五章 審判の日
炊き出しを自ら行っていた人間の王は、テントに入ってくる、レイシとインリーを見て、少し驚いていた。
「インリー殿?いつこちらへ?」
インリーは微笑むと、ペコリと頭を下げた。
「ついさっき。ちょっといい?」
アルディオは、そばにいたエフラの民の女性にその場を預けると、レイシと外へ出た。インリーは、わたしここにいるよと言って、ついてこなかった。
テントを出ると、シチューを食べている獣人達が、そこかしこにいた。その中に、タイガ族は一人もいなかった。
「獣人達、どう?」
「疲れているようですが、大事ないでしょう。子供達があんなに元気なのだから」
アルディオはコウディオと同じ顔で、穏やかに笑った。元気な人間とウルフ族の子供達につられて、フォルク族の子供が走り回っていた。
「ザリドには会った?」
「いいえ。気になってはいたのだが、持ち場を離れるわけにはいかず」
ウルフ族の子供達に、シチューを食べられるわけにはいかなかったと、アルディオは言った。彼はレイシの期待通り、子供達からシチューを守ってくれたのだった。
「アハハハ、あんたって、くそ真面目だね」
熱心に教えてくれたエフラの民の女性がいたと、アルディオは今までで一番楽しそうだった。
「ああいうことは、初めて行ったが、なかなかに楽しくて。レイシ殿、コウが迷惑をかけたようで申し訳ない」
「知ってたんだ?」
アルディオは頷いた。
「先ほど、ランティス殿とリティル殿が来られて、大体の顛末は。ザリド殿のところへ、行かれるのか?」
ランティス……どうなったかな?とそちらも気になった。だが、その前に、傷心の相棒を何とかしなければならない。このまま城に帰したら、また鳥籠に引きこもってしまうかもしれないから。全く世話の焼けるヤツだなと、レイシは小さく笑った。
「ザリドのところへはあんたが行ってよ。オレは、インジュだよ」
承知したと、アルディオは応じた。おそらく二人は同じ場所にいるだろう。
「アルディオ、オレ、この場所に残ってもいいかな?」
「……そう、言われるような気がしていました。獣人との橋渡しをされるおつもりか?」
「オレは、憎しみを知ってるからね。あと、インリーの力が役に立つかもしれない」
レイシの、前を睨むような瞳に、アルディオは小さくため息をついた。
「また、一人で戦われるおつもりか?」
「え?オレ、一人じゃないよ?一人でっていうなら、それ、あんただろ?」
「わたしも一人ではない」
ランティスとザリドがいると言って、アルディオは穏やかに笑った。
「これでお別れかもしれないけど、アルディオ、大丈夫だよね?」
「レイシ殿……別れの時、何を話そうか考えていた。けれども、語り尽くせぬのです。なので、これだけ。レイシ殿、健やかに生きてください。わたしはそれを、願います」
アルディオを見上げていたレイシは、少し複雑な顔をしながら俯いた。
「じゃあ、オレからも一つ。アルディオ、子供作ってよ。一人でいいからさ。オレが会ったらわかるくらい、ソックリな子供」
ここでの仕事が終われば、レイシ達はレイシ達を知ってる者がいなくなるまで、青い焔には関われなくなる。人間で、しかも中年という年のアルディオは、瞬く間に逝ってしまう。レイシが会えるのは、彼の子孫だ。彼本人にはもう会えなくても、続いた血に会いたい。そう思ってしまった。
でも、それは酷かな?とすぐに思い直した。アルディオは、結婚に失敗しているから。遠征に出ている間に、寝取られてしまったらしい。
「アハハハ、ごめん。オレの自己満足だったよ」
ここを守って、続いている姿が見たいなんて、傲慢だったよとレイシは笑った。そして、忘れてと言った。名残惜しいと、思ってくれるのだなと思って、アルディオは寂しそうに微笑んだ。
「わかりました。もう一度、今度は自分で伴侶を探します。まだ少し、わたしにも時間がある。あなたの願い、きっと、叶えましょう」
俯いて頷く精霊に、アルディオは小さく笑った。
「レイシ殿、では、後ほど」
「うん。アルディオ、またあとで」
二人は、目当ての者を見つけ、それぞれの道へ別れた。
おかしい。インジュの様子がおかしい。
始まりの泉に着いたとき、人間と半獣人種の連合軍が待ち構えていて、やはり業は深いなと思った。さて、どうするか。こちらは精霊の不在で、連合軍サイドにも、精霊の姿が見えなかった。しかも、軍を率いているのはランティスでもアルディオでもなく、これは反乱か?とも思った。とにかく、相手を殺さないように持ちこたえろと指示を出し、しばらく戦っていると、もの凄い存在感でレイシが現れ、あの時は心底ホッとした。
とにかく退却と防御線維持を命じ、動向を窺った。レイシの説得も危うく、インジュかリティルの到着を願った。
その戦況を一変させたのは、すぐに風の奏でる歌だとわからないほど、楽しげな歌声だった。そして現れた金色の壁に、一気に緊張が解けた。助かったのだとわかったからだ。
その後、レイシの宣言でインジュと彼が戦い始めたのには、正直驚いた。
インジュは、危ないだのやめろだの言って、逃げ回っていて、レイシは容赦のない猛攻だったが、それは、レイシの方が不利だからだとザリドにはわかった。
――怪我した人、いない?
そんなときだった。金色の華奢な翼の生えた少女が、話しかけてきたのは。
彼女が、歌声と金色の壁を築いた魔法の主だと、すぐ気がついた。怪我をした者は癒してもらえと、仲間に声をかけると、少女はすぐさま獣人の間を縫って、行ってしまった。
誰だ?今のはと、気になり探したが見つからなかった。次にその姿を見たのは、インジュとレイシの戦いの決着がついた後だった。
インジュの悲痛な叫びと、レイシの諭し。このまま始まりの泉へ行っていいものかと、迷った。
――ザリド、始まりの泉へ行きましょう。アルディオが場所を確保してくれてます
舞い降りてきたインジュに促されるまま、ザリドは皆を動かした。レイシを振り仰ぐと、彼の傍らにあの少女が寄り添っていた。
ああ、あの娘がリティルの。そう思った。そして、彼女がレイシの妻なのだと。
歌声一つで、争いを終わらせた風の姫。侮れない娘だなと思った。
それにしても、あれからインジュの様子がおかしい。話しかけづらくて、話しかけることができなかった。
――大変な目に遭わせて、悪かったな
始まりの泉に着くと、リティルとランティスが待っていてくれていた。
リティルの言葉に、いろいろ腑に落ちなかったが、タイガ族とザリドはこっちへ、あとはその先へと指示されて今に至る。
そして、顛末をリティルから聞いた。
「なにぃ?おまえ、あの時の若造なのか?まさか、生きていたとは」
薬草を分けてくれと、単身で獣人の郷へ乗り込んできた、ウルフ族の若者のことは覚えていた。しかし、それがランティスだったとは気がつかなかった。というのは、さすがに死んだと思っていたのだ。
ザリドの前の王は、葡萄酒を、しきたりだとか何とか言って、まんまとランティスに飲ませ、タイガ族と戦わせた。その葡萄酒には、しびれの毒が入っていて、善戦していたランティスは徐々に体の自由を奪われていった。あとは、語るのも無残だった。生きているのが、不思議なくらいの状態だった。だが、ランティスは生き残った。
生き残ったのだから、薬草を渡さなければならないというのに、前王は約束を破った。
