第33話 彼の幸せの鍵を、もう何年も探しているのは私の方なのよ
冬の庭は、澄み切った空気に満ちていた。薄く降り積もった雪の上をさくさくと歩いていく。
フォートリエ邸の名物の青い薔薇は、この季節には当然ながらその姿を見せない。それこそ、温室に咲いているかどうかという程度だろう。
私はルクレール侯爵令嬢と並んで歩きながら、少し先を歩くエリアスとバルテ伯爵子息を眺めていた。こうして見ると、エリアスは同世代の男性と比べても背が高いようだ。彼の後ろを歩くような機会が無かったせいか、今までは気づかなかった。
「ルネちゃんとは、いつも楽しく遊ばせてもらっているんですよ」
ルクレール侯爵令嬢は、青空に琥珀色の瞳を細めながら楽し気に口を開いた。
「とっても綺麗な翡翠色の羽で……いつ見ても惚れ惚れとしてしまいます。手に乗ってくれないのは残念ですけれど、それだけルネちゃんはミストラル公爵令嬢に懐いていらっしゃるのですね」
「ええ、どういう訳か私と相性がいいみたいです」
同年代の令嬢とこうして気兼ねなく話をするのは楽しかった。以前の時間軸を合わせてもあまり経験のないことだ。今までは私を「ミストラル公爵家の失敗作」と揶揄う人たちばかりであったし、今は今で「聖女様」として遠慮されるような身の上のせいだろう。
「是非、コレット様とルネちゃんが一緒に過ごしているところを見てみたいですわ」
そこまで言って、ルクレール侯爵令嬢はしまったとでも言いたげに口元に手を当てた。僅かに赤くなった指の間から、白い吐息が漏れ出している。
「あの……申し訳ありません。許可もいただいていないのにお名前を呼んでしまって……。エリアスがいつもミストラル公爵令嬢をお名前で呼んでいるものですから、私にもつい移ってしまったようです」
それだけ、エリアスとルクレール侯爵令嬢が親しくしている証なのだろう。胸の奥が痛むのを感じながらも、私は何とか微笑みを取り繕った。
「構いませんわ。どうぞ、私のことはコレットとお呼びください」
「まあ、よろしいんですか? では、宜しければ私のこともセシルとお呼びくださいませ」
はい、と笑みを交えて返事を返せば、ルクレール侯爵令嬢は嬉しそうに頬を緩めた。感情豊かな御令嬢だ。美しく、人当たりもよく、家柄も申し分ない。エリアスには似合いのご令嬢と言えるだろう。
そう、エリアスには多分、ルクレール侯爵令嬢のような女性がお似合いなのだ。どういう理由にせよ、彼が私といて息苦しさを感じるのであれば、私は彼のそばに居ない方がいい。
何となく感傷的な気分になって、私は手持ち無沙汰な手で肩に羽織ったケープを手繰り寄せた。彼の幸せのためならばどんなこともしてみせると誓った私だが、いざ目の前に現実を突きつけられるとやはり胸が痛むのは事実だった。
「エリアスはよくコレット様のことを話してくれるので、私、ずっとコレット様にお会いしてみたかったのです」
「私の話、ですか」
エリアスが私のことをどんなふうに話しているのかなんて、想像もつかなかった。彼のことだから悪くは言っていないと思うが、もしも鬱陶しいと思われていたらどうしよう。
「ええ、エリアスはコレット様のお話をするときが一番楽しそうです。彼はあなたに救われたのだ、といつも繰り返しています」
「救っただなんて、そんな……」
曖昧な笑みを浮かべれば、ルクレール侯爵令嬢は琥珀色の瞳で真っ直ぐに私を見つめてきた。
「エリアスにとってコレット様はとても大切な方です、それは間違いありませんわ。ですから、今日、エリアスとコレット様がどのようにお話になるのか遠目から眺めるのを楽しみにしていたのですが……」
ルクレール侯爵令嬢は言葉に詰まったように軽く視線を伏せると、数秒の沈黙の後に再び口を開いた。
「エリアスがコレット様を見つめる目は、何だかとても苦しそうでしたね。彼のあんなにも翳った暗い目を見たのは初めてです。……もしかして、喧嘩でもなさっているのですか?」
「喧嘩……」
喧嘩、と言えばそうなのだろうか。でも、私たちがいま直面している課題は、喧嘩よりもずっと深刻で、二人の未来を左右するような重大なもののような気がしていた。
