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ハッチの憂鬱  作者: 佐矢ゆう
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ハッチ


コツコツ。

コツコツ。

コツコツ。


蜂型の小さなロボットNP36が窓に体当たりを繰り返し、コツコツと耳障りな音を立てている。

窓を叩く不快な音で目を覚ました9歳の裕太は『んーっ』と唸り声をあげ、顔を歪めた。

コツコツ。

裕太は薄眼を開けて窓に視線を向けた。閉められたカーテンの向こう側で何が起こっているのか、目を閉じていても分かる。

いつもと同じ朝の光景であるが、学校が休みの日くらいはもう少し融通をきかせてほしいものだと歪めた顔を枕に埋めた。

だが容赦無く窓を叩く音は続く。そのうちにコツコツという音がゴツンゴツンと一層不快な音に変わるだろうことを裕太はよく知っている。そのまま放っておくと窓に体当たりを続けている小さな蜂型ロボットNP36は窓を突き破り部屋に侵入するやいなや、蜂さながらにお尻に隠し持っている鋭い針をキラリと光らせながら躊躇うことなく裕太を刺すだろう。そして、起きることを強要するのだ。起こすために針で人を刺すなど、狂気じみていると誰もが思っているが、NP36の行動を止めることは出来ない。

窓に体当たりをつづけているNP36とは、超小型監視飛行物体であり、いまや全世界に生存している全ての人間ひとりに対し一機が毎日18時間監視し、生活を管理し、世界の秩序を守っている。6時間は別の機体が監視をしているのだ。

完璧にプログラムされたNP36は、休みの日の寝坊さえ許さず、学生全てに対しては朝7時の起床を強要する。学生以外は事前に登録した時間に起こされるのだ。全ての人間はこの完全無欠であるNP36に管理されており、誰一人として逃れることはできないことをたった9歳の裕太でさえもよく知っている。理解しているわけではなく、これが自分の生きる世界のルールなのだと知っているだけだ。

ああ、なんて世の中だろうと誰もが思っているが、裕太は管理される事に対しての不満をさほど感じてなどいなかった。生まれたその日からNP36に監視されているせいかもしれない。

ただやっぱり休日の朝に限っては、NP36を忌々しく思う。

抵抗することを諦めた裕太は起き上がり、『分かったよ、まったくもう』と呟きながらカーテンを開けると

羽根音をブーンと鳴らしホバリングしているNP36の黒い瞳と目が合った。深緋色に近い濃い赤色のNP36が首を少し傾けるのが愛らしくて、ふっと笑みが零れる。

NP36は蜂の姿そのままに作られているが瞳だけは本物より少し大きめに作られている。瞳が大きい事で親しみやすさを強調しているつもりなのか。だが見るものによってこの大きな黒い瞳は可愛らしくも憎らしくもあるのだ。要は見るものによって見え方が違うということなのだが裕太には可愛く見えているようだ。

NP36の見た目だけの感想を言えば、裕太と同じように『かわいい』と答える人は多いだろう。だが、冷酷なNP36を知れば知るほど、この愛らしい大きな瞳がいつしか残酷な瞳にしか見えなくなるのだ。

休日の朝を邪魔するNP36をわざとらしく睨みつけてみたがNP36はお構い無しで、『起きろ』と言わんばかり羽根音を立てる。

休日の寝坊もさせてくれないNP36に対して鬱陶しいと思う反面、それ以上に愛着をもっている。人を監視するとともに、人を守ってくれるのだから頼りになる。そう人間を監視しているNP36は全てにおいて悪というわけでないのだ。どこに行く時も寄り添い危険を察知すれば羽根を懸命に羽ばたかせ知らせてくれる小さな蜂。危険を知らせてくれた時はやはり心から愛おしく思うのだった。

