第60話 君の、あなたの、私たちの、幸せの始まりの日に祝福を
生成り色の外套に、純白の翼を広げたセルジュお兄様の姿は、3か月前と何ら変わりはなかった。むしろ、悩みから解放されたかのような爽やかな面持ちで、ますます天使らしい雰囲気を醸し出している。
私たち三人は、しばらく言葉もなくお互いの顔を見つめ合っていた。特に、私とエリアスは、セルジュお兄様が確かにここにあることを確かめるように、祭壇の前から離れ、そっとセルジュお兄様の前に歩み寄った。
「どこに行っていたんだ……兄さん、散々探したんだぞ?」
半ば呆れるような物言いだったが、確かな喜びを滲ませるエリアスは、やっぱり素直じゃない。セルジュお兄様は私たちと距離を詰めると、祭壇の奥の星鏡の大樹の葉の装飾を見上げて、ふっと微笑んだ。
「ごめん、本当は、あのまま消えるつもりだったからね……」
消える、その言葉に、ぎゅっと胸の奥を締め付けられる。やはり、私たちの嘆願は星鏡の大樹には届かなかったのだろうか。そのやるせなさに、思わず、エリアスと組む腕に再び力を入れてしまった。
「……でも、どこかの『聖女様』の嘆願のお陰で、僕は命を長らえたみたいだ」
セルジュお兄様は意味ありげな笑みを私に送り、淡い紺碧の視線で私を射止める。
どくどくと、脈が早まって仕方がない。
聖女様? それは、私のことを言っているのだろうか。ああ、もしかして、私の、私たちの嘆願は――。
「……今日が、君の幸せの始まりの日なんだよね。だから、君とエリアスが結ばれただけで、君の幸せを見届けただなんて言い切るのは慢心だって、星鏡の大樹に言われちゃった。あれ、君の入れ知恵なんだろう?」
そうか、星鏡の大樹様は私たちの嘆願を受け入れてくれたのか。
私のあの拙い取引を受けてくれる気になったのか。
今日が私の幸せの始まりの日だという言葉に嘘はない。これから私は、エリアスと共にもっともっと幸せになるのだから。
でも、その想いが、決意が、きちんと星鏡の大樹に伝わっていたことが嬉しかった。その結果、セルジュお兄様の「天使」としての命を長らえることが出来たなんて、これ以上ない喜びだ。
「セルジュ、お兄様……」
感動のあまり、思わず涙目でセルジュお兄様を見上げれば、途端に彼は甘い笑みを浮かべて私に手を伸ばした。
「可愛いココ、今も僕のために泣いてくれるんだね……」
幸福に酔いしれるようなその笑みは、何度も見たことがある。だが、セルジュお兄様の手は私に届くことは無く、代わりに私はエリアスに肩を抱かれていた。
「いくら兄さんでも、人の花嫁に気軽に触れようとするな。いいか? これから結婚式なんだぞ。誓いの言葉の寸前だ。再会を果たすにしても、もう少しタイミングというものを見計らってだな……」
セルジュお兄様との再会を確かに喜んでいたはずのエリアスだったが、感動に打ちひしがれる状態から立ち直ったのはエリアスの方がずっと早かったらしい。普段通りの冷静さと、少しばかりの独占欲を覗かせて、セルジュお兄様を牽制ににかかっていた。
「あはは、ごめんごめん。でも、君と違って僕は、ココに触れるときに邪な感情はないんだけどなあ」
エリアスは信じられないとでも言いたげな眼差しで、セルジュお兄様を見つめていた。多分、セルジュお兄様の言葉に嘘はないと思うのだが、エリアスが独占欲を発揮してくれているのが嬉しくて、だらしない笑顔で彼の横顔を見守ってしまう。
「まあ、このタイミングで姿を現したのには理由があるんだよ。どうせこれから君たちの幸せを見守るなら、僕が立会人になろうかと思ってね。どう? 星鏡の天使の下で成立する婚姻、なかなか幻想的だと思わない? そうそう真似できるようなことじゃないよ」
「兄さんが……?」
エリアスは拍子抜けしたような顔をしたが、腰を抜かした大神官を一瞥した後、渋々納得したようだった。天使の登場に戸惑いを隠しきれていない大神官に、震える声で誓いを促されるよりはましだと判断したのかもしれない。
