第34話 雪で、翼で、この純白で、あいつから君を隠し通したい
フォートリエ邸の広い庭の中にある東屋の一つに辿り着いた私は、木製の椅子に腰かけながら綺麗に整えられた庭を眺めた。目の前には薔薇の生け垣があり、その奥には噴水が見えるようになっている。薔薇の咲く季節には、きっと一枚の絵のように美しい光景が広がっているだろう。
冬の澄んだ空気を胸一杯に吸い込んで、白い息を吐き出す。凍えるような寒さではないので、いつまでもこうしていられそうだ。
靴に付着した雪を軽く払いながら、私はぼんやりとルクレール侯爵令嬢の言っていたことを思い出してみた。彼女は、私がエリアスの幸福の鍵を握っているという。
そんなの、何だかおこがましいにも程があるような気がしてしまう。本当にそうならば、どんなに嬉しいかわからないけれど。
確かめるのは簡単だ。彼に、私の想いを打ち明け、彼の気持ちも確認すればいい。ただそれだけのことだ。
この辺りで、彼の幸福の形を確認しておくべきなのだろう。それは分かっているのだけれど、決断を迫られているのだということを実感して、訳もなく溜息が零れた。
エリアスに「本当はお前なんていらない」と言われたらどうしようかしら。
もちろん、その場合は彼の前から身を引く以外に選択肢はないのだけれど、その後の私の心はどうなるのか予想もつかなかった。もう何年もエリアスありきで動いてきた心だから、彼を失ったらあっという間に感情を忘れてしまうかもしれない。
そこまで考えて、ふ、と自嘲気味な笑みが零れる。傍目にはエリアスが私に執着しているように見えるのだろうけれど、私だって大概そうだ。いつの間にか、なんだってエリアス抜きでは考えられないようになってしまっているのだから。
案外、表に出さない分だけ、質が悪いのは私の方なのかもしれない。自分の心の弱さが嫌になる。
そのまましばらく、足元に零れ落ちた雪を眺めていると、不意に冷気が増した気がした。顔を上げれば、先ほどまであれだけ晴れていた青空が消え、辺り一面にしんしんと雪が降り積もっている。
思わず肩にかけたケープを掻き合わせながら、私はエリアスたちが向かった庭の奥を眺めた。この辺りはフォートリエ侯爵家の敷地なので、遭難するような事態にはならないだろうが、少しだけ不安だった。
捜しに行きたい衝動に駆られるが、急激な寒さのためか、私も上手く手足を動かせない。椅子に腰かけたまま、軽く手を擦り合わせて、ちらちらとエリアスたちの姿を捜した。それほど深い雪ではないとはいえ、心配だ。
「コレット」
その瞬間、背後で私の名を呼ぶ声が聞こえた。雪に混じって上手く聞き取れなかったが、エリアスの声のような気がして、私は咄嗟に立ち上がりながら振り返る。
「っ……エリアス!」
そこにいたのは、真っ白な翼を広げる天使様だった。白金の髪に生成り色の外套という淡い色彩を纏った彼は、銀世界に溶けていきそうな儚さを併せ持っている。
「……ごめんね、君の大好きなあいつじゃなくて」
天使様はどこか自嘲気味に微笑むと、私との距離を詰めた。エリアスのことを考えていたせいか、天使様の声をエリアスの声と聞き間違うなんて。我ながら、失礼にも程がある対応に羞恥を覚える。
「申し訳ありません。エリアスのことを考えていたものですから、つい……」
「あいつなら令嬢と子息と一緒に屋敷に向かっているよ。まったく、君を置いていくなんて……」
「東屋に寄っていたら遅くなってしまいますもの。ルクレール侯爵令嬢がいることを考えれば、紳士的な対応ですわ」
「置いてけぼりにされても庇うなんて、本当、コレットはあいつのことが好きだよね……」
天使様は穏やかに笑いながらもどこか皮肉気な笑みを見せた。今日の天使様は少し意地悪だ。私は口を噤んで、東屋の外に視線を送った。
「まだ夜じゃありませんのに……天使様がいらっしゃるなんて珍しいですわね」
「コレットが一人ぼっちで寒そうにしていたら、いてもたってもいられなくてね」
天使様は甘く優しく微笑むと、私の背後にまわり、そっと抱きしめてくださった。大きな翼で包み込むように抱きしめられ、まるで毛布に包まれているような安心感だ。
「ふふ、温かいですわ。このまま眠ってしまいそうなほどです」
天使様の翼に頬をすり寄せるように軽く目を瞑れば、天使様の手がそっと私の頭を撫でた。
「眠ってもいいよ。このまま連れ去ってしまうかもしれないけど」
「連れ去るとは、どこへですか?」
「そうだなあ、誰の目も届かない、僕とコレットの二人だけの場所に」