『眠いのに、もうっ。ハッチのばか!』

愚痴をこぼしたが、表情はどこか穏やかである。

裕太のNP36の機体番号はagh88088だ。8という数字がたくさん入っているもんだから、このNP36を【ハッチ】と名付けた。

見た目も蜂そのものだし、ちょうどいい名前だ。

ハッチと名前をつけた事を母に報告した時、母はケラケラと笑い、母が幼い頃読んだというみつばちハッチという物語を聞かせくれた。裕太はその話がとても気に入り何度もせがんでは聞いていた。母の話はもちろん面白かったのだが、母の記憶には曖昧な箇所が多く正確な内容ではないと母は申し訳なさそうに言った。図書館へ本を探しに行ったが見つけられなかった。

懸命に羽を羽ばたかせ自分の後ろをピッタリとくっついて飛んでいるハッチのひたむきさがみつばちハッチと重なり、母の話を聞きながら裕太はふっと笑顔をこぼしたものだ。そして母が生まれるもっと前にはアニメも作られていたらしいが、見ることは出来なかった。ネットで検索するとヒットするもののクリックするとエラーになるのだ。

頭の片隅で、みつばちハッチと、NP36のハッチを重ねていた。

『おはようハッチ。ちゃんと起きたよ』と言いながら窓を開けると、羽根音があちらこちらから聞こえる。窓から顔を出すと、NP36が無数に飛んでいて、各家の窓をコツコツと叩いている。

この街は高層タワーが無数に立っており、全ての部屋は窓がある作りになっている。NP36が監視しやすくなるように設計された建物なのだ。父親はこの建物を牢獄だと言う。監視するために作ったのだから牢獄そのものだと。

NP36の機体の色は様々で大きさや形も違っている。人間が自分を監視するNP36を見分けられるようにしているという話を裕太は誰かしらに聞いたことがあった。

空を見上げると、監視対象を受け持たない予備機体のNP36が左へ右へとせわしなく飛んでいる。故障し監視任務を続行出来なくなった場合や、新しい生命が誕生すると、この予備機体がすぐさま駆けつけ、監視を始める。

一機のNP36が人間を監視しているのは24時間ではない。NP36は監視対象が眠ると、数時間ほど本部に戻るので、その時間になると予備のNP36が人間を監視する部隊と入れ替わる。といっても予備機体だけで全ての人間を監視するには数が圧倒的に足りない。そのため夜22時から朝の4時まで人間は外出禁止となる。外に出たものを予備機体は容赦なく襲うのだ。

NP36の腹には3本の針が格納されている。ただの針と毒針が2種類だ。毒針は1週間苦しみ悶え死に至らしめるのと、痛みはなく安楽死に至らしめる2種だ。

外出禁止時間に初めて外に出たものはただの針で刺される。ただの針といってもそれは太く小刻みな返しがいくつもあるために針を抜く際に異常な痛みに襲われる上に、NP36は人間が一番痛みを感じる箇所を心得ており、容赦なくそこへ針を突き刺すのだ。

この痛みを経験したものは、もう二度とルールを破ろうなどと思わないのだ。

だが、そんな経験をしたにも関わらず外出禁止時間に外へ出るものがいるのだ。二度目の外出になると、NP36は毒針を突き刺すのだ。

この話を聞いた裕太はハッチに怯える日々を数週間も過ごしたことがある。だがルールを守り暮らす裕太にハッチが針を向けることはなく、俯いて歩く裕太が自転車と危うく衝突するのを防いでくれたり、学校へ向かう際忘れ物がある事を教えてくれたりと、裕太にとって有難い行動しが取らないので、数週間後にはハッチへの恐怖心はすっかり消えて無くなっていた。

ひとつ下の階に住む親友の栄太の部屋は裕太の部屋の真下で、緑色のNP36がまだ栄太の部屋の窓をゴツンゴツンと叩いている。それもかなり激しく。

裕太のハッチは赤いが、栄太のNP36は緑色で、機体番号に91という数字が入っていたので、キウイと名付けた。

栄太の部屋の窓ガラスをキウイが突き破ろうと準備し始めたもんだから、慌てて部屋を飛び出し、朝食の準備をしている母の横をすり抜けた。母の後頭部でホバリングしている母のNP36は黒色のスズメバチの形をしており、裕太が母のNP36にBBと名付けた。BLACK BEEの略だ。BBがハッチを追いかける。ハッチは裕太のそばをピッタリと寄り添い従う。

