三章 それぞれの崩壊の果て
この場所が崩壊する。
審判の日を待たずに、人間の国は消えてなくなる。
レイシは呆然としていた。どうする?小規模だとしても、ここには千人なのか万人なのか、数え切れない人が暮らしている。これだけの人数を、全員、一人残らず助けることなどできるのだろうか。
「レイシ殿?どうされた?」
「あ、うん……コウディオのことだったよね?あの人は遠ざけちゃダメだ。あんたの唯一の味方だよ。そういえば、あいつ、オレに話があるって言ってたな」
アルディオは、レイシがコウディオを味方だと、そんな風に言うとは思わなかった。
「ねえ、コウディオって、普段どこにいるの?」
「わたしと同じ空間にいることはない故、なんとも」
「それって、独自に動いてるってこと?国の機関とかじゃないの?」
「様々な情報を持ってきてくれるが、国の機関というわけではない。レイシ殿、顔色が優れないが、どうされた?」
なかなか鋭いなと、レイシは困った。だが、話さなければならないことだ。でも、コウディオにも聞いてほしいなと、思った。
「あのさ、コウディオと二人で聞いてほしいんだけど、あいつ呼べる?」
「レイシ殿、わたしはここで待っている。人気のない路地裏を歩いてみてほしい。彼があなたと話したいというのなら、必ず彼は現れる」
人気のない路地裏?なるほどねと、レイシは頷いた。その路地裏で、レイシは彼に捕まったのだ。同じ場所に行けば、会える可能性は高かった。
アルディオは、早々に窓から街に飛び出していったレイシの、その後ろ姿を見送った。彼はまた、一人で戦っているようだなと、アルディオは思った。あの再生の精霊の襲撃の後、国へ戻ってきたレイシは、まず側近達を訪ねた。そして一言、こう言った。
――ケルディアス、怖かったでしょ?
そして、彼等の目の前で、国にもう一度シールドを張った。しかし、それ以上何も言わなかった。
アルディオは、レイシが何かを抱えて、考え込んでいることに気がついていた。
レイシの不在の間、そばにいてくれたリティルが、もう、あまり時間がないと言っていたが、そのことと関係があるのだろうか。
不意に地震が襲った。このところ、本当に多い。まるで、この場所を崩壊させようとしているようだなと、アルディオは思った。
「アルディオ様」
窓辺で、レイシの行った方をボンヤリ見ていたアルディオは、やっと不穏な空気を感じた。
ああ、この国はもう、ダメだ。唐突にそう思った。
ゆっくりと彼等に、体ごと向き合ってアルディオは、絶望を宿した瞳で、力なくその光景を見つめた。
側近達が勢揃いで、冷たい瞳でこちらを見ていた。その背後には、兵士達の姿があった。
「精霊と共謀し、国に反逆した罪で、あなた様を拘束します」
彼等は何を守っているのだろう?レイシが坑道に閉じ込められた一件で、国は二つに割れてしまった。
アルディオとレイシを支持する精霊派と、カルシエーナとレイシが結託している、騙されるなという反精霊派だ。
ケルディアスの襲撃が劇的で、踊らされているのでは?という噂が、あの直後国に流れた。おそらくそれをしたのは、側近達だ。あくまでも彼等は、レイシを排除したいのだろう。そして、アルディオに力をつけさせたくないのだろう。
何の為に?何の為なのだろうかと、アルディオは思う。
坑道に閉じ込められたレイシと、ケルディアスの会話を聞いても、そんな小さなことを気にするのか?と思ってしまった。
レイシの思いはとてもシンプルだ。そこに、微塵の嘘偽りはないというのに。
レイシはただ、人間を守りたいだけだ。なのに、なぜ、彼等はわからないのだろうか。
『はあ。アルディオ、ごめんね。オレ、本当に傲慢だったよ』
アルディオはレイシのため息に、側近達で見えないその後ろに視線を投げた。
ああ、もう、戻ってきてしまったのか……そう思った。
この期に及んで、覇権争いに忙しい、この国の醜悪な姿を、見られたくなかったなと、アルディオは力なく思った。
「レイシ殿……」
謝らなければならないのは、アルディオの方だった。今まで信じて待っていてくれたレイシに、申し訳なかった。こんな結末を、導いてしまった。
「詫びねばならぬのは、わたしの方です。レイシ殿、申し訳ない。わたしには、国を一つにまとめることができなかった。カルシエーナが引導をわたしてくれなくとも、近い将来滅びたでしょう」
『アルディオ、オレさ、この国のすべての人を守れると思ってたんだ。風の王に任命されたとき、そう思ってたんだ。今の今まで、どうやったら全員守れるのか考えちゃってた』
割れない人垣に、有翼ライオンに化身したレイシは強引に歩みを進めた。アルディオを取り囲んでいた者達は押しのけられて、道を空けさせられていた。
「レイシ殿……」
レイシはアルディオの前に進み出ると、後ろ足を折って座った。
『全部教えるよ。オレがここに来た、本当の理由』
アルディオは、僅かに見上げてくるライオンの、紫色の瞳をジッと見返していた。
『最近、地震が多いのわかってるよね?この地震さ、大地が死んでいくサインなんだ。青い焔は、近いうちに大地が崩壊して、海に沈む』
何となくだが、アルディオにはそんな気がしていた。
『それはね、この大陸が争いを止められないからなんだ。流される血が、大地から力を奪っちゃうんだってさ。破壊の精霊・カルシエーナは、この大陸出身だってこと、知ってるよね?彼女は、どうせ壊れるなら自分の手でって、再生の精霊・ケルディアスと共謀してここへきたんだよ。カルシー達は本気だよ?オレ、彼女達とは家族だからよくわかるんだ』
これは茶番だ。けれども、本気の茶番。インファ達が決断すれば、カルシエーナはリティルの命に背いてこの大陸を破壊するのだから。止められない。リティルであっても、リティルを想うカルシエーナを止めることはできない。レイシは、カルシエーナに破壊させないように戦うだろうリティルを、止めようと思っていた。だって、父にだけ背負わせたくないから。虐殺の痛みを、風の王だからという理由で、背負わせたくない。
「やはり、カルシエーナと繋がっていたのか!聞いたでしょう、アルディオ様!」
大げさに騒ぐ側近を、アルディオは冷ややかに見つめた。
「聞いていた。が、それがなんだ?レイシ殿、続きを」
「アルディオ様!目を覚ますのです!その精霊は、カルシエーナの仲間なのですぞ!」
「黙れ。黙れと言っている!」
アルディオの剣幕に、皆口をつぐんだ。レイシは小さくため息をつくと、アルディオを再び見た。
『オレの父さん、風の王は精霊のルールに則って、カルシエーナ達を止めに来たんだ。オレは、人間を守るように任命されてきた。今、カルシエーナ達じゃない脅威が、この国に迫ってる。この国の真下から大地の崩壊が始まってるんだ。早くこの場所から避難しないと、みんな、みんな、海に、沈む!アルディオ!今すぐ始まりの泉でいいから、みんなを連れて逃げるんだ!そうしないと――みんな……ごめん!オレの力は太陽光だから、大地の崩壊は止められないんだ。オレには、守れないんだ』
あんたなら守れるよね?そう言われた気がした。
レイシの縋るような瞳に、アルディオは臆してしまった。 先代から引き継いだとはいえ、仲間とすらまともに話もできないのに、民を、民の心を動かし救えるのか、途方もないことに臆していた。
こちらを見上げていたレイシが、視線を床に外してしまった。レイシも、無力感に襲われていた。しかし、彼と自分は違うと、アルディオは思った。
レイシは、きちんと行動しているのだから。
不意に強い揺れが襲った。
『これはきっと、マイナス査定だ』
俯いたレイシがつぶやいた。そして、急に顔を上げた。その瞳が怒っているような、強い光に輝いていた。何かを決心し、彼はまた一人行動しようとしていることが、アルディオにはわかった。
レイシはアルディオを押しのけると、ライオンの大きな手の平を石の壁に押し当てた。石の壁が溶けて、大きな穴が空く。
そしてレイシは、アルディが耳を疑うようなことを叫び始めた。
『聞け!人間達よ!オレの名は空の翼・レイシ!この国を襲った、破壊の精霊と再生の精霊とはグルだ!今からこの国を、オレが破壊し尽くす!』
――これしか思いつかないんだ。オレ、兄貴達みたいに頭よくないからさ。アルディオが動けないなら、オレのできるやり方でできるだけ多くの人達を守る。守ってみせる!
レイシは空に飛び出すと、坑道のある山を見据えた。そして、その開いた口に太陽光の力を集める。そして、力強い咆哮と共に力を解放していた。
レイシの口から放たれた力は真っ直ぐな光線となって、山を破壊していた。真っ直ぐに、山岳地帯を抜けてその先の平原まで。
――さあ、逃げて!希望があるうちに!
レイシは国の東を見据えると、首を振るって光線を放った。東の壁が溶けて燃える。この炎から逃れるには、西へ行くしかない。西へ行けば、平原へ行くしかない。
――気がついて!あの時、オレを助けようとして、誰に命令されたわけでもないのに、行動できたみんななら、西へ逃げれば助かること、わかるよね?わかってくれるよね!
レイシは天に向かって吠えた。オレを恐れて!と願うように。
「レイシ様!」
『何してるの?オレは、おまえ達の敵だよ?殺されたいの?』
東へ向かって空を駆け始めたレイシは、逃げずにこちらを見上げている人間の一団を威嚇した。
「もう、そんなことしなくていいんだよ!みんな、レイシ様の言葉、聞いてたから!」
え?聞いてたって何を?
