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誰かに聞いてほしいこと

作者: 瑞鳥ましろ

  授業が始まって10分ぐらい経った頃だった。先生がカタカタと黒板にチョークを走らせている間に、ガタッと椅子が鳴った。


  隣の席で鳴ったその大きな音に私がビクッと肩を震わせると、彼は不機嫌そうにこっちを見た。

  う……睨まれた。

  心臓がキュウッと縮こまる。

 

「条件付き確率を求めるには」


  先生が板書を終えて黒板に背を向けた。


「まず、ある試行における2つの事象をAとBとする。事象Aが起こったときに事象Bが起こる確率、これが……」

「先生」


  仕切り直すように彼はまた椅子を鳴らした。気だるそうに先生を呼び、


「具合悪いんで保健室行きます」


 と言った。

  私はその間、必死に隣を見ないようにする。見たら最後。あの不機嫌そうな目に震え上がることになる。


「ひとりで大丈夫か? 誰か付き添いは」


  先生が付き添いの人物を選ぶように教室を見回した。

 

「このクラス、保健委員誰だ?」


  ……私だ。

  ますます私が身体を強ばらせていると、隣の彼は面倒そうに付き添いを拒否した。


「ひとりで大丈夫だし。もういいですか」

「あ……ああ。気をつけて行きなさい」


  年配の数学の先生は、彼の態度に多少眉をひそめながらもうなずいた。

  彼が立ち上がる。そのシルエットに光を遮られて、私の手元に大きな影が落ちた。


「まただね」


  私の手元が再び明るくなってしばらく、教室の後ろのドアが開いた音に重なって声が聞こえた。


「ボイコットかよ」

「体調不良とか嘘ついてるの見え見え」


  小さなささやき声。聞いてるとなんだか気分が悪くなる。自分の中に汚いものが流れ込んでくるみたいで嫌だ。


「……えー、授業に戻るぞ」


  パンパン!

  私はビクッとする。

  騒がしくなりかけた教室を先生が手を叩いて鎮め、授業が再開された。

  私はおとなしく黒板の文字をノートに写す作業をしながら、隣の無人の席をそっと横目で見た。

  教科書が机上に出されてはいるけど閉じたまま、ノートは最初からないし、芯の出ていないシャーペンが無造作に放り出されている。


  私はその隣人がちょっぴり苦手だ。

  いつも不機嫌で睨んでいるみたいな目付きをしてるし、授業を受ける態度もあまりよくない。


  きっと彼の方も生真面目な私のことを嫌っているだろう。それ以前にもしかしたら私の名前も知らないかもしれない。今まで1度も話したことないし。


  はっきりいっていない方が気楽だ。隣を気にしてびくびくしながら授業を受けても内容が入ってこない。

  私は無難に生きたい。危険な人には関わりたくない。

  触らぬ神に祟りなし、だ。




 ○●○●○●○●




  体育の授業で膝を擦りむいた。絆創膏は持ってたんだけど、それでははみ出してしまうぐらいの傷だった。結構派手に転んだからかなりの範囲を擦ってしまったみたいだ。


  コンコン。


「……失礼します」


  入ってすぐのところに座り心地のよさそうなソファがある。消毒液のツンとした臭いが鼻を刺激する。


「あの……」


  部屋がカーテンで仕切られていて、奥はよく見えない。養護教諭の先生がいるはずだけど、返事がない。

  勝手に保健室の備品を使うわけにもいかないしどうしようと思っていたら、ジャッと目の前の薄い橙色のカーテンが開いた。奥に誰かいる。


「……ん、誰?」


  眠たげな声。

  カーテンの奥にはベッドがあって、その上に乗ったまま上半身を起こしたその人は、私の顔を見て少し意外そうな顔をした。


坂上(さかがみ)?」


  あ……名前、知ってた。


「どうした……あ、怪我か」


  彼は私の膝まで視線を下ろして、


「結構派手にやったんだ、大丈夫?」


 と尋ねてきた。

  なんか、普通に優しい。

  そのことに私は戸惑って、それが表情にも出ていたんだと思う。彼はクスッと笑った。


「そういえば俺たち隣の席だけど、こうやって話したの初めてか」


  いつもの不機嫌さはどこにいったんだろうと思うような穏やかな声で言い、彼はベッドを降りた。


「保健の先生、今日は出張でいないから。消毒する?」


  カーテンをかき分けて部屋の奥まで進み、『生徒は触れないでください』と注意書きのされたプラスチックのケースをパカッと開けた。中には私も名前を知っている市販の消毒液やガーゼが詰め込まれていて、彼はその中から慣れた手つきで薬の瓶を取り出した。


