空飛ぶ少女と堕ちた少年(4)
彼に気付いた佐南と青子が思わず立ち止まると、彼――滉征もまた二人に気付いたようだ。慌てて駆け寄ってくる。
滉征は黒いランドセルを担いでいたが、なぜか手には赤色のランドセルを持っていた。
「柳さん! ……え、佐南までなんで……まさか……」
青子と佐南を見比べて、滉征は大きな目をさらに大きく見開いた。
「ああ、でも……今はいいや。こっち」
滉征は佐南の手を軽く引っ張る。
人だかりの後ろを、まるで佐南と青子を隠すように歩いて通り過ぎる。
小学校から離れて周りに人も見かけなくなると、それを確かめるように滉征は辺りを見回した。そして、ふう、と息を吐く。
「佐南」
厳しい声で呼ばれて、佐南はギクッと身を強張らせた。
「柳さんと一緒にいたってことは、あのとき飛んでいたのはお前だったのか?」
「……うん」
「お前……いくら高いところまで飛べるからって、あんなに高く飛んだら危ないだろ! 柳さんがいなかったら死んでたかもしれないんだぞ!」
年長者らしく叱る滉征に、佐南は顔を伏せた。
大人に叱られても反発心を覚えるが、滉征に言われると素直に落ち込んでしまう。
「……冴木くん」
突然、青子が言った。
「ランドセル返して」
「え、……ああ……これ……」
空気を読まない発言にギョッとしつつ、滉征は手に持っていたものに気付く。
そして、ずっと持っていた赤いランドセルを青子に渡した。
「ん、ありがと」
「ううん……柳さん、佐南を助けてくれてありがとね」
「ん……」
青子はランドセルを背負う。肩ひもを掴むと背負いなおした。
その様子を見て、佐南も思い出した。
「あ……」
「ん、どうした?」
「ランドセル、公園に置いたまんまだ」
「そっか……。取りに行かないとな」
そのとき前から男子中学生が二人、自転車で走ってきた。
「もういないんじゃねーの」
「まだいるかもだろ。顔見にいこーぜ」
そんな会話をしながら、自転車はスピードを上げて、三人の横を通り過ぎた。
滉征は自転車を追うように振り返り、遠く離れたのを確認してため息を吐く。そして、言った。
「さっきの人だかり……あれ、柳さんと佐南を見つけようとしてる人たちだよ。空を飛んでいた子供が小学校の屋上に着地したのは分かったから、飛んでいた子供が誰なのか探しだそうとしてるんだ」
「え……?」
佐南は思わず振り返った。
小学校の屋上なら、ここからでも見えた。そこに誰かいるのが分かる。先生が確認に出たのだろうか。
「佐南は結構な高さを飛んでたから、見た人は多いと思う。だから、そこから落ちたのを見た人も多いだろうし、柳さんが佐南を助けたのを見た人もいるだろうし。……みんな、あれが誰なのか気になるんだと思う。動画とか撮ってた人もいたみたいだし……。もしかしたらSNSに上がってるかも」
「……もしかして、すごい騒ぎになってる?」
青子が他人事のように言った。
「なってるよ。……俺も小学校にいると思ってたから、どうしようかと思ってたんだ。あんな状況で出てきたら大変なことになりそうだったし」
「青子はそれが分かってて防風林に行ったのか?」
なんでわざわざ一度、小学校に着地したのかと思っていたが、それは小学校に人の目を引き付けてその間に逃げるためだったのだろうか。
そんなことまで考えているとは思えなくて、驚いて青子を見れば、青子は「別に」と首を振った。
「屋上が一番広いし着地しやすかっただけ。あと落としそうだったから、一回下ろしたくて」
そこまで考えてのことではなかったらしい。あと落とされそうになっていたらしい。ヤバかった……。
「うん。でもそれが正解だったと思う。そのおかげで飛んでいたのが柳さんと佐南だってバレなくて済んだんだし」
「バレたらヤバイ……かな」
まるで確認するように、佐南はつぶやいた。正確に言えば否定してほしかったのだが……。
「まあ、柳さんは大丈夫かもだけど、佐南はむちゃくちゃ怒られるぞ」
滉征はあっさりと肯定した。
もともと高いところの飛行は危険とされている中で、今回は飛行不能になって落ちてしまったのだ。むしろ怒られる選択肢しか残っていない。
姉ちゃんにバレたら殴られそうだ。
佐南に対してのみ暴力的な姉を思い出して、ぞっとする。
「あたしもバレたくないなぁ」
顔を上げて空を見ながら、ポツリと青子も言う。
「柳さんは人助けだし、褒められるんじゃないかな」
滉征の言い方は、むしろそうなるべきだ、とでも言っているかのようだった。
しかし、青子は眉間にしわを寄せて、本当に嫌そうだ。
「やっぱり嫌だ。……今日のことは誰にも言わないでね」
はっきりとした拒絶を示すと、青子は二人にも口止めする。
自分が落下したことをなかったことにしたい佐南は、もちろん誰にも言うつもりはなかった。
滉征は「なんで? すごかったのに!」と不思議そうに言うが、青子が「嫌だ」ともう一度はっきり言えば、渋々納得してみせた。
歩いていた道が突き当りになり、左右に道が分かれる。
