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a,s「死者の音」

鎧の話 45

 肢体を這う重苦しい感覚から逃れるようにして、直也は夢から目覚めた。夢の内容は全く記憶になかったが、あまり愉快なものでなかったことだけは確かだった。

 目を開け、上半身を起こす。周囲を手で探ると、指先を滑らかな感触が過ぎった。弾力があり、そして、温かい。直也は遅れて、自分がベッドに寝かされていることを思い出した。同時に、ここに来ることになった経緯もひっくるめて、全ての記憶が頭の中に戻ってきた。

 デベスクリームの襲撃から何とか命からがらに逃れたあと、雨の中の公園でライと互いの思いをぶつけ合った直也は彼女に連れられ、病院にやってきた。つまりここだ。どうやら彼女の父親と懇意な間柄の病院であるらしく、入院まで実にスムーズにいった。

 治療を受け、点滴を打ってもらったおかげで、だいぶ体は軽くなった。相変わらず頭痛と寒気はしていたが、朝まで寝ていればこれらも大分軽減される気がした。そこまで考えて、直也は自分の体の図太さに苦笑する。あれほど死ぬような目に合ったにも関わらず、この程度の負傷で済んでいるのは奇跡に違いない。腹の疼くような痛みも、無理に体を動かすことさえしなければ、どうということもなかった。

「おっさん、目、覚めたんだ」

 突然、声をかけられ、直也はそちらに目を向けた。薄暗闇の中、ベッドの傍らに置かれた椅子に腰かけた、ライの姿があった。そんなところに彼女がいるとは思わなかったので、直也は一瞬、声を詰まらせるほどに驚愕した。

「ライ……お前」

「大丈夫だよ。あいつの気配はないから。ゆっくり休んでて」

 にっこりと、両頬を上げてライは笑った。だがその目には、まるで夜道を切り裂く車のヘッドライトのような、強靭な光が浮かんでいた。その顔色には疲労もまた滲んでいたが、それを覆い隠すに足りるほどの力強さが、彼女には漲っていた。

「あいつは私には攻撃できないんだ。知ってるだろ? だから、おっさんは、私が絶対守る。私の側にいれば、絶対に安心だよ」

 彼女の口調に揺らぎは一切なく、その言葉は確信に満ちていた。恐怖にどよめく心を晴らし、その胸を光で満たしてくれるような、ひどく優しい声だった。

 直也は数時間前、公園でライと交わしたやり取りを脳裏に蘇らせ、そして頷いた。「ありがとうな」と声に出して伝えると、ライはさらに嬉しそうに表情を緩めた。

「でも、お前も疲れてるだろ。ありがたいけど休めよ。俺もこんな状態なんだ。ぶっ倒れても、お前の世話はしてやれないぜ?」

 冗談めかして言うと、ライは微かに目を細めた。

「ちゃんと寝てるから、大丈夫。おっさんの世話にはならないよ」

「それだといいけどな」

 ふと、左手の中に固い感触を覚えた。視線を落とし、そしてふっと息を漏らす。

自分でも知らぬ間に布団の中で、オウガのプレートを握っていた。どうやら寝ている間もずっと、お守りのように握り締めていたらしい。その表面には大きな亀裂が入り、ひどく汚れている。もはや使いものになるか分からないそれを、今度は意識して、しっかりと握りしめる。

 時々遠くの方から聞こえてくる車の走行音は、引いては寄せる潮騒のようだ。そのせいか、どこかこの部屋は暗く沈んだ夜の海を彷彿とさせる。

 雨脚は弱まっているようだった。時々思い出したようにぽつりぽつり、と窓を叩く音が聞こえてくるものの、そうでなければまだ雨が降っているとは気がつかないくらいだ。

「私、さっき、そらの声を聞いたんだ」

 藍色の闇に視線を浮かばせ、ライは突然そんなことを呟いた。直也は少し唖然としたあとで、その言葉の意味することに気付き、表情を引き締めた。

「……それって、鉈橋、そらのことか?」

 ライは前を向いたまま頷いた。その目は直也ではなく、さらにこの世界ですらなく、どこかずっと遠い場所――この世の裏側を見つめているかのようだった。

「うん。そらは私を、っていうか、私の中にいる誰かを呼んでるんだ。助けてほしいって叫んでた。あの怪人の中に、そらはいたんだ。鉈橋きよか、だっけ。その、私の、元になった人って」

