第43話 おかしいな、君が幸せになってくれたら、それだけで充分だったのに
息をするのも忘れていた。あまりの衝撃で開いたまま塞がらない口もとに手を当てながら、私は目の前の「天使様」をただただ見つめていた。
彼の背中には、今夜も確かに美しい純白の翼が生えていて、その身に纏う雰囲気も、この世のものとは思えない端整な微笑みも、確かに「天使様」の姿そのものだった。
でも、10年の時を経て明かされたその素顔は、懐かしい、懐かしくてたまらない「セルジュお兄様」のもの。
ぐるぐると様々な疑問が脳内を駆け巡る。この顔立ちは確かにセルジュお兄様のものだけれども、お兄様はとうに亡くなっているはずだ。生贄にされて、幼い命を散らしたはずだ。
セルジュお兄様は最初から天使様だったのだろうか。あるいは、天使様がセルジュお兄様のお顔を借りているだけなのか。軽く上がった息を抑えるように胸に手を当てながら、どんどん混乱していく脳内を何とか静めようと必死だった。
「駄目だよ、ココ。ちゃんと息をしなくちゃ」
ココ、その呼び名で呼ぶのはセルジュお兄様と彼を演じていた以前のエリアスだけ。天使様は今までに一度も、その愛称で私を呼んだことなんてなかった。
天使様は私を落ち着かせるように軽く抱きしめると、再び背中をさすってくれた。その瞳の色を見た今ならばわかる。セルジュお兄様と同じ手つきだ。
ああ、以前の時間軸で、飴を喉に詰まらせそうになった時も、セルジュお兄様は泣きじゃくる私を落ち着かせるようにいつまでも背中をさすってくれていたんだっけ。あれは神殿で飴を喉に詰まらせてから間もない頃で、神官たちの前で大騒ぎをしてしまったのだと恥じるように言えば、セルジュお兄様はただ優しく微笑んでくれたのだ。
懐かしい記憶が一気に蘇ってきて、どんな表情をしていいのか分からなくなる。ただ、あらゆる感情で胸がいっぱいで、油断するとやっぱり息が出来なくなりそうだ。
「天使様……いえ、セルジュお兄様……? あなたは、どうして……」
聞きたいことは山ほどあるのに、上手く言葉に出来ない。その様子を見かねたのか、天使様はふっと寂し気に笑いながら種明かしをしてくださる。
「僕は、確かに人間だったよ。以前の時間軸で、11歳にときに生贄に捧げられ、命を落としたあの日までは」
ずきん、と胸の奥が痛むのが分かった。そうだ、セルジュお兄様は生贄として命を落とした。生贄の最期は、確か毒を含んで亡くなるんだったっけ。
「毒を呷って、確かに僕は死んだのだけど……気づけば星影の大樹の中で目を覚ましたんだ。実体のない、意識だけが明瞭な不思議な場所だった」
天使様は私の背中をゆっくりをと撫でながら、遠い記憶を遡るように続けた。
「星鏡の大樹は、生贄の僕を酷く憐れんでくれて……命の代償に、願い事を一つだけ叶えようと言ってくださった。もっとも、あくまでも命を代償にした願いだから、僕が生き返る、なんて真似は出来ないと仰っていたけどね。……星鏡の大樹は、生贄が捧げられるたびに、毎回そんな救済を繰り返しているらしい。生贄が捧げられたところで、星鏡の大樹には何一つ利益なんてないのにね」
天使様の紺碧の瞳が仄暗く翳る。かつてのセルジュお兄様には無かった病みが垣間見えて、どくん、と心臓が大きく脈打つのが分かった。
「願い事なんて言われても、すぐには決められない。だから、とりあえずは残してきてしまった人たちを見守ろうと思ったんだ。そこには、現実世界のことを見守る小さな鏡があってね、それで現世のことを事細かに知ることが出来た。……もしかしたら鏡のように透き通った水だったのかもしれないけど、まあ、その辺はいいよね」
御伽噺を読み聞かせるような天使様の声は優しくて、ああ、確かにこれはセルジュお兄様の声だ、と思い知らされる。記憶の中よりずっと低くなっているけれど、言葉選びも息の継ぎ方も、確かに思い出の中のセルジュお兄様と同じだった。
