもしれない。もう、レイシと言う半端な存在に、風の城の誰も傷つけられないなら、それでいいかもしれない。レイシの行いで、城の皆が心を痛めるなら、もう、これが最後でいい。

 でも、インリーだけは、立ち直れないほど酷く傷つけてしまうなと、思った。

「レイシ!」

突如目の前にゲートが開いた。

「イ、ンリー……?」

え?このタイミングで、ここに出てくるの?とレイシは焦った。彼女の背後に、レイシの光を飲み込んで、覆い被さるように血の柱が迫っていた。

「レイシを傷つけたら、許さない!」

インリーが怒るところを初めて見た。怒気を含んだ声と共に、インリーの体から白い風が放たれていた。花の姫の髪に咲く光の花のような色の風だった。白い風に触れた血の柱は、清らかな水に戻っていった。一瞬だった。この憎しみの塊は、インリーに、かすり傷一つつけることもできないまま、彼女の風に蹂躙されて消え去っていった。直後、強烈な質量の金色の風が根幹に到達し、僅かに残っていた穢れを吹き飛ばしていた。

 一瞬、大地が黄金に輝いた。そして、春風のような、温かく湿った風が吹き抜けていった。そして、リティルの気配は、消え、去った。

「インリー……なんで、ここに……?」

ヤバイ、力、使い過ぎちゃった……襲ってきた眠気に、レイシは必死に抗っていた。しかし、もう、抗いようがない。心も体も疲弊して、このまま眠りに落ちたら、何年か眠らなければならなくなりそうだなと、レイシはどこか冷静に思った。

インリーの華奢な腕が、躊躇いなくレイシを抱いた。そしてインリーは、少しも躊躇することなく、レイシに口づけていた。心と体に、力が戻ってくる。体の中に流れ込んでくる、異質な白い風。

無防備な、優しいこの存在は、オレの、もの――レイシは、醜い欲望の声を聞いて、ハッとした。

「!」

レイシはインリーを突き放していた。わかっていた。インリーはただ、レイシの枯渇した霊力を戻してくれようとしただけだ。一刻の猶予もないのなら、直接体の中に流し込んだ方が、助けられる可能性が高まる。このキスは、人工呼吸と同列の、ただの医療行為だ。

「レイシ?」

突き飛ばされたインリーは、なぜそうされたのかわからない様子で、戸惑いを浮かべながらレイシを見ていた。その瞳に、レイシは怒りを覚えた。

レイシは、負の感情でしか力を振るえない自分を、汚い存在だと思っていた。そして、真逆の心で力を振るうインリーに触れたら、この汚れが移るんじゃないかと、後ろめたくて、汚したくなくて、触れられなかった。

レイシは、胸にあるインリーから贈られた首飾りを引きちぎった。

「レイシ!どうして?」

――どうして?どうしてだって?

レイシは呆然としているインリーに鋭く手を伸ばすと、今度は自分が彼女に贈ったチョーカーを奪い取っていた。

「オレは、君に触れちゃいけないんだ!」

鋭い怒りを向けられて、インリーはビクリと身を震わせた。その見開いた目には、今まさに夫の手によって握り潰されようとする、婚姻の証が映っていた。

「や……」

また、間違えたの?インリーは唐突に思った。レイシから離れたくなくて行動したことは、いつでもレイシを苦しめてしまう。レイシが何を望んでいるのかわからない。

ただ、彼の隣にいたいだけ。もしかして、レイシは嫌だった?わたしの隣にいることが!インリーの見開いた瞳から、涙が流れた。

「やだあああああああ!」

インリーの叫びが、空気を切り裂いていた。白い風の刃が、レイシに襲いかかっていた。


 ルディルのもとで修行を積んで、太陽光の力を自由に扱えるようになったレイシは、自分の霊力の中に、別の何かがあることに気がついた。

「どうしたの?」

胸に手を当てて、首をひねっていたレイシに気がついて、カルシエーナが声をかけてきてくれた。

「カルシー、なんか、違和感があるんだ。カルシーは、霊力を探れる?」

「うん。見てみようか?」

お願いと頼むと、カルシエーナは、レイシの胸にそっと手を当てて瞳を閉じた。一分もそうしていなかったと思う。瞳を開いたカルシエーナは、思いもよらないことを口にした。

「霊力の流れに傷がついてるのかと思ったけど、違った。ちょうど心臓の辺りに、亀裂みたいな小さなゲートがある」

「ゲート?」

カルシエーナは頷いた。ゲートと言えば、神樹の精霊だ。風の城でゲートを操れるのは、花の姫であるシェラと、次元の刃を使えるインファだけだ。しかし、インファには体の中にゲートを開くことはできない。シェラは、リティル以外の者の中に、ゲートを開くことはできない。では、誰が?とレイシは首をひねった。