 ライの問いに直也は一瞬、躊躇したが、ここまでくればもう隠し立てはできないだろうと判断し、唾を呑み込んでから、口を開いた。

「……ああ。そうだ、鉈橋きよか。そらっていう妹がいる。……2人とも3年前に死んだけどな」

「……そっか」

 ライは闇の中に揺らめく蝋燭の火を吹き消すかのように、小さく、息を吐いた。

 その次の瞬間、ライの顔立ちに変化が生じたことを、直也は見逃さなかった。光の照らし具合だけではない。それはひどく艶のある横顔だった。暗闇に灯された蝋燭のような仄かな明りを含んだ瞳は少女のそれではなく、成人した女性のものにすげ替っていた。

「でも、私、覚えてるよ。そらと一緒に遊んだこと。一緒にお母さんに怒られたこと。喧嘩したこと。ご飯が美味しかったこと。……そらが死んで、自分もそらの後を追って死にたいくらい悲しかったこと」

 スッとライの目が細まる。その唇はまるで何かに操られているかのように開閉し、虚ろな言葉を紡いでいた。その手が彼女の履いているスカートの裾をぎゅっと掴む。まるで身を穿つ苦痛に耐えるかのように。

「そうだ。私、そらに会いたかったんだ。どうしてもどうしても会いたくって、なんとかしなくちゃって思って、そんな時、知ったんだ」

 ライは直也に視線だけを向けた。その明らかに心の伴っていない、空洞のような眼差しに見つめられると、直也は鳥肌が立つのを感じた。

「黒い鳥の、噂を」

 ライはとり憑かれたように、虚ろな言葉を並べていく。その感情を通わさずに話す瞳に、この頃になると、直也はさすがに確信していた。今自分の前で喋っている少女は、黒城ライではなかった。ライの中に存在する鉈橋きよかが、彼女の口を通して直也に語りかけていた。そうとしか思えなかった。

「黒い鳥……それでお前はどうしたんだ?」

 だから直也はライではなく、鉈橋きよかに向かって言葉を投げる。ライの姿をした鉈橋きよかは、ぎょろりと黒目を天井に向けたあとで、無表情のまま唇を動かした。その挙動は夢遊病患者か、もしくは催眠術にかかった人間のようだった。

「遠野さんを、誘ったの」

 遠野咲。3年前に死んだ直也の元恋人。直也に戦う力と愛する娘を残し、前触れもなく去っていった最愛の人。膝の上に置いたプレートに目を向ける。常夜灯の光を受けて、それは闇の中で鈍い光を放っていた。

「同窓会があって、そこで言ってたの。探偵やってるって。だから一緒に探してくれって頼んだ。そうしたら、学生時代に付き合いとか全然なかったのに、いいよって、引きうけてくれて。それで、色々調べてもらったの。っていっても、最初から目星はついてたんだけど」

 “黒い鳥”について直也が掴んでいる情報はほとんどないに等しい。怪人を生み出す源泉だということ、現在はこの家で出会ったあの白衣の男が所持しているということ、ある企業の社長が数年前、“幸せの黒い鳥”という意味深なことをインタビュー記者に話していたこと。数えてみれば何のことはない。片手で収まってしまうほどだ。

「だから黒い鳥はね、すぐに見つかったんだ。遠野さんのおかげだったんだけど。とにかく、これでそらにまた会えるって……あの時は嬉しかったなぁ。あの時はお母さんもお父さんもおかしくなっちゃってたけど、そらさえ帰ってくればまたもとに戻れるって、そう信じてた」

