第52話 あなたの名前を呼べば、もう少しだけ、頑張れる気がするの
ぴぃ、と可愛らしい鳴き声がする。
それに、頬をちくりと刺すような、不思議な感覚もある。
再びぴぃ、と繰り返される鳴き声に、私はそっと目を開いた。天井近くの窓から見える空はまだ紺色で、夜が明けていなことは明らかだ。
ゆっくりと体を起こせば、わたしが眠るまで手を握ってくださっていたはずの「天使様」の姿はどこにも無かった。以前、真夜中に目覚めたときも同じような状況だったから、「天使様」は夜はどこかにお出かけになられているのだろうと思う。たぶん、私の食事や水の調達に行ってくださっているのだ。
三度、ぴぃと泣いた声にわたしはようやく、手元で飛び回る翡翠色の小鳥の存在に気が付いた。野生の鳥にしてはまるまると太っていて、とても可愛らしい。
思わず微笑んでその背中を撫でてやると、小鳥はこちらを警戒する素振りすらみせずにわたしに近寄ってきた。頬を緩めて、何度も小鳥を撫でる。
どこからか、迷い込んできたのだろうか。この神殿の仕組みはよく分かっていないけれど、この小鳥のような小さな生き物ならば出入りも自由自在なのかもしれない。
小鳥とあそんでいたことが知られたら、「天使様」に叱られるだろうか。それは少しこわかったけれど、目の前の小鳥の愛らしさに負けてしまったわたしは、そっと小鳥を手のひらに乗せて、顔の高さまで上げてみた。
こんなことをしても逃げないなんて。両手で包み込むように小鳥を撫でれば、小さな温もりを直に感じられた。小鳥を軽く頬にすり寄せて、愛らしい小さな生き物を愛でる。
その時、ふと、小鳥の足に何かが絡まっていることに気が付いた。足も埋まりそうなほどに太っている小鳥のお腹の部分を掻き分けながら、そっと足を観察してみると、何やらリボンのようなものが括りつけられている。
何かの罠にでもかかってしまったのかもしれない。かわいそうに、と思いながら、わたしはそっと小鳥の足からリボンを外した。
するり、ほどけたリボンは手触りがよく、とても質の良いものであることは一目瞭然だった。白い布地に、青い糸で青薔薇を、銀の糸で鈴蘭が刺繍された素敵な代物だ。仄暗いこの部屋の中でも、角度を変えるときらきらと光る。
しばらくその美しさに見惚れていたけれど、何だかとても懐かしいような、どこかで見たことがあるような気がしてならなかった。
翡翠色の小鳥は、わたしの膝の上を飛び回り、時折わたしの手に擦り寄ってきたりする。小鳥を撫でながら、わたしはそのリボンを食い入るように見つめていた。
――コレットに見せたいものがあるんだ。
頭の奥底で響く、「たいせつなひと」の声。忘れてはいけない、大切な、誰かの声。
――コレットの花嫁姿は一生に一度なんだ。どれだけこだわっても足りないだろう。
あのひとが、誰より、わたしの「花嫁姿」を楽しみにしてくれていたんだっけ。そう、私は、あの日、彼に。
――よく似合ってる。
このリボンをつけてもらったとき、珍しくあのひとは素直に褒めてくれた。うれしいような、はずかしいような気持ちで一杯になった気がする。
ぼんやりとした意識の殻に、ひびが入っていく。翡翠色の小鳥が、小首をかしげてこちらを見上げていた。
ああ、あのひとの、わたしの世界で一番「たいせつなひと」の名は。
「エリ、アス……」
ほとんど喋らないせいで掠れてしまった声が紡ぎだしたのは、この世界で一番愛しい人の名前だった。
「エリアス……」
名前を呟くたびに、意識が清明になっていくのが分かる。そうだ、わたしは、私は、エリアスのもとへ帰らなくちゃいけないの。
「エリアス……っ」
ぽたり、と一粒零れ落ちた涙で、膜が張っていたようなぼんやりとした意識が粉々に割れて、完全に覚醒した。大きく息を吸い込めば、久しぶりに澄んだ空気が肺に満ちていく。
翡翠色の小鳥、そう、ルネは、エリアスの名前に反応したのかはばたくような動作を見せた。
「ルネ……エリアスは、生きているの?」
当然、ルネは言葉を返してくれない。その代わりに、震えた手から滑り落ちたリボンが答えを教えてくれた。
『コレット、今夜迎えに行く』
リボンの裏には、そんな走り書きが残されていた。インクが滲んだ文字だったが、紛れもなくエリアスの筆跡だ。
エリアスは、信じてくれたのだ。私が身投げしたわけではない、ということを。どういう訳でこの場所を特定したのかは分からないが、私を見つけ出してくれた。