天使様は時折、こういったことを口になさる。私を連れて行きたい場所があるのだろうか。
「おかしいよね、僕は、君の幸せを願っているはずなのに。君があいつのことで泣きそうな顔をして悩んでいるのを見ると、時々連れ去りたくてたまらない気持ちになるんだ」
天使様は私の頭に頬を寄せるようにして囁いた。背後から抱きしめられているせいで、天使様の表情は一つも見えていないのに、彼の想いの深さに思わず言葉を失ってしまう。
「天使様は、お優しいのですね」
白い吐息と共にそんな言葉を呟けば、天使様はふっと笑った。
「どうだろう、優しくはないと思うよ。僕も僕で自分勝手なだけだ」
「でも、私をこんなにも想ってくださるではありませんか」
私の体の前に回された天使様の手に、そっと私も触れてみる。この雪の中だというのに、とても温かい不思議な手だった。
「私が、天使様のことを一番に想えたなら――」
そこまで言いかけて、やめた。あまりにずるくて、聞くに忍びない言葉だったからだ。
私が、天使様のことを一番に想えたのなら、エリアスのことでこんなに迷うことも、苦しむことも無かったのだろう。でも、好きという気持ちばかりはどうすることもできない。私にとっては、エリアスに関して悩むこの時間も含めて宝物だ。
「一番に想わなくて正解だよ、僕のことなんて」
だからと言ってあいつを一番に想うのもどうかとは思うけどね、と天使様は笑う。何だか切ないやり取りだった。
「……コレットは温かいね」
天使様はどこか噛みしめるような調子で告げた。彼に慈しまれていると感じるのはいつものことだが、冬の寒さのせいか今日は余計に彼の愛を優しく思った。
どれくらい、そうしていただろう。目の前の銀世界に相応しくない温もりに包まれていると、本当に眠たくなってしまう気がした。
雪も深くなってきたので、リズが心配しているかもしれない。いつまでもこうしているわけにはいかないと分かっているのだが、今だけは天使様と離れがたいような気がして身動きが取れなかった。
だが、天使様が何かに気が付いたように身じろぎすると、溜息交じりにふっと笑った。
「あーあ、残念。お迎えが来たみたいだよ。もう少しコレットにくっついていたかったのにな」
「お迎え?」
当たりを見渡してみても、雪が深いせいか人影は見当たらない。天使様は背後から私を抱きしめたまま、私の髪を耳にかけると、最後にぎゅっと私を抱きしめてくれた。
「君の大好きなあいつだよ。無理しないでね、コレット。辛くなったら逃げたっていいんだよ」
天使様は私の耳元で囁くと、すっと私から手を離してしまう。温もりが遠ざかる気配を感じて振り返れば、天使様は銀世界の中へ翼を広げて飛び立つところだった。充分な挨拶をする間もなく、天使様は白い雪の中へと消えていく。
やがて、天使様と入れ替わるように、背後で雪を踏みしめる音が響いた。天使様の言葉によれば、エリアスが来てくれたのだろう。
「コレット」
今度こそ、エリアスの声だ。確信をもって振り返れば、上質な黒の外套に身を包んだエリアスが東屋の中に立っていた。肩や髪には真っ白な雪が付着していて、耳の端や指先が赤くなっている。寒い思いをしてまで私を迎えに来てくれたのだと知って、胸の奥が熱くなった。
「エリアス……ごめんなさい、こんな雪の中」
「いいや、遅くなって悪かった。こんなに急に天気が変わるなんてな」
エリアスは手に持っていた真っ白な肩掛けを私に羽織らせると、いつの間にか勢いを増して吹雪き始めた東屋の外を睨んだ。東屋から屋敷までそう遠くないのだが、私の体を気遣ってくれているのかもしれない。
「とりあえず、室内に入ろう。歩けるか?」
「ええ、私は大丈夫よ」
エリアスに羽織らせてもらった毛布を胸の前で掻き合わせながら、愛想笑いのような微笑みを浮かべてしまう。気まずい関係の今、彼にどんな表情を向ければ良いのか分からなかった。
エリアスもまた、そんな私の表情を見てふっと視線を逸らしてしまう。何とも落ち着かない雰囲気だ。東屋の外を吹き抜ける風の音が響き渡る、静かな世界だった。
「……手を」
エリアスは無愛想な表情で私に手を差し出してきた。赤くなった指先を労わるように、私はそっと彼の手に触れる。天使様が抱きしめていてくださったせいか、エリアスの手よりも私の手の方がずっと温かかった。
このところエリアスに触れていなかったせいか、妙な緊張感がつきまとう。それを誤魔化すように、私たちは真っ白な世界の中に足を踏み出したのだった。