レイシは意味がわからずに、空中に羽ばたきながら制止した。
「西へ逃げればいいんだな?大地の崩壊なんて大きなこと、実感わかないけど、あんたの言葉なら信じられる!」
『どう……して?』
そのことを知っているのは、アルディオとあの場にいた者達だけだ。結局あの場の誰も動けなかった。なのに、なぜ、民達は知っているのだろうか。不意に、強い揺れが襲った。皆の上に倒壊した家が覆い被さる。レイシは自身の大きさを巨大に変え、咄嗟に庇っていた。
「レイシ様、敵じゃないの?そんなことしちゃったら、どっちを信じていいのか、わからなくなっちゃうよ?」
小さな女の子にそう言って笑われて、レイシは観念するしかなかった。
『オレ、バカみたい。さあ、道は開けておいたから西へ逃げるんだ!その先のことは、後で考えればいいからさ!』
うん!と頷いて、女の子は満面の笑みを浮かべて大人達と走って行った。
「レイシ殿」
背中にのしかかった瓦礫を払い落として、普段の大きさに戻ったレイシは、ゆっくり近づいてきた黒いマスクの男を、ジロリと睨んだ。
『あんた何かした?コウディオ』
「ラジオというものを知っているか?それを使うと、声を沢山の者に届けることができる。貴殿らの会話を、国中にばらまかせてもらった」
『何それ?オレ、完璧に道化じゃないか!』
「そうでもない。貴殿の行動で、アルディオはやっと、見捨てる覚悟を決めることができた。兄は、この国のすべての人を守りたかった。そんなこと、できるはずもないのに、途方もない夢を見続けていた。人の数だけ心があり、人の数だけ考えがある。これだけ多くの者が、同じ方向を向くことなど不可能だ。だが、それでも夢を見てしまった。レイシ殿、兄を許してやってほしい。そして、見限らないでやってほしい」
『あんたさ、アルディオのそばにいてやってよ。アルディオ、一人で可哀想だよ?』
コウディオは、顎を引いて小さく笑った。
「生き残った暁には、考えよう。では、始まりの泉で!」
『うん。死なないでよ?コウディオ!』
コウディオはマントを翻すと、走り去った。さて、もう知られてるなら悪役演じることもないかと、レイシは東を見据えた。そろそろ壁が燃え尽きて火が消える。レイシの足に、大地の底から響いてくる終わりの音が感じられた。もう、この大地は保たない。
――どれくらいの人が、オレを信じて行動しているのかはわからない。でも、生きようとする皆を助けよう。オレは、命の行く末を見守る、風の王の息子だから!
レイシは東の空に向かって地面を蹴った。
『西へ!とにかく西へ行くんだ!』
地響きが、空中のレイシにも届き始めていた。街の建物が次々に倒壊していった。助けられない命があった。そこから目を背け、レイシは空を駆けた。
レイシは、キラリと日の光を鋭く返す何かに、瞳を細めた。光はキラリキラリと、合図を送るように煌めいていた。
どこから?レイシは視線を向けた。光は、ケルゥによって壊された城からだった。レイシは空を駆け抜け、そこへ舞い降りた。
「アルディオ!何してるの?あんたも早く逃げないと!」
化身を解いて駆け寄ろうとしたレイシに、アルディオはまるで近づくなというように、長剣を突きつけた。その白銀の刀身が赤く汚れていた。
「わたしは、行けない」
「なんで?あんたは、風の王に選ばれた、人間の代表だよ?その役目を放棄するの?」
「わたしには、資格がない。レイシ殿、旧体制の人間は、ここで滅びるべきだ」
「だから、みんなを斬ったの?あんたら兄弟だね。コウディオも同じこと考えてたよ。実行する前に、大地に限界がきちゃったけどさ。ねえ、なんで殺したの?放っておいても、死ぬ羽目になってたと思うよ?」
アルディオの体も、返り血で汚れていた。掴まれたのか、彼の肩には赤い手の痕がベッタリとついていた。
アルディオは、レイシの、心を犠牲にする叫びを受けて、凶行を行ってしまった。この国がなくなることも、彼の背を押した。レイシの、未来を見据える視線の先を遮る彼等を、排除しなければと思ってしまった。
「殺さねば、彼等は生き延びた。そして、争いを引き継いだ。レイシ殿、瞳の曇った者には何を言っても無駄だ。しかし、彼等はこれまでこの国に尽くしてくれた。未来へ進ませられなくとも、感謝しなければならない」
アルディオは床に向かう切っ先を追って、力なく目を伏せた。
「待ってよ!みんなはどうするの?指導者がいなかったら、どうやって生きていくの?オレだって!風の王がいなかったら、生きていけないんだ!道しるべになる人が必要だよ!」
レイシの言葉に、アルディオはこちらを見た。その瞳が、何を言っている?と小さく笑った。
「レイシ殿、あなたはリティル殿がいなくても生きていける。そう思い込んでいるだけです。現にあなたは、ここまでのことを、リティル殿なくしてやり遂げたではありませんか」
レイシは激しく頭を振った。アルディオは買いかぶってると、強く思った。レイシが行動できたのは、いつも前を飛んでいる、リティルの背中を見ているからだ。
父に恥じないように生きよう!そう思うからこそ、レイシは飛べる。飛べるのだ。
「生きていけないよ!父さんがいるから、オレは進めるんだ。父さんが示してくれてるから、オレは迷わずに!」
前を飛ぶ父がいなくなったら、途端に迷ってしまう。この危険な力を、どう使っていいのかわからなくなる。リティルの為に、リティルの願いを叶える為だけに、この力を使うんだと決めている。この翼をくれた、押しつぶされた心を、血にまみれた泥の中から掬い上げてくれた、かけがえのない、傷つきやすい太陽のような笑顔のあの人を守る為に。
それが、それだけがレイシの指針だった。望まれなかった命のレイシを拾い上げ、愛してくれたリティルに報いる為に、この偽りの翼で飛ぶのだ。
「迷ってもいいのです。生き残った皆も、生きていけます。わたしがいなくても、わたしに代わる誰かがまとめ、新たな国を築いて生きていけるのです。レイシ殿、あなたがそれを示してくれたのだから」
違う!とレイシは思った。それは、アルディオが見たのは、オレを通して見た風の王・リティルの背中だ!と、レイシは言いたかった。
「アルディオ!あんたは、オレと同じ思いでいてくれた!だから、オレは動けたんだ。オレがいなくても、あんたならみんなを助けられるって、信じてたから!来てよ、一緒に!みんなに、あんたは必要だ。誰になんと言われようと、オレに風の王・リティルが必要なように、みんなには、自分達を思ってくれる、あんたみたいな王が必要なんだよ!オレは、危険な存在なんだ。本当は存在しちゃいけないんだ!それを、父さんは生かしてくれた。今でも、オレを守ってくれてる!だから、生きていけるんだ。みんなを守ってよ。アルディオ!誰も殺したくなかったあんただから、オレは人間の未来を託せるんだ!」
大地が、一際大きく波打った。水柱が大地を割り、いたるところに立つ。もう、一刻の猶予もない。
揺れに片膝をついたレイシは、キッとアルディオを睨んだ。もう、答えを待っている余裕はない。捕まえて、連れて行く!レイシはアルディオに向かって走る。
その足下が崩れた。アルディオが、終わりを覚悟して瞳を閉じるのが見えた。
手が――届かない――……
――父さんなら、きっと届くのに!オレじゃ……
偽物の翼では、導く能力のない混血精霊では、所詮無理だったのだと、レイシは自分自身に絶望しながら、アルディオを追って穴に落ちた。
――父さん!ごめん、オレを信じてくれたのに!届かないんだ、オレじゃあ!
進む先は闇だった。どうして風は、こんな闇の中臆せず飛べるんだろう?そう思っていた。
怖くないのだろうか。オレは怖いと、レイシは思った。道を切り開く、金色の翼に憧れながら、風が当たり前に持つその心に、臆していた。
進む先が、間違いなのか正解なのかわからない。それを選択し、飛び込んでいく父の背中を、レイシは追うばかりだった。
アルディオを手放した方がいいの?捕まえた方がいいの?わからなかったから、手が届かなかったのだろうか。
――それでも、それでもオレは、掴みたいんだ!
結末を見るのが怖くて開けられない瞳のまま、レイシはアルディオに向かって、手を伸ばしていた。
「レイシ、目を開きたまえ」
聞き慣れた声だった。え?とガバッと顔を上げると、そこにいたのは、おとぎ話の絵本から抜け出したかのような、魔女のような、つば広の三角帽子をかぶった、大人で知的な男性だった。彼は、どこか困ったように、控えめに微笑んでいた。
時の魔道書・ゾナデアン!レイシは、目を疑った。引き籠もりの彼が、出てくるなんてあり得ない。だが、どう見ても彼だった。
「レイシ、三十分しか時を止めてやれはしないのでね。早く行きたまえよ」
ゾナは、暗い青色の鱗と、皮膜のある翼を持つドラゴンに乗っていた。過去の長針・カジトヴィールだ。彼の背後には、アルディオが倒れていた。
「なんで、ゾナ?」
レイシは、蛇のようなしなやかな体を持つ、暗い青色の龍に助けられていた。未来の短針・ミリスヴィールだ。レイシの驚きにゾナは、ため息を付くと、知的に優しく微笑んだ。
「君の過保護な兄上に感謝するのだね。さあ、行きたまえ。リティルに見つかる前に、帰らねばならないのでね」
ゾナを遣わせるなんて、反則じゃないの?とレイシは思った。思ったが、来てくれたゾナにも、ゾナに行けと言ってくれたインファにも、感謝以外の感情は浮かばなかった。
そして言われた気がした。
――あなたの手が届かないのなら、オレ達が届かせてあげますよ
そう言って、ニッコリ微笑む兄の顔を思い浮かべていた。今回は敵だと思えと言っていたのに、結局手を差し伸べてくれるんだと、甘い兄に苦笑した。そして、手を出さなければならない事態になって、ごめんと謝った。
――ありがとう……兄貴!オレ、まだ自分を信じて飛べるよ!