『栄太の窓ガラスが割られそうなんだ!起こしに行って来る』

『あら、それは大変!早く行ってあげて』

母は裕太の背中に声をかけた。BBは玄関まで追いかけたがすぐ諦めて母の元へ戻った。

玄関を飛び出し、エレベーターの前を通り過ぎ普段は誰も使わない非常階段を駆け下りた。

15秒で栄太のいる階にたどり着くと、鍵のかかっていない玄関をあける。

栄太の両親は市場で働いていて、土日も仕事なのでこの時間はいない。

栄太の部屋に入り、窓に向かった。カーテンを開けるとキウイが助走をつけるために窓から離れ始めていた。

『やっべー』

立て付けが悪く開けにくい窓をガタガタと動かす。

『ああっ!もう!』

イラつきながらも窓をなんとか開けたと同時にキウイが部屋に勢いよく飛び込んできた。キウイをかろうじてかわしたが裕太の首筋をかすめた。衝突を避ける事に成功はしたが、ドンッと尻餅をついた。

『痛っ』

キウイは壁に激突するスレスレでぐいっと曲がり部屋の中をぐるぐると飛び回った。

ハッチがキウイの後を追いかけ部屋の中を飛び回る。二匹が一緒にぐるぐると部屋の中を飛んでいる光景は、まるで仲間と遊んでいるようだ。

監視飛行物体でなければ微笑ましく思うところだ。だがこいつらは、機械だ。しかも監視する事を目的としている。当然この二機は遊んでるわけではない。裕太は自分にそう言い聞かせる。きっと何か情報共有のようなことをしているのだろうと。

裕太はハッチに情を持ちつつも、ハッチに寄り添ってはダメなのだとどこかで自分の感情にブレーキをかけようと心がけている。

機械に親近感を持ってはダメだという父親の言葉に従いつつも、ついつい気を許してしまい裕太はハッチを友達のように思ってしまうのだ。

たとえハッチが裕太を痛い目に、いや殺すことだって躊躇わないヤツだと知っていてもだ。

裕太はハッチに友情に似た感情を抱いてしまう自分をうまくコントロール出来ないでいた。

ふあ〜あと、あくびをしながら栄太がやっと目覚めた。

栄太のボサボサの髪は寝相の悪さを連想させ、裕太はふっと笑った。栄太は自分が笑われているとは思いもせず腫れぼったくなっている目を擦っている。かなり腫れた瞼に、栄太が昨日の夜1人で泣いたのだろうか、栄太に何かあったのかと心配になったが裕太は口には出さなかった。

『やあ、裕太。朝から何?パジャマのままだし、頭ボサボサだぞ』

『それはこっちのセリフだろー。やんなっちゃうなぁ。キウイが窓を突き破るのを阻止したんだからさぁー。お礼くらい言ってよ』

『え、まじで?今何時?』

『7時10分だよ。キウイが起こすのは7時だろー』

『そっか、そうだよね』そう言って栄太は力なく笑った。

どことなく元気のない栄太が心配になる。

『大丈夫?どこか痛い?』

栄太は9歳とは思えない大人びた顔で笑顔で『平気だよ』と言った。

栄太の見たことのない表情を見た裕太はショックをうけた。自分より早く大人になろうとしている栄太に焦りさえ感じた。そして、何も話してくれないことに苛立ちも感じた。

『帰るね。パジャマのままだし。お腹も減ったしさあ。』

『うん。窓を開けてくれてありがとう』

栄太はそう言うと泣きそうな笑顔を見せた。裕太はたまらず口を開いた。

『なあ、栄太。何かあった?』

『え?』

目を大きく開け裕太を見つめる栄太の瞳は揺れている。生まれた時から一緒に過ごしてきた親友が何に動揺しているのか裕太にはわからなかった。そう、生まれた時から同じ時間を過ごしてきた相手だというのに。視線を手元に落とした栄太は少しの間口をつぐんだままだったが、裕太は根気よく待つことにした。1分ほど二人は無言だったが、栄太は視線を落としたまま話し始めた。

