四章 三つ巴の憎しみ
ケルディアスの突然の襲撃から一夜明け、インジュはザリドの部屋を訪れていた。
「なんだと?大地の崩壊?」
インジュの言葉を聞いて、ザリドは寝耳に水のような顔をしていた。
「はい、そうです」
「大地って、この地面のことだよな?」
ザリドは、木の椅子に座ったまま、ドンドンッと床を踏みならした。
「はい」
「壊れてなくなるっていうのか?」
「はい。あ、信じてませんね?ケルディアスが言っていたの、聞こえてませんでした?人間の国は大地の崩壊で滅びました。リティル情報だと、生き残った人達は、レイシが導いて、始まりの泉です。あ、まだ信じてませんね?」
どうして信じないんですか!と怒りだしたインジュに、ザリドは慌てたが、この大地がなくなると言われても、実感が湧かない。なくなったという人間の国は、どうなくなったのだろうかと、ザリドは想像しようとしたが、どうにも思い浮かばなかった。
「い、いや、信じる!いや……信じたいんだがなぁ……」
信じると言ったものの、やはり、目が泳いでしまった。
郷の被害は小規模で済んだ。戦えない者の多くが戦闘に巻き込まれてしまったが、郷は前向きな空気に包まれていた。
ザリドは、かねてから目をつけていたタイガ族以外の獣人に命を下し、郷の正常化を図っていた。それは、思いの外上手くいっていた。
「見ねーと信じられねーって?」
インジュの背後に、不意に空間の捻れが現れたかと思うと、中から風の王が姿を現した。
「リティル!い、いや、そうは言っていない!」
インジュと戯れていたザリドは、リティルの出現で慌てて居住まいを正した。
もう、彼には頭が上がらない。
ケルディアスの襲撃の後、葬式のような雰囲気になってしまった郷に、リティルは一つのため息を落とすと、いきなり歌い出した。
ソラビト族の歌った歌と、歌詞の違うその歌。風の奏でる歌。
大丈夫だ。前を向けと言われている気がした。
皆の心を一瞬で掴み、リティルはその注目の中、臆することなく、大きな存在感と包み守るような声色で歌い上げた。その中心におかれたザリドと、インジュ。リティルに目配せされたインジュは、リティルの歌を引き継ぐようにもう一度歌った。
生命力の溢れる、生きる力の湧くような歌声だった。
ザリドの目に、この谷の――もう谷と呼べる姿ではなくなってしまったが、この場所に咲き乱れていた花の、その花びらが舞い散る幻が見えた。皆にも見えていたのかもしれない。母の胸にしがみついていた子供達がその手を逃れ、空に向かって笑顔と共に腕を広げる光景が、そこかしこにあったからだ。
――獣人達よ!この歌声の下、もう一度結束し、共に生きよう!
ザリドは、両脇に立ってくれた精霊二人に言わされていた。魔法にかかったように、その瞬間郷は一つになった。
「信じられねーって顔してるぜ?しょうがねーな、見せてやるよ。インジュ、化身してザリドを乗せてやってくれよ」
『はい。人間の国に飛ぶんです?』
インジュは、すぐさまオウギワシに化身した。
「ゲートを使ってな。開けたままにしておいてやるから、行ってこいよ」
リティルがスッと手の平を何もない空間に向けると、空間が捻れ、ゲートが開いた。インジュはザリドを促すと背に乗せて、ヒラリとゲートへ飛び込んだ。
さて、と、リティルは誰もいなくなった部屋に風を放ち、会話を聞かれないようにすると、水晶球を、手の平に集めた風の中から取り出した。
「どうしたんだよ?ルディル」
『おう、悪いな。ソラビト族のことで、おまえに話がある』
「ああ、オレも聞きたいって思ってたところだぜ。ケルゥに攫えって指示出した、理由を教えてくれよ」
『獣人の所においておくには、いい加減我慢ならなかったからです』
ルディルを遮り、インファが口を挟んできた。かなり怒っているようだが、まあ、そうだろうなと思った。だが、獣人の所にノインが行っていたなら、ソラビト族の現状を、目の当たりにすることは、なかっただろうなと思った。インジュは、取り返しのつかない失敗をしたと、落ち込んでいた。ザリドの前ではケロッとして見えるが、昨夜はあれでも慰めるのに苦労したのだ。インファに、レイシが追い詰められていると、言われなければ、離れられないほどには、インジュは荒れていた。
「ハハ、おまえの査定じゃ、滅びは必須かよ?まあそうだろうな。あれは、男として終わってるよな。殺せねーインジュの代わりに、殺してやろうかと思ったぜ?」
伸した後、股間の大事なもの、切り落としてやろうか、どうしようか、本気で悩んだよと、リティルは暗く笑った。
『インファ、殺しに行く気満々だったよ?』
ルキがニンマリ笑って答えた。
「そりゃ、ノイン、大変だったな」
『いや。オレは何もしていない。ルディル、本題に入れ』
『おうよ。リティル、おまえの契約者と約束してるだろう?ソラビト族の移住先な、このオレの城にしろ』
考えもしないことを言われ、リティルは危うく、水晶球を落とすところだった。
「はあ?ま、待てよ!グロウタースの民だぜ?それは、ダメだろ!」
おまえまで乱心かよ!と、リティルはルディルを疑った。
確かに、ソラビト族はどこへ行っても不遇だろう。しかし、だからと言って、世界を越えさせるわけにはいかない。彼等のルーツは精霊だといっても、精霊ではないのだから。
『まあ聞け!ソラビト族はもう種族的に存続は不可能だ。緩やかに死に絶える運命だ。その最後、誰にも傷つけさせずに、閉じてやるんだよ』
「種族的に……やっぱりそうなのか?ルディル……インジュに、それを癒させるのには、おまえ反対か?」
『賛同できねぇな。他の国やら大陸やらにいたソラビト族も、全部同じような理由で滅んでいやがる。繁殖能力をインジュに作らせても、近い将来滅びる。それは変えられねぇさ』
リティルも気がついていた。このグロウタースに、彼等に優しい場所はない。インジュの固有魔法・想像の創造を使い、彼等に繁殖能力を蘇らせても、ソラビト族が、風の魔女と呼ばれるほどの魔力を秘めていても、争うことをしない彼等は、やがて他種族に狩られ、滅びる。それを先延ばしにしても、怨嗟を募らせるだけだった。
「そうか……インファ、リャンシャンとインジュのこと、見えてるよな?」
リャンシャンは、インジュに希望を見てくれた。リャンシャンの見た希望に、ソラビト族はタイガ族を許し、タイガ族にかけられていた、恨みの呪いを解いてくれた。
インジュとリャンシャン。許される関係ではないが、なんだか、少し、惜しい気がリティルはしてしまった。
リャンシャン――不思議な娘だった。
『ええ。うちの発情オウギワシがすみません。ですが、今回はそういう感情とは違うようなので、オレは何も言いません。ただ、レイシは怒り狂いますよ』
レイシはインジュに過保護だからと、インファは苦笑した。そして、言いたいことはレイシがすべて言ってくれるので、言うことがないとも言って、笑っていた。
「はは、インリーに誘惑させて、うやむやにしようぜ?」
レイシの言い放った、妻にできて幸せと言う言葉、あー、あれは……オレ達にはとても言えないな、と、年長組は思い思いに虚空を見つめた。
『え?レイシの所、行っていいの?』
自分の名が出たことで、インリーが会話に割り込んできた。その表情は本当にいいの?と、期待に明るかった。
「もうすぐ出番だぜ?歌う準備しとけよ?インリー」
『了解~!……でも、お父さん、誘惑ってどうすればいいの?』
ほらきた、初心なバカ娘の可愛い質問!と、リティルは苦笑いを浮かべた。
レイシ……本当にこんな娘でよかったのか?とリティルは、未だに疑問だった。
「セリアに聞いてみろよ」
『セリア?照れ屋だけど、宝石だからわかるの?うん、聞いてみる!』
宝石の精霊には、魅了の力がある。だが、セリアは極度の照れ屋で、夫であるインファが綺麗すぎるという理由で、未だに顔を直視しがたくて、たまに身悶えていた。そんな彼女が、誘惑に詳しいはずがない。明るくて騒がしいインジュの母親は、風の城のムードメーカーだ。今は、夫や皆の邪魔はできないと、応接間にほとんどいない。彼女の明るい声が聞こえないのは、リティル的には寂しい限りだ。
『……父さん、オレの妃で遊ばないでください。困って泣きつかれたら、どうしてくれるんですか?』
あの人は、オレに聞けば何でも出てくると思っていると、インファはため息を付いた。
『ガハハハ、そしたら、インファ、おまえが二人に!教えてやればいいんじゃねぇ?ああ、まあ、リティル、ソラビト族のことはそういうことだ。このオレに任せろ』
二人にとは何ですか?とインファに睨まれながら、ルディルは二人に!だとニヤニヤ笑った。二人のやりとりに笑いながら、リティルは頼もしい太陽王に礼を言った。
「ありがとな、ルディル。最後は盛大に送ってやろうな。五代目・インラジュールの為にもな」
『インジュと、同じ意味の名なんですね』
「ああ、風の宝石だな。インラジュールが産んだ種族を、インジュエルが送るんだ。太陽の城へ移住させたら、教えてやろうぜ?」
そうですねと、インファが少し瞳を伏せた頃、バタバタと騒がしい音が聞こえてきた。
『インファ!インリーが、誘惑の仕方教えてっていうの!もおおお!どう答えたらいいの?』
ほら来た!と、皆は生暖かく雷帝妃を迎えた。ピンク色の髪の、意志の強い瞳の儚げな美人だ。彼女はこれでも、幻惑の暗殺者と呼ばれる、諜報活動に長けた精霊なのだった。
『……セリア、幻惑の名がそのうち泣きますから、色気をもう少し磨きましょうか?』
『えっ!インファが磨いてくれるの?色気』
おや?セリアが珍しくこの手の話題に乗るのか?と、リティルはインファを窺った。とたんに、インファの瞳が、ゾクッとするほど妖艶な甘い光を帯びて微笑んだ。
『オレが磨いて、いいんですか?』
インファの微笑みを受けて、セリアの顔が見る間に真っ赤になった。
『うっ、え、遠慮します!いやあああああ!インファ、冗談だってばぁ!もおおお!やめて!こっち見ないでーーーー!』
傷つきますねと、インファは苦笑混じりに言った。
「ハハハ、これこれ。癒されたぜ?ありがとな、セリア!」
いつも通りのやり取りに、リティルの重かった心がいくらか和んでいた。
『セリアなら、もういませんよ?逃げ足速いですからね、オレの妃は。ソラビト族はフロインに任せることにしました。心配するなとインジュに伝えてください』
セリアを撃退して、インファは何食わぬ顔で本題に戻ってきた。
ソラビト族の移住は、青い焔の茶番が終わらなければ動かせない。攫った手前ケルゥとカルシエーナの所においておかねばならないが、二人の手には余るだろうと、インファは判断したようだ。ノインの妻で、リティルの守護鳥のフロインなら、寄り添えるだろう。
本当に、皆がいてよかったと、リティルは切に思った。
ケルゥに攫われたソラビト族は、当然ながら北の大地にいた。
北の大地は、切り立った雪山で、人の住んでいない唯一の土地だった。その雪山の中腹に、インジュはこの茶番が始まる寸前、城を想像の創造で作り出していた。
太陽の光を柔らかく取り込むデザインになっていて、青い焔を破壊せんとする者の居城にしては、優美で美しかった。ケルゥに、もっと、おどろおどろしく作れよと難癖をつけられたが、これでいいんですと、インジュはなぜか譲らなかった。
ケルゥはソラビト族を、言われたとおり攫ったはいいが、綺麗な人形のようで対応に戸惑った。とりあえず、無駄に数のある、広間の一つに閉じ込めてあるが、彼等は無反応だ。もっと、不安を滲ませたり、こちらに敵意を向けたいしないものかな?と、ケルゥは彼等の心が理解できなかった。