人間の国は、インファが担当するはずだった。きっとインファにしてみたら、拙くて、焦れているのだろうなと思う。ごめん!と謝りたい。けれども、最後まで見届けてほしい。
そして、あなたに任せて正解だったと言わせたい。あの、雷帝・インファに近づこうとしているのだ、果てしない野望だ。わかっている。それでもレイシは、自分の翼で飛びたかった。
『ありがとう、ゾナ。あ、そこの廊下の突き当たりの部屋、図書室だよ』
レイシは有翼ライオンに化身すると、アルディオをその背に乗せた。そして、お礼と言わんばかりに、崩れ落ちそうな危うさで止まった建物の奥を鼻で指した。ゾナは本の虫なのだ。思った通り、そのコバルトブルーの瞳に喜びが灯った。
「ほう、それは興味深い」
ゾナは、知的に微笑んだ。見送ってくれるゾナを尻目に、レイシは太陽の光に向かって穴を駆け上った。
三十分後、止まっていた時が一気に押し寄せた。城は一瞬で跡形もなく崩壊していた。
「ゾナ、戦利品たくさんで嬉しそうだな」
人間の国の上空で、カジトヴィールの背に、積み上げていた本を読んでいたゾナは、飛んできたカルシエーナと遭遇していた。
「沈み行くのなら、頂戴しても構わないと思うがね?」
読んでいた本を片手でパタンと閉じて、ゾナは微笑んで掲げて見せた。
「うん。ゾナがもらってくれるなら、本も幸せだ」
ミリスヴィールが、遊ぶように器用に、頭の上に積み上げた本を、ゆらゆらとバランスを取っていた。
「カルシー嬢、行うのかね?」
「うん。お兄ちゃんの了解はもらってる。ゾナ、立ち会ってくれるか?」
「もちろんだとも。オレでよければね」
そう言いながら、ゾナが立ち会う為に待っていてくれたことを、カルシエーナは気がついていた。査定を行っているインファとノインはここには来られない。ケルゥもリティルもいない今、慰め役を、大人なゾナが買って出てくれたのだろう。風の城のみんなは本当に優しいと、カルシエーナは感謝した。
「……ありがとう、一人は……少し怖かったんだ」
カルシエーナは、もうほとんど建っている建物のなくなった国を見下ろした。カルシエーナは、十七年間ここで過ごした。といっても、塔の中で過ごして、外へは一度も出たことはなかった。塔の窓から見える景色が、彼女のすべてだった。思い入れなど何もない。恨みも憎しみも湧かないほど、希薄だった。だのに、なぜなんだろう。この国の姿を、こんなにも哀しいと、寂しいと思ってしまうのは。
カルシエーナは、髪を伸ばし大地に、何度も、何度も、髪の毛の槍を突き立てた。
「もう、いいのではないかね?」
ゾナが静かに、そう、声をかけてくれるまで、カルシエーナは、髪の毛の槍を、振るい続けていた。
「ゾナぁ――うう――どうして?……わたし――」
泣きついてきた少女を、ゾナは優しく受け止めた。
わたし達は、何の為に生まれてきたのだろう。
それがわかれば、インジュのように、キラキラと輝く笑顔で、笑えるのだろうか。
ザリドの部屋を訪れたインジュは、リャンシャンをスパイに使ったと、濡れ衣を着せられてしまった。
「はい?呆れた人達ですねぇ。ボク、あなた達の魂胆なんて知らなくても、勝ちますよ?」
インジュは、心底ウンザリした表情で、ため息をついた。
「わかりました。ザリド、ボクに飲ませるはずだった毒、持ってきてください。飲んであげますよ。でも、後悔しないでくださいね?ボク、追い詰められると、本性出ちゃいますからね?仲間が血まみれになっても、怒らないでくださいよ?」
ザリドは驚いた。もっと驚いたのは、インジュのその言葉を受けても、その毒を持ってこさせる側近のこの男にだった。自分の側近ながら、正気か?と思ってしまった。
「ザリド、いいんだな?オレの至高の宝石は、相当怖えー精霊だぜ?命は決して奪わねーけど、どんな酷い目に遭うかわからねーぞ?しびれの毒か、インジュ、意地張るなよ?」
リティルは、側近の手から、ヒョイッと小瓶を取り上げた。ジワジワと体の自由を奪う。と言っていたが、こんなもの、インジュの内なるオウギワシを目覚めさせるだけで、彼の力を削ぎはしない。むしろ、窮地に立たされるのは、タイガ族のほうだ。そう言っているのに、理解できないだろうなと、リティルは傲慢な彼等を憂いた。
「意地張りますよぉ!ボク、殺しませんからね!」
インジュはこう見えて、精神力はインファ以上だ。おそらく、殺さない誓いを守り通すだろう。だからこそ、恐ろしい。死ぬよりも恐ろしい目に、彼等は遭わされるだろう。
インジュは、オレの至高の宝石――オレの為に進んで盾になる、いかれた殺さない殺人鬼なのだから。
「インジュ、インファとノインが見てること、忘れるなよ?二人が引くような戦いはするなよ?」
言ったところで無駄なことはわかっていた。インジュのやろうとしていることを、リティルは止められない。インジュにとってこの戦いは、勝つことが目的ではないのだから。
けれども、インジュが『あのこと』を知っているとは、思いもよらなかった。もしかして、見えているのだろうか。この土地に刻まれた、死の記憶が。インジュも、リティルと同じ、風の最上級精霊だ。見えている、聞こえていたとしても不思議はない。
「リティル、無理です。ボク、毒盛られるんですよ?オウギワシ出まくりですよ?お相手が、それを望んじゃってるので、しかたないですよねぇ?」
「インジュ、相当怒ってるなー」
「当たり前です!もおお、許しませんよ!ザリド、皆さん、覚悟してくださいね?」
インジュは再びリャンシャンを抱き上げると、プイッと部屋を出て行った。
それを見送ったリティルは、タイガ族を振り返った。
「ザリド、おまえは見たいのか?インジュがやろうとしてるのは、今のおまえ達の姿だぜ?オレが言ってる意味、わかるか?ハア、わからねーよな?そんな顔してるぜ。インジュの姿を見て、おまえ達がおかれてる状況、悟ってくれ。これは、あいつの慈悲だぜ?」
ダメなんだろうなと、リティルは思った。自分自身の姿を正しく映す鏡を、その心の中に持っていれば、他の部族を恐れて、自分達を隔離するなんて、そこまで追い詰められてはいない。ザリドは、タイガ族がもう種族として地に落ちていることを、気がついているようだが、それを認めるには、まだ至っていないことを、リティルは見抜いていた。
リティルは昔、ルディルが言っていたことを思い出した。
心が届かない相手もいることを学べと、彼に言われた。教え諭すには、時間がなさすぎる。長い時間をかけて、彼等は種族としての、失ってはいけない心を失ってしまった。それを取り戻させるには、またさらに長い長い時間をかけなければならない。その時間は、もう、彼等には残されていなかった。
滅び――。滅びるには理由がある。崖っぷちに立つすべてを、助け導くことは、風の王であっても無理だった。鈍い痛みを全霊に感じながら、それでも信じているインジュを、リティルは眩しく思った。そして、頼もしく思った。ここにいるのがノインだったなら、簡単に結果を導き出しただろう。けれども、彼にもできない何かを導くような気が、リティルにはしていた。導いてほしいと思った。
そうでなければ、彼等は――タイガ族は滅びる。ザリドの手によって。
インジュは何の為に、こんなことをするのだろうか。リャンシャンは、ずっとインジュとリティルのそばにいながら、彼等の行動を観察していた。
インジュは確かに、強いのだろう。性的暴行を受けていたとき、助けに来てくれた彼は、タイガ族のあの巨体を、その細腕一本で蹂躙した。だが、戦闘態勢に入ったタイガ族相手に、あの人数相手に、どう考えても無謀であることは、戦いを知らないリャンシャンにもわかる。
リャンシャンは、余裕そうなインジュを表情なく見上げた。
「リャンシャン、これ、守っていてくれませんか?すごく、すごーく、大事なんで、壊したくないんです」
視線に気がついたのか、見下ろしてきたインジュは、優しい笑みを浮かべた。そして、半端な長さの髪を解くと、その円柱形の、金でできた小さな髪留めを手渡してきた。
両手に受けたそれは、繊細な羽根の細工が施され、とても綺麗だった。コクリと頷いたリャンシャンは両手でそれを包んだ。それを見下ろすインジュの瞳が、凪いだ水面のように静かで、リティルは彼の決意の固さに視線を伏せた。
インジュは、適当に作り出した紐で、髪を縛り直しながら、とてもリティルのことを見られなかった。
――すみません、リティル。あなたの優しい戒め、今は外させてください
あの髪留めは、リティルが自分の霊力を使って作ってくれた、特別な物だった。インジュが、インジュらしからぬ行いをしそうになったら思い出せと、そう言って作ってくれた。
殺戮のオウギワシの本性を、これまで何度も何度も止めてくれた。インジュを、綺麗な存在でいさせてくれた戒めの一つだった。
けれども今、その心に背こうとしているインジュは、リティルの戒めをこの両手ごと穢したくなかった。だから、綺麗な存在であるリャンシャンに、預かっていてほしかった。彼女の手の中なら、きっと穢れないから。
ただの木の杭にロープを張り、円形に仕切られただけの闘技場に、インジュは入っていった。
――インジュ、ごめんな
リティルは、表情を崩さないまま、インジュの背中に詫びた。本当は、代わってやりたい。例え、強力な毒を飲めと言われても、武器を使うなと言われても、左手一本でやれと言われたとしても、どんな悪条件を突きつけられたとしても、それでも代わっていいというのなら、代わってやりたかった。
ザリドの側近が、毒の入った小瓶を差し出した。インジュは一瞬の躊躇いもなく受け取ると、水でも飲むようにその喉に流し込んだ。
「いつでもどうぞ?あ、毒が効くまで待ってます?どこまで卑怯なんですかぁ?じゃあ、ボクからいっちゃいましょうかぁ?」
微笑みを浮かべたインジュの瞳が、ギョロリとオウギワシのそれに変わった。
インジュは素手のまま、遠巻きにするタイガ族に躍り込んでいた。
「あはははは!」
インジュがトンッと触れただけで、タイガ族のその太い腕が千切れて飛んだ。
「脆いですねぇ。あなた達、それでも戦士なんですかぁ?ほらぁ、その足、もらっちゃいますよ?」
インジュはクスクス笑いながら、タイガ族の振るった太い腕を躱して、低くなった体勢のまま、その足に触れ飛ばした。
ザリドは、立ち尽くしていた。
これはなんだ?あれは誰だ?いや、この光景を、知っている。
ザリドはわなないた。リティルが言っていたことは、これだったのかと今更気がついた。
インジュの姿は、戦場でザリド以外のタイガ族が、人間の兵士達にしたことだった。
「あはははははは!」
止めろ
体は痺れているはずなのに、軽やかに舞うインジュの周りに、千切れた腕が、赤い血をまき散らしながら飛んだ。
「あははははははは!」
止めてくれ
この戦いを見ている、他部族達が蔑むような瞳で、目を逸らしていく。皆が、インジュに穢れた者のレッテルを貼り付けていく。どんなに勝っても、勝ち続けるほど、他部族の心はタイガ族から離れていった。
なんだその瞳は!守ってやっているのに!タイガ族のむなしい咆哮が、さらに皆の心を遠ざけた。
「あははははは!」
「止めろ!インジュ!」
笑いながら、その綺麗な手を血にぬらして、タイガ族の四肢を奪い続けるインジュに、ザリドはタックルを仕掛けていた。衝撃はあったが、相手を吹っ飛ばした感触とは違った。華奢なインジュは、両足を張り、片手でザリドの肩を掴んで止めていた。顎を引いていたインジュが顔を上げた。その瞳が、美しいたった一つの揺るがない決意に、光り輝いていた。
「ザリドぉ……!これが、あなた達の姿です」
タイガ族の返り血で、インジュの顔も穢れていた。
「インジュ……!」
「ボクは勝ちます。勝って、ソラビト族を守ります。こんなボクに守られるのは、彼女達には不本意でしょうけど」
ガリッと、インジュの華奢で綺麗な指に力が入った。ザリドは、思わず顔をしかめた。
「インジュ、もう……」
「もう?もう、なんですかぁ?ボクは所詮、この世界の存在じゃありません。どんな目で見られようとも、平気です!」
インジュの左手に拳が握られ、ザリドは殴り飛ばされていた。彼の華奢な体型からは、信じられない威力だった。
「降参します?しないなら、どうしましょうか?今度は、その目えぐりましょうかぁ?」
なぜ、知っているんだ……?地に伏したザリドは、瞳を見開いてインジュを見上げた。
醜悪だと思いながら、ザリドは仲間の残虐を止めなかった。
クスクス笑いながら、インジュが手近に落ちていた腕を拾い上げた。そして、何もなかった手の中に、細長い木の槍を作り出した。ザリドは、その光景を見つめながら、彼が何をしようとしているのかわかった。
止めろ!止めろ!