だから、ザリドが代わりに、ソラビト族を使って約束を果たしたのだ。タイガ族の誇りを傷つけた者達の断罪と、長の座もこれを機に手に入れてやろうと決めた。そしてそれを、実行しザリドは王になったのだ。
「すまない、ザリド。オレは、あなたをだまし討ちのように……」
「いいや。おまえが軍を率いていなくてよかった。おまえが率いていたら、さすがに絶望するところだった」
「しかし、間に合わなかったか……」
ランティスは首を横に振った。
「あの薬草がなければ、森は滅んでいたかもしれない。間に合ったよ。あなたは森の恩人なんだ」
ランティスは目を伏せて、力なく、だが穏やかにそう言った。
「よせ。おまえの恨みは当然だ。今こうして、受け入れられ、信じられんくらいだ」
「聞いたぜ?ザリド、犠牲者ゼロだってな。ありがとな」
「おまえに礼を言われると、なんだか恐ろしい。ワシの功績というより、レイシとおまえの娘だ」
「インリーに会ったか?」
「姿を見たくらいだ。凄まじい魔女だな。まだ、ここにいるのか?」
「まだ、いるはずだぜ?」
「あの娘に癒された者達がな、女神だと騒いでいる。ワシも興味があるが、レイシの伴侶では会える望みは薄いな」
ワシはレイシに嫌われていると、ザリドは言った。
「そうでもねーんじゃねーか?しっかし、あいつが女神?レイシが聞いたら、腹抱えて笑うぜ?なあ、インジュ」
「え?ええと?」
名を呼ばれて、インジュは辛うじて反応したが、話をまるで聞いていなかった。
ランティスをシェラに預けて、リティルはレイシを追って戦場へ飛んだ。そして、一部始終を見ていた。インジュが自分の腕を、切り落としそうになったときは、さすがに止めに入ろうとしたが、その前にレイシが止めてくれた。
レイシの意図したことはわかるが、インジュには寝耳に水だったろう。よっぽどリティルも、止めに入ろうかと思ったくらいだった。だが、見てみたかった。二人の導く結末を。
「インジュ、おまえ、城に戻るか?」
「……そのほうが、いいんでしょうか?」
「オレは決めてやらねーよ。おまえが自分で、どうしてーのか決めろよ。インジュ、このテントを出て、泉に沿ってずっと行ってみろ」
何があるんだろう?そう思ったが、これ以上問う気になれず、インジュは頷くと、ふらりとテントを出っていった。
「リタイアか?」
あれは、悲惨だった。インジュがレイシを慕っていること、反属性返しがいかに危険な魔法かを、ザリドは知っている。命を奪わない誓いを立てている、綺麗なインジュには、あの戦闘は酷以外の何者でもなかった。
「ん?たぶん、最後までおまえのお守り、してくれるぜ?」
よかったな!と笑うリティルに、ザリドは本当か?と信じていない視線を向けた。
テントを出て歩き始めたインジュは、どうしようもなく心が沈んで疲れていた。
ボクは、不完全な風だなと、百年くらい思うことのなかった弱気が襲ってきた。レイシはどうして、風じゃないのに、風の精霊みたいにいられるんだろうかと、ボンヤリ思った。今思えば、戦場にいたレイシは、風の王・リティルみたいだった。
「どうして、ボクが、風で、あの人は、風じゃないんでしょうか……?」
不公平だなと思った。インジュは、レイシが風の精霊になりたいことを知っている。だから時折、自分自身を呪っていることも。
ボクの風を、レイシに渡すことができれば、彼の中の憎しみは消えるだろうか。そう思って、インジュはできもしないことをと、自分をあざ笑った。
「インジュー!」
「わああああ!」
急に背中に飛び乗られて、インジュは心臓が口から飛び出すかと思うくらい、驚いた。
「アハハハ!これ久しぶりー」
笑うレイシの声を、耳元で聞きながら、インジュの心は急激に安堵した。
「レイシ、あの……インリー放っておいていいんです?」
後ろから首に回された腕に触れながら、インジュは心にもないことを言った。
「あ、そういうこと言う?そんなつれないこと言うなら、オレ、インリーのとこ行っちゃおうかなぁ?」
「えっ!」
「あのさぁ、あんたみたいなでかい男が拗ねても、可愛くないよ?どうしたの?おじさんが聞いてあげるよ?」
レイシはインジュの背中から降りると、その背に声をかけた。
「レイシ……もう、ボクに攻撃とかしないでください。ボク……レイシを殺したくないですから。ボクのこの力は、レイシを守る為にあるんです!レイシを殺す為じゃありません」
「そうだね。あんたに守ってもらわなかったら、オレ、死んじゃうからね」
レイシが草の上に寝転ぶ音で、インジュはやっと振り返った。
「青い焔、ずっと青空なんだ。風の王が何かしてるの?」
両手を頭の後ろで組んで寝転ぶレイシの隣に、インジュも寝転んで空を見上げた。
「リティルは風の総括ですけど、風の下級、中級精霊にまで指示してません。青い焔は、崩壊を始めてますから、小さい精霊達はみんな逃げちゃったんです」
中級以下の意志の希薄な精霊達を、総称して妖精と呼んでいる。彼等がいなくなったために、雲さえ湧くことがなくなったのだと、インジュは言った。
「インジュの力なら、呼び戻せる?」
「はい。大地の崩壊が止まれば、四大元素の妖精達は何もしなくても戻ってきます。ボクの力が、必要になるといいんですけど」
インジュの力は、創造する力だ。原初の風という、受精させる力の化身であるインジュは、生命力を引き出して、この死にゆく大陸を癒やせる。でも……インジュは薄々感じていることがあった。そしてそれを、レイシも感づいている。
風の王・リティルの、決断――。
ここまで来て、わからないわけはないのだ。レイシは息子として、インジュは風の王の盾として、リティルの背中を追い続けているのだから。
「そうなるように、オレ達動いてるんじゃなかったっけ?インジュは違うの?」
「……わからないです。悪意と憎しみばっかりなんです。ボク……レイシとリティルがこれ以上傷つくの、見たくないです。ボクは風の精霊失格です。青い焔より、家族の方が大事なんですから」
「それ、普通だよ?家族も愛せないで、それ以外が愛せるわけないでしょ。インジュはさ、優しすぎるんだよ」
「優しく、なんて……ない、ですよ……!ボク、何度獣人達を滅ぼしてやろうかって!こんな、冷たい人達を、守れるかって!」
インジュは両腕で顔を覆った。
「でも、全員助けちゃったね」
「仕方ないじゃないですか!だって、放っておいたら、死んじゃうんですから!」
「アハハハ」
矛盾してると言って、レイシは遠慮なく笑った。
「ねえ、インジュ」
「はい」
「オレ、インジュのこと、好きだなー」
「え?」
「インジュ」
「は、はい!」
「一人で、よく頑張ったね」
「仕方――ないじゃないですか……!レイシが、いないんですから!ボクが……頑張る以外に、ないじゃないですか!楽したいのに!怖いのに!」
「アハハハ、ごめん、ごめん。インジュ、北の大地までオレなしで行ける?」
「行きますよ!レイシが――いなくても、行きますよ!行ってやりますよ!」
何?自棄?とからかうと、インジュは自棄です!と売り言葉に買い言葉で返してきた。
「有言実行ってね。インジュ、三王のこと頼んだよ?」
リティルの所に行くと言って、レイシは翼を広げて行ってしまった。そんなレイシの背中を、インジュは見られなかった。