「インリーだと思う」

「インリー?」

確かに、魂は分け合ったが、その先のことは何一つ行っていない。そもそも、インリーにはゲートを開く能力はなかったはずだけど……とレイシは首を傾げた。

「すごく古い物だ。最近開いたものじゃない」

もしかすると、子供の頃とか?と、カルシエーナは言った。

「うーん、そう言われても、心当たりないなぁ」

本当になかった。そのゲートはかすり傷のように小さくて、どこに繋がっているのかわからないとカルシエーナは言った。シェラに調べてもらったら?と言われたが、そうすると言ったものの、うやむやのままレイシは、母に結局聞かなかった。

 思えばインリーは、風の精霊の特徴に薄い容姿をしている。どうしても、金色の翼に目がいってしまうから、風の精霊なんだと何となく思っていたが、インリーは花の姫に似ていた。しかし、ゲートの力を片鱗でも見せたことはなかった。少なくとも、レイシは知らなかった。

けれどもたぶん、インリーにはゲートを開く能力があるのだ。

かえらずの森から突如目の前に現れたとき、インリーが開いたんだと、レイシはそう確信した。

けれども、どんなゲートなのか、尋ねることはできそうになかった。レイシの霊力は枯渇して、心も憎しみに焼かれて、ここで気を失ったら多分、十年くらいは眠れる自信があった。そんなことを許すインリーではないことを、ずっとそばにいたレイシにはわかっていた。わかっていたが、心がないとしても、キスしてほしくなかった。

一度でも越えてしまったら、もう戻れない。聳えるように高かったハードルは、どんどん下がる。そして、いつか――

そう思ったら、凶行に走ってしまっていた。どうしても、レイシの隣にいたいインリーが、暴走してしまうこともわかっていたのに、レイシは自分の心を止められなかった。

インリーがどうしても、レイシの隣にいたいように、レイシは、インリーをこの手で汚したくなかった。インリーを好きだから、触れたくなかった。

 たぶん、インリーに攻撃されたのは初めてだ。この白い刃、兄貴の振るう華奢な剣に似てるなと刹那思った。ということは、もの凄い切れ味なんじゃないか?とその瞬間思った。

レイシは、この身が断たれるのを待ってしまった。

「……もう少し、安心して鑑賞したいんですけどね」

「若いとは、危ういということだ」

レイシは、両手をインファとノインに拘束されていた。そして、二人はインリーに片手の平を向け、風の障壁で暴走した風を防いでいた。

「兄貴?ノイン……」

二人は、レイシが婚姻の証を壊すことを阻止し、インリーがレイシを傷つけることを、回避していた。

「レイシ、一時の感情で、そんなことをしてはいけません」

「インリーも、夫婦喧嘩にそんな物騒な風を持ち出すな。レイシを殺す気か?」

ノインに叱られて、インリーは混乱した瞳から、ボロボロと涙をこぼすばかりだった。

「だけど!」

レイシが反論しようとしたときだった。日の光に煌めく、金色の光が突如飛来したかと思うと、レイシの中に突っ込んできた。

「え?……う、あ……!」

途端、体の中で異質な力が湧き上がった。苦しい。力が暴れて、抑え込めない。

「レイシ、原初の風も怒っていますよ?しかし、これはいけませんね。セリアに話をしてもらいましょう」

原初の風?インジュの所へ行けと放ったはずだったのに……と言葉にできないままレイシは、苦痛で気を失いそうだった。彼女は自分の意志で戻ってきて、レイシに無理矢理同化しようとしていた。それは、感情で言うなら怒りだ。インファには、原初の風がレイシの行いを怒って、お仕置きしているように見えた。原初の風は、宝石の姿をした力だ。宝石の精霊であるセリアは、具現化する前の原初の風と、なぜか会話することができる。怒りを静めてもらったほうがいいなと、インファは判断した。

「インリー、君も戻れ」

ノインは思考を停止して、ただただ泣き続けるインリーの肩を抱くと、原初の風に体の中で暴れられて、苦しむレイシを支えたインファと共に、開いたままにしておいたゲートを潜ったのだった。


