8話「テノヒラ、ハラリ」
魔物の話 53
別段誘われたわけでもなく、またこちらから提案したわけでもなかったが、その場の流れでレイは佑の部屋に移動した。佑は自分の部屋の隅に置かれている小型の冷蔵庫から350ミリリットル缶のコーラを2本取り出すと、そのうちの1本をレイに手渡した。お返しにレイはバタークッキーを1袋取り出す。
閉めきられた部屋の中には生温い空気が充満している。佑は勉強机の上のリモコンを手に取ると、それをエアコンに向けてかざした。その間にレイはベッドに腰掛け、ティッシュを1枚ボックスから引き抜き、そこにクッキーを撒いた。エアコンが作動したことを確認すると、佑はクッキーを挟んでレイの隣に座った。1枚クッキーを手に取り、囓る。レイも同様に口に運んだ。
悠の部屋と同様、室内は常夜灯の橙の光で照らされていた。レイの影も佑の影も薄明かりの中に滲み、部屋は暗がりの中に伏している。互いの表情をぎりぎり認識し合うことができる程度の明るさだ。電気を点けても良かったが、特に不自由は感じなかったし、佑もスイッチを押しに立つことはなかったので、レイは黙って座っていた。電灯を見上げ、それから隣の佑に目を移す。闇に浮かぶ彼の表情は、光の加減のせいなのか先ほどよりもさらに疲れているように見えた。
「今日はお疲れ様でした。久しぶりのお友達との再会だったのに、用を押し付けちゃってすみませんでした」
「気にしないで。怪人が出たら連絡してって言ったのは俺なんだし。連絡してくれて助かったくらいだよ。ま、結局怪人には逃げられちゃったけど」
「すみません。私の力が足りなくて……最初は察知できたんですけど」
佑から電話がかかってきたのは、悠と一緒にハンバーグにするためのひき肉を捏ねていた最中だった。「怪人が見つからない」と彼は疲労を色濃く滲ませた声で伝えてきた。レイの頭にも怪人の反応が働きかけてくることはなかった。とりあえず怪人が姿を消してしまった状況で、これ以上彼の時間を犠牲にするわけにはいかないだろう。レイはまた反応があったら電話をするので、友達のところに戻って欲しいと頼んだ。佑は渋ったが、レイが懇願すると、分かったと言い残して電話を切ったのだった。
「あんまり気にしなくていいよ。調子の良い悪いは誰にだってあるんだし、仕方ないよ」
俯くレイを、佑は微笑んで慰めてくれる。その瞳にほんのわずかだが、光が帯びたのをみて、レイは少しだけ安堵を覚えた。同時に胸の奥にくすぐったいような感触が伝う。やはり自分はこの人の笑った顔が好きなんだな、と実感する。
「怪人が出たらまた教えてよ。俺、真っ先に駆けつけるからさ。レイちゃんの力が俺には必要なんだ。今日だって実際に怪人はいたわけだし」
包帯の巻かれた自分の左手を見やり、佑は目を細める。悔やんでいるようにも、緊張しているようにもみえる横顔だった。
「そんなに買い被られても、恥ずかしいです。お兄さんだって頑張ってるんだから、私も頑張らないといけないのに」
マァズは言っていた。お前はこんなことをしている場合ではないのだと。なぜ最高の怪人として振舞わないのか、と。世界の摂理さえ変える力を持っているはずなのに、今のままでは宝の持ち腐れだ。あのネズミは、そうやってレイを揶揄してきた。
力は欲しい。決まっている。そうでなければ悠を守れない。式原の陰謀を阻止することもできない。だがその一方で、怪人に取り込まれることを拒む自分もいる。佑と悠と暮らす毎日を手放したくはないと足掻いている自分を、レイは看過できない。
レイもまた、佑と同じように自分の手を見つめる。その手には傷や汚れ1つない。かすり傷程度なら、瞬時に回復してしまうからだ。深手を負ったとしても1日休めば動けるようにもなる。それが何かの拍子に佑にばれてしまえば、もう今のように彼の隣にいることはできなくなる。それを想像するだけで、胸が張り裂けそうだった。
「そんなに背負うなよ」
レイは佑に顔を向けた。彼は力強い眼差しでレイを見ていた。その瞳に引き込まれる。頭の中心が痺れ、ぽかんとその表情を見つめたまま固まってしまう。
「怪人を逃がした俺が悪いんだ。レイちゃんのせいじゃないよ。もっと頑張らなきゃいけないのは、俺の方だ」
彼の口から紡がれる言葉をレイは胸の奥で聞いている。その声音からはレイの身を案じ、心配してくれることが伝わってきて、なんだかホッとした。
「そういえば悠は今日、元気にしてた?」
佑は話題を変える。レイは頷いた。
「そりゃあもう元気でしたよ、スーパーにも一緒に行きましたし。あ、そういえば悠と一緒に作ったハンバーグ、冷蔵庫にあるんですけど。お腹すいたら食べてください」
ちらりと佑のほうを見て言うと、佑は嬉しそうに「そう、悠とハンバーグを」と言って笑った。「ありがとう。明日の朝にでも、食べるよ」と告げる彼の言葉を、レイは無言で頷くことで応じる。
今日のことを話そうか、と一瞬迷った。口を開きかけるが、寸前で声を詰まらせる。リリィ・ボーン。マァズ。最高の怪人。つい数時間前に耳にした単語が頭の中を巡る。しかし結局、それらを佑に話すことはできなかった。
まるで時が止まったかのような藍色の闇の中。いつ終わるとも分からない、彼と2人きりでいるこの穏やかな時間を、無粋な要素で汚したくはなかった。
その時、レイは佑の手が微かに震えていることに気づいた。その横顔も強ばり、視線は闇の中にある一点を捉えている。まるで彼の周囲にだけ月のない夜が現れているかのようだ。その口から嘆息が零れる。レイの気を引こうだとかそういう甘えの感じられない、色濃い、肩の重荷に耐えかねた者が吐き出す類のため息だった。
