かわず、引きこもる
井の中の蛙大海を知らず。
――大変結構なことではないか。井の中には生きるのに必要なだけの快適な環境が整い、自身はそれに満足している。それ以上何を求めようと言うのか。とおいとおい昔、我らが先祖は水があるというたったそれだけのことに、生きる力を見出していたくらいである。
いたずらに外の世界を知ってしまうから、自身ではどう処理することも出来ない欲求がわきあがる。現状に不満などいっぺんもなく、それなりに生を楽しんでいるのだから、わざわざ能動的に動く必要などないのだ。鉛のように重たい腰を上げる必要も、現実において誰かと関わり合うことさえも。
「そうであろう? ヴィクター青年」
「うるせえ。屁理屈こねてる暇があんなら、さっさとベッドから出やがれ」
にべもなくわたしが懇切丁寧に説明してあげた理論を一蹴したのは、仮にも乙女の部屋にいつもいつも飽きもせずズカズカ入りこみ、我が愛しの寝床の前で仁王立ちする青年であった。洗われたような輝きをもって部屋にふりそそぐ朝日に照らされ、彼の赤銅色の髪がことさら赤く光りを放っている。そんな髪の間からのぞく瞳はこちらをひたと見つめているが、その目つきはまるでゴミでも選別するようなものだ。目元だけで無礼を演出できるなんて、なかなか出来る芸当ではない。
まいどまいど変わらぬ彼の態度に、思わずため息が出てしまう。わたしの井戸に大海への航路など要らぬと、何度いえば分かるのか。
「毎日毎日うるさいことだな。わたしには関わらなくてよいと言うているのに」
「残念だったな、俺がこうして毎日毎日毎日毎日お前の部屋に出没してんのは、お前の親父さんの命令だからだ。好き好んでするわけねえだろうが」
眉根をひそめて不機嫌ですと主張してくる。嫌なら嫌と言えばよい。まあ、それが出来ぬこともわたしとて知っているが。父の命令とあれば、確かに、彼にとっては絶対なのであろう。どちらかというと、彼の方が私よりも父の実子であるかのような従順さである。その己の貫きっぷりには呆れを通り越して敬服する。
「そなたが何と言おうとわたしはこの部屋から出ぬぞ。何度も言うていることだろう」
「だから、いつまで夢見てるつもりだよ。いまさら運命なんて冗談だろ? 現実に生きろ現実に!」
語尾を荒げるヴィクター青年。これも毎度のことだ。こんなどうしようもない引きこもり女に構ったところでプラスになることなど毛ほどの先もないぞ。事情を説明してからは、以前に増して強く反発するようになった。わけを話せとうるさいから仕方なく口を割ったというのに、よもや逆効果になってしまうとは。
再度重くため息が出てしまう。井の中に憂鬱な空気が充満していく。空気の濁りのなんと心地悪いことか。開け放たれた窓からせっかく流れ込んでくる朝の新鮮な青い空気も、何だかわたしの目の前でうずまいて汚れていっているように感じる。まあ、この窓を開け放ったのもこのお節介青年であるのだが。
「別にやることはやったのだからよいではないか。成人前にすべきことはもう終わった。せめて社会に出る前の許されたこの時期くらい、わたしの自由にさせてくれ」
「俺に言うな。親父さんと奥さんに直接言え」
「――と伝えてくれ」
「却下」
一刀両断。恨めしく思って半目でベッド脇に立つ青年を睨むと、彼も負けじと睨み返してきた。無駄に上背があるだけあって、見下されると未だに慣れない強烈な威圧感がある。彼との間に微妙によどんだ沈黙が流れる。わたしを大海原に連れだそうとするくせにその橋渡しにはなってくれないとは。一体何がしたいのだ。
「……もう朝練習の時間ではないのか? 父上も待っておろう」
「ふっざけんな、また出ませんでしたって報告させる気か? ……確かにそろそろ行かねえとまずいな。おい、朝食には顔出せよな」
ため息混じりに憮然と答えた彼は、その口調の強さとは裏腹に伺うようにちらりとこちらを見てきた。そんな心情の機微を上手に映しだした完成度の高い表情をされても、残念なことにわたしの心は一ミクロンも動かないんだな、これが。
「わたしはもう一眠りするから、運んでくれるよう伝えてくれ。今日はターニャの担当だったか」
「はあ!? また寝んのかよ! いい加減にしないとほんと腐るぞお前!」
「ご心配ありがとう。就寝はわたしの生きがいなんだ。では、今日も頑張ってくれ。おやすみ」
ヴィクター青年はその後もぶつぶつ何ごとか言っていたようだが、わたしがバフリと上掛けをかぶると、わたしを説得しようなどという無意味な行為をようやく諦めたのか部屋を出て行く気配がした。バタリと閉まった扉の音が空虚な井の中に響いていく。
寂しさなんて、感じる必要はない。わたしには、いつだって会える場所に“彼”がいるのだから。
――夢の中をわたしはたゆたう。
不思議なものでわたしはいつだって夢の中で意識を保っていられた。正確に言うと、意識がある状態で夢の中に存在しているという感覚が、いつだって残っていた。夢は無意識というが、では意思を持ってその中を旅するわたしは何を見ていることになるのだろう。
