かわず、動く
舞踏会の日から、一週間が過ぎた。ヴィクター青年に叱られてからはきちんと毎日起き、最低限の生活水準は維持している。意外なことに、この一週間、母がわたしを訪ねてくることはなかった。おそらくヴィクター青年が何かしらの根回しをしてくれたんだと思う。結局彼にはだいぶお世話になってしまっている。
だが、その彼本人もまた、この一週間姿を見せていなかった。毎日頼みもしないのにわたしを起こしにきて、苦言を呈していた彼が、あの日からぱったりとこなくなったのである。
わたしが父に嘆願するまでもなく、彼自身がわたしに辟易したのか。はたまた、父の心境に変化があったのか。わたしがここから出ない限り、その実情は分からない。
彼の代わりに現れるようになった女中に訊くこともできるが、せっかく彼がわたしから離れられたのに、こちらから刺激してしまっては申し訳ない。
夕陽が差し込む部屋はほのかに暖かく、開け放した窓から風が吹き込んで、すみに控えているアメリアの髪を揺らした。
夕食はスープにライ麦のパンとシーザーサラダだった。わたしは基本的に草食なのだ。
「今日は何だかいつも以上に野菜が多いな。シェフでも変わったか?」
「いいえ、ガステフさんのままですよ。そんなに変わりました?」
「うむ……今まではこんなにスープに野菜が入っていなかったように思う」
じゃがいも、にんじんにセロリ、トマトベースのスープだからかズッキーニまで入っている。しかも全てきちんとした固形状を保っている。そこにそえもの程度に細かく切られたベーコン。味はとても美味しいけれど、いつにない重さだ。
「もしかしたら、食材が余ってしまったのかもしれませんね」
なるほど。それならわたしなんかに回さずに、階下の食卓に回せばいいものを。ヴィクター青年なんかは若い男なんだし、記憶のままなら相当量食べるはずだ。
「たまにはきちんとお野菜を摂られるのも、きっとお嬢様の健康にいいですよ」
――いつになったら気付くのですか。
(何にですか?)
――“ ”の存在に。
(わたしだって知りたい。でもあなたが教えてくれないから)
――知りたくないのでしょう。
(そんなわけない。ずっと求めてきたのに)
――嘘、吐くなよ。
(嘘なんかじゃない。みんなあなたが忘れさせてしまうから、わたしは結局何も分からないだけ)
「忘れてんのは、お前のくせに」
「え?」
「気付けよ、いい加減。何が欲しいか、自分のこと、一番理解してんのはお前だけしかいねえだろうが」
その瞬間、“彼”の姿が、はっきりとわたしの意識に入ってきた。
その姿は、恋い焦がれたそのカタチは、わたしがよく見知ったもので。
「――あ」
あなたの顔が分かったら、あなたに会える……?
「全部分かってんだろ? お前が創った夢の“俺”が、何のための存在かも。そして、なぜ今俺の姿が見えたのかも」
淡々と語る彼が、その何よりも見たかったその顔が、真実をむき出しにしていく。
……わたしは、どうすればいい?
「感じるままに動け。お前が感じた違和感が、俺をこうして顕現させたんだ」
まだ……間に合うかな。
「信じろ。恐れるな。現実に生きろ」
現実に。
久しぶりに袖を通す私服は、何だか堅苦しく感じられた。焦る必要なんてないのに、どうしても急いてしまう。新しいドレスをお披露目したときのような高鳴りが胸にうずく。久しく運動していなかっただけに、心なしかお腹周りの肉付きが豊かになったようだ。……女だし、仕方ない。筋肉は衰えているし、今体重を測ったら新たな世界の扉が開く音が聞こえるかもしれない。
(夢の正体、分かっちゃったな)
夢の内容をはっきりと覚えているのは初めてだった。それなのに、こんなにも新鮮さが薄いのは、きっと夢と日常に大きな違いがなかったからだ。夢が無意識の産物なのだとしたら、確かに、わたしはもうその意味を理解している。臆病者のわたしらしい結末だ。自分に対してさえ愚鈍なわたしを、彼はどう言って笑うだろうか。
簡素な私服に着替え終わって適当に淹れた紅茶を嗜んでいると、ターニャがやってきた。普段ヴィクター青年がわたしを起こしにやってくる時間だ。部屋に入った彼女は、まずわたしが起きていることに驚き、そして私服姿であることに更に驚いていた。
予想通りの問答ののち彼女が平静に戻ったところで、わたしは本題に入った。
