第一歌 出所
耳かきをしたくなったので綿棒を出して、でもオリーブオイルがないのに気がつきました。
ちゃぶ台を踏み台にしてタンスの上をごそごそやって、薬箱から予備を出したところでグラっときました。
地震だったのか、ちゃぶ台の脚が折れたのか、いまとなってはよくわかりませんが、なんにせよ、僕はこのとき死んだのだそうです。
目を覚ましてみればそこは白い部屋。家具も窓もない小さな部屋で、壁も天井も真っ白けです。
どこから入ってくるかもわからない、ぼんやりとした光に照らされています。とくに息苦しい気分もしませんが、空調はどうなっているんでしょう。そもそもドアが見当たらないのですが、僕はどうやってここに入ってきたのでしょうか。天井の一部に継ぎ目らしきものがありますが、まさかあそこから?
ロケーションからして自殺保護房か、人づてに聞く精神病院のそういった部屋のようでもあります。
そうなると、もう、入った理由を考えても仕方ないですね。出る方法もないのでしょう。
いつだってそうでした。
ごろりと横になってみますと、床がやけに柔らかい素材でできていることに気がつきました。
転んで怪我をしないように…ではなくて、頭でも打ち付けて自殺を図らないようにでしょう。
適当に鼻毛でも抜きながら天井をじっと見ていますと、継ぎ目がゆっくりと広がって穴が開きました。
そこから声が聞こえてきます。女のような、声変わり前の男子のような柔らかく、落ち着く物腰の声でした。
「おはようございます。現状は理解していらっしゃいますか?」
敬語です。
ということは、ここは刑務所ではありません。
また質問の内容からして、精神病院というわけでもなさそうです。さすがに措置入院させるような相手に自分の状況を把握してるかなどと聞かないでしょう。
「あなたはご自宅で転倒して亡くなったのですが、前後の状況を覚えてらっしゃいますか?」
安心していい状況でもなさそうです。
どう反応していいのかわかりませんので、ごく自然に対応することにします。
「おどれクソ、ナメよってから!」
人様を監禁したあげくわけのわからない文句を垂れる奇天烈人間に対して取るべき、ごく自然な台詞が出ました。
投げつけるものがないのが残念です……。
しばらく激昂した僕と、なだめようとする天井の声というやり取りが続きました。状況が飲み込めたので会話をはじめます。
「じゃあ何か。ここはあの世で、俺は綿棒取ろうとしてコケて死んだのか」
「ええ、思い出されたようですね」
とてもろくでもない状況でした。
いいやくざがみっともない死に方をしたものですが、人間死ぬ時は死ぬものです。そういうこともあるでしょう。僕の友人で体に何発も銃弾が入っていた人がいましたが、今年の正月に餅を喉に詰まらせて死にました。そんなもんなのでしょう。
「そう、そのご友人とも少し関係がありますよ」
先程から気になっていましたが、この声の主は心が読めているような発言をすることがあります。薄気味悪いことこの上ないですが、もう気にしないことにしましょう。
「先に亡くなったご友人にも案内した件なのですが、あなたの進路についてのお話です」
この得体の知れない存在によれば、僕にはこの先ふつうに死んでいく道と、先方の言う、異世界とやらに送り込まれる道があるそうです。
「わざわざ選ばされる以上は、ふつうに死ぬよりろくでもないんだな?」
「否定はしませんが……」
しかし、異世界。雲をつかむような話です。
むかし読んだマーク・トウェインにそんな話がありましたが、あれもそんなに愉快な話じゃありませんでした。
「アーサー王宮廷のコネティカット・ヤンキーですか?」
「ああ、それそれ。あんな感じのことをやれということか」
「いえ、そういうわけではありません。というよりも、何か誤解されていませんか」
声の主としては、とくに僕に何かやらせたいことがあるわけではないのだそうです。
むしろ、
「あなたの感じたままに振るまい、好きなように生き直してみてほしいのです。
その上でどんな人生を選びとるのかを私に見せてください」
とのことでした。
僕にもすこし思う所がありました。
あまり世間様に胸を張れるような暮らしをしてこなかった自分です。死んだ気になってやり直す、だのというには、シガラミも多い歳でした。人も自分を知らず、親もなく子もなくまっさらな、きれいな体でやり直せるというのなら、どんなに嬉しいことでしょう。
「いいだろ、お前の話に乗ってやる。で、どうすりゃいいんだ」
「ありがとうございます。それでは、お元気で」
僕が承諾するなり、声がどんどんと遠くなっていきました。
見れば部屋の高さがぐんぐんと伸びていくではないですか。
自分の乗った床が地面に吸い込まれるように降りていく感触がします。けれど意識は天井に残っているようでもあり……どうにも不思議な感触です。
あんまり一般的でないたとえで恐縮ですが、アヘン剤を射ってゲロを吐いたあとで楽になったときの感覚に近いですね。
僕の意識はどこかあずかり知らない所へと吸い込まれていきました。