第25話 最良の筋書きの先に、あなたの笑顔があるならそれで
数日後、遂に夜会の当日を迎えた私は、何と天使様と共に王城の礼拝室の天窓の傍に腰かけていた。僅かに開いた窓からは、室内の様子がうかがえる。
デビュタントらしく、腰のあたりからたっぷりとしたドレープのあしらわれた真っ白なドレスを纏った私は、この部屋に現れるであろう人物を今か今かと待ち構えていた。時折、灰色の髪に飾られた青い薔薇と鈴蘭を模った髪飾りに触れ、何とか心を落ち着かせようと試みる。
社交界デビューを目前も目前に控えた私が、寂れた礼拝室の天窓から室内とにらめっこをしている理由は、つい先日、天使様と話し合ったエリアス毒殺未遂事件にまつわるある仮定にあった。
先日、天使様とエリアスの毒殺未遂について話し合った時に気が付いたことがある。そう、実はエリアスは夜会の前にワインを口にする機会があったのだ。
それは、夜会に出る直前、神官と共に「星鏡の大樹」へ祈りを捧げる簡単な儀式の中で口にするワインのことだった。飲めば祝福が訪れるとされ、社交界デビューの夜会に赴く前に行うごくごく一般的な儀式の中で口にするものだ。
そのワインは、神官が祈りを捧げ持ってきてくれる。社交界デビューする子息や令嬢の生まれた年に作られたワインを用意する、というなかなか気障な演出が行われることが多く、以前の私のワインもそうだった。
このワインは神官の前で飲み干し、それから夜会に向かうことになる。こうして考えてみれば、これほど暗殺に適したワインはない。
そう、私と天使様が立てた仮説は、この儀式のワインに毒が盛られていた、というものだった。これならば確実にエリアスに毒を飲ませることが出来る。恐らく、効果の発現の遅い毒物が盛られ、エリアスが夜会で一杯目のワインを飲んだ際に、アルコールと相まって彼の気分を害したのだと考えている。
「星鏡の大樹」を知らない者からすれば、私たちはとても愚かに見えたことだろう。これほどに暗殺に適した手段が傍にありながら、それを疑いもしないなんて。
でも、私たちは気づけなかった。正確に言えばエリアスが儀式の最中にワインを飲んだことは当然把握していたが、問答無用でそのワインに毒が含まれている可能性を除外していた。
儀式を疑うということは神官を疑うこと、ひいては「星鏡の大樹」への不信を表すことになる。仮に儀式のワインに毒物が盛られていた可能性に気づけていたといたとして、充分な証拠もないままにその可能性を口に出来た者がいたかどうかも疑わしい。
多くの人々は敬虔な信者ではない、などと言いながらも「星鏡の大樹」への信仰はこの国によく根付いている。その「星鏡の大樹」に仕える神官を疑うなんて真似は、思いつきもしなかったのだ。以前の私も信仰に囚われたまま、疑うことが出来なかった。
きっと、天使様に出会っていなければ、私は今回の時間軸でも無条件に神官を信用していただろう。信仰の真髄である天使様を知っていたからこそ、恐れを知らずに抱くことのできた考えだった。
その仮説の元、私は夜会が開催されるこの直前に、妙な動きをしている神官がいないかどうかを天使様に見張って頂くようお願いしたのだ。世界中を探しても、天使様にこんな頼みごとをする人間は私くらいしかいないだろうが、彼は私のためだと言って二つ返事で請け負ってくれた。
そして案の定、王城の中でも人通りの少ない最も寂れた礼拝室で、一人で祈りを捧げたい、と言い出した若い神官がいたらしい。天使様がその神官を追ったところ、一瞬物置のような小さな部屋に入り、顔を隠した何者かと二言三言交わしたのちに、小指ほどの小瓶を片手に出てきたのだという。
そこまで見届けた天使様は、私にそれらの目撃情報を知らせてくださり、こうしてその神官が指定した礼拝室に先回りした次第だ。夜会直前に抜けられるか不安だったが、リズに「一人にしてほしい」と強請ったところ、何とか一人の時間を作ることが出来た。その隙に天使様にこうして連れ出していただいた次第だ。
そんなわけで、じっと室内を観察し続けること数分、遂に古びた木製のドアが軋む音がした。建付けが悪く上手く開かないのか、ぎしぎしと嫌な音がする。
「コレット、神官が来たよ」
「はい」
小声で囁き合い、私たちは息を飲んで天窓の隙間から室内を見守った。ようやく開いた木製のドアの先から姿を現した神官の姿に、私は必死に以前の時間軸の記憶を呼び起こした。
以前の時間軸の夜会で、エリアスよりも先に儀式が終わった私は、彼を控室に迎えに行ったのだ。その際に、エリアスと共に祈祷を行った神官と簡単な挨拶を交わしたことがある。
今、寂れた礼拝室の中にいるその神官は、まさに以前の時間軸でエリアスと共に祈祷をした神官だった。怪しげな小瓶を手にしていることからしても、ほぼ確定だろう。彼が、エリアスに毒を盛った犯人なのだ。
