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第55話 あなたが傷つけられるなんてそんなこと、許されるはずが無いのに

 真っ白な螺旋階段を、エリアスは私を抱きかかえたまま駆け上がっていく。神殿の高さは、3、4階くらいまであるのだろう。見上げれば随分と高い場所にある天窓から、淡い朝日が差し込んでいた。


 この階段が螺旋で良かった、と心から思う。曲がりくねっているからこそ、セルジュお兄様も翼を駆使して一気に私たちを追い詰めるのは難しいようだ。


 それでも、エリアスは私を抱えている分、当然ながらいつもより足が遅くなっている。少しずつではあるが着実にセルジュお兄様との距離は縮まっていた。


 エリアスに抱えられることしか出来ないのがもどかしい。不可抗力だったとはいえ、足の腱を切られたことで、私は完全にエリアスの足手まといになってしまった。


 複雑な心境の中、それでもエリアスにしがみ付いていると、階段を上り切ったエリアスは白い部屋に辿り着いた。中心は吹き抜けのようになっていて、天井は一面ガラス張りの大きな天窓だ。私が階下の広間から見上げていた天窓は、思っていたよりもずっと大きかったらしい。


 真っ白な部屋は、バルコニーが繋がっていた。背の低い柵の先には、朝日を受けてきらきらと煌めく湖が広がっており、爽やかな朝の気配に満ちている。背後にセルジュお兄様が迫っていなければ、思わず見惚れるくらいの美しい光景だった。


 バルコニーから迷い込んだ清々しい風を受けながら、エリアスは警戒するように背後を振り返った。案の定、そこにはセルジュお兄様の姿があり、ナイフを持ったままこちらににじり寄ってくる。


 セルジュお兄様の外套のフードは、今も深く彼の素顔を隠していた。先ほど、「天使様」の正体をエリアスに告げようとした私を止めたことといい、セルジュお兄様はエリアスに正体を知られたくないのだろう。


 セルジュお兄様は、朝の光を一身に浴びながら、優雅な足取りで私たちに歩み寄ってくる。こうなってしまったら、もう正面衝突は避けられない。


「追いかけっこはもう終わりかな、二人とも」


 朝日を背に、こちらをまっすぐに見据えるセルジュお兄様は、僅かに覗いた瞳に浮かぶ憎悪と翳りはそのままに、にこりと優し気に微笑んで見せた。その表情の不安定さに、思わず身震いする。


「ああ、二人揃って朝日に照らされてる姿は綺麗だね、眩しいくらいだよ」


 どこか恍惚の混じったセルジュお兄様の声が小さな広間に響き渡る。セルジュお兄様の言葉通り、朝日は少しずつ少しずつ光を強めているようだった。


 エリアスは、今まで以上にきつく私を抱きしめながら、逃走経路を探しているようだった。だが、生憎この部屋から続く廊下はセルジュお兄様の背後にある。少しずつ近付いてくるセルジュお兄様との距離を保つように、エリアスはバルコニーの方へ追いやられていた。


「さあ、ココ。僕のもとへ戻っておいで。そうしたら、そいつのこと、見逃してあげてもいいよ」


 セルジュお兄様は、フードの下から柔らかな微笑みを覗かせて、甘い声で告げた。一見して優しいだけの笑みであるはずなのに、不穏な雰囲気を感じるには充分な翳りがあって、心が揺れる。


 エリアスが、無事でいてくれるなら。私が犠牲になることで、彼だけは見逃してもらえるのなら。


 そう、考えなかったと言えば嘘になる。目の前でエリアスを傷つけられたりしたら、きっと私は正気ではいられない。そんな残酷な光景を目にするくらいならば、自分が痛みに耐えるほうが何千倍もマシだった。


 だが、私の言葉を待たずして、エリアスが先手を打つ。


「それはこっちの台詞だ、天使。このままコレットを諦めるなら、これ以上深追いしないでおいてやるぞ」


「天使相手にずいぶん強気だね。僕を傷つけようとするなんて、星鏡の大樹が怖くないの?」


「コレットがお前に苛まれる方がずっとずっと恐ろしい」


 強い意思を持った瞳で、エリアスはセルジュお兄様を睨み上げた。セルジュお兄様が動じることは無かったが、やがてどこか寂し気な笑みを覗かせる。


「……そうだろうね、ココは、君の全てだから。そして、ココにとっても君が世界の全てだ」


 羨ましいな、と痛切な囁きが零れ落ちた。私はおろか、エリアスまでも戸惑いを覚えるほどの切なさに、息がつまる。


「……本当は、君たちを誰よりも応援していたのは僕なんだけど……どうしてこうなっちゃったかな」


 セルジュお兄様は右手に持ったナイフを弄びながら、軽く俯き、感傷に浸る素振りを見せた。だが、それもほんの僅かな間のことで、顔を上げたかと思えばどこか好戦的な笑みを見せる。