何か不用意に尋ねるのも憚れる雰囲気で、レイは急に緊張を覚え、コーラで口を湿らす。ベッドの上に置くにはどうにもバランスが悪い。開けた缶は自然と足下に下ろすことになる。佑の足下に置かれたコーラはまだプルタブが起きていなかった。
外は雨が降っている。まばらな雨音が、室内に落ちた沈黙のすき間を縫うように響いてくる。エアコンの駆動音がささやかに室内を跳ねる。それ以外は何の気配も音もなく、驚くほど静かな夜だった。まるで雨が世界中のあらゆる感覚を吸い取ってしまっているかのようだった。
淡々とした夜の静寂の中、ベッドの上、肩先が触れてしまうくらい近くに佑がいる。真夜中に2人きりで佑の部屋にいるということが、ひどく奇妙に感じられた。気詰まりを覚え、レイは隣で俯く佑のことをあまり意識しないようにしながら、コーラを飲み、部屋の中に視線を彷徨わせる。特に何かを見つけたわけではなかったが、壁に立てかけられたギターケースのところで目を止めた。埃を被った、ここしばらく使った形跡の見当たらない、佑の持ち物。藍色の闇に透かしてみると、まるでそれは海底に沈み、人々の記憶から忘れさられてしまった何かの残骸のようだった。
「そういえば、結局、聞かせてなかったよな。ギター」
レイは佑を見た。佑はギターのある方角を見つめていた。その視線に込められた憂いの正体を、今度はレイもまた理解する。見るまいとは思うが、上辺の気持ちに反して、視線は彼の左腕に向いてしまう。包帯が幾重にも巻かれた、彼の心模様を象徴しているかのようなその部分に、レイの目は釘づけになる。
「レイちゃんに聞かせてあげるって約束したのに。本当なら今すぐにだって聞かせてあげたいんだけど、今の俺にはできない。ごめん。こんなことになっちゃって」
話しているだけで疼くのか、佑は左手の指を曲げたり伸ばしたりしている。その程度のことなら差し支えはないらしい。だが握力は全快時のおよそ半分まで落ち、弦を奏でるなどの複雑な指さばきをすることはまだできない。完治には数カ月は要すると医者から告げられたという話を、レイは以前、佑自身の口から聞かされていた。
「待ってますよ」
その声はレイ自身も驚くほど、夜気に澄んで響いた。佑の目がゆらりとレイを捉える。レイは微笑みかけた。
「大丈夫、いくらでも待ってますから。治ったらまたライブ、やるんですよね? その時には絶対に行きますから」
彼の沈んだ心を少しでも励まそうと、レイは努めて明るく声を出す。しかし、佑の表情は変わらず優れない。むしろレイの言葉で、その翳りは増したように思えた。
何か変なことでも言っただろうか。不安が胸をざわめかせ、自分の発言を頭の中で繰り返すレイに、佑は足下を見つめたままぼそりと呟いた。
「もう、やらないんだ」
彼の言葉には大きな失意が滲んでいた。その一言に込められた闇のあまりの深さに、レイは声を失う。佑は視線を上げ、その焦点をレイの顔に合わせると、ぎこちなく笑った。
「もうライブも、バンドも終わったんだ。もうレイちゃんに聞かせること、できないんだ」
彼の表情に浮かんでいたのは泣き笑いだった。その眉も目も鼻も悲愴に彩られているのに、口元ばかりが笑んでいる。それはひどく歪だった。佑の今にも崩れそうなほどに弱々しい顔色は、レイの胸に刺すような痛みを与えた。
「……それ、どういうことですか」
眉を寄せ、尋ねる。何か嫌な予感がした。佑の口が動く。自分から尋ねたにも関わらず、レイは彼の口から紡がれる言葉が怖くて、耳を塞ぎたい衝動にかられた。
「今日、言われたんだ。新しいギターを見つけたって。おまえは、用済みだって」
レイは目を見開いた。心臓の鼓動が激しく揺れる。佑のため息が夜を濡らした。彼の発した告白は残酷で、レイでさえにわかに受け容れがたい、あまりに醜悪な現実だった。
「……なんで、そんな」
「わからない。みんな優しかったけど、俺の腕を気にしてくれてたけど、それがあからさますぎて。厄介者を払えて清々したって、顔に書いてあったもんな。ここにお前の居場所なんかないって、あいつら態度で言ってたよ」
佑はそこで笑おうとしたらしかったが、レイの目には少しも笑みなど見えなかった。そこにはただひたすらに深い悲しみと、心残りばかりが渦巻いていた。
「当然だよ。俺のせいで、せっかくのでかい舞台を逃して、それでしばらく合わせることもできないんだから。本当なら俺の方から、身を引くべきだったんだ」
「そんなこと……」
「だけど、あいつらとずっとやってきたからさ。諦められなかったんだ。これからも一緒に音楽やって、馬鹿やって、ずっとそうやっていけると思ってたのに……待っててくれると思ってたのに、それも俺の勝手な思い込みだったんだ」
まるで感情が決壊したかのように、佑は次々と言葉を並べ出す。その声音は不安定なほどに激しく揺れていて、レイの心を激しくかき乱す。彼の悲しみが胸を衝く。
「でも、そんなの絶対おかしいですよ」
そう吐き出すレイの声もまた震えた。絶望に引かれたからではない。怒りのためだ。レイのためにマスカレイダーズを非難し、激怒してくれた佑のように。レイもまた彼のために本気で怒る。
「だってお兄さんだって、一緒にやって来た仲間じゃないですか。それを使い捨てみたいに。ちゃんと言ってやったんですか?」
「言ったよ。やっぱりショックだったし。喧嘩もした。……だけどやっぱり、あいつらの気持ちは変わらなかった。次のライブに向けて新しいメンバーで準備もしてるって。ギターの弾けない俺はもう、用済みなんだ。もうあいつらの側にいる権利さえ、もうないんだ」