「レイシ……ボク、リティルの背中、押したくないです。押さなくちゃダメなんです?」
インジュは青空を一人見上げながら、力強く、その明るい笑顔で皆を導く、風の王のことを想っていた。
元々この茶番は、無謀なのだ。四大元素の王が、中でも輪廻の輪を守る風の王が、もうダメだと判断したのに、それを覆すなんて……誰かが、精霊の誰かが犠牲になる以外、もう道は残されていないんじゃないかと、インジュは始めから思っていた。これでもインジュは、風の最上級精霊なのだから。そして、受精させる力の化身なのだから。
インジュは、リティルの気配のする、レイシが飛び立ったその空を、寝転んだまま見上げた。空は、レイシが言ったように、どこまでも青く青く澄んでいた。
リティルは、始まりの泉が見渡せる山の天辺に立つ木の、その天辺に立っていた。
「父さん」
「ああレイシ、ご苦労さん。活躍だったな」
「アハハ。冗談言わないでよ。オレじゃ無理だよ。風の女神が降臨しなかったら、終わってたよ」
「それ、聞いたのか?インリー、獣人達に受けてたぜ?」
「彼女に触ったら殺す!ってザリドに言っておいて」
レイシは冷たい瞳に、冗談めかした笑みを浮かべた。
「なあレイシ、まだオレのこと恨んでるのかよ?」
「え?父さんのこと?うん。恨んでる恨んでる。永遠に恨み抜くよ」
風の血をくれないから、当たり前と、レイシはフンッと挑発するように笑った。
「そっか。オレ、愛されてるなー」
リティルは笑うと、始まりの泉に築かれた、新たな郷を見下ろした。優しい瞳だった。
「レイシ、自分の命を使ってできることは、限られてるぜ?」
「え?オレ死ぬの?いつ?」
「レイシ」
おどけるレイシに、リティルは諭すような鋭い瞳を向けた。
「わかってるよ。オレ、混血精霊だからね。大地の礎は使えないよ」
「レイシ、もし失敗しても、ここはオレ達四大元素の王が作り直す。記憶がなくなっても、今ここにある命が経験したこと、感じたことは、魂が覚えてるんだ。無駄じゃないんだぜ?」
「父さんは、それでいいの?」
ここまで、頑張ってきたのに?とレイシはリティルの様子を窺った。
「ああ。いちいち体張ってたら、命がいくつあっても足らねーだろ?オレ達の助けがいる場所は、青い焔だけじゃねーんだからな。レイシ、おまえに関わらせたこと、後悔させないでくれよ?おまえはオレの左腕だ。左腕が使えねーと不便だろ?」
オレは二刀流なんだとリティルは言った。
「左はノインじゃないの?」
「インファとノインは右担当なんだよ。おまえは一人で左担当だ。責任重大だぜ?」
父さんは相変わらず優しいなと、レイシは思った。ライオンの足に枷をつけて、勝手に行動できないようにしようとしているのだ。
大地の礎――あらゆる力の司である精霊ならではの魔法だ。死にゆく大地と同化して、その命を救う。同化した精霊は死ぬわけではない。大地が、自分で生きていけるまで回復すれば、同化した精霊は解放される。
だが、青い焔は戦火によって滅びを迎えた地だ。インファとノインは、戦火の火種が根絶やしになるかどうかを見ている。根絶やしにできなければ、青い焔は同じ理由で、再び危機に瀕するだろうからだ。存続が決まれば、四大元素の王と、癒やしの力を持つ風の城の精霊達を総動員して、修復することになる。リティル達は始めから、大地の礎を使うつもりはなかった。
わかっていた。兄とノインが滅亡を選択するのなら、大地の礎を使っても無駄なのだ。大地が回復しきる前に戦火が再び大地を焼けば、今度は同化した精霊も死ぬことになる。そんな犠牲を、リティルが許すはずがない。
けれども、信じたいと思ってしまうのは、いけないことなのだろうか。
割り切っていると言いながら、始まりの泉を、そんな切ない瞳で見つめているリティルに、レイシは本心をどうしても問えなかった。そしてまた、リティルを苦しめているような気がした。
「憎しみが……消えないから?」
思わず、口から零れ出ていた。
「レイシ……おまえにまで泣かれると、オレも泣きたくなるだろ!」
リティルは乱暴に、レイシを抱きしめていた。息子の涙を見ないように、自分ももらい泣きしないようにと、言わんばかりに。レイシは、不意に包まれたぬくもりに、思わず縋っていた。そしてまた、ぶつけても仕方のないことを、優しいこの人に、ぶつけてしまう。
「無理なんだよ……!どうしても、消えないんだよ!一度青く燃えた炎は、灰になるまで消えない!オレは、コウディオ達を犠牲にするべきだった?消えない炎を命ごと消せば――よかったのかよ!」
あの争いが起こった時点で、もう、査定は終了していた。だから、リティルはこんな優しくて、切なく、どこか思い詰めた瞳で、郷を見下ろしているのだと、思ってしまった。
「レイシ、あいつらが犠牲になってたら、新たな憎しみが生まれてた。おまえはそれを、止めたんだ!おまえは何も、間違ってねーよ。諦めるなよ。まだ、終わってねーだろ?」
「他に、他に何ができるんだよ!こっからどうやって、兄貴達を納得させられるっていうんだよ!」
抱きしめてくれたリティルを引き剥がして、レイシは涙を拭った。
「ならおまえはどうして、ここに残りてーんだよ?まさか、おまえ!大地の礎、使ったら一年封印の刑だぜ?」
リティルはレイシの腕を強く掴み、打ち込むように釘を刺した。
「命かけるのに、一年でいいの?」
こいつ!リティルは、それくらいならいいかな?と安易なことを、頭に過らせたとわかる息子の様子に、呆れた。
「……おまえ今、安いって思っただろ?インファも見てるんだぜ?余裕だなー。早まるなよ、まだ、いけるぜ」
「でも、もう、時間が……」
――かえらずの森が崩れるまでがリミットです
副官の冷たい声が耳に残っていた。あとどれくらい時間があるんだろう。もうこれ以上何をして抗ったらいいのか、気の焦るレイシには考えられなかった。
しかし、リティルの瞳には、揺るがない光がまだあった。
「始まりの泉で争いがこれ以上起こらなければ、まだ、何とかなる!レイシ、おまえはその為に残るんだろ?信じていいんだろ?北の大地で、オレはやることがある。ここから先は、三王もおまえも助けてやれねーんだ」
「父さん?」
不穏なモノを感じて、レイシの瞳が鋭さを増した。離そうとしたリティルの腕を、今度はレイシが強く掴み返した。
「死んだりしねーから、大丈夫だ。三王には、インジュとシェラだ。インジュは不安だけどな」
それを聞いて、一応納得したレイシは、リティルの腕を放した。
「インジュは大丈夫だよ。兄貴顔負けの毒舌で、何とかやるよ。オレの相棒はさ。父さん、何するのか教えてよ。オレのこと信じてくれるならさ」
「この大陸の根幹が、ここ始まりの泉の真下にあるのは知ってるな?北の大地には、ここから繋がった力の川の終点があるんだよ。その終点から力を逆流させて、根幹に力を与えるんだよ」
「ここから力は送れないの?ここが、根幹なのにさ」
「……ここは……血まみれなんだ。ここからじゃ根幹まで、オレの力は届かねーんだよ」
苦しげなリティルの瞳を見て、レイシは、父の目には、この穏やかに緑に包まれた大地の、本当の姿が見えているのだと感じた。
「父さんには見えてるの?大地の穢れが?」
「大地だけじゃねーよ、魂の穢れも見えるぜ?」
リティルは、静かで優しい笑みを浮かべて、レイシを見た。
「オレは?」
「はあ?」