青白い顔をした神官は、「星鏡の大樹」の葉が彫られたワイングラスに程よい量のワインを注ぐと、手にしていた小瓶の蓋をそっと開けた。その瓶をワイングラスの上まで持ってきたところで、不意に手を止める。よく観察してみれば、神官の手は尋常ではないほどに震えていた。
罪を犯すことを、恐れているのだろうか。入ったときから青白かった神官の顔色が、ますます青ざめていくのが分かった。
「随分怖がっていますね……」
「まあ、多分、彼の本意じゃないんだろうね。本当の黒幕は、この小瓶を彼に渡した相手だろうから」
天使様の話を聞いている限り、私もそれはある程度予想していた。物置に影を潜めていたという、小瓶の持ち主こそがきっと黒幕だ。この神官と黒幕の間にどのような力関係があるのか分からないが、この神官はあくまでも実行犯として駆り立てられているだけなのだろう。
震えた手で神官は遂に小瓶の中身をワイングラスに注ぎ入れ始めた。その際に、透明な毒はいくらか周囲に飛び散ったが、テーブルの木目の合間に吸い込まれて消えていった。グラスの中に注ぎこまれた無色透明のその薬は、ワインの中にあっという間に溶けて見えなくなってしまう。
「あ、ああ……」
神官は呻き声をあげたかと思うと、突然床に跪き、自身の首から下げていた「星鏡の大樹」の葉をモチーフにしたペンダントを自らの額に当て、震える声で祈り始めた。
「星鏡の大樹よ、どうか、どうかお許しください……。私は、罪なき命をこの手で奪います。若き彼に祝福を、永遠の安らぎを、どうか、どうか……」
震える指を組んで、泣き出しそうな勢いで神官は祈っていた。犯罪に手を染めるからには信仰は表面上だけの神官だと思っていたのに、これは意外だった。
「ふうん、悪いことする割には敬虔な信者なんだね、あの神官」
天使様も同じ感想を抱いたらしく、面白いものを見たとでも言うように口元を歪めていた。彼にとっては、人間の世界の殺人未遂なんてちょっとした余興程度の些事なのかもしれない。
祈り続ける神官の姿を見ながら、ふむ、と私は考え込んだ。あの神官の信仰心は、案外使えるんじゃないだろうか。
「さて、犯人は分かったことだし、後はあいつにこのワインを飲ませなければいいわけだね」
「そう、ですわね……」
それ自体はとても簡単だ。わざと零すなり、直球に申し出るなり、何とでもなる。
だが、それでは恐らく黒幕までは捕まらないだろう。良くて神官がエリアスのワイングラスに毒を入れたと自白する程度だ。それでは妙にすっきりしない。黒幕がいると知ってしまった以上、その正体を明かすまではエリアスの身が安全になったとは言い難い。
エリアスの身を護るためならば、何でもすると決意したのだ。今の私が使えるものは何でも使いたかった。あらゆることに考えを巡らせてみる。
……そう言えば、社交界デビュー直前のこの儀式にも迷信があったわね。
それは、恋人同士が儀式のワインを交換すると、末永く幸せになれる、なんていう甘いにも程がある迷信だった。儀式のことに思いを馳せているうちに思い浮かんでしまったが、これが何かに使えるだろうか。
恋人同士、という細かいところは置いておいて、私が頼めばきっとエリアスはこの迷信に付き合ってくれるだろう。そうすれば、エリアスのワインが私の手元に来る。これ自体は悪くない流れだ。
以前の私ならば、それをそのまま私が含んで毒に倒れ、ミストラル公爵令嬢殺害未遂事件に仕立て上げ、公爵家の力を借りるという筋書きを立てていただろうが、私の隣で優雅に微笑む天使様がそんなことを許すはずもない。
それに、エリアスが耐えきれた毒でも私だったら死ぬかもしれないのだ。最終手段がそれだというのならエリアスのために命を投げ出すことは惜しくないが、何か他に方法がないか考えてからでも遅くない。
天使様、私、エリアス、迷信、ワイン、神官の信仰心。私が動かしうるすべての演者を使ったよりよい筋書きが無いものか、と頭を悩ませる。
「どうかした? そろそろ戻ろうか?」
私の頭をそっと撫で、甘く優し気に微笑む天使様を見つめていると、ふと、ぐるぐると巡っていた脳内の考え事が一本の筋書きにまとまっていくのが分かった。なかなか大仰だが、悪くないかもしれない。
もう時間もない、これに賭けてみよう。
私は天使様を見つめ、今思いついたことを打ち明ける決心を固めた。
「天使様、黒幕を捕まえるために、ちょっとしたお芝居に付き合って頂けません?」
「お芝居?」
「ええ、とても簡単なお芝居ですわ」
私はきょとんとした天使様の手を取り、目を輝かせるようにして頼み込んだ。
「天使様、あの神官の前で私を口説いてくださいませんか?」