二章 ライオンとオウギワシ
いつからだろう。
父、インファの兄弟である彼と、組まされるようになったのは。
風の城には、鳥籠と呼ばれる温室があった。花に溢れる、アーチ型の天井の円柱状の建物だ。この場所は、その昔、インジュの逃避の部屋だった。
原初の風という、特殊な力の四分の一の化身として、この世に目覚めたインジュは、力の大きさに臆して閉じこもっていた。同じ力を持つ、風の王の守護鳥・フロインも、人の姿でいられるようになるまで、ここにいた。彼女のお気に入りは、天井から吊り下げられた空中ブランコだった。それが、鳥籠の中にある止まり木のようで、建物の形状も手伝って通称・鳥籠と呼ばれていた。
オウギワシ――インジュは、女性のような容姿をしているが、中身は獰猛な猛禽類だった。今はその力を使いこなし、魔物とも平気で戦える。けれども、単独での魔物狩りには出たことがなかった。彼は、命を決して奪わない誓いを、立てているからだ。単独で魔物狩りに出ても、魔物を屠ることができないからだ。
そんな、風の精霊には、我が儘でしかない誓いを、城の皆は許してくれた。
「インジュー!」
ポカポカと暖かい木漏れ日の中、柔らかい草の上に寝転んでいたインジュは、相棒の声で、寝そべったまま頭を声のした方へ向けた。
「レイシ、どうしました?はっ!も、もしかしてリティル、帰ってきてます?」
昔は引きこもっていたが、今は応接間で、皆と過ごす時間の方が多い。そして、グロウタース風に言えば、祖父に当たる風の王・リティルが帰ってくると、必ず顔を出すようにしていた。
「うん。とっくに」
レイシは、しょうがないなぁと言いたげな笑みを、その鋭い瞳に浮かべた。しかし、拒絶するような笑みではなく、ちゃんと温度があった。
「わああ!またお父さんとノインに怒られます~!」
慌てて飛び起きるインジュの隣に、レイシは悠々と腰を下ろした。そして、ニコニコと不穏な笑みで見つめてきた。その笑顔を見たインジュの顔が、青ざめた。
「あ、あの」
「インジュ、これ、どこ産かなぁ?」
問おうとしたインジュの鼻先に、ズイッとガラスのボトルが突きつけられた。インジュは、ゴクリと生唾を飲むと、いつものように聞いた。
相棒のレイシは、仕事が決まると行く先の酒を持参してからかうのだった。
「どこ産の何です?」
レイシは満足そうにニンマリ笑うと、ええと、と、ボトルのラベルを読んだ。
「ウイスキーだってさ。青い焔産」
青い焔?万年戦争大陸で、カルシエーナの故郷の?と、インジュは瞬時に思った。
「グロウタースです?ボク達二人で?珍しくないですか?目立つから出るなって、いわれるのに?」
インジュは、キラキラ輝く金色の髪を揺らして首を傾げた。
「二人じゃないよ。父さんと、あとケルゥとカルシエーナ」
え?戦闘系ばっかり?
「戦争でも、しに行くんです?」
「みたいなものかな?来なよ、久しぶりに応接間が物々しいよ?」
いつもはレイシの持参した酒を二人で飲むのに、今日は飲まないんだと思いながら、インジュは促されるままに、レイシに並んで扉に向かった。
「ああ、そう言えば兄貴が怒ってたよ?」
「え!ボ、ボク何かしました?」
「ケルゥにだけど」
「心臓に悪いですから、やめてくださいよぉ!」
アハハハと、楽しそうに意地悪な笑みを浮かべるレイシは、インジュとは、グロウタース風に言えば、叔父と甥の関係だった。
目覚めた時から、生涯容姿の変わらない精霊という種族では、その関係を見た目で判断することはできない。現に、どう見ても、インジュの方が、レイシより年上の容姿をしているからだ。
レイシとは、仕事中離れたことがなかった。今回も、こんなに離れたままになるとは、思ってもみなかった。
リティルの目の役目を担うカラスが、始終どこかから見てくれているが、インジュは情けないことに心細かった。
救いは、リティルやレイシにまで牙を剥いた、ザリドという男は、さほど怖い男ではないということだった。何を意図してか、あまり離れるなと、日中そばに留め置かれる以外は、自由を許されていた。
しばらく滞在してわかったことは、ザリドを含め、タイガ族は、あまり慕われていないということだった。その理由はよくわかる。タイガ族は数こそ多くはないが、とにかく乱暴なのだ。気に入らないことがあると、女でも子供でも、別の獣人種でも、構わずに暴力を振るう。ちょっとこれはどうなのかと、ザリドに言うと、彼は、性分だといって、全く取り合ってくれなかった。
「ザリド、リティルの話、どうするつもりです?」
ここはその昔、ソラビト族という半獣人種の暮らす谷だったらしい。腕を五色の美しい翼に変えて、空を舞う彼等は、切り立った谷の岩肌に鳥籠のような、木製の家を造って暮らしていたらしい。ずっと昔に滅ぼし、それからずっと獣人達が居座っているようだ。
空を飛べない獣人達は、谷の内側を削り、地上に集落を築いた。それが、この郷のスリットのような狭い空の理由だった。
丸太を積み重ねて造られた家の一室に、インジュとザリドはいた。
「ランティスの下につけって、あれか?論外だ。半獣と人間なんぞと群れられるか!おい、インジュ、カルシエーナがどこにいるか、いい加減教えろ!」
「嫌です。教えれば、獣人だけで向かうんでしょう?リティルにしれたら、今度は腕だけじゃすみませんよ?」
リティルか、とザリドは苦々しくその名をつぶやいた。ウルフ族と変わらない体型の、童顔な風の王。彼の攻撃スピードにまるでついていけなかった。しかし、ランティスはそのすべてが見えていた。しかし、直接戦ったわけではないと、ザリドは、ランティスを認められないでいた。
「何を怖がってるんです?ここの警備も尋常じゃないですよねぇ?」
王のいる居住区の周りは、タイガ族だけが暮らし、丸太の先を槍のように尖らせた柱を、束ねて並べた塀と、門で仕切られていた。その門の外に、他の獣人種達が暮らしていた。タイガ族の区画に入るには許可がいり、出入りする他の獣人種達は、遠目にも目立つ、赤いポンチョを着せられていた。
答えないザリドを、沈黙で見つめていたインジュの耳に、もう聞き慣れそうな怒声が聞こえてきた。また、出入りの者とタイガ族が揉めているのだろうか。インジュはため息を付くと、外へ向かった。インジュはここへ来て、ずっと喧嘩の仲裁ばかりしているのだった。
「もおおお!少しは優しくできないんです?」
外に出てみると、あまりの惨状だった。三人の男に誰かが執拗に蹴られていた。インジュは翼を開き鋭く飛びながら、よく通るその声で声をかけた。インジュに気がついた男達は舌打ちすると、サアッと退いていった。周りの家々から、窺うような視線は感じるが、いつものことだが、誰一人手を差し伸べようとする者はいなかった。
「あなたは、獣人じゃないですよね?半獣の人が、どうしてここにいるんです?」
地に伏していたのは、鷲の足を持つどう見ても半獣人種だった。頭を庇った細い腕には五色の羽根が生えていた。何度も痛めつけられているのか、その腕には包帯が巻かれ、青銀髪の頭にも包帯が巻かれていた。
答えないその人の背に手をかざし、インジュは癒やしをかけた。そして気がついた。この人は、出入りを許された者の証である、赤いポンチョを着ていなかった。
「インジュ、放っておけと言っただろう?」
「放っておけるわけ、ないです!こんなこと繰り返して、恨みを買うだけですよ!」
インジュは見に来てくれたザリドに、噛みついた。ザリドの視線が、インジュの足下に向いていることに気がついて、つられたように視線を落とす。ちょうど、地に伏していた者が身動きしたところだった。
「大丈夫です?」
「……はい」
インジュはその時初めて、彼女が女性であることに気がついた。目に傷を負っているのか、頭の包帯は右目を隠して巻かれていた。その、右半分を隠した顔を見たとき、インジュの心を鈍い痛みが襲った。
「スフィア……」
違う。彼女じゃない。わかっているのに、その名が思わず口から出てしまった。グロウタースで出会った初恋の人。寿命という壁に阻まれ、彼女が輪廻の輪に帰ってからもう、どれだけ経っただろう。忘れることのできない、ウルフ族の女性の名だった。
「女、名は?」
ザリドの恐ろしげな声に、彼女はビクリとして、その青色の瞳をインジュから外してしまった。答えない彼女に苛立ったのか、ザリドの気配が動くのを感じて、インジュは咄嗟に庇っていた。
「痛いですよ?」
おそらくザリドは、彼女の髪の毛を掴んで引き立てようとしたのだろう。割って入ったインジュは代わりに髪を掴まれていた。インジュの切れ長の瞳に睨まれて、ザリドはハッと瞳を見開くと、慌てて手を放していた。
「もう、行っていいですよ?それとも、ボクと居ます?」
インジュは乱れた髪を直す為に、髪留めを外しながら、彼女を振り返った。ソラビト族の女性は、戸惑った顔で、インジュの顔を見返すばかりで、何も答えなかった。
「そんな聞き方じゃ答えないぞ?奴隷には命令しないとな」
奴隷?インジュは聞き慣れない言葉に、ザリドを見上げて首を傾げた。
「精霊様は、そんなことも知らんのか?いいように扱える道具だよ」
いいように扱える道具?