 北の大地の宮殿の、玉座の間にカルシエーナは立ち尽くしていた。

彼女の背後で、吠えるユキヒョウの姿が彫刻されたされた扉が、開かれた。

「あなたが、カルシエーナ?」

アルディオの声に、カルシエーナは振り向かずに、静かに言葉を紡いだ。

「おまえ達、風の王がどうなったか知っているか?」

「リティル?あなたは、知っているのか?彼は今どこに!」

精霊達は教えてくれなかった。ここへ先に向かったリティルが、何をするために行ったのか。ランティスは、振り返らないカルシエーナの腕を掴んでいた。彼女が振り向いた。

その顔に、ランティスはハッとして息を飲んだ。

彼女のこちらを睨む、赤い色の瞳が涙に濡れていた。

「お父さんは……行ってしまった……!この穢れた大地を浄化する為、存在を賭けて!」

「お父さん?」

「風の王・リティルは、わたしのお父さんだ!おまえ達は、お父さんを……許せない……!許せない!許せない!でも……許さなくちゃならない……」

俯いて、カルシエーナはさめざめ泣いた。

「カルシエーナ、ボクが言うのもなんなんですけど、リティルはそういう人なんです。あの人のこういう決定は、誰にも止められないです」

「わかってる!でも……ここはもう、酷い穢れで……お父さん……!わたし、止めた方がよかった?こんな大地と融合して、本当に、大丈夫?」

「大地と融合?どういう――カルシエーナ、リティルはどこに?」

カルシエーナは、ランティスを睨んだ。

「おまえの足の下!どうしてやめなかったの?ケルゥが大陸の水を再生させて……どうして、争いをやめなかったの!水がほしかっただけなら、これ以上必要なかったはずだ!」

カルシエーナは、アルディオとザリドの顔を順に睨んだ。

「リティル殿は、何を?」

カルシエーナの慟哭に、アルディオは戸惑いながら、シェラに助けを求めるように視線を合わせた。

「リティルは、この大地を浄化し、大陸に命を与える為に、その身を犠牲にしたのよ。この大陸は死にかけていて、本当は、リティルがトドメを刺すはずだったの。ここに息づくすべてのものの命を狩り、大陸に引導を渡すはずだった」

「リティル殿は、青い焔を憂いてくださったのか?」

「リティルは、ずっと迷っていたわ。大地と融合して助けるか、このまま滅ぼすか」

「助けようと?リティルは、ワシらのどこに未来を見た?憎しみの炎は消えとらん。この大地は、血の穢れで滅びいくのだろう?リティルほどの精霊が、犠牲になる価値が、どこにある!リティルはどこだ!連れ戻してくれる!」

ザリドは憤って、インジュの肩を掴んだ。

「もう、遅いんです!」

インジュは俯くと叫んだ。その声に気圧されて、ザリドは手を放していた。

「見たでしょう?空に向かって立ち上った金色の風を。リティルの風です。この大陸の穢れを浄化できる精霊は、そうはいません。だから!リティルが犠牲になるしか、なかったんです!リティルがやらなければ、レイシが……レイシがやっちゃってました」

「レイシ殿……それゆえ、泉に……」

「感じます。レイシは、リティルの為に泉の上から浄化を行ってます。この大陸の心臓は、始まりの泉なんです。だけど、あの場所は特に酷く穢れているんです。レイシ……穢れの苦痛を、受けているでしょうね」

「!レイシ殿」

駆け出そうとしたアルディオの体に、黒い髪が絡んだ。

「行ってどうするの?今更、遅いの。お父さんもレイシも、おまえ達に未来を見たかもしれない。でも……わたしは、おまえ達が憎い!こんなに、こんなにしてもらって……それでも、争いを手放せないおまえ達を、許せない!」

「シェラ!今からでも、リティルを連れ戻せないのか?」

ランティスは、何もできない歯痒さに、シェラに助けを求めていた。

「できないわ。わたしに癒やせるのは、肉体だけ。精神だけの存在になってしまったリティルには……近づくことさえできないわ」

「それは、死んでしまったというのではないのか?なぜです?なぜ、そんなことを許したのだ!」

叫んだアルディオに、カルシエーナの髪がさらに締め付けられた。殺意はないが、その美しい髪から怒りを感じていた。

「ぎゃーぎゃー騒いでんじゃぁねぇ」

開け放たれた扉を潜って、ケルゥがのっそり姿を現した。アルディオとザリドは、咄嗟に身構えた。ケルゥの出現で、アルディオを縛っていたカルシエーナの髪が、シュルシュルと解けた。