この部屋も理解できない。インジュは何の為に、四角かったり丸かったり、六角形だったりする、何も家具がない部屋を量産したのだろうか。もういっそ一室でもいいんじゃないか?と言ったケルゥに、道中長い方が危機感増すでしょう?と、わけのわからないことを言っていた。
ソラビト族をここへ連れてきてすぐ、インファは風の城の修復や増改築を担当している、召使いのスズメ達を寄越してくれた。そして、何も家具がなかった部屋を、寝起きができるように整えた。
「おめぇら、全然騒がねぇなぁ。いきなり連れてこられて、不満とかねぇんかぁ?」
問われたソラビト族は、口を噤んだまま誰一人口を開かなかった。
ケルゥはため息をつくと、ふと、ずっと両手を祈りの形に合わせている、リャンシャンに気がついた。
「おめぇ、インジュの女なんだってなぁ?なぁにしてんだぁ?」
詰め寄られたリャンシャンは、怯えた様子もなく、二、三歩後じさった。
「何持ってんだぁ?」
ケルゥが彼女の手に手を伸ばすと、リャンシャンは、あからさまにその手を拒んだ。
おや?他のヤツより感情がある?と、もう少し突いてやろうと、ケルゥが彼女の細い腕を、掴もうとしたときだった。
「お?なんだなんだぁ?」
そんなリャンシャンを守るように、十一人のソラビト族が二人の間に割って入り、壁のように並んだ。
「わかったわかった。なぁんにもしねぇから、そんな警戒すんなやぁ」
ケルゥはボリボリと頭を掻くと、意思の疎通が取れなくて途方に暮れた。
『クスクス、彼等は奴隷だから、発言を許されていないのよ。わたしに任せて』
優しい声が聞こえたかと思うと、空間が歪んで、中からキラキラ輝く、金色の波打つ髪の女神が現れた。髪に飾った花の髪飾りと、右耳の、バラの花からトーン記号の飾りの揺れるピアスが、キラリと光を返した。
とてもグラマーなプロポーションの、風の精霊だ。
「フロイン、こっちサイドでいいんかぁ?」
『ええ。ソラビト族はあなた達の手に余るわ。わたしに任せて』
神々しい優しい笑みで、ノインの妻は微笑んだ。インジュと同じ、金色のオウギワシの翼をフワリと開き、フロインはソラビト族に向き直った。
『こんにちは。インジュを助けてくれて、ありがとう』
フロインの後ろに下がったケルゥは、彼女のその一言で警戒が解かれるのを感じた。
「インジュ――様、無事?」
リャンシャンが、割れた人垣の間を通って、フロインの前に立った。
『ええ。あなた達のことを、とても心配していたわ。けれども、心配しないで。ここには、あなた達を傷つける者はいないから、わたしと一緒にインジュを待っていてくれる?』
リャンシャンはうなずいた。そして、そっと手の平を開いてフロインに差し出した。
「守ってと、言われた。持ってきてしまった」
リティルの贈った髪留め?フロインは、インジュがこれを外したことにも驚いたが、これを、他人に預けたことにも驚いた。
『そう。でもこれは、あなたが持っていて。そして、インジュにあなたから返してあげて』
そういうとフロインは、慈愛の笑みを浮かべて、そっとリャンシャンの指を折らせて、髪留めを握らせた。リャンシャンはそっと胸に握った手を押しつけると、頷いた。
フロイン、神々しさに磨きがかかったなと、ケルゥは思った。この表情を見て、誰も彼女が風の王の刃、殺戮の女神だとは思わないだろうなと。
自分自身の言葉を持たないフロインは、シェラを模倣してしゃべる。故に、彼女は城ではほとんどしゃべらずに、ノインの傍らにいた。会話がなくてもいいらしく、ノインはたまに傍らのフロインの髪を弄っては、振り向く彼女の様子を楽しんでいた。夫婦というより、飼い主とオウギワシのようにも見えなくなかった。それでも、二人は幸せそうだから、いいのだろう。
「なあ、フロイン、なんか聞いてるかぁ?」
『いいえ。ノインはわたしを関わらせる気がないわ。けれども、最後はわたしの力が必要だわ』
「そうなるといいよなぁ」
『なるわ。リティルが導いているのだから。カルシエーナは大丈夫?』
フロインは憂いの表情を浮かべた。
「ゾナが慰めてるぜぇ?」
『あなたがしなくていいの?』
「オレ様、あいつが動けねーなら、代わりに動かにゃならねぇからなぁ」
カルシエーナは、人間の国の崩壊から、立ち直っていなかった。ゾナはすぐに城へ帰るつもりだったのだが、カルシエーナを一人にしておけないと、ここまで送ってきてくれた。
恋人のケルゥがそばにいてやりたいが、ケルゥはソラビト族の誘拐を指示され、出なくてはならなくなってしまった。
インファの指示に不満はない。むしろ、行けばレイシ、インジュのみならず、リティルも驚いてくれる。出し抜いてやった感が、とても快感だった。
「ケルゥ、帰ってきているのならば、カルシー嬢のそばにいてやりたまえよ」
二頭のドラゴンを連れずに、ゾナが姿を現した。
「オレはあまり、グロウタースにいてはいけないのだよ?」
ケルゥはゾナとフロインを促して、一旦部屋を出た。人形のようだと言っても、この大陸の民だ。会話を聞かせてはいけないと思ったのだ。
「堅ぇこと言うなよ、ゾナさんよぉ。獣人んとこも、崩壊が始まるぜぇ?インジュにはリティルのヤツがついてるけどなぁ、始まりの泉もなんか不穏なのよぉ」
「始まりの泉……レイシと姫がいる。あの二人なら心配いらないのではないかね?」
「どぉだかなぁ、ランティス、あいつは、なかなか怖い男なんじゃねぇかなぁ」
『大丈夫。泉にはインリーが行くわ』
「インリー嬢?彼女の歌が必要になると?それは、末期ではないか。この勝負、勝てるのかね?」
風の精霊が歌う、風の奏でる歌は、誰が歌うかによって現れる効果が違う、魔法の歌だ。
風の精霊が、特別に教えない限り、他の者には歌えない風の歌。風の精霊以外で歌えるのは、シェラだけだった。
そんな魔法の歌は、皆、一つの効果しか生み出せないが、風の王であるリティルだけは、彼の心一つで様々な作用をもたらせた。
歴代王の中でも感情豊かなリティルは、風の中でも一番の歌い手だった。だのに、本人はなぜか下手だと思っていて、ほとんど歌わない。
「あいつの歌って、心を急浮上させるってやつだろう?必要になると末期なんかぁ?」
『インリーの歌は、生きることを諦めた心にも作用するわ。自暴自棄も止められるの。歌もそうだけれど、インリーが行くのはレイシを助ける為よ?』
「なんでぇ、レイシのためかぁ。けどなぁ、インリー、レイシの助けになるかぁ?」
邪魔にならないか?とケルゥは無体なことを言った。だが、無理もない。端から見たらインリーは、ただレイシにまとわりついているだけの、力のない娘に見えるからだ。
『妻にできて幸せだと言っていたわね』
「ふーん……でえええええ?」
あのレイシが?あのレイシが?とケルゥはその場面に居合わせたかったと、身悶えた。
「ほお、どういう心境の変化かね?」
レイシが一定距離を保っていることは、皆知っていた。気がついていないのはインリーだけだ。
あるとき、思春期の精神で、あんな露出の妻に一切触れない彼を、ルディルが心配していた。真面目に相談されたリティルが、オレに聞くなと、顔を覆っていた所に出くわし、ゾナは巻き込まれた。どう思うかと聞かれ、魔道書故に恋愛感情のないゾナは、本の知識で答えたが、二人は驚愕していた。間違った対応だったか?と情報のソースを明かすと、二人は盛大なため息と共に安堵していた。うーん、恋愛感情とは難しいと、ゾナは思った。
見守ればいいのでは?とリティルを支持すると、そうすると言って、ルディルは一応納得して帰っていった。
「あんにゃろう、死なねぇよなぁ?」
「父上と兄上を裏切ると?そうは思えないがね。ケルゥ、オレはカルシー嬢についていよう。心配の必要はないとは思うが、一人にはしておけないのでね」
君も安心だろう?とゾナは言ってくれた。
「すまねぇ。恩に着るぜぇ、ゾナ」
ゾナは三十二才で、風の城で一番年上の容姿をしていて、知的でノインに匹敵する安定感がある。本の虫で、同じように本が好きなカルシエーナとは、元々仲がよかった。彼が引き受けてくれるなら、仕事に専念できると、ケルゥは感謝した。
「任せたまえ。君の代わりに、話し相手くらいにはなろう」
じゃあなと、ケルゥは去って行った。
『レイシは危ういの?』
ケルゥを見送り、フロインは不安げな顔で問うてきた。
どうやら、心境の変化を怪しんでいるようだ。
「レイシ?昔のリティルを見ているようで、危うさは感じるがね。間違いを犯しそうになったなら、止めてくれる者が大勢いるではないか。見守りたまえよフロイン嬢」
インファとノインが見ていると、ゾナは知的に笑った。何かあれば、兄と、父のような心の補佐官が守ると、ゾナはフロインに心配いらないと言った。
「彼は半分人間だ。正せる間違いなら、したほうがいいと、オレは思うがね」
リティルもそうだった。レイシは、そんなリティルによく似ている。リティルはグレ方も真っ直ぐだったが、レイシはもう少し歪んでいる。それ故、リティルの手には少しばかり余っているようだが、レイシが父を慕い、兄を案じている心に偽りはない。その心の指針があるかぎり、世間でいう悪には、傾きようがないとゾナは思っている。
――ありがとう、ゾナ
レイシは突っ張っているが、感謝を忘れないいい子だ。
昔の彼を知らないゾナだが、指針のしっかりしているレイシは、一人にしても大丈夫だと思っていた。むしろ、あまり一人にしない方がいいのは、インジュの方だ。
表面上もの凄く柔らかで、善人その者だが、彼は根っからの殺人鬼だと思っている。それを、呼び覚ましてしまった事件に、ゾナは関わっている為に、彼がどうして、あそこまで壊れてしまったのか知っている。未だに罪悪感が拭えない。
インジュの父であるインファに、胸の内を吐露し謝罪したが、彼はただそんなことかと笑った。
――そんなことですか?あなたにはオレが、どう見えているんですか?オレも、父さんもノインも、獰猛な猛禽類です。ただ、インジュよりコントロールが上手いだけですよ
それは、そうなのかもしれないが……と言い淀んだゾナに、インファは困ったように小さくため息をついた。
――インジュは誰よりも優しいですからね、一旦キレると、たぶん手がつけられません。そんな自分の危うい心を、オレの息子はわかっていますよ。気にしないでください。彼はあれでも、立派に風です
インジュは壊れているわけではないと、インファは言って、穏やかに笑っていた。そして、そんなに愚息を思ってくれて、ありがとうと言ってくれた。
過去の姿を知っている。それが、心配の原因なのかもしれない。
リティルが、インジュよりもレイシを案じているように。
それでも、ゾナにはインジュの方が心配だった。
普段のインジュが善人なのは、彼の化け物じみた精神力故だ。しかし、戦場に立てば殺人鬼の部分を呼び覚まさなければ、戦えない。引き籠もりを脱した直後のインジュは、笑ってばかりいた。けれども、始終楽しいわけはなく、無理をしているのは明白で、心を笑顔で閉ざしてしまった、ある意味麻薬でラリっているような状態のインジュに、リティルとインファは、悩んでいた。そんな二人に、オレがお守りすると手を上げたのが、レイシだった。