リティルが瞳を僅かに見開くのを見て、レイシは慌てて視線を逸らした。
「いい。オレ、今、変なこと聞こうとしちゃったよ……」
「綺麗だぜ?」
「え?」
リティルから逸らした視線を戻すと、リティルがジッと、レイシの体の中心辺りを見つめていた。
「おまえは、銀色に燃える太陽みてーな光だよ。暖かい光だぜ?インファとノインも暖かいけどな、二人とも違うんだよなー」
マジマジと観察され、くすぐったいことを言われ、レイシは顔が熱くなるのを感じた。
「うわあ!もう、いいよ!もの凄く恥ずかしいって!そんなこと、よく言えるよね」
本気で照れるレイシに苦笑して、リティルは言った。
「ああ?今更じゃねーか。何度も言ってるだろ?おまえは、呪われても穢れてもいねーって。もういい加減、自分を許してやれよ。オレのことは、恨んだままでいいからさ」
「……父さん、ホントにオレに恨まれてるって思ってる?」
ジロッと、レイシはリティルを睨んだ。
「おまえの心はおまえの物だろ?晒さなくていいんだぜ?おまえの憎しみを、オレは消してやれねーしな」
恨みをぶつけるべき相手を、永遠に失ってしまったレイシの心から、その青い炎が消えることはない。風と共にいるかぎり、その瞳に焼き付いてしまった光景が、消えることはない。
レイシの産みの親が、リティルを刺したその光景――
レイシの心を砕き、その瞳から温度を奪った光景。あのとき、緊張を解いてしまった自分自身を、リティルは許せない。超回復能力で、傷の癒えるリティルは、傷つくことに無頓着だった。早く、あの場を離れるべきだった。あの場で、あの相手に、オレは傷つけられてはいけなかったのに!大事なところでリティルは、取り返しのつかない失敗を、してしまった。
もう、レイシは、産みの親とぶつかり合うことも、わかり合うこともできない。血を呪うレイシの憎しみは、行き場を永遠に失ってしまった。リティルは、レイシを救えないのだ。
「父さん」
「ん?」
「……もう、いい……」
「ハハ、レイシ、憎しみの反対は愛なんだよ。ハハハ、ありがとな、レイシ」
おまえ、ひねくれてるからな!と、リティルはわかったように笑った。
「!……むかつく」
フイッとレイシは、泉へ舞い降りて行ってしまった。
「レイシ、ごめんな」
リティルは右手に風を集めると、水晶球を取り出した。
「インファ、ノイン、相談してーことがあるんだ」
湖の周り、山間の僅かな平地に、簡易的だが村の形を成し、人々は穏やかな日常を築きつつあった。しかし、リティルのもう一つの目には、人々のいる大地に赤黒く染みついた、血の痕が見えていた。こんな場所に長くいれば、タイガ族が地に落ちたように、皆の心が穢れていってしまう。
そして再び――
リティルの瞳は、ある決意を秘め、光り輝いていた。
翌日、三王と彼等を導く、三人の精霊が北の大地を目指して旅立った。
北の大地が今まで戦火に見舞われなかったのは、この場所が険しい山岳地帯で、しかも雪に閉ざされていたからだ。
『オレもここでお別れだ。インジュ、みんなを乗せて飛んでくれ。シェラ、お守り頼むな』
金色のオオタカに化身したリティルは、一団を抜けることを告げた。
「レイシに続き、おまえもか?北の大地にいる精霊は、おまえ達の家族だろう?本当に戦っていいのか?」
『あいつに会えばわかるよ』
ザリドの言葉に、リティルは危機感なく答えた。
『ランティス、約束は守るからな』
「リティル、本当にこれで?」
『ああ、サヨナラだ』
リティルのあっけらかんとした声に、ランティスは込み上げてきた感情のまま、詰め寄っていた。取り繕っていてもしょうがない。彼が終わりだと言えば、どんなに追いすがろうとも、二度と会えないのだから。言わずにおくなんて、そんな大人な対応、ランティスにはできなかった。
「……っ……リティル!いったい、あなたは何をするつもりなんだ?どこに行くんだ!カルシエーナのところまで、一緒に行くと、言ったのに!オレが間違いを犯したあの日から、レイシも、今のあなたと同じ瞳をしているんだ。いったい、何を!あなた達は、何をしようとしているんだ!」
答えてくれ!とランティスは詰め寄った。しかし、オオタカは感情も、その表情さえ読ませてはくれなかった。
『精霊の仕事だよ。じゃあ、もう行くぜ?時間、ギリギリになっちまったからな!』
じゃあな!と笑いながら、オオタカはその翼を、一度大きく羽ばたいて舞い上がると、猛スピードで飛んでいってしまった。
「シェラ!」
リティルに拒絶され、ランティスは冷めやらぬ感情のまま、風の王妃に視線を向けた。
「リティルは、誰にも止められない風の王なの。共にいるわたし達は、ただ、あの人の想いを守るのみだわ」
シェラは気丈に、ランティスを見返した。その瞳にはただ決意しかなく。他の感情は押し殺されて、読めなかった。
「インジュ、おまえは聞いとらんのか?」
危機迫るランティスの様子に、ザリドは相棒に尋ねてみた。
「聞いてても、教えません」
プイッと、インジュはザリドから顔をそらした。
『さあ、乗ってください。カルシエーナが待っていますよ?』
インジュは皆が楽に乗れるほど巨大なオウギワシ化身し、せき立てるようにそう言った。
「本当に我々は、カルシエーナのもとへ行くだけなのだな?」
「ええ。もう、わかっているかもしれないけれど、わたし達は始めから一つよ。郷を襲い、人々を殺したカルシーとケルゥは、わたしの大事な家族よ」
「それなぁ。それにしては、リティルは戸惑っていたぞ?」
ザリドは、インジュとタイガ族の戦闘の直後襲ってきた、ケルディアスのことを思い出していた。あのときのリティルは、かなり焦っていたように見えた。
「ああ、レイシ殿も驚かれていたな」
ザリドの言葉に、アルディオも同意した。坑道に生き埋めになったレイシは、上空に現れたケルディアスを、あんたの相手はオレだと、必死に引き留めようとしていた。あれが、演技だとはとても思えなかった。
「敵役のあの子達を操っているのは、風の城にいる、わたしの息子と補佐官よ。雷帝・インファ。風の王の副官よ。リティルは息子とは繋がっていないわ」
「本気の茶番だと、リティルは言っていた。シェラ、風の城の査定は済んだんだろう?教えてくれ!リティルとレイシのあの瞳の意味を!」
『知ってどうするんです?あなたは、リティルとレイシの信頼を裏切っちゃったんです。獣人を待ち伏せして争うなんて、なんてことをしてくれたんですか!あれじゃあ、台無しです』
だから、リティルが!と言いかけて、ザリドがそれを止めた。リティルとレイシが告げずにいることを、今ここで言わせてはいけないと、そう思ったのだ。
「インジュ、やめろ。リティルには隠したところで無駄だ。全部暴かれる。レイシは気づいていたぞ?ランティス、あのときリティルは、おまえのところにいたんだろう?」
ランティスは頷いた。頷くことしかできなかった。
「リティルは、容赦なくしたたかな王だ。おまえが獣人を恨んでいた時点で、どういう形であれ、おまえと獣人はぶつかる運命にあった。多少、度肝は抜かれたがな」
ザリドが言うように、リティルはランティスの闇を暴こうとしていた。だが、暴いてしまったのはレイシだった。インジュの所にいたリティルは、始まりの泉連合軍と、獣人を戦わせるつもりはなかった。あれは、リティルの予想を越えた出来事だったのだ。