「僕はその鏡で、初めはあいつを見守っていたんだよ。あの病んだ弟のことをね」
エリアスのことを語るときの声には、やはり底知れぬ憎悪が眠っていて、弟、と呼ぶことさえ躊躇うような怒りを感じた。
「生前、僕とあいつが兄弟らしく過ごした時間なんて本当に短かったけど……でも、それなりに仲良くやっていた。母親の出自のせいで、両親はおろか使用人からも冷遇される弟を憐れだと思っていたし……何より、僕と同じ色の瞳を持つ、年の近い話し相手が出来たことが嬉しかったんだ」
そうだ、その通りだ。エリアスも、セルジュお兄様はエリアスに良くしてくれたのだと言っていた。優しいセルジュお兄様なら、何ら不思議のない行動だった。
「そんな弟が、僕の死後、あの家で上手く立ち回れるかと心配だった。だから、迷わずあいつのことを見守っていたんだよ。……コレットのことも勿論引っかかっていたけど、君には優しい家族や使用人がいたからね。僕が心配するまでもないと思っていたんだ」
天使様――否、セルジュお兄様は片腕で私を抱きかかえたまま、もう片方の手でそっと私の髪を耳にかけた。慈しむようなその仕草に、再び涙が零れそうになる。
「僕の可愛いココが弟と婚約するのは多少面白くなかったけど、どこの馬の骨とも知れぬ男に嫁ぐよりはずっといい。そう思って、僕はむしろ君たちのことを応援していたんだ」
セルジュお兄様は整った眉を下げて、私をじっと見下ろしていた。微笑んでいるのに、その美しい紺碧の瞳の中には、一片の闇があるようでならない。
「でも……あいつが君に執着を見せ始めるようになってから、事情は変わってきた。人に愛されたことも誰かを愛したことも無いあいつだから、初めからうまくいくなんて思っていなかったけど……次第にあいつの執着が看過できないものに変わり始めているのを見て、僕は君のことが心配でたまらなくなった」
セルジュお兄様は辛いことを思い出すかのように整った顔立ちを歪めると、私の肩に手を置いた。まるで、自分の事のように私を案じてくださっていたことが痛いほど伝わってくる表情だった。
「あいつが君を理不尽に傷つけ、束縛するたびに、いっそ君から婚約破棄してくれればいいのに、って何度も思ったよ。正直、それを願い事にしようかと本気で考えたこともあったくらいだ」
今思えば、それを僕の願いにすればよかったんだよなあ、と天使様はどこか自嘲気味に笑う。いつも優しく穏やかに微笑んでいたセルジュお兄様しか記憶にないので、どこか皮肉気なセルジュお兄様の表情を見るのは何だか慣れなかった。
「いつの間にか、僕が見守る対象はあいつから君に代わっていた。あいつの執着は……多分、ココが考えているよりずっと深く、救いようのないものだったからね。あいつにとって自分に初めて優しくしてくれた君は、この世界の全てで、神様だったんだよ」
多分、私たちを見守っていたセルジュお兄様ならば、私の知らないエリアスの病みも知っているのだろう。それだけに、妙に説得力のある言葉だった。
「そうやってココを崇めて、大切に大切にしているだけなら大いに結構なんだけど……一方で、あいつが君を自分だけのものにしたい、って考えているのも確かだった。……何というか、血は争えないよね。僕も似たようなことを考えたことはあるから、流石兄弟だな、って皮肉に思ったよ」
「……セルジュお兄様も?」
それは意外だ、というように潤んだ瞳で彼を見上げれば、セルジュお兄様はやはりどこか自嘲気味な笑みを浮かべて私の頬を撫でた。
「まあね、僕は君が思っているほど出来た人間じゃないよ」
せめて、君の心の中だけでも、僕は完璧なお兄様でありたかったな、とセルジュお兄様はどこか諦めを滲ませたように息をつく。
「あいつの君への執着は許容できるものじゃなかったけど、それでも君たちが結婚式を迎えている姿を見たときは一応安心したんだ。君と結婚すれば、病んだあの弟もいくらか落ち着くかもしれない。そんな期待を抱いていたことも確かだった」
