第51話 どうしてそんなにかなしいかおをするの、さみしそうにわらうの
「おはよう、ココ。よく眠れた? 今日も悪い夢を見ていてくれたら嬉しいんだけど」
今日も、心地の良い、やさしい声に起こされる。起きているときもどこかぼんやりとしてしまうわたしは、うまく歩けないので「天使様」がいないと何もできない。
「少し痩せたね、ココ。もう少しちゃんと食べないと駄目だよ。……死ぬことは許してないんだから」
「天使様」はやさしいけれど、時折とてもこわい声を出す。今もそうだ、「死ぬことは許していない」といった声はとてもこわかった。
わたしは、そう、「天使様」に許されたことしかしてはいけない。そういう決まりだから。
死んじゃいけないんだな、と、やってはいけないことを、また一つ覚えた。「天使様」がいいよっていうまで、わたしは死んじゃいけない。
やってはいけないことは、たくさんある。「天使様」から逃げ出そうとすること、部屋の中を流れる水を飲むこと、ナイフで自分を切ろうとすること、天窓から星を眺めること。たくさんある。
今日も「天使様」が用意してくださった食事をして、体を清めて、「天使様」とお話をして、眠る。ただそれだけの、穏やかな一日が始まった。
「天使様」は、わたしが何かをしようとすることを嫌がる。逆に、ぼんやりと、どこか夢見心地で目の前の光景を眺めていると、「ココは可愛いね」といつも抱きしめてくれる。
でもそれに、「幸せ」を感じてはいけないらしい。「天使様」に抱きしめられて、何だかとても懐かしいような、あたたかいような感じがして思わず微笑むと、「天使様」はいつもかなしい顔をして、両手でわたしの頬を包み込む。
「……そんな顔で笑いかけないでくれ、ココ。僕は、君に酷いことをしているんだから」
ひどいこと、ひどいことって何だろう。よく分からなくて、微笑んだまま首を傾げると、「天使様」は苦しいほどに私を抱きしめた。
「……ごめん、ごめんね、ココ。僕の身勝手のために……ごめん、このまま一生、僕を許さないでくれ」
息が出来ないほどにくるしかったけれど、何となく泣きたいような気持ちになって、わたしは「天使様」の背中にそっと手を伸ばした。真っ白で立派な翼はふわふわとしていて心地が良い。
ああ、でも、わたし、なんで泣いているんだろう。
わたしの目からぽろぽろと伝う涙に気づいた「天使様」は、一層私を抱きしめる力を強めた。余計に息が出来なくなってくるしかったけれど、それで死んでしまえるならいいかもしれない。「天使様」がわたしを殺すなら、多分、それはもう死んでもいいよってことだと思うから。
でも残念ながら、「天使様」はわたしを殺すことはやめたみたい。「天使様」はわたしを抱きしめる腕の力を緩めると、もういちど「ごめん」と呟いた。
「……苦しかったよね、ごめんね」
「天使様」はわたしに、痛いことや苦しいことをした後は、いつもお花を持ってきてくれた。白くて、小さな鈴のような花びらがいくつも連なった、とってもかわいいお花。
「……神殿の傍に咲いてるんだよ。ココが好きだから、と思って……」
「天使様」はわたしの「不幸」を願っているはずなのに、ときどきこうしてわたしをよろこばせようとする。もちろん、お花を貰っても「幸せ」そうに微笑んだりしてはいけない。「天使様」がかなしい顔をしてしまうから。
わたしを強く強く抱きしめたその日も、「天使様」はわたしが好きだと言う白い花を沢山摘んできてくれた。白いベッドの上が一杯になるくらいの、沢山のお花だ。
ほとんど香りはしないけれど、かわいいから見ているだけでも楽しい。ああ、いけない、あんまり笑っちゃ駄目なんだった。
わたしは白いお花の一つを手にして、小さな輪を作るように編み始めた。私が何かをすることを嫌がる「天使様」も、どうしてかじっと見守ってくださる。
小さな輪を作って、花びらの位置を整える。茎の部分を結うのはとてもむずかしい。「お嬢様ならすぐにできますよ」と笑う、女の人の声が遠い記憶の中で響いていた。
あのひとは、誰だっけ。とてもわたしにやさしくしてくれた、大切なひと。きっと、わたしのこと、「心配」してくれているひと。
まあ、いいかと思いながら、わたしは出来上がった小さな輪を「天使様」に差し出した。確か、これを渡したら、「幸せ」になれるはずだから。かなしい顔ばかりする「天使様」に、わたしは笑ってほしかった。
「……僕に、くれるの?」
「天使様」は、やっぱりどこかかなし気な、せつないような表情を見せた。おかしいな、これを渡したら「幸せ」になれるはずなのに。
軽く首を傾げて「天使様」を見つめていると、やがて「天使様」はわたしが作った輪を指につけて、泣き出しそうな表情で笑ってくれた。
「……ありがとう、ココ。昔より、随分上手になったんだね」
昔、むかしのことを考えると頭が痛くなってしまうから、あんまり考えちゃいけない。それよりも、わたしは「天使様」が笑ってくださったことがうれしくて、またひとつお花を拾い上げて輪を作り始めた。
いくつも作っては「天使様」に渡す。そのたびに「天使様」は、やっぱり泣き出しそうに笑う。
「天使様」の目の前が花の輪でいっぱいになったころ、不意に「天使様」もお花を一つ手に取って、小さな輪を作った。そしてそれを、そっとわたしの指につけてくれる。
「……お返し。本当は、いつか君にちゃんとした指輪を贈りたかったけど」