そんなことはない、と言葉をかけたかったが、その慰めは喉の奥で留まった。そもそも佑にマスカレイダーズを紹介し、戦いの道に誘ってしまったのは他の誰でもない、レイ自身だった。彼がこれ程までに嘆き、苦しんでいるその原因はレイにもあった。慰める言葉すら持たない自分がひどく愚かしい存在に思え、レイは奥歯を軋むほどに強く噛みしめる。
「ギターも一応持っていったんだ。もしかしたら、と思ってさ。だけどさ、ダメなんだ。この指が、動かないんだよ。あいつらの言う通りだ。俺はもうダメだ。もう……」
包帯によって束縛された左手を恨めしそうに見つめ、佑は声音を震わせる。右手は履いているスウェットの膝をきつく握りしめていた。
「しろうまもなくなった。マスカレイダーズにも見捨てられた。ギターを弾くこともできなくなった」
胸が苦しい。レイは自然に自分の胸を指先で撫でている。彼の痛みが、悲観が、まるで自分のもののように伝わってきて、レイの体内を蹂躙していく。レイもまた佑と同じくらい深い皺を眉間に寄せている。
「俺にはもう悠と、この右手しか残ってないんだ。……怪人を殺して、平和な世界を作る。その道しか」
包帯の巻かれた腕を見つめる彼の暗い眼差しが語るもの。それは決意だった。
無事な方の、しかし数多くの肉を切り刻み、数多の悲鳴を聞いてきたであろう右手を佑はまるで自分という存在を保つための命綱を見つめるかのような目で、睨んでいる。彼が怪人の撲滅に執心する本当の理由を、レイはその瞳に見た気がした。仲間に裏切られ、マスカレイダーズに捨てられ、しろうまという家族を失った彼にはもう、怪人を憎悪し、悠を守るという道しか見えておらず、実際、それ以外に残されていないのだろう。
しかし彼の目指すその未来に、レイの姿はない。そのことに一旦気づいてしまうと、目に映る全てのものがとりとめのないものに見え、レイはこの場から逃げ出したくなった。
「……私は」
膝の上で握り拳を作って踏みとどまり、レイは呟く。佑が首を捩り、その視線が自分を射抜くのを感じた。レイは顔をあげる。視界に飛び込んできた佑の紅潮した頬と、涙ぐんだ目が、レイの心を塗り潰す。
「私は、お兄さんのギターが聞きたいです。別に大きな舞台とかじゃなくていいから、好きなことやってるお兄さんを見たいんです。だから、私も精一杯手伝いますから、そんなに悲しそうな顔、しないでください」
それは小さな慟哭だった。すり切れた祈願でもあった。
佑は虚を衝かれたかのように目を瞠り、レイの顔を見つめていた。一点の隙もなく、一秒の瞬きもなく、唇を固く閉じて、ただじっとレイのことを見ている。その大きな瞳で心の内を透かすように凝視されているとさすがに気恥ずかしくなって、レイの方が先に視線を逸らした。
しばらくしてから佑は口を開いた。足下に視線を落とし、そしてまたあの崩れそうな、泣き笑いをみせる。
「ありがとう。レイちゃんは優しいよ……でも俺にはそんな言葉、かけてもらう価値ないんだ」
「……一体、どうしたんですか」
自暴自棄とも呼べる佑の言動にレイは不審なものを嗅ぎ取り、眉をひそめた。
「何か他にもあったって、そういう顔、してますよ」
レイが指摘すると、彼は口をもごもごと動かした。ここで話をするべきかどうか、迷っている顔だった。しかしレイは催促することなく、彼が口を開くのを黙って待つ。コーラを手に取り、唇を湿らせる。裸電球の織りなす不透明な暗闇の中で、佑の体の輪郭は非常にぼんやりとしている。
薄闇越しに佑を見ていると、レイは自分の頭が痺れるように、ぼうとしてくることに気づいた。それは夢と現実が足並みをそろえているかのような、実に不思議な感覚だった。
レイの目には、佑は脅えているように映った。こちらの様子をちらちらと窺っている風でもある。それはレイが逃げないように、どこかにいかないように、確かめている視線だった。
「……お兄さん」
その不安定な心境を映し出したような彼の表情を見つめているうち、レイはたまらず、自分の手を彼の手に重ねていた。佑は驚いた様子でびくりと体を震わせる。レイは微笑を浮かべ、小さく顎を引いた。1週間前、悠の病室で指を絡めたときと同じように、彼の手は温かかった。
「大丈夫ですよ。私は、ここにいますから」
まるで泣いている迷子の子どもに言い聞かせるような気分で、レイは佑に囁いた。
佑はじっとレイを見つめている。それから納得したかのように力強く頷くと、腰をあげ、小さなため息を浮かべた。
困惑するレイの前で佑は先ほど壁に立てかけたギターケースを手で引き寄せると、ジッパーを引いた。中に手を突きいれ、何かを取り出す。それはタオルにくるんであった。細く、1メートル程の長さがある。佑はそれを慎重な動作で膝の上に置いた。少しの間、物憂げな視線で見つめたあと、両手でタオルを剥き始める。
泥の滲んだタオルの中から出てきたそれは、明らかに刀だった。
「なんです、それ?」
汗がじわりと額に浮くのが分かった。唾を呑み込みながら、佑が手に取ったそれを凝視する。刀は半ばからへし折れ、全体的に薄汚れていて、刃こぼれも見るからに酷かった。柄は歪み、へこんでいる箇所もある。それは尋常ではない力で握られた証拠だった。
特殊な工具を使ってねじ切られたような歪な断片が、暗闇の中で自己主張をするかのように妖しげな光を発する。その輝きに、なぜかレイは悪寒を覚えた。この感覚を前にも味わったことがあるような気がして記憶を探ると、脳裏に佑が病院で見せてくれた血濡れの刃が過ぎった。今はフェンリルの剣の刃先として使用されている、あれだ。
「これは、オウガの刀だ」