「――でもその前に、君たちにきちんと謝らせてほしい」
不意にセルジュお兄様は真面目な顔になると、翼を広げたまま、そっと私たちの前に跪いた。突然のことに戸惑いつつも、神妙な雰囲気を感じて、セルジュお兄様の言葉を待った。
「ココ、エリアス。君たちには本当に済まないことをした。特に、ココには……本当に……口にするのもおぞましいことばかりしてしまった。許されるようなことじゃない」
セルジュお兄様の懺悔は、静かな教会の中に反響するように厳かに響き渡った。今でも、セルジュお兄様に切られた左足の腱を意識すると、息も出来ないようなあの恐怖が蘇ることは事実で、それは確かに私の心に消えない傷となって残っているのだと思う。
「でも、それでも君たちは、僕を見捨てはしなかった。その優しさと誇り高さに……甘えさせてもらってもいいだろうか」
セルジュお兄様が、どこか泣きそうな目で私たちを見上げる。その姿は、私たちのお兄様であるはずなのに、あの祝祭の夜に命を落とした11歳のセルジュお兄様の面影も確かに感じられて、思わず言葉を失ってしまう。
「僕を許さなくていい、許さないでくれ。ただ、僕はこの先全身全霊をもって、君たちを守ろう。君たちが、昨日より今日が幸せだと笑い合えるような毎日のために、僕はあらゆる力を尽くすよ。それが、僕に出来る贖罪だ」
「セルジュお兄様……」
きっと、セルジュお兄様から私たちに対する罪悪感が消える日は来ないのだと思う。セルジュお兄様はそういう人だ。心を割り切れないあたり、私とセルジュお兄様はよく似ている。
もっとも、そんな私たちだったからこそ、エリアスと心を通わせられたのかもしれないと思うと、どこか嬉しくもあった。
「もし、この贖罪を受け入れてくれるのなら……今日から、君たちの傍で君たちの幸福を見守らせてもらってもいいだろうか……?」
不安げに揺れるセルジュお兄様の瞳が、私とエリアスを映し出す。迷う余地もない。私はちらりとエリアスを盗み見て、視線で伺いを立てる。エリアスは、溜息交じりにふっと微笑みながら、しっかりと頷いてくれた。
「……はい、改めて、今日からよろしくお願いいたします。セルジュお兄様」
そっとセルジュお兄様の手を取って、立ち上がらせるように腕を引けば、彼の淡い紺碧の瞳が嬉しそうに揺れる。ごく自然に浮かんだセルジュお兄様の微笑みは、私がずっと見たかった、穏やかで本当に幸せそうな表情だった。
「ありがとう、ココ、エリアス」
その瞬間、セルジュお兄様の腕が私とエリアスを抱きしめる。エリアスは面白いくらいに戸惑っていたが、セルジュお兄様が生きていた頃のことを思い出したのか、どこか懐かしむような、柔らかな笑みを浮かべた。
「……夢みたいだ、もう一度、君たちの幸せを見守ることが出来るなんて」
「ふふ……本当に、本当にそうですわね」
三人で迎えるハッピーエンドを諦めなくて良かった。その願いが叶った充足感にそっと目を閉じながら、エリアスとセルジュお兄様の温もりを噛みしめる。
「……まあ、俺のことは別にいいが、くれぐれもコレットを頼む。この前みたいな事故があったら堪ったものじゃないからな」
さりげなく嫌味を交えるエリアスは、もうすっかり普段の切れ味を取り戻しているようだ。セルジュお兄様は苦笑を浮かべながらも、どこか愉しそうにエリアスを見つめる。
「これは手厳しいな。じゃあ、手始めに君たちの婚姻を成立させるところから手伝わせてもらうよ。……大神官様には、証人になって貰おうかな」
セルジュお兄様は、言葉もなく茫然と私たちのやり取りを見つめていた大神官様に笑いかけると、祭壇の方へと回った。