「その窓からよぉ、見てみろよぉ。すっげぇ綺麗だぜぇ?」

ケルゥは、顎で玉座の裏にあるバルコニーを指した。インジュに促され、三王はそこへ走った。

 格子で仕切られたガラスの扉を開くと、風が、温かな風が皆を包んだ。

この部屋にたどり着くまでに、いったいどれだけ、階を上らされるのだろうかと思ったが、切り立った雪山の中腹にあるこの城から、平原の真ん中にある始まりの泉が見えた。

この平原は、ずっと昔は森や丘があったらしい。だが、度重なる戦火が何度も焼き、今はどこまでも平坦な草原が広がっていた。その大地に、巨大な金色の鳥の影が飛んでいた。

真っ直ぐに、ここが始まりの泉だと示すかのように天に突き立った、銀色の光へ向かって。その銀色の光に、時折赤黒い輝きが絡まった。それは、まるで銀色の光を侵しその輝きを、失わせようとしているかのようだった。

「レイシ殿!レイシ殿……!」

アルディオはバルコニーから身を乗り出して、その名を叫んでいた。かけたい言葉は沢山あった。しかし、何も言葉が出てこなかった。

アルディオにはもうない、がむしゃらさで突き進み、必死に生きる未来を示してくれた思春期の青年の姿をした精霊。風の精霊ではないからと、リティルにとてもよく似ていることを、頑なに信じない卑屈な心で、こんなとき父ならどうする?と自問自答しながら前を――未来を睨んでいた。

アルディオは、レイシの姿に、もう一度自分を信じて進んでみようと思えた。一度は、人間の国と共に滅んだこの心を、レイシはさあ、行くよ!と引っ張り上げてくれた。冷たく冷めたその瞳で、未来はあるよと暖かく笑いながら。

「リティルなぁ、本当はここまでするつもりはなかったんだぁ。烈風鳥王を動かしたのは、おめぇとレイシだ」

感謝するんだなと、アルディオの隣に立ったケルゥは、凶悪に笑った。ケルゥのその言葉に、アルディオはえ?と瞳を見開いた。

「レイシの野郎、歪んでただろう?でもよぉ、真っ直ぐだっただろう?あいつがリティルの役をやりやがったらなぁ、どれだけ時があってもどうにもならねぇ。だからよぉ、息子の代わりに、リティルが犠牲になったんだよなぁ」

リティルしかいなかったと、ケルゥは二つの光を眩しそうに見やった。

「リティル……おまえには見えるのか?この光のような未来を、ワシらが築いていけると思っているのか?そんな自信など、ワシにはないぞ!それでも……くれるのか?おまえのその、汚しがたい輝きを……!」

獣人達を、蔑むような瞳で見ていたくせに!とザリドは叫んだ。しかし、リティルはそれでも見捨てずに、何度も、何度も、その力ある声で、風の奏でる歌を歌ってくれた。

自分自身を諦めるな!とそう言い続けてくれた。

震えながら拳を握ったザリドの背に、そっと触れた者があった。そこには、澄んだ色の瞳で見上げてくる、女のように華奢な精霊がいた。遠慮なくおまえ達は醜悪だと、突きつけてきたインジュ。リティルのこの決定を受け入れて、それをさせてしまったのに、インジュはまだ寄り添おうとしてくれていた。

ワシが憎くないのか?そう問うことは、インジュに失礼だと思った。

「お父さんの輝き、レイシの祈り、おまえ達は受け取って守っていける?」

バルコニーから、精霊達の戦いをただ見守るしかない三王は、背後からかけられた、冷ややかで静かな声に振り向いた。

 カルシエーナの瞳からは、未だ枯れない涙が流れていた。血縁ではないことがわかる容姿で、それでもリティルを父と慕い、父の決定を受け入れて、憎しみをその瞳に滾らせながら、それでも、必死に心を押さえ込んでいた。

「自信はない。だが、オレはアルディオとザリドのことは、信じることができる。二人がいるなら、リティルとレイシのくれた未来を、守っていける!」

「わたしには、叶えなければならない約束があるのです。この先をくれるのであれば、それに縋りたい。カルシエーナ、この命、許してはくれぬか?」

カルシエーナに向き直った、アルディオとランティスの背後で、レイシの光を飲み込む血の柱が立ち上っていた。大地に翼を広げたリティルの輝きに、もう一羽のキラキラ輝く、金色の鳥の影が合流して一つになった。

