かわず、眠る
「本当に寝る気かよ。正気か?」
「嫌なものは嫌なのだ。母上が望んでいることは理解しているが、やはり無理だ。色々と考えてみたが、これが一番早くて分かりやすい。わたしにとっても楽だ」
「だからってお前……ガキじゃあるめえし。三日間も寝続けるなんて身体に悪すぎるぞ。絶対にやめとけって」
舞踏会も明日にせまった。母は何とかわたしを参加させようと、躍起になって色々と手配をしているようだ。きっとわたしは、何ひとつ自分で用意をしなくても、起きてさえいれば明日の舞踏会の会場に立つことになってしまうだろう。
だから“寝る”のだ。ヴィクター青年が言うように三日間。やろうと思えばできるという自信があった。愛するあの世界に長くとどまれるなんて、何だかわくわくする。外界から全てを遮断して、夢の中に閉じこもればいい。簡単なことだ。
それを青年は危険だと言うが、わたしにはその意味が分からない。この世で、あんなに優しい場所など他にはないというのに。
「心配してくれてありがとう。わたしなら大丈夫だ。ちょっと楽しみなくらいだぞ」
「いつもお前大丈夫大丈夫って……。んなわけあるかよ。健康なやつは夢なんかに逃げたりしねえで現実を見るもんだ。そんなに嫌なら、どうして奥さんを説得しようとしてみないんだよ。二人とも言葉下手にもほどがあんぞ」
説得できるなら、している。わたし達母娘の関係は、話し合いを解決の手段に選べるほど簡単なものじゃないんだ。そんな段階ははるか昔に通り過ぎてしまった。互いに譲れない部分が決定的に違う。そしてお互いに、相手のことを“娘”とも“母”とも見れなくなってしまってから、かなりの時が経った。
「――母上はわたしの言葉など聞かないさ」
「ほら、その諦めだ! 素直に思いを吐き出しちまえよ。心を開かねえから、奥さんも心配しちまうんだろうが」
「意味のないことなど、したくない」
真っ直ぐに見つめてくるヴィクター青年の視線に耐えられなくなって、わたしはソファから立ち上がり窓ぎわへと向かった。夕どきに彼がくることは初めてだった。いつもなら午後の稽古の真っ最中のはずだ。さりげなく退室をうながしても部屋に居座ろうとするので、仕方なく着席をすすめ、自ずから紅茶も用意してあげた。
わたしを追うように、ヴィクター青年も立ち上がった。窓から外を眺めるわたしの元までやってきて、肩をつかんでくる。痛いからやめてくれ。
「なんだ、ヴィクター青年」
「一度、奥さんとちゃんと話せ。何だったら、俺が立ち会ってやってもいい。こんな風に反抗して何になる? 逃げるくらいならとことん戦えよ」
「……離してくれ」
今度はガッと両肩をつかまれ、むりやり青年と相対させられた。何だというのだ、一体。
強い意思の宿る茶色い双眸が、痛いくらいにわたしを射抜いてくる。青年のこういうところが苦手なのだ。わたしにはない強さを持つ人間は、なぜこうにもまぶしい?
「俺は心配なんだよ! このままお前がいなくなっちまうみたいで……夢ん中のそいつに奪われちまうみたいで」
喋りながら目線をさまよわせ、最後にはうつむいて震えるように彼はつぶやいた。彼が何を言いたいのか分からない。母との確執の解消を望んでいるのか? なぜ彼が。悲しいことに、世界にはそりが合わない親子が存在するのだ。わたし達の価値観は、決して相いれることがない。
「母上との関係の改善は、わたしが夢を見る行為には何の影響も及ぼさないぞ」
「嘘だな、俺には分かる。少なくとも、今よりはお前、現実に目を向ける気になるだろうが」
「……関係ない。彼が夢の中にしか存在しない限り」
「リアン!」
「出てってくれ。わたしはもう寝る」
暗い色を放つ瞳に沈痛な面持ちの彼に、鋭い目線を向けた。わたしが少し強く出ると、彼はおとなしく身を引くことは分かっていた。彼もまた、絶対に最後の一線を踏み越えてはこない。目を伏せ、彼はゆっくりとわたしの肩から手を離した。
うつむいて表情の読めない彼の横を通ってベッドへ向かうと、唐突に背後の彼が口を開いた。
「――明日の夜、また訪ねる」
「……え?」
突然の言葉に振り返ると、なぜだか激しい怒りを内に秘めた表情の青年がひたとこちらを見つめていた。夕日に照らされた双眸に炎がチラついているような幻影まで見える。一瞬の内の明らかな変化についていけない。
「起きてろよ。寝てたら承知しねえ」
「いや、しかし……明日は舞踏会ではないか」
まごつきながらもとっさに言葉を返すと、彼は分かっていると言わんばかりの小馬鹿にした笑みを浮かべた。そしてゆがんだ半月型の口元はそのままに、何度かうなづく。
「んなもんよりもっと大切なことがあるからな。安心しろよ、王宮の方にも顔は出すさ」
「いやいや、いきなりこられても迷惑だ。それに、王宮に行ってからなんて、一体何時にくるつもりだ? 冗談はやめてくれ」
「冗談なんかじゃねえよ。ああもう、うるせえ。とにかく、明日またくるからな!」
吐き捨てるように言葉を残して、そのまま颯爽と部屋を出て行こうとする。こちらをちらりとも振り返らない。こんなときまで貴族然とした優雅な所作で歩く彼を慌てて呼び止める。
「ちょっと待て、ヴィクター!」
目線の先で、扉が音を立てて閉まった。
あなたはわたしに何を伝えたいのでしょう。
わたしに何を求めるのでしょう。
――いつになったら分かるのですか。
――いつになったら会えるのですか。
――気付いているのですか。
その顔が見えたとき、その声が聞こえたとき、わたしはあなたに会えるのでしょうか。
「……い、……きろ」
“彼”がわたしの手を取った。暖かなその手にほうっと安堵が広がる。耳元でささやく声が、優しく鼓膜を揺らす。
(未来のこと……ですか?)