大神官様は、セルジュお兄様に付き添うようにして立っていたが、顔面は蒼白なままだ。まだ大神官の座について間もないせいか、前任の大神官様より随分と戸惑っているようだった。それに、私たちを見る目が明らかに羨望だとか崇拝のようなものに代わっている気がして、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
これはまた、騒ぎになるのかもしれないわね、と内心苦言を呈しながらも、私はエリアスと顔を合わせ、改めて祭壇の前に並んだ。
「……ああ、言い忘れていたな」
誓いの言葉が刻まれた分厚い聖書を手に取りながら、セルジュお兄様はふと思い出したと言わんばかりに私に微笑みかえる。
「結婚おめでとう、ココ。末永く、幸せにね」
それは、数か月前に彼が私に告げることを躊躇った祝福の言葉だった。セルジュお兄様の温かい眼差しに、今は心から私とエリアスの結婚を祝ってくれているのだと知る。セルジュお兄様に認めていただいたことが本当に嬉しかった。
「ありがとうございます、セルジュお兄様」
「この厄介な弟のことをくれぐれも頼むよ」
「……いいから始めるんだ、兄さん」
溜息交じりのエリアスに諭されて、セルジュお兄様はごめんごめん、と小さく笑った。緊張感には欠けるが、天使となったセルジュお兄様の下で、私とエリアスは、恐らくこの王国で一番やさしく温かい誓いの言葉を交わしたのだった。
「さて、これからは君たちの『兄』として、小舅のような立場に収まることを決意した僕だけど」
「そんな決意はしなくていい」
結婚式と一通りのパーティーを終え、すっかり日もくれたころ、私はエリアスと共に一息つきながら、やけにはしゃいだ様子のセルジュお兄様を見守っていた。私もエリアスも、儀式めいた振舞やら、あらゆる参列客への挨拶でへとへとなのだが、私たちを見守っていただけのセルジュお兄様は、まだまだ疲弊していないらしい。
エリアスにぴしゃりと言い切られてしまったセルジュお兄様は、「君の旦那さん、怖いねえ」と私に笑いかけてきたが、私も疲労が溜まっているせいか、曖昧な笑みしか返せなかった。とりあえず、ひと眠りしたいところだ。
「まあ、君たちの幸せを傍で見守るのは明日からにして、今夜は早々に立ち去ることにするよ。流石に弟夫婦の初夜を覗き見るような悪趣味な天使にはなりたくないからね」
その言葉に、どきりとする。忘れていたわけではないが、これから私はエリアスと初夜を迎えるのだ。セルジュお兄様との再会や、結婚式の忙しさのせいで、そのことについてじっくり思いを馳せる暇もなかったけれど、人心地着いた途端に強く意識されてしまって、頬が熱くなる。
「結構な心掛けだな、兄さん。そうと決まったら、早く退室するといい」
「……今日再会を果たしたばかりの兄弟だよ? 僕ら。あまりにも冷たすぎない?」
エリアスはどこか呆れるようにセルジュお兄様を無言で見つめていた。疲れているせいもあるのだろうが、いつもより視線の鋭さが増している気がした。
「はいはい、わかったよ。僕が悪かったって」
セルジュお兄様は冗談めかして肩をすくませたが、その視線にはエリアスを慈しむような温もりが感じられた。多分、セルジュお兄様は嬉しいのだろう。こうして再び弟であるエリアスの姿を間近で見守ることが出来て。
「それじゃあ、ココ、エリアス、また明日。いい夢を見るんだよ」
「はい、おやすみなさいませ、セルジュお兄様」
普段着のドレスを摘まんで礼をすれば、セルジュお兄様は純白の翼を広げてバルコニーから飛び立っていった。星鏡の大樹の元へでも向かうのだろうか。
セルジュお兄様の後姿を見送った後、夕暮れの名残が溶ける美しい星空を見上げていると、ふと、いつの間にか私の背後に回っていたらしいエリアスが、私を引き寄せながら呟いた。
「……まあ、夢を見る暇があるかは分からないけどな」
囁くように耳元で言われ、一瞬で頬が熱くなる。何か言い返そうと思ったが、あまりの戸惑いに口を開いてもなかなか言葉が出て来ない。