お守りを買って出たレイシは、見事にインジュを転がしている。そして、皮肉をよく言うレイシに感化されて、負の感情も人並みに出せるようになった。まだどこかお花畑感はあるが、それは彼の素の部分なのだろう。日だまりで、気持ちよさそうに寝ている。それが、彼の本質だ。そんな彼と、オウギワシは融合を果たそうとしていた。
インジュは、まだ不完全だ。レイシの守りに依存している。今はリティルが一緒にいるが、早くレイシをそばに戻した方がいいのでは?とゾナは思っていた。
ザリドを乗せたインジュは、人間の国の上空を飛んでいた。
『はあ、これは予想以上です』
「……これが……獣人の郷にも起こるのか……」
ザリドは、人間の国に入るのはこれが初めてだった。だが、ここに大地があったとは、ここに国があったとはとても思えなかった。
ないのだ。不自然に丸い道の通った山脈のこっち、そこに大地はなかった。ただ、海が広がっていた。山脈を越え、唐突に崖となったそこへ、荒々しい波が打ち付けていた。
『獣人の郷も、地震の頻度が上がってますね。崩壊は間近かもしれませんよ?』
インジュは暗に、皆を動かせるかと聞いてきた。全員を避難させられるかと言われれば、それはたぶん不可能だ。
リティルとインジュの歌で、二人の精霊が傍らに立っていることで、獣人達はザリドを見直したが、郷を捨て移動しろと言ったところで、どれだけの者を動かせるか自信はなかった。
『ザリド、帰りましょう。人間の国でこれですから、獣人の郷の崩壊は、もう少し悲惨かもしれませんよ?あの地は、魔界ですか!って思っちゃうほど血まみれですから。あんなに格好良かったタイガ族が、地に落ちたのは、多分、怨嗟です。あの場所にかけられた呪いが、獣人を滅ぼすように作用しちゃったんですよ。よく住み続けてますよね。とにかく、あなた達獣人は、血を流しすぎたんですよ』
あの場所は、元々ソラビト族の郷だった。それを獣人は狩り尽くして蹂躙し、僅かに残ったソラビト族を奴隷にした。そのことをインジュには話していない。だが、インジュは知っているようだった。
『あの場所を浄化するのは、ボクでも無理です。一度壊して、再生させたほうがいいですねぇ。ということで、崩壊は必須ですけど、巻き添えになりたいんです?』
「おまえが、壊すのか?」
『はい?ボク、あんなに大規模には壊せませんよ?もっとも、壊す必要ないですし。放っておいても、大地が死んで崩壊しちゃいますから』
「慈悲の欠片もない、言い方だな」
『慈悲、かけられるところないですから。始まりの泉には今、人間と半獣人種がいます。仲良くできます?』
「……できるわけがない」
『なら、潔く滅んじゃいます?タイガ族にも、他の獣人の人にも、赤ちゃんが結構いましたね。彼等に未来、あげないんです?』
「今更、人間と半獣人種に頭を下げて、それで、受け入れられる問題か?おまえが言ったように、ワシらは、血を流しすぎた。獣人達が行って、また争いになったら……」
『そしたら、レイシとボクが止めます』
レイシ――始まりの泉で会って、隠さず罵ってきた少年の姿をした精霊。
インジュが、レイシと一緒なら、何が起こっても大丈夫と言い切るほど、信頼している精霊。
優しさの欠片もない冷たい瞳だったが、彼は人間達を救った。そして、半獣人種と人間との橋渡しまでやってのけた。
おそらくインジュは、そこまでしてはくれない。ザリドの後ろで、いつでも滅ぼしてあげますと、その鋭い爪をちらつかせるだけだ。
万事休すだ。ザリドはそう思った。獣人達が行って、争いになるのならいっそ――
そんな気持ちで、リティルが、開いたままにしておいてくれたゲートを潜ると、ザリドの耳に歌が聞こえてきた。
リティルだ。リティルがまた、風の奏でる歌を歌っていた。
その歌声は、前に聞いた歌とは表情がまるで違っていた。
「リティル……だからお父さんに、甘いって言われちゃうんです。烈風鳥王のあなたでも、この地の怨嗟は鎮められません……。それでも、あなたは、歌うんですね……?」
鎮魂歌だった。死者を慰め、心を静め、未練を断ち切る歌。
優しい……この上なく優しい歌声だ。リティルは本気なのだと思った。本気で、争いを止め、青い焔を救う気なのだと。
ザリドはその場に頽れていた。その目から、涙が溢れる。
――心に 風を 魂に 歌を 限りないと 君を信じて
――眼差しの向こう 風の導きに 逆らっても 叫べ 信じるままに
――透明な腕に 抱かれ 別れを突きつけられても 歌え 想いのままに――……
リティルは甘いと口にしたが、インジュも助けたかった。限りある命だからこそ、生きてほしい。想いは、風の城の皆と同じだった。
「ザリド、皆さんに大地の崩壊のこと、話してください。図太く、生き残っちゃいましょうよぉ。始まりの泉が戦場になる?いいじゃないですか。皆さんの恨みの深さ、思い知りながら、生きましょう!」
「おまえは……慈悲の欠片もないな」
「慈悲、かけられるところありませんから。ザリド、ボクが矢面に立ちますから、皆さんを導いてあげてくださいよぉ」
インジュはそう言って、ニッコリ笑った。
「あ、ボクの心配してくれちゃってます?大丈夫ですよ。ボク、この世界の住人じゃありませんから、なんと思われようと平気です」
それでも傷つく心があるだろ?とザリドは思ったが、彼の容赦ない笑顔に、言わせてはもらえなかった。
「大丈夫です。始まりの泉にはレイシがいますから。レイシとボクなら、きっと守れます」
「そんなにすごいのか?レイシは」
「凄いですよ?ボクの相棒は、凄い精霊です。だって、リティルの息子なんですから」
風の王の息子?に、しては似ていなかったような……とザリドは思った。だが、そんなことよりインジュが信頼して止まないことに、少し嫉妬した。ザリドは、選ばれた者として、インジュに認められたかった。だが、インジュはちっとも認めてくれはしない。
何かというと、レイシ、レイシと言う。それが、少し、かなり腹立たしい。
「帰ってきてたのかよ?で、どうだった?人間の国は」
「……」
「ザリド、やらねーと滅びるぜ?」
「リティル、今獣人が一つでいるのは、おまえらの魔法のおかげだ。それが解けたら、獣人は再び世界の脅威になる」
「ああ、そうかもな」
「このまま、滅んだ方が、青い焔のためだと思うか?」
「生きることに、怖じ気づいたのかよ?ザリド、傲慢になるなよ。おまえ一人がそう考えて、そういう結末を導くとしたら、好きにしたらいいんだぜ?けどな、おまえは王だ。おまえ一人の考えで、他人の運命を左右するな!」
リティルはフワリと舞い上がると、ゴンッとザリドの頭に拳を落とした。まるで、親がとんでもないことをしでかした子供を、愛を持って叱るかのような拳だった。
「青い焔の終焉は、終わらない戦争が、大地の命を奪い取ったせいで始まった。それは、おまえ達獣人だけのせいじゃねーよ。カルシエーナは、終わらせるなら自分の手で、そう思ってここへ来た。あいつの行動を止めるには、おまえ達が手を取り合っていけるって、そういう未来の片鱗でも示すことなんだよ。逃げるなよ。たとえ、おまえ達獣人を、人間と半獣人種の怨嗟が包んでも、行くしかねーんだよ。生き残る為にはな!」
来いよ!と、リティルはザリドを促して部屋の外へ出た。
そこには、変わらない日常があった。ちょうど、昼食どきだったようだ。タイガ族だけでない他の獣人種達も一緒になって、大鍋に煮たシチューを楽しそうに食べていた。
「おまえは、彼等を踏みにじるのか?おまえはこのまま、地に落ちた王で、終わるつもりなのかよ!」
逃げたら許さない!そう言ってくれた様な気がした。見限られていないのかと、それだけが素直に嬉しかった。
「ザリド、ボクは、あなたなら導けると思いますよ?あなたは、何も言わなかったけど、毒を使うこと、反対でしたよね?リャンシャンを案じていましたよね?ボクが気がついてないと思ってました?リャンシャンを連れてあなたの前に立ったとき、あなた、あからさまにホッとしてましたよ?そんなあなたを、見直したんです、ボク。そろそろ、心に従いませんか?あなたが、間引くというのなら、それが、ワシのやり方だというのなら、止めませんから。そろそろ、行動してくれません?そうしてくれないと、ボク、笑ってレイシの前に立てません」
また、レイシかとザリドは俯いた。
「ボク、ずっと守られてるんです。半分人間のあの人に。いい加減、情けないんですけど、全然、隣に立たせてくれないんですよ。ボクは、レイシに認めてもらいたいんです。ザリドはいないんです?自分を、認めさせたい相手。その人に認めてもらえないままで、いいんですか?」
ザリドは驚いて、インジュの顔を見た。揺るがないと思っていた、強いと思っていたインジュが、レイシ、レイシと繰り返す理由が、ただ、認めさせたいからだということに、驚いていた。
インジュに認めてもらいたいと思う、ザリドと同じ理由だったからだ。
「ハハ、おまえ、ホントはレイシのこと好きだったんだな?」
「ホントはって……ボク、ずっと好きですよ?」
「喧嘩ばっかりで辛いって、言ってたじゃねーか」
「それは……そうですけど……子供扱いしかしてくれなくてですね、ボク、もうちゃんと戦えるのにって、もう、わざと傷つかなくていいって、思ってですね……レイシ、怪我してません?ボクがいなくて、大丈夫です?」
「ああ。必要ならインリー呼ぶからな」
「インリー来るんですか?ボク、来てほしくないです」
「オイオイ」
「だって!ボクの出番なくなるじゃないですか!癒やしと防御、だだ被りですよ?それに……インリーがいると、レイシ、幸せそうで近づけないんです……」
レイシとインリーは、精霊の婚姻を結ぶ前からそんな感じだった。故にリティルには変わったのかどうなのか、わからなかった。しかし、羨ましげに見ていたインジュがそう言うのだ、本当にレイシは幸せなのだなと思えた。
「おまえ、困ったヤツだな。妻に嫉妬してどうするんだよ?」
「妻?レイシには、伴侶がいるのか?」
「ああ。レイシは、オレの娘婿だよ」
ああ、それで、風の王の義息子なのかとザリドは思った。
「そういや、おまえは?」
「息子がいたが、決闘して殺した」
「……聞けば聞くほど難儀な部族だな、タイガ族。それ、もうやめろよ?これ以上血を流すなよ」
「とっくに廃止した。皆集まってるな?ちょうどいい」
ザリドは、大鍋を囲む民の前に降りていった。
そして、よく通るその声で、大地の崩壊のことを告げたのだった。
妻は、ウルフ族には珍しい、黒い髪をしていた。
泉のそばで、レイシと話している黒髪の女性――風の王の妻である、シェラの後ろ姿を見ていると、その美しい黒髪に妻を重ねてしまう。あんな美しくなかったが、思い出してしまう。
あの時、かえらずの森に病が流行ったとき、ランティスの妻は身重だった。
やれることはやったが、間に合わなかった。
獣人の郷からどうやって戻ったのか、記憶がない。目を覚ますと、獣人の郷から逃げてきたというソラビト族の男が持っていた薬草で、森の病は終息を迎えていた。しかし、元気な妻の姿はなかった。
ランティスは、すでに埋葬されてしまった、妻の墓の前から動けなかった。
ガリガリに痩せこけていきながら、ごめんねと繰り返す、哀しい顔しか思い出せなかった。彼女は最後の時も、哀しい顔を、していたのだろうか。そんな妻の最後に、ランティスはそばにいてやれなかった。自分のした選択が、正解だったのか不正解だったのか、今でも心は葛藤している。
逝ってしまうことが、わかっていたなら、あなたのそばから離れなかったのに!