「インジュ、リティルは帰って来るか?」

「当たり前です。自分の何を犠牲にしたって、あの人はしぶとく帰ってきます!」

ザリドの問いに、そう答えながら、インジュの瞳は痛そうに歪んでいた。

「わかった。あいつに救ってよかったと思わせてやる!見ていろよ?インジュ」

レイシの光を飲み込もうとしていた血の柱が、突如清らかな輝きとなって、始まりの泉を包んでいた。そこへめがけ、オオタカが羽ばたいた。一瞬、大地が黄金に輝き、そして沈黙した。

シェラはその光景を、ただ見つめていた。温かな、夫その者のような風を全身に浴びて。

――リティル……もう、あなたを感じられないわ。ゲートも何もかも、消えてしまった

シェラの中にあった、リティルの肉体と繋がっていた、一心同体ゲートが消失した。リティルであっても、一時この大地と共に眠らなければならない。シェラにはもう、リティルの意識すら、感じることはできなかった。

それでも、五年で何とか戻るからと、リティルは笑っていた。だから、泣かないでと。

酷い人。とシェラは恨めしく思った。あなたの気配も、あなたのぬくもりも、あなたの声も、何もかもなくなって、帰ってくることはわかっていても、未亡人になった気分だわ。と、シェラは泣き叫びたかった。

「終わったわ。リティルはこの大陸との融合を果たしたの。五年後、ここへ来て。目覚めるあの人を、迎えてあげて」

「……五年?」

ガバッとランティスは顔を上げた。犠牲になるというから、もう会えないのだと思い込んでいた。あのとき、間違ってしまったからリティルを、殺してしまったのだとそう思った。

「ええ、五年よ。リティルは風の王よ?この世界には、夫を必要としているところがまだまだあるの。一つ所に、長くとどまれないわ」

どこか怒っているようなシェラは、フイッとランティスから視線を外してしまった。

「死んでしまったわけでは――ないのか……」

アルディオがハアと、半ば放心したようなため息をついた。

「これは茶番よ?わたし達の誰の命もあげないわ」

本当は、大地の礎だって使う予定はなかったのに……と、シェラは気落ちしながら、それでも気丈に振る舞った。

「カルシエーナ!それは演技か?」

ザリドは、インジュの言葉が、本当だったのだとやっと信じて、脱力した。そして、五年ならばと、愚かにも思ってしまった。

「演技なわけない!五年も離れ離れになってしまうんだ!哀しくないわけないでしょう?それに、お父さんは一つ所にとどまると発狂する」

リティルが発狂したら、あのとき滅んでおけばよかったときっと思うと、カルシエーナは涙を拭いながら言った。

「あなた達三王には、五年間、リティルをお見舞いしてもらいますよ。ボク達も定期的に来ますから、タイミングがあえば会えますねぇ」

嬉しいですか?とインジュはザリドを突いた。バカかと言いながら、ザリドはまんざらでもない様子だった。

「レイシ殿も、来られるか?」

「息子は素直ではないから、望みは薄いわ。リティルの決定を、きっと、怒っているでしょうから」

「レイシ、怒るから、お父さんに教えてもらえなかったんだ。おまえ達、五年の間に争ったら、今度こそ、わたしが滅ぼしてやる!お父さんを傷つけたら、許さない!」

カルシエーナはそう叫ぶと、踵を返し、待ってくれていたケルゥの右肩に、いつものように両手をかけて乗っかった。

「ワハハハハ!そのときは、オレ様も手加減しねぇ!オレ様達の王様に、傷一つつけるんじゃぁねぇぞ?」

じゃあなと、ケルゥは三王を押しのけてバルコニーから空へ飛び出していった。

 ケルゥはずっと空の高みまで飛ぶと、青い焔を見下ろした。

「カルシエーナ、すげぇ綺麗だなぁ」

「うん……お父さんとフロイン、それから、レイシのおかげだ」

空には、雲が湧き始めていた。四大元素の妖精達が、根幹の浄化を感じて戻ってきてくれたのだ。

 歌声が聞こえる……もう、眠ってしまったはずなのに、風の王の歌声が聞こえる。

さあ、顔を上げて。進んで行け!と背中を押すように……


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