ようやく口を開いた佑の顔をレイは一瞥した。
「オウガって、あの?」
「うん。昼間、レイちゃんから連絡を受けて行った場所でさ。さっきも言ったけど怪人がいて、そいつが持ってたんだ」
レイは昼間に察知した怪人の奇妙な気配のことを思い出す。まるでモザイクが被せられているかのように、その怪人のイメージはひどく濁っていた。しかしそれが怪人の持つ固有の能力からくるものなのか、それともレイの力が衰えたからなのか、今でも曖昧なままだ。
「その怪人様子がおかしくてさ。なんか錯乱してるっていうか……戦うこともなく逃げられたんだよ。追いかけようとしたけど、全然追いつけなくて。こいつだけは奪いとったんだけど」
レイは顔をあげ、佑を見た。佑は頷く。怪人がオウガの刀を持っていた。それが意味することは1つしかなかった。佑が到着する前まで、あの場所で、オウガが怪人と戦っていたということだ。
「その、あの場所に、オウガはいなかったんですか?」
「うん。いなかった。あの怪人に負けたのか勝ったのか……生きているのかも分からない」
佑は沈痛な面持ちで、刀の柄を握り締める。その目は折れた刀身に注がれているようだった。彼の包帯にくるまれた左の指が、その鈍い輝きを撫でる。
佑は何かを思案しているような、または何かを逡巡しているかのような眼差しで刀を見つめている。そして再び室内に沈黙が訪れた。エアコンから吹き降りてくる冷たい風が、首筋をくすぐる。
レイもしばらく無言のまま、足元に転がったギターケースに視線を落としていると、「この刀さ」と佑がようやく口を開いた。ひどく重たそうな口ぶりだった。レイは顔をあげ、2回瞬きした。
「折れてるだろ? この先端。これ、俺が折ったんだ」
その告白を、レイはあまり驚かなかった。あの病室でみせられた刃を思い出した時点で、何となく予想はできていたからだ。あの刃も確か、ねじ切られたような切断面を晒していた。
「フェンリルの剣先になってる、あれのことですよね」と静かに尋ねると、佑は目を剥き、それから観念したかのような表情を浮かべた。
佑のこめかみから流れ、頬を伝う透明の汗を目で辿る。彼の苦悶の貼りついた横顔を眺めているうち、レイの頭にある考えが閃いた。
「あの、お兄さん」
「……なに?」
「……あの、もしかしてお兄さんは、オウガの人の正体に心当たりがあるんじゃないですか?」
式原がいたというあの家の前で、佑はオウガの正体を知らないと言っていた。だが今の会話の中で、もしかしたら佑は真実を語ってはいないのではと不意に感じた。全てが嘘であるとは思わない。だが、彼の語る事実は虚飾を帯びているのではないか。彼の顔色を覗き見ながら、レイはそんなことを予想する。
果たして、佑は首を縦に振った。苦悶に顔を歪め、切り傷のように微かに開いた唇から声を漏らす。その瞬間、どこか遠くで救急車のサイレンの音が聞こえた。
「俺はオウガの大事な人を傷つけた」
両手を顔の前で組み合わせ、その拳に額を載せて、佑は呻くように言った。サイレンの音が遠ざかる。命を運ぶどよめきがレイたちの側を過ぎ去っていく。
「いや、俺は……人を殺したんだ。フェンリルの、力で」
佑の声が闇に溶け、宙に波紋を広げていく。レイは自分の心音が早鐘を打つのを感じた。口の中が干上がる。コーラを手に取ろうとするが、その指先は細かに震えていて、缶を掴むことすらできなかった。
「……一体、どういうことなんですか」
浅く息を吸い、缶を手にすることを諦め、顔をあげながら問う。佑は重く濁ったため息を吐き出すと、過ちを悔いるように掌で顔を覆った。
「……3年前。前にも言っただろ? 悠がさらわれそうになったことがあるって」
レイは頷いた。3年前、悠が男たち――レイは彼らが式原と二条裕美であったことをすでに知っている――によって車に連れ込まれそうになったという事件は佑や悠から何度か聞いていた。その場面を目撃した佑は血相を変えて犯人に飛びかかり、辛くも悠を救いだしたという。この話は、悠との間でちょっとした伝説となっている。
事件のことを悠は嬉しそうに話し、しきりに佑の格好良さを表現していた。悠の中では男たちに狙われた恐怖よりも、佑が助けてくれたことのほうが印象的だったのかもしれない。悠の中で佑は確かにヒーローだった。
その一方で佑はあまり事件のことを語りたがらなかった。妹が危険に晒された出来事を積極的に話題にしたくない気持ちは理解できたが、それにしても顕著だった。悠が誘拐されかけたという事実以上の何かが、話題を避ける彼の態度からは見え隠れしていた。
「式原の、ことですか」
「うん。あの時は何とか悠を助けられたんだけどさ。でも、次にいつあいつらが悠を狙ってくるのか分からないじゃないか。諦めるとも思えなかったし。そんなことずっと考えてて、不安で狂っちゃいそうになってた時にさ、偶然見つけたんだよ。あいつらの、仲間を」
「仲間って……」
「女の人。見たんだよ。ここんとこに、奴らと同じ……鳥の形のタトゥーがあったのを」
佑はシャツの襟口を人指し指で少しだけ下に引き、鎖骨のあたりを中指で叩いた。
「それでその時、ゴンザレスさんにも出会って……フェンリルを渡されたんだ。お前が妹を守れって。あいつらを倒せるのはお前しかいないって」
佑の震える声音を、レイはどこか虚ろな思いで耳にしている。おそらく佑が目にしたのはタトゥーではなく、鳥の形をした痣なのだろう。それは怪人を生み出した罪の証。そう橘看護師が言っていたのを思い出す。確かにそのマークは式原と二条にも刻まれている。レイの父親の胸にも同じマークがある。