わたしは夢を見ることが好きだ。それのために生きているとさえ言ってもいい。だから、いくら酔狂だとか引きこもりだと後ろ指を刺されようと、果てには病気を疑われようと、わたしは夢を見ることをやめない。
だって、夢の中でなければ“彼”には会えないから。いつからか、わたしが眠りにつくときには常に側におり、わたしの心を埋めてくれるようになった人。
彼が何者なのかは分からない。夢の中の彼は、姿ははっきりしているのに、顔だけもやがかかったようにぼんやりとしている。
夢の中で、彼はわたしに語りかけ、わたしはそれを静かに聞いている。いや、わたしも返事を返すことがあるだろうか。
なぜだか、聞いているはずなのに、わたしは彼が語る内容を知らない。いつも、起きてしまったら忘れてしまうのだ。確かにそれは穏やかで幸せな時間で、大切な夢なのに、彼が何をわたしに伝えたかが残らない。中身のない、ぽっかりと大きな穴が空いたままの夢。
(いつか、お会いできる日が来るのだろうか)
夢でしか会えない彼に会える日を、わたしは待ち続けている。彼の顔が分かったとき、彼の語る内容を覚えていたとき、きっとその日は訪れる。根拠はないけれど、わたしはそう信じて疑っていない。運命は、きっと存在するから。
彼のことを考えて眠りにつくようになってから、わたしは漠然とそう考えるようになっていた。現実は苦しいけれど、夢の中はいつだって暖かい。
(最初は、希望だったんです)
――“ ”が?
(そう。憧れてました。いつの間にか……)
――甘えていい。ここは、あなただけの世界なんだから。
(恐い。みんな、敵みたいに見える)
――甘えなさい。この世界は、あなた自身だ。
まどろみの遠く、扉を叩く音が響き、わたしはゆっくりと覚醒へ近付いていった。まぶたの奥に陽の光が届いて、わたしを強く本物の世界へとすくい上げる。この瞬間が、わたしは嫌いだ。夢と現実の境界線を超えるのは、希望と絶望を行き来するような感覚にさえさせる。いつか、この境界を超えなくなる日がきたら、そこが今のわたしの死になるんだろうか。そのとき、わたしはどちら側にいるのだろう。
「――また思い出せない、か」
彼の夢を見始めた当初は、起きるたびにその忘却に悲しみを覚えたものだが、今ではそれが当たり前となってあまり感慨を抱かなくなった。現実世界においては、彼を側に感じないことが“普遍”だ。
寝れば会えるという安心感、その中に彼の存在を見いだせるだけで、わたしは幸せを感じるようになっていた。
「お嬢様、朝食をお持ちいたしました。入ってもよろしいですか?」
扉の向こうのターニャの声に応え、朝食を用意してもらった。ほとんどの時間を寝て過ごしているわたしが食べる量は少なく、固形のものは入れないようにしてもらっている。たった一年のことだからと、不健康極まりないが、全て消化のよいものを揃えてもらった。階下の者の食事との差異に、厨房の人間は面倒な思いをしていることだろう。いずれこの部屋を出るときがきたら、きちんとお礼をしなければ。
「本日、奥様が一度お部屋にいらっしゃるそうです」
「母上が? なぜだ?」
「さあ、存じ上げません。あたしはその言付けだけ託されましたので……」
また面倒なことになった。あの人はわたしに関わらないと気がすまないらしい。関わるなと言われると逆にとかいう、隠れた天邪鬼タイプだったら更に厄介だ。母への対応は目下わたしを悩ませる一番の種だった。こんなふうに、ちょくちょくわたしの日常に存在をはさんでこられると、考えないわけにもいかない。母は、こんな一方通行のふれあいに一体何の意味を見出していると言うのか。
「まあ、寝てるなというわけだな。承知した。せめて正午から二時間以内に来てくれと伝えてくれ」
「かしこまりました。そういえばお嬢様、またトルキオ山の辺りで山賊が出たらしいですよ。農地が荒れなければいいのですが……」
ターニャが近頃話題の事件を話すのを聞きながら、そういえばここにこもり始める前に気になっていた事件などのその後の展開を、全く知らないことに気付いた。少しは外の世界のことも調べておかないと、来年ここからいざ出なければならなくなったときに、基礎知識の欠如で恥をかきそうだ。
朝食のあと、この生活水準を保つのに最低限の活動をして、軽く身体を動かした。こんな生活を始めてから、やはり筋肉の衰えは激しい。毎日様子をのぞきにくるヴィクター青年や、何だかんだまだ関わりのある母、女中などは気付かないだろうが、しばらく会っていない父やら階下の使用人などが今のわたしを見たら、その変わり様に驚くだろう。こんな状態で激しい運動をしたらどうなってしまうのか、ほんの少しだけ怖いもの見たさ的な興味はある。挑戦をするつもりは決してないが。
ベッドに潜り込んで白い天井を眺め、ため息を吐く。人生で最も心が安らぐ瞬間だ。ゆっくりと目を閉じると、優しい夢の気配を近くに感じることができる。昼食は取らないことにしているので、母上が来るまではまた彼に会える。