「天使様」が作った輪はわたしが作ったものより少し不格好だったけれど、それでもわたしはうれしかった。笑っちゃいけないことも忘れて、頬を緩めて「天使様」を見つめてしまう。
「……可愛いな、ココは。壊れてしまっても、何もかも忘れてしまっても、ココはココなんだね」
すっと伸ばされた「天使様」の手に、思わずびくりと肩を震わせる。笑ってしまったから、痛いことをされるかもしれない。
でも、「天使様」の手はわたしの頬を撫でるだけで、痛いことも苦しいこともしなかった。頬を撫でてもらう心地良さに軽く目を閉じる。縋るように「天使様」の手に頬を寄せれば、「天使様」はそっと私を抱きしめてくれた。
これが、わたしの毎日。穏やかでやさしい、真っ白な毎日。これが、死んでいいよって「天使様」に言われるまで続くだけ。それだけだった。
その夜、体を清めて、柔らかな白いワンピースに着替えたわたしは、広間の中央でぼんやりと座り込んでいた。今は「天使様」がわたしが眠るための準備を整えてくれている。
いつでもぼんやりとしているせいで、実はあまり夜は眠たくない。でも、眠らないと「天使様」がかなしそうな顔をするから、無理やりにでも眠ることにしている。
「天使様」が望む悪夢を見れるように、一生懸命頑張るけれど、夢の中はいつも温かくて、ふわふわとしていて、楽しい思いばかりしていた。起きたときにはいつも忘れてしまう、とても「たいせつなひと」が夢の中にはいて、目覚めるときにそのひとと離れるのがかなしくて仕方がないような気がしている。
あのひとは、一体誰なんだろう。「天使様」とよく似た紺碧の瞳を持っていることだけは覚えているのに。
なんだか、とても大切なことな気がする。それなのに思い出せないもどかしさから、わたしはいつのまにか天窓を見上げていた。銀色の星が瞬く紺色の空は、夢の中の「たいせつなひと」の瞳にそっくりだ。
その瞬間、銀色の星が一筋流れていった。ほんの一瞬のことで、もしかしたら見間違いかもしれないけれど、その美しい星空は、わたしにある名前を思い起こさせた。
「……エリ、アス」
エリアス、そう、エリアスだ。わたしの、「たいせつなひと」。遠い昔の祝祭で、一緒に流れ星を見た大切な人。
その瞬間、背後から伸びてきた手に視界を奪われる。軽く抱き寄せられるように捕まったのだと、真っ暗な視界の中でも理解した。
「……外が恋しい? でも駄目だよ、もう僕は君を逃がしてあげられない」
「天使様」のもう片方の手が、仰け反ったわたしの喉を撫でるのが分かった。くすぐったいような、息苦しいような妙な感覚だった。
「いくらその名前を呼んでも、もう会えないよ。だって、僕が殺したから。もう二度と、君は彼に会えない」
その言葉に、一瞬だけ意識が鮮明になる。どくん、と脈打つ鼓動とともに、ひどく、胸が痛んだ。言い聞かせるように繰り返された、彼にはもう二度と会えないという台詞に、自然と涙が流れ出す。
「……二度とエリアスに会えないのなら……私も殺して、セルジュお兄様」
「壊れてもなお大した愛情だね。つくづく、あいつが羨ましいよ」
幾度となく味わった絶望に、再び意識はぼんやりとしたものになった。「天使様」がわたしの目と喉から手を離し、代わりにふわりと抱き上げてくださる。
「……さて、そろそろ眠ろうか、ココ。夜更かしは体に良くないからね」
「天使様」に抱き上げられるがまま、わたしは寝室へと連れていかれた。初めは広間に設置されていたベッドで眠っていたけれど、広間のベッドは昼間に使っていることが多く、散らかっているため、夜は寝室に連れていかれるようになったのだ。
この神殿には、広間以外にもたくさんの部屋がある。うまく歩けないわたしには、調べようがないけれど、広間から寝室へ続く廊下を見る限り、数えきれないほどの部屋がある気がした。
「天使様」は私をベッドに降ろすと、真っ白な毛布をかけてくださった。その仕草は、壊れ物を扱うかのようなやさしいものだ。
「君が眠るまで、ずっとそばにいるよ。おやすみ、ココ」
「天使様」は、そっと私の額に口付けを落として、やっぱりどこかくるし気に微笑んだ。「天使様」はいつも、わたしが眠るまでずっと手を握っていてくださる。その温もりがうれしくて、なかなか寝付けない夜でも私はさみしくなかった。
でも、「天使様」はいつもどこかさみしそうだ。前はこんな表情ばかりする人じゃなかったのに。
前? まえっていつだったっけ? よくわからないな。
「……ほら、眠らなくちゃ駄目だよ。おやすみ」
「天使様」を見つめていたのがばれてしまったようで、「天使様」の手が半ば強制的にわたしの瞼を閉じさせた。こうなってしまったら仕方がない。無理やりにでも眠るしかないのだ。
「天使様」の手を握ったまま、わたしはぎゅっと目を瞑って意識が微睡んでいくのを待った。「天使様」は時折、私の手の甲を撫でてくれる。それが心地よくて、今夜はいつもよりずっと早くうとうととし始めた。
夢に堕ちるか否かという狭間で、「天使様」はぽつりと呟いた。
「……君の幸せを許せない僕でごめんね、ココ」
おかしいな、わたしの「不幸」を願う「天使様」がそんなことを言うなんて。
微睡み始めた意識の中で心底疑問に思う反面、どうしてか目頭が熱いような気がしてならなかった。そのままぽたりと零れ落ちた一粒の涙の意味を、知ることも無いままにわたしは夢の中へと誘われていったのだった。