希望的観測
人間は力関係に挟まれている。生きている限り、攻めたり攻められたりするのだ。
均等な力関係というものがあるというのなら、それは見かけ上だけだ。
二人ないし三人の小さなコミュニティですら、一人一人に立ち位置があり、優劣がある。
その優劣の究極系が戦争である。
他人の命や使命、目的を徹底的に抹殺し、自分の優位性や正義を証明するのだ。
正義というものも、他人と自分の優劣をはっきりさせるものだ。
優位に立ちたい者は勤勉に、あるいは良くも悪くも注目されることをするものだ。
ただ、成熟するにしたがい、人間性よりも、実力の有無がものをいうようになる傾向がある。
例題を上げよう。
人間的に特徴のある性格をしているA君がいる。
彼は明るく社交的で、主張の出来る人間性を有していた。
しかし、勉学やスポーツが苦手であり、成績が悪かった。
次に、人付き合いは苦手だが、勉学などの能力が高いB君がいた。
彼は非常に現実的なものの見方をしていて、夢のような将来は見ていなかった。
堅実的で、面白さや特徴的な性格や容姿はしていなかった。
さて、今上げた二通りのパターンの人間の内、自分より優位に立っていると感じるのはどちらだろう。
優位という表現が当てはまらないのであれば、羨望や期待という表現に変えてもいい。
この回答は、年齢や性別、自分との関係性など、多種多様な見方によって変わってくると思う。
ただ、社会生活を送っている人たちにとって問題となるのは能力値の高さだ。
必要とされている場所や能力の高い人間が優位になり、いくら強気であったり勝ち気な性格をしていても、求められる能力が不足していると、立場が悪くなる傾向にある。
人間の能力の基礎になっている記憶力には、二通りある。
1つ目は蓄積的記憶。
2つ目は経験的記憶。
前者は比較的若い間に高い割合をしめており、歳を重ねる毎に後者の割合が高くなる。
歳を取った人が新しいことを覚えられなくなるのは、この両者のしめる割合が、逆転あるいは片寄り始めるからである。
両者の説明は省かせて頂く。
読んで字のごとく、そのままの意味である。
さて、そこで優位に立てる人間になっていく人間は、若い内から打ち込んできたものがあるということが分かる。
それは勉強である必要はない。
一般的に役に立てるのは、勉強であるというだけで、将来なりたいものがあれば、そちらに打ち込むのもいい。
ただ、受験でいうところの滑り止めは確保しておいた方が無難である。
現実というのは実に不安定で、その先が見えない分、無限の可能性がある。
つまり、なりたいものがあるから確実になれる保証はないし、それが何年間続けられるかは分からないのだ。
ある人は、目的は達成したが、その先のことを考えておらず、結局なにもなさないままに終えるという人もいる。
ある人は、高い目標はあっても、現実的に、その仕事をこなすだけのスペックがなく、目標は目標のまま終わる場合もある。
というか、大部分の人は今上げた例に当てはまるのではないかと、私自身常々思っている。
そのものさしを測り間違わない為には、まずは考えるより動くことが重要である。
いくらいい文章や絵が描けたり、楽器が弾けても、それをどう売り込めばいいのか分からないと、結局趣味の範疇である。
その術を知った上で行動し、限界を感じたなら諦めるか趣味にすればいい。
最初から諦める理由を探しているよりも、その方がより建設的である。
人間は基本的に自由なのだ。
何をどうしようが全て勝手である。
あれをするなこれをしてもムダだという穿った意見は、あまり真に受けない方がいい。
その判断は他人に決められることではなく、最終的には自分で決めることなのだ。