「あなた達は、同じ命を物のように支配していると、そういうことですかぁ?」
ザワリと、辺りの空気が変わった。インジュの半端な長さの髪が、フワリと浮き上がった。
奴隷という制度が、インジュの怒りを買ったことはわかったが、ザリドには、それがなぜなのかがわからなかった。
「強い者が弱い者を支配して、何が悪い?その代わりに、強い我々が戦場に立っているんだ。命を張っている者に、守ってもらってる者が奉仕するのは当然だろう?」
「そんな言葉で、ボクが騙されると思ってるんです?その理屈は、奴隷には当てはまらないですよねぇ?」
どうしよう?止められない。心の中の冷静なインジュが、怒りを静めてと警告していた。
このままでは、ザリドを、内なるオウギワシが握りつぶしてしまう。
どうしよう?怒りの鎮め方がわからない。よく怒るレイシを、インジュは宥めてばかりだった。インジュは、彼の前で怒ったことがあっただろうか。いつも、インジュが怒る前に、レイシが怒ってしまうのだ。そうなったら、インジュは宥めるしかない。
レイシは優しい人で、インジュにインジュらしからぬことをさせないために、キレやすい傍若無人な、ダメな男を演じてくれている。知っていた。仕事に出れば喧嘩ばかりだが、レイシの優しい守りを、インジュは知っていた。そんなレイシのいない今、どうすればいいのか、わからない。
ここで怒り狂ったら、もしも、父が――インファが来てしまったら、もうその時点でこの茶番は終わってしまう。レイシも、父も頼れない。
どうしよう?内なるオウギワシが、虎を握りつぶせと囁きかけてくる。
その絵を想像して、インジュは怖いと思った。だって虎ですよ?と。……怖い?
――インジュ、自他共に認める臆病さで、内なるオウギワシをねじ伏せなさい
脳裏に、父の声が蘇った。厳しく優しいインファの声に、怒りはスウッと鎮火していった。
――お父さん、お父さんならどうします?
「マズいです。もの凄くマズいですよぉ?ザリド、あなたは滅びたいんです?」
スクッと立ち上がった青年の顔に、もう怒りはなかった。
「他種族を、認める心を手に入れられなければ、ボクはあなた達を、滅ぼす以外になくなりますけど?」
ユラリと、インジュの背後に大きな鳥が翼を広げる幻が、ザリドには見えた。臆す心を振り切り、ザリドはインジュに声を荒げていた。
「どんな理屈だ!精霊様はそんなに偉いのか?」
「ボクのやろうとしていることは、あなたと、そんなに変わらないと思いますけど?より強い者が、弱い者を支配する。でしたよねぇ?ザリド、勝負しましょうか?戦える者を全員、ここへ集めてください」
「なに?」
「あなた達を、ボクが支配してあげます。それが、タイガ族のやり方なんでしょう?支配される者の気持ち、体験させてあげますよぉ」
インジュに庇われたままのソラビト族の女性は、女性のような精霊を、ただただ見上げていた。そして、眩しそうに目を細めた。
人間の国・剣と盾の都の、作戦会議室ではまとまらない話し合いが続いていた。
アルディオは、風の王の導きに従い、ウルフ族の長と獣人種の王と共に、破壊の精霊・カルシエーナを討つ旅に出たいと訴えた。
しかし、側近達は一様に難色を示したのだった。
まず、半獣人種に従って敵を討ったのでは、民に示しが付かない。リーダーはアルディオでなければと。
そして、獣人種の王と行動を共にするなど、もっての外だと。混乱に乗じて殺されれば、人間は滅亡してしまうと。
ついには、風の王は本当に味方なのかと。
レイシはそれをずっと傍観していた。
これに乗じて、人間の地位を上げようとか。獣人と半獣人をどう出し抜こうとか、そんなことばかり言い合っているのを、ずっと聞いていた。
一旦、頭を冷やそうと、会議はお開きとなった。もうこんなことが、ずっと続いていた。
疲弊したように、椅子に座り込んで動かないアルディオに、レイシはやっと近づいた。
「レイシ殿……見苦しいところをお見せして、申し訳ない」
「オレは別にいいけどさ。あんた、大変だね」
思いの外優しい言葉に、アルディオは顔を上げられないまま苦笑した。
「オレのいる風の城。リーダーが二人いるような感じなんだ」
アルディオはやっと顔を上げた。レイシは、鉄の格子が嵌まった窓の外を見ていた。
「風の王とその副官。今回さ、ホントは王じゃなくて副官が来ることになってたんだ。それをさ、怖い副官が、王は甘いから査定には向かないって言い放って、無理矢理交代させたんだよね」
怖い副官?アルディオは、リティルの、若すぎる容姿を思い浮かべていた。彼の発する雄々しく、生き生きとした気配を侮る気はないが、あの容姿で、王を名乗るのは大変だろうなと、思ってしまった。
「それは……リティル殿も災難だったようで」
「それがさ、そうでもないんだよね。なんでかわかる?」
レイシは、やっとアルディオを見た。
「怖い副官はさ、風の王が、本当は、青い焔を導きたいのを知ってて、みんなの前で王を罵ったんだ。それでさ、公平を期するためとか言って、大手を振って風の王は来られたってわけ。ようはさ、優しいんだよ。風の城のみんなはね」
レイシは笑った。その笑顔が、ずっと冷めたような笑いしか、浮かべなかった彼にはめずらしく、優しかった。
「あんたの側近、あんたに優しくないよね。あの人達は、何を見てるの?破壊の精霊達のこと、見えてないの?このままだとさ、獣人とか、人間とか関係なく、平等に、滅んじゃうんだけどさ」
レイシはそう言うと、部屋を出ようとした。
「どこへ?」
「んー、散歩?付き合う?」
レイシは、アルディオに小馬鹿にしたような、笑みをむけた。
「お供しましょう」
アルディオは何の躊躇もなく席を立った。その様子に、レイシはおや?と思った。
「あんたさあ、王様っぽくないよね?王様ってさ、もっと、こう、玉座にデンッ!て座ってるモノだと思ってたよ」
「リティル殿は、そんな王だと?そうは見えないが」
王サマにも見えてないんじゃない?と、レイシは笑った。
そもそも、風の城には玉座の間がない。玄関ホールを通って次の部屋でリティルは、来客の対応をしてしまう。命を殺すことを生業としているのに、それはとても不用心だ。あの応接間で、何度も襲われているというのに。いつも、来るなら来い!って姿勢なんだよなと、レイシは苦笑しか浮かべられない。
「風の王はそんなんじゃないよ。いつも先陣切って飛んでるよ。副官と補佐官が呆れるくらいにね。それで、誰よりも何よりも傷つくんだ。傷ついてるのに、力強く笑ってるんだ。この大陸が、父さんを酷く傷つけるなら、オレが全部壊してやりたい。でもできないんだよなぁ。そんなことしたら、あの人、ますます傷ついちゃうからさ」
困った王様だよと、レイシはそう言って、また優しく笑った。
「あんたはさ、何を守りたいの?オレ達は揺るがないよ?」
レイシはそう言うと、もうお供はいいよと言って、城門から外へ出て行ってしまった。レイシは多分、王が城から出られないと思ったのだろう。その通りだった。アルディオはただ、苦々しく少年の背を見送った。
アルディオは悪くない。けれども、今のままでは旅立たせることはできない。あの側近達を説得することは、できないだろうからだ。
レイシは一人、城下町を歩いていた。緑は少ないが、石や岩はたくさんあるのだろう。石や岩を砕いて組み合わせて、家々は作られていた。あの城も、石造りで、どこか風の城に似ていた。
当てがあったわけではない。だが、おそらくこれで釣れてくれるはずだと確信していた。
このことを、アルディオは気がついているのだろうか。知らないなら、この国の闇は深いなと思わざるを得ない。そして、たぶん、この大陸を救うことはできない。
「どうしよっかな?アルディオが動きやすいように、人間間引いちゃうとか?それやったら、兄貴とノインに怒られそうだな」
あの二人怖いからなぁと、レイシはうーんと頭を悩ませた。そろそろ、人気のない路地裏だけどなと、レイシは思った。
レイシは、この国に来てから、こうして歩き回っていた。そして、いろいろな人の話に首を突っ込んでは、情報を集めていた。ノインが、人間の国へ着いたらまず、人々の話を聞きまくれと、助言してくれたからだった。そして、ある人物の事を掴んだ。
釣れてるかな?周囲に十人くらいの気配が、つかず離れずついてきていた。
下っ端かな?だよねー。捕まらない限り、ボスのところには、連れて行ってくれないよねと、レイシは思った。
「ねえ、オレに何か用?」
レイシは不適な笑みを浮かべて、振り向いた。そして、おや?と思った。背格好はアルディオとほぼ同じで、マスクで顔の下半分を隠した、黒いマントの男が立っていた。
ノインと逆なの?と思ったら、笑いを堪えるのに必死だった。
「誰?」
レイシはあっという間に囲まれた。総勢九人。黒いマントとフードを目深にかぶった、顔の見えない者達だった。人間にしては、身のこなしが中々いい。マスクの男を入れて、十人だった。レイシを取り囲んだ九人は、細長い筒を口にあてがうと、レイシに向かい何かを飛ばしてきた。
あれ、なんだっけ?吹き矢だっけ?体に刺さった小さな矢から、何かが体の中に入ってきた。
オレ、毒効かない体質なんだよね。ええと、これ睡眠薬かな?咄嗟に毒の成分を分析して、睡眠薬なら寝るしかないかと、レイシは意識を保ったままばったり倒れた。
あ、なんか袋に入れられてる?