「もしそうならば、どうかエリアスと向き合って差し上げてくださいませ。コレット様よりエリアスと付き合いの短い私が、こんなことを言うのはおこがましいと重々承知しておりますが……。第三者からしか見えない世界もあるでしょう?」
「おこがましいなんて思っていませんよ。助言をくださってありがたい限りです」
もちろん、このままエリアスから逃げようだなんて思っていないが、だらだらと険悪な関係が続くのも良くない。この辺りで決着を着けるべきなのだと分かっていた。
「エリアスの友人として言わせていただくのならば……コレット様、あなたはエリアスにとって必要不可欠な方だと存じます。彼の幸福の鍵は、あなたが握っていると思うのです」
まさに私がずっと思い悩んでいることを言い当てられて、どうにも戸惑ってしまう。
私の存在がエリアスにとっての幸福の鍵。もしも本当にそうだったらどんなにいいだろう。今現在、彼を最も悩ませ苦しめているのは私かもしれないのに。
「……どうでしょうね。私より、セシル様のような方のほうがずっと――」
「セシル、ミストラル公爵令嬢! ご覧ください!」
不意に、バルテ伯爵子息が私たちに声をかけてきたために、私とルクレール侯爵令嬢の会話は途切れてしまった。バルテ伯爵子息の指さす先には、雪のように真っ白な愛らしい小鳥の姿がある。冬の寒さのせいかふっくらとしていてとても可愛らしい。
「まあ! コレット様! あの鳥はとても珍しいのですよ! 私たち、とても幸運ですわ!」
興奮したようなルクレール侯爵令嬢の言葉に押されるようにして、私はしかとその小鳥の姿を目に焼きつける。確かにあまり見かけない鳥だ。
「エリアス! 見たいと言っていた鳥が見られてよかったですわね!」
ルクレール侯爵令嬢がはしゃいだようにエリアスに語り掛ければ、彼は気が抜けたように柔らかく笑った。
「ああ、そうだな」
そのまま楽しそうに会話を始めるエリアスとルクレール侯爵令嬢を見ていると、やはり複雑な気持ちになる。私は曖昧な笑みを浮かべながらも、さりげなく二人から視線を逸らした。
「よければこのままもう少し奥まで行ってみないか? さっきの鳥がもっと見られるかもしれない」
「まあ、素敵ね! そうしましょう!」
バルテ伯爵子息の提案を、ルクレール侯爵令嬢は二つ返事で快諾した。エリアスは穏やかに微笑みながらも、どこか鋭い眼差しで私を眺めている。
明らかに、邪魔者は私だろう。私がいてはエリアスは彼らとの時間を存分に楽しめそうにもない。彼の穏やかな時間を邪魔したくはなかった。
「私は少し疲れてしまいましたので、この辺りで失礼させていただきますね。素敵な小鳥を見せていただけて、とっても嬉しかったです」
なるべく明るく振舞えば、ルクレール侯爵令嬢があからさまに肩を落として私の前に歩み寄った。
「コレット様……私、気に障るようなことを言ってしまいましたかしら……」
「決してそんなことはありません。単に私の体力が無いだけなのです。無理をして、皆さんの足手まといになりたくありませんから」
そうですか、といくらかほっとしたような様子を見せるルクレール侯爵令嬢の隣に、エリアスが歩み寄る。私に向けられる彼の紺碧の瞳は確かに翳っていた。
「それなら屋敷まで送る」
いつも通りの淡々とした物言いなのだが、今の私たちの関係を考えると不思議と冷たく響き渡るようだった。
「いいえ、大丈夫よ。少し東屋で景色を楽しんでから帰るから」
なるべく丁寧に断ったつもりだが、エリアスの紺碧の瞳は一層冷たくなるばかりだ。やがて、彼はどこか諦めたような笑みを浮かべて告げる。
「……そうか、分かった。気を付けて」
「……ええ、ありがとう」
間に立たされたルクレール侯爵令嬢は、可哀想なくらい右往左往していた。あれだけ私とエリアスのことを心配してくれていた彼女のことだ。今も内心かなり動揺しているに違いない。
だからこそ余計に、エリアスの機嫌を損ねかねない私はいない方がいい気がした。ルクレール侯爵令嬢とバルテ伯爵子息に簡単な礼をしてから、私は東屋へと歩き出す。一人で踏みしめる雪の音はやけに寂しく響き渡った。