背後から、そのまま私の髪を梳くように私に触れるエリアスの手すらも妙に意識してしまって、体中の血液が沸騰するようだった。あまりの恥ずかしさに耐えきれず、私は振り返って顔を隠すようにエリアスの胸に顔を埋める。
「っ……エリアス、あんまりからかっちゃいけないわ。どんな表情をしていいのか分からなくなってしまうもの」
そのままぎゅっとエリアスを抱きしめれば、彼の匂いを間近に感じられた。胸一杯に吸い込めば、思わず頬が緩んでしまうほどに安心する大好きな香りだ。
「……こんな状況で君を殺せた以前の俺は、相当どうかしていたみたいだな」
何かに耐えるような切ない溜息をつきながらも、エリアスはそっと私を抱きしめ返してくれた。エリアスの温もりに包み込まれたのが嬉しくて、余計にだらしなく頬が緩んでしまう。
「私はずっとどうかしているわ、あなたのことが愛おしすぎて」
エリアスの吐息はどうしてこんなにも甘いのだろう。彼が息をしているというだけで、この世の何よりも尊く愛おしいもののように思えてならない。
そんな人が、今日から私の「旦那様」となるなんて。
以前の時間軸の初夜とよく似たときめきを感じながら、私はただただエリアスを抱きしめ続けた。
「今までなら大袈裟だって笑うところだが……そうだな、コレットの愛はどうかしているのかもしれないな。君を殺した俺を、もう一度愛してくれるなんて」
背中に回ったエリアスの腕に力がこもる。彼の心臓の音が、優しく響き渡っていた。
「……俺も君を愛している。今なら、自信を持って言えるよ。コレット、君がいてくれれば、あとは何も要らない」
さらり、とエリアスの指が私の髪を梳いてくれる。慈しまれていると感じる仕草だ。
「……愛している、コレット」
繰り返される甘い言葉に酔いしれるように、私はエリアスの胸に顔を埋め続けた。
幸せだ、この温もりがすぐ傍にある限り、私は絶対に不幸にはならない。
その確信が、あれほど私を困らせていた緊張すらも、ゆっくりと溶かしていったのだった。
翌朝は、よく晴れ渡る空が広がっていた。
寝不足の瞼を擦りながら、簡単にネグリジェを着直して、まだおぼつかない足取りで窓際に歩み寄る。まだ朝は早いようで、空には朝焼けが滲んでいた。
「……綺麗ね」
みずみずしくて、麗しい、始まりの朝だ。以前の時間軸の私が、あれ程焦がれていたのに辿り着けなかった、特別な朝。
場所は以前と違ってフォートリエ侯爵領ではなく、ミストラル公爵領だけれど、海が望めるのでこれはこれでとても素敵だ。
「ん……コレット、もう起きたのか」
寝起きのエリアスは、普段の冷静な態度とは裏腹に、気が抜けていてとても可愛らしい。もう少し寝顔を眺めていたかったのだが、私が窓辺に移動した気配で起きてしまったのだろう。
「朝日を見てみたかっただけなの、もう一度眠るわ」
バスローブ姿のまま窓辺に歩み寄ってきたエリアスを振り返って、背伸びをしてその頬に口付ける。エリアスはまだ寝ぼけているのか、無造作に私の髪を撫でながら、私の頭の上に顎を乗せるようにして窓の外を見つめているようだった。
「朝焼けか……。もしこのまま晴れていたら、後で散歩でもしよう」
「ええ、そうしましょう。海辺を歩いてみたいわ」
「……その前にあの煩い小舅が来るかもしれないけどな」
「実のお兄様に対してひどい言い草ね」
くすくすと笑いながら、他愛もない会話を繰り返す。エリアスは、眠そうな眼差しのまま私を見下ろして酷く優し気な笑みを見せると、不意に私を抱き上げた。
「とにかく、もう少し眠ろう。コレットも疲れているだろう」
誰のせいで、と言いかけたが、恥ずかしくなってやめた。そのまま私はエリアスの抱き枕のような体勢で彼に絡みつかれながら、心地よい二度寝に誘われたのだった。
これが、忘れもしない、私たちの幸福の始まりの朝だったのだ。