 そこで鉈橋きよかは一旦、言葉を切った。その頬がわずかに紅潮していることに直也は気付く。その表情は強張っており、いまにもはち切れてしまいそうだった。

「だけど、私、死んじゃったんだよね」

 しかし彼女の願いに反して鉈橋一家は崩壊した。姉妹は死に、母親は狂い、父親は蒸発した。ただ1つの出来事。鉈橋そらの死によって、幸せな家族はもはやその面影も残らぬほど食い散らされてしまった。

 そのあまりに凄惨な過去とは対照的に、鉈橋きよかは軽々しい調子でその時のことを話した。冗談めいた口調でなければ、まともに話していられない心境なのかもしれない。死してなおこの世に縛り付けられている人間の心情がどんなものなのか、この世に生を置いている直也には想像することすらできない。

「せっかくそらに会えると思ったのに、今度は私が死んじゃうなんて、あんまりだよね。それが悔しくて、悲しくて、だけどそれ以上に痛くて。だから私、死ぬ前に遠野さんに言ったの。このまま何もできずに死にたくない。だから私が死んだら、私の死体を使って、そらを蘇らせてくれって。そうすれば……私の願いは叶うから。そう言ったの」

「……なるほどな」

彼女の吐露したその真実を胸の中で噛みしめ、それから直也は安堵の息を吐きだした。「そういうこと、だったのか」

 咲はいかなる経緯をたどってライのもととなった死体を手に入れたのか。そしてなぜ鉈橋そらとそっくりな顔を持つ少女を生み出したのか。ずっと心の底に引っかかっていたが、その謎は、ようやく解き明かされた。咲が潔白であったことが分かると、体の底のほうから、上昇気流に乗る気球のように嬉しさがこみあげてくる。

 これで咲の無実は不動のものとなった。思わず笑みが零れる。そんな直也の表情をどう読みとったのかは分からないが、鉈橋きよかも口元を緩めた。ライの姿を通してとはいえ、初めてみたきよかの笑顔を直也は綺麗だなと思った。写真で見た彼女はけして突出した美貌の持ち主ではなかったが、それでも清らかで優しい心を持っているであろうことは分かった。自分を犠牲にしてでも、妹を救いたいと彼女は願った。そういう意味で鉈橋きよかは、ライや咲にもまた似た部分があったのかもしれない。咲もそれを感じ、だから彼女に協力を惜しまなかったのかもしれない。

「なぁ、鉈橋きよか」

 直也はしばらくそんな彼女の表情を見つめたあとで、どうしても尋ねておきたかったことを切り出した。彼女の笑顔を払拭することは躊躇われたが、それでもこの場を逃したら、真相は二度と直也の前に現れないような気がしていた。

「……お前は、誰に殺されたんだ」

 予想していた通り、鉈橋きよかの顔からは笑みが消えた。そして口にしてから、自分はなんて残酷な質問をしてしまったのだろうと直也は後悔した。自分の死にゆく瞬間など、思い出したくもないに違いない。それはおそらく、殺された人間にとっては、人生の中で最も苦しく、頭が狂うほどの恐怖に支配される瞬間なのだから。

 しかし直也が問いを取り下げ、謝罪をしようとした矢先、鉈橋きよかの口が動いた。その目は真っ直ぐにわずかな悲しみを含んで、直也を見つめていた。

「そらのお墓に行った帰りにさ、車に轢かれたの。後ろから。人通りのない場所で。多分わざとだよね。狙われたのと、分かってたし。私、凄い距離吹き飛んでさ。あれ、痛かったなぁ。死ぬかと思った。いや、実際死んだんだけど」

 片頬を引き攣らせるようにして、鉈橋きよかは苦笑いを浮かべる。言葉の調子とは裏腹に、その体は小刻みに震え、目じりには涙が浮いていた。

「それでね、私がうずくまっていると車の中から2人、人が出てきたの。男と女1人ずつ。顔はよく見えなかったんだけど、男のほうが女の名前を言ってたの、覚えてる。まぁ、何とか咲に助けてもらってその場は逃げられたんだけど、結局、死んじゃったね、私」