『裕太に相談したいんだけど、でもうまく話せそうにないから、僕の頭の中が 整理できたら言うね。だから』

栄太の瞳から涙がこぼれ落ちた。

『だから、僕の頭がおかしくなったなんて思わないで』

ズズッと鼻をすする栄太の右の上腕部をそっと触った。

『友達の話を信じないわけなんかないよ』

栄太は顔を上げ、笑って見せた。いつもの栄太がそこにいた。裕太はホッとしたと同時に言い表せない不安を感じた。栄太がいなくなるようなそんな気がしたのだ。


裕太は家に戻り、両親とともに朝食を取り始めた。

父は不機嫌だ。父の仏頂面を見るたびに裕太は居心地の悪さを感じる。毎朝のこの光景にいつまでたっても慣れる事はなく、早く朝食を終えてこの場から立ち去ることに集中するのだ。

父はNP36を忌み嫌っている。父の周りをグルグル回ったりホバリングするNP36を睨んでだ。父のNP36は黄色でセグロアシナガバチの形に似ている。名前はつけていない。つければ父は激怒するだろう。

父は右足をカタカタと揺すっている。身長185センチで体重は100キロを超えている大柄の男の貧乏ゆすりほど無様に見えるものはないが、裕太にとっては脅威そのものでしかなかった。父の不機嫌のとばっちりにあうまえに、早く非難しなくちゃとそわそわしている。

『殺人鬼め』と父親が呟いた数秒後、NP36はお尻からキラリと光る第1の針を出し、父の右肩にその針を突き刺した。うわぁと雷鳴のような声を上げ勢いよく立ち上がったものだから、大きな音を立てて椅子が後ろに倒れた。

『ちくしょー』と顔を歪め、『この殺人鬼が!』ともう一度低い声で唸った。NP36が父の声に反応し、一度引っ込めたはずの針を再度光らせ父に向かおうとした瞬間『悪かった!もう言わないから』とNP36に向かって叫んだ。

NP36は、通常より大きな羽音を立てた。わざと嫌な羽音をたてながら、父の周りをグルグルと飛び回った。あきらかに威嚇している。

父の言う『殺人鬼』はNP36の事だ。実際、何人もの人がNP36に殺されているのだから嘘ではない。

僕の7歳年上の兄は、僕が3歳の時にNP36に殺されたらしい。なんで殺される事になったのか裕太は知らない。誰も教えてくれないのだ。

父は兄を心から愛していたが故に、NP36を心底憎んでいたのだ。

両親は兄の死を目の前で見たのだろうか、と裕太は考えてしまうことがある。

人が殺される瞬間を見るなんて、どんな気持ちなのだろう。まだ幼い裕太には想像もできない。

息子が殺されるとなると相当の衝撃を受けるだろう。だがそれがどれほどの衝撃であるかを裕太には想像もできない。

手が止まり、口を開けたまま父親の顔を見ていると『なに見てる。バカにしてるのか?』と父親がいつもより低い声で言った。

『ううん、そんなんじゃなくて』と顔を左右に振った。

『じゃあ、何だ?』

裕太は俯き、少しだけ顔を上げた。上目遣いで父親を見る。

『なんで僕達はNP36に監視されてるんだろうって思って』

父は小さく息を吐いて、そのまま口をつぐんだ。

『ごちそうさま』

裕太は席を立ち部屋に避難した。


母は父とは対照的に穏やかにNP36に接するし、NP36の存在を喜んでいるように見える。気性の荒い夫の拳に怯えなくてもいいからかもしれない。

母が子供だった頃はNP36は存在しなかった。母は両親の虐待に怯える日々を送っていたが、NP36の出現とともに母の生活は一変したのだから、母がNP36に抱く気持ちはほかの人とは少し違っていらからかもしれない。母の両親はNP36に殺されたらしい。自分の子供を虐待していたことを知る近所の人たちは『悪事の報いを受けたんだろうよ』と噂した。