あ、担がれた?へえ、面白いな。と、レイシは瞳を閉じたまま五感を総動員した。
しばらく運ばれ、何やら空気感が変わった気がした。ああ、たぶん、坑道だなと思った。この国は、切り立った山々を越えた先にある。徒歩でこの国を出るには、坑道を抜ける以外に道はないとアルディオが言っていた。坑道内は迷路になっていて、罠も多数ある。
長い戦乱の中で、この坑道が突破されたことはないらしい。
レイシはやっと降ろされ、袋から出されると、椅子に縛り付けられた。そしていきなり、凍るような水を頭から浴びせられた。
「うっわ!冷た!」
レイシは頭を振ると、顔を上げた。
「あのさ、誰?」
顔は隠したままだが、見れば見るほど、アルディオにソックリだなと思った。
インファとノインもある理由から似ているが、これは同一人物と言っても、過言ではないほど似ている。双子というヤツかと、レイシは思った。
「精霊達は、何を企んでいる?」
「なんか、心配なの?」
「三国の王を、束ねようとする理由はなんだ?」
「抜け駆けさせないためでしょ?まあ、相手は破壊の精霊だしね、グロウタースの民じゃ、束になっても敵わないよ」
「半獣の長に従わせる理由は?」
「中立だから」
「あなたは、本当に味方なのか?」
「オレは、風の城以外には従わないよ。ねえ、これアルディオ知ってるの?」
「アルディオを、どうするつもりだ?」
「どうもしないよ。オレは役目を果たすだけだから。あのさ、アルディオを思うなら、あの側近達、どうにかしたほうがいいんじゃないの?」
「あなたにこの国の何がわかる!」
「わからないよ。何が大事なのか、まったくわからないね!オレのシールド、万能だと思ってる?あんなの、破壊の精霊と再生の精霊にかかったら、ないのと同じだよ?今、何と戦ってるのか、わかってる?獣人でも半獣人でもないよ。精霊だよ?それも、伝説クラスのね!あんなのとやり合えるの、風の王くらいだよ?」
「アルディオを行かせて、それでどうする?そんな精霊なら、行っても行かずとも結果は見えている」
「ここに閉じこもって滅亡を待つって?それとも、風の王に選ばれた、ランティスにすべてを背負わせて、終わったらまた、獣人と仲良く喧嘩再開するわけ?あんたら、狡くないか?カルシエーナをあんなにしたのは、おまえらだよな?先人が犯したことだから、しりませんって?もうさあ、滅んだ方がいいんじゃないの?」
アルディオは真面目に苦悩していた。彼は、人間すべてが大事なのだ。もしも、カルシエーナのもとへ赴くことが人身御供だとしても、それでこの国が守れるのならいいと思っている。なのに、そんな彼の献身を、誰もわかっていない。疲弊しているはずなのに、都はそれなりに活気があった。暮らす人数も、国と呼ぶには、他の大陸を思えば、随分小規模だ。けれども人々は、それなりに前向きだった。活気があった。
彼はきっと、獣人が攻めてこないなら、攻め滅ぼすことはないと思う。それよりも、血が流れることを、もうやめたそうだった。それなのに、側近達は、戦うことばかり考えていた。殺すことばかり考えていた。
その傍らでアルディオは、いち早く争いをやめ、かえらずの森に引っ込んで、出てこなくなった半獣人種達に、想いを馳せていた。王である彼が諦めている現状は、確かに問題がある。だが、そこまで一生懸命戦わなければならないのか?と、それも疑問だった。
「何が不満なの?暮らすにはここだって、十分だよね?この大陸全土を手に入れたって、使い切れないよ」
「この大陸を平和にしたい」
そう言えば、何でも許されると思ってるの?レイシは、呆れた。
この大陸を平和にしたいって?そう言って殺し合って、ついにはこの大陸を殺して、それで満足?おまえ達の勝手のせいで、父さんは……風の王は、汚さなくていい手を、赤く染めて、それで、おまえ達に遠慮なく恨まれるのに!レイシは、ギリッと奥歯を噛んだ。
「じゃあ、今すぐ争うのをやめなよ。都に暮らしてる人達、誰も望んでないよ。みんなさ、目の前の幸せを守りたいだけでしょ?それを壊してるのは、国を率いてる奴らだよね?」
不意に、強い揺れが襲った。大地が永遠の眠りへ、瞳を閉じそうにになってることを、レイシは感じた。マスクの男は、揺れに立っていられなくて、地に這いつくばった。
ヤバいな。レイシは思った。この揺れ、坑道が崩れてもおかしくない。
「今すぐここから出なよ。この地震、危ないよ?」
意識を集中すると、坑道内に何人か人の気配が感じられた。
「もう一発来られると、誰かが死ぬかもよ?部屋の外にいる人達、大事じゃないの?」
レイシは両腕に力を込めると、体を縛っていた太い縄を引きちぎった。
「何?わざと捕まったに決まってるでしょ?さあ、行くよ!」
レイシは、驚いているような、マスクの男を立たせると、部屋の外に向かって走り始めた。
「アルディオが心配ならさ、ふん縛る相手、違うんじゃないの?ほら、先に行ってよ。オレと仲間を、争わせるつもり?蹴散らしていいなら、遠慮なくやるけど、命の保証しないよ?」
レイシの本当にやりそうな微笑みに、マスクの男は先に立った。
「コウディオだ。ここを無事出られたら、聞いてほしいことがある」
「アルディオのことなら、聞くよ。聞くだけになるかもしれないけどね」
コウディオは、徹底していると苦笑した。当たり前とレイシは答えた。
「皆、退避せよ!坑道が崩れる」
坑道の闇に紛れていた気配が、一斉に動き出した。統率取れてるなぁと、レイシは感心した。風の王も様々な鳥達を同時に使うが、人間ほど複雑な心は持っていない。このコウディオという男は、なかなかのリーダーらしい。そして、アルディオの味方だ。唯一といっていい。
また地震がきた。待ってくれないなと、レイシは舌打ちした。
天井からバラバラと石が降ってくる。地面が割れないだけマシだなと思いながら、レイシは天井に走る亀裂を見た。
出口の光は目の前だった。坑道内の気配は、前を走るコウディオだけ。
逃げ切れるかな?レイシは祈っていたが、天井を形作る岩がずれる音が聞こえた。間に合わないなと、レイシは翼あるライオンに化身した。その背に岩が落ちる。
「レイシ殿!」
轟音と衝撃に、コウディオが振り向いた。
『行きなよ。オレと一緒に潰れたくなかったらさ』
レイシは四肢に力を込めて、コウディオを落石から守った。コウディオは一瞬の逡巡ののち、踵を返し光の中に消えた。それを見届けたレイシを、落盤が無慈悲に押しつぶした。
城で地震の被害状況を聞いて指示を出していたアルディオのもとへ、黒いマントの男がその背後にそっと寄り添った。彼からの報告を聞いたアルディオは、血相を変えた。
「坑道へ……坑道へ急げ!レイシ殿が巻き込まれた。直ちに部隊を編成せよ!」
王のその声を聞いても、側近達は誰も動こうとはしなかった。
「精霊など、放っておいても自力で這い出すでしょう。それよりも、西の商業区の被害が、甚大ですぞ」
「あの得体の知れない精霊、坑道で何を?それにしても、厄介払いができてよかったですな。幸い被害は西に偏っております。一から三部隊の派遣で、事足りますな」
アルディオは蹌踉めいた。
民を守る方が先だ。それはわかる。しかしレイシは、ただふんぞり返ってここにいたわけではない。幻夢蝶の襲撃の中、皆に家の中に入って出ないようにして、兵士も全員退かせてくれと言って、一人町へ降りていった。
今この国を包んでいる、透明な金色のドーム型のシールド。それが張られるまでの数十分の間、彼が都で何をしていたのか、アルディオは情報を集めさせた。図ったような襲撃に、アルディオは、レイシがカルシエーナとグルなのではないかと勘ぐった。
レイシは家の中へ入れと叫びながら、幻夢蝶と交戦を繰り返し、幻夢の霧を吸い込んで眠ってしまった兵士を、手近な家に放り込む作業をしていた。
そして、全員の避難が完了すると、国中に熱波を放ち幻夢蝶を一掃した。あの強烈な力に巻き込まれた者は、いなかった。あのとき国を守ったのは、レイシと手足として動いてくれた兵士達だ。ここで恐れおののいているだけだった、彼等ではない。
いつからこうなった?彼等は父の代から父を、この国を支えてくれていた者達だ。
こんなに冷たく、自分達さえよければいいという考えで、この国は動いていたのだろうか。アルディオも、獣人達は憎い。今更手を取れと言われても、できないと言い切れるほどには憎い。
だが、レイシは?精霊の脅威という、突然降って湧いた、災難と共に舞い降りた彼は?
あのとき、縁もゆかりもない者の為に、戦ってくれた彼は、友ではないのか?
