空飛ぶ少女と堕ちた少年(3)
佐南は落ちていた――
佐南は結局、飛べなかった。
飛べなくなってしまった。
だから佐南は落ちている、のだが……手を引っ張る子供のおかげで、その速度は酷くゆっくりとしたものだった。
子供は飛べているのだ。
つまり、また子供に運ばれているような状況である。
この状況が、なんだか酷くショックだった。
佐南は飛ぶのが好きだった。
落ちる恐怖を覚えてしまっても、その気持ちまでなくなったわけではないらしい。
絶望をたたえた目が、自分を運ぶ子供を見る。
「やっぱり飛べねえじゃん」
佐南の責めるような口調に、子供は首をかしげる。
「今、飛んでるじゃん」
「飛んでねえよ。運ばれてんの」
「……同じじゃない?」
「全然ちげーよ」
飛んでいるときのような体の軽さが一切ない。
重力に捕らわれ体はすごく重くて、子供と繋がっている手まで重力に引っ張られているようで、痛くて、重い。
こんなもの飛んでいるとは言わない。
「じゃあ、飛べばいいじゃん」
「だから飛べねーって言ってんの」
「どうして?」
「知らねえよ」
学校裏にある、海風を防ぐ防風林。
その中には遊歩道があり、小さな広場もある。そこはベンチ一つ置いてあるだけの、本当に小さな場所だ。
子供はそこへゆっくりと降りて行った。
今度は足の裏がちゃんと着地する。
地面に捕らわれた途端に、体に感じていた重さも消えた。
子供もまた、ふわりと音もなく佐南の前に着地した。
ずっと繋いでいた手を離して、子供が聞いた。
「大丈夫?」
「なにが?」
「んー……なんだろ。分かんない」
子供は小首をかしげる。言葉通り、自分でも分からないらしい。深く考えて聞いたわけではないのだろう。
子供は頬を掻いて「ま、いっか」とつぶやく。そして、「じゃあね」と歩き出した。
「ちょ、ちょっと待て!」
佐南は思わず呼び止める。
子供は振り返った。
「なに?」
「……っ、お前……名前は?」
「柳青子」
「青子……」
性別が分からなかった子供は、どうやら少女だったらしい。
青子、という名前だから女のはずだ。まさか佐南のように、そんな名前で男だったり……。
「女、か?」
「女だよ」
真っ向から聞けば、不機嫌になるわけでもなく淡々と真っ向から答えられた。
性別、女。確定。
それだけか? と聞くように、青子が小首をかしげた。
もう行ってもいいか? と聞かれてもいるようで、佐南は慌てて言った。
「俺も……帰るから」
「そっか」
頷くと、青子はそのまま遊歩道へと歩き出した。
佐南もその後ろを追う。
「青子って何年だ?」
「六年」
「げ……一つ上かよ。青子はなんで俺のこと助けたんだ?」
「落ちてくのが見えたから。どうしよう、助けないとって、冴木くんも言ってたし」
「冴木くんって……滉くんか?」
「滉くん?」
「冴木滉征くん。近所の兄ちゃんだ」
小さい頃はよく一緒に遊んでいた……というより世話をしてもらっていた。優しくて頼りになって、物知りで、頭がいい。一つ年上の近所のお兄さんだ。
「その人かは分かんない。冴木くんの下の名前知らないしなぁ」
「ふうん……。なあ、青子はいつもあんな高さまで飛べるのか?」
「飛べるよ」
「マジかよ。もしかして俺が落ちた高さまでいけるのか?」
「いける」
「それより高くもいけるか?」
「いける」
「……マジかよ」
足が速い。ゲームが強い。力が強い。頭がいい。
小学生男子が同年代の同性に憧れる条件には色々とあるが、佐南がもっとも憧れ、かっこいいと思うのは――誰より速く、誰より高く、空を飛ぶこと。
まさか本当に青子は佐南より飛べるのか。
今、助けてもらったわけだから、青子が言っていることは嘘ではないだろうが、とても信じられない。――信じたくなかった。
「なあ、それほんとに? 俺も結構な高さまで飛んでただろ。あの高さまでほんとに飛べるのか?」
「ほんとに」
「マジで!? どこまで飛んだことあるんだよ!?」
青子はチラッと空を見た。
「……さあ。分かんないや」
「分かんないって…………。なあ、だったらさ……だったら……
空の向こう側にも行ったことあるか?」
「え?」
青子がキョトンとした顔で振り向いた。
佐南もキョトンとして、青子を見返す。
自分がなにを言ったのか分からなかった。
空の向こう側、ってなんでそんなこと……。
でも、佐南はそこに行きたくて今日飛んだのだ。
そして、どこまでも飛んでいけると思ったのだと思い出す。
なんだか急に恥ずかしくなった。
本当に自分はなにを言っているんだ!
「わりい、なんでもなぃ」
「宇宙飛行士じゃないから無理」
「は?」
誤魔化そうとした佐南の言葉に被った青子の言葉。
言われた意味が一瞬分からない。
「なんだよ。いきなり宇宙飛行士って……」
「宇宙に行けるのは宇宙飛行士だけだから」
「だからなんでいきなり宇宙の話なんだ」
「そういう話でしょ」
「どういう話だよ!」
誰も宇宙の話なんてしていない。
怒る佐南に、青子は小首をかしげる。心底、不思議そうだった。そして、言う。
「空の向こうに行きたいんじゃないの?」
「……っ。別に俺は……」
「あ……」
話ながら歩いていた二人は、高台にある防風林を抜けて、小学校のほうへと坂を下っていた。小学校の校門が見えてくると、その前に人だかりが出来ているのが分かる。十人はいるだろうか。子供やその母親、中高生もいた。
そして、その人だかりの一番後ろに見知った顔を見つける。
「滉くん!」
「冴木くん」
そこにいたのは佐南にとって近所のお兄ちゃんでもある、冴木滉征だった。