「まあ、それももういいや。君を殺さなきゃ、エリアス。ココを、不幸にするために」


 セルジュお兄様が吹っ切れたような笑みを浮かべるときは危険だ。私は思わずエリアスの腕を掴み、震えを誤魔化す。


 駄目だ、絶対にセルジュお兄様にエリアスを殺させたりしない。兄弟で傷つけあうなんて悲しいこと、絶対に私がさせない。


 だが、そんな私の小さな決意の間に、セルジュお兄様はこちらに駆け寄ってきて来た。神聖な生成り色の外套に、純白の翼をもつ彼がナイフを振り上げる様は、まるで天の裁きを下すかのようだった。


 エリアスは、咄嗟に私を床に降ろし、庇うように私の前に立ちふさがると、神官の服の中から短剣とも呼ぶべき刃物を取り出した。


 刃渡りの長さだけで言えばエリアスの方が圧倒的に有利なように感じたが、セルジュお兄様には翼がある分、小回りが利くようだった。エリアスが振りかざす短剣を、既のところで軽やかに避けてみせる。


「駄目……」


 どちらのものとも分からぬ僅かな赤が飛び散る。愛の種類に差はあれど、大好きな二人が傷つけあうこの光景は、私にとって地獄以外の何物でもなかった。


「やめて、エリアス、その人はっ……」


 私の叫びは、非情にもナイフと剣がぶつかり合う金属音の中に掻き消えていく。


 エリアスを責めるわけにもいかない。彼は、私を助けに来てくれたのだ。ここでセルジュお兄様を庇うような発言をすることは、エリアスにとって裏切りにも近い行為だと分かっている。


 でも、セルジュお兄様を一方的な悪だと決めつけることは、どうしてもできなかった。セルジュお兄様は、何も悪くない。度重なる理不尽と苦痛が、優しかったセルジュお兄様を歪めてしまっただけで、彼は何も悪いことをしていないのだ。


 どうしよう、私は、どうすれば。


 こうしている間にも、流れる血の量は増えていく。二人を止められる人間がいるとすれば私しかいないのに、心は戸惑い、どちらかを失うことに怯えるばかりで、この迷いが二人を苦しめていることは確かだった。


 私は、本当に弱い。エリアスを愛しているのならば、問答無用でセルジュお兄様を見捨てるべきなのに、セルジュお兄様の境遇を思うと、とてもそんな風には割り切れない。


 どちらかの命しか選べないのならともかく、私が上手く立ち回れば二人とも助かるかもしれない。


 その淡い期待が、余計に私の胸を締め付ける。こんな状況になってしまったのも、もとはと言えばすべて私のせいだというのに、この現実が悲しくて切なくてならなかった。


 バルコニーから吹き込む風に、そっと私は顔を上げる。きらきらと煌めく湖面は、眩しいくらいだった。


 私が、私さえ、いなくなれば、二人は――。 


 清廉な輝きを放つ湖を前に、一瞬だけ、そんな歪んだ考えが過る。二人の歪みや病みを生み出してしまったのが私の存在だというのなら、私さえいなくなれば、二人はもっと自由に生きられるのではないだろうか。私の死こそが、二人を開放する鍵なのではないだろうか。


 だが、その瞬間、突然に響き渡った鋭い金属音と何かが床に打ち付けられるような物音に我に返る。


 からからと音を立てながら、エリアスの短剣が床にしゃがみこむ私の目の前に転がってきた。


「っ……」


 最悪の結末を想像して顔を上げれば、セルジュお兄様がエリアスに馬乗りになる姿勢でエリアスの動きを封じたところだった。二人とも、細かな切り傷を負っているようで、辺りには少量の血液がぽたぽたと零れ落ちていた。


「あはは、君がココを殺したときも確かこんな姿勢だったね。あのときと同じように、生きたまま心臓を抉ってあげようか?」


「っ……さっきから何の話だ」


 エリアスはセルジュお兄様を睨み上げながら、どうにかして逃れようと画策しているようだったが、セルジュお兄様の方が一枚上手なのか、なかなか上手く行かない。


 大きな翼を広げて微笑むセルジュお兄様と、神官の服を纏ったエリアスの姿は、一見すれば一枚の宗教画のような神聖な雰囲気が漂っていたが、周りに飛び散った血が私を現実に引き戻す。


「エリアス……」


 駄目だ、エリアスが殺されるなんて、そんなこと。


 気づけば私は、目の前に転がってきたエリアスの短剣を手に、ゆらりと立ち上がっていた。不思議と、今だけはセルジュお兄様に切られた足の腱も痛まない。


「コレット、俺はいいから早く逃げろ。俺は大丈夫だ!」


 エリアスの必死の叫び声を掻き消すように、セルジュお兄様の哄笑が響く。


「あはは!! 僕を殺すの、ココ? それもいいかもね。やれるならやってごらんよ。早くしないと君の大好きなこいつは僕が殺しちゃうよ?」

 

 セルジュお兄様は挑発するような笑みを浮かべたまま、エリアスの首筋にナイフを当てた。薄皮が切れたのか、ぷつりとエリアスの首筋から赤い血が流れだす。

 

 ああ、駄目だ。エリアスが、目の前で傷つけられるなんてそんなこと、許されるはずが無いもの。


 エリアスを傷つけるものがあるならば、何であっても排除しなくちゃ。彼は、幸せにならなくちゃいけないもの。エリアスの幸せのためならば、どんな罪だって、私は――。

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