――破壊か再生の精霊がきたら、オレが戦うから、手、出さないでよね?無駄に死ぬことないからさ
レイシの、フンッと人を小馬鹿にしたような笑みが、蘇った。
「レイシ殿の救出に赴く」
そうつぶやいたアルディオに、側近達の冷たい視線が集まった。
「レイシ殿がいなければ、カルシエーナが攻めてきたとき、誰が戦う?そなたらが、戦ってくれるとでもいうのか?民を盾にして、どこぞへ逃げる選択を、再びするのか!」
誰も動かない。そうだろう。彼等が仕えているのは先代の王で、自分ではないのだから。
アルディオは足早に部屋を横切った。側近達の止める声を振り切って。
王として、相応しくない振る舞いなのだろう。それでも、今、レイシのもとへ行かないという選択は、アルディオにはできなかった。
アルディオが馬を引き出す頃には、共に行くと自ら志願してきた兵士達の数が、二十人以上に増えていた。まだレイシがこの国に来て、半月も経っていないというのに、彼の振る舞いに、心を動かされた者がこんなにいることに驚いた。
坑道は、都の城壁の外だ。国の西に位置し、今回の地震で被害の出ていたその先にある。だというのに、畑の先にある坑道の前には、すでに人だかりができ、民達が石を掘り出していた。子供も女も関係なく、石を運び出していた。
彼等は誰に命令されたでもなく、自主的にレイシを救おうとしていたのだ。
「アルディオ様!」
アルディオの姿を見て、誰かが名を呼んだ。その声に皆が次々に声を上げ、レイシが中にいること、思うように作業が進まないことを告げてきた。
「レイシ殿!」
聞こえないとわかっていたが、アルディオは埋まってしまった入り口に立ち、名を呼んでいた。
『……アルディオ?なんだ、来たの?』
弱々しいが、声が返ってきた。アルディオのそばにいた者達にも聞こえたらしく、わあっと歓声が上がり、無事だ!無事だと後方へ波のように情報が伝わっていった。
『ちょっと意識飛んでた。何?カルシエーナかケルディアス、来ちゃった?』
「いや、そうではない。あなたを助けに来た」
『はあ?オレを?国はいいの?ここがこんなに崩れてるなら、都にも被害出てるでしょ?』
自分の心配より、国の心配?この人は……とアルディオは苦笑した。さっきも、敵の精霊のことを気にしているし、ぶっきらぼうで、突き放すような振る舞いをしているが、彼の心は随分温かいらしい。
「指示は側近達が出している。あの場にわたしは必要ない。出られますか?」
『この山に穴開けていいなら出られるけど、ちょっと地形変わっちゃうかな?オレ、これでも危険な精霊だからさ』
「よい。地形などどうでもいい。レイシ殿、あなたが無事なら、それでいい」
『……都の壁まで、みんな避難してよ。シールドの中なら安全だからさ』
「わかりもうした。皆の者!レイシ殿が脱出する。都まで退避せよ!」
不安そうにしていた皆の顔がほころんだ。そして、一斉に走り出した者達に、焦らず速やかに!と声をかけねばならなかった。
レイシは、気配がすべて壁を越えることを待っていた。アルディオに名を呼ばれるまで、意識を失っていたが、これだけの人数が、助けようとしてくれたことに驚いた。誰も動かないと、内心思っていたからだ。
へえ、オレの半分も捨てたもんじゃないんだなと、レイシは思わず笑っていた。レイシは、人間と精霊の混血だ。風の王夫妻の血は一滴も流れていない、彼等の養子だった。
実の父親に殺されかけ、体に流れる血を憎み、風の城の皆以外、誰も信じなくなった。
そんなレイシを、リティルは人間の導き手として選んだ。なんで?と父の人選を疑った。
確かに、インファとノインが動けない今回、薄々思っていたが、シェラという手もあったはずだった。敵役の二人の精霊と渡り合えて、美しく威厳のある母なら、人間を丸め込むのは簡単だと思う。
それなのに、リティルが選んだのは、レイシだった。今でもよくわからない。わからないが、今は外に出ようと思った。待ち望んでいる人が、いるみたいだから。
あと少し、あと少しで、しんがりを務めるアルディオが、壁の中へ入る。
「なぁに、やってんだぁ?レイシ」
ゾクッとレイシは背中に悪寒が走るのを感じた。この声は、再生の精霊・ケルディアスだ。ちょうど真上にいるらしいことが、気配でわかった。
『え?ケルディアス?こんな時に来る?普通』
「ワハハハハ!おめぇ、しくじったんかぁ?人間どもに裏切られて、そんな目に遭ってんのかぁ?」
誤解してる?いや、彼は素だ。おそらくインファの采配で、ここへ来たのだ。動かない情勢を動かす為に。副官の査定は、マイナスに傾いているのかもしれない。ここでどう、人間達が動くのか、見たいのだろう。
どっちにしろ状況は最悪だ。ケルゥの手駒は妖精兵だ。か弱いが幻夢の霧を吐き出す、幻夢蝶達とは、比べものにならないほど丈夫で、槍の腕も立つ。トンボの羽根を生やし、鎧を身につけた男性型の兵士だ。空中の気配が、どんどん増えていくのが、気配を感知する能力に長けたレイシにはわかる。戦えない者も、多くレイシの為に集まってくれてしまっていた。アルディオが、民をとにかく家の中に入れてくれることを、祈るしかない。
こんなに注目を集めてしまった今、ケルゥにシールドを破られれば、即虐殺が始まってしまう。
『こっちがあんたってことは、インジュの方にカルシエーナ?』
一山越しに話しているのだ。この会話はどれくらいの人に聞かれているのだろうか。とにかく、時間を稼がないとと思った。
「さあなぁ、インジュの心配してるときかぁ?なあ、アルディオってのはどいつだぁ?」
アルディオが目的なの?なんで?と、レイシはインファの采配に疑問を持った。まさか、人間の滅びが決定してしまった?時間をかけすぎただろうか。あの側近達に何の働きかけもしなかったから、兄は見限ったのだろうか。
『教えると思う?ちょっと待ちなよ。すぐ相手してあげるからさ!』
「へっ!そんなん待つわけねぇ!あの城か。あそこにいんだなぁ?」
城?そっちもマズイ。城には側近達がいる。アルディオの言うことは聞かなくても、政治には必要なのかもしれないことは、レイシにも何となくわかっていた。国を運営できる人材がいなければ、アルディオは旅立てない。それもまた、滅びのルートだ。
『城にはいないよ!待ちなよ!ケルディアス!』
パリンッと、薄氷が砕けるような高い音が響き渡った。国にかけたシールドが破られたのだ。
「ワハハハハ!人間ども、カルシエーナの代わりに、オレ様が血祭りにあげてやんぜぇ?」
うわ!悪役、超似合う!と、レイシは思わず叫びそうになってしまった。
ケルゥは、インファから人間の国に行けと言われた。
そして、城を、中の人々をなるべく傷つけずに、壊せと言われた。変な指示だなと思いながら来てみれば、レイシが山の中に埋まっていた。おいおい、何事だ?と思ったが、レイシは思いの外元気だった。
じゃあ、兄ちゃんの指示に従うかと、城を襲うことをほのめかすと、レイシはあからさまに動揺した。城に何かあるのか?ただ、アルディオを傷つけられたくないのか、どっちなのかと思ったが、まあ、悪役は悪役の仕事をこなさなければなと、妖精兵を適当にばらまきながら城に近づいた。
さて、中の者をあまり傷つけずに?なおかつ、恐怖を与えるとなると……
ケルゥはおもむろに、両腕を黒犬の腕に変化させると、壁に手をかけた。そして、グイッと持ち上げた。
ミシミシと軋みながら、城の壁に亀裂が入り、ついにパックリと、まるで入れ物の蓋が開いたように、屋根と壁の一部が取り払われていた。ケルゥはポイッと引き剥がした上部を何もない山に向かって投げた。
「アルディオはどいつだぁ?」
意図したわけではなかったが、ケルゥが屋根を取り払ったその部屋は、作戦会議室だった。
中にいた初老から老人までの面々の顔を見渡す。アルディオはいないなと、すぐにわかった。あまり大した魂でもなさそうだが、舞台から退場願っていいものだろうか。
「アルディオはわたしだ!再生の精霊・ケルディアス!」
慌てふためく老人達の前に、黒いマスクの男が立ちはだかった。
隠す部分がノインと逆だなと、ケルゥは思ってしまった。そして、あいつ元気かな?と、頼れる友を思った。
「勇ましいじゃぁねぇかぁ!王様よぉ!」
そのうちレイシが来るだろう。しばらく遊んでやるかと、ケルゥは黒犬の腕を元に戻すと殴りかかった。
ああ、そうだった。人間ってヤツはもの凄く脆いんだったなと、ケルゥは思った。
ケルゥの拳を受けた刃は砕かれ、コウディオの体は二、三メートル飛んでいた。やり過ぎたなとは思ったが、退くに退けない。
「ワハハハハ!そんな脆弱で、カルシエーナを止められると思ってんのかぁ?あいつが手を下すまでもねぇ。今ここで死ねやぁ!」
何とか体を起こしたコウディオに殴りかかったケルゥは、突如、流れ込んできた金色の風に驚いたように距離を取った。そして、内心ホッとする。
――遅せぇよ。リティル
「ケルディアス、この風の王が相手してやるぜ?」