「っ……エリアス」
もちろん、これだけでは、エリアスが「天使様」――セルジュお兄様に殺される前に書き残したものである可能性も否めない。私はそっと走り書きされた文字をなぞり、涙を手の甲で拭いながら、薄明かりで注意深く観察した。
インクは、まだ完全に乾ききってはいなかった。当然ながら、インクの色も、日にちが経過したものとは思えない。
そして、丸々と太ったルネが飛ぶことのできる距離はそう長くない。
それらを総合して考えると、辿り着く真実はひとつだった。
「……エリアスが、近くにいるのね?」
エリアスが、生きていてくれた。迎えに来てくれた。それだけで、涙がとめどなく溢れてくる。
リボンを握りしめ、祈るように額に当てて、必死に声を押し殺し、泣いた。もしもセルジュお兄様が今も神殿の中にいるのなら、声を上げたら気づかれてしまうからだ。
本当ならば、私はここだと叫びたい。大きな声でエリアスの名前を呼びたい。
でも、今は駄目だ。セルジュお兄様に見つからないように、エリアスと落ち合わなければ。
話は全て、それからだ。エリアスに全てを話して、セルジュお兄様のことも一緒に考えよう。まずは、誰一人として救われないこの状況を打開しなければならない。
そうと決まれば、うかうかとしている時間は無かった。セルジュお兄様の監視の目がない今しか、私が行動できるチャンスはない。
私は早速右手の人差し指の先を歯で傷つけて、僅かに流れだす血でリボンに『東へ』と書き記した。おぼろげな記憶だが、神殿に西日の差す方角から考えて、この部屋は大体東側に位置しているはずだ。
私はリボンを再びルネの足に括りつけると、そっとその小さな頭に口付けた。ふわふわとして、温かい。
「……彼のもとへ、届けて頂戴ね」
祈りを込めて、手に乗ったルネをそっと頭上高く上げる。
「エリアスっ」
エリアスの名前に反応したルネは、翡翠色の羽を広げ、飛び立っていった。遊び半分で覚えていた芸がこんなところで役に立つとは思いもよらなかった。
どうかセルジュお兄様に見つかりませんように、と祈りながら、ルネの後姿を僅かな間だけ見守る。
もっとも、悠長にしている時間はない。次に私はネグリジェのような白いワンピースの裾を千切り、腱を切られた左足首を固定するように巻き付けた。
腱を切られている以上、背屈するような細かな動きは無理だけれども、痛みに耐えればどうにか立つことは出来るはずだ。
久しぶりにはっきりとした意識は心地が良いが、頭を働かせて行動することにはまだどこか慣れない。私は既に、セルジュお兄様の望む不幸な人形になりかけていたのだな、と実感して身震いした。
きつく左足首を固定して、そっとベッドから足を下ろしてみる。床を見下ろした拍子に涙がぽろぽろと零れて、もう一度手の甲で拭った。今は、泣いている場合ではないのだ。
意を決して、床の上に下り立ってみる。ずきん、と酷い痛みが左足首を走ったが、我慢できないほどではない。少なくとも、足の腱を切られたあの時の痛みよりはずっとマシだ。
一度だけ、深呼吸をして、私は扉を見つめた。いつセルジュお兄様が戻ってくるかわからない以上、非常に危険な賭けではあるが、この機会を逃すわけにはいかない。痛みに耐えながら、左足を引きずってゆっくりと扉の方へと歩み寄り、僅かに扉を開けて廊下の様子を観察した。
神殿の中では、どこにいても広間の水の音が聞こえてくる。その水の正体を知っている今、とても心安らぐような音ではないが、多少の物音ならばこの水音が隠してくれるだろう。
もっとも、逆に言えば私もセルジュお兄様の気配に気づきづらい状況だともいえるのだが、足を引きずって歩く私にはやはり救いになっている部分が大きい。
なるべく、東へ。正確な位置関係を把握しているわけではないが、それでもなるべく神殿の外側に向かうように移動しよう。エリアスがどのような侵入経路で私を迎えに来てくれるのかは定かではないが、広間に近い部屋にいるよりは、窓の多い外側の部屋にいるほうがセルジュお兄様に見つかりにくいだろう。
もう一度だけ左右を確認して、私は廊下へとそっと足を踏み出した。靴を履いていないせいで、冷たい床の温度が直に伝わってくる。まるで氷の上を歩くような感覚だが、贅沢は言っていられない。
きっともうすぐ、エリアスに会える。その微かな希望だけが、私を前へ動かした。
愛しい人に再会するための逃走劇が今、始まったのだ。