「ザリド殿、重ねて申し訳なかった。わたしの弟が、何かを企んでいることは、わかっていたのだが……」
「それはもういい。おまえはレイシに踊らされたんだ。あいつは本当に、子供の精神年齢なのか?恨んだままでいいなどと、中々言えることではないぞ?」
普通は、恨むな、恨みなど捨てろと言わないか?と、ザリドは皆の顔を見回した。
「レイシは、思春期の青年よ」
「青臭さはあるが、あの演説、子供にはできんぞ?見た目と中身が合っているのは、インジュだけか」
『あ、今ボクのこと、侮りました?侮りましたよね?下に落としますよ!』
「……おまえは、二十過ぎの大人の容姿だったな。レイシと入れ替わってるんじゃないのか?」
ザリドの隠さない本音に、インジュが吠えた。
『もおおおお!ボクが気にしてることを!あの人は風の王の息子なんです!ボクが敵うはず、ないじゃないですか!』
怒るオウギワシの様子に、その背に乗る皆は苦笑した。
緊張感のないインジュの様子に、いくらか和んだが、突如強烈な風が吹き下ろしてきた。インジュは慌てて体勢を立て直し、自分に従う風を巡らせてやり過ごした。空は雲一つない晴天で、吹雪など起こりようのない天気だった。
「リティル……」
シェラが夫の名をつぶやいた。彼女の目線の先には、聳える山の頂から吹き上がる金色の風が、柱のように空に立つ姿があった。
三王の一団から離れたリティルは、北の大地の宮殿へ一足先に来ていた。
「お、リティル」
「よお、ケルゥ久しぶり」
玄関ホールに足を踏み入れたリティルは、ケルゥと遭遇していた。
「兄ちゃんから聞いたぜぇ?大丈夫なんかぁ?」
「ああ、フロインに、手伝ってもらう手筈になってるしな」
リティルの曇りない笑顔を見て、ケルゥは彼の行動を止めることはできないんだなと、悟った。
「……オレ様は、おめぇに従うけどよぉ。レイシの了解、取ってるんかぁ?」
「大地の礎使うことは、さすがに言ってねーよ。ここから、根幹へ向かって力を流すって、伝えてきたぜ?」
ケロッとした顔でリティルは答えた。ああ、レイシが知ったら怒り狂うなと、ケルゥは宥め役は誰がやるんだ?とゲンナリした。
始まりの泉の木の上で、レイシと別れたリティルは、風の城と連絡を取っていた。
副官と補佐官の了解を得る為だ。
水晶球に話しかけると、インファはすぐに答えた。
『父さん、仲良しですね。羨ましいですよ』
「ハハ、帰ったらおまえもハグしてやろうか?」
『その権利、ノインに譲るので、父さんが抱きしめられてください』
冗談はさておきと、インファは笑いを収めた。すぐに察してくれるインファには、本当に感謝しかない。そして、彼はリティルの無謀を大抵許してくれる。そして、全力でサポートしてくれる。
『父さん、やるつもりですか?』
「インファ、何年なら許せる?」
『一分一秒許しません!と言いたいところですか、五年なら何とかなりますかね』
現実的な年数だった。副官と補佐官がいてくれるとしても、リティルは風の王だ。輪廻の輪を守る王の不在は、世界にとってあまりいいことではない。故に、風の王の代替わりは十四代目まで、先代が死ぬと、わりとすぐに次代が目覚めていたほどだ。
「五年か……根幹に行ければ、それくらいで何とかなるか」
リティルは、険しい視線を、眼下の始まりの泉へ向けた。リティルの目には、根幹は、魔界か地獄か?と思えるくらい、赤黒くドロドロに見えた。その穢れは、獣人の暮らしていた谷など、目ではないほど酷かった。
『リティル、フロインも連れて行け。彼女が共に行けば、確実に浄化できる』
すかさずノインが、妻を差し出す提案してくれた。そんな補佐官に、リティルはただただ頭を下げるしかなかった。リティルと共に大地の礎を使えば、フロインもしばらくこの地に留め置かれ、ノインと離れ離れになってしまうのだから。
「悪いな、ノイン、そうさせてもらうぜ」
大地の礎を使っても、根幹に到達できなければ意味がない。リティルは、あの穢れと戦わねばならなかった。風にも浄化能力があるが、その能力は決して高くはない。一人では厳しいなと、思っていたのだ。
『気にするな。フロインの一番はいついかなる時も、おまえだ。妻はそういう女だ』
「フロイン、女に昇格か?やっと想いが通じてよかったなー」
夫婦になっても、フロインの片思いだからなーと、リティルはからかった。
『可愛いオウギワシだ。しかしリティル、レイシに今度こそ殺されるが、いいのか?』
「あいつに殺されるなら、本望だな!まあ、オレ、死なねーけど。レイシのヤツ、面白いくらい怒るだろうなー」
あいつには使うなって釘刺しておいて、これだからなと、リティルは苦笑した。
『面白いですけど、不憫です』
レイシはオレより真面目ですよ?とインファはため息交じりに、釘を刺した。
しかし、どうにもならないことは確かだった。風の城にいる精霊達の中で、大地の礎を使い、この穢れきった大陸を短期間で救えるのは、風の王・リティルと、風の踊り子・インリナスだけだった。インリーはリティルにやれと言われれば、笑顔で頷いてしまう娘だ。リティルよりも確実に青い焔を救えるとしても、レイシから引き離すことは、二人の父親としてできなかった。
「しかたねーだろ?これしかねーんだからな。もう、査定するまでもねーだろ?」
滅亡で決まりだぜ?と、リティルは言った。そもそも、根幹――始まりの泉の穢れを見た時から、リティルは滅亡しかないことを感じていた。脳筋ではあるが、一国の王であるザリドが、あんなに攻撃的になる姿に、知識としてはあったが穢れの恐ろしさを痛感した。
『残念ながら。時間が足りません。あと二百年ぐらいあれば、何とかなりましたけどね』
獣人への憎しみは深い。コウディオの言ったことは事実だ。今はブレーキとなり得るレイシがいるが、決着がつけばレイシはここを離れて、二度と関われなくなる。その後、コウディオ一人で、この穢れた大地で、人間と半獣人種の怨嗟をどれほど押さえ込めるか、そんな賭けを許すほどインファは甘くはない。今のままこの大地に力を与えても、再び戦火にまみれることは目に見えていた。
始まりの泉での、憎しみの泉連合対獣人種戦を、回避できなかった時点で、青い焔の滅亡は決定した。
これでも、インファは待ったのだ。かつては戦っていた、人間の代は代わっていても、半獣人達にはまだその記憶がある者がいても、二つの種族は和解できたのだから。
レイシは最善を尽くした。彼は止めたが、始まりの泉連合軍から立ち上った、青い怨嗟の焔の姿を、インファ達は見た。
インファとノインは、風の王・リティルと同じ決断を、その時点で下した。
それを覆したのは、風の王の我が儘だ。
根幹の穢れが、皆の心を憎しみへと傾けた。始まりの泉の穢れは侮れない。獣人を確かに憎んでいなかったはずのランティスの心に、憎しみを芽生えさせ、コウディオの背中を押した。
なら、それを浄化し、その後どうなるのか、見てみないか?見たいだろ?見たいって言えよ!もう、ほとんどゴリ押しだ。
崩壊の始まった大地の崩壊を止め、穢れを浄化し、なおかつ癒やすことを同時に行うには、もう、大地の礎でその場に行くしかなかった。
リティルはそれを、自ら行うことを決めた。
