空飛ぶ少女と見つめる少女(2)
高野柊は一年前――小学四年生の頃に、いわゆるイジメを受けていた。
イジメと言っても、比較的酷いものではなくて、誰でも通るようなものではあったと思う。
無視されたり。
なにか話せば、クスクス笑われたり。
持ち物を隠されたり、捨てられたり。
歩いているだけで、何度も突き飛ばされたり。
そんなものだった。
ソレをしてきたのは友達だった。そう思っていたクラスメートだった。
同じ女子グループの三人。イジメが始まる前は、普通に遊んでいた相手だ。
ただ、なにがキッカケなのか、ソレは始まった。
そして、柊は逃げられなかった。
一緒にいるのが辛いのに、彼女たちといつも一緒にいた。逃げたら、もっといじめられると思っていた。これ以上、酷くなるのは嫌だった。
あれは、よくあるイジメだったのかもしれない。
誰でも一度は通る道だったのかもしれない。
本当はなんてことないものだったのかもしれない。
そんなことでと嗤われることかもしれない。
それでも、柊はあの頃、毎日死にたいと思っていた。
なにかされるたびに、もう死にたいと思っていた。
柊はその頃、初めて青子を見た。
※ ※ ※
小学校裏の防風林の中は遊歩道があり、それを進んだ先には広場がある。でも、あまり子供たちは遊びに行かない。
それは防風林の中が、昼でもどこか薄暗くて気味が悪いからだ。
柊も防風林の中は苦手だった。
薄暗くてお化けが出そうだし、変質者が出るなんて噂もある。
怖くて苦手な場所なのに、柊は今、柊をいじめる三人のトモダチに囲まれてそこへと向かっていた。ボールを回すように、突き飛ばされながら歩く。
柊の怯える様子を、トモダチは楽しそうに笑って見ていた。
ベンチしかない広場に到着すると、いきなり柊の背負っていたランドセルを引っ張る。なにがなんだか分からないうちに、ランドセルは奪われてしまった。
「か、返して……」
自分の耳にもやっと聞こえるか聞こえないかの小さな声で、彼女たちに聞こえたのかも分からない。
彼女たちはクスクス笑うと、柊のランドセルを勝手に開けた。
そして、一人の子が、中から取り出した筆箱を木々の間へと投げ捨てる。
目の前で起こったことがあまりに衝撃的で、信じられなかった。
なにがおかしいのか彼女たちは爆笑した。
投げた子が、他の二人にも目で合図をした。
これから起こることが分かって、柊はヒッと喉を引きつらせる。
「や、やめて」
でも、柊の声なんて彼女たちには届かない。
教科書が、ノートが林の中に投げられた。――捨てられた。
どうしようどうしようどうしようどうしよう……。
混乱して泣き始めた柊に、3人の中でリーダー格の少女が白けた目を向けた。
「あーあ、泣いちゃった。これくらいで普通泣く? ただの冗談じゃん。拾ってくればいいだけでしょ」
そう言うと、他の子に持たせていた柊のランドセルを奪う。
「あ……」
開いたままのランドセルも林の中に投げられた。
一歩も動くことが出来ずに、柊は呆然とそれを見ているしかなかった。
ドサッと、ランドセルが落ちる音がした。
「行こ」
他の二人をうながして、リーダー格の女子を先頭に彼女たちは来た道を戻っていく。
「ま、待って……」
それでも追いかけようとして……できない。
ランドセルも、筆箱も、教科書も、ノートも拾わないといけない。
でも、広場からはずれて木々の中に入ることさえ、柊は怖かった。
怖くてたまらなくて、でも、行かなくちゃいけなくて……。
泣きながら、震える足を動かして、広場から木々が密集する中へと入る。
伸びた草が足をかすめることにも、体がビクついた。
もうヤダ。もうヤダもうヤダもうヤダ。死にたい。
死にたい死にたい死にたい死にたい……。
頭の中はグルグルそんなことが回って、涙がボロボロと流れていく。
一番近くにあったのは、ランドセルだった。ピンク色のランドセルから、投げられた勢いで下敷きや算数、理科の教科書、ノートが飛び出ている。
しゃがんでそれらを拾うと、ついた土を払う。
ランドセルの中に戻した後、投げられた教科書とノートを探す。国語の教科書も、算数で使っているノートも見える範囲にあった。
国語の教科書はページが開いた状態で、土についていた。
ノートは端がくしゃくしゃになっていた。投げるときに思いっきり掴んでいたのだろう。
それらも土を払った後に、抱えていたランドセルに入れる。
後は筆箱……。
視線をめぐらせても、見つからない。
「う~……」
柊はその場にしゃがみこんだ。
もう嫌だった。
自分がみじめで情けなくて恥ずかしい。
もうヤダ。もうヤダもうヤダもうヤダ。死にたい死にたい死にたい死にたい。
抱えたままのランドセルに額を押し付けて、声を押し殺して柊はずっと泣いた。
※ ※ ※
――どれだけそうしていただろう。
柊は顔を上げる。
……筆箱、探さなきゃ。
頬をぬぐうと、ランドセルを抱えて立ち上がる。
林の奥へと数歩進んで、地面を見渡す。何往復も視線を行き来させて、やっと見つけた。さっき見たと思ったところに、なぜか落ちている。
白猫のキャラクターが描かれた筆箱は、結構気に入っていたものだった。
でも、土で汚れた白猫のキャラクターを見ると、どうしようもなく空しい気分になる。
土を払っても白猫は汚れたままで……柊は筆箱を足元に思いっきり投げた。
布製のポーチのような筆箱は、中で鉛筆のぶつかる音をさせる。
なんにもスッキリしなくて、むしろ虚しさと怒りが増えただけだった。
下唇をギュっと噛むと、ノロノロと筆箱を拾い上げる。
適当に土を払って――でも、さっきより汚れは酷いままだった――またランドセルの中に入れた。
そして、ランドセルを担ぐと、広場へと戻っていく。
そこに彼女はいた。
広場の真ん中。一人の少女が、立っていた。
顔を上げて、ボーっと宙を見ている。
なんだか出ていきにくい。
こんなところさっさと出たいのに、誰にも今の自分を見られたくない。どうすることも出来ず、柊は木々の中で立っていた。
すると、ふいに音もなく。
少女のつま先が地面を離れた。
「……え?」
妙な違和感が生まれるが、それがなんなのか分からない。
地面から離れた少女は仰向けになると、プカプカと浮かんだ。
――なにしてるんだろう。飛んでいると大人に怒られるのに。
ヤダな……。
なんで、こんなところで飛ぶんだろう。大人にバレないからだろうけど……でも、さっさと帰ってほしい。
しかし、柊の願いは届くはずもなく。
飛んでいる彼女はその場で水平に回ったり、体を伸ばしたり、バタバタと足を動かしていたりする。
一体、なにをしているんだろう。
……変な人だ。
ますます近寄りたくなくて、でも、さっさと離れてしまいたくて。
少女が仰向けに飛んでいるなら、その下を走って行ってもバレないだろうけど……怖い。
柊はランドセルの肩ひもをつかんだ。
下唇をギュっと噛むと、一歩足を踏み出し、そして一気に走り出した。
広場を通り抜けて、遊歩道の中へと入る。
そこで一旦、立ち止まる。見たくない気もしたが、怖いもの見たさ、というやつだ。柊はそこで振り返ってしまった。
「……ひっ」
浮かんでいた少女が、その態勢のまま、首をそらしてこちらを見ていたのだ。
柊はすぐに走って逃げだした。
柊はこのときに初めて青子を見たのだった。