獣人の郷へ赴いたから、ソラビト族の男が、薬草を持って現れたのだとしたら、あの場所へ行ったことは、正解だったのでは?
せめぎ合う二つの声が、今も平行線を辿っている。
墓の前から動けなかったランティスを、再び立ち上がらせたのは、嘘か誠かわからない異界からの獣の言葉だった。
――そなたに死んでほしくないと、二つの魂に頼まれ、わたしは遣わされた
そう言って現れたのが、相棒の剣狼・ゲイボルグだった。
「ランティス」
「レイシ?あなたが話しかけてくるとは、思わなかったよ」
レイシは冷たい瞳に、穏やかな笑みを浮かべた。レイシは、いったいどんな人なのだろうか。ザリドを挑発したり、人間をあんなに大勢助けて、そして慕われていたり、彼の言動からは、こんな人とは言い難く、つかみ所がない。物腰柔らそうな外見のインジュも、どこか得体のしれない雰囲気があり、リティルの連れてきたこの二人は、とても癖が強いように思えた。
「あんたさ、変なこと考えてない?」
「変なこと?」
「たとえば、自殺?」
「え?」
「オレさ、手首斬ったことあるから、わかるんだよ。あんたさ、死にたい顔、してるよ?」
レイシは、冷たく鋭い瞳に薄ら笑みを浮かべて、左手を軽く掲げて振って見せた。彼の左手首には、太い腕輪がはまっている。今もあるのだろうか。その下に、斬ったという傷は。
「……ウルフ族のオレが自殺するのは、かなり至難の業だ。不可能だよ」
だろうねと、レイシはまるで知っているかのように頷いた。
「父さんと戦う気?」
リティル――ウルフ族と背格好、体格までも似ている風の王。真っ直ぐに未来を見据える、その金色の双眸が時々怖い。
消えない傷?そんなもの、抱えて生きていくだろ?と当然のように言われてしまいそうで、弱みを見せにくい。
「な、なぜ?」
「じゃあさあ、どうして花の姫を、そんな切ない顔で見てるの?誰かに重ねてるって顔してさ。オレの相棒、インジュ、あいつの初恋の人、グロウタースの民だったんだ。だから、繋がれずに終わっちゃったんだ。たまに同じ顔して、誰かのこと見てるから、わかるんだよね」
底知れない。ランティスは、レイシの微笑みを浮かべた冷たい瞳を、怖いと思った。
痛みを、易々と暴かれて、ランティスは初めて揺れる心を吐露させられていた。
「オレの妻は……黒髪の美しい人でした。病で、あっけなく逝ってしまった。獣人の、せいだと、憎しみが、消えない」
憎しみ……オレは獣人を憎んでいたのか?と自分の言葉に驚いてしまった。
「ふーん、そうなんだ。あんた、オレに似てるんだね」
「え?」
「オレも、憎しみが消えない。たぶん、永遠に消えない。オレが死ぬまで」
「あなたが?」
「何?見えない?アハハハ。オレ、嘘つきだからね。でも、もう、死なないよ」
「奥方がいるから?」
「インリー?彼女はオレの枷にはなれないよ。酷いって?そんなこと、今更だからね。オレはオレを見届けたいからかな?呪われた血のオレが、いつまで風の王サイドでいられるのか、試してるんだよ」
レイシの胸で、白鳥の羽の飾りがついた首飾りが揺れた。
「あなたは、本当に嘘つきだ」
レイシが、リティルを裏切ることはあり得ない。なぜだかそう思った。本心を見せない冷たい瞳は、注意深く皆を探っている。それは、リティルの為にしていることだと思えた。
これからくる、獣人達が起こすであろう心の嵐を見極める為に。
「アハハハ!そうだね。でもさ、嘘って悪いばかりじゃないよね?いいんじゃない?風の王と戦いなよ、ランティス。獣人が憎い、滅ぼしたいって叫べばいいよ。それで、気が晴れるならね」
じゃあねと、レイシは離れていった。
そんな彼に、ウルフ族の幼子達がすぐさま駆け寄ってきていた。子供達の頭に手を置きながらレイシは、泉のそばで花冠を作っているシェラに合流した。人間の少女が、レイシと共に来たウルフ族の少年に花冠をかぶせて笑っている。
そんな、当たり前の幸せがあるはずだった。
病さえ流行らなければ、獣人が――薬草さえ――
「ランティス殿」
「……あなたは、コウディオ?」
暗い瞳で、子供達と戯れているレイシを見ていたランティスは、背後にそっと現れたコウディオの声に我に返った。
「話がある」
どこか諦めたようなアルディオとは違い、コウディオは信念のある瞳をしていた。彼は、利用できる者は何でも利用するような、そんな雰囲気を纏い、そうであることを隠さない。
レイシは横目で、二人の様子を窺っていた。コウディオが、ランティスに接触することはわかっていた。こちらが感づいていることを知っていて、堂々と接触する彼の豪胆さが、挑戦されているみたいで、売られたモノを買いたくなる。どっちを見張っていた方がいいんだろう?レイシは、そんなことを考えていた。
「レイシ?」
「何でもないよ、母さん」
レイシは、何事もなかったかのように、その冷たく鋭い瞳に笑みを浮かべた。そして、おもむろに立ち上がった。子供達はすでに、自分達で鬼ごっこをして遊んでいた。
「獣人達、いつ来るかな?」
「説得は、思いの外スムーズだったようね」
「父さん、歌ったんじゃない?ちぇ、インジュには甘いんだからな」
おそらく、それくらいしないと、どうにもならなかったのだろう。獣人種、どれだけ恨みにまみれているのだろうか。そんな種族の中にいて、殺戮のオウギワシは大丈夫だろうかと、レイシはインジュを案じた。そして、ああ、だから父さんが付きっきりなんだよなと、思った。インジュは、オウギワシを使いこなそうとしていた。けれども、殺人鬼と日だまりの惰眠のような、優しく温かいインジュは、相容れずに平行線を辿っていた。レイシには、これ以上インジュを導けなかった。
リティルは、インジュをどう見ているんだろう?一人で、仕事をしたことのないインジュを、獣人の導き手にしたリティルは、インジュの何に期待したのかな?とレイシは思った。
「レイシ、インリーを呼ぶわ。いつがいいかしら?」
えっ?
「インリーの歌が、必要になるでしょう?」
あらあら、レイシったら今更意識しているの?と、シェラは思いの外初心なところもある、息子の様子に、優しく微笑んだ。
「あ、うん、そうだね」
マズいな、棒読みだよと、レイシは思った。
参ったなと、レイシはインリーに気恥ずかしさを感じていることを、シェラに気がつかれていることに、困ったように頭を掻くしかなかった。
どうしようというわけではない。こっちの心に微妙に変化があったとしても、彼女は変わることがないのだから。未来永劫、彼女は、レイシの隣がわたしの居場所と言い続ける。ただそれだけだ。
「母さん」
「何かしら?」
「……インリーって、何者?」
「あの子は、リティルの死の翼よ」
「死の翼って、死に神ってこと?インスレイズ?」
「死に神ではないわ。死の翼は、生きる為に奪ってきたモノを、次へ渡す、与えるという力よ。あの子は、与え続ける存在よ」
風の王には、もう一つ、死の翼という名を持つの召使い精霊がいる。フクロウの姿をした、インスレイズという名の鳥だ。彼女は、対を成す生の翼、クジャクの姿のインサーリーズと共に、死して肉体を離れた魂を、始まりと終わりの地へ、葬送する役目を負っている。
インリーと同じ、死の翼と呼ばれているが、性質はどうやら違うようだ。インスレイズは、インサーリーズの導きに従わない魂を狩り、無理矢理に葬送する鳥だからだ。
いや、一緒なのか?とレイシは思った。インスレイズは、留まろうとする魂に、あなたも今まで奪ってきた分、すべてを与え尽くして逝きなさいと促しているとしたら、与え続ける存在だというインリーと、風の死の概念としては同じなのか?と思えた。
「誰に?」
「必要な者には誰にでも。だから、原初の風は継承できなかったのよ」
原初の風は、生命を作り出す力だ。初代風の王から受け継いだが、あまりに強力で、リティル一人では継承しきれず、やむなくレイシとインジュに四分の一ずつ分けられた。
生命とは相手から奪い取って生まれてくる力だ。与えるという死とは相反し、インリーは継承できなかった。
そして、生命を作り出すという性質上、少しばかり恋愛に奔放になるらしい。インリーは、精神年齢の幼さということもあり、候補として論外だと言われた。
その性質を知っている師匠のルディルがたまに、原初の風の、四分の一の継承者であるレイシを、こいつ大丈夫か?と言いたげな目で見てくる。それは、誰彼構わず手を出す方を心配しているのではなく、インリーに一向に触らないからだ。
「オレ、影響ないよ?器なだけだからかな?」
それとも、精神年齢と精神力の問題なのだろうか。リティルもインジュも、欲望に困っているという感じもないのだから。少しばかり、インジュは惚れっぽいけれども……。
あいつ、また不毛な恋愛してないよな?とレイシはフワフワして頼りない相棒を、少し心配した。グロウタースの民と精霊で愛し合うことは禁じられている。かなりの確率で、混血精霊を生み出してしまうからだ。インジュは生命を作り出す力の化身だけに、一線は絶対に越えられない。
必ず別れなければならないのに、インジュはフワフワと誘われてしまう。彼は優しいから、遊びだと割り切ることなどできずに、別れに、引き裂かれるように、泣くしかないのに……。
インジュ……オレの知らないところで、変なモノに引っかからないでよ?と、レイシは祈るより他なかった。
「恩恵も受けていないの?」
原初の風を持つ者の恩恵は、霊力の泉だ。精霊の生命力である霊力が、無尽蔵に湧いてくる。故に、原初の風の化身であるインジュは、疲れを知らない。体に溜めておける容量ギリギリの力を使っても、すぐに回復する。原初の風の半分を持っているリティルも、同じ恩恵を受けている。故に、リティルは生命力、霊力共に最強クラスで、イシュラースで一、二を争う強力な精霊だった。
「うーん、ほとんどないかな。どこにも癒着してないから、父さんにいつでも返せるよ」
「意志を感じる?」
「ここにいるって、言われてる。どういうつもりなのか、わからないけどね」
気に入られてるみたいだけど、力をもらってないとレイシは言った。
「原初の風って、不思議な力だよね。微妙に生き物みたいで」
「あなたの中にある欠片も、生まれたいのかしら?」
インジュは、セリアの腹を借りて生まれてきた精霊だ。フロインのように、その物から具現化した存在ではない。セリアを選んだ四分の一の欠片は、望んでそういう目覚め方をしたのだった。
優しく弱い、リティルの代わりに戦う為に。インジュは、リティルの剣になりたくて、産まれてきた。けれども、そうなれなかった。そうして、存在理由を見失ったインジュは、リセットを望み、ノインに阻止された。今からでも、存在理由を守る方法はきっとある。だから、足掻けとノインはインジュを導いた。その導きを、今、レイシが引き継いでいる。
「え?それは……どうだろう?そんな感じでもないかな。ここにいるってさ。インリーに似てるよね、オレの隣にいるって言い続けてて、それ以上でも以下でもない」
「レイシ、あなたに望みはないの?」
「え?原初の風に?インリーに?原初の風はオレの物じゃないし、インリーは風の王の娘だからなー」
「どちらもあなたの物よ?」
「違うよ。どっちもオレの物なんかじゃないよ。両方、父さんの物だよ」
混血精霊のオレには、恐れ多いと、レイシは困ったように笑った。
「それでいいの?」
「いいよ。それにさ母さん、インリーだよ?うっかり触っちゃったら、人としてどうなんだろうって、思うよ」