セルジュお兄様も、以前の18歳の私と、全く同じ考えを抱いていらっしゃったようだ。今はエリアスの名前が出るだけで顔を顰めるセルジュお兄様だけれど、最悪の結末を迎えるかなりぎりぎりまで私たちのことを祝福してくれていたらしい。
「無事に夜になって、初夜を迎える運びになったのを見て、僕は本当に安心していた。流石に弟夫婦の初夜を覗き見る趣味はないから、鏡から目を離そうとした、その時に……あいつはナイフを取り出したんだ。無防備な、抵抗一つ出来ないココに向かって」
セルジュお兄様の淡い紺碧の瞳が、明らかな憎悪で揺れる。先ほどまでとは比べ物にならない闇を前にして、私は言葉を失ってしまった。
「……あいつに抵抗する術一つ持たない君が、無惨にも切り刻まれていく様を見せつけられた僕の絶望が、君に分かるかな、ココ。君の赤い血が飛び散って、胸の骨が折れて、肺がぼろぼろと抉り取られて……まだ僅かに震える淡い赤色の心臓が取り出された瞬間を見た僕の気持ちが、君に、分かるだろうか」
私の肩に置かれたセルジュお兄様の手に、痛いほど力が加わるのが分かる。きっと、セルジュお兄様は私よりもあの惨劇のことを鮮明に覚えている。私が絶命するその瞬間を、確かにその目に収めたのだろう。
「……気づいた時には、星鏡の大樹に願っていた。まともに考えれば君の命を救ってくれと頼むべきだったのに、咄嗟に君とあいつが出会う前の時間に戻してくれと叫んだのは悪くない判断だった。あのまま命を救っていたところで、遅かれ早かれ君はあの病んだ弟に殺されていただろうからね」
もっとも、時間を巻き戻したところで君が選んだのはあいつなんだけど、とセルジュお兄様はどこか恨みがましく告げる。不自然なまでの「天使様」のエリアスの嫌い方にも、ようやく納得がいった気がした。
「そして僕は、星鏡の大樹から『天使』の体を与えられたんだ。君が幸せになるまで、という期限付きでね。てっきり11歳の姿になるかと思っていたんだけど、天使の姿は精神年齢に引っ張られるみたいだね。……星鏡の大樹の根元に広がる湖で意識が覚醒して……僕は真っ先に君の様子を見に行ったというわけだ」
長い話になっちゃったね、とセルジュお兄様は笑う。未だに御伽噺を聞いているような心地は否めなかったが、きっとこれが「天使様」の真実なのだろう。彼が私をここまで気にかけてくれる理由も、10年越しの今日、ようやく明らかになった。
「……やはり、あなたはセルジュお兄様なのですね」
「そうだね、もう死んでるのは確かだけど」
「……セルジュお兄様……私は、ずっと、ずっとあなたにお会いしたかったです。もう一度お話が出来たら、って……何度願ったことか……」
目の前の彼は遠い記憶の中のセルジュお兄様よりずっと大人びているけれど、確かにかつてのセルジュお兄様の面影があった。話を聞いて多少冷静になったせいか、衝撃で隠されていたあらゆる感情が溢れ出てくる。
思わずセルジュお兄様にしがみ付くように彼を抱きしめれば、彼もまた、きつく私を抱きしめ返してくれた。息が苦しいくらいだが、もう二度と会えないと思っていた大切な人の温もりだと思うと、ちっとも嫌に感じない。
「うん……僕も、早く君とこうして会いたかったよ」
「それなら……10年前のあの日に、正体を明らかにしてくださっても良かったではありませんかっ……!」
天使様がセルジュお兄様だと分かっていたら、もっと彼との時間を作っただろう。明日には消える、なんて宣言した後に正体を明かすなんて、意地悪にも程がある。
「そんなことをしたら、優しい君は僕に構うばかりで現世の人々と交流しなくなるだろう。未来のない僕に君が囚われてはいけないと思ったんだ。僕は、今度こそ君に幸せになってほしかったから……」
