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ハッチの憂鬱  作者: 佐矢ゆう
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洋子の憂鬱

洋子には理想の母親像があった。息子の裕太に向ける眼差しは洋子の理想の母親像を真似ているものでしかなく、理想とする母親像を演じているのである。自分の眼差しは完璧だろうかとふと心配になることが度々あり、洋子は微笑み方を鏡の前で練習するのが日課にしていた。演じていることを息子にも旦那にも悟られてはいけない。

洋子の中の闇はブラックホールより果てしなく深いのだ。

愛情あふれる眼差しをいつも息子に向ける、そんな母親でありたかった。

そしてそんな眼差しをしていた女性を思い出しては、彼女になろうと必死だった。


洋子は母親に虐待されながら育った。自分の体には母と同じ血が流れているのかと思うといつも辛い気持ちなる。ある時授業で血液の写真を見る機会があった。先生の話を聞きならが見ていると赤血球が母の顔に見えてきて、この母の顔をした赤血球が自分の体を形成していると想像してしまい、気を失ったことがある。

中学生の時、虐待を受けて育った人は親になった時に自分が受けたのと同じ行為に及んでしまう確率が高いのだということを知ってしまった。

洋子は自分の中に隠れている残虐性に怯えた。この自分が母のようになるのか?と。

視線を落とし、くるぶしまであるスカートをめくり上げ、太ももを見た。

いくつものアザがある。黄色くなっているアザは治りかけで、青色は新しいアザだ。

スカートを下ろし、Tシャツをめくり腹部を見ると、ここもアザだらけである。

右脇腹に4本の傷が残っている。これはフォークで傷つけられた痕だ。食事中に洋子がくしゃみをしたことに腹を立てた母親が洋子の座っていた椅子を蹴った。洋子は椅子とともに床に崩れ落ちた。

小さなうめき声を上げ、視線を母に向けると、テーブルにあったフォークを手にした母の姿があった。

洋子はギュッと目を閉じた。Tシャツがめくられるのと同時に両手で顔を覆った。

『悲鳴を上げたら殺してやる』

母の脅迫に頷いた瞬間、右脇腹に強烈な痛みが入った。

一瞬の出来事であったが、右脇腹は無言の悲鳴を上げていた。

顔を覆っていた左手首を掴まれ、洋子は部屋へ連れていかれた。

部屋に放り込まれると、母はドアを閉め外側から鍵をかけた。

洋子は恐る恐る脇腹に目をやると、Tシャツにゾッとするぞとの大量の血が染み込んでいるのが見え、『ひっ』と小さな悲鳴を上げ、声を上げずに泣いたが、思わず大きな声で叫んでいた。

『どうして?どうしてなの?ねえ、ママァ』

キッチンで皿の割れる音が響いた。


学校帰り、養護学校に通う男の子とその母親に遭遇した。

男の子は『ブーブブー。ブーブブー。』と親指をしゃぶりながらうたっていた。

母親も一緒に『ブーブブー』と歌う。そして、とても優しい眼差しを男の子に向けていた。

『上手に歌えたね』と優しく言った。男の子は母親の言葉が聞こえてないのか、もしくは理解できてないのか、視線は明後日の方向に向けたままだった。

『ブーブブー』と歌いながらジャンプした。とても奇妙な飛び方で、洋子は目を細めたのだが、男の子の母親はクスクスと、楽しそうに笑ったのだ。その笑顔に洋子は釘付けとなった。私とあの男の子が入れ替わればいいのに、本気でそう思った。

洋子は嫉妬で狂いそうな感情が湧き上がるのを感じた。自分の中の嫉妬という感情は底なしの火山のようだった。嫉妬の感情はどんどん熱くなり、胸の中が溶けてしまうのではないかという恐怖を感じると、嫉妬心は少しおさまった。

『なんであんなのが愛されるの?』

洋子は涙を零しながら小さく呟いた。

『なんでママは私を嫌うの?私の頭はマトモなのに』

泣きながら呟くと、また胸が熱くなった。一度引っ込んだ嫉妬心がさっきよりさらに熱くなっていた。

洋子は親子を睨みつけた。

『死ねばいいのに』

自分に向けて言ったのか、男の子に言ったのか、男の子の母親に言ったのか、自分の母親に向けていったのか分からなかった。


次の週の下校時にまたあの親子に遭遇した。

『むかし、むかーし、おじーさんとおばーさんがいましたー。どんぶらこっこぉー。どんぶらこっこぉー』

と男の子が昔話らしきフレーズをおかしなイントネーションで繰り返していた。

『素敵なお話ねー』

母親は相変わらず優しい言葉を男のにかけていた。

洋子は小さな声で『あんたのバカ息子はあんたの言葉なんて理解してないし』と呟いた。

洋子は二人の後をつけることにした。この親子がどんな暮らしをしているのか見たくなったのだ。

養護学校に通う親子は洋子の住むアパートの300メートル先にある高級マンションに住んでいることがわかった。

洋子の胸の中の嫉妬心がまた疼きだした。胸の中はマグマで、このマグマは噴火する日に自分は取り返しのつかないことをしでかすのかもしれないという予感を感じた。

そして、自分が犯すかもしれない犯罪で自分がどうなってしまうのか、未来のことを想像すると、どうしようもない不安に襲われた。

私はマトモな大人になりたいのに、なれないかもしれないと。マトモな大人になれない場合、その責任は虐待をする母の責任であると確信した。確信すると自分がこれから何かを起こしても許されるのではないだろうかと思えてきた。

