空飛ぶ少女と見つめる少女(1)
高野柊。性別、女。
名前だけ聞くと男か女か分からないらしいが、正真正銘、女である。
現在、小学五年生。
クラスでも目立たない、外見も中身も地味なタイプ。友達も一人もいない。いらない。
そんな彼女にもたった一人だけの存在がいる。
友達なんてものじゃなくて、知り合いなんて浅いものじゃなくて、名前もつけられないような、たった一人だけの存在。
柊だけの、たった一人。……だったのに。
※ ※ ※
柊は走っていた。
放課後。学校の校門を抜けて、坂を駆け上がる。
坂の上、右側にある防風林の中の遊歩道に入る。
土を踏み固められただけの道。幅は人が二人肩を並べてなんとか通れるほど。
そこを全速力で走る。
だんだんと足が空回っていく感覚が生まれる。
地面を蹴っているはずの足が宙を浮く。
体が浮かんで、足が空気を蹴る。
すると水の中を泳ぐように、体は宙を泳いだ。
速く速く速く速く――。
柊は飛んでいく。
風を切る――と呼べるほど速いものじゃない。
走る速度と同じような速さだけど、気持ちだけ焦って前に前に前に――。
目の前、開けた場所が見えてくる。
防風林の中にある小さな広場。
そこで雲のように浮かんでいる、柊のたった一人の人。
その姿を捕えた途端、柊の中で怒りとも喜びとも安堵とも言えないようなものが爆発した。
「青子さんっ!」
青子が、柊を見た。
「あ、柊だ」
のんびりした声にむしゃくしゃして、青子に突進する。
飛んでいた勢いのまま青子に抱き付く。
勢いが殺せなくて、二人抱き合ったまま、くるくると宙を回った。
回転が止まると、空中で柊が青子に馬乗りになっている態勢になる。
そのまま柊は青子の胸倉をつかんだ。
「もー! なにやってんですか! 昨日、空飛んでたのって青子さんでしょ! なにあんな目立つ真似してんの!」
「うーん……よく分かったね」
「あたしが青子さんを分からないはずないでしょ!」
「おー、そっかー」
青子はへらりと笑った。
柊はムッとする。
「笑うな。もー! もーっ!」
柊は胸倉から手を離すと、ガバッと青子に抱き付いた。
「心配したんですよ!」
柊はほぼ毎日、放課後は青子と一緒にいる。
それなのに昨日は、柊にピアノ教室があったため一緒にはいられなかった。
その間にまさかあんなことが起こるなんて。
――今日の朝、緊急で全校集会があった。
校長曰く、昨日の夕方、危険飛行した生徒がいる、と。
その生徒は地上約二十五メートルから落下しました。運良く助かりましたが、死んでいてもおかしくなかったでしょう。不用意な飛行は禁止されています。皆さんも大人の目がないところで飛ばないように、と改めて注意された。
そのとき、落下した生徒を助けた子供がいることは言わなかった。
そんなことを言えば、また飛行する子供が出てくると考えたのだろう。
しかし、落下した子供を助けた子供がいることは、みんな分かっている。
そもそも飛べるのは子供だけなのだから、落下した子供を助けられるのも子供しかいない。
昨日のその様子を見ていた人間もかなりいるのだ。
柊はそれを見ていないが、SNS上に動画だって流れていた。
その動画で映されていたのは、子供二人が飛んでいる姿。遠くから映したものだからか、その姿は豆粒ほどの大きさで誰かと判別することは出来ない。
それでも、柊には分かった。
あそこまで高く、自由に飛べるのは一人しかいない。たった一人しか、いない。
青子だ。
もし飛んでいたのが青子だとバレると、青子は先生たちに怒られるだろう。こっぴどく怒られて、飛行禁止と言われるかもしれない。そんなこと言われても、青子なら飛ぶだろうけど……あまりに酷かったら監視されるかもしれない。もしかしたら、飛行ばかりする子供が入れられる噂の矯正施設に連れていかれるかもしれない。
ネガティブにネガティブを重ねた思考になった柊は不安でたまらなかった。
学校にいる間は、青子に会いに六年生の教室に行くことは出来なくて――上級生のクラスに行くのには勇気がいるのだ――放課後、いつものこの場所でやっと青子の無事な姿を確認できた。
「もー! もーっ!」
爆発する感情をそのままに、柊は青子のふくらんでもいない胸に顔を押し付けるように強く抱き付く。
「柊、苦しい」
柊の肩を掴んで、青子は離れようと身じろぎする。