天使様が何度も繰り返していた、「僕と一緒に来てもコレットは幸せになれないよ」と言う台詞が今になって痛いほどに心に突き刺さる。そうか、彼はずっと天使として生きられる期限を意識していたから、いつも最低限の壁を私に作っていたのだ。
セルジュお兄様は、優しすぎる。泣きじゃくった顔で改めてセルジュお兄様を見上げれば、彼の紺碧の瞳が戸惑うように揺れるのが分かった。きっと、セルジュお兄様から見た私は酷い見た目をしているのだろう。
「幸せに、なってほしかった。君が幸せになれるなら他はもうどうでもよかった。それに嘘はない、本当だよ、コレット。……でも」
セルジュお兄様は仄暗い瞳で、怖いほど端整な微笑みを浮かべると、長い指先でそっと私の目元をなぞった。涙が一粒彼の指に伝う感覚がある。
「でも……どうしてかな、ようやく君は幸せになれるっていうのに、どうしても離れたくないんだ。君の傍にいたい、明日からも、ずっと、ずっと……」
切実なセルジュお兄様の想いが伝わってきて、胸の奥が抉られるように痛む。私だってそうだ。この優しい人を失うなんて、考えたくもない。
「僕だって、あいつと同じくらい……いや、それ以上に君のことを想っていたのにな。君のこと、誰より大切だって思っているのに、どうして僕は君の幸せな結末に存在を許されないんだろう」
セルジュお兄様は軽く俯いて、私の肩を揺らした。私を責めているわけではないのだろうが、上手い言葉が出て来ない。セルジュお兄様にしてはあまりに不安定な姿に、どのような対応をするべきなのか迷っているのも事実だった。
「下らない親世代の諍いに巻き込まれて、あっけなく死ぬなんて考えてもみなかった。まっとうに行けば、僕は大人になることが出来て、君を花嫁に貰って、二人で幸せな家庭を築いて行けたはずなのにね……。僕が……僕が何をしたって言うんだ」
セルジュお兄様の言う通りだ。彼が、一体何をしたというのだろう。フォートリエ侯爵家に生まれたという理由だけで、理不尽に命を落とすことになるなんて。血縁者同士の醜い諍いに巻き込まれて、幸せな未来を奪われるなんて。
きっと、セルジュお兄様の感じている空しさは、私などでは推し量れない。それでも尚、セルジュお兄様はエリアスや私のことを心配してくれたのだから、器の大きい人だ。理不尽に命を奪われながらも、それでも残された人の幸福を祈るなんて、まさに天使そのものじゃないか。
返す言葉もなくて、代わりに私はセルジュお兄様を強く強く抱きしめた。生きていれば、私の婚約者となっていた人。誰よりも優しくて慈愛の心を持った、大好きなお兄様。セルジュお兄様を形容すべき言葉は山ほどあって、抑えきれない感情が涙となって溢れ出す。
「時折、のうのうと生きているあいつが羨ましくて妬ましくてたまらなくなるよ。生きている人間全てを呪いたくなる。天使なんて名ばかりだ、この心は悪魔よりずっと黒く深く淀んでいるのに」
「そうだとしても……あなたは私に優しくしてくれた。少なくとも私にとっては天使ですわ、セルジュお兄様」
「はは……可愛いことを言ってくれるね、ココ。僕は君のことだって憎くて仕方がないのにな……」
セルジュお兄様は負の感情を隠すことも無く、私の顎に手を当てると、彼らしくもない多少乱暴な仕草で上向かせた。その淡い紺碧の瞳には確かに憎悪が浮かんでいて、相手はセルジュお兄様だというのに一瞬怯んでしまう。
「もちろん、君のことが好きで、幸せになってほしいと思っているのは嘘じゃない。でも……僕を忘れてあいつに夢中になっている君を見ると、時折呪い殺したくなるよ。せめて、君があいつに僕の面影を見て、その上であいつを愛してくれていたならよかったのにな……」
「セルジュお兄様のことを忘れたことなんて――」
「――僕と結婚する、って言ったくせに。約束だよ、って真っ白な鈴蘭の指輪を僕にくれたじゃないか」
ああ、もう、覚えてないのかな、とセルジュお兄様は苦し気な笑みを見せる。以前の時間軸の記憶を咄嗟に遡るも、具体的な情景はどうやっても思い浮かばなかった。