五年。インファは、この地に争いが起こらないように、導かねばならない。もし争いが起こったら、リティルごと大地は崩壊してしまうのだから。だがおそらく、争いは起こらないだろうなと、インファは思ってはいた。
滅亡を決定しておいて、矛盾しているとは思うが、インファは、穢れきった始まりの泉の上で笑う彼等を、信じていた。リティルが、穢れさえ何とかできればと、彼等を信じているように。
『縁が結ばれなければ、そのまま海中に没していた。風の王の心を動かしたのだ、レイシとインジュを褒めてやらねばならないな』
「まあな。レイシのあの言葉を聞いちまったら、父親のオレが助けるしかねーじゃねーか。レイシがやったら、数百年かかるぜ?何とかなるまでに」
アルディオの子孫に会いたい――。滅亡させてしまっては、レイシのささやかな願いは断たれてしまう。迷っていたリティルの背を押した言葉だった。
レイシは思い詰めていた。かえらずの森が崩れ落ちるのを感じたら、王の命に背いて大地の礎になってしまうことだろう。レイシはまだまだ詰めが甘いのだ。始まりの泉から大地の礎を行えば、リティルでさえ正気を失う苦痛を受けてしまう。そこまでの理解はレイシにはない。北の大地からでも無謀ではあるのだが……。
『レイシが強行したら、力尽くで止めますから、父さんは心置きなく大地の礎になってください。北の大地からなら、穢れの苦痛を受けなくてすみます。オレがたまに様子を見に行きますから、寂しがらないでくださいね』
「寂しがるかよ!……インファ、定期的に来てくれよ?暇すぎて発狂するからな」
リティルの弱気な顔に、インファはニッコリ微笑んだ。
『了解しました。順番に派遣しますから、五年、耐えてください』
「じゃあな、オレが不在の五年、なんとか頼むぜ?」
『了解しました、風の王』『任せておけ、我が主君』
二人の後押しを得て、リティルは始まりの泉を見下ろした。
「感謝しろよ?この烈風鳥王が犠牲になってやるよ」
リティルは人々の営みを見下ろしながら、晴れ晴れと笑った。
始まりの泉――見れば見るほど穢れた大地だ。ここに、こんな穢れをもたらしたのは、カルシエーナの先代の破壊の精霊であり、ケルゥの双子の姉だったセビリアだ。
彼女は、壊れていく様を見ているのが大好きだった。繋いだ手を、断ち切ることが快感だった。
彼女の世界を呪う孤独に、リティルは挑まねばならない。リティルとは相容れない、精霊の残した、心に。救ってやるとは傲慢なことは言わない。消し去って、オレは勝つ。リティルは、風も吹かない空を見上げた。
「リティル、犠牲になってやる、じゃ、ないです」
「なんだ、インジュ聞いてたのかよ?」
バサッとオウギワシの大きな翼を一度はためかせて、インジュが舞い降りてきた。不満そうな彼の顔から察するに、話をすべて聞いていたのだろう。
「どうして、命じてくれないんです?大地の浄化なら、ボクが適任じゃないですか。ボクの固有魔法、霊力の泉ですよ?フロイン連れていくなら、リティルの代わりにボクでもいいじゃないですか!」
霊力の泉は、グロウタースの民で言うところの魔力が、無限に湧くという能力だ。確かに、フロインも持つ、インジュの能力は、大地の礎にピッタリだった。だのに、リティルは首を横に振った。
「おまえには無理だ。オレに言われなくても、わかってるだろ?おまえは、この大陸のこと、嫌いだろ?大地の礎を使うには、救いたい気持ち、慈しみ、愛が必要なんだよ」
セビリアとの精神戦だ。慈しみの塊であるインリーか、風の王であるリティルしか、残念だが彼女に挑めない。オレ以外の誰も挑ませないと、リティルは決めていた。
「ボクじゃダメなんです?リティルの盾なのに!リティルを守りたいじゃダメなんです?リティルを想えば、ボクはなんだって!」
インジュは、この大陸が大嫌いだった。憎しみと悪意が渦巻いて、苦しんでいる。聞こえる……あいつを殺せと囁きかける怨嗟の声。インジュの中の、殺戮のオウギワシが悦びそうな、冷たく暗い声だ。耳を塞ぎたい。始まりの泉は、奪えと語りかけている。ここは綺麗ではない。表面上はとても綺麗で、まるで、ボクみたいだとインジュは思っていた。
「……だったら、柱になるなら、ボクがお似合いなんじゃないです?この穢れとわかり合って、共に逝けるんじゃないですか?リティルが、苦しんで傷つくのがわかっているのに、盾のボクを、あなたの苦痛を引き受けるはずのボクを、あなたはいつも……守っちゃうじゃないですか!ボクの存在を、全否定してるんですよ!わかってるんですか?殺せないボクは、刃になれない。これ以上、刃はいらないというあなたを守るには、盾しかなかったんです。それもダメなんです?日だまりが好きで、すぐに怖がるボクは、あなたの助けに、なりたいという願いから産まれたのに、助けになれないんです?」
ボクは、まだ役立たずなんですねと、インジュは恨めしそうに俯いた。
リティルは、苦笑した。彼は、リティルの継承した原初の風の四分の一。リティルの中にあったのは、とても短い期間だったのに、オレの欠点の、自己犠牲を受け継いじまったのかよ?と思った。
――でもな、インジュ、オレとおまえの自己犠牲の決定的な違いは、オレは生きることに貪欲だってことだぜ?おまえみてーに、綺麗に全部賭けられねーんだよ
だから、おまえにはやらせられない。それを、今は教えてやらない。もう少し他と関わって、学んでほしい。リティルは、まだまだ発展途上の、最強の盾を見守った。
「インジュ、おまえを犠牲にできねーよ。おまえは、オレの至高の宝石だ。誰にもやらねーよ」
リティルの瞳が、この上なく優しく微笑んで、インジュの頭を撫でた。
「子供扱い、しないでくださいよ!ボクはこれでも、最上級精霊です。風の中で、リティルの次に強いんですよ!リティルがいなくなったら、みんな困ります。ボクなら、誰も困りません!リティル、命じてくださいよ。ボクを、信じてくださいよ!」
――インジュ……誰も困らないなんて、いうなよな……
戦い続ける風の城に、戦う力と同等に必要なモノは、癒やしだ。
昔は、シェラが一人で行っていたそれを、今はセリアと、インジュも担っている。
本来は、インリーもそれを担うはずだった。だが、彼女はレイシだけの癒やしになることを、選択してしまった。それを、リティルは咎める気はない。レイシには、それくらいの護りが必要だからだ。
癒やしのプロであるシェラが当たり前にできることを、セリアとインジュは無意識に皆に振りまいてくれている。風の城も人数が増えた。シェラ一人では、皆の疲弊した心を癒やしきれない。それを、この親子はいとも簡単に癒やす。
シェラと比べると、がさつで騒がしいセリア。
日だまりが好きで、応接間のソファーで、気持ちよさそうな顔で、ボーッとしているインジュ。
殺人鬼のくせに、インジュの魂の日だまりは、皆に安らぎを与えていた。
――インジュエル。おまえは、殺し続ける風の城を、血の呪いから守る最強の盾だ!そのこと、早く自覚してくれよ?教えてやらねーけどな
「信じてるさ。オレがいない間、風の城を守ってくれるんだろ?オレの大事な場所を、大事な人を、おまえは、その両手で守ってくれるんだろ?インジュエル、おまえがすべきなのは、オレの身代わりじゃねーよ。オレの守りてーものを、オレの代わりに守るんだ。おまえの日だまりみてーな癒やしで、怖いくらい的確に弱点見抜く、オウギワシの瞳で、守ってくれよ?風の王・リティルの最強の盾!」