インジュはその腕を笑いながら突き刺して、大地に突き立てた。人間の四肢の木に埋め尽くされた、丘の光景が、ザリドの目にありありと蘇ってきた。
あああ!
全部、全部、戦場でタイガ族がしてきたことだった。それを、この綺麗な存在にさせてしまっている。
「インジュ……!」
両手から血を滴り落としながら、インジュが地を蹴った。ザリドは飛び越えられながら、インジュが宣言通り、タイガ族の目をえぐりに行ったのだと気がついた。
誰か!誰か止めてくれ!
ザリドは、助けを求めて辺りを見回した。柵の外に、腕を組んでこの光景を見つめているリティルの姿があった。なぜ、彼はこんなことを許しているのだろうか。
インジュは、大事な存在じゃないのか?そんなはずはない。だったら!とザリドはリティルの姿に、無意識に手を伸ばしていた。それに気がついたリティルの瞳が、ゆっくりとこちらを見た。遠く、その距離は遠かったのに、彼の瞳が何を言っているのかわかった。
――邪魔はできない
インジュは、自身を穢してでも、タイガ族に自分達の姿を見つめ直してほしいと、こんなことをしているのだ。止めることができるのは、タイガ族だけだ。だが、きっと、わからない。インジュの姿が、自分達の醜い姿その者なのだということを、わからない。わからないから、他人にこんなことができるのだ。
ザリドは、インジュがしていることの、どれもしたことがない。そういうことなのだ。こんな行為を、笑いながらできてしまう。そんな心はもう、戻れないのだ。
ではどうする?インジュと共に、この先へ行くには、もう……こうするよりほか――
ザリドが、その両手の爪で大地を傷つけながら、逃げ惑う仲間達に視線を向けた。
ワシは行く。インジュと共に、この先へ行きたい。ザリドは、この瞬間、仲間達を見限った。種族の誇りを失った、殺さない殺人鬼よりも恐ろしい、化け物に成り果てた、このタイガ族を滅ぼそう!と。
――心に 風を 魂に 歌を 祈ろう 祈ろう 続いていける――……
不意に、か細い歌が聞こえてきた。どこから?ザリドは無意識に歌声の主を捜していた。
歌っているのは、リティルの隣に立つ、ソラビト族の女だった。
――歌おう 歌おう 風の奏でる歌
――続いていけるよ 君が望むなら――……
そこかしこから、か細い歌声が生まれてくる。この郷にいるソラビト族が、リャンシャンの歌に声を重ね始めていた。
虐げられ、なんの意志も持たない彼女らが、歌っていた。この歌が、誰の為に紡がれているのか、ザリドにはわかった。
――たとえ 世界が 否定しても 続いていけるよ
――心に 風を 魂に 歌を すべて 振るわせて 歌おう
――終わらせないで 諦めないで 打ち鳴らして
――続いていこう 歌声で 世界を 満たし続ける
――たった一つ 揺るがない わたしの願い――……
歌声はインジュの耳にも届いていた。曲は、風の奏でる歌だが、インジュの知っている歌とは歌詞が違っていた。
そして、インジュは力なく困ったなと思った。
――ボクの好きになる人はみんな、ボクに、ボクでいてほしいって、思ってくれるんですよね。したくないです。本当は、誰も傷つけたくないんです。でも、しかたないんです。ボクは、それでもタイガ族の皆さんに、滅んでほしくないんです!ボク、これでもザリドが好きですからね
インジュの瞳から、透明な涙が流れていた。もう、演じられなかった。インジュの心が、戻ってきてしまったから。
頽れたインジュに、好機とばかりにタイガ族が迫った。
その拳はインジュには届かない。インジュの前に、透き通った力強い腕が現れて、タイガ族の拳を、手の平で受けていた。
それは、タイガ族の戦士だった。透き通ったその体――彼は、彼等はとうの昔に散っていった、タイガ族の亡霊だった。
肉体を持たない儚い存在なのに、インジュを庇い立つ彼等は、見ているだけで頼りたくなるほど大きく、力強かった。
インジュはその姿に、風の城の中核を担う三人の風と、レイシの姿を重ねた。
威厳と、優しさと、猛々しさ。その力ですべてを守る、王者の姿。
透き通ったタイガ族が吠えた。自分達と、自分達の守っている者達の前に立ちはだかる、敵の心を砕く、力強い咆哮。現在のタイガ族は、その叫びに戦意を消失していた。
「これが……タイガ族……なんて、格好いいんでしょうか」
へたり込んだインジュを守るように、マントを翻す雄々しいタイガ族の戦士は、未だ立ちはだかっていた。
「ああ、タイガ族は、本物の王者だ。誇り高く、威厳を持ち、他種族からも尊敬される指導者だったんだ。長い戦乱が、彼等の種族としての心を、すり減らしちまったんだよ」
インジュのそばに、リャンシャンを伴ったリティルが立った。見上げたリティルに、インジュを庇い立つタイガ族の亡霊が、威厳のある堂々とした瞳で見返した。
「ザリド!もういいだろ?」
リティルが叫んだ。見れば、すべてのタイガ族が、亡霊達によって、睨まれて動けなくなっていた。
その声に、ザリドはひれ伏した。
「皆の者、ひれ伏せ!」
ザリドの言葉に、のたうちながらタイガ族の皆がひれ伏した。それを見届けて、リティルはインジュに頷いてみせた。
インジュは血まみれの広場の真ん中に進み出ると、両手を天に向かって広げた。彼の体から、キラキラ輝く金色の風が優しく放たれた。風は、光り輝く羽根に変わり、傷ついたタイガ族の上に降った。羽根は、なくなった四肢を創造しながら消えていった。
「ザリド、ボクにできるのはここまでです。どう、タイガ族を導くのか、あとはあなたの仕事ですよ?信じてますからね!」
フッと、インジュが瞳を閉じたかと思うと、その体が傾いだ。あっと思って、ザリドは血まみれの精霊を受け止めた。
「インジュ!おい!インジュ!」
揺さぶるザリドの手に、リティルが手を重ねた。
「寝かせてやってくれよ。あそこまで演じきるなんて、オレもびっくりだぜ?」
「え、演技……だと?」
「そうだぜ?素のこいつは、虫も殺さねー癒やし系だ。日だまりで寝てるのが好きな、のんびり屋だぜ?本当は、おまえ以外のタイガ族に、一人でもいいから、気がついてほしかったんだけどな」
リティルはインジュの血にまみれた綺麗な手を、自分の手が汚れるのも構わずに、労るように握った。
「ザリド、おまえにタイガ族を救えるか?」
リティルの鋭く射貫くような瞳に、ザリドは胸を張って頷くことができなかった。
誰か!水だ!水を持て!と、ザリドが叫ぶと、どこからともなく、ソラビト族がよってきた。一、二、三……十一人。リティルが把握している、この郷にいる全員だった。
「おまえ達、群がるな!そんなに手を出して、どうするつもりだ!」
どうやら皆、インジュについた血を清めようとしているらしい。貸せ!とザリドがタオルをひったくり、指示を出しながら結局、長自ら拭いてやっていた。
それにしても、と、リティルは、隣で自分の両手を握ったまま、微動だにしないリャンシャンを見た。
風の奏でる歌で呼び出された、タイガ族の亡霊は、未だ留まり、インジュを守るようにこちらに背を向けて円陣を組んでいた。その姿は、威厳と慈愛に満ちていた。そんな彼等に守られるインジュを、他の獣人達はどう見るだろうか。
受けた誤解は、完全には払拭できないだろうなと、リティルは苦しく思った。インジュは、この上ないほど優しいのに。現在のタイガ族を演じたことで、悪鬼のように認識されてしまった。そのことが、リティルには恨みがましく思えた。これだけのことをしても、影響はさほどないだろう。そのことも、悔しかった。
この地は穢れている。こんな場所に、長年住み続けているのだ、心が荒んでいても不思議ではない。
「なんだぁ?すっげぇ血の臭いだなぁ?」
リティルはその声に、スリットのような狭い空を、鋭く見上げた。
よく通る、恐ろしげなその声は、再生の精霊・ケルディアスだった。
おいおい、こんなときにかよ!リティルは、慌てた。
「ケルディアス?おい、ザリド!女子供、そのほか戦えねー奴らを逃がせ!」
群がるソラビト族に阻まれながら、リティルが叫んだ。ハッと顔を上げたザリドは、インジュを離せずに慌てていた。
「お、そいつらがソラビト族かぁ?」
ん?リティルは、ケルゥの言葉に彼を見上げた。
「風の精霊みてぇで、気に食わねぇなぁ!全員捕まえてやんぜぇ!」
ケルゥが拳を振り下ろすと、細長い空から妖精兵がなだれ込んできた。
んん?リティルはケルゥの意図がわからずに、しかし、仕方なく剣を両手に抜いた。
妖精兵の攻撃に、獣人達は混乱し、とても今、一番威勢のいい種族とは思えない醜態っぷりだった。タイガ族もインジュに元通りに癒されて、十分戦えるはずなのに、逃げ惑う始末だ。リティルは、げんなりした。そして、どっから手をつけていいものやらと、途方に暮れた。インジュとタイガ族の亡霊に、現在のタイガ族の心は完膚なきまでに、叩きのめされてしまっていたのだ。
そんなとき、円陣を組んで動かなかった、タイガ族の亡霊が、一斉に動き出した。襲い来る妖精兵をなぎ倒しながら、逃げ惑う現在のタイガ族に近づいていく。そして、次々にその姿が重なっていった。すると、現在のタイガ族達の動きが、見違えて変わった。突然戦士の心を取り戻したかのように、動き始めたのだ。勇敢に、襲われる獣人達の中になだれ込んだかと思うと、彼等を守りながら戦い始めた。ザリドのそばに立っていた、マントを翻す亡霊の男が、スッと跪いた。そして、インジュを離せないでいるザリドの瞳を、見つめた。