「え、あの、生徒は触っちゃ駄目って……」

「内緒内緒。ほら、そこに座って」


  私の慌てた声をなんとも思っていないようで、近くにあったパイプ椅子を示す。


「でも」

「坂上、ちゃんと傷口洗った?」

「洗った、けど」

「じゃあ問題ない。砂とかついたまま薬塗っちゃうと、あとから膿むから」


  問題ないって、そういうことじゃない……。


「いいから早く座る」


  仕方なく私はパイプ椅子に腰かける。目の前に私より少し低い体勢になって彼がしゃがみ、


「ちょいしみるかも」


 と斜めに見上げてきた。長めの前髪の奥から彼の瞳がのぞく。照明が暗い保健室の中で、夜行性の動物みたいに目が光っている。大きく開いた瞳孔に見つめられ、私はたじろぐ。

  睨まれてるわけじゃないのに。心臓がドックンと音を立てる。初めてだ、こんな気持ち。

  彼が器用に消毒液を垂らす。


「……ひゃ……あ」


  しみる。傷口がピリッとする。膝を動かしそうになって、我慢しようと思ったら変な声が出た。


「もうちょっと我慢な」

「……う」


  小さな子に言い聞かせるみたいに優しく言って、彼は手早く消毒を終えて傷口にガーゼを当てた。


「……っし、終わり」


  彼は満足そうに微笑んだあと、ふっと私と目を合わせた。


「坂上、涙目になってる。そんなにしみた?」

「……しみ、た」

「そっか。よし、頑張った頑張った」


  彼はわずかに腰を浮かせて、私の頭に手を乗せた。そのままくしゃっと頭をなでる。

  なんだろう……これって。

  私は不思議な気持ちになってされるがままでいた。


「こうしてるとなんか子犬みたいだ。ははっ。不本意?」


  とうとう彼は声をあげて笑った。目元がくしゃっとなって可愛い。教室で彼の笑ってるところなんて見たことないから、すごく新鮮だ。

  まるで別人みたい。


葉山(はやま)くん……そんなに、笑うんだね」

「ん?」


  彼は首を傾げながら立ち上がる。


「なんかおかしい?」

「えっと……葉山くんが笑ってるところ、あんまり見たことないから」

「……ふーん」


  ふと笑いを収めてうなずき、彼は私に背を向けた。カーテンを開けてひょいっとベッドに上る。


「俺、教室の中が駄目だからさ。あの中にいると気分が悪くなる」


  言いながらベッドに横になる。カーテンは開けたままだったから、まだ私と話す気はあるんだと思う。

  彼は腕を伸ばして上に掲げ、短く口笛を吹いた。


「坂上は、ない? 教室から逃げ出したいって思うこと」

「……逃げ、出す?」

「俺はいつも。我慢するより逃げる方が楽だから」


  逃げ出したいなんて思ったことない……そう答えようと口を開きかけて、ふとためらった。


「時々……」

「ん?」

「時々、ある。何もかもが嫌になる。全部のことが面倒に感じて、投げ出したくなる」

「……そっか、坂上でもあるんだ」


  彼はなんだか安心したように溜め息をついて、ベッドの上で身体の向きを変えた。私にその無防備な背中を向けて。


「なーんかほっとした」


  背中越しだからか声がくぐもって聞こえる。


「本音を吐くのって結構大事だよな。坂上、なんかある? 普段言えないけど、でも誰かに聞いてほしいこと」


  私はわかってしまった。私に尋ねる体で、でも本当に彼が言おうとしているのは。

  彼自身にもあるんだ。誰にも言えないけど、誰かに聞いてほしいこと。


「あるよ。葉山くんは?」

「俺も、ある」


  ……やっぱり。


「言い合いっこしてみる?」


  彼が言い、ごそっと身体を動かして再びこっちを見た。


「……うん」

「じゃあ坂上から」

「私……は」


  緊張、する。

  彼の視線が私の視線とぶつかった。


「緊張する?」


  言い当てられた。


「坂上って結構すぐ顔に出るタイプだよな」

「……そんなこと、ない」

「そんなことあるよ。俺、いつも見てるし」


  ……え?