てんで子供っぽいと言って、レイシは笑った。
「帰ったら、インリーを教育するわ」
「ええ?いいよ!しなくていいよ!インリー素直だから、教えられた通り来ちゃうよ?母さん、オレをどうしたいの?」
「健全な男の子にしたい、かしら?」
「はあ?オレ、おかしいの?精霊的には普通じゃないの?それよりさ、いいの?オレ、混血精霊だよ?混血精霊の子供は混血精霊だったら、オレ――」
ざあっと風が吹いて、シェラの黒髪を攫い上げた。髪の毛に遮られる視界の中、レイシが哀しそうに笑いながら、瞳を伏せてつぶやいた。
「混血精霊の子供は混血精霊だったら、オレ、耐えられないよ……」
シェラは、レイシの言葉に驚いた。子供……レイシがそんなことまで考えて、インリーに触れないでいるとは思ってもみなかったのだ。花と風は相性が悪く、リティルとシェラは本来子を成せない。インファとインリーは、花の姫の固有魔法を使って、シェラが自分の意志で成したのだ。故に、シェラは意志がなくても成せるという常識を、忘れていた。
レイシは、自分が半分人間であることを、正しく気にしていた。シェラの息子は、母親であるシェラ以上に、インリーを大事に思ってくれていたのだ。
インリーは、レイシに残酷なことをしてしまった。
隣にいたくて、魂を分け合おうと――精霊の婚姻を結びたいと、言ってしまった。レイシが何を思って、必死に距離を置いているのか、欠片もわかってやれずに。ただ無邪気に、今も、これからも、レイシの心を翻弄し続ける。
レイシは、そんなインリーを守って、ただそばに、安全な場所であり続ける。
グロウタースの民は身勝手だ。生み出しておいて先に逝ってしまうのに、精霊と同じ永遠を混血精霊に与え、これは愛だと、愛の結晶だと喜んでいる。生み出された混血精霊が、どんな幕を引かされるのか知りもしないで。
交わりによって増えない精霊では、残された混血精霊を導けない。グロウタースを知るリティルでさえ、困難さを感じているのだ。風でない精霊には、混血精霊など引き受けられない。そして、そしていつか世界に仇なして、風の王に狩られるのだ。生まれた意味を、見いだすことなく。
浅はかだったと、シェラは痛感した。リティルがずっと苦悩していることを、きちんと理解していなかった。
シェラは、レイシ以外の混血精霊を知らない。リティルが斬らなければならなかった、他の混血精霊の苦悩と絶望を知らない。彼等がリティルにぶつける、恨みと憎しみを知らない。
『……すみません。ちょっといいですか?』
「あ、兄貴?何?どうかしたの?」
声をかけづらそうに、インファから声をかけられ、レイシは慌てて、銀色の光を手の平に集めて、水晶球を取り出した。
今回は敵と思えと突き放してきたインファは、その言葉通り、必要なことはルディルを通して伝えてきていたのに、何か、大変なことがあったのだろうか。レイシは、何を言われるのか緊張した。
まさか、副官と補佐官は、査定を終えたのだろうか?獣人に――インジュとリティルに何かあった?レイシは、緊張で手が僅かに震えた。
『レイシ、方法はあるんですよ?』
「え?何の方法?」
こんな言葉にしにくそうな兄の様子を、初めて見た。そして、兄が何を言おうとしているのか、本気でわからなかった。
『子供を作らない方法です』
え?は?何?
『あんまりそういうこと、一人で抱えないでくれませんか?聞いていて、切なくなりますよ』
『まったくだ。リティルに言われただろう?人間に聞いてみろと。聞きづらいなら、教えてやる。知識くらいある。なんなら、ゾナがそっちにいるだろう?ヤツなら、顔色一つ変えずに淡々と教えてくれる』
え?ノインまで真面目に何言ってるの?とレイシは混乱した。
「待って待って!え?何?オレ、そんなこと悩んでた?」
『そう聞こえたぞ?レイシ、健全でホントによかったわ。オレはてっきり……』
ルディルがあからさまに安堵した。てっきり?てっきり何?とレイシはどう思われていたのか、もの凄く気になった。
『ないです。オレの弟は正常です。あなたが変なことを悩んでいるから、ゾナにからかわれたんですよ。レイシ、何事にも方法はあるものです。諦めてしまう前に、オレに相談してください』
『インファに頼りづらいなら、このオレだっていいんだぞ?』
「あ、師匠、兄貴に相談するからいいよ。みんなありがとう。でもさ、オレ、そう言われてもよくわからないよ。今のままでも、問題ないしさ」
おかしいなぁ、そんな話いつしてたっけ?とレイシは困りながら笑っていた。
こんな時なのに、暖かいんだよなぁ。困るよなと、レイシは、早く城に帰りたくなった。風の城には、いろんな精霊がいる。結束の固い風一家だが、いつでも仲良しこよしではない。ケルゥなんて、初めて会ったとき、父さんを半殺しにしてるし、父さんと兄貴はたまに喧嘩してるし、喧嘩自体稀だけど、一度ぶつかると、一日二日口をきかないことがあるくらいなんだよな。ゾナが来た頃は、ノインとわだかまりがあったし、とレイシは過去を振り返った。
風の城だって平坦ではない。でも、皆、皆が好きだから修復するし、信じてるからぶつかれる。だから、この大陸でだって、できるんじゃないか?アルディオ達なら。
レイシは気を取り直して、インファに聞いてみた。
「兄貴、インジュのほうどうなってるか、聞いたらマイナス?」
『教えられる範囲でならお答えします。獣人達が移動を始めました。先頭が泉に到達するのは、早くて五日後ですかね』
「そうなんだ。インジュやるね。オレのほうは、かなり犠牲者出しちゃったのにさ」
『あっちには、リティルがいるじゃないか。獣人達は、これからが試練だと思うけどね。レイシ、一人で君はよくやったよ。ねえ、レイシは、欲ないの?ほしいものとか、したいこととか』
ルキがズイッとインファの前に割り込んできた。あれ?ルキ、心配してくれてる?とレイシは驚いた。風の城の皆はどうしたのだろうか。そんなに何か落ち込んでいただろうかと、レイシは首をひねった。
「あるよ?ルキ、知ってるじゃないか、酒豪だよ?オレ。最近、ルキルースでも遊んでるし。セリアとかフロインとも仕事できて楽しいし。そういえば、兄貴、城にいるとインジュに避けられるんだけど、あいつ何なの?」
リティルとの会話を聞いて、インジュがインリーに遠慮していることは知っていたが、それを伝えるわけにもいかず、インファは困った笑みを浮かべた。
『うちの発情オウギワシがすみません。あなたに認められたくて、色々空回っているようですよ?』
「はあ?え?オレに認められたいって、何?で、発情?あいつ、また?合流したら、鉄拳制裁だな。入れ込んじゃってるの?」
ちょっと目を離すとこれか!と、レイシは怒りを覚えた。もう、初恋の人が逝ってしまったときのような、あんな号泣する相棒の姿は見たくないのになと、レイシは思い出していた。あれは、オレの方がトラウマだよと、レイシはため息をついた。
それから、不毛な相手とは必要以上に絡まないように、邪魔してきた。
父さん!オレの努力!とも思ったが、リティルは見守る者だ。必要以上に手は出さない。今回だって、とても際どいことの連続なのに、じっと耐えている。本当は、率先してやりたいだろうなと思うだけに、未熟さが申し訳なかった。
『いいえ。今回は相手にされていないので、大丈夫です。レイシ、インジュは放っておけばいいですよ?』
リティルの息子のインファも、見守る者だ。リティルよりも厳しい。
「べつに、必要以上に構ってるわけじゃないよ。相棒だからね。あいつと組むのが、一番しっくりくるしさ。認められたいって、今更何言ってんの?とっくに対等じゃないか。頭来るなあいつ!もう、喧嘩してやらないよ」
『おまえに構ってもらえなかったら、インジュ泣くんじゃねぇ?』
ルディルが、インジュの父であるインファに振る。インファは困ったように笑いながら、ため息をついた。
『レイシに会いたくて、しょうがないみたいでしたからね』
オレに会いたい?しょうがない?そんなに凹んでるの?とレイシは思ってしまった。殺せないインジュは、一人では飛べない。こんな争いの大陸で、バラバラに担当しなければならないことに、レイシは本当は反対だった。インジュは、優しい殺戮のオウギワシだ。一人で、心細いだろうなと薄々思っていた。リティルがいてくれるからと思っていても、そばで見てきたからこそわかる、危うさがあった。
「待ってよ!あっち、そんなにきついの?あいつ、何かした?」
『これ以上は教えられません』
レイシは舌打ちすると、苦々しく呟いた。
「……オウギワシか……無茶しないでよ……インジュ……!」
『大丈夫です。踏みとどまりましたから』
「よくないよ!元気じゃないと、できないんだ。インジュ、先頭これるかな……?ここまでは耐えてよね。あとは寝てていいからさ」
インジュが先頭を来てくれなければ、一人でやるより他ないと、レイシは表情をさらに険しくした。
『何をするつもりですか?』
「教えないよ?こっちも、喧嘩売られてるから、全力で買わないといけないからさ」
『そうですか。期待していますよ?レイシ、かえらずの森が崩れるまでがリミットです。それまでに、結果を導いてください』
では、と、インファは最後は容赦ない副官の顔で去った。
「ありがとう、みんな。何とかしてみせるよ」
誰の顔も映さなくなった水晶球に独りごちるレイシを、シェラは不安そうに見つめていた。
憎しみが、消えない……
本当は、止めなければいけないことをわかっていた。三王が、カルシエーナ討伐に赴くことが目的ではない。この大陸の上に住む者達に、等しく課せられているのは、相手を許し、受け入れて、戦争を今すぐやめること。
なのに、わかっているのに、ランティスには、コウディオを止められなかった。
――我々は、獣人と戦い果てる
憎しみは消えない。ならば、憎しみを胸に秘め、獣人を受け入れることを選んだ、アルディオ達の道を断たない為に、戦いそして、ここで散ることを選びたい。
それを決して許してくれないレイシを、ここで足止めする。それが、ランティスがコウディオに頼まれていたことだった。
まずは、レイシからシェラを遠ざける。
「シェラ様!あ、あの、産気づいた者がいて、助けていただけないでしょうか?」
ウルフ族の娘が、血相を変えてシェラを呼びに来た。優しいシェラは断らない。
「行ってきていいよ、母さん」
レイシに背を押され、シェラは心配そうな瞳を息子に向けたが、最後には頷いて、娘と足早に去って行った。
「で?オレになんか用?」
シェラの姿が見えなくなってから、ランティスはレイシに近づいた。彼はまるで来ることがわかっていたように、挑戦的な笑みを浮かべていた。
「小規模な部隊が、この山の向こう側に隠れてるよね?何するつもり?」
「そこまでわかっていて、オレを待っていたのか?」
「まあね。あんたの相手、父さんじゃなくていいの?」
「全部、背負うのか?」
「質問に質問で返さないでほしいなぁ。父さんから聞いてるはずだよね?この戦いの意味」
「どうしようもないんだ。あなたは、どうやって憎しみを――」
ああ、それか。と、レイシは思った。この人は正しそうだからなぁと、レイシはランティスを見返した。
「オレが憎んでるのは、オレ自身だから。オレさ、全然力が覚醒しなくて、やっと覚醒したとき、母さんを殺しちゃったんだ。剣狼の女王がいなかったら、風の王から、花の姫を永遠に奪ってたよ」
ランティスは耳を疑った。シェラは自分を殺しかけた相手を、微塵も恐れることなく笑って、案じてそばにいると?