ザリドが視線を彼に合わせると、亡霊は身を乗り出した。そして、スウッとザリドと重なった。
「リティル、インジュを引き受けろ!」
よってくる妖精兵と、手当たり次第に交戦していたリティルは、ザリドの真っ直ぐな声に、妖精兵を切り伏せて駆け寄った。リティルが腕からインジュを受け取ると、ザリドは立ち上がった。
「戦える者は武器を取れ!戦えぬ者は、タイガの集落へ避難せよ!タイガの戦士よ!守れ!誇りを持って!」
「なんだ、やればできるじゃねーか。リャンシャン、あれ、どうやったんだ?」
未だに両手を堅く結ぶリャンシャンに、気を失ったインジュと、自分達を守る風を巡らせながら、リティルは尋ねた。
「歌っただけ」
「ハハ、恐れ入ったぜ。五代目……ありがとな」
リティルは、五代目風の王・インラジュールの肖像画を思い出していた。ソラビト族のことを知ったときは、なんてことをしてくれたんだよ?と思ったが、レイシという混血精霊の父親をやっているリティルは、彼が、愛を持って、ソラビト族の元になった自身の子を、育てたことがわかっていた。だから、生み出された彼の子は、彼の死と共に命を絶ったのだと、そう思っている。
オレが死んだら、レイシも?そんなことが、頭をよぎった時、威勢のいい低い声が降ってきた。
「リティル、そんなことしてていいのかぁ?」
リティルの風の中に、ケルゥは平然と踏み込んできた。やっぱりこっちに来るよな?とリティルは思った。ああああ、面倒くせー!と、リティルはインジュの頭を膝に乗せたまま、ケルゥを睨んだ。
「ケルディアス……悪いけど、取り込み中だぜ?」
「ワハハハハ!インジュのヤツ、戦闘不能ってかぁ?こりゃぁ、いいときに来たってもんだなぁ!」
ケルゥはおもむろに、リャンシャンの細い腕を掴んだ。リャンシャンは、か細く悲鳴を上げた。リティルが咄嗟に動こうとすると、すっとケルゥはリティルの攻撃の当たる場所にリャンシャンを移動させた。リティルは隙を窺うように、剣を突きつけたまま問うた。
「何が狙いだよ?ケルディアス」
本当に意図がわからなかった。インファの采配なのだろうが、なぜソラビト族を攫うのか、真意を理解できなかった。
見れば、周りにいたソラビト族が次々に捕らえられていた。
「さあなぁ。おめぇと争う気はねぇ」
「じゃあ、リャンシャンは置いていけよ。インジュの怒りを買うぜ?」
「ああん?インジュ、懲りねぇ!じゃぁよぉ、よけいに返せねぇなぁ!」
ケルゥが抱え上げると、リャンシャンはか細く悲鳴を上げた。リティルは、その声がインジュを呼んだような気がした。
「…………ケルディアス……今すぐリャンシャンを放さないと、ボク、オウギワシになっちゃいますよ?」
ユラリと滑るような動きで、インジュが立ち上がった。
あ、早い復活でと、ケルゥはリャンシャンを抱いたまま飛び退いた。再びリャンシャンが、か細く悲鳴を上げた。ケルゥに襲いかかるインジュの行く手を、妖精兵が塞ぐ。次から次に襲われ、殺せないインジュは、悠々と空へ舞い上がるケルゥを追えなかった。
「ワハハハハ!インジュ!北で待ってるぜぇ?人間の国、沈んだぜぇ?ここも時間の問題だ。獣人どもは、どれくらい助かるかなぁ?」
不穏な高笑いを残して、ケルゥは引き上げていった。戦利品のソラビト族を連れて。
ケルゥに逃げられてしまったインジュが、鋭く舞い降りてきた。
「リティル!人間の国がって、あれ、本当です?」
人間の国には、レイシがいることを知っているインジュは、彼は無事かと、オロオロしていた。
「ああ。人間の国は滅んだぜ?けどな、大半は生き延びて始まりの泉に避難した。レイシがやってくれたぜ」
それを聞いて、インジュはホッとしたが、不安そうな瞳で、スリットのような空を見上げた。
レイシはインジュにとって、大事な相棒だ。治癒手段を持たず、超回復能力もないレイシの傷を癒すのは、インジュの役目だった。インジュといると無茶しがちなレイシ。一人の時は慎重なのだろうか。すぐ自分を偽るレイシのことを、インジュは心配していた。
始まりの泉に皆を導いたレイシは、ランティスを伴ったシェラと、合流していた。
それから一週間、キャンプを張る手伝いに来てくれた、半獣人種達と人間達との橋渡しや、子供達のケアの為に遊んだりと、レイシは、休みなく駆けずり回った。
「はあ……」
レイシは、泉のそばの岩に腰を下ろした。半獣人の男の子の相手はさすがに、体力が保たない。小さかった頃、リティルに遊んでもらった記憶がある。確か……結構な確率で、シェラに「お父さんは疲れているのだから、休ませてあげて」と言われたような……。あの頃、父さんもこんな感じだったのだろうか?とレイシは遠い記憶に思いを馳せた。
兄貴は、どんな子供だったのかな?とレイシは、青い空を見上げた。
精霊を両親に持つ精霊は、純血二世といって、十二年で一人前になる。確か、兄貴は体の成長が早くて、半年で二、三歳くらいだったと、父さんが言ってたなと思い出した。
二、三歳の兄貴……うん、想像できない。
「レイシ様、疲れてる?」
髪をお下げに結った人間の女の子が、レイシの顔を覗き込んだ。
「え?ううん。そんなことないよ。元気だよ!うん」
レイシは首を横に振ると、大げさに強がった。その拍子に、首飾りが大きく揺れた。
「これ、とっても綺麗!」
女の子は、金色の白鳥の羽根の飾りを、キラキラした瞳で見つめていた。
「あはは、これ、オレの奥さんがくれたんだ」
「レイシ様、奥さんいるんだ!どこにいるの?どんな人?」
女の子はこういう話好きだなぁと思いながら、レイシは柔らかく笑った。
「精霊の世界にいるよ。オレの奥さんは、風の王の娘なんだ」
「リティル様の?あれ?でも、レイシ様もリティル様の子供じゃなかった?」
「うん。オレも風の王の息子だよ。でも、血の繋がりないんだ。彼女は、オレをずっと守って支えてくれた精霊なんだ。彼女がほしくて、口説いちゃった」
「リティル様、反対しなかった?」
「それが、ちっとも。兄妹だろって言われると思ってた。彼女にも振られると思ってた。なのに、こんなオレを受け入れてくれたんだ」
「レイシ様は、こんなじゃないよ!格好いいよ?」
「アハハ、ありがとう」
「逢いたい?」
「え?えーと?」
レイシは視線を彷徨わせた。この会話も聞かれてるよな?とレイシは突然思ってしまった。
「逢いたくないの?」
女の子は眉根をひそめて、首を傾げた。
「あ、逢いたいよ!そんなの……逢いたいよ……」
逢いたい。口に出してしまったら、本当に切なくなるほど逢いたくなってしまった。レイシは、思わず白鳥の羽根の飾りを握りしめていた。
インリーとは、婚姻を結んだが、それだけだった。霊力の交換は行っていない。
互いの霊力を交換する為の、肉体的交わり――本当に、その行為のことをわかっているのか、インリーはいいよと言ってくれているが、レイシには、やっぱり触れがたかった。
レイシが未だにほしくてほしくてたまらない、風の王の血。それを引く娘。
その綺麗な金色の輝きに触れたら、この身に流れる憎くて、消し去りたいこの血がもたらす力が混ざって、彼女をきっと穢す。そう思うと、触れられない。
やっぱりインリーは子供っぽくて、手を繋ぐにはちょうどよくて、レイシはまだ唇にすら触れていなかった。夫婦とは名ばかりの、ままごとのような関係だった。
そういえば、こんなに離れていたのは初めてかもしれない。レイシは存在自体危険で、グロウタースに出ること自体稀だった。いつもインジュと組んで、守りに長けたインリーはお城担当で、レイシと飛んだことはなかった。もしかすると、リティルは本当は嫌なのかもしれない。口説いていいと言ってしまった手前、今更ダメだと言えずにいるのかもしれない。だから、今まで一度も、一緒に飛んでいないのかもしれない。二人で外に出したら、間違いを犯すかもしれないから。大事な娘を、穢されるかもしれないから。
「レイシ」
「何?インリー」
彼女がこの名を呼ぶ。レイシはいつものように、答えていた。レイシの前にいた女の子が、驚いたようにレイシから視線を外して、振り向いた。
え?レイシは顔を上げた。そして、紫色の瞳を見開いた。
「レイシ」
母親譲りの長い長い黒い髪を、三つ編みにした、レイシと同い年くらいの女の子が笑っていた。背中に生えた、金色の白鳥の翼。ちょっと露出しすぎな、その服装。彼女の首には、レイシが贈った、複雑に編まれた麻紐に、空の色をした、羽根の飾りがついたチョーカーが飾られていた。
なんで、ここに?疑問が湧いたが、そんなことどうでもよかった。
彼女がここにいる。ここにいる!その事実が、レイシを突き動かしていた。
「インリー……!っ、インリー!」
レイシは、自分がこんな行動に出るなんて思いもよらなかった。
彼女を手に入れた後も、もしかすると抱きしめたことすら、なかったかもしれない。
「レイシ、すごく、すごーく頑張ったね」