倒れたコウディオの前に立ちはだかったのは、雄々しいオオタカの翼を背負った、小柄な風の王だった。
「けっ!出やがったなぁ?風の王・リティル!」
リティルが相手なら気兼ねがいらない。凶悪な顔で嬉しそうに笑ったケルゥに、リティルは思わず苦笑しそうになった。
「兵を退け、ケルディアス。レイシとオレ、同時に相手するのは疲れるだろ?」
辺りに金色の風が、薄絹のようにたゆたっていた。適当に放った妖精兵達は、この風にすでに消されただろう。まったく、力の格が違う。我らが王様!と、ケルゥは内心賞賛した。
「ああん?レイシぃ?レイシは瓦礫の――」
ドオンッと音がして、オレンジ色の光が天を刺し貫いた。レイシの太陽光の力が、灼熱の炎となって吹き上がったのだ。
『ケ、ルディ、アス!』
おお、お怒りで。有翼ライオンに化身したレイシが、怒気を含んだ叫びを上げて、空を突進してきていた。今のレイシと戦うのは、得策ではない。お互い無傷では済まないからだ。
「出てきやがったかぁ、レイシ。しゃぁねぇ。風の王様に免じて、今回は退いてやらぁ!」
ケルゥは踵を返すと、レイシが到着する前に北の空へ退散していった。その姿を見送り、リティルはコウディオに視線を合わせた。
「影武者、おまえもまだ、死ぬなよ?」
リティルはそれだけ言うと、空に飛び出した。コウディオは、空中で不自然に化身の解けたレイシを、リティルが抱き留める姿を見た。
空中でレイシを抱き留めたリティルは、急いで息子の様子を確かめた。
「レイシ!おい、大丈夫か?」
カラスの目でずっと見ていた。だが、レイシがわざと捕まり、坑道に連れ込まれてからの動向はわからず、心配していた。地震の頻度は増している。特に、人間の国の下の地盤は、崩壊を始めていた。オオタカの姿で上空に待機していたが、レイシが生き埋めになったときには肝が冷えた。それでも、手を出すわけにはいかなかった。
「あ、うん――父さん……かえらずの森はいいの?」
化身していたことと、守りに長けた、レイシの妻で、リティルの娘であるインリーの力が、しっかり守ってくれたのだろう。レイシに大きな怪我はなかった。
「あっちはシェラがいるからな、心配いらねーよ」
リティルは、シェラからもらって、体の中に留まっている、無限の癒しの力を引き出すと、傷だらけのレイシの体を癒やしてやった。しかし、疲労までは癒やせない。荒かったレイシの息は整ってきたが、しばらく眠った方がいいだろう。
「おまえが起きるまで、オレがここにいてやるからな。今はゆっくり休めよ」
「ごめん……父さん」
ハアと息を深く吐き、レイシは気を失った。
「謝るなよな。おまえは、頑張ったよ」
本当に逞しくなったなと、リティルは静かに微笑んだ。リティルはブレスレットでゲートを開くと、かえらずの森にレイシを送った。
さて、と、リティルは国を見回した。
ケルゥに脅かされて、何か変わっただろうか。城にとって返してくる馬の一団がいる。アルディオだなと、リティルは思った。
リティルはアルディオのそばに舞い降りた。
「リティル殿!レイシ殿は!レイシ殿は存命か?」
馬に並んで飛ぶと、アルディオは手綱を引き、馬を止めた。必死な顔で、レイシを案じる彼に、リティルは苦笑した。なかなかいい関係築いてるじゃないかと、思った。
「オレの息子は、そんなに簡単に死なねーよ。疲れてたからな、かえらずの森に送ったんだ。目が覚めたら戻ってくるからな、心配するなよ」
「そうか……よかった……皆に、レイシ殿は無事だと知らせてやれ!」
そばにいた兵士に声をかけると、彼等は頷いて方々へ散っていった。あの人数で駆け回らねばならないほど、レイシを心配してくれている者がいるのかと、リティルは改めて思った。
「アルディオ、レイシが坑道に閉じ込められた件、説明できるか?」
「申し訳ない。わたしは与り知らぬのです。しかし、犯人は必ず見つけだ――」
「アルディオ、そのこと、レイシが戻るまで待ってやってくれねーか?」
リティルはアルディオに皆まで言わせず、そう提案した。有無を言わさない金色の瞳に、アルディオは承諾せざるを得なかった。
『オレが出しゃばるわけにはいかねーからな。しばらくそばで見守らせてもらうぜ?』
リティルは、何の変哲もないオオタカに姿を変えると、アルディオの肩に遠慮なく止まった。本当は、レイシの壊した坑道を見に行きたいが、レイシのいない今、アルディオから離れるわけにはいかなかった。幸い、インジュの方には目立った動きはない。
ノラリクラリとしているインジュが、奴隷制度を目の当たりにして、怒髪天を衝かなかったのにはホッとした。インジュもきちんと成長しているようで、安心した。インジュは普段優しいが、たぶん一度キレると手がつけられない。あんなナリだが、中身は獰猛なオウギワシなのだから。
『アルディオ、コウディオのこと、レイシに教えてやってくれよ?』
アルディオは、リティルの口からその名が出るとは思っていなかったようで、手綱さばきが乱れた。
『もう、あんまり猶予もねーからな。教えてやるけど、レイシを坑道へ連れ込んだのは、コウディオだ。あいつには、何か考えがあるらしいぜ?坑道内は鳥が使えねーから、レイシと何を話してたのか、オレは知らねーけどな』
コウディオが、レイシ殿を?アルディオは、双子の弟のことを思った。影武者としてずっと、闇の中を歩く片割れ。彼が、レイシに不信感を抱いたと考えるのは、たやすかった。彼も、レイシとカルシエーナが繋がっているのでは?と思ったのだろう。
しかし、アルディオはもう、レイシがカルシエーナと繋がっていようがいまいが、どっちでもよかった。レイシが、人間を守ろうとしてくれていることに、偽りはないのだから。
「リティル殿、あなたはケルディアスと知り合いなのか?」
『ケルディアスだけじゃねーよ、カルシエーナのことも、よく知ってるぜ?風の王は世界を守る刃だ。いろいろな精霊と関わってるんだよ』
「そんな者とよく敵対できる」
『風の王だからしかたねーんだよ。オレは、世界の為なら、親兄弟も殺せるぜ?』
親も兄弟もいないけどと言って、リティルは冗談めかして笑った。
「あなたは、強いな……」
『そうでもねーよ。今は、息子を心配してる、一人の父親だよ』
同じような年にしか見えない二人だが、レイシはリティルを父と呼んでいた。血の繋がりはないと言っていたが、本当に親子なのだろうなと、見ていて思った。
「リティル殿、必ず始まりの泉に赴きます。あなたの息子、レイシ殿と共に」
『ああ、待ってるぜ?』
インジュは、郷の外に出ている、タイガ族も呼び戻すから待てと言われて、仕方なくあてがわれた部屋にいた。この、いつ精霊が攻めてくるかわからないときに、なぜに郷の外にいる部隊がいるのかと呆れたが、口には出さなかった。
「あ、リャンシャン。ボクの世話はいいんですよ?」
リャンシャンは、インジュが意図せず助けてしまった、ソラビト族の女性だ。ちょうどいいからと、ザリドが身の回りの世話係として、無理矢理あてがってきた。
タイガ族は、捕虜にした半獣人種を奴隷として使っていた。人間の奴隷がいないのは、人間は脆くて、すぐ死んでしまうからだそうだ。
この郷がある場所は、元々ソラビト族の集落があったところらしい。獣人達はここを襲い、蹂躙し、滅ぼした。リャンシャンのように、生き残ったソラビト族はランティス達に奪われた者以外はここで、奴隷として飼われていた。
「ソラビト族は、あなたの他にあとどれくらいいるんですか?」
「……全部で十二人……」
「全員タイガ族の集落に?」
リャンシャンは頷いた。
もうインジュに癒やされて、彼女は包帯を取っていた。彼女に右目はちゃんとあった。リャンシャンとスフィアは、似ても似つかない。童顔で勝ち気だったスフィアと、淑やかで美人なリャンシャンとでは、共通点を探しても、今のところまったく見つからなかった。
ただ、右目を隠していたというだけで、スフィアを思い出してしまうなんて、どれだけ女々しいのだろうかと、インジュは恥ずかしくなった。もう、とっくに天寿を全うして、スフィアは時の彼方に行ってしまったのに、未だに忘れられなかった。
「奴隷を使っているのは、タイガ族だけなんですか?」
リャンシャンは頷いた。
「他の獣人の人達は、優しいですか?」
リャンシャンは少し考えて、頷いた。
「タイガ族、やっぱり滅ぼしちゃいましょうか……」
「インジュ――様、それは、いけません」
「あ、冗談です。ボク、風の精霊なんで無闇な殺生はしません。でも、リャンシャンはあんな酷いことをされても、庇うんですねぇ」
「風の精霊、わたし達の、源流だから」
たどたどしく、リャンシャンは言葉を紡いだ。
「源流?ですか?」
リャンシャンは頷いた。
「わたし達の祖先は、風の精霊との混血精霊」
混血――精霊?インジュの脳裏に、レイシが浮かんでいた。
「原点の人はまだ、生きてるんです?」
リャンシャンは、フルフルと首を横に振った。
――混血精霊の末路は、みな救いようがないんだ。だからなインジュ、おまえ、一線越えるなよ?