リティルは、最愛の人を手にかけられ、それでも彼を息子として愛していると?
自分の娘まで妻として与えて?
「オレの両親は、そんなオレを一度も責めないんだ。犯人がオレだってわかるまでの間、父さんは確かに、母さんを傷つけたモノを憎んでいたはずなのに。オレはねランティス、二人がオレを憎まないから、オレ自身を憎んでるんだ。ここに立つのは、父さんの方がよかったと思うよ?父さんは、憎しみを知ってる。そしてそれを、許した人だから」
やろうかと、レイシは銀色の光の中からレイピアを抜いた。
レイシが、リティルに持っているものは、どうしようもない罪悪感だ。息子として、護り愛してくれたのに、父の一番大事なものを一時奪ってしまった。自分の出生を知り、リティルに対する罪悪感を拭い去りたくて、危険を冒して、産みの親に会いに行ったが、そこでも、レイシは間違えてしまった。産みの親に憎しみを向け、レイシは初めて殺意を持って剣を握ってしまった。
そんなレイシを庇い、リティルは、レイシの凶行を阻止してくれた。そしてリティルは、レイシの産みの親に刺された。あの時、リティルを背中から貫いた、血に濡れた刃を忘れられない。恩を仇で返し続けたのに、リティルはレイシに一度も憎しみの瞳を向けなかった。
そんなリティルに、レイシは、なぜ、風の王の血を与えてくれなかったのかと、ぶつけてしまった。大好きなのに。リティルという父がいてくれなければ、生きることさえ難しいのに、レイシは、苦しみからリティルに、憎しみに似た怒りを向けてしまった。
そのすべてを受け止めて、リティルは、レイシを許し続けてくれている。
一人で歩けねーのか?ほら、手、引いてやるから、ちゃんと掴んでろよ?そう言って、曇りなく笑う父の姿が、今この瞬間、見えるような気がした。
――オレを、憎んでくれていいのに……父さん……オレは、あなたに許されるオレを、許せない。父さんを傷つけたオレに、憎しみが止まらない
「あんたがほしい答えをあげられなくて、ごめんね」
オレは憎まれる側なんだと、レイシは言った。そうでなければ、ダメなんだと言った。
「コウディオのところに行かなくちゃいけないから、悪いけど速攻で終わらせるよ?」
レイシは、オレが足止めだということまで、わかっているんだ……と、ランティスは思った。
「もう、誰にも止められない。この怨嗟は――この怨嗟こそ、青い焔そのものだ!」
「諦めないでほしいな。あんた、風の王の契約者だろ?あのさ、獣人だってのうのうとここへ向かってるわけじゃないよ?恨まれてること、憎まれてること、わかってるよ?インジュが全力で、そのことわからせてるはずだからさ。それでも来るんだよ。ザリドや最初に到着する戦士達は、それを受け止める気なんだろうね。だからね」
レイシは丸腰のランティスの腹に、レイピアを突き刺していた。
「止めなくちゃ、ならないんだよ」
刺してごめんねと、目の前にいるレイシは言って笑った。哀しそうに。
哀しげな紫色の瞳に、妻とは似ても似つかないその瞳に、ランティスは彼女を見た。
――ランティス……ごめんなさい……この子を……わたし――
妻は死を悟っていた。体の中で、自分達の子供が死んでいくのを感じながら、彼女のせいではないのに、この子を守れなくて、ごめんなさいと、繰り返した。
ランティスの中にあるのは、最愛の人達を守れなかった、どうしようもない罪悪感だ。
死に抗って、一人戦って苦しむ彼女に、何もしてやれない罪悪感だ。想いはいつしか、獣人を憎む青い炎へと姿を変えた。ランティスは、自分の無力への怒りを、獣人さえいなければと、彼等へ向けて解き放ってしまった。
こんな、冷たく燃えさかる炎があることを、ランティスは知らなかった。冷たいのにもの凄い火力で、骨さえも残さない。こんな炎の中、立っているレイシが、ランティスには信じられなかった。
「妻の、顔が、謝るその顔が、消えないんだ……病が、悪いわけではないのに……オレは!どんな目に遭ってもよかった!腕も、足も、目も、心臓も、首だって、ほしいならくれてやったさ!それで、イリーナが助かるならなんだって!だが!ダメだった……レイシ、止まらない。止め方がわからないんだ!」
「ランティス、手、放してよ」
レイシは、ランティスに両肩を掴まれていた。手の力が強くて、振りほどけないほどだった。さすがウルフ族だな、痛みに強すぎでしょ、と、レイシは内心焦った。もう刺しているのも無意味だなと、レイシはレイピアを光に変えて消し去った。
ランティスにあまり時間はかけていられないのに、彼の納得いく答えなんて持っていないのに、彼に、レイシは縋られてしまった。なんでオレなの?とレイシは、ランティスがよくわからなかった。
「憎しみが溢れて、止まらない。どうやって、あなたは立っているんだ?その身を呪いながら、どうやって!」
どうやって?って言われても……と、レイシは困っていた。
そんなこと聞かれても、今立っている理由を言葉にできなかった。
ただ、確かに言えるのは、せっかく手に入れた力を、憎しみで使えなくなったレイシに、城の皆は全く今までと変わらずに接してくれたということだ。腫れ物に触るようでもなく、ただただ普通だった。態度も口調も咎められたこともなく、間違ったことをすれば叱られる。本当に普通だった。
リティルの邪魔をすれば、インファにお仕置きされる。力を失ったレイシは、筋トレ三時間、何回やらされたかわからない。兄の有無を言わせないイヌワシの瞳を思い出すと、対等に言い合える今でさえ、身震いしてしまう。
唯一、部屋に引きこもることは許されず、ケルゥに応接間に強制連行されては、ノインが淡々としゃべる今日の出来事を延々聞かされた。ほとんど反応しなかったのに、ノインは変わらず、涼しげな目元に笑みを浮かべていた。ノインのおかげで、レイシは世界情勢にかなり詳しい。未だに、ノインの今日の出来事を聞いていた。あれが聞けない今、ちょっと物足りない。
あの頃、リティルはレイシに必要のないことは、自分からは話しかけてこなかった。それは、レイシが拒絶の意思を示していたからだ。どうしても、自分の存在が許せなくて、それを許してくれるリティルに、レイシは近づけなかった。許し続けるリティルに、罪悪感が止まらなかった。
リティルは、実は歌うことに苦手意識がある。あんなに上手いのに、下手だから嫌だと言っていた。
それなのに、リティルはあの頃応接間でよく歌っていた。父の歌を聴くと、逃げたくなった。拒絶されて近づけないリティルは、その力ある声で歌うことで、寄り添おうとしてくれていたことを感じていたからだ。父の優しさに、そんな資格ないと、優しさを受け取れなかったレイシは、耳を塞いでいた。それでもリティルは、歌ってくれていた。
父から逃げようとするレイシを、シェラはどこへ行くの?と必ず引き留めた。母にそうやって声をかけられると、なぜか逆らえず、皆のいる応接間に留まるしかなかった。
ずっと、ずっと、守られた。風の城の皆に、家族である彼等にレイシは、守られたのだ。
「わからないよ。オレ、今でも風の城のみんなに愛されてるんだ。だからかな?オレ、幸せにならなくちゃいけないんだ。そうでないと、申し訳ないよね?」
困ったように、レイシはその冷たい瞳に小さく笑みを浮かべた。
幸せに――?
ランティスの脳裏に、人間の子供と遊ぶ、ウルフ族の子供の笑顔が、唐突に思い出された。そうして、唐突に言葉が弾けた。
――この大陸に、幸せをもう一度!
獣人への憎しみから、コウディオの言葉に乗ってしまった、暗く沈んだランティスの心が、我に返ったような、そんな気分だった。
白いベールをかぶった、黒髪の彼女が笑う。ランティス、わたし、幸せよ?と、そう言って笑って。ごめんなさいと、謝る顔だけではなかった。そんな、幸せそうな彼女の笑顔も、ランティスの心には確かにあった。背中に、そっと、ゲイボルグが寄り添ってきた。
思い出して。あなたは、何の為に、風の王・リティルの手を取ったのか。秘めた憎しみを暴き出し、その炎に灼かれて果てる為?あの、生き生きとした力強い眼差しに、あなたは、何を賭けようとしたのか。ランティス。あなたは、何の為に、ここに、いる?
オレは、何の為に?こんな、幸せを踏みにじるようなことを、何の為に――
「レイシ!今すぐ飛べ!」
「了解、父さん」
ごめんねとレイシがいうのと同時に、ライオンに化身した彼に弾き飛ばされていた。両腕を折られて、膝をついたランティスが空を見上げる頃、東に向かって飛び去る有翼ライオンの姿が辛うじて見えた。
その視界を遮るように、小さな風の王が舞い降りてきた。
「ランティス、オレはレイシを、憎まずにすんだんだ。シェラは生きてるからな。だからオレには、あいつを憎む理由がないんだよ。あいつは嘘つきだな。あいつが恨んでるのは、憎んでるのは、オレだよ」
ランティスの前に膝を折ったリティルは、彼の折れた腕を、自身に宿る花の姫の癒やしを使い、癒やしてやった。
「風の王の血を、与えてやれないからな。あいつは、オレの子に生まれたかったんだ。オレには、叶えてやれねーからな。ガッツリ、恨まれてるぜ?」
「そんな、理由……」
「そうだぜ?感情なんてそんなものだ。あいつは、ことあるごとに、オレだけどうして風じゃないんだろうか?って、想いながら生きてるんだ。風じゃない自分を、恨めしく思いながらな。自分の風じゃない血を憎んでるから、その力をオレの為に使ってるんだよ。あいつは、憎しみを受け入れてるんだ。憎くて憎くてたまらない力を使って、ほしくてほしくてたまらない風を守ってくれてるんだよ」
オレの息子、凄いだろ?と言って、リティルは静かに笑った。
「憎めよ、ランティス。おまえにはその理由がある。そして、自分の心と向き合えよ。獣人を殺すっていうなら、オレはおまえを止めるぜ?それは、どう考えても間違ってるからな」
「間違っている?獣人は!ソラビト族の郷を滅ぼし、薬草を独り占めにした!オレを騙し、イリーナ……!イリーナを殺したんだ!許せないんだ……オレからイリーナを奪った、獣人を!それでも許せって言うのか?獣人を憎んで滅ぼしたいオレは、間違ってるのか?」
この瞳を知っている。
――父さん!オレ、この身に流れるのは、風の王の血がよかった!