駆け出したレイシは、インリーを抱きしめていた。なのに、抱きついてきたレイシを、インリーは当たり前のようにその背に腕を回して抱きしめ返し、どこかはしゃぐように喜んでいた。
「上から言う?でも、褒めてくれてありがとう」
抱きしめてしまって、我に返ったが、レイシはインリーの素肌の肩に顎を乗せたまま、手を離せなかった。放したくなかった。
「インリー」
「なあに?」
「逢いたかった……」
そんな言葉すら、たぶん言ったことがない。
「うん。わたしもだよ?」
それなのに、インリーは少しの躊躇いなく、レイシのほしい答えをくれた。
「あはははは。どうしよう、オレ、止まれないかも」
嬉しい。嬉しくてたまらない。レイシにとって、恐れ多い存在のインリーは、そばにいるだけで罪悪感を感じてしまう、そんな心になってしまう以前と変わらず、隣に居続けてくれていた。レイシには、それだけでよかった。
「いいよ。レイシなら、いいよ?」
インリーの答えは、決まって同じだ。レイシは小さく笑った。いいよと言われるたび、触れられるわけがないと、心が戒める。
「うん。ありがとう。でも、インリーには、触れられないよ……オレには、これで、十分だよ」
「うん。レイシがそれでいいなら、いいよ?」
拙くても、幼稚でも構わない。インリーが変わらずそばにいてくれるなら。
インリーを放せないまま、レイシは、このままだといつか一線を越えてしまうと思えた。
それはいつなのか、本当にいいのかわからなかった。リティルにとって、自分達はやっぱり兄妹だから。レイシは、揺れ動いてしまう心を、父を裏切れないからと、勝手に言い訳を作って、戒めていた。リティルは初めから、許してくれているというのに。
「インリー……ちょっと、泣いてもいい?」
「え?珍しいね!うん、いいよ。レイシの役に立てるの、わたし嬉しいよ?」
彼女はずっとこうだった。力が覚醒して、レイシは自分が決定的に風とは無縁の精霊なのだと、無慈悲に自覚した。そのとき、インリーは一度だけレイシに背を向けた。背を向けられた理由がわかるだけに、寂しくて、苦しくても、彼女に手は伸ばせなかった。
当たり前に隣にあったものを失って、もう、戻ってこないのだと思っていた。けれども、インリーはほぼすぐに隣に戻ってきた。
わたしの居場所は、やっぱりレイシの隣にしかない!と言わんばかりに。そんなインリーに安堵した。
ああ、まだ、そばにいてくれる。と――
レイシにとってインリーは、妹ではない。当たり前にある空気のようなモノだ。
そしてインリーにとってレイシは、兄ではない。不変の居場所だ。
二人はずっとずっと以前から、もしかしたら出会ったときから、お互いを兄妹とは思っていなかった。
精霊の婚姻を結ぶ必要なんて、本当はなかった。
けれども、力に目覚め、一人で飛べる強い精霊となってしまったレイシに、インリーの守りは必要なくなってしまった。
力のないレイシを守る為に、そばにいたインリーは、その大義名分を失ってしまった。だのに、インリーは無邪気に、レイシの隣にいられると思っていた。そんなインリーの姿に、思わず、言うつもりなんてなかったのに、レイシは突きつけてしまった。
オレを今選ばなかったら、君はオレの隣っていう居場所を失うよ?と――
インリーにとって、肩書きなんてなんでもいい。ただ、彼女の主張は一つだから。
わたしの居場所はレイシの隣。
揺るがない、ただ一つだった。レイシはそれを、ずっとずっと以前から知っていた。
なのに、そんなことを突きつけてしまったら、彼女がどんな行動に出てしまうか、わかっていたはずなのに……。
「インリー、ありがとう。オレ、また飛べるよ」
レイシは、インリーからやっと体を離した。インリーは、曇りなく笑ってうん!と、頷いた。その笑顔に、つられて笑ってしまう。
「お城で待ってるね!」
インリーは、背後に開いたままの、次元の扉に踵を返した。去って行く後ろ姿に、引き留めたい衝動が襲ってきた。
「インリー!君を妻にできて、オレ、幸せだよ!」
空間についた傷のような次元の扉を越えようとしたインリーが、驚いて振り向いた。そして、その顔が見る間に赤くなった。
「レ、レレレイシ……わ、わわたしも、そ、その……言えないよおおおおおおおお!」
うわーんと、泣きながらインリーは、風の城に帰って行ってしまった。
「オレ、君には触れないから。だから、言葉だけでも、受け取ってよ」
レイシは、痛そうに切なそうに、インリーのいなくなった空間を見つめながら、一人つぶやいた。
今風の城の応接間には、誰がいるのだろうか。
雷帝妃であるセリアがいたら、インリーの話を聞いてくれるだろうけどと、レイシは小さく笑った。
「レイシ殿、すまない」
「アルディオ、どうしたの?」
何かあった?と、レイシは振り向いた。双子の王族は、なぜか少し驚いていた。レイシは訝しんで首を傾げた。
「ああ、もしかして、声も一緒なのになんでわかるのかって、思ってる?オレの固有魔法、見破りレーダーだから。始まりの泉くらいなら、どこに誰がいるのか、何人いるのか全部わかるよ」
隠密のコウディオが、感心したように頷いた。そして、口を開いた。
「さっきの女性は、レイシ殿の奥方だと聞いた」
「あー、見てた?うん。オレの奥さん、風の踊り子・インリー。風の王の娘だよ。恐れ多いでしょ?」
アハハとレイシは笑った。
「ちょっとした騒ぎになっているぞ?」
「え?なんで?」
レイシは本当に心当たりがなさそうに、瞳を瞬いた。
「それは……あなたは人間の国の英雄だから。その奥方が労いに現れて、熱き抱擁を交わして再び別れるとは、なかなか劇的だと思う」
ズバリ物申すコウディオと違って、アルディオは控えめにそう言った。
熱き抱擁?女の子は美化するのが上手いなぁと、レイシの脳裏に、さっきまで一緒にいた、お下げの女の子の姿が浮かんでいた。
「あはははは。急に来たから驚いて、抱きついちゃった。オレ達ずっと一緒に育ってるし、風の王の娘だからね、触らないようにしてたんだけどね……」
不意打ちヤバいと、レイシは失敗したと笑った。
「触らない?」
「名ばかり夫婦なんだよ、オレ達。だから、あんた達が思う、夫婦の営みってやつ?オレ、一つもしてないから」
「それは、リティル殿の為に?」
「ううん。父さんは好きにしろって。もう、子供じゃないだろってさ。オレがそうしたいだけなんだ。彼女はずっと、オレの隣が自分の居場所だと思ってる。オレは混血精霊だし、離れようかと思ったんだけど、拒絶が酷くて。だったら、もう、ずっとインリーの安全地帯でいようかなって」
レイシは晴れやかに笑った。
「精霊ってさ、恋愛感情持ってる方が少数派なんだ。精霊の婚姻は、魂を分け合うって言って、力の受け渡しがメインで、心はあってもなくてもいいんだよ。まあでも、うちは心がないと風の王に怒られちゃうけどね」
そういえば、あんた達は?とレイシは視線を向けた。
「オレはそういう相手は持てない」
きっぱりスッパリ、コウディオは全く動じずに言い切った。そんな弟の態度に、アルディオは瞳を僅かに見開くと、ため息を付いて、縋るようにレイシを見てきた。
「……レイシ殿、コウに何とか言ってやってくれぬか?もう、国はなくなったのだから、忌み子だなんだと、関係ないと、そう言ってやってください」
レイシも聞いたことがあった。人間の世界には、双子を忌み嫌う因習があることがあると。コウディオがアルディオのそばにいない理由を、レイシも何となく察していた。
「アハハ、アルディオ、イシュラースの穢れた存在のオレに、それ言わせちゃう?それさあ、風の王呼んであげるから、許したほうに言ってもらってよ。オレもさ、コウディオの気持ちわかるんだ。口から出任せで口説いてもいい?って父さんに言っちゃったけど、本当に許されるなんて、思ってなかった。どうにもならなかったら、コッソリ逃げちゃおっかな?って思ってたし」
太陽王・ルディルの弟子であるレイシは、師匠のところに転がり込むことも考えていた。
幻夢帝・ルキともいい関係だし、彼のところでもいいかな?とも、思っていた。
「精霊の婚姻って簡単でさ、自分の欠片で作ったアクセサリーを、贈り合うことで成立するんだ。実際、ダメだと思ったんだ。インリーが乱心でオレにくれたとき、どうすればいいのかわからなくなったよ。父さんにオレ――」
「おーい!レイシ、大変な時に手伝ってやれなくて、ごめんなー!」
気の抜けるような声で、大空から風の王が舞い降りてきた。コウディオは、風の王がわざと、レイシの言葉を遮ったような気がした。
レイシは何事もなかったかのように、彼の王に向かって、信頼しきった笑みを、その冷たい双眸に浮かべた。
「そうだよ。もう、ダメかと思ったよ。インジュの方はいいの?」
リティルが来られなかったとなると、インジュの方が際どかったのだろうなと、レイシは察していた。どんな強力な力を秘めていたって、体は一つしかない。天秤の傾きが大きい方へ、行くしかないのだから。
「それなんだよ。アルディオ、コウディオ、獣人の方の大地ももう保たねーんだ。ここへ、獣人達を連れてきてもいいか?」
「父さん、それさ、ヤバいことになると思うよ?インジュの脳筋王、承諾してるの?あいつが暴れたら、オレ、全力で止めるけどいい?」