「ターニャ、ヴィクター青年を呼んで……いや、今どこにいるか分かるか?」
「え? えっと、アルレリオ様ならまだお帰りじゃないですよ。確か二週間後の予定ではなかったでしょうか」
「……え? どういうことだ?」
「あら、もしかしてお嬢様ご存知じゃないんですか? てっきりアルレリオ様から直接お聞き及びだとばかり……」
彼から……? いや、なにも聞いてない。
嫌な予感がぞわぞわと肌を走った。
「アルレリオ様と旦那様は、トルキオ山岳地帯での特務についておられるんですよ。えーと、確か五日前から」
(――なんてこと)
「えっ、あっどこへ行かれるんですかお嬢様!」
ターニャの話に、居ても立っても居られなくなって、ぐちゃぐちゃの頭のまま部屋を飛び出した。何がしたいんだか自分でも分からない。こみ上げる不安と焦りで足元がふらつく。けれど身体は止まらずに、無意識に階下を目指していた。
(そうだ……母上なら、知ってるはず)
なぜだかは分からないけれど、わたしは追わなければならないと強く感じていた。出来るだけ早く、彼を。
無駄に広い屋敷がこんなにも煩わしく感じられたのは初めてだ。長らく使っていなかったために、身体中の至るところから悲鳴があがる。ギシギシと硬い膝の動きはまるでブリキのよう。廊下を走って階段を駆け降りるだけで息が異常に上がった。
まだ朝と言える時間帯なので、母がいるのは恐らく寝室か書斎だ。しまった、二階にある両親の寝室を先に見るべきだった。
書斎まで走る内に、何人かの使用人とすれちがった。わたしがこもっていた間に入れ替えをしたのか、見知らぬ顔もちらほら見受けられる。
書斎の扉を前にして、上がりきった息を整えた。どくどくとうるさい鼓動は突然の運動のせいもあるが、それ以上に緊張によるものだろう。……ノックをするのが恐い。
――深呼吸をひとつ。
「母上、わたしです。いらっしゃいますか」
――反応がない。やはりこっちにはいないか。母は朝に何をしていただろう。家族ときちんと係わっていた頃のことを思い出そうとするけれど、自分でも驚くほど記憶の感覚が薄かった。
「えっ、えっ……リアン!?」
薄ぼんやりとしていると、ふいに扉の向こうからくぐもった声が聞こえ、そして勢いよく目の前の扉が開いた。
扉の取っ手を握ってたたずむ母は、目をいっぱいに開いてわたしをまっすぐに見つめていた。
「は、母上……いらっしゃったのですね」
確認するように尋ねても、彼女は何の反応も返さない。硬直したまま時が止まってしまったような様子に困惑していると、突如彼女の唇がぶるぶると震えはじめた。母の手が、わたしの方へすがるかのように伸びてくる。
「リアン……よかった。本当に、よかった」
母の手が優しくわたしの顔を包んだ。わたしより少し小さい背の母が、わたしの顔をのぞきこむように見上げる。“よかった”? 何が、彼女にとって“よかった”のだろう。
気が付くと、母は静かに涙をこぼしていた。ついていけない展開に心底戸惑っている上に、母が泣いているところを初めて見てわたしはかなり動揺した。いつでも気丈で、弱みも苦しみも決して他人と共有しなかった母が。
「――何で泣くの」
ぽつりとつぶやくと、母は悲しそうに薄く微笑んだ。そのはかなげな笑みはこちらの涙腺まで刺激してくる破壊力を持っていた。意味を持たない涙がこぼれそうになって、慌てて下唇を噛んでこらえた。母が何を考えているのか理解出来たことなんてなかったけれど、これは理解とかそういった範疇を超えている気がする。
(これは、誰なの)
目の前にいるのがわたしの母? いつでもわたしの前にレールを敷き続け、そこから外れることを殊に禁じた母……?
「何でもないのよ。本当に、よかった。……ごめんね」
苦しそうに謝罪を口にして、母は小さく溜め息をついた。そして、わたしの頬にそえていた手を離して、あふれる涙をぬぐう。そのままうつむいた母は、何だかいつも以上に小さく見えた。なみなみならぬ衝撃に息まで詰めていると、おもむろに母がわたしを見上げ、口を開いた。
「――ところで、何かわたくしに用があったの?」
そうだった。肝心なことをすっかり忘れていた。今のわたしにはもっともっと大事なことがあるんだ。いつにも増して真剣な眼差しの母の目を見つめ、わたしは口を開いた。
「そうでした。母上、父上とヴィクターの居場所を教えてください」