泣きながら激しく睨むレイシの瞳が、憎しみに染まって、やり場のない怒りの炎に焦がされるランティスの瞳と重なっていた。
「あの時、おまえとの約束を守らなかった獣人を、ザリドは一人残らず殺してる。いろんな理由をつけて、順番にな。ソラビトに薬草持たせて放って、あいつは、おまえとの約束を守ったぜ?そんなザリドのことも、おまえは一緒くたに憎むのか?おまえが憎むべきは獣人種じゃねーんだよ。あのとき、おまえに誠意を見せなかった何とかって名前の奴だ。目を曇らせるなよ。おまえの憎しみは、個人的な理由だよ。オレを恨む、レイシと同じだよ」
レイシの、リティルを見つめるその瞳に、憎しみは影も形もない。それでもリティルは、彼に恨まれていると言い切っていた。それでいいと、受け入れていた。血の繋がらない二人の間にある、信頼と絆。リティルがガッツリ恨まれていると言い切る過去が、二人にはある。今の二人の様子からは、想像できない。
ああ、そうか。リティルはレイシに恨まれたいのだ。憎まれたいのだ。と、ランティスは理由はわからないが思った。
リティルの中にある、レイシに対する罪悪感が、彼にそんな想いを抱かせている?あなたも、結構歪んでるじゃないかと、ランティスは、どこか気が抜けた。そして、やっと冷静になった。
「種族が違えば、文化も考え方も違う。国っていう形を取らなくちゃならねーんだ。戦争は、国と国との喧嘩だ。だから惑わされるんだよ。戦わされてるのは一個人だろ?例えば、家族の誰かが旅先で殺されたとするだろ?残された家族が憎しみを抱くのは、誰に対してだ?何に対してだ?殺したヤツだろ?同族だろうが異種族だろうが関係ねーよな?なのに、戦死すると恨みの対象は、敵対してる種族全部になるんだよ。殺されたっていう事実は変わらねーのにな」
だから、止めるのが難しいんだと、リティルは、レイシの飛び去った空を見上げて言った。
獣人が始まりの泉に到着する一週間前、獣人の郷は、崩壊を始めていた。
「早く!逃げてくださいよ!わわわ!もお、どこをどう支えていいのか、わかりませんよー!」
地震によって、ドーム状に削り取られた岩肌が崩れ始めていた。
決断が早かった為に、ザリドの率いるタイガ族と、狐の獣人であるフォルク族、犬の獣人であるビクル族の戦士達が先頭を務め、すでに出発していた。
インジュは皆の安全を確保する為、創造の力を総動員して、崩れる天井を支えていた。木の根を天井にまで張り巡らせて、網のようにしてみたり、大きなキノコを生やして落ちてくる岩の雨をしのぐ傘にしたりしていたが、大地が、足下から崩れてしまったら、もうどうしようもない。
すでに先頭が出発して二日。始まりの泉へは、戦士以外の者達も連れている為に一週間はかかる距離だ。早く追いかけなければ、インジュの翼でも間に合わない。
ソラビト族の歌によって呼び出された、祖先の霊と同化したタイガ族は、未だ見違えるようだった。しかし、ザリドは、長として数人を断罪した。
ザリドはその選定を、リティルに託した。腐った性根を、ワシでは見抜けないからと。
インジュは驚愕したが、リティルは顔色一つ変えずに、集められたタイガ族の数人をゆっくりと指さしていった。申し開きも何もさせず、ザリドはその者達を自らの爪で皆の前で引き裂いた。
こんなことを今更する必要があったのか?と、問うインジュに、ザリドは答えた。
――腐った性根は変わらん。奴隷の女とはいえ殺す以外のことを、指示した覚えはない。タイガは元々、姑息な手は使わん。また、こんな胸くその悪いことを、皆の前でやる羽目になるとは、もう、我慢ならん
リャンシャンのこと、ザリドは知っていたんだなと思うと同時に、インジュは姑息な手?と首を傾げた。それも、また?何のことだろうと、インジュはさらに首を傾げていた。
ザリドは、痺れの毒を飲まされて、たった一人で戦わされたことを、忘れているようなインジュに、憤りを感じたが、こいつはこういうヤツだなと、怒鳴るのをやめて、ため息を付いた。
――リティル、詫びる
――ああ?まあ、これくらいはな
ザリドに頭を下げられて、リティルは少し意外そうな顔をしていた。
リティルは避難を手伝い、崩れ落ちてくる岩の雨の中を飛んでいた。
「これで最後だな?インジュ、オレ達も行くぜ」
「はい!」
最後の一団を護衛の戦士達に託し、二人の精霊はスリットの空へ抜けた。そしてインジュは力を解放した。途端に、ドームの屋根は落ちた。
「リティル……こんな大きな破壊……見たことないです。本当に、大地は死にかけてるんですね」
「ああ、オレも、大地の死に立ち会うのは、初めてだぜ?これを止めようっていうんだ。どんな無謀なことしてるか、わかるだろ?」
インジュは頷いた。
「お父さんとノインは、存続か滅亡か、決めなくちゃならないんですね……」
今、どんな気持ちで見ているんだろう?とインジュは、風の城のことを思った。
「インジュ、獣人を守りてーか?」
「わかりません。獣人の人達はなんか狡くてですね、タイガ族の悪行、止めようと思えば、他の獣人種で結託して、できたはずなのにやらないですし。戦場では、タイガ族に頼ってたわけですよね?狡いです。ボク、獣人好きじゃないです」
タイガ族とインジュが戦ったときも、他獣人種はどこか冷めていて、別の世界の出来事のような顔で、見ていたように思う。この国の問題は、タイガ族だけではないのだ。確かに、政治を仕切る、タイガ族が不甲斐ないために、こんな、妙な溝のある国になったのかもしれないが、正す力は他の部族にもあったはずなのだ。
「でも、ボク、ザリドはなんか好きなんです。だからザリドが守りたいっていうなら、ボク、守りますよ」
リティルはそんなインジュに苦笑すると、背の高い孫の頭をポンポンと叩いた。
「おまえ、可愛いな。さあ、飛ぶぜ?だいぶ置いて行かれたからな。休んでられないぜ?」
「はい!ボク、疲れないからへっちゃらです」
「ハハ、オレは疲れたら、反則技使うぜ?」
リティルはそう言って、左手首のブレスレットを掲げて見せた。
「狡いです!ボクもゲート、使わせてくださいよ!」
そうやって戯れながら、二人は西を目指して飛び立った。
誰もいなくなった獣人の郷の上空に、カルシエーナは現れた。付き添いに、トカゲ型のドラゴン、カジトヴィールに乗ったゾナも共にいた。
「さようなら」
カルシエーナは髪を、巨大な、郷全体を一撃できるほどの大きさのハンマーの形に結い、それを振り上げた。そして、振り下ろした。
獣人の郷は、カルシエーナの手によって海の中へ没した。
憎しみ。
レイシは、どんなに酷い目に遭っても、相手を憎むことはない。例え家族を殺されても、怒りはしても憎むことはない。
それは、消えない憎しみを、自分自身に向け続けているからだ。
ランティスが泣きそうな顔で、憎しみが消えない!止め方がわからないと訴えてきたが、消えないなら、ずっと持っていけばいいと、冷めて凍り付いたもう一人の自分が、つぶやいていた。レイシにも、消し方なんてわからないのだから。
『あ、もう始まってるよ。ヤバいな……どう止めたらいいんだろう?』
なだらかな山の向こう側で、獣人軍と始まりの泉軍が激突していた。風向きから、ここで戦闘が起こっていることを、始まりの泉にいる者達は気がつかないだろう。
アルディオには、長旅をしてくる獣人達の為に、炊き出しをしてくれるように頼み、絶対に鍋から離れないで!と念を押してきた。大食らいなウルフ族の子供達に、食べられるからと。子供達には、アルディオを見張ってと頼んできた。この任務を完遂したら、魔法を見せてあげるよ、と約束して。
真面目なアルディオと子供達なら、レイシの信用を裏切らないだろう。
この争いを、始まりの泉に、絶対に知られてはいけない。誰も殺さず、殺されないで止めるつもりだったが、やはりそれは無理だったなとレイシは諦めた。
『コウディオ!今すぐやめるんだ!せっかく助かった命、捨ててどうするんだよ!』
レイシは空に向かって吠えた。その声で、始まりの泉軍の動きが鈍った。そこを畳みかけられるかと案じたが、獣人軍はその隙に退き始めた。
それを指示しているのはザリドだった。そして、統率の取れた動きで、タイガ族はそれに従っていた。レイシは咆哮を上げながら、追撃を始めた、始まりの泉軍の前に、ドンッと四肢を張って降り立った。
『やめろ!嘘だよね?半獣人種までいるの?』
ここへ来る前から知っていた。ウルフ族やエフラの民も、この軍に加わっていることは、レイシの固有魔法である見破りレーダーで把握していた。
レイシの前に、コウディオが進み出た。
「レイシ殿、これがこの青い焔の現状だ!我々の中にある憎しみの炎、ここで消さねば戦争は止まらない!」
『なに諦めてるんだよ!憎しみの炎?そんなもの、消さなくたっていいじゃないか!』
「では、どうする?憎しみが受け継がれれば、未来永劫争いは止まらない!」
『伝えなければいいんだよ!自分だけの胸に秘めて、相手を攻撃しなければいいんだよ!一度生まれた憎しみは消えない。オレも憎んでるから、わかるんだ!踏みにじられた恨みも忘れられないよ!でもそれでも、オレは生きていく。オレには、風の城のみんながいるからね。あんた達にはいないの?一人で生きてるのかよ!違うだろ!みんなにも、誰かいるだろ!』
インジュ!早く来てよ!と、レイシは祈っていた。インジュが来ても止まるかどうかわからない。けれども、止められなくても、いつか伝わるかもしれない。見せなければならない。この争いの無意味さ、空しさを。
『始まりの泉に家族がいる者は、今すぐ帰れよ!ここで死んだら、それこそ争いは止まらないよ。残された者は獣人を恨むしかなくなる。それが、戦争だから!』
この瞳は、何を言っても無駄だと、絶望的な気分になった。皆、生きることを諦めていた。誰を失った恨みなのか、復讐を遂げられる最後の機会だと、暗く沈んだ、闇のような炎の燃える瞳が、レイシを囲んでいた。
この瞳を知っている。見てはいないが、レイシもこんな瞳で、産みの親に刃を向けたのだから。憎しみと怒りが、レイシに刃を握らせた。それを阻止してくれたのは、風の王・リティルだった。そしてリティルは、レイシの代わりに産みの親に刺されてしまった。
オレの行いが、父を傷つけたと思ったら、レイシの中のすべての感情が溶けて、心は真っ黒な闇に飲み込まれてしまった。暴走したレイシを止めてくれたのは、インファだった。
インファはたった一言で、レイシを我に返らせた。
――レイシ、これ以上父さんの手を煩わせると、お仕置きですよ?
風の王の手を、煩わせてはいけない。それは、風の城の子供達の間にある、暗黙のルールだった。多忙な父の負担を、少しでも減らそうと、子供達が遙か昔に決めたルールだ。審判者はいつも長男のインファで、長年の習慣が、レイシを現実へ引き戻してくれた。
これだけの人数の日常なんて、知らない。今に繋ぎ止める言葉なんて、レイシの中にはなかった。
――どうしたらいい?こんなの、オレじゃ止められないよ!
風の城にいるインファやノインなら、止められるのだろうか。今、ランティスのところにいる、リティルなら?いや、誰にも止められない。レイシも止まれなかったから。レイシが助かったのは、奇跡だった。
暴走して、兄と父、二人がかりで止められて、それから――ずっと罪悪感が、自分自身への憎しみが消えない。あの時生まれた、真っ黒な闇は未だにレイシの中にあった。
このまま、睨み合っていてもどうにもならない。説き伏せられるような想いなら、ここまで大きくなっていないから。
やるしかないのか?新たな恨みを獣人に向けさせない為には、この手で彼等を――
そんな戦場に、歌声が降ってきた。
──心に 風を 魂に 歌を 君と築く未来が 今 目の前にある
──さあ わたしに 手を伸ばして 掴んだ手が まばゆい羽根に変わる
──恐れるな 傷ついても 誓え 瞳の輝きを失わないと――……
こんな殺伐とした戦場には似つかわしくない、楽しげで元気な歌声だった。
皆の瞳から、暗く沈んだ闇の炎が消えていく。そして、歌の主を探すように視線が空へ向けられた。
ああ、彼女の歌だ。化身を解いて、レイシも眩しそうに空を見上げた。
「インリー……」
もうちょっといろいろ隠してほしいなと、思ってしまう軽装で、黒髪の少女は楽しそうに歌っていた。インリーは歌いながら、舞うように腕を振るった。すると、獣人軍と始まりの泉軍との間に、金色に光り輝く壁が立ちはだかった。
「レイシが待ってるよ?インジュ、早くおいでよ!」
ん?インジュ?