昔リティルに言われたことを、急に思い出した。なぜにこんな釘を刺されたのか、合点がいかなかった。グロウタースの民と関係を持つなんて、そんなことあり得ないのに。
そういえば、混血精霊の子孫は、混血精霊なのだろうか?インジュは思わず、マジマジとリャンシャンを見つめてしまった。
「あ、女性をジロジロとすみません」
ハッと我に返り、インジュはぱっと視線を外した。
リティルは、ソラビト族のことを知っているのだろうかと、インジュは唐突に思った。風の王は、世界に迷惑をかけない限り、グロウタースで狩りを行うことはない。けれども、グロウタースにいる混血精霊が、さらに子をなしたというのは、にわかには信じがたいことだった。それだけでも驚きなのに、その子孫が一つの種族となるほど増えているとは、精霊の常識では考えられないことだった。
レイシの力が強力であるように、混血精霊の力はグロウタースにおいては、異質で危険だ。世界を守る刃である風の精霊であっても、その本性は獰猛な猛禽類だ。力は受け継がれても精神は受け継がれない。リティルは未だに、混血精霊の起こしたことを清算する為に、彼等を狩っている。
ソラビト族の原点の混血精霊も、いつしかそうやって風の王に狩られたのだろうか。
「リャンシャン、ボク、タイガ族に勝って、あなた達をかえらずの森に、連れて行きますからね!」
インジュはそう言って、屈託なく笑った。
かえらずの森――生まれも育ちも、この獣人の郷であるリャンシャンには、どんな思いも湧かなかった。どこにいても、何も変わることはないと、リャンシャンの心は頑なだった。希望を持つことを、恐れていた。心に光を持つには、すでに、リャンシャンは奪われすぎていたのだ。
「インジュ――様……」
「インジュでいいですよ?ボク、ただの風の王の配下の精霊ですし」
インジュはニッコリ微笑んだ。リャンシャンは、生まれてから今まで、こんな笑顔を向けられたことはなかった。覚えている男の笑みといえば、欲望にまみれた、気持ちの悪いものばかり。こんなに綺麗でも、インジュにもやっぱり、そういうケダモノの部分があるのだろうか。リャンシャンは、暗い瞳でインジュから視線を外した。
「あ、信用してませんよね?そうですよね、ボク、こんな容姿ですし。みんな、ボクのこと綺麗だ、癒やし系だっていうんですよ。みんながそう言って守ってくれるほど、ボク、綺麗でも癒やしでもないんです。でも、みんなのこと大好きですから、みんなの望むボクでいたいんです」
インジュは、タイガ族に勝てないと思われたのだと、勘違いしていた。
「偽って、いる?」
リャンシャンはインジュの言葉に、思わず彼の顔を見ていた。
「いいえ!ノンビリ怠け者なのは、素です。ボクは、風の城で唯一殺していない鳥なんです。本当は、躊躇いなく命を奪えるんですけど、みんながそれを望まないので、ボクは殺しません。あ、もっと勝てないと思いました?大丈夫です。ボク、強いですから」
そう言ってインジュは、綺麗な笑みを浮かべた。
リャンシャンは、大事なモノを守ろうとしているインジュの姿を、眩しそうに見つめた。この人の光を信じて、ついていきたいなと思った。諦めていたはずなのに、思い知っているはずなのに、希望を持ってしまった。
しかし知っている。タイガ族は、ただ、力だけの部族ではない。
彼等はあれでいて狡猾だ。そうでなければ、こんな戦乱の世だ、とっくに滅ぼされている。インジュはまだ、彼等の怖さをしらない。
リャンシャンは、水をもらってくると言って、部屋を出た。
だから、この身を彼の為に役立てよう。何度目か、希望を持ってもいいよと言ってくれた、人の為に。
獣人の長の部屋では、ザリドが憤っていた。
「なぜ、戻るのにこんなに時間がかかるんだ!」
ザリドは、手近にあった水差しを壁に投げつけた。陶器の水差しは、丸太の壁に当たり粉々に砕け散った。
ザリドは、何をこんなに怒っているのか、自分で自分がよくわからなかった。
奴隷の女を庇い、蔑むような、怒りの視線をぶつけてきたインジュの姿が、脳裏にちらついていた。それを思い出すたび、手当たり次第に、ある物ある物壊したくなった。
なんだ?なんなんだ!この苛立ちがどこからくるのか、わからない。ただわかることは、インジュに向いている怒りではないと、いうことだけだった。けれども、怒りの原因はインジュだった。わからない。原因はインジュなのに、インジュに向かっている怒りではないと、わかっていることが、不可解だった。
では、ワシは何に、誰に対して苛立っているのだろうか。と、ザリドは冷静になれない頭で自問自答していた。
インジュは本当に、タイガ族の戦士すべてを相手に戦い、勝つつもりなのだろうか。
あんな、ナヨナヨした男が?そんなことをさせて、大丈夫なのか?怪我でもさせたら?
「ザリド様」
「おい!なぜこんなときに、郷の外に部隊を派遣した?なぜ、戻らない!」
インジュが、タイガ族全員と戦うと宣言してしまい、ザリドは言われるまま、戦士を召集せざるを得なくなった。だが、問題が発生した。ザリドの留守中に、郷の外に派遣された部隊がいたことを、告げられたのだ。それが、未だ戻ってこない。部隊を派遣した側近の一人は、今戻っている最中だと、何度聞いても同じ言葉を繰り返した。
あれから、ザリドのそばから離れてしまったインジュは、待たされて、呆れているかもしれない。彼の助けた奴隷の女を、世話係につけたが、それすらインジュは喜ぶどころか不満そうだった。
――ボク、世話なんていりません。精霊ですから
精霊だから世話がいらないという理屈が、ザリドにはまったく理解できなかった。だが、引くに引けなくて、半ば強引に押しつけてしまった。そんな行動も、彼は呆れているかもしれない。
「落ち着かれよ。あなたらしくもない。今、準備を進めています。もう少しお待ちを」
「準備?ただ、戦士を全員集めるだけだろう!」
男は薄く笑った。
「精霊とはいえ、相手は一人。我々が負けることは、万に一つもないでしょうが、念には念をと思いまして」
何を言っているんだ?と、ザリドは思ってしまった。
「今、痺れさせる毒を調合しております」
何?毒?ザリドは、脇を冷たい汗が流れるのを感じていた。急激に、頭の芯が冷えて、冷静になっていった。
「あとはそれを、酒にでも混ぜて飲ませてください。いつものように」
いつもの、ように――そう言われて、ザリドは我に返った。なぜ、ワシは、あのインジュ相手に、正々堂々と戦おうとしていたのかと、ザリドは思った。
インジュ……穢れていないようなインジュの姿に、ワシは――わからなかった想いが、像を結びそうになったそのときだった。
「おまえ!ここで何をしている!」
部屋の外で、咎める大声が聞こえた。そして、乱暴な様子で、側近の一人が、何か小さい者を引っ立てて入ってきた。
ドンッと、ザリドの前に突き倒されたのは、ソラビト族の女だった。
それは、インジュに押しつけた、奴隷の女だった。女の手には、空の水差しがあった。水を汲みに、ただ、通りがかっただけかもしれないが、ザリドは大いに動揺していた。
今の会話を聞かれた?ザリドは、リャンシャンを見下ろした。顔を上げた彼女の瞳が、蔑むような、責めるような色を帯びていた。あんなに綺麗なインジュを、穢すの?わたし達を、穢したように……そう言われた気がした。
会話を……聞いていたのだ……それを悟り、ザリドは震えた。
「インジュ様の、ために、水、を……」
リャンシャンは頭を垂れて、空の水差しを掲げて差し出した。
彼女は、水を汲みに行こうとしただけだと、そう主張した。
「なんだ、紛らわしい!とっとと行け!」
引っ立ててきた男は、リャンシャンの腕を掴むと無理矢理に立たせた。そして、その小さな背をドンッと突き飛ばした。リャンシャンは再び、床に倒れた。腕に庇った水差しを抱え直し、それでもヨロヨロと立ち上がる。
「待て。今の会話、聞いていたな?」
毒の話をした側近が、リャンシャンに問うた。リャンシャンは答える代わりに、駆け出そうとした。だが、それを許すタイガ族ではない。リャンシャンを引っ立ててきた男が、彼女の髪を捕らえ、釣り上げるのを。
「精霊様も、乙なことを。スパイというわけか」
スパイ?そんなわけがない!ザリドの心は、側近の言葉を全否定していた。しかし、この状況からみて、そう取られてもおかしくなかった。
だが、たかが奴隷の女の為に、その身を投げ出し守った彼が、こんな危険なことをやらせるとは、どうしても思えなかった。これは、彼女の独断だ。この諦めたような顔をした女の心を、インジュはいとも簡単に動かしたのだ。ただ、奉仕することしかしらない彼女は、インジュの為に、彼の役に立とうと行動してしまっただけだ。
「殺せ」
側近の言葉に、ザリドは我に返った。そうなる。そうなることを承知で、この女は――
次の瞬間、ザリドは見た。
リャンシャンは、床に散らばっていた陶器の破片を掴んでいた。そして、掴まれている自らの髪を切るのを。
リャンシャンは、床に落ちる前に、腕を翼に変え部屋の外へ飛び出した。
「追え!捕らえろ!」
逃げ切れない。彼女がインジュの元へ戻れる確率はゼロだ。倒されたとき、腕を痛めている彼女の翼では、獣人の脚力に敵わない。
それでも、彼女は飛ぶ。インジュの為に。
ザリドは呆然と立ち尽くしていた。
――あなた達は、同じ命を物のように支配していると、そういうことですかぁ?
インジュの言葉を、それのどこが悪いと否定した。守ってやっているのだと、豪語した。
だが、守るとはどういうことを指すのか、ザリドには本当はわかっていた。今のこの状態を、守るとは言わないことを、本当は知っていた。
――インジュ。今のワシは動けない。守れ!あの奴隷の女、守ってやれ!頼む……
いつからだろう。タイガ族は誇りを失った。力ばかりをひけらかし、抑えつけ、蹂躙し、いつか他の獣人達に滅ぼされるのではないかと、怯えている。
ザリドは、こんなに苛立った理由がわかった。
インジュが目の前に現れた時、こんな自分も選ばれるのだと思った。まだ、誇りを失っていないとしがみつけた。
インジュの瞳に苛立ったのは、彼に失望されたくなかったのだ。認めたままで、いてほしかったのだ。
インジュは、タイガ族のやり方で認めさせてやると言ってくれた。彼はまだ、ザリドを信じてくれているのだ。だからこそ、姑息な手を――今まで散々使って支配してきたというのに、それを使うことを全く考えられなかった。正々堂々と戦いたいと、思ってしまった。そんな戦い方、今のタイガ族の誰にも、受け入れられないというのに。
部屋の外から、リャンシャンのか細い悲鳴が聞こえてきた。
変だ。リャンシャンが戻ってこない。
あれから、四十分以上経っている。水を汲みに行くだけで、こんなに時間がかかるだろうか。ボンヤリしていたインジュは、ハッとして慌てて部屋を走り出た。
リャンシャンは、言われもなく暴行を受けていた。何をそんなに怖がっているというのか、タイガ族は、一番当たりやすいソラビト族を、標的にしているような気がしていた。あんな場で、宣戦布告してしまったインジュの、世話係にされてしまったリャンシャンを、快く思わない者は多いだろう。迂闊だった。こんな敵だらけのところで、彼女を一人行かせてしまった。
インジュは、インジュに従う風を放った。リャンシャンの居場所はすぐにしれた。ザリドのいる、長の部屋のすぐ近くの部屋の中だ。トンッと踏み切ると、インジュは鋭く飛んだ。心にはただ、彼女の無事を祈りながら。
部屋の前に舞い降りたインジュの耳に、中からバタンゴトンと暴れるような、争うような音が聞こえてきた。そして、リャンシャンのか細い悲鳴。
インジュは、目覚めそうな内なるオウギワシを抑えつけながら、扉を一気に開いた。
三人の瞳が、インジュに向けられた。その光景を見たとき、インジュの視界は真っ赤に染まった。
リャンシャンは、仰向けに二人がかりで押さえつけられ、その体を蹂躙されていた。
――なんてことを……もう――……殺していいですかぁ?