「まあ、無理もないよね。君は幼かったから。そんな言葉を本気にする僕もどうかしているって分かっているよ。でも……君のその言葉が、病がちの僕にとってどれだけ生きる希望になったか……分からないよね、君にも、他の誰にも」
セルジュお兄様は私の頬をそっと撫でながら、まるで甘い言葉を囁くように続けた。その瞳は今も翳ったままで、妙な緊張感が付きまとっている。
「君との約束があったから、病を克服して、大人になろうって思えた。フォートリエ侯爵家を継いで、心ない大人たちに陰口を言われる君が社交界になんて出なくても済むように、僕が君を守り抜きたかった。温室にはたくさんの鈴蘭を咲かせて、君の顔が花のように綻ぶ様を見たかった」
全部、全部、まっとうに行けば叶うはずだったのにな、と笑うセルジュお兄様の表情はこの上なく切なくて、涙が次々と溢れてきてしまう。何か言うべきだと分かっているのに、胸がいっぱいで言葉にならなかった。
「それを全部奪われて、生贄になって、君があいつと幸せになるのを見届けて……僕は明日消えるのか。僕が生まれた意味なんて、何一つ無いじゃないか」
静かなその声には、確かな絶望が滲んでいた。
違う、私にとってはセルジュお兄様はかけがえのない人だ。意味がないなんて言わないで、と言いたかったのに嗚咽が邪魔をして声が出て来ない。
「僕は……ただ、君の傍にいたかっただけなのにな。君の心も体も何一つ手に入らなくても、傍にいられるだけで幸せだったのに……。この世界は、それすらも僕に許してくれないらしい」
セルジュお兄様の翳った瞳は、確かに私だけを映し出していた。執着にも似た重い感情が宿っているのは一目でわかるけれど、切なさが、彼の歪みを覆い隠してしまう。
「ねえ、ココ……君が幸せを掴むことが僕らの終着点だというのなら……君が幸せにならなければ、僕らはずっと一緒にいられるのかな」
泣き出すような、震える声でセルジュお兄様は言った。翳った瞳の中に、小さな灯がつくように歪んだ光が揺らめくのが分かる。あくまでも穏やかな口調は変わらないはずなのに、言いようのない不安に襲われた。
「……セルジュお兄様?」
「ああ、そうか、簡単なことじゃないか……。どうして気づかなかったんだろう。僕と君が一緒にいるためには――」
セルジュお兄様は整った口元をふっと歪めた。
「――君が、幸せにならなければいいんだ」
セルジュお兄様は張り詰めた空気に似合わない甘い笑みを浮かべると、そっと私を抱きしめた。彼らしからぬ物騒な言葉のせいか、優しいはずのその腕が、私を絡めとる鎖のように思えてならない。
「ねえ、いいよね、ココ。僕のために、不幸になってくれるよね。折角の花嫁衣装が無駄になってしまいそうだけど、いいよね。ねえ、ココ?」
花嫁衣装が無駄になる?
訝し気にセルジュお兄様を見上げれば、彼はようやく見つけた幸せに酔いしれるような、そんな甘い笑みを浮かべるばかりだった。口調も穏やかな物腰も何一つ変わらないのに、彼の中で何かが吹っ切れたことは一目瞭然で、いつにない不穏な空気にこの場から逃げ出したいと本能が叫んでいる。
「セルジュお兄様……何を考えて……?」
「どうすれば、君は一番不幸になってくれるかなあ……。あいつと同じように君を束縛すればいい? 誰の目も届かないところに監禁しようか? 死なない程度に傷つけるのも悪くないかもね?」
あまりに物騒なことを言っているのに甘い笑みを崩さないその姿は、以前の時間軸で私を殺めたエリアスに本当によく似ていて、言い知れぬ恐怖を感じた私はセルジュお兄様の腕から逃れ、よろよろと後退った。その拍子に、背中にバルコニーの金属製の柵が当たり、がしゃん、と大きな音を立てる。
「ああ、でも……優しい君のことだから、君を傷つけるよりあいつを傷つけた方が不幸になってくれそうだよね。君はどれだけ傷つけられようと、あいつが幸せならそれで幸せだ、とか言い出しそうだもんなあ……」