「あわわ!インリーバラさないでくださいよ!」
あたふたしながら、インジュは上空のインリーに並んだ。その姿を見て、レイシはイラッとした。
あいつ、オレの剣幕に気圧されたかして、隠れてたな!レイシは、ギロッとライオンの瞳で上空のインジュを睨んだ。
「インジュ!なんで先頭飛んでこないの?あんたがモタモタしてるから、喧嘩になっちゃったじゃないか!わかってるよね?獣人とその他は仲悪いんだよ!オレ達が代表で戦わなかったら、せっかく助かった命が死んじゃうだろ!この、バカオウギワシ!」
レイシに睨まれて、インジュは息を飲むと、インリーの背に隠れた。その姿にさらに苛立った。
「みんな、そこで見ててよ?あの崩壊を生き残ったのに、こんなことで死なないでよ!オレは、こんな結末の為に助けたわけじゃないよ!獣人を許せなんて言わない!許せなくていいよ!許す方はアルディオに任せて、あんた達は獣人の見えない山の向こうとかにいてよ!とにかく、死ぬな!あんた達の怨嗟は、オレが引き受けて、あっちサイドの、インジュと戦う!代理戦争だよ、文句ないよね!」
「えっ!ま、待ってください!」
インジュはインリーの細い肩を掴んで、まるで盾にするかのような恰好だった。インリーは困った顔で、ただ笑っていた。
「あんた相手に、待つわけないでしょ!」
ルディルの扱うような大剣を抜いたレイシは、インジュに容赦なく斬りかかっていた。
そんなレイシの姿に、インリーはヒョイッと身を翻してインジュの前から逃げた。そして、地上へ舞い降りた。
「あなたは、レイシ殿の?」
目の前に舞い降りてきた少女に、コウディオは、話しかけずにはいられなかった。
「インリーです!レイシがお世話になってます」
インリーはそう言うと、深々と頭を下げた。本当に、こんな戦場に似つかわしくない女の子だ。顔を上げたインリーは、コウディオの後ろで、レイシとインジュの戦う様を固唾をのんで見守っている、人々の顔をジッと見ていた。
「何か?」
「ううん。もう大丈夫かな?って」
そう言ってインリーは、元気な笑みを浮かべた。そして、戦場のどこかへ華奢な翼をはためかせて、飛んでいってしまった。
上空では、レイシの猛攻が続いていた。インジュはただ、逃げ惑っているように見える。
「やめてくださいレイシ!あ、危ないです!」
鼻先をかすめたレイシの燃える大剣に、インジュはトンッと手を触れた。途端に刃が凍り付いて砕けた。レイシは刃の砕かれた剣を捨てると、今度は刀身が銀色の刀を抜いた。
えええええ?インジュは泣きそうになりながら、レイシの持つ刀にのみ集中して、手で触れる。レイシの体に、絶対に触れるわけにはいかない。彼の肉体は人間と変わらない強度だ。インジュの力の前では、インリーの守りもないも同然だ。触れたらよくて大怪我だ。最悪殺してしまう!
なぜ、こんなことに?インジュは意味がわからなくて戸惑っていた。インジュがたどり着いたときには、戦闘が始まっていた。そこへレイシが飛び込んできて、両軍は睨み合ったまま剣を退いた。だが、いつまた戦い始めてしまうかわからないような、そんな空気だった。こんな憎しみの空気……説得はリティルであっても不可能では?とインジュは思えた。それでも退かないレイシの姿に、なぜそこまで?と思ってしまった。
そんなとき、インリーの歌が聞こえてきた。ああ、これでこの憎しみの争いは終わると、インジュは安堵した。インリーの歌には、定められた死以外の死を、遠ざける力がある。戦場で歌えば、その争いを止められるのだ。それで、終わったのではなかったのか?と、レイシに攻撃されながら、インジュは混乱していた。
そもそも代理戦争って何だ?どうして、他人の憎しみを引き受けてレイシが戦わなければならない?と、インジュは怒りが湧いてきた。憎しみで、郷を追われて逃げてきた獣人達を待ち伏せして、こんな争って、そんな彼等の心を引き受けて、どうしてレイシが、危険で無謀な戦いをしなければならないんだ?とインジュは憤った。
こんなのは、間違ってる!インジュの手の平が、レイシの光の刃を闇で包み消し去った。そのまま勢い余って、レイシの頬をかすめてしまった。
「!」
レイシの頬から血が流れた。あっ!と思ったときには間に合わず、突き抜けてしまったインジュの手がレイシの空色の翼に触れてしまった。反属性返しを纏った手の平は、レイシの綺麗なガラスのような翼を、砕いていた。
翼を砕かれた衝撃に、レイシの体がぐらりと揺れて地上へ落下していた。
「レイシ様!」
落ちてくるレイシを受け止めようと、人間達が押し寄せていた。
「任せて!」
インリーの元気な声と共に、金色の風が放たれ、空中でレイシの体を受け止めていた。そして、コウディオの腕の中に下ろした。
「レイシ殿!」「レイシ様!」
中には泣き出す者もいた。そんな人間達の姿を、空中でインジュは呆然と見下ろしていた。
インジュの心臓は、痛いくらいに速く打っていた。息苦しくて、どんなに息を吸っても空気が肺に入る気がしなかった。
レイシを傷つけた?この手が?インジュは震えるその手を見つめていた。
「レイシ……嫌です……なぜです?どうして、レイシが他人の憎しみを背負って、それで、それでボクと戦わなくちゃならないんですか!ボクのこと、そんなに嫌いです?嫌ですよ……もう、嫌です……!憎しみばっかりなんです。ここは憎しみで塗りつぶされてます!少しは許せないんですか?そんな憎しみで、ボクの大事なレイシを、傷つけさせないでください!ボク、レイシのこと、大好きなんですよ?傷つけたくないです……傷つけたくない!もう、誰も!この手で……この手があるから……この手があるから……!」
インジュの目から流れた涙が、筋を作っていた。インジュは憎らしげに両手を見つめた。そして、インジュは左手を差し出すと、その手首めがけて右手の手刀を振り下ろしていた。
「……あのさ、インジュ、片手だと結構困るよ?オレ、左手使えなかったとき、かなり苦労したからわかるんだ。インジュ、もういいよ。もう、戦わなくていいよ。あとはさ、オレに任せて城に帰りなよ」
レイシは、インジュの右手を止めていた。レイシは、体でインジュの左手を庇って、左手一本で彼の右手首を掴んでいた。
「レイシ……ボク、失格です?」
インジュは傷ついた瞳で、まだ涙は止まらずに流れていた。どこまで、優しくできてるんだよ?とレイシは呆れて、困って笑うしかなかった。あれくらいで、両手を切り落とそうとするか?普通と、レイシは、インジュの精神が、もう限界かもしれないことを感じた。
「失格なわけないでしょ?あんたもオレに怒られたいの?インジュの仕事は、ザリドをここへ導くことでしょ?終わったんだから、帰れって言ってるの」
レイシは、グイッとインジュを抱きしめてやった。インジュは子供のように縋って、声を上げて泣き始めた。全く困った精霊だ。見た目も精神年齢も、インジュの方が上のはずなのに。
「レイシは帰らないんです?」
「うん」
顔を上げたインジュが、信じられないモノを見るような目で、レイシを見ていた。
「どうして!まだ、憎しみ背負うつもりです?レイシのじゃない、他人のですよ?獣人の皆さんは、それだけ恨まれることしたんです!それなのに、それなのに!」
もういいじゃないですか!と叫んだインジュの瞳からは、まだ涙が流れていた。
いやいや、ここで諦めたら滅びに一直線だよ?と、レイシは相棒の言葉に、苦笑するしかなかった。
「インジュ、聞きなよ。獣人はさ、ただ獣人に生まれてきただけなんだ。今ここにいる人間も半獣人種も、ただそうやって生まれてきただけなんだよ。その場所に生まれて、そうやって教育されて、当たり前のように、心さえも作られただけなんだ。オレがどういう存在か知ってる?」
「混血精霊です?」
「そう、オレ、混血精霊。混血精霊は、有無を言わさず殺される命なんだ。だけど、オレは、優しい十五代目風の王に拾われて、生かされた。父さんに出会ってなかったら、オレはもしかすると、インジュの前に、殺されるべき命として、立ってたかもしれないんだ。ちょっとしたことなんだよ。今こうして、一緒にいるのはね。そうだとしても、植え付けられた憎しみは消えない。オレも憎んでるからわかるんだ。たぶん、オレの憎しみは、オレが死ぬまで消えない。そういうものなんだ。だからさ、一緒にいなくていい。そして、憎しみは自分の心にだけ留めて、自分の子やそのまた子に伝えないでほしい」
レイシは、コウディオを見下ろした。
「約束してほしいんだ。憎しみを後世に伝えないって。自分は、どんなに憎んだっていい。でもそれを、自分達の子と共有しないでよ。みんなも!オレに約束してほしいんだ!今その胸にある感情は、自分だけのものだよ!誰にも触れさせちゃいけない。知りもしない憎しみを、教えちゃいけないんだよ。今、オレ達がしたことを、自分の大事な人達にさせちゃいけない!インジュの叫びが真実なんだよ。オレも……インジュを傷つけたくない。でも、しかたないんだ!オレは、始まりの泉連合軍の味方だから!コウディオ、行って。東の山向こうに、絶対に獣人を行かせないって約束するからさ」
コウディオはレイシに、深々と一礼すると、東に向かって進軍を始めた。
「インジュ、ザリドに指示出せる?この山の向こうで、アルディオが待ってる。獣人も安らげる場所を、あいつは作ってくれてるんだ」
「はい」
インジュは返事だけすると、ザリドのもとへ舞い降りていった。インジュと入れ替わりに、インリーがレイシの隣に舞い上がった。その姿を見ながら、インジュは泣きたいのを堪えていた。インリーは、レイシがインジュの手を止めるときだけ助力したのみで、あとはずっと見守っていた。そして、触れてこないレイシの隣に、当たり前のように収まっている。触れ合わなくても、二人の間にある絆は揺るがない。インリーは、レイシの選択を受け入れ続けて、彼の隣に居続ける。ときどき、刺されるんじゃないかと思えるほど、鋭く暗い瞳で、思い詰めているレイシの心を、無意識に癒しながら。
近づけないです。と、インジュはもう、二人を見上げなかった。
「何とかなった?」
当然のように隣へ来たインリーが、お気楽な空気を纏ったまま問うた。
「うーん、どうだろう?でも、助かったよ、ありがとう、インリー」
本当に、インリーが来てくれなかったら、彼等は憎しみの炎で、焼け死ぬところだった。獣人達の心も、ただではすまなかっただろう。
「ウフフ。どういたしまして。あ、犠牲者ゼロだよ?褒めて!」
インリーは戦場を駆け回り、傷を癒して回っていた。中には魂が離れてしまいそうな者もいたが、インリーの歌が辛うじて繋ぎ止め、何とか全員を助けることができた。
ありがとうと、レイシはインリーの頭を撫でた。
「少し、君をほったらかしにしていい?」
「いいよ。インジュだよね?」
インリーは少しも嫌な顔をせず、レイシの言葉に微笑んでくれた。インジュのことは抱きしめてやるのに、わたしにはしてくれないのとは言わずに。
「うん。理解が早くて助かるよ」
「レイシ」
「何?インリー」
「がんばったね!」
「上から言う?でも、ありがとう」
レイシは袂を分かってしまった者達を見下ろしながら、インリーの手をそっと握った。