「悠を守るため。そう覚悟を決めて、俺、その人のところに行ったんだ。場所はゴンザレスさんが教えてくれたし。そしたら、その人はオウガを持ってた。プレートを取り出された時、俺はゾッとしたよ。フェンリルと同じ力を相手も持ってる。その力で悠を狙っている。そう考えたら、頭に血が昇っちゃって……それで」
過去に起こした過ちに耐えきれない、とでもいうように佑はそこで言葉を切り、目を閉じた。レイは頭の中にあったつかえが外れていくような感触を覚えていた。謎が氷解されていく、今まで暗幕に包まれていた事実が明かされていく様は、どこかパズルが完成されていく過程を眺めているのに似ていた。
「……でも、こんなのただの言い訳だよ。俺は人をこの手で切った。オウガが言ってたんだ。俺のこと、人殺しだって。お前があの人を殺したって。その通りなんだ」
佑の左手が声と一緒に大きく震える。レイもまた胸の内に大きな動揺を覚える。まるで佑と感情がそのまま繋がっているかのように。佑の痛みは、レイにも伝わってくる。
「罰を受けなきゃいけないことは分かってるんだ。だけど、俺はこうやって逃げ続けてる。怖いんだ。俺がいなくなれば、悠はどうなる? 俺のせいで全然関係のない悠まで罪を背負って、罰を受けることになったらどうなる? そんなこと考えてたら、結局、どうにもならなくなって……だから、結局、逃げることしかできなくなってる。最低だよ、俺は」
切実な心情を、佑は吐露する。感情の昂ぶりを抑えきれず、終わりのほうは涙声になっていた。この話を口にするのを彼が悩み、迷っていた理由をレイはようやく理解する。
過去に人殺しをした等という話をすれば、非難され、軽蔑されるに決まっている。レイも離れていってしまうかもしれない。佑がそう考えるのは当然のことだろう。
しかしそれでもこうして話をしてくれたのは、胸に溜めこんでいた内情を吐き出して少しでも楽になりたかったからだ。
佑の体の震えが、心の呻きが、シーツを渡ってレイに流れ込んでくる。レイは呼吸が詰まるのを感じた。彼の発する嘆きは、困惑は、ひたすらに痛くて、そして重かった。
そんな彼の状況を、レイは自身と重ね合わせている。嘘と黙秘はその時期を募らせば募らせるほど、重みを増して、自分の体を押し潰す。レイも佑に重要な秘密を隠している。彼の悩みが、他人事とは思えなかった。
「俺もあいつらと同じなんだ、怪人を作り出してる、あいつらとこれじゃ何も変わらない」
佑の叫びは言葉と一緒に、自分の存在そのものも吐き捨てるかのようだ。彼の呼吸は荒く、一言、言葉を紡ぐ度にその心をすり減らす。
レイは彼の呻きを耳に受けながら、膝の上に置いた拳を握りしめた。
自分の罪を認めるべきだ、だとか、罰を受けるべきだ、だとか彼のことを思えば、そういった類の言葉をかけるべきなのかもしれない。糾弾を浴びせかけることが、この場で自分に与えられた役割なのかもしれない。
佑の行いは倫理から遠くかけ離れたものであり、正しいことではけしてないだろう。少なくとも、逃げて許されることでは絶対にない。
佑は間違っている。このまま逃げ続けても、先に待つ光などありはしない。待ち受けているのは、逃げた距離と同じ分だけ重量を増した罪の重みだけだ。彼が奈落に向かって着実に足を進めていることは、覆しがたい事実だった。
しかし――その一方で、レイには彼を責めることがどうしてもできなかった。それはおそらく、自分もまた佑と同じ業を背負っているからだ。彼を責めることは、すなわち自分を責めることと同義であり、現実から目を背けているレイには彼を咎める権利などないように思えるのだった。レイも佑も、罪逃れの咎人であることに差異はないのだ。ある意味で、レイと佑は共犯者だった。
レイは雨音に思考を委ねたあとで、暗く俯いた佑を見やった。そして静かに息を吸い込むと、その膝の上に置かれた彼の右手をそっと手に取った。
佑は顔をあげ、驚いたようにレイを見た。レイは佑の手の感触を指でなぞるようにしながら、彼を正面から見つめた。佑の目は常夜灯の光を映しこんで、ろうそくの火のような輝きが灯っている。
「確かにどんな事情があっても人を殺すのはいけないことです。お兄さんも、罰を受けなきゃいけないと思います」
彼の瞳を自分の瞳に映し込みながら、レイは心中を述べる。皺でよれたシーツを介することなく、肌から直接、彼の不安や恐れが伝わってくる。まるで彼と繋がっているかのようで、レイはそれが少し嬉しかった。
「だけど、私にはお兄さんを叱ることも憎むことも、できないです。悠のことを思ってやったことが分かるから。その気持ちが分かるから、それが間違いだって、言えないです」
悠が誘拐されたとき、レイは式原と二条に強い憎悪を覚えた。その時の事を思い出すと、自分も佑と変わらないのだ、と今となっては実感する。愛する人を守るためなら、自分にいかなる罪が被さろうとも構わない。その想いを、否定してはいけないと思った。
「昨日駅で、私の嘘を信じてくれるって、言ってくれました。どんな時でも私を許してくれるって言ってました。だから私も同じです。私は……お兄さんを許します」
駅構内の喧噪の中、彼は確かにそう言ってくれた。レイの目を見て、周囲の雑音にかき消されることのないほど明瞭とした声で、そう断言してくれた。嘘偽りないその言葉で、レイはどれだけ救われたのか分からない。だから今度は自分が佑の心を救う番だと、レイは自分の役割を確信する。