リティルは、インジュの手に両手を重ねた。
「狡いです……狡いですよ!ボクのこと、持て余してるくせに!」
インジュはわあっと泣き出した。そんなインジュを、リティルは抱きしめてやった。
「そんなわけねーだろ?オレ、殺さない殺人鬼のおまえも好きだぜ?」
本当に狡い!とインジュは思った。もう、リティルの決定を、受け入れるしかない。リティルの願う通りに、殺人鬼も総動員して、五年、リティルの代わりに風の城を守る。もうそれしか、インジュにできることはなかった。
「リティル……!絶対戻ってきてくださいよ?絶対ですよ?でないとボク、殺しちゃいますからね?」
「ハハ、そりゃ絶対帰らねーとな。インジュ、殺さない殺人鬼を否定してやるなよな。あいつもただ、愛されたいだけなんだぜ?オレは好きだ。余裕の強さがえげつなくて」
「それ、褒めてます?」
「当たり前だろ?オレ達風だぜ?優しいだけじゃダメなんだよ」
そんなこと言って、リティルは大半優しいじゃないですか!とインジュは、言葉を飲み込んだ。
リティルの小さな体を抱きしめながら、インジュは、やっぱり離れたくないと思った。
ケルゥと別れ、川の終点を目指していたリティルに、ゾナが並んだ。
「ゾナ、まだいたのかよ?」
「カルシー嬢を放っておけなかったのでね。目をつぶりたまえよ、風の王。ここにいたソラビト族はルディルに預けておいた。かえらずの森に向かう許可をくれたまえ」
「そっちの面倒も見てくれるのかよ?悪いな。インリーが説得してるけどな、あいつには今のところ移動手段がねーからな。早く気がつけよ!って話なんだけどな」
困ったものだとリティルは笑った。
「レイシの隣。かね?そんな魔法の存在に、いつ気がついたのかね?」
「ああ?あいつがまだ、未熟だった頃だよ。レイシが小さいころ、行方不明になったことがあってな、インリーのヤツ、レイシの隣、使って助けたことがあるんだよ。あいつらは、あの時からずっと繋がってるんだ」
リティルは、いつか自覚して、ちゃんと夫婦になると思ってたと、穏やかに笑った。
「ゾナ、忘れてる魔法の思い出し方、なんかねーか?」
「未熟な頃に構築した魔法……子供の頃に描いた絵を、もう一度描けと言っているようなモノだね。しかし、いいのかね?君が大地の礎を使えば、レイシは何かしら行動を起こす。インリー嬢がいなければ、命の危険すらあるかもしれないのだよ?」
「あいつ、オレにそっくりだからな」
「君よりたちが悪い。君は自虐的だが、決して命は失わない。だが、レイシは簡単に命を賭けてしまうよ」
あまり君に離れてほしくないと、ゾナは言った。リティルはお気楽に、レイシもインジュも、しょうがねーなと笑った。
「それだけ人間なんだよ。オレ、風の王だからな。死ぬわけにはいかねーんだよ。もっと、インリーにしっかりしてもらいてーんだけどな。レイシが手放せなくなるくらいな」
うーん。想像がつかない。インリー、どうしてあんなに子供っぽいんだろうな?とリティルは疑問だった。インファの色気、インリーにあげればいいのにと思ってしまう。
「それは願っても無理なのではないかね?ふむ、ともあれインリー嬢にくっついていてもらう方が、現実的だね。リティル、インリー嬢に話をしてみようではないか」
「そうしてくれると、助かるぜ。オレがいると、二人とも頼っちまうからダメなんだよ」
「君には、レイシも案外素直なのだね」
「まあな。本人はそのつもりねーと思うけどな」
「君の反抗期を思えば、レイシは可愛い思春期だ。もっとも彼は、永遠に思春期だがね」
「それ、もう言うなよな。ノインとセリアが知りたがるからな」
「いっそ晒してやればいいと思うがね」
「オレ、今更二人に軽蔑されたくないぜ?」
「過去は消えないものなのだよ。いいではないか、慕われているのだから」
今更知ったとしても、君を嫌うはずがないと、ゾナは知的に笑った。
「ハハ、おまえと再会したら、もっと喧嘩ばっかりかと思ってたぜ?」
再会?何百年居候していると、思っているのかね?とゾナは苦笑した。そうだねとゾナは微笑みながら、リティルの言葉に頷いた。だが、とゾナはリティルの瞳を見返した。
「大人になった君と、どんな喧嘩ができると言うのかね?君は穏やかになりすぎて、できる喧嘩などないではないか」
「ハハハ、オレが穏やか?インファが聞いたら、ため息つかれるぜ?オレは今も昔も、猛風だよ。穏やかだったら、こんな手使わねーよ」
それもそうかと、ゾナは知的な静かな笑みを浮かべた。
「リティル、オレは君を見舞えないが、健やかでありたまえよ?」
「心配するなよ。狂ったりしねーから。思春期と温室育ちのこと、頼むな?」
「任せたまえよ。それくらいの仕事は請け負おう」
「頼んだぜ?大先生」
うなずき、ゾナは二頭のドラゴンを呼び寄せるとその背に乗り、瞬間移動するかのような速さで飛び去った。実際に、彼は瞬間移動だ。その距離を移動する為にかかった時間を、ゼロにしてしまうのだから。
城の中核を担う大人な精霊達が、リティルの決定に賛同してくれるのはありがたい。彼等には、言いたいことも多くあるのだろうが、その大半を胸に秘め、突き進むリティルの背を押し守ってくれる。だからリティルは、未だに生きていられる。守りたいモノを守りながら。
「フロイン、頼むな」
そんなゾナを見送りながら、リティルは身の内にある至高の宝石の名を呼んだ。
『ええ、任せて』
フロインは、リティルから立ち上ったキラキラ輝く金色の風から具現化し、なんの躊躇いもなくリティルに微笑みかけた。そんな彼女を、眩しそうに見上げてリティルは微笑んだ。
「ノインから引き離してごめんな」
フロインはゆっくりと首を横に振った。
『あの人は、わたしを誇りに思ってくれるわ』
「愛してるなー」
『もちろんよ。わたしをリティルの為に差し出せるあの人を、わたしも誇りに思うわ』
「敵わねーな。ちゃんと話したのか?」
『ええ。逢えてはいないけれど……』
「時間取るぜ?」
『いいわ……あの人は平気でしょうから』
そっと視線を伏せる女神に、リティルは切なさを感じたが、ノインのことだ、ケロッとしているのだろうなと、クールな彼女の夫を思った。
「そういえば、ノインが君のこと、女だってさ」
フロインはえ?と顔を上げた。その瞳が驚いていた。うん、ノインのヤツ、ちゃんと心も育ててくれているんだなと、リティルは思った。フロインは、リティルの中にある原初の風から、自ら具現化したリティルの守護鳥だ。人型を取れるまでに成長してはいるが、中身はまだまだ不完全で、ノインにはことあるごとにオウギワシ扱いされていた。
「行ってこいよ、フロイン。オレが潰れる前に、戻ってきてくれたらいいからさ」
フロインはコクリと頷くと、風の鏡を掲げて城へ戻っていった。
「悪く思うなよ?おまえがなんと言おうと、フロインはおまえにベタ惚れだからな」
川の終点のある部屋の扉を開けると、カルシエーナが待っていた。
「お父さん!」
駆け寄ってきたカルシエーナは、リティルに抱きついてきた。
「カルシー、泣く必要なんてないんだぜ?」
「でも!大地の礎なんて……」
聞いてない!とカルシエーナは泣いた。
「オレの場合、五年だぜ?そんなの縛られてるうちに入らねーだろ?」