セルジュお兄様は淡い紺碧の瞳を細めてくすくすと笑った。逃げ出すべきだ、と分かっているのに体が動かない。
そもそも、相手はセルジュお兄様とはいえ「天使様」でもあるのだ。この世界のどこに、彼の目が届かない場所があるというのだろう。ゆっくりと、絶望に心が蝕まれていくのを感じる。
その間にも、セルジュお兄様は私との距離を詰めていて、私を柵に追い詰めるようにして私の前に立ちふさがった。セルジュお兄様の手が私を囲い込むように柵に乗せられたせいで、至近距離で向かい合うような形になってしまう。
「あはは……怯えているの、ココ。あいつが似たようなことをしたときはぎりぎりまで説得しようとしてたのに、相手が僕だとすぐに見限るんだね? 妬けちゃうなあ……」
この状況を楽しむかのようなセルジュお兄様の笑みに、いつしか私は先ほどまで感じていた切なさも忘れて、ただただ恐怖を抱いていた。背後は海、目の前にはセルジュお兄様。私は完全に追い詰められていた。
その瞬間、波の音の間に、コンコン、と私室の扉がノックされる音が響く。この音は、そう、リズが訪ねてきた証だ。
「……お嬢様? まだお休みになられておりませんか? 先ほど大きな物音がいたしましたが、大丈夫でしょうか?」
リズは、私の部屋の真下の部屋で休んでいるはずだった。きっと、私がバルコニーの柵に当たった物音が直に伝わったのだろう。こんな真夜中に、自分が仕えている令嬢の部屋から金属音が聴こえたら、不安に思うのももっともだ。
そして今、私は彼女のその機転に感謝していた。具体的な案は思いついていなかったけれど、リズが来てくれたらこの状況を打開できるかもしれない。
「っリズ――」
彼女の名を叫ぼうとしたその時、不意にセルジュお兄様の大きな手が私の口元に添えられる。私の声は無情にも、セルジュお兄様の手の中に掻き消えていった。
セルジュお兄様は私の口を押さえたまま、もう片方の手で自身の唇に人差し指を当て、子どもに言い聞かせるように甘く微笑む。
「駄目だよ、ココ。僕といるのに他の誰かの名前を呼ぶなんて」
それは、以前のエリアスが見せていたものとあまりにもよく似た執着だった。この方は、分かっているのだ。以前のエリアスの記憶が、私の心を蝕むのには最適なのだと。現に、私は以前のエリアスの病みを思い出して、かたかたと小刻みに震え始めていた。
「可哀想に、怯えているんだね。怯えたココも可愛いなあ……。もっともっと怖がっていいんだよ。これからこんなのとは比べ物にならないくらい、酷いことをするからね」
セルジュお兄様は甘く微笑むと、私の手を取ったまま、ふわりと柵の上に飛び乗った。星空を背に大きな純白の翼を広げたセルジュお兄様は、怪しげな美しさを放っていて、こんな状況だというのに一瞬目を奪われてしまう。
「ねえ、一緒に不幸になろう? 可愛いかわいい、僕だけのココ」
そう言ってセルジュお兄様は私の手首を掴んだまま、バルコニーから飛び降りた。ふわり、と私の体が柵を乗り越えて浮かぶ感覚がある。
ベールと純白のドレスの裾が、大袈裟なくらい舞い上がった。
それと時を同じくして、「お嬢様? 失礼いたしますね」というリズの言葉と共に、私室の扉が開かれる音が響く。
セルジュお兄様に腕を引かれるまま、逆さまになった視界の中で、目を見開いたリズと目が合ったのが分かった。
「っお嬢様!?」
リズの叫びを最後に、私の体は急降下する。純白の翼を広げたセルジュお兄様はどこか満足げに微笑むと、翼で包み込むようにして私を抱き寄せ、そのまま海の中へと飛び込んだ。
突然に水中へと誘われた衝撃で、口の中から空気が漏れ出ていく。初夏とはいえ、夜の海はとても冷たかった。
痛む目を見開いてセルジュお兄様を見つめれば、彼はやっぱり甘く微笑んで、そっと私の瞼を閉じさせたのだった。
それ以降の記憶は、薄れ行く星影と共に途絶えてしまった。