第二歌 ニュー・ディール(ニ)
この先、この新世界で生きていく方針として採用したくないお手本として真っ先に思い浮かぶものがあります。
「アーサー王宮廷のコネティカット・ヤンキー」です。
昔のアメリカ小説なのですが、あんまり愉快な話ではなかったように思います。もちろんマーク・トウェインなのである程度は面白いですし、ふんだんに盛り込まれたアイデアはまさにSF的です。ニュー・ディール政策の元ネタとしても知られています。
19世紀アメリカから時空を超えてキャメロットにやってきた主人公の「サー・ボス」が進んだ時代の倫理観と科学技術でもって愚鈍な大衆を啓蒙し、ブリテン国をより良い方向へと導こうとする話です。現代人からすると傲慢な話ですが……。
さておき、彼の志は様々な困難と無理解にうち当たり、悲しい結末へとなだれ込みます。
僕はあんな末路はたどりたくありません。英雄になって世のために働くよりも、ただ自分一身の安寧と快楽のために人生を使い切りたいです。
◇◇◇
乳幼児生活で困ったことは、スケジュールが立てられないことでした。
前世での記憶があるとはいえ、自分が乳幼児だった頃のことは思い出せません。娘が小さかった頃は塀の中でしたから、育児の経験もありません。すべてが手探り状態です。
お食い初めが生後何日目だとか、離乳食がどれくらいの時期からはじまるのかとか、6ヶ月検診とか予防接種とかの一般的な話もわかりません。
ただ歯が痒くなってきたので乳歯が生え始めたのは知れました。
そうなると早く離乳食が食べたくて仕方がありません。両親に気づいてもらうにはどうしたらいいでしょう。
「いたっ」
「どうしたリジー」
「見てあなた、エリーがおっぱいを噛んだの」
「なんだって、じゃあもう歯が生えたのか!すごいぞ!」
うまく行ったようですね。
「さっそく神官様を呼んでこよう!」
「ちょっと、まだ早いわよ。それに部屋も片付いてないし……」
「じゃ、じゃあ予約だけ!神官様の予約だけしておこう、な!」
……何かおかしな雲行きですね。七五三でもするんでしょうか。
そういえば僕はいま何ヶ月くらいなんでしょう。
なにしろ全く外に出ませんし、寝たり起きたりの生活で日付の感覚もあいまいです。季節が変わったような感覚もありません。
なんとなく乳歯が生え始めたら即離乳できる、くらいに思っていましたが、噛む力も弱いですし、そもそも物を飲み込めるのかも不安が残ります。やはり段階的に移行するものなのでしょう。
「神官様」はその日の午後にはやって来ました。
大きな背中を小さく丸めて戸口をくぐる姿勢は、なんだか親しみやすい村の聖職者といった様子です。
が、それはそれとして衝撃的であったのは、神官様の首から上が犬そのものであったことです。
これまで実感することがありませんでしたが、ここに来て実感しました。本当に異世界だったようです。僕の知る限り、二足歩行して言葉を話す犬は居りませんでしたが、両親がごく普通に接し、また尊敬している様子からして、犬人間は社会的にも認知されているのでしょう。
セントバーナードのような顔の神官様は、僕に顔を近づけると、軽くあごを持ち上げたり、首のすわりを確かめたりし出しました。鼻がツヤツヤしているので、とても健康そうですね。
「ど、どうでしょうか神官様」
「うん、じゃあエリー、口を開けてね。ほら、こうして、あーん。……よし、いい子だよ、うん」
神官は傍らの皿のようなものから器具を取り出して、僕の口へと差し込んではフンフンとうなずき、メモをとり、器具を持ち替えてはメモを取りました。
「うん、大丈夫、問題ないね」
と言われると、父はあからさまにほっとした顔になりました。
「それで、ええと、離乳食のことだったね?」
「そうなんです、先生。まずは何からあげればいいんでしょうか」
「うん、そうだね。……」
神官様の説明が始まりました。いわく、赤ちゃんは口の中に金属の味がすると異物だと感じて反射的に吐き出そうとすること。なので、本当なら3ヶ月から4ヶ月くらいでまずは味に慣れさせるためにスプーンをくわえさせる訓練をするらしいのです、が。
「この子、全然金属の味を嫌がらないんだよね。陶器のスプーンでも同じだったけど」
「ということは訓練は」
「いらないんじゃないかな。ああ、しいて言うならここまで素直に飲み込むようだと、むしろ誤嚥が心配かなあ」
「ご、ごえんってなんでしょうか」
「おもちゃとかペンとか、異物を飲み込んじゃうかもしれない。手の届くところには小さいものは置かないようにして、あとナグツを塗っておいてください」
ナグツというのは苦い味がする植物で、この辺には豊富に生えているらしく、アルは二日酔いの朝にかじっていました。猛烈な吐き気が催されるらしく、いわゆる「吐薬」として使われるとか。
「じゃあ次、ブリジットさん。産後しばらくたちますけど、どうですか?」
「あ、はい。おかげさまで特にこれといっては……」
あれこれと指示をしてから、神官は帰って行きました。
ここまでの流れを見るに、神官様というのは医者か産婆のような役割も果たしているようですね。
「ふう……」とアルが息をつくと、これまでこらえていたものを吐き出すようにリズが笑い出しました。
けらけらと笑う妻に気を悪くしたのでしょうか。アルが言いました。
「そんな笑うことないだろ……」
「ご、ごめんなさい、あーおかしい。あなたったら、神官様の前ではびくびくなんだもの」
「しょうがないんだよ、俺あの人だけはダメなんだ」
「あら、どうして」
「お前はこの村の出じゃないからわかんないんだよ……。この村じゃあ昔から、ガキが悪さするとあの人にこっぴどく叱られることになってたんだよ」
「なあに、じゃああなたが悪いんじゃない」
「そうなんだけどさ」
なるほど。僕もこの先悪さをするときは気をつけることにしましょう。
◇◇◇
「あ、いっけね」
神官様が帰ってしばらく、お茶の時間にアルがつぶやきました。
「どうしたのあなた」
「祝福の予約、忘れてたよ」
「そういえばそうだったわね。まあ、別に急ぐものでもないし、いいんじゃないかしら」
「お前は呑気だなあ……」
祝福。よくわかりませんが、洗礼か予防接種のようなもののようですね。
とはいえ、ここはブリジットが正しいでしょう。どうも聞く限り、赤ちゃんの居る家が村に何件もあるわけではないようですし、神官様の予定が競合することもないんじゃないでしょうか。
僕がはじめて同い年の子供を見たのはそのしばらく後、祝福の場でのことでした。