NP36の存在は決して悪ではないと、母は息子に言い聞かせた。

『NP36がいてくれる限り、人は平等なのよ。弱者が損するこの世の中を一変させたのはNP36なのよ。ほら、世界に目を向けてごらんなさい。戦争なんて昔の話。国境はなくなり、この地球に存在する国はひとつだけ。日本人に、アメリカ人に、フランス人なんてもう呼ばないわ。そんなくくりはなくなったんだもの。この地球がひとつの国になったあの日から、私たちは皮膚の色も髪や目の色なんて関係なく地球人と呼ぶのよ。差別もなければ犯罪もないのよ。差別用語を口にするとNP36が警告する。ほら、家に鍵をかけなくったって、盗みに侵入してくる悪い人もいないでしょ。今でも家に鍵をかけてる人なんてただの変わり者よね。悪いことをしないようにNP36が見張っててくれるんだから。善人が心地よく生きれる世界だし、悪人は善人になり、善人になれない悪人は死ぬだけ。暴力もいじめもないし、仕事を誰かに押し付けて楽する人もいない。権力者もいなくなったし、全てが平等なのよ』と、子守唄の代わりに毎日話してくれた。優しい眼差しの母。

母の言う話は裕太には理解できたが、『違う』ともわかっていた。こんな生き方は人間らしくないのだと。けれどまだ幼く言葉を知らないせいで、母に反論することができないでいたのだ。

裕太は本を読むのが大好きだ。本の中の世界では、誰もが狡猾であり、生き抜くための言動は刺激的で魅力的なのだ。

母は、『小説は作家の想像の産物であって、実際の話じゃないのよ』そう言いながら目をそらす母の心の内を読み取れず、戸惑うこともあった。

幸せだと言いつつ、つまらない人生だと思っているのではないかとこっそりと母を分析していた。


裕太は宿題の漢字の書き取りノートを持って部屋を出た。

洗い物をしている母のそばに行き、新聞を読んでいる父にも聞こえるように言った。

『栄太の家で宿題して来てもいい』

手を止め母は裕太に視線を向けた。

『ええ、勿論よ。いってらっしゃい。でもハルさんたちに迷惑かけないでよ』

そう言って父に視線を送った。ハルさんとは栄太の母親で、旦那とお昼頃に仕事から戻ってくるはずだ。

父は二人に視線を向けたが、何も言わず新聞に視線を戻した。

『気にしないで。行っておいで』

母は裕太の背を優しく押した。

『行ってくるね』

『行ってらっしゃい』

栄太の家に入ると、栄太がリビングのソファで足を抱え丸くなっていた。

『栄太』

栄太の体がビクッとわずかに動いた。

『栄太、体調悪いの』

栄太は立ち上がり、裕太の持っている漢字書き取りノートに視線を向けた。

『ううん。大丈夫だよ。そっか、宿題やらなくちゃ。忘れてた。着替えてくるね』

栄太は部屋に戻った。キウイは栄太にくっついて一緒に部屋に消えたが、どことなく心配で動揺しているかのような飛び方をしている。

裕太はハッチを見た。

『栄太とキウイ、大丈夫かな』

ハッチは首を傾げた。

裕太はリビングのローテーブルの上に書き取りノートを置き、腰を下ろした。

栄太が部屋から出てきた。

『あー、面倒くさいよね。でも、やらなきゃ先生に怒られるし、キウイにも怒られるからやらなくちゃぁ〜』

といつもの口調に戻っていた。裕太はホッと安堵した。

『だよなぁ。面倒だけどさっさと終わらせちゃおう』

二人は黙々とノートにペンを走らせた。

『終わったぁ〜』

先に会えたのは栄太だ。伸びをして、テーブルの上に頬杖をついた。

五分後に裕太も宿題を終えた。

ノートを閉じて栄太を見ると、頬杖をついて目を閉じていた。

『寝てるの』

栄太はスッと目を開けた。まだ目は腫れている。

『ううん、起きてる。昨日寝れなくてさー。だからかな。ちょっと頭が痛いんだ』

『え、そうなの。じゃあ寝なくちゃ。僕帰るよ』

裕太はノートを閉じて立ち上がろうとすると、栄太が裕太の手を掴んだ。

『帰らないで。大丈夫だから。今日泊まってかない?』

『それはいいけど、栄太は大丈夫なの?』

手を離し微笑みながら頷く栄太はやはりいつもより大人びて見えた。

『ゲームやろう』

栄太はリモコンでテレビのスイッチを入れ、据え置きのゲーム機を起動させた。二人のお気に入りのゲームのカーレースゲームをやり始めた。

やり始めはいつもと違ってぎこちなさがあったが、しばらくすると二人は『うわぁー、邪魔しないでよー』『裕太こそ!うわー、壁にぶつかるぅ〜、やばいー』といつもと同じ二人に戻った。