 そのひび割れた声を直也は受け止める。不謹慎であることは承知している。情がないと貶されることも覚悟している。だがそれでも直也は問いを重ねた。それが鉈橋きよかの無念を晴らすための光明となることを信じた。

「そいつの、名前は?」

 しばらく2人の間に沈黙が流れた。それは時間にすればわずか数秒足らずであったはずだが、直也には1時間にも2時間にも感じた。

そんな隔絶された距離を縫って。

あの世とこの世の境界線を通り抜けて。

ようやく鉈橋きよかは口を開いた。記憶を探るように宙に視線をさまよわせ、それから灰色の瞳をわずかに揺らした。

「船見……」

 深沈と広がる夜闇に声が溶ける。鉈橋きよかは直也の目を見つめ返すと、自分を死に追いやった憎むべき人物の名前を震える声で口にした。

「船見、琴葉」




 目を覚ました橘光華が最初に耳にしたのは、何か実のしっかり詰まったものが突然に破裂したかのような、大きな笑い声だった。

 再び目を閉じてもう一眠りしても良かったが、どうにも寝付けず、結局もそもそと布団から這い出ると、髪を強く掻いて意識を現実に引き戻した。低血圧持ちであり、目覚めのあまり良くない光華は、それでもしばらく完全に覚醒するまでには時間がかかった。常夜灯で照らされた、色彩の欠いた景色をぼんやりと眺め、10分あまり経ってからようやく襖の方に視線を移す。柱との隙間からはわずかな光と、雑然とした音が漏れてくる。テレビの音だ。まるで厚いビニールでも被せられているかのように、その音はくぐもった響きを含んで、この部屋まで漂ってくる

先ほど耳にした、今となっては夢との境界線すらあやふやな笑い声も、その襖の向こうから聞こえてきたに違いない。おぼろげな意識でそんな予想をたてながら、光華は目元を強く擦った。大あくびを1つ浮かべ、それから軽く肩を回してみる。すると徐々に体が現実の世界になじんできたような気がした。

 寝ぼけた表情のまま腰をあげると、虚ろな気配を纏いながら襖を開けた。強烈な光が瞳を射し、途端に目がくらむ。真っ白に染め上げられた視界が徐々に正常を取り戻すのを待ってから、うっすらと瞼を上げた。

 まず真っ先に目に飛び込んできたのは、テレビの前であぐらを掻く、金髪の青年の後ろ姿だった。放映されている深夜アニメを脇目もふらず観賞している。その周囲には口を開いたスナック菓子の袋や、飲みかけの発泡酒の缶などが散乱しており、薄茶色のカーペットは埃や食べ物の滓でひどく汚れていた。時計を見れば、午前3時になろうというところだ。当然のことながら、まだ窓の外は暗闇に沈んでいる。

 部屋の隅にうずたかく積まれた漫画本の山を一瞥したあとで、光華は自身のすぐ前に置かれたソファーに視線を動かした。そこにはTシャツに七分丈のパンツというラフな格好の式原明の姿があった。

 60過ぎに見えるその外見や、健康とはほど遠そうな肌の色とは正反対な、活力に満ちあふれたその格好は彼には見事にミスマッチで、光華は侮蔑を通り越して困惑した。しばらく息を止めて、彼のその痩せた青白い首のあたりを見つめてから、ようやく声をかけた。

「どうしたんだい。こんな夜更けに。ずいぶんと嬉しそうじゃないか」

 式原の前には折りたたみ式の黒いテーブルが広げられている。その上にはノートパソコンが立ち上げられていた。横からディスプレイを覗き込むと、スーツ姿の男性が爽やかな笑みを浮かべていた。どうやらどこかの企業のホームページらしい。画面の右上には、『黒城グループ』と記されたロゴが見えた。