「だから私もお兄さんを許します。世間は絶対に許さないだろうし、大事な人を傷つけられたオウガの人にも罪を問われ続けると思います。でも、世界中の人がお兄さんを責めても、私は許します。お兄さんが私を守ってくれると言ったように、私も、私だけは、お兄さんを守りますから。絶対に離れませんから」
信念をこめて、なおさら強く、佑の手を握りしめた。冷たかったその手には、レイの体温が乗り移って、今ではほのかな温もりを帯びている。
佑はこれまでレイに沢山のものを与えてくれた。だから、今度はこれまで与えてもらった分を返していかなければならなかった。レイが佑にできることはあまりに乏しかったが、それでも、少しずつ渡していくつもりだった。彼の心の淀みを、冷えた体温を、失った笑顔を、取り戻させてあげたいという気持ちに変わりはない。
「レイちゃんには、元気づけられてばっかりだよ」
佑は目元に涙を滲ませ、口元を緩ませた。その声音は震えていたが、それが今までの不安や後悔を帯びたものと違うことは一目瞭然だった。
「本当に、助かってるんだ。レイちゃんに、どれだけ助けられているか、わかんないよ」
紅く滲んだ頬に透明の滴が伝う。レイは先ほどまで彼の手を握っていた掌で、今度は彼の肩を優しく包んだ。
それをきっかけにして、佑はレイの胸に飛び込んできた。抗うことなく、レイはそのままベッドに押し倒される。レイの体の上に、彼の体が覆い被さった。スプリングが軋み、衝撃でコーラの入った缶が倒れ、佑の足に払われたクッキーが床に散らばった。しかしそれらに気を止めている余裕は、レイにも佑にもなかった。
佑はレイの薄い胸に頬を寄せ、体に縋り付くと、堰を切ったように泣き喚いた。レイは彼の髪の匂いや、涙の温度や、その体の重みを全身で受け止めながら、片方の腕をその背中に回し、もう一方の手で幼子をあやす母親のように頭を撫でてやった。自分の体の上に覆い被さって、子供のように泣く彼のことを、レイはとても愛おしく感じた。
生温く、汗ばんだ夜の下。
レイと佑はそうやって、抱き合いながら、互いの孤独を分け合ったのであった。
2010年 8月19日
魔物の話 54
目を覚ましたレイが初めて耳にしたのは、雨が窓を叩く音でもなければ、朝を告げる小鳥のさえずりでもなかった。
雨の気配はむしろ薄らいでいたし、何より周囲はまだ闇に満ちていた。むしろ雨音が遠ざかった分だけ、夜が深まり、静寂の質は増したように思える。それでもレイの聴覚は先ほど下の階から聞こえてきた微かな物音を敏感に捉えていた。
けたたましい音がしたわけではない。佑はレイと同じベッドで寝息をたてている。なぜ自分が目を覚ますことができたのか不思議に思えるほど、それは本当にささやかな音だった。しかし、なぜか胸騒ぎがした。その音を聴き逃してはならない、と体の奥底で警報が唸っているような気がする。
とりあえず怪人の反応はないようだったが、それでもこの不穏な感覚を無視することはできなかった。レイは身を捩るようにして起き上がると、タオルケットを腕でのけ、着衣の乱れを直しながら薄闇に目を凝らした。明りを全て落とさず、常夜灯だけでも点けておいたのは正解だった。周囲は悉く色彩を失っているものの、闇に目を慣らす必要はなさそうだ。壁掛け時計を見上げると、針は深夜1時半すぎを示していた。
「お兄さん、起きてください、お兄さん」
レイは眠っている佑の肩を軽く揺すった。何度か呼びかけると、小さな呻き声のようなものを漏らして、彼は瞼を上げた。その頬にはまだ涙の跡が残っており、髪はぼさぼさに乱れている。佑は気だるそうに上半身を起こしながら、寝ぼけ眼でレイを見上げた。
「なにか下にいるみたいなんです。物音がしました」
事情を説明すると、レイの顔色から尋常ではない状況を察知したのか、佑は目つきを鋭いものへと変え、顔を両手で拭った。
「物音って、もしかして、怪人?」
「反応はないですけど、そうじゃないっていう確証はないです。とにかく行ってみましょう……胸騒ぎがします」
レイがベッドから降りると、佑も後に続いた。フェンリルのプレートがポケットの中にあることを確認し、ドアを睨みつける佑の表情は、憑き物が落ちたかのようにすっきりしているようにレイには見えた。その眼差しを向ける顔には、レイの胸に縋って泣きついていた姿はすでにない。それは覚悟を決めた、精悍な男の顔つきだった。
「行こう。この家は俺たちが守るんだ」
彼の強い言葉にレイは頷いた。佑は勉強机の上に立ててあった懐中電灯を手に取ると、ノブに手をかけ、ドアを押し開いた。その背中を心強く思いながら、レイは佑の後を追う。
廊下に出ると佑は一旦、悠の部屋の前で足を止め、物音をたてぬよう静かにドアを開けた。2人で室内を覗き込み、悠が寝ていることを確認する。相変わらずの可愛らしい、見る人の胸をときめかすような寝顔だった。その眠りを妨げないよう、開けた時と同様に静かにドアを閉め、レイは佑と頷き合ってから階段に向った。
足裏を段に置いた際、軋んだ音が響かぬよう階段を下りていくのは、なかなか根気のいることだった。階下の物音を不審なものとして捉えているだけに、逸る気持ちを抑えるのは容易なことではない。だがそれでも心を鎮め、呼吸を整え、暗がりに沈む1階の廊下を目指した。
佑の懐中電灯は下を向き、その足元をわずかに照らしている。段を踏み外してしまうことがないよう、レイは慎重に彼の作り出してくれている円形の灯りに連れ添った。
こちらの存在を悟られてはいけないと判断したのか、階段を途中まで下ったところで佑は懐中電灯の灯りを消した。それだけでしゅんと、周囲の空気が縮こまったように感じられた。急に足元が覚束なくなり、不安なレイの気持ちを察したのか、佑はこちらを一瞥すると、腕を伸ばし、レイの手を掴んでくれた。