佐南と滉征は左に曲がったが、青子が立ち止まった。
立ち止まった青子に、ここが青子との分かれ道だと気付いて、滉征と佐南は慌てて振り返る。
青子は軽く手を振って「バイバイ」と言った。そして、すぐに歩き出す。
その背中に、滉征も「また明日!」と挨拶した。佐南もとっさに「またな!」と叫ぶ。
青子は一度振り返ると、もう一度手を振った。そして、またあっさりと前を向いて歩きだす。
滉征と佐南も歩き出した。
「滉くんは青子がどれくらいまで飛べるか知ってる?」
「え……」
「あいつ、どれだけ高く飛べるか分かんないって言ってたんだ。俺より高く飛べるのかな?」
「さあ……俺は、今日初めて柳さんが飛んだところをみたし。でも……」
滉征は空を見た。
見えない背中を追いかけるように、目を細める。
「柳さんはどこまでも飛んでいきそうだ」
ポツリと聞こえた言葉に、佐南も思わず空を見た。
佐南が落ちてしまった空。
青子が自由に飛んでいた空。
「……やっぱり青子だったら空の向こうまで行けるのかな」
「……っ」
滉征はハッとして、佐南を見た。
佐南の母親が死んだことは滉征も知っている。
そのため『空の向こう』が指すものが何かを察したのだろう。
妙な気まずさを二人同時に感じた。
その空気を飛ばすように、佐南は明るく言う。
「なんか、青子って変わってるよね。さっきも、いきなり宇宙の話とかしたんだぜ」
「宇宙の話?」
「そう。マジで意味分かんねー」
ケラケラと笑う佐南に、滉征は何かを考えるように目を伏せる。
そして、顔を上げると、佐南を見た。
視線を感じて目を合わせれば、滉征は真剣な眼差しをしていた。
わざとらしい笑いも引っ込んでしまう。
「柳さんに、空の向こうの話ってした?」
滉征の言葉に、佐南は気まずそうに視線をそらした。
「行ったことあるかは聞いたけど……」
「じゃあ、たぶん、柳さんは空の向こうの話をしたんじゃないか?」
「……え?」
滉征は人差し指を立てた。
「この空の向こうは宇宙が広がってる……ってことなんじゃないか?」
「空の向こう……」
滉征が立てた指を追うように、佐南はまた空を見た。
この空の向こうにあるのは宇宙。考えれば分かることだ。
だからあのとき青子は、宇宙飛行士じゃないから無理なんて言ったのだろうか。
マジで分かりにくい……。
佐南はギュッと眉根を寄せた。空を見上げたまま、誰にも見られないように悔しそうな……泣きそうな表情を浮かべる。
「だったら……天国ってどこにあるんだろう」
どこか途方に暮れた言葉だった。
いつか見たドラマのセリフでは死んだ人間は空の向こうに行くと言っていた。
死んだ人は星になったという表現だってある。
死んだ人が空の上から見守っている、なんてことも言われる。
だったら、天国は空の向こうにあるんじゃないのか。それはつまり……
「天国って宇宙にあんのかな?」
自分で言って、おかしくなった。
だって、そんなわけない。
「なんてね! うわ、マジでクサいこと言っちゃった!」
俺、気持ち悪くね!? と佐南は大袈裟にゲラゲラと笑った。
でも、滉征は笑わない。
真剣な顔でなにかを考えているようで……佐南は笑えなくなった。
滉征も一緒に笑ってくれればいいのに、と怒りのようなものまで湧いて、佐南は黙り込む。滉征も黙っているため、二人は無言のまま歩き続けた。
しばらくして、佐南が飛んだ公園までたどり着く。
ランドセルは、佐南が投げ捨てたままの状態で置いてあった。それを持ち上げて、背負う。
「佐南」
滉征が呼ぶ。
佐南は顔を上げて、滉征を見た。
滉征はどこまでも真剣な顔で言った。
「天国ってさ、本当に宇宙にあるかもしれない」
「え?」
「宇宙ってさ、今もまだ全部分かってるわけじゃないんだ。なんか、まだ人間には分からないところとかあって……どんどん広がってるなんて話もあるらしい。だからさ、俺たちにはまだ分からないだけで、死んだ人は宇宙のどこかにいるのかもしれない。死んで、そんなにも遠くに行ってしまったのかもしれない。天国はさ、本当に宇宙にあるかもしれないんだよ」
滉征は頭が良くて、物知りだ。
それは十分に分かっている佐南だったが、それでも滉征のこの言葉を素直に受け止められない。
さすがに不審そうな目をする佐南に、滉征は笑った。
優しく……どこか困ったように。
「だからさ……柳さんが言ってたのは間違いでもないんじゃないか。宇宙のことを調べたら、いつか天国のことも分かるかもしれないよ」
どこか必死になって言う滉征に、佐南は呆気にとられる。
そんなわけない。そんなことない。
そう思うのに……。
「うん」
佐南は頷いた。頷いて、笑う。
なんだか肩から力が抜けるような気分だ。
「宇宙飛行士になったら分かるかもってことだよな」
青子も言っていた。
空の向こうに行けるのかどうか聞けば、宇宙飛行士じゃないと無理だ、と。
もう、それでいいんだと思った。
そう、思えた。