「黒城グループ?」

 光華は疑問を言葉に載せた。黒城グループといえば国内では指折りの大企業である。生活雑貨や薬品、さらに最近では宇宙開発にも着手している、今最も世界的な注目を浴びている企業の1つといえる。光華としてはむしろ黒城と聞くと、最高の怪人という業を背負わされた、体は小さいけれどすごく芯の強い、あの金髪の少女のことを思い出すのだが。

「喜ばずにはいられるか。ほら、これを見たまえ」

 式原は目をきらきらと輝かせ、嬉々とした様子で手元のマウスを操作した。画面の右端をクリックし、どうにも要領を得ない光華の前で、表示されているウィンドウを切り替える。黒城グループのページがどこかに消え、入れ替わりに画面に出てきたのはネットニュースサイトだった。

 それは『黒城グループで謎の発光。落雷の影響か!?』と見出しが付けられた記事だった。日付は2006年の11月23日になっている。少し前のめりになり、記された文面に目を走らせると、深夜、黒城グループの本社ビルの上空から強烈な光が注いだのを目撃した人が多数存在する、という、ただそれだけの記事だった。光華はこんな記事があったことを全く覚えていないので、おそらく、ネット上か新聞の片隅に載せられただけのものだったのかもしれない。

「これがどうしたって? 私にはよくわからないんだけど」

「全ての物事にはそれにふさわしい場所があるということだ。最高の怪人が生まれたことで、ここもまた聖地と化した。全く素晴らしいことだ。そしてなぜ私はこんなことに気づかなかったのだ? まったくショッキングだ!」

 わざとらしく天を仰ぐ式原を光華は冷めた目で眺める。寝起きの頭では、いつも以上に彼の気分の高揚について行けない。式原はソファーからいきなり立ち上がると、そんな光華に容赦なく命じた。

「よし、彼らに伝え直しだ。橘君、グリフィンに連絡を取るのだ。リリィ・ボーンの開催地を変更しよう。そうだ、ここ以外に考えられない。新たな神の玉座に、これ以上うってつけの場所があるだろうか!」

 光華は眉間に皺を寄せる。二の句を継げないとはこのことか、と場違いなことを思う。式原はテーブルの端に置かれた缶ビールを鷲づかみにすると、残りを一気に飲み干し、それから布団の中で光華が聞いた、あの高笑いを部屋中にぶちまけた。

「また出会えて良かったよ。今度こそ、契りを交わそうではないか――魔鏡よ」

 鳴り渡る哄笑は、室内の空気を淀ませる。ひたすら甲高い笑みを腹の底から吐き出し続ける式原の姿を、光華は寒気すら覚えながら見つめていた。




夜通し降り続けた雨のせいで、空気は皮膚に粘り着くかのような湿度を纏っていた。今日の天気は見るからにあまり良くなさそうだった。朝8時を過ぎたというのに、空模様は巨大な象が群れを成しているかのような灰一色に染まっている。街に吹く生温い風は、まるで心に不快感を撫でつけるかのようだ。いつまた雨が降ってもおかしくない。非常に不安定な雲が、東京の街の上にはひしめいていた。

「天気予報見たか? 沖縄の方から台風が接近しているらしいな」

「それでこの天気か。でもまぁ、考えてみれば今年はあまりそういうことがなかったから。ようやく来たってところなのかもしれませんね」

 警察署内の一角に設けられた小さな喫煙スペースで、2人の警官が勤務前の僅かな時間を持て余している。一方は30代半ばを越えた中堅であり、もう一方はまだ顔に幼さを滲ませる若い警官だった。中堅の警官はベンチに座って口から紫煙を吐き出し、若い方は円柱型の灰皿の前に立って、煙草から灰を落としていた。