『ただいま』

『帰ったぞー』

ハルさんと旦那さんのテツさんが帰ってきた。

『お帰りなさい』

『お帰りなさい』

裕太と栄太は同時にこたえた。

『あら裕太くんいらっしゃい。お昼食べてくわよね。今から用意するから待ってて』

『夜も食ってけよ』

テツさんが目を細めてニヤリ顔で言う。

『うん、食ってく〜』

裕太は白い歯を見せる。テツさんのニヤリ顔は大好きなのだ。自分の父親もテツさんみたいに表情豊かで気さくな人だったら良かったのに。


昼食後はテツさんも加わって3人でゲームして過ごした。

『なあ、裕太、今日泊まっていけば』

栄太がゲームの最中に言ってきて、テツさんも『おー、そうしろそうしろ。お前の親父は人が変わっちまって、息苦しいだろう』と同調した。

『そーなんだよ。もうテツさんが父さんだったらいいのに〜』

裕太は頬を膨らませる。

『昔は俺と似たり寄ったりの男だったんだがなぁ』

裕太は目を見開いてテツさんを見た。

『え、あの父さんがテツさんみたいだったの。嘘だー』

栄太も頷く。

テツさんは神妙な顔つきになった。

『裕太のお兄ちゃんが死んだせいだろうな』

裕太はテツさんをまっすぐ見つめた。

『父さんも母さんも兄ちゃんの話はしてくれないんだ。兄ちゃんってどんな人だったの。なんで死んだの』

『今の裕太みたいに優しくて活発な男のだったよ。いや、裕太より繊細なところがあったなぁ。傷つきやすいというか打たれ弱いところもあったかもな。死んだ理由は俺も知らないんだ。昨日まであんなに元気だったのに、翌日の朝死んでたのさ。それしか知らないんだ。こればっかりは父さんか母さんに聞くしかないなぁ』