レイシの瞳が鋭さを増した。
「風の王、無礼承知で言わせてもらう。獣人のした所業、人間の中に生まれてしまった怨嗟は、人間の代が三、四代進まねば消えない。獣人の側も、簡単に心は変えられない。我々は、この大地の崩壊がなぜ起こっているのか知っている。だが、どうにもならないことがある」
風の王の矢面に立とうとしたコウディオを、レイシはさりげなく庇った。
「父さん、オレ、全員を助けられなかったんだ。目の前で消えていく命を見たんだ。みんな生きたくてここにいるんだ!ここに獣人が来て、みんなの命と心を脅かすなら、オレはインジュと戦ってでも守るよ?オレ、退けないんだ。人間を、守るって決めたから」
大地の崩壊に巻き込まれ、命からがら逃げてきた人間達は今、とても戦えない。こんな状態を目の当たりにして、戦場で悪鬼の限りを尽くしてきた種族が、好機と見ないわけがないのでは?とレイシは心配していた。
「レイシ殿、コウディオ、わたしは、獣人を受け入れようと思う」
――そういうよね?あんたなら
そして悔しく思う。アルディオが人間達に告げれば、獣人を受け入れる派と、受け入れない派に分かれてしまう。せっかく皆で生き残ったのに、皆で生きていけなくなってしまう。この双子の道は、再び分かたれてしまう。
「アルディオ、いいの?オレは、受け入れがたいよ!」
「獣人にも同じ営みがあります。ここへたどり着いたのが、人間の方が早かったからと言ってしまえば、未来を変えることは、できぬではないですか。幸い、今はコウがいてくれます。受け入れられない者達を、導いてくれます。わたしは少数でも、わたしに賛同してくれる者を率いて、いつか獣人と手を取り合える希望になりましょう」
――なれるよ、あんたなら。でも……
アルディオは大義の為に、自分の心を殺している。レイシも、ずっとここにいられるわけではない。自分の足で歩ませる為、風の王の宣言でここを去らなければならない。そして、二度と関われない。一人で、大丈夫なのか?とレイシは心配していた。
「アルディオ、ごめん……でも、少数ならオレ、守れるから」
アルディオは見上げてくる少年の姿の精霊に、そっと近づくとその身をそっと抱き、背を軽く叩いた。そして、すぐに体を離した。
「レイシ殿、かたじけない。あなたには、もうしばらくここにいてもらわなければ、ならないようです」
アルディオは、申し訳なさそうにレイシを見つめてきた。
「大丈夫、そのつもりで来たから」
「……なんなら、インリー殿を呼べばいいのでは?見目麗しい精霊の姫見たさに、民も結束するかもしれん」
会いそびれたと、コウディオは冗談めかしていった。
ああ、二人とも、オレがインリーに会えないこと気にしてるの?とレイシは、そんなこと気にすることじゃないのにと、苦笑した。
「それ言うなら、花の姫の方が適任だよ?父さん、母さん貸してよ」
「はは、そういえば、インリー来てたみてーだな。あいつ、大混乱でオレに話しかけてきたぜ?」
何したんだよ?とリティルは笑った。
獣人サイドが立て込んでいて、リティルは、始まりの泉にカラスと監視の小鳥達を飛ばしていたが、さすがに状況を把握できなかった。シェラとランティスがいるのだ、上手く連携するだろうと、思っていたこともあったが……。
ここへ様子を見に来たのは、インファに、レイシが追い詰められていますよ?と言われたからだ。
「うっわ!ごめん、父さん。……聞いた?」
「いや?インリーのヤツ言わねーんだよ。何だよ?ホッとした顔しやがって。おまえ、もう少しインリー構ってやれよ?あいつ、おまえがおかしい、死ぬんじゃねーかって、心配してたぜ?」
「あー……あはははは」
改めて思い返すと、かなり恥ずかしいことを言ってしまったなと、レイシは思って乾いた笑いを上げていた。
「おいおい、大丈夫かよ?オレは、インジュからしばらく離れられねーからな。インリーがいたほうがいいなら、そばに置いておけよ?」
インリーはレイシにとって、当たり前にそばにいて、息をさせてくれる存在だ。今レイシの置かれている状況は、彼にとって息がし辛いだろう。時に大丈夫か?と思えるほどお気楽なインリーがそばにいたほうが、適当に肩の力が抜けるかもしれないなと、思いつつ、半分冗談のつもりだった。
「えっ!」
いいの?でも、それはダメじゃない?え?オレ何か期待してる?あれ?
驚いたようにこちらを見たレイシの顔に、リティルは、様々な感情が駆け巡っているのを見た。珍しい。自分を偽るのが得意なレイシの本心を、もうリティルには見破ることはできないのに、もの凄く葛藤していることがわかる。
「……おーい、インファー!」
インリーが来ていたということは、インファはすでに一日一回の次元の刃を使ってしまっている。もうあとは緊急事態でもないかぎり、明日にしてくださいと、言われることはわかっていた。あの力は負担が大きすぎて、二回目以降は霊力の使いすぎで、倒れてしまうのだから。
レイシももちろん知っている。そのはずなのに、レイシは兄を呼んだリティルの腕を、慌てて掴んだ。
「うわああ!いい!呼ばなくていいから!」
おいおい、珍しいな、と、リティルは心を大いに乱した、息子の様子に少し驚いた。
これは、ちょっと……楽しい!
「レイシ……インリー今応接間にいるぜ?」
「ちょっ!違うから!絶対泣かないでよ?君の居場所はずっと、オレの隣だからね!今来られたら、オレヤバいよ。絶対ヤバいよ!」
少し突いてやると、最近のレイシらしからぬ反応が返ってきた。これは、息子の頑なな心を壊すチャンスかもしれない。ずっと見えない、レイシの本心がやっとわかるかもしれない。もう少し突いてみるか?とリティルは思った。
「ヤバくていいんじゃねーのか?おまえ、自分のこと呪いすぎなんだよ!いい加減、許してやれよな?」
リティルは自分よりも背の高い息子の頭を、ポンポンと叩いた。
「……父さん、オレの中の人間の血、インリーに悪さしない?」
おっと、これは予想以上の成果を引き出してしまった。妻にしたのに、インリーに絶対に触れないレイシの、男の子な部分を垣間見た。ああ、この相談が風の城でなら、答えてやれるのになぁと、リティルは少し悔しく思った。
「ああ、それ気にしてるのか?回避する方法、色々あるんだぜ?ちょうどいいから、人間に聞いてみろよ!」
じゃあな!とリティルは笑うと、シェラとランティスに会いに行ってくると言って、飛び去ってしまった。
そんな父の背を見送りながら、レイシは、あれ?オレ、今何聞いたんだろう?と我に返った。インリーには触らないと言っているのに、これじゃ、触る気満々じゃないか!と、レイシは盛大にため息をついた。そして、コウディオに、教えてやろうか?と言われ、全力で断った。
獣人か……と、ランティスは思った。
「おまえも、レイシとほぼ同じ反応なんだな?」
リティルの話を、ランティスは、始まりの泉に立てた自分用のテントの中で、シェラと共に聞いた。そして、あからさまに難色を示してしまった。
「レイシも?それは、無理もない。あれだけの人数の人間達に慕われて、守ってここへ導いた彼が、許せるはずもないよ」
「ああ、まあな……。なあ、ランティス、森のソラビト族、歌ったりするか?」
唐突なことをリティルに聞かれて、ランティスは少し戸惑った。というか、ソラビト族が歌を歌うことを、彼は知らなかった。
「歌?聞いたことがないけど……。彼等は出てくるのも、稀なんだ」
「わたしは、聞いたわ?風の奏でる歌よね?」
そう言えばシェラは、かえらずの森の人気のない場所でよく歌っていたなと、ランティスは思い出した。あれは、ソラビト族と交流していたのかと、今更知った。
「歌詞が違ってただろ?」
「ええ。そして、言っていたの。わたし達の歌には、力があると」
「どんな力なのか、聞いたか?」
あの歌の力を目の当たりにした直後、話のできるリャンシャンを、ケルゥに攫われてしまった。リティルは、歌の秘密を、聞きそびれてしまったのだった。
「死者の思念を呼び出すと言っていたわ。タイガ族を救ったのは、先祖の霊なのね?」
あの、姿さえ見せなかったソラビト族と交流するとは、さすがシェラだなと、リティルは感心した。
「ああ、格好良かったぜ?王者の民って、言われるだけのことはあるな」
王者の民を、地に落としたのは、あの谷に染みついた血の痕だ。タイガ族の明暗を分けたのは、風の魔女と言われたソラビト族を滅ぼしたことだ。他の大陸や島のソラビト族に関わった者達も、彼等の血の呪いによって滅んだり、悲惨な末路を辿った。
それを、インジュが断ち切った。ソラビト族は、インジュを救う為に、タイガ族を許したのだ。しかしあれは一時的なものだ。先祖の思念が取り憑いている間に、彼等が悔い改めなければ、やはり滅びは免れないだろう。
「リティル、ザリドは来られそうなのか?」
「ああ、あいつはな。あとは、民が動かせるかどうかだな。それができねーと、獣人は滅びるぜ」
かえらずの森にいたときのランティスは、恨み辛みとは無縁に見えたが、彼の心の中にも何かありそうだなと、リティルは勘づいた。
彼の穏やかな心に、染みを広げるとは、この泉の穢れも半端ではないなと、リティルはこの大陸を救うことの困難さを感じた。
