空飛ぶ少女と堕ちた少年(1)
松田佐南。性別、男。
佐南なんて名前だけど、正真正銘の男。ちなみに自分の名前は好きじゃない。
現在、小学五年生。
友達は多め。足は速い。勉強は嫌い。クラスのリーダー格からも一目置かれるような存在。実はちょっとだけモテる。
そんな彼は、五年生に進級してすぐに母親を亡くしていた。
死因は病死。病名は分からない。どんな病気だったのか詳しくは知らない。たぶん大人になって、いろいろと分かるようになったら教えてもらえるのかもしれない。
亡くなる前から入退院を繰り返した母の死を、佐南はどこか遠いもののように感じていた。通夜や葬式のときこともあまり覚えていない。
でも、自分が泣いたことは覚えている。父親と中学生の姉も。三人でボロボロ泣いていたことだけはハッキリと覚えている。
だからお母さんが死んだことは分かっている……けど。
ときどき、まだどこかで入院しているだけな気もしている。
※ ※ ※
春に母親がいなくなって、梅雨も過ぎた夏の始め。
家には姉と佐南だけだった。
父親は仕事。近所に住む祖母はいつもご飯を作りにきてくれるが、そのときはまだ来ていなかった。
佐南は姉と二人、居間でテレビを見ていた。
佐南と同い年の子役と流行りのイケメン俳優の二人がメインのドラマだ。
姉はそのイケメン俳優のファンで、キャーキャー言いながら見ていた。
初めはコメディパートが多かったが、少しずつシリアスな雰囲気に変わっていく。
そして、子役が演じるどこか謎めいた少女の家族事情が明らかになってくると、姉も騒がなくなった。
イケメン俳優が演じる若者を振り回していたその少女は、母親を亡くしていた。しかし、それを受け入れられず、母親を捜し続けていたのだ。
ありがちな設定だ。
今も昔も、よくあるものだ。
それなのに、姉も、佐南も、妙に引っかかってしまった。
なんとも言えない空気になる中で、イケメン俳優演じる若者が、親を亡くした少女を励ますように言う。
『君のお母さんは、お空の向こうに行っちゃったんだよ。そこでずっと君を見守っているんだ』
そのセリフを聞いた途端、姉はテレビを消した。
姉のほうを見ると、眉間にしわを寄せてテレビを睨んでいた。
「バッカじゃないの。空の向こうにいるわけないのに」
声には嫌悪感があふれていた。
そして、なぜか佐南をキッと睨む。
「あんたも……馬鹿なこと考えるんじゃないわよ。空の向こうなんて誰もいないんだから」
「いきなりなんだよ。俺だってそれくらい知ってるし」
「知らないかと思った」
ふん、と馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、姉は二階の自室に戻っていった。
残された佐南は、またテレビをつける気にはなれなくて、そのまま寝転がる。
わざわざ言われなくても、そんなことくらい分かっている。
死んだ人間が空の向こうにいるわけがない。
いるわけがないのだ。
それなのに、イケメン俳優のセリフは佐南の心に残ったままだった。
※ ※ ※
それから一週間くらい経っただろうか。
その日、なにが佐南を突き動かしたのか分からない。
ただ、佐南は『空の向こう側』に行きたくなった。
どこまでも飛んでいきたくなった。
学校帰りの夕暮れ。
まだ暑い日差しが残る公園を見たときに、そんな衝動に襲われた佐南は誰もいない公園の中に入る。
ランドセルを放り出すと、すべり台の上へとのぼった。
夕暮れに染まる空。
とろけるようなオレンジ色に、佐南は目を奪われる。
そして、引き寄せられるように、すべり台を滑らずに駆け下りた。
転がり落ちそうになる足を必死に動かして、勢いを作る。
地面が近付き、また一歩強く踏み出せば――
足は宙を蹴った。
空に引っ張られるような感覚。
風が佐南の身体を迎え入れる。
体がどこまでも解放されるようで、心がどこまでも広がっていくような。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
たまらなくなって、佐南は叫んでいた。
風と一緒に、上へ上へと佐南は飛んでいく。
ただ上へ上へとどこまでも飛んでいく。
迫る空に手を伸ばす。
佐南は運動神経がいいほうだ。足だって速い。サッカーもバスケも野球も、卓球だって結構うまいのだ。
でも、なにより得意なのは空を飛ぶことだった。誰より速く高く飛ぶことが出来た。
そして、そのときの佐南は今まで以上に高く飛んでいた。
個人差があるとはいえ、子供の飛行高度はだいたい十メートル前後。二階建て住宅の屋根より少し高い程度だろうか。
佐南はいつもそれより高く飛んでいたが、今は二階建て住宅の約二倍――二十メートルほどの高さまで飛んでいた。
そこまで高く飛んでいることも佐南は気付かない。
ただ空だけを見つめていた。
視線も、思考も、心も。すべてが空に惹きつけられていた。
このままどこまでも飛んでいける――
そう思ったとき。
「うわっ」
横殴りの突風が、佐南の身体をさらった。
バランスを崩すと、視界の端に地上が映る。
今までにない高さにいることを佐南は理解して――一瞬、怯えた。
態勢を立て直そうとするが、怯えた心のせいか飛び方が分からなくなる。
どうして子供は空を飛ぶのか。
どうやって空を飛んでいるのか。
それはまだ解明されていない謎。
実際に空を飛べる子供も、自分がどうやって空を飛んでいるのかなんて分かっていない。
感覚だけでしか理解できない。言葉で説明できるものではなかった。
だからこそ、その感覚を見失ったとき飛び方すら分からなくなる。
厄介なことに、佐南のそれは地上から二十メートルの高さで起こった。
――落ちる――
そう思ってしまえば、重力は容赦なく佐南の体を捕えた。
地上に引っ張られる。
落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる――
飛ばなければ――
飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ!!!
そう思うのに、なんで!
――飛べない……。
「うわあああああああああああああっ!」
佐南の体は真っ逆さまに落ちていった。