暗闇で突然に触れた温もりにレイが驚いて顔をあげると、彼は振り向くことも、口を開くこともなく、黙々と階段を下りた。彼の手に引かれ、レイも順調に段差をこなしていく。
不意に、少し強く彼の手を握りかえしてみる。すると優しい体温が胸に注がれるようで、なんだか照れくさかった。しかし本心から嬉しいと感じた。佑がいてくれる。それだけで足元に光が射し、行く道を照らすようだった。
たどり着いた1階の廊下も、階上と同質の闇に閉ざされていた。静寂に包まれた空間はひどくもの悲しく思え、どこか不気味な様相をさらけ出している。2つ分の足音だけがやけに大きく響いた。
佑がリビングのドアを指し示す。レイはこくりと顎を引いた。佑はレイから手を離すと、懐中電灯で手元を照らしながら、もう1つの手でドアに手をかけた。
彼の喉元が隆起する。レイもまた唾を呑み込んだ。佑は最後の確認をするかのように、レイに視線で合図を送ると、そのドアをゆっくりと開いた。
わずかに軋んだ音が宙を跳ね、夜のリビングがレイたちの立つ廊下と繋がった。
昼の騒がしさに対して、部屋の中は水を打ったように静まり返っていた。しかしそのざらついた闇の中に、確かに何者かがいる気配があって、レイは緊張に息を詰まらせる。佑もその不穏な気配を肌で感じているようだ。ごくり、とレイにも分かる程に唾を大きく呑み込み、それから彼は懐中電灯の光を宙に滑らせた。
がさり、と木の葉同士が擦れ合うような音が鳴る。佑は懐中電灯をそちらに動かした。
光の注がれた場所を見ると、カブトムシの入ったケージが床に横倒しになっていた。中に入れたスイカやプラスチック製の小さな筒はひっくり返り、カブトムシもひどく慌てた様子でしきりに壁を引っ掻いている。
先ほどベッドの上で耳にした物音はこれだったのか、とレイは得心した。窓の締めきられた夜。床に置いてあるケージが自然に倒れるわけはない。それは悠と佑、レイ以外の人間がこの家の中にいるという何よりの証拠だった。
ぎしり、と床が僅かに軋んだ音をたてる。レイたちの前方、2メートル程の距離だ。もはや躊躇う必要もなかった。佑はびくりと肩を震わせると、表情を強張らせ、懐中電灯の矛先を音のした方に向けた。
「誰だ!」
佑の怒声が静寂を剥がし取る。懐中電灯の灯りによって、円形に縁取られた光の中に、白い肌が浮かび上がった。
佑はぎょっと目を剥いた。レイも息を呑んだ。天村家のリビングにセーラー服姿の少女が1人、こちらに顔を向けて佇んでいた。
少女は死人のように白い肌をしていた。艶のある、腰のあたりまで伸びた黒髪は柳の葉のようだ。目は大きく、鼻は高く、端正な顔立ちをしていたが、その人形じみた相貌は美しさよりも先に不気味さを感じさせた。少女の足下には灰のようなものが大量に散らばっていた。軽く積もったそれを足裏で踏みしめ、いかにも邪魔そうにつま先でどかしている。
少女はレイと佑の姿を認めると、不機嫌そうに形のいい眉を寄せた。鼻を鳴らし、わずかに肩をすくめるようにする。両腕を組み、体を僅かに傾ける。
「なんだお前たちは」
少女は不遜に言い放つ。一瞬、レイは呆気にとられた。少なくともそのセリフは、人の家に不法侵入してきた輩が吐く種類のものではないように思えた。
「そこをどいて。姉さんが呼んでるんだ」
少女の発した声が、夜闇にしんしんと沁み渡っていく。今度はレイが眉間に皺を寄せる番だった。彼女の言葉を頭の中で反響させ、噛み砕こうとするものの、その意味を汲み取ることはできなかった。
佑は少女を睨みつけながら、壁のスイッチに手を伸ばした。一瞬、室内に光が瞬き、それからほどなくしてリビングの蛍光灯が点灯する。闇が一息に追いやられ、ようやく視界に色彩が戻る。少女は眩しそうにそっと顔を背けると、目を細め、佑に視線をやった。佑もまた懐中電灯のスイッチを切り、少女と向き合う。少女は長い髪を気だるそうに掻きあげると、再び口を開いた。
「久しぶり。また会ったな天村佑。だけど、今日はあなたの相手をしているほど暇じゃない」
「……なんで俺の名前を」
佑は少女の言動に不信感を強めたようだ。その手はすでにスウェットのポケットの中にある。そこに彼の武器があることを、レイは知っている。
少女は上唇を舐めた。明らかに苛立っている様子だった。その右の瞳が金色を帯びる。警戒するレイの前で少女は人間としての姿をかなぐり捨て、体の線の細い、胸に九官鳥の絵を宿した怪人へと変化を遂げた。人間から怪人に変貌したその異形を前に、佑は唖然と声を漏らした。
「人間が、怪人に……」
「そんなことどうだっていい。通さないなら、実力行使に移させてもらう」
腕から垂れ下がった薄い布のようなものを揺らしながら、怪人は腕を顔の前で払う。腹部には酷い火傷を負ったような傷跡があった。そのせいなのか、怪人の呼気は穏やかでなく、立っているのもやっとのように見えた。
レイは呆然と、絶望感に似た思いを滲ませながら立ちつくした。おそらく佑もそうだろうと思う。その怪人の容姿には、レイも佑も見覚えがあった。
いや、覚えがあるどころではない。おそらくこれから先、どれだけ時間を経ようともこの怪人のことはけして忘れられないだろう。
天村家のリビングに現れ、少女から姿を変えた異形の存在。それは悠の病室に侵入し、そして佑によって倒されたはずの怪人と、明らかに同一のものだった。
思い返してみれば、それは佑が力を得たいと強く思うきっかけを作った怪人でもある。宿敵の登場に、佑は目に見えて動揺した。目を見開き、声を荒らげる。
