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八重さんとちょび

作者: 糸川草一郎

 彼女は八重さんと言う。かつては芸妓をしていた老婦人である。現在三味線と謡の師匠であって、それで生計を立てている。大の猫好きである。八重さんは野良猫がよく出没する、「猫スポット」を知っている。そこは彼女のアパートの近所で、神社の鬱蒼とした森に囲まれ、深夜には怖くて歩けないほどの闇に包まれる。だが昼の間、木立の切れ目になったところから日が差して、そこはほっこりとした日だまりとなる。いろんな猫がいるのだが、みなお腹をすかせているようすであって、気の毒なので、時々出しを取った後の片口鰯の炒子を持っていってくれてやる。トラと白の斑猫と、びっくり眼の黒猫、その二匹が一番よく来る。見たところ「つがい」のようだ。

 日和がすっかり暖かくなった彼岸過ぎの頃、黒猫のお腹が大きくなりだした。どこで生んだのかわからないが、知らぬうちに仔猫の声が神殿の向うから聞こえるようになった。そこは社の裏手で、人通りは皆無に等しい。程なくして、猫の子が倉庫の縁の下から顔を見せた。最初は四五匹いて、日が経つうちにだんだん親離れしていったけれど、最後に一匹残った雄の仔猫だけがどういうわけか親元を離れない。

 八重さんは何となく気になって見ていたけれど、その仔猫は歯が生え揃ってきた頃から、彼女の与える炒子を、他の猫と一緒に食べるようになった。親はそれで安心したのか、どこかへ行ってしまった。彼に名前を付けようと思って抱き上げ、顔を見た。黒猫の子なのに純白な毛をしていて、ヒゲとヒゲとの間、つまり鼻の下の三ツ口部分だけちょび髭のように黒い。親譲りのびっくり眼だったらヒトラーそっくりだが、この子のまなざしは純真そのもので、本当に優しい眸をしている。まるで若かりし頃の喜劇王チャップリンを思わせる。茶目っ気のある八重さんは、この野良猫の子に「ちょび」と名付けた。ちょびはまだ小さくひ弱だから、他の野良に虐められたらひとたまりもない。けれど面倒見のいい年上の猫が一匹いて、お蔭で結構可愛がられているらしい。他の野良とくんづほぐれつ戯れている、そんな彼を、八重さんは我が子か孫かでも見る様に、にっこりと眺めているのが好きだった。


 そんなある日、彼女は餌をやっているところをご近所の人に呼び止められ、一方的に注意された。

 「あなたね、いつもここで野良猫に餌をやっているようだけれど、この立て札が読めないんですか」。

 そこには、「野良猫に餌を与えないで下さい」とあった。八重さんは小さくなり、お詫びの言葉を言いながら幾度も頭を下げた。それで暫くは息をひそめて大人しくしていたけれど、数日してまた餌を与え出した。彼女も本気なのである。その事が町内会長の耳に這入り、神社の境内にいる現場へ、会長直々に説得に行った。八重さんは神妙な顔をして聞いている。「すみません、すみません」と、繰り返し頭を下げた。悪い事とはわかっている。けれど悪意はない。ただ猫好きの彼女にとっては野良猫の生活も他人事ではないのだ。保健所に連れて行きますよと脅す彼らに、八重さんはちょびを抱きしめたまま離そうとはしなかった。

 アパートはペットを飼えない。また、彼女は貧しい上に家族がいない。未婚であって、過去に一度子を産んだことがあるけれど、その子とも幼くして死に別れた。周囲の人たちは人の言うなりにならない彼女の一連の素行を、常軌を逸した不審な行動ととった。

 その後も餌をやり続ける彼女を持て余した挙げ句、町内会は八重さんの甥の隆行さんに話をつけ、彼らに押し切られた隆行さんは精神科の医師に相談した。

 八重さんは診察を拒んだ。だが町内会もこのままでは収まらない。隆行さんは悩んでいたけれど、結局苦渋の決断で彼女の入院の手続きが取られた。

 「伯母さんは神経が疲れているんだよ。少し休まないと」。

 私は後日隆行さんと立ち話をする機会があったので、この一件について伺ってみた。すると伯母の気持ちに応えられない無力な自分がやるせなかった。と、ご自分を責めているような口ぶりであった。

 八重さんの入院先は養老院と病院を兼ねている、精神科の病院であった。その日の朝、車に押し込まれた彼女は、車窓から切々と隆行さんに訴えた。

 「私は、どこも悪くないのよ。わかって」。

 なんて綺麗な瞳をしているのだろうと彼は思った。


 隆行さんは伯母に似て猫が好きであって、それに既婚者だが子宝に恵まれていない。また八重さんのことを気の毒に思ってもいたので、細君と相談してちょびを預かることにした。隆行さんの家に上がった日、ちょびはちょっとした粗相をした。猫のトイレがわからず、リビングのカーペットの縁のフローリングのところでお漏らししてしまった。着いて早々の失策だった。そこはすぐに掃除も済ませて、綺麗になっているけれど臭いは消えない。隆行さんも細君も叱るに叱れなかった。それでもその後彼はすくすくと育ち、今では大人の猫になって元気に暮らしているという。

 そんな彼に八重さんの手紙が三日に一通届く。「親愛なるちょびさま」で始まる愛らしい文章である。それを、隆行さんの細君がちょびに読んで聞かせる。八重さんのことを憶えているのかどうかもわからないけれど、ちょびは隆行さんの細君の傍らにちょこなんと坐り、神妙な顔で聞いている。

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