「……リアン、……おきろ」
(危険? 何がでしょう。……山?)
「おいっ! 起きろよ!」
突然の大声と、肩を大きく揺さぶる振動に一気に目が醒めた。ぼんやりとした頭で、わたしを揺する手の先をたどると、そこには憔悴したような情けない顔のヴィクター青年がいた。
「――なんだ、ヴィクター青年か。……驚かせるでない」
わたしが声を掛けると、息を詰めていた彼は、数瞬後に大きなため息を吐いた。いきなりそんなものを浴びせるとは失礼な。肩をつかむ手をどけて、身体を起こすと、こりもせずまた手が伸びてきた。
すると、突然彼に抱きすくめられた。抱き枕を抱き込むような形で、ぎゅうっとしがみ付いてくる。苦しい、と言おうとして彼の腕に触れると、それは小刻みに震えていた。一体どうしたというのだろう。
「いきなり、何だ。……苦しいぞ」
「……うるせえ、黙ってろよ……。くそっ、こっちの気も知らねえで、眠りこけやがって 」
もごもごとわたしの肩口で紡がれる泣きそうな声音に心配になる。何かあったのだろうか。彼に最後に会ったのは、彼が謎の退場をしたあの日のことだ。あれから、どれくらい経ったんだろう。
そういえば、今は何時なのか。彼の肩越しに窓の方を見れば、カーテンの向こうは真っ暗のようだ。
「ヴィクター青年、今は何時だ? というより、何日だ?」
「……約束どおりの日時だ。ああ、日はもうまたいでるだろうけどな。舞踏会も、もうそろそろお開きになった頃だろう」
「ほう、あれからずっと寝ていたのか。母上が強制的に起こそうとしないなんて珍しい。てっきり医師の一人や二人連れてくるかと思っていたのに」
「強硬手段に出られる覚悟はあったのかよ……たち悪いな。というよりお前、何にも覚えてないのかよ?」
抱き締めていた腕を緩め、身体を離して正面から彼が見つめてきた。膝立ちのくせに、若干わたしより目線が高いのが憎たらしい。電気のついた部屋の中で光る濃い木目のような色の目には、戸惑いがうつっていた。ひそめるような声に何だか不安を覚える。
「何をだ? 夢のことなら、あいにくいつも通り何も覚えていないな」
「夢のことじゃねえよ。何やってもお前が起きねえって、奥さん達が俺にすがりついてきたんだ。どんなに大きな音立てても、揺さぶってもってさ。ありゃてっきりお前がたぬき寝入りこいてるんだとばかり……まさか、ずっと寝てたって言うのかよ?」
「母上が? 覚えがないな。ずっと眠っていたようだ。ふむ、まさか起こされても起きなくなるとは、ちょっと想像以上だな」
「なっ、それどころの問題じゃねえよ! お前っ、俺が止めなきゃ奥さんは医者を呼んでたところだったんだぞ! どれだけみんなが心配したか……。俺だってよ、説得に時間がかかってちまって、やっとこんな時間にお前の部屋これたってのに、どんなに呼びかけてもお前が起きないから、てっきり……」
彼のいきなりの怒鳴り声にびっくりした。しぼんでいくような様子を見て、だんだんと自分がしでかしたことの重大さが分かってくる。
確かに、今まではどんなに深く夢の中に沈んでいても、起きないなんてことはなかったのだ。井の中からは出ないけれど、夢の中から現実世界にはきちんと出ていた。その境界が、ひとつぶち壊されたことになる。
「……まるで眠り姫のようだな」
「冗談言うなっ!」
母がどう思っていたかはともかく、彼が心配してくれていたのは分かって、何だか申し訳ないと思うと同時にこそばゆかった。照れ隠しに茶化してみたが、眉を釣り上げて怒られてしまった。
起こしてみても起きないとは、一体どういうことなのだろう。自分の睡眠の形に疑問を抱くのは初めてのことだ。今までは嫌でも現実世界からの呼びかけに覚醒をうながされていたというのに。
眠ったまま人形のように横たわるわたしを、彼は一生懸命こちらの世界に引き戻してくれたんだ。確かに、心配をかけてしまった。今まで動いていた人間が、目の前で眠った状態で停止しているなんて、ちょっとした恐怖だっただろう。