内なるオウギワシが目覚める。インジュの中のオウギワシは、握りつぶす快感を知っている。力から逃げていたインジュに、ノインが命がけで道を示してくれから。
インジュは綺麗ではない。家族であるノインを、この手で握りつぶしたのだから。城の誰よりも穢れている。
だからこそ、インジュは、殺さない戦い方を編み出した。それを今まで守ってきた。ノインの血で目覚めたこの力で、誰かの命を奪いたくなかった。他の者の血で、ノインの血を洗い流してしまったら、今度こそ、ノインを殺してしまうような気がした。ノインはこれしか手がなかったからと、負い目を感じるなと言ってくれ、変わらない微笑みと愛情をくれた。そんな、もう一人の父のようなノインを、穢したくなかった。
臆病なインジュを許し、守ろうとしてくれたリティル。
オウギワシを目覚めさせ、どう生きるのか決めろと言ってくれたノイン。
厳しく優しく、見守ってくれる父親のインファ。
内なるオウギワシを抑え、殺さず戦うインジュを、今も、守ってくれているレイシ。
のんびり屋なインジュを、癒されると言って許してくれる城のみんな。
そのすべてを裏切れ。裏切ってしまえ!おまえは、穢れたオウギワシ――
「イ――ジュ、様」
彼女のか細い声に、インジュは我に返った。
右手には、自分よりも背も体格も大きなタイガ族の男の首が握られていた。
あ、手を放さないとと、咄嗟に思ったが、指が外れない。ど、どうしよう?このままだと、この人死ぬなとインジュは動揺した。
「よく踏みとどまったな、インジュ」
インジュの固まってしまった手に、インジュよりも小さな手が重ねられた。そして、グイッと引き離された。タイガ族の巨体は、支えを失ってどっと床に倒れた。
「おっと、逃がさないぜ?」
リティルは風を放つと、逃げようとしたもう一人のタイガ族を、金色の風でできた檻の中に閉じ込めた。
「リ、ティル?」
インジュは、呆然とした瞳で小柄な風の王を見下ろした。
「ああ、リティルだぜ?」
そう言って、リティルは力強いいつもの笑みで笑ってくれた。その笑顔に、ホッとしたインジュはおずおずとリティルに抱きついていた。
「リティル――!」
怖かったー!と後に続きそうだなと、リティルは苦笑しながら、背の高い孫の頭を撫でた。
「おいおい、泣くなよ。あとで甘えさせてやるから、早くリャンシャンを癒してやれよ」
「ハッ!そ、そうでした!リャンシャン!あわわ!どうしましょう?全然大丈夫じゃないですよね?」
「とりあえず服だろ?」
リティルはそう言うと、風を集めてリャンシャンに纏わせた。金色の風が去ると、露出の少ないワンピースを着せられていた。リャンシャンは驚いたように、自分の身を包む服を見つめていた。彼女の肌が隠れたことで、いくらか平静を取り戻したインジュは、リャンシャンの体に手をかざした。
「リャンシャン、すぐに助けてやれなくて、ごめんな」
リティルはリャンシャンの前に膝を折ると、深々と頭を下げた。リティルはずっと、一部始終を見ていた。それでも、手を出すわけにはいかなかったのだ。
風の王に頭を下げられたリャンシャンは、どうしていいのかわからずにただ、彼の金色の頭を見つめていた。
「慣れてる」
何か言わないといけないと思い、ただ短く、それだけ言った。その言葉に、インジュは素直に衝撃を受けていた。リティルには、彼女が今までどんな扱いを受けてきたのか、わかっていたが、インジュは……。だからといって、リティルも許す気はなかった。
「もう少しおまえが遅かったら、こいつらヤッてたのはオレだったな」
リティルはジロリと、汚いモノでも見るような瞳でタイガ族の二人を睨んだ。
「リャンシャン、何があったんです?水を汲みに行くだけで、こんなことされるような、日常なんです?」
リャンシャンはフルフルと首を横に振った。そして、ザリドがインジュに毒を盛ろうとしていることを告げた。それを聞いてしまった為に、殺されそうになったことも話した。
リャンシャンを捕らえた二人が、殺す前にと変な気を起こしていなかったら、今頃彼女は、命を失っていたことになる。インジュは、リャンシャンの手を、生きていることを確かめるように、強く握ってしまった。よかったなどとは、インジュには言えないが、生きていてくれたことが、嬉しかった。
「そうですか。それで、ビクビクしてたんですか。ザリドは、もっと豪胆な人だと思ってたんですけど残念です」
あからさまにガッカリしているインジュに、リティルは言った。
「それを見極めるのも仕事だぜ?さて、行こうぜ?」
どこへ?と二人は同じ表情で、立ち上がったリティルに首を傾げた。可愛い鳥達だなと、リティルは苦笑した。
「ザリドのところだよ。早く行かねーと、おまえの怖い親父が有無を言わさず滅ぼすぜ?」
「ハッ!お父さん、見てましたよね?あわわ、マズいです。今頃、水晶球片手で握りつぶしてます!」
「ハハ、乗り込もうとしてるの、ノインが止めてるぜ?」
タイガ族の愚行を目の当たりにして、静かに怒るインファが素手で水晶球を握り潰し、ノインが怒りに耐える相棒の肩を、ポンポンと叩いている絵が精霊二人の脳裏に浮かんでいた。そして、インジュは帰ったらもの凄く怒られると、泣きそうになっていた。これは、防ごうと思えば、防げた事態だからだ。
リャンシャンは、キョトンとしながら青ざめるインジュと、笑うリティルを見上げていた。
「リャンシャン、君に手は出させねーから、一緒にきてくれねーか?」
リティルはリャンシャンに手を差し出した。しかしリャンシャンは、リティルの手を見つめるばかりで、何も答えなかった。
「ダメですよ、リティル。彼女達は、こうしないと行動してくれないんです」
そう言うとインジュは、リャンシャンの小さな体を抱き上げた。
「イ、ンジュ様?」
「奴隷という人達は、抵抗できないんですよねぇ?嫌だったらきちんと意思表示しないと、ボク、お姫様みたいに扱っちゃいますよ?」
そう言ってニッコリ笑うインジュの姿に、リティルは、こいつホントに惚れやすいなと苦笑した。まあ、今回は恋愛感情と呼べるまでのものではないが。
しかし、ソラビト族の現状は、相当に酷いなとリティルは思った。ランティスが、彼女達の安寧を切に願う気持ちが、よくわかった。かえらずの森で、リティルは未だに彼等の姿を見たことがなかった。風の奏でる歌を歌ったとき、こちらをジッと窺う視線を、感じたくらいだった。ソラビト族の受けている心の傷は、相当に深いのだ。
五代目風の王の忘れ形見――ソラビト族。彼等をどうすればいいのか、リティルはまだ考えをまとめられないでいた。
風の城は、リティルとインジュが思っていた以上に悪い状況だった。
「あー、インファって意外と激情型なんだね」
黒猫の耳と尾を生やした、十二才くらいの少年が苦笑交じりに言った。彼は、風の王の協力精霊で、イシュラースの半分である夜の国・ルキルースの王だ。幻夢帝・ルキだ。
ルキは、今回の茶番に一役買っている。カルシエーナの操る幻夢蝶は、彼の召使い精霊なのだった。
「普段は、冷静すぎるくらい冷静だ。知っているだろう?ルキ、手を煩わせてすまなかった」
ノインが深々と頭を下げた。それを、一人用のソファーの肘掛けに、両腕を置いて寝そべっていたルキが、ニンマリ笑って答えた。
「いいよ。君に恩を売っておくのも悪くないからね」
「ありゃないわ。リティルはよく耐えた。さすが、このオレの見込んだ風の王だな」
ガハハハと豪快に笑う、ずぼらで粗暴な感じのする大柄なこの男は、イシュラースの半分である昼の国・セクルースの王、太陽王・ルディルだ。
彼もこの茶番に一役買っている。ケルゥの操る妖精兵は、彼の召使い精霊だ。
インファは、ルキにより眠らされていた。と、いうのは、リャンシャンが男二人に陵辱されそうになったのを見て、怒りが頂点に達してしまったのだ。水晶球を片手で握り潰すなどという可愛らしいものではなく、ルール違反を犯しそうになった。
インファ自らがそこへ行き、リャンシャンを助けそうになったのだ。ノインが、リティルがいるのだから待て、と諫めたが、インファは止まれなかった。そこへ、ルキが現れて、インファを幻夢の霧を使って眠らせてくれたのだ。
「まあ、滅びるのには理由があるってことだ。レイシもインジュもよくやってる」
ルディルは、逞しい腕を組んで、ため息交じりにソファーに背を預けた。
「ああ、救いは半獣人種だが、彼等の牙はすでに折られている。今更すべてを平定するには力不足だ」
ノインは険しい表情で、ランティスを映し出す水晶球に視線を落とした。
「ねえ、ソラビト族。あれって」
ルキが、ルディルを見た。視線を受け、ルディルは頷いた。
「ああ、五代目風の王が犯した罪だ。大本になった混血精霊は、五代目の死を知って自ら命を絶った。わかってたのさ。自分の存在が危ういモノだってことをな。ある意味、レイシと同じだ。リティルがいなければ存在を保てないと、あいつは常々このオレに愚痴ってる。それはなぁ、遠回しにリティルが死んだら、自分を殺してくれって、言ってるんだ」
初代風の王であるルディルは、二代目から十四代目までの顛末をすべて知っている。今は太陽王だが、その背には、風の王の名残であるオオタカの翼が、オレンジ色に染まってそのまま生えていた。
「させませんよ。父さんは永遠に風の王です」
「おはよう、インファ」