「痛くない?お父さんのそういうところ、信じられない!」
お父さんが痛かったら嫌だ!と、カルシエーナはさらに泣いた。
「大丈夫だ。ここは一滴の血も流れてねーからな。フロインも一緒にいてくれるんだ。安心だろ?」
「ノイン、寂しいな。ノイン、オレはどう頑張っても一番にはなれないって、そう言ってたから」
それは知らなかった。だったら、霊力の交換ちゃんとすればいいのにと、思う。ノインの中にはどういうわけかフロインの霊力があるが、フロインの中にノインの霊力はない。二人は、レイシとインリー夫婦と同じ、清い仲だ。
ノインに、フロイン受け入れたんじゃなかったのかよ?と突いてみたが、彼には、何を言っているんだ?という目で見られてしまった。そして、必要ないだろう?とこれまた、何言っているんだ?と言いたげに言われてしまった。
本当に、不思議な夫婦なのだ。風の騎士夫婦は。
「はあ?ホントかよ?オレ一人でやろうかな」
「ダメだ!もういっそ、ノインも道連れにすればいい!」
「ハハハハ、優秀な補佐官にまで休暇やれねーよ。カルシー、父さんが存続させてやるから、もう、気に病まなくていいんだぜ?」
「……根幹の穢れは、セビリアが導いたモノだ。まだ何か、仕込んでるかもしれない」
セビリアは、初代の破壊の精霊だ。カルシエーナは、狂ってしまった彼女を憂い、破壊の力のすべてを奪い取って、破壊の精霊を継いだのだ。ここに戦乱をもたらしたのも、セビリアだった。彼女は始まりの泉だけを残し、この大陸から水を奪った。
生き残りたくば、中心の泉を賭けて争え。思惑通りに戦争を始めたこの大陸を、笑いながら見ていた。
カルシエーナが気に病むのは、止まらない戦争はセビリアのせいなのでは?とも思うからだ。カルシエーナは、リティルに、セビリアのせいでこれ以上傷ついてほしくなかった。
セビリアは、リティルの父である十四代目風の王・インが、死ぬきっかけを作った精霊でもある。リティルが父を思い、風の城にある歴代風の王の肖像画が飾られた部屋で、たまにインに話しかけていることを知っている。ただの絵だ。話しかけても、答えが返ってくることはない。それでも、リティルはまだ逝ってしまった父に会いたいのだ。
セビリアがいなければ、リティルは生まれることもなかったが、けれどもそれでも、血も存在も繋がらないリティルを、父と慕っているからこそ、当たり前のように、そばにいてくれることが、どんなに支えになるか知っている。
――インは、オレにとって指針だからな。傲慢になってねーか、正しいと、言えることをやれてるか、父さんと向かい合って、確かめてるんだよ。インはちゃんと、ここにいる。だからな、大丈夫なんだぜ?
インを殺してしまってごめんなさいと、言って泣き出したカルシエーナに、リティルは困ってそう言った。父は今でもこの心にいるから、大丈夫なんだと、リティルは胸に手を当てて笑っていた。そして、殺したのはセビリアで、君じゃないとも言ってくれた。
リティルから体を離したカルシエーナは、そのカラスの濡れ羽色の髪を一房切り落とした。それをそっと両手の平で包み、フワリと開くと、手の平には、雫型のガーネットのピアスが乗っていた。
「お父さん、もらって。わたし、お父さんが大好きだ。だから、本当はこんなことやめさせたい。でもできないから、せめて、助けたい」
「……気持ちは嬉しいけどな、これ、ケルゥに怒られないか?おまえら、魂分け合ってねーだろ?」
「ケルゥとはそんなことしなくても、魂で繋がってるから、いい。ちゃんと、話してる」
カルシエーナは、半ば強引にリティルの右耳にピアスを飾った。穴のない耳たぶに、チクッと小さな痛みがあった。
「そっか。インリーとレイシにも見習わせてーな」
「二人も、魂分け合う必要なかったと思う」
「それじゃあ、レイシはインリーから離れるしかねーじゃねーか」
「そう?レイシの中にインリーのゲートがあるぞ?初め、何か傷なのかな?とも思ったが、あれはゲートだ」
「ゲート?」
「レイシが、何が違和感があるって、だから調べた。あれはインリーのゲートだ。かなり古くて、小さかったけど」
あれは、お父さんの中にある、お母さんが開いたゲートと同じ、一心同体ゲートだと、カルシエーナは言い切った。
花の姫の固有魔法・一心同体ゲート。それは、生涯ただ一人の肉体に開くことのできるゲートで、彼女の固有魔法である無限の癒やしを、離れていても受けることができる。それだけでなく、会話も、ゲートを通じて、彼女以外の精霊からの、力の受け渡しも可能にする。生涯たった一人にしか開けない特殊なゲート故、それを持っているだけで、婚姻を結んだとみなされる。シェラと婚姻関係にあるリティルの中に、開かれているゲートがそれだった。
インリーは花の姫ではないが、シェラの血を色濃く継いだ娘だ。ゲートを操る力があったとしても、不思議ではなかった。
「インリーのこと、オレ、侮ってたぜ……。レイシは知ってるのか?」
「隠すことじゃないから、言った。覚えがないって、戸惑ってた。お父さん、いつから二人は夫婦なんだ?」
「それでいくと、レイシが九歳、インリーが九年生きたときからだな。カルシー、城に帰ったら、レイシをこの場所に連れて行ってやってくれねーか?」
リティルはツバメを作ると、カルシエーナに託した。
「ここ、何があるの?」
「ワインセラーだよ。レイシが覚えてるかどうかわからねーけど、あのままごと夫婦には大事な場所なんだ。カルシー、あいつの背中押してやってくれよ」
カルシエーナは頷くと、もう一度リティルを抱きしめて、絶対に傷つかないでと、言葉を残して、部屋を出て行った。
リティルは、そんな娘の背中に優しい笑みを投げて見送った。
この宮殿を作ったのは、インジュだ。インジュはここに川の終点があることを感じて、この何もない部屋を作ったらしい。彼は薄々、誰かが大地の礎を使わなければならないことを、感じていたのかもしれない。この部屋は、とても居心地がいいのだ。犠牲になった家族の誰かが快適に過ごせるようにという、気遣いが感じられた。
リティルは、窓を見上げた。
床から天井まである丸いアーチの窓からは、太陽の光が余すことなく差し込んで、とても明るい。中心から円を描くタイルの床には、四大元素を表す紋章が描かれていた。
レイシが意味もなく、インジュに創造の力を使わせて色々作らせる為か、柱一本一本のデザインまで、かなり凝っていた。窓と窓の間にある見掛け柱は、生い茂る木を模していて、アーチの窓に枝葉が覆い被さるような装飾が施されていた。
ドームの天井には、風の城の皆が化身した姿が描かれていた。
ドームの真ん中にいるのはオオタカで、雄々しい翼を広げて真上からリティルを見下ろしていた。インジュには、オレはこう見えてるのか?と、リティルはそのオオタカを見上げて、くすぐったくなった。リティルの目から見ても、格好いいなと思える姿だったのだ。
リティルは、部屋の中心に立つと両手を床にかざした。床からせり上がるように、一振りの剣が姿を現した。床に刺さり抜けない剣を、リティルは両手で握った。
「セビリア……最後の勝負だ。インの仇、取らせてもらうぜ?」
金色の翼を広げたリティルの姿が、無数のまばゆい光の粒となって、剣に吸い込まれて消え去った。あとには、金色の刀身を持つ、抜けない剣が残されるのみだった。