テツさんは腕を組み、顔を傾けた。

『さあ、晩御飯よ』

タイミングよくハルさんが声をかけた。

食事を終えると裕太と栄太は二人で風呂に入った。ハッチとキウイも風呂場に入ってくる。

裕太は手を差し伸べるとハッチは手のひらの上で羽を休めた。

濡れた指でハッチの体を拭いてやる。ハッチは少し目を細めて気持ち良さそうな顔をした。

栄太は何も言わずその様子をただ見てるだけだ。

いつもなら栄太もキウイを拭いてやるのだが、今日は気がのらないようで裕太とハッチを見ているだけだった。

風呂上がりにアイスクリームを食べながら、4人で冗談を言い合い過ごした。

『さあ、そろそろ寝なさい。ハッチとキウイは外に出る時間よ。それから私たちのNP36もね』

窓を開けると、ハッチとキウイ、ハルさんとテツさんのNP36は外に出た。

本部に帰るのだ。時計を見ると九時五十五分だった。

『裕太行こ』

『うん』

『おやすみなさい』と、ハルさんとテツさんに挨拶して、栄太の部屋に入った。

栄太の部屋には裕太用の布団が敷かれていた。

栄太はベッドのふちに座り、裕太は布団の上に腰を下ろした。

栄太が何か言いたそうだが、言い出せないでいる。

『無理に話さなくてもいいから。気になるけどさ。でも、言いたくないことを言わなくてもいいんだよ』

裕太の言葉に栄太は頷いた。

『電気消してもいい』

『うん』

栄太は電気を消してベッドに潜り込んだ。裕太も布団に潜った。

長い沈黙が始まり、ぎこちない空気になっている。

『ねえ、裕太』

沈黙を破ったのは栄太だった。

『ん。何』

もぞもぞとシーツの擦れる音がする。栄太の寝返りの音だ。

『僕さ、昨日NP36に始めて刺されたんだ』

『えっ!』

裕太は起き上がった。するとベッドに腰掛けている栄太の姿が飛び込んできた。電気を消して時間が経っていたため、暗闇に目が慣れ栄太の表情ははっきりと見える。

『キウイに?なんで?』

栄太は首を横に振った。

『キウイじゃない。予備の方だよ』

『はあ?予備の方って。それって、あれだろ。会社禁止時間に外に出たってこと?』

『うん。外に出たんだ』

『なんで?』

『なんかさ、ここから出たくなって。そう思ったのは、時計じかけのオレンジって本を読んだからかもしれない。主人公の男がものすごく悪い人間で残酷な話が何ページも続くんだ。本当に怖い奴なんだけどね、NP36がいるこの世界では主人公に怯えて暮らさなくてもいいだなぁって、幸せな気分で読んでたんだ。でも、主人公が催眠術みたいな実験にかけられて悪いことが出来ない体になるんだ。主人公のは自分のやりたいことが出来ない生き方に絶望するんだよ』

栄太は泣いていた。

『なあ、裕太、僕たちは何も悪いことをしてないのに、NP36に監視されているんだって思わない?僕たちのやりたい事がNP36にプログラムで阻止されるかもしれない。NP36に守られている世界に見えるけど、NP36に支配されてるんだって思えたんだ。自由になってみたいって思ったんだ』

『それで、外に出たの?』

栄太は頷いた。

『NP36に見つからなければ、そのままどこかへ行ってたってこと?』

栄太はズズッと鼻をすすって頷いた。

『9歳の僕らがどうやって生きてくのさ。それにNP36に監視されてない事が誰かのNP36に気づかれたらすぐ本部に連絡がされちゃうよ』

『分かってる。分かってたよ。でも、昨日の夜は監視のない場所にどうしても行ってみたかったんだ』

栄太は両手で顔を覆った。

『こんなことを考える僕は頭がおかしいのかな』

『おかしくないよ。栄太は栄太のままだもん』

栄太は涙をパジャマの袖で殴った。

『ありがとう』

『栄太が読んだ本はまだある?僕も読みたいよ。読んだら栄太の気持ちがもっと理解できる気がする』

栄太は枕の下に手を入れて文庫本を引っ張り出し裕太に渡した。

栄太は小さな懐中電灯も裕太に渡した。

裕太は受け取った懐中電灯の明かりをつけ、ぱらぱらと本をめくった。

『うっわ、挿し絵のない本なんて初めて見た〜。読めない漢字ばっかだしさ〜』

本を閉じ背表紙に目をやると、図書館の管理番号がないことに気づいた。

『この本どこで見つけたの。図書館の本じゃないよね』

『うん。図書館のじゃない。知らない男の人からもらったんだ』

『知らない人?』

『いつもサッカーやる河川敷あるじゃん?そこで一人でサッカーの練習をしてたら男が二人やってきて、僕にこの本をくれたんだ。本を読むのは夜10時以降で、NP36が本部に戻っている間にしろ。朝NP36が部屋に入ってくる前にこの本はNP36の目に止まらないようにしろ、NP36がこの本を見つけたら、お前は殺される。そう言ってた』

『え、でも河川敷で本を渡されたのキウイがいる時だろ?キウイが見てたらそ何のうちにキウイが本部に通報したはずだよ』

『スーツの男たちは、キウイを眠らせたんだ』





月曜日の朝は、どこか空気が重い。

家を出ると、出勤、通学のためにたくさんの人間が歩いているけれど、人間の数と同じたげ蜂がブンブン飛んでいる。

蜂たちは主人を見失うことはない。

雨の日も雪の日だって。

多くの人間は雨や雪の日には傘をささない。雨や雪でNP36が壊れてくれないかとかすかな望みを持っているかもしれない。

明日はNP36が壊れるかもしれない 、そう思う事は、監視される事にうんざりしている人間たちの生きてく希望なのかもしれない。


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