  彼は自分の言った言葉を気にかけもせず、


「ほら、言ってみ? 聞いてるから」


 と私に先を促した。

  言いたいことはある。私が普段心の奥にしまいこんでいること。でもそれを表現するのは難しい。


「私、たぶん……」

「うん」

「人が、苦手」

「ヒト?」

「人の音が」


  彼はわずかに首を傾けた。


「音?」


  私はうなずく。


「話し声とか、それから物音。誰かの足音、椅子を引く音、手を叩く音……」

「怖い?」

「……うん」


  誰かに言うほどじゃないけど、でも理解してほしい。椅子を引く音だけでいちいち反応してしまう私を、過剰だなんて思わないでほしい。


「大きな音に反応するわけじゃなくて、ね」

「………………」

「うまく言えないけど……」

「坂上の言うこと、なんかわかる気がする」

「え?」

「わかる。たぶん、わかる」


  何がわかるとは言わなかった。でもたぶん、私もわかった。

  私はパイプ椅子にきちんと座り直した。


「葉山くんも、どうぞ」


  言いたいこと、私が聞いてあげる。


「……そんなに見られると言いにくい」

「緊張する?」

「そう、緊張する」

「言うのやめる?」

「いや! 言う」


  私はふふっと思わず笑みをこぼした。なんだかいい、こういうの。


「それだ」


  彼がひゅっと短く口笛を吹いた。


「坂上の笑った顔、ずっと見たかった。誰にも言えないけど、誰かに聞いてほしいこと……じゃなくて。誰にも言えないけど、坂上に言いたかったこと」

「え……と、え?」

「1度も見たことなかったから。坂上も俺の笑ったとこ見たことないって言ってたけど、それお互いさまだし」


  ……どうして。

  葉山くんはいつも不機嫌で目付きが悪くて、すごく怖い人だったはずなのに。触らぬ神に祟りなし、なのに。

  私……勘違いしてた。


  彼は突然身体の向きを変えて、またこっちに背を向けた。


「ごめんな。坂上、俺のこと嫌いだろ? 引き止めてごめん。もう次の授業始まるから、帰りな」


  今さら照れても遅いよ。

  ……でも、ちょっと可愛い。


「どうして私が、葉山くんを嫌いなの?」


  私は椅子から立ち上がり、ベッドに近寄った。

  彼は向こうを向いたまま答える。


「見てればわかる。俺のこと怖がってたろ」

「……ちょっと、だけ」

「ほら」


  ふふっ。


「ん、今笑った?」


  彼が身体を半分だけこっちに向けた。


「葉山くんのこと、ちょっとだけわかった。葉山くんって可愛いね」

「可愛い?」

「それから、優しくて」

「………………」

「もっと早く話したかったな」


  私は心からそう思った。

  でもきっと、ほかの誰にも言えない。


  誰にも言えないけど、彼だけに言いたいこと。


「……そうだな」


  だからこれからはいっぱい話そうね、と私が微笑むと、彼はゆっくりと瞬きを繰り返しながら、


「俺も、わかった」


 と言った。


「坂上って……」


  そのとき、彼の言葉を遮るようにチャイムが鳴った。

  あ……授業、始まっちゃった。


  早く戻らなくちゃ、と思ったけど、それ以上に彼が慌てた。


「坂上、戻らなくていいの?」


  私の心配をしてくれてるみたいだ。


「たまには、いいかな」

「………………」

「葉山くんと一緒に戻る」


  彼はかなり驚いている。

  それよりも。

  私は催促する。


「だから、さっきの続き」

「続き?」

「葉山くんが言いかけてたこと」

「あ、ああ……」

「言って?」

「いや……今はいい」


  いつか言うから。

  絶対言う。


  それまで待ってて。



  お預けをくらってしまった。でも彼の目が真剣だった。すごく、真剣で。

  だったら待ってようと思った。彼が言うなら。


  きっと彼と話す機会はこれからもあるから。




 

 


読んでいただきありがとうございます。

感想・アドバイスなどがありましたら、よろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
[一言] 投稿、お疲れ様です╰(*´︶`*)╯ 素敵な作品ですね〜!思わず何度も読み返してしまいました。 いつも思うのですが、文章がみずみずしくて、登場している人の心の動きが、とても繊細に動いていく過…
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