そうなると怖いものなどない気がしてきた。

母親を殺すシーンを想像した。笑っている自分に気がつくと、自分が怖くなった。

『私はあの女を殺すかもしれない』

自分の手を見ると、その手は震えていた。


逃げるようにアパートに帰った。

母は寝ていた。派手な下着姿で、母のそばには空のワインボトルが転がっている。

母は愛人だった。母は何も言わないけれど、同じアパートに住む親切なサユリという女が私に教えてくれたのだ。

サユリは母と同じ夜のお店で働いてる人で、派手な格好をしているが、太り気味だし、唇は薄く、一重でつり上がっている目のせいか少しも魅力的ではない。

それに比べ母は美しかった。母への嫉妬心からか、サユリは母の秘密を娘の洋子に吹き込んでいた。

おかげで洋子は母の汚い生き方を全て知っていた。自分を産んだのは金のためだということも知っていた。母と自分の間にあるものは金で、それ以外何もないのだ。



高校を出ると逃げるように家を飛び出し、働きながら勉強した。決して彼氏は作らなかった。美しい洋子に言いよる男は多かったが、洋子はその一切を受け入れることはなかった。


働きながら勉強し続けた結果、洋子は政府が運営する秘密組織へ就職した。

家族と縁を切り、男の影もなく、友達もいない洋子の環境は政府にとって最も好都合であったのが採用された要因であるが、自分の能力を認められたのだと洋子は思い違いをした。

洋子が開発に関わったのはNP36である。

NP36が世の中に放たれたことで、世界は一変することになった。

NP36の開発の目的はテロリストを見つけるためであった。地球上では大小さまざまな国同士のいざこざは無くなることはなく、戦争が行われているかと思えば、あらゆる国でテロが起き、中立国でさえもテロの標的となったのだ。

小さな子供たちの傷ついた映像がテレビで流れる。まだほんの数年しか生きていない子どもの亡骸を抱きしめ親が号泣し、嗚咽している。

テロを行う人間はその映像に罪悪感を感じることなく、次はどこを狙おうかと計画を立てるのだ。

普通の人々に紛れたテロリストを見つけ出すのは至難の技であった。

テロリストは一箇所にとどまることはせず、常に移動しているため、足取りをつかむのが大変なのだ。

そこで政府はNP36にテロリストを監視させることにしたのだ。この時作られたNP36はフクロウの姿で作成された。

テロリストのアジト付近の木の枝にいるフクロウは長時間そこにいても怪しまれにくいだろうとふんだのだ。

体の大きいフクロウにはさまざまな監視機能を詰め込むことが出来た。




数年後には洋子の母親がNP36に殺された。

洋子は腹の底から笑った。こんなに笑ったのは初めてだった。足かせとなっていた母がいなくなったのだ。喜ばずにはいられない。母を捨てて生きていても、いつもどこからか見張られているという感覚を消し去ることは出来ずにいた。

洋子は嬉々として結婚を望む気持ちになり、母親の死後口説いてきた男と結婚し、子供をもうけた。

言うことを聞かない幼い長男に苛立ち手をあげたくなる時もあるがNP36に監視されているという意識が洋子の暴走を食い止めた。

我が子に危害を加えたいという衝動を起こすのはやはり母から与えられた強烈な体験と、この体内を巡る血のせいなのかもしれない。

感受性豊かな長男は洋子の内に潜む悪魔に気づいていた。

次男の裕太が生まれ、洋子の子育てのストレスはピークに達していた。

洋子は長男に手を上げてしまったのだ。長男の目は自分を非難しているように思えたのだ。

長男の頰をグーで殴った時、体の中に爽快感が生まれた。もっと殴りたいと長男に視線を向けた時、洋子のBBを止めるべく反応していた。だが、BBが動くより先に長男が壁に立てかけてあったパッドを手に取り母に向かって振りかざしたのだ。長男のNP36とBBが長男に向かった。

長男はバッドを振り回して2機のNP36を壊そうとするが当たらない。

長男はNP36の破壊を諦めて、洋子に狙いを変えバッド振り上げ洋子に振り下ろそうとした時、2機のNP36が長男に毒針をさした。2機の毒針を注入された長男は数分ほど苦しみ生き絶えた。



洋子は自分を虐待した憎き母親のようになるのが何よりも怖かったのに。



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