「リティル、半獣人種は人間と和解した。近いうちに、かえらずの森を引き払って、始まりの泉に移る。森のエフラの民が今、その準備を進めてくれているよ」
「そういや、おまえの魔道士、いねーのかよ?」
「………………メルナシア?彼女は幼馴染みだよ!……結婚はもう、しばらくいい……」
「失敗したのか?」
「……死に別れた」
「悪い」
ランティスは首を横に振った。
「病であっけなく。もしも、ソラビト族の故郷が無事なら、妻は助かったんだ。あの場所は、薬草の宝庫だった。それを、獣人が壊してしまったんだ。リティル、獣人のこと皆に話してみるよ。うちはたぶん、受け入れるから、心配しないでくれ」
伝言を頼んでくると言って、ランティスはゲイボルグと共に、テントを出て行った。
初対面のシェラに、あんな思春期の少年のような反応を示したラスティが、所帯を持っていて、それを奪われていたとは知らなかった。
これは、捨て置けない。かえらずの森にいた頃のランティスに、獣人と因縁がある素振りはまるでなかった。それなのに、この泉に来て、彼の心に闇が生まれ始めている。
始まりの泉……ここには、何か秘密があるのかもしれない。この茶番の成功を阻む、何かが眠っているのかもしれない。
「……シェラ、あいつの本心、聞いたことあるか?」
ランティスを見送って、リティルはシェラに尋ねた。
「いいえ。ただ、一生懸命憎まないようにしているわね。ソラビトの一人が言っていたわ。森に病が流行ったとき、ランティスは単身獣人の郷へ来たと。そのとき、獣人種の長に薬草をわけてほしいと願い出て、そして卑怯な手をつかわれて……郷には返されたけれども、死んでしまったと思ったそうよ。その数時間後、ザリドが、語ってくれたソラビトの人に薬草を持たせて、森へ行かせたのだそうよ。彼がついたときには、数人が亡くなっていて、ランティスは生死の境を彷徨っていたのだそうよ」
「あいつはもしかして、妻の死に目にあってねーのか?」
「それはわからないわ。語ってくれた人も、誰が奥様かわからなかったでしょうし。けれども、ザリドの持たせてくれた薬草のおかげで、助かった半獣人種がいたことは確かだわ」
これは意外な接点だった。ザリドとランティスは、お互い、長になる前に運命の繋がりがあったのだ。
「ランティスは知ってるのか?」
「わからないわ。知っていたとしても、憎む気持ちは……わかるから」
命を賭けて、薬草を採りに行くくらいだ。ランティスは、妻を愛していたことだろう。長なのに、結婚はもういいと言ってしまえるくらいだ。誰もそのことに触れられないくらいの有様だったのだろうなと、察するのは容易かった。にしては、あいつ、シェラに色目使ったよな?と、リティルは一瞬イラッとした。
ああ、ダメだダメだ。大人げないと、リティルは頭を振った。
「……シェラ、ソラビト族と仲いいか?」
「どうかしら?少しずつよってきてくれるようには、なったけれども……」
「リャンシャンがいれば、頼みやすかったんだけどな……ケルディアスに攫われたんだよな……」
「あら?どうして?」
当然の問いだ。だが、リティルには、その問いに答えてやることはできなかった。
「オレが聞きてーよ。インジュが入れ込んでた娘だったから、あいつ本気で怒ってたぜ?」
え?と、シェラは瞳を瞬いた。ソラビト族は風変わりだけど、グロウタースの民よね?と、シェラが思わず確かめてきた。そうだぜ?と肯定すると、シェラは小さく、憂うようにため息を付いた。
「インジュったら……グロウタースの民が好きなのね」
スフィアとのことで、あんなに傷ついたのに……と、想いは止まらないわねと、シェラは最後には優しく微笑んだ。
「どうして悲恋ばっかり掴んでくるのか、呆れるぜ、まったく……。ああ、そうだ、レイシとインリーに会ったか?」
「いいえ?けれども、盛り上がっていたわね」
クスクスとシェラは笑った。
「あ、その顔は何があったか知ってるな?教えてくれよ!」
リティルは身を乗り出して、シェラの肩を掴んでいた。シェラは、優しく微笑んだ。
「幸せだと、言っていたわ」
「!レイシがか?」
シェラは嬉しそうに微笑みながら、頷いた。
「インリーを、妻にできて、幸せだと言っていたの」
リティルはそっとシェラを抱きしめた。そして、シェラが婚姻の証に開いてくれた、リティルの中にある特殊なゲート・一心同体ゲートに話しかけた。ゲートで話せば、シェラ以外に会話を聞かれることがない。
もしかすると、察したインファが、インリーを遠ざけていてくれるかもしれないが、レイシの為に、インリーの耳に入れたくなかったのだ。
『レイシ……そっか……あの時オレ、許してよかったんだな……?間違ったかと思ってたんだ。あいつが、インリーにもらったって言って、首飾りを持ってきたとき、オレはあいつの心が見えなかった。だから、どうしたいんだ?って聞くしかなかった。あいつの答えなんて、決まってたのにな』
――受けたい。オレ、インリーのそばにいたいんだ
『インリーを守ってくれたのか、本心だったのか、オレにはわからなかった。あれから今まで、レイシはインリーに何もしてねーし、力だって、オレの為にしか使わねーからな。あいつは、自分の為に生きることを、放棄してるのかもしれねーって思ってた』
――父さん、インジュと組ませてよ。あいつの相棒、オレならできると思うよ?
力に目覚めて、引きこもっていた鳥籠から出てきたインジュを、リティルはどう導こうか悩んでいた。インジュの、命を奪いたくない願いを、守るにはどうすればいいのか、インファも悩んでいた。当のインジュは、あっけらかんとしたもので、その態度も余計に心配だった。一気にいろいろ失いすぎて、不安定なのが目に見えたからだ。
そんなインジュの相棒を買って出たのは、レイシだった。インジュは、リティルの命令だと、未だに思っている。仕事に出れば喧嘩ばかりなのだ。まさか、レイシが言い出したとは思わないだろう。
『インジュのこともそうだ。怪我の治らねーレイシが一緒なら、優しいインジュは、治癒魔法と防御魔法を鍛えるしかなくなるからな。反属性返しもレイシのおかげで、すげー威力だぜ?』
インジュが手を汚したくないことを知っていて、それを守れるのは自分しかないとレイシは思ってくれた。インファやノインでは、洗練されすぎて、治癒も防御も必要ない。二人と組めば、否応なくインジュの手は汚れただろう。
命を奪いたくないという、世界の刃である風の精霊では、許されない願いを持つインジュを、その願い事、オレが守るよと、レイシは言ってくれた。
レイシはあえて雑な戦闘で、君が守ってくれないと、オレ、死ぬよ?と突きつけた。インジュは、レイシが傷つかないように、守りに徹するしかなくなり、彼の特殊能力である反属性返しで、相手の攻撃を無力化し、攻撃手段を奪うことで、自分の前で戦うレイシを助けようとした。全部、レイシの手の内なのだ。
太陽王・ルディルの弟子であるレイシは、かなりの戦闘能力を持っている。本当は、インジュの助けはいらないのだ。
『レイシ……いいんだな?おまえは、ちゃんと生きてるって思って、いいんだな?』
リティルはずっと、レイシを導き損なったと思っていた。原初の風の四分の一を継承させたことも、インリーと魂を分け合うことを許したことも、インジュの相棒にしたことも、全部、レイシを犠牲にしたのかもしれないと思っていた。
レイシは自分の手首を斬ったときに、死んでしまったのかもしれないと、そう思った。死ぬなと言われたから、生きているだけなのかもしれないと思った。
リティルには、嘘をつくレイシの本心を見抜けないから。
「レイシ……幸せなんだな?信じていいんだな?レイシ……!」
シェラはそっと、肩に顔を埋めたリティルの頭を撫でた。
「リティル、レイシには、あなたの愛情がちゃんと伝わっているわよ?だから、信じてあげて。あの子は、自分を犠牲にしているわけではないわ。したいように生きているのよ」
あなたそっくりね、と言ってシェラは笑った。
リティルはやっとシェラを解放して、向かい合った。
「親子だからな。似てて、当然だよな?ありがとな、シェラ。オレ、インジュの所に戻るよ。レイシのこと、頼んだぜ?」
「ええ。落ち着いたら、インリーを呼ぶわ。あの子の歌が、必要になるはずだから」
「ああ、君に任せるよ。あっちが片付いたら、今度はランティスだな」
「仮面を外させるの?」
「このままじゃいけねーだろ?あいつの善人の仮面の下、見せてもらわねーとな」
風の王は、生き様を見守る者。偽りを砕き、残酷に真実の顔を突きつける。いつも容赦ないのだリティルは……。
シェラはテントの外に出るリティルを追って、外に出た。
空は高く、どこまでも澄んでいた。異様な青さに立ちすくんだシェラを、リティルはいきなり抱きしめた。そして、その耳元に「大丈夫だ」と囁いた。
不安にしかならないわ。その言葉を飲み込んで、シェラは頷いて「いってらっしゃい」と抱きしめ返した。体を離したリティルは、飲み込んだ言葉に気がついたのかも知れない。
「シェラ、心配いらねーよ」
シェラは、戻ってくるランティスの姿を見つけた。リティルは彼を見ずに、じゃあなと言って、ゲートを開くと行ってしまった。