その様子に、柊が今どんな気持ちでいるのか全然伝わっていないようで、でも、それが青子らしくて、それでもムッとして、柊は顔を上げた。
「……で? 昨日のアレ、なんだったんですか!? 一体、なにがあったの!?」
「んー……アレ? アレはねえ……」
眉間にしわを寄せた青子は、まるで助けを求めるように視線をずらす。
ムッとしつつ、柊もその視線の先を追えば……。
男子が二人、立っていた。
「……え?」
一人はくりくりした目の、優しそうな男子。
もう一人は吊り目の、少し怖そうな男子。
男子とあまり話したことがなく、人見知りなところもある柊は、思わず青子に抱き付いた。
優しそうな男子が、戸惑うように視線をさまよわせる。
「え、っと……柳さん、その子は……?」
青子に紹介を求めているが、そんな気の利くことができる人ではない。
「ん、柊だよ」
これで終了である。
そうじゃなくて、と柊はもちろん、その男子も思っただろう。
柊は青子から下りると、地面の上に立った。その手は、まだ浮かぶ青子の腕を握っていたが。
「高野柊です」
小さな声で、目を伏せながらも、一応自己紹介する。
「え、と……何年?」
優しそうな男子は、見かけ通りの優しい口調で聞く。
なんだか気まずくて、気恥ずかしくて、逃げ出したくて、柊はさらに小さな声で答えた。
「五年、です」
「じゃあ、佐南と一緒だ。俺は冴木滉征。六年で、柳さんと同じクラスなんだ。こっちは松田佐南。こいつも五年なんだけど知ってる?」
「俺は知らない」
佐南が答える。
ぶっきらぼうな答え方に、柊は怖くなった。
男子は怖くて嫌いだ。滉征は怖そうじゃないけど、でも、やっぱり怖い。
ぎゅうっと青子の腕に抱き付く。
この二人はなんなんだろう。どうしてここにいるんだろう。ここには青子と柊しかいつもいないのに……。
「高野もいつもここにいるの?」
滉征が聞く。
柊はうなずいた。
「いつもここで、二人で遊んでいるの?」
柊は青子を見る。
青子は答えるつもりはないようで、相変わらずプカプカと浮かんでいるだけだ。
仕方なく、柊はまたうなずいた。
「いつも、飛んでる……」
「へえ……。確かにここなら大人には見つからないし、ちょうどいいのか」
あまり人が来ないここならば、飛んでいても見つかることもなく怒られることもない。
青子と柊の秘密の遊び場……だったのに。
青子はここのことを、二人に話したのだろうか。
これから、この二人とも一緒に飛ぶつもりなのだろうか。
「そっか。じゃあ、佐南にとってもちょうどいいんじゃないか?」
滉征が軽い口調で言えば、佐南はギョッとしたようだった。
「ちょ、滉くん!」
佐南はなぜか慌てた。滉征はキョトンとして、佐南を見下ろす。
「ん?」
「あ、のさ……そろそろ塾の時間じゃない?」
「あー……そろそろか……」
滉征は残念そうにするが、柊はむしろ顔を輝かせた。
これで青子と二人きりに戻れる。
「じゃあ、俺は行くから、佐南は柳さんと……」
「俺ももう行く!」
「え、でも……」
「いいから! じゃあな、青子」
「じゃあ、柳さん。また明日」
佐南が滉征の背中を押すように慌てて帰っていった……が、佐南は途中で振り返る。
「青子! 余計なこと言うなよ!」
「んー? 分かった?」
「疑問形やめろ! 分かれ!」
「んー、分かった」
佐南は疑うような目を向けながら、それでも帰っていった。
二人の姿が見えなくなって、やっと柊は肩から力を抜く。
「…………あれって、青子さんの友達?」
「友達……ではない」
「じゃあ、なんでここに?」
「んー……言えないかも」
「それが余計なこと?」
「そうかな?」
「あ! もしかして、昨日空から落ちたのって、どっちかだったりするの!? それで青子さんが助けて、それで……」
「言わなーい」
「なにそれー!」
うつ伏せになって浮かぶ青子に飛び乗ろうと、その腰に手の平に乗せる。なにかを察した青子はさらに上昇した。
「ちょっと、青子さんー!」
柊の手の届かないところまで飛ぶと、青子はベーっと舌を出した。そして、くるりと体を回転させて仰向けになる。
自由に飛ぶ青子に、柊は「ちょっとー!」と叫ぶ。
しかし、口元には笑みが浮かんでいた。
こうして青子のそばにいれることが、柊の幸せだ。
誰にも邪魔されたくない。
友達なんてものじゃなくて、知り合いなんて浅いものじゃなくて、名前もつけられないような、たった一人だけの存在。
柊だけの、たった一人の人なのだから――