「すまなかったな……心配をかけてしまったようで」
素直に謝罪を口にすると、彼は驚いたように口をあんぐりと開けた。間抜けな顔だ。何となく魔が差して、そのまま静止しているのをいいことに右手でほっぺたを横につまんだら、更に変な顔になった。
「……ふくくっ 、面白い顔」
「おまっ、俺の顔で遊ぶな! 今深刻な話してんだから! さっきの謝罪は嘘かよ!?」
即座に右手を振り払われてしまった。つまらない。いじってくださいと言わんばかりの間抜け面を披露していた青年が悪いのに。
深刻な話をされている自覚があるから、話をそらしたいんじゃないか。それくらい分かっているくせにそれを強引に戻そうとするなんて、いつになく青年は怒っているらしい。
「失礼な。嘘などではないぞ。素直に申し訳ないと思ったから言っただけだ」
「……別に謝って欲しいわけじゃねえよ。みんなが心配してたことを分かって欲しいだけだ。ったく、本物の眠り姫だったらどんなに楽だったか……」
「うむ、確かに、わたしの睡眠は少し深くなりすぎてしまっているようだ。もう少し調節していかないとな」
素直にうなずいておくことにする。ヴィクター青年とはこんな真剣な話をしたくない。いつわたしの弱さが露見してしまうか分からない。強さに甘えたくなってしまったら、そこでおしまいだ。
「……頼むから、もう二度とこんな思いさせないでくれよな。心配なんだ、ほんとに」
うつむいた青年は、何だかひどく疲れているようだった。日々を忙しく過ごす彼の手をわずらわせてしまっていることを申し訳なく思う。……父が彼に命令しなければ、彼はわたしに関わらなくて済むようになるだろうか。
――そうだ、久方ぶりに父と話してみよう。そして、彼がもうわたしに関わらなくて済むよう、頼んでみればいいのだ。もう長らく父の顔を見ていないが、相変わらず忙しくも充実した日々を送っていることだろう。半ばわたしに甘いところがあった父のこと、きっとわたしの頼みを受け入れてくれるはずだ。
(――そういえば)
「なあ、ヴィクター青年」
「なんだ」
「眠り姫が、何だって?」
「……うるせえよ」
精神的に回復した様子のヴィクター青年が、ベッドに腰を落ち着けたのはだいぶ前のことだ。それから色々な話をして過ごした。夢のことを話そうとするとなぜかつまらなそうな顔をするので、“彼”についての話は控えざるをえなかった。しかし、青年と話をしている間は不思議と眠くならないし、夢の中を恋しいと思うこともない。先ほどとは裏腹に和やかな時間が流れる。
話が自然に途切れ、部屋に沈黙が落ちる。凝り固まっていた腰をぐっと伸ばすと、鈍い痛みが走った。流石に長時間こんこんと眠り続けていただけある。漏れ出たあくびを噛み殺していると、唐突に彼が話し始めた。
「あさってから、俺さ……」
「うん?」
「……いや、やっぱ何でもねえ」
「何だ、気になるではないか。言いかけたのなら話してくれ」
「……いや、いい」
いや、わたしがよくないのだが。言いかけられて止められるむずがゆさの不快なことといったらない。しかもあさってと言ったか? 近くのことなのだから話してもよいではないか。
そう思っても、うつむいてしまった彼に無理に訊くこともできず、そのまま二人の間に沈黙が落ちた。
「なあ……もしも俺とお前がさ、逆の立場だったら、お前、俺のこと心配してくれるか?」
真剣な表情で、ふと彼がこちらを見やる。彼がもしもの話をするなんて珍しい。わたしが彼の立場だったら、ということは考えたこともなかった。彼のようであったら、と考えたことなら幾度もあるが。
「さあ、どうだろうな。……なってみないと分からないなあ」
「……そっか」
ぽつりと返事をした彼の横顔は、何だか寂しそうにも見えたが、彼に限ってそんな顔をするはずもない。眠りすぎて、ついに幻覚が見え始めてしまったようだ。
冗談ぽく軽く返したこのときのわたしはこんな適当なことを考えていて、彼がどんな思いでその疑問を口にしたのか、少しも理解しようとしていなかった。