ムクッと起き上がったインファに、ルキはニンマリ笑った。
「すみません。助かりました、ルキ」
「どういたしまして。君の息子、ちゃんと間に合ったよ。キレて、オウギワシが悦びそうだったけど」
「インジュは踏みとどまったんですね?安心しました……」
心底ホッとするインファの肩を、ノインがポンと叩いた。
「まだ見るに耐えん絵が続くな。インジュのヤツ、スパイ容疑で、麻痺の毒を飲んだ状態で戦わされるぞ」
苦々しくルディルが言った。
「戦争ですから、卑劣なのは仕方がありません。ただ、リャンシャン達ソラビト族のことは、違います。ルディル、救うことはできませんか?」
皆の目が、ルディルに注がれた。
「リティルの選択次第だな。ヤツの契約者が助けろと願っているが、もう、種族としての寿命がな……」
「種族の寿命、ですか?」
「青い焔のソラビト族なぁ、繁殖能力を失っていやがる。もともとその辺、丈夫な種族じゃねぇんだわ。ここのは、奴隷っていう状況が、な」
ルディルは明言を避けた。リャンシャンの受けた暴行を見ていた皆は、あれが初めてではないこと、彼女だけではないことを知った。
「そんなに、酷い状況だったんですか……」
インファは言葉を失った。おそらく、かえらずの森にいるソラビト族も、同じ状況だったのだろう。リティルにソラビト族を救ってくれと懇願したランティスも、言い淀んでいたことを、インファは思い出していた。
「混血精霊は精霊の罪。よくわかる例だな。ソラビト族に残る精霊の力が、他種族をイタズラに惹きつけやがる。そのせいで、青い焔に限らず、他の大陸のソラビト族も、同じような末路だ。もう、残っているのは青い焔だけだ。それも、もう、滅びる」
ルディルの瞳は、それらを見送ってきた者の目をしていた。過不足なく平等。そんなセクルースの王の姿を見て、ルキは、そういうものなのかと、理解するしかなかった。
「リティル、また悩むね」
「あいつはいつも苦悩してるわ。まったく健気なヤツだ。インファ、近いうちにリティルと話してやる。あいつを一人にはしねぇから、ソラビト族のことは、このオレに任せろ」
「心強いです。ありがとうございます、ルディル」
素直に頭を下げるインファに、ルディルは彼の正面から大きな手を伸ばし、彼からすると小さなインファの頭を、ポンと軽く叩いた。
「いいってことよ。おまえ達とオレの仲だ。頭を上げろ、水臭ぇさ」
はい……と言って、インファは顔を上げた。
「愚痴でしかないが、しかし、ここまでしているあの種を、どうにもできないというのは……オレでも歯痒い」
「もうさあ、何が原因なのかハッキリしてない?」
ルキがルディルを見た。何で何もしないの?と言われ、うっと一瞬息を詰めた。だが、フウッと大きくため息を付いた。
「そうでもねぇのさ。始まりの泉な、時にはウルフ族が、またある時には人間が支配していたぞ?今威勢がいいのがタイガ族を中心とした、獣人種ってだけの話だ。大地の滅び間近で、その上に生きてる命にまで、影響がいってるだけの話だ。今だけの話じゃねぇんだわ。覇権を取った奴らの行動、大体同じだぞ?それを、リティルのヤツはわかってんだ。あいつは、誰よりも風の王だからな。ルキ、あいつは甘いんじゃねぇんだわ。優しいんだ」
ルディルに、インファを責めたつもりはなかったのだが、甘いのではなく、優しいんだという言葉が、思いの外、インファの心に突き刺さってしまったらしい。インファが、珍しく声を荒げた。
「わかっていますよ!父さんが査定すれば完璧でした。父さんが甘いなんて、そんなこと微塵も思っていません。しかし、それではオレ達が今味わっている歯痒さ、失敗した時の苦痛、そのすべてを、背負わせてしまいます。青い焔に父さん自ら行ってもらう以外に、なかったんです」
インファは、ハアと弱気なため息を付いた。その背を、ポンポンと、ノインが労るように叩いた。
「インファ、オレも、みんなもわかってるさ、おまえの苦悩。もちろんリティルもな。すげぇ副官だよ、おまえは」
「そう言ってもらえると、いくらか楽になります。しかし、レイシ!インジュ!ハラハラさせられっぱなしですよ」
オレ達がいっていれば、もっとスムーズだったと、インファは両手で顔を覆ってため息をついた。ルディルはそのうち禿げるんじゃないか?と、インファの頭皮を心配した。
「あー、坑道に生き埋めになったときは、思わず夢に潜っちゃったよ」
夢に潜れるということは、意識がそこに存在しているということで、つまり生きているということだ。ルキは、レイシの生死を確かめる為に、ドリームダイブを行ってくれたのだ。
「ケルゥを行かせたこと、レイシの助けになるといいんですけどね」
気を取り直すように、インファが顔を上げた。その顔には、可哀想なほど疲労の色が濃かった。
「レイシ、派手だったわ!さすがはオレの弟子。パフォーマンス的には、よかったんじゃねぇ?」
ガハハハと、ルディルは豪快に笑った。そんなルディルに、インファは疲れた顔ながら、つられて笑みを作った。
そんな相棒の様子に、小さく息を吐いて僅かに微笑んだノインは、人間の国に動きがあったことを察した。事象は、こちらのことなどお構いなしに動いてしまう。
「レイシが人間の国に戻ったようだ。しかし、地震が続いているな」
ノインが険しい顔をした。どうやら、大地の崩壊が本格的に始まったらしい。
「ルディル、レイシと話してくれませんか?」
「うん?構わねぇが、おまえでもいいんじゃねぇ?」
「あなた相手の方が素直に聞きます」
「あ?お兄ちゃん反発されてるのか?寂しいなぁ」
そうかそうかと、ルディルはどこか楽しそうだった。
「違います。今回オレのことは敵だと思えと伝えたら、オレとは話さないと、言われてしまいまして」
「彼らしいね」
ルキはニヤニヤと笑った。
「かー、レイシ!融通が利かねぇ!おい!レイシ、ルディルだ。聞こえるか?」
ルディルは水晶球をムンズと掴むと、呼びかけた。
『師匠?何?』
ルディルは、レイシに力の使い方を教えたよしみで、彼に師匠と呼ばれていた。そんなレイシが可愛いのか、もともと面倒見のいいルディルは、おそらくリティル以上に構っていた。レイシの方も、リティルやインファ達とくらべるとずぼらな彼を、放っておけないようで、ルディルの居城である太陽の城に行くと、雑用を甲斐甲斐しくこなしているらしい。
「人間の国の真下から、大地の崩壊が始まっていやがる。民を移住させねぇと、審判の日まで保たねぇ。説得できるか?」
『マジ?移住って、そんな……どこに!』
レイシの顔色が変わった。無理もない。いがみ合っているこの大陸では、今いる土地以外、その民が安全に暮らせる場所はないのだから。
「始まりの泉か、かえらずの森だな」
『ランティスは受け入れてくれると思うけど……アルディオと話してみるよ』
レイシは苦しげな顔で、水晶球からいなくなった。
「これ、無理じゃない?」
レイシの表情から、絶望を感じて、ルキは素直な感想を口にした。
「死にたくないのなら、やるしかありません」
ルキは、インファの鋭い横顔に、彼がまだ諦めずに、頭の中で何かを組み立てていることを感じた。
『お兄ちゃん、わたしは役に立つか?』
見ると、カルシエーナが水晶球に姿を現していた。レイシとルディルの会話を、聞いていたらしい。
「カルシエーナ……あなたが出てくれれば、ことは簡単かもしれません。ですが、レイシと人間の王を、今は信じましょう」
『そうか。なら、人間がすべて脱出したら、あの場所、壊していいか?』
「わかりました、許可します。どうなるかわかりませんが、また指示します。ケルゥ、いますね?」
『おう!兄ちゃん、出番かぁ?』
「ええ。インジュとタイガ族の決着がついたら、獣人の郷を襲ってください。父さんがいますが、派手に暴れてください」
『リティルがいんのかぁ?じゃあ、一騎打ちじゃぁねぇかぁ』
「いいえ、父さんはおそらく動けません。ソラビト族という種族が十二人います。適当に理由をつけて、できるだけ多く攫ってください。いいですか?一人も殺してはいけませんよ?」
『ソラビト族ぅ?ああ、あの風の精霊みたいな奴らかぁ。美形ばっかで、なんかよお、召使い精霊みてぇだよなぁ』
「鋭いですね。彼等の祖先は、風の王です。では、頼みましたよ?」
『了解。って、うええ?風の王様も間違い犯すんだなぁ。なんかよお、ちょっと安心したぜぇ』
「おい、ケルディアス!安心するな!汚点だ、汚点!」
『ワハハハハ!ルディルよぉ大丈夫だぁ。過去の王様はどうだか知らねぇけど、リティルは間違いなんかよぉ、犯さねぇよぉ。じゃあなぁ』
「信じてるさ。だがな、あいつにだって、心があるんだぞ?」
ルディルは、闇の中でもがきながら、それでも力強く飛ぶ、雄々しきオオタカの姿を想った。ルディルもリティルに限ってとは思っている。
だが、彼の底なしの優しさが、彼自身に引導を渡してしまうような気が、ずっとしていた。他の、散っていた歴代の風の王達が掴まれてしまったように、自らが導く死に、リティルもやがて、落ちてしまうのではないか。
歴代の誰よりも、正しい風の王。時に冷酷に、時に慈悲深く、リティルは死を導く。
――シェラ、リティルを支えてやれよ?おまえさんしか、リティルを繋ぎ止められねぇからな
こんなことを、彼女に面と向かって言ったら、シェラはきっと、離すつもりはないわと、美しく笑うのだろうなと、ルディルは思った。