 スペースには彼ら以外にも数名の利用者が見られる。1人で、または同僚と会話を楽しみながら、皆一様にそれぞれの時間を過ごしているようだった。

「そういえば、あの事件の犯人のこと、聞いたか?」

 中堅の警官が、足を組み変えながら話題を変える。灰を落とし終え、再び口に煙草を加えながら、若い警官はわずかに眉を顰めた。

「あの事件って、連続猟奇殺人の?」

「ああ。あの事件に、二条裕美が関与している可能性が大きくなってきたって話さ。まだ内輪だけの情報だけど、かなり信憑性は高いらしい」

「へぇ。初耳ですね。二条裕美って、あのニュースのご意見番だかの? 確か行方不明になってましたよね?」

「ああ。どうもその失踪がな。臭うらしい。謎めいているっていうかな。不審な点も多いらしい」

「へぇ。それで、なにかあの事件との関連があるような証拠でもあがってきたんですかね」

「多分な。今夜あたり、記者会見を開くみたいだぜ。多分、世間は騒ぐだろうな。またややこしくなりそうだ」

「ですね。でも確かにあの人、変なタイミングで行方をくらませたなとは思っていたんですよね。最近はとりあえず、被害者が出たっていう情報はないし。本当にあの男が犯人だったら、衝撃ですね。でも、なんか死体が見つかったあの家、凶悪犯が所有していた家なのかもしれない、って話もあるじゃないですか。もしかして、二条裕美もその犯人と関わりがあった、ってことなんですかね」

「式原明か。何年か前に刑務所で自殺した男だ。ひき逃げで自首にきたが、とんでもない。聞くだけで胸くそ悪くなるような殺人を何十件も起こしていた。確かに奴が生きていれば、こんな事件を起こしただろうな」

「実際、あの話って本当なんですか?」

「どこまで真実なのかは怪しいな。でも、あの家が式原のものだということは、とりあえず正しいらしい。それ以上はただの噂だ。だが……奴と二条の関わりが立証されれば、もう一騒ぎするだろうな。ブンヤが涎たらして寄ってきそうだ」

「今でも大分、週刊誌が騒いでるみたいですしね。亡霊とかなんとか、そういうの好きですよねぇ、みんな。ま、俺も好物ですけど」

「今となっては何でも言えるさ。まぁ、とりあえず二条裕美についてはあの事件の管轄の奴らに任せておいて、俺たちは俺たちの仕事をしようか。東京は事件で溢れているからな。他人の仕事に頭を突っ込んでいる暇はない」

 ですね、と陰鬱なため息を煙草の煙と一緒に吐き出しながら、若い警官は再び灰皿に手を伸ばす。

 その時、警察署内の廊下とこのスペースを区切っている自動ドアが、微かな駆動音を鳴り響かせながら開いた。足音は複数。3人の警官がドアをくぐって中に入ってくる。ベンチに座っている方の警官は、その人物たちの中に馴染みのある顔を見つけたのか、途端に表情を綻ばせた。

「お、珍しいじゃねぇか。一昨日のことは、不問になったのか?」

 からかうような口調で、その人物に声をかける。立っている方の警官は「おはようっす。煙草また始めたんですか?」と砕けた調子で軽く頭を下げた。

「まぁ、なんとか。こってり絞られたけどな」

 その人物は淀みのない足取りで2人に近づき、曖昧な笑みを零した。それから灰皿の前いる警官に向き直り、スラックスのポケットに手を入れた。

「おはよう。松本、いきなりで悪いんだけど、1本お裾分け頼めるかな。ちょっと切らしちゃってね」

「いいっすよ、それくらい。でもいいんですか、柳川さん。煙草吸っていくと、田辺の頑固爺に色々言われるんでしょ?」

 ポケットからマイルドセブンのソフトパックを取り出しながら、松本と呼ばれた若い警官は片眉をあげる。ポケットに右手を入れたままの柳川健吾は片手で拝むようにすると、口元に苦笑いを浮かべた。

「だから今の内に吸っていこうっていう魂胆だよ。悪いね、いただくよ」

 どうぞどうぞ、と笑いながら右手を軽く揺らす松本に断りを入れ、柳川は差し出されたパックから煙草を1本引き抜いた。光の加減のせいだろう。ワイシャツの胸ポケットからライターを取り出す柳川の両目が、薄く金に輝いたような気がした。



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