「そんな馬鹿な……お前は、俺が倒したはずだ! 確かに、あの病院で!」
佑はポケットからフェンリルのプレートを抜き取った。その手が僅かに震えを帯びている。レイもまたフェンリルが屠ったはずの怪人が当たり前のようにこのリビングに登場したことに、言葉を失っていた。
「なのになんで、またお前が……お前がここにいるんだよ!」
もはや悠の安眠を気遣う余裕は、佑の声にはなかった。彼の動揺ははち切れんばかりに膨れあがっている。佑の見開かれた目に、レイはゾッとした。その瞳に宿る不気味な光は、昨日、怪人を惨殺した時にみせたものと同質のものだった。
九官鳥の怪人が腰にぶら下げた拳銃を掴む。同時に佑はプレートの角を懐中電灯のレンズにぶつけた。投げ捨てられ、宙を舞う懐中電灯から次々と銀色の装甲片が飛び出してくる。
蛍光灯の光に照らされたいくつもの装甲のパーツたちが、蜜に寄せ集まる甲虫の如く、佑の体に纏わりついていく。その光景はいつ見ても幻想的で、とても優美なもののようにレイは感じた。数秒と待たせることなく、佑の体はフェンリルに包まれる。最後に飛び出してきた先端が黄色く着色された剣を受け取り、同時にフェンリルは怪人に躍りかかった。
佑の雄叫びが夜の静けさを打ち破る。
怪人が拳銃の引き金を絞ることよりも、フェンリルが剣を一閃するほうが、少しだけ早かった。フェンリルの剣は怪人の拳銃を即座に両断した。怪人破壊された拳銃を床に放り投げると、後ろに飛び退き、それから全身の至る所に巻き付いた布を、まるで蛇のようにはためかせた。弛んだ布地の隙間から紫色をした羽根が、次々と矢のように発射される。
フェンリルは攻撃に反応したが、その全てを捉えることなどできなかった。宙を裂く無数の羽根に打たれ、その装甲から火花が散る。だがそんなことでは佑の闘志は消えなかった。羽根の驟雨が収まったことを知ると、フェンリルは次の攻撃が始まるまでの間隙を縫って、床を蹴った。右手に握った剣を突き出し、怪人の胸を穿とうとする。
しかしその時、レイはハッとした。怪人が両の掌を胸の前で重ね合わせ、まるで祈るようなポーズを取っていることに気づいたからだ。次の瞬間、怪人の体から大量の灰が飛び散った。それが床に散らばっているものと同種のものであることに感づくまでにはそれほど時間は要しなかった。
そして細かな灰を空気に残し、怪人はレイ達の目の前から忽然と消え失せた。突然標的を見失ったことでフェンリルはたたらを踏み、剣先は床を軽く突いた。あたりを見渡し、レイの方を振り返ったフェンリルは焦燥の帯びた声をあげた。
「レイちゃん、伏せろ!」
剣を振りかざすフェンリルを前に、レイは彼の言うとおり、その場で素早くかがみ込んだ。フェンリルの右手首の装甲から小柄な刃がせり出し、甲高い音を発しながら高速回転を始める。その回転から生じるエネルギーは手首を昇り、指を伝って、剣に流れ込んだ。
細かに震えるその剣を、フェンリルは鋭く前に突き出した。螺旋状のエネルギーが剣先を離れ、空気を歪ませながら、レイ目がけて射出される。
彼の意図は遅れて理解できた。レイのすぐ隣、開け放たれたままのドアの前に、まるで空気と同化するようにして、半透明となった九官鳥の怪人が出現していたからだ。
迫りくる気配を察したのか、怪人は片足だけ廊下に踏み込んだ姿勢で振り返った。その腹部を、一直線に放たれた力が穿つ。肉片と悲鳴をまき散らしながら、怪人は後ろにのけぞった。怯んだその体躯に、フェンリルは飛びかかる。剣を一閃し、よろめいた体をさらに薙ぎ払い、首根っこを左手で掴むと、体を半回転させるようにして怪人をリビングの床に叩きつけた。その体から、大量の灰が散らばる。まるで血飛沫のように。
「逃がすか……何べん生き返ろうが、何度でも俺が地獄に蹴落としてやるよ!」
床を跳ねた怪人の体は、ソファーに激突して止まった。昼間、レイが寝そべっていたあの高級品だった。フェンリルは容赦なく、怪人目がけて再び剣先から螺旋状のエネルギーを射出する。怪人はソファーを掴み、上半身を起こすと、慌てふためいた動作で横に素早く飛び退いた。横向きの竜巻のような形を描いたそれは怪人の鼻先を掠め、ソファーを粉々に破壊する。破けたカバーから舞い上がる綿の中で、怪人は演舞を披露するかのように立ち上がり、全身の布を揺らめかせた。
「私は姉さんに会いにきただけだ。お前に構っている暇はない!」
「黙れ化け物! 悠は俺が守る。この家も俺が守る。俺の居場所は、お前たちに渡さない!」
仰々しく両腕を広げた怪人の体から横一列に数本、羽根が射出される。フェンリルは右足首の回転する刃を展開させると、接近してくる羽根を回し蹴りで薙ぎ払った。
両足を床に付け、次の行動に移る素振りをみせるフェンリルに怪人が飛びかかる。即座に剣を一閃しようとするものの間に合わず、怪人の拳を胸に打たれ、フェンリルはよろめいた。続けざまにつま先蹴りを叩きこまれ、その銀色の鎧は宙を舞い、壁に叩きつけられる。
悔しがるように床を叩き、雄たけびとともにフェンリルは起き上がった。その様子は明らかに激昂していて、その猛獣の仮面の内側にある彼の目は、妹の命を脅かそうとする怪人への憎悪で濁りきっているに違いなかった。
体から灰を零しながらよろめく怪人に、剣を振りかざして迫るフェンリル。その光景をレイは慄然とした思いで見つめている。
あの九官鳥の怪人は以前、悠を襲いに病室までやってきた。その怪人が今度は天村家に侵入し、何かを行おうとしている。その事実がいかなる意味を持つのか。悠が危機的状況に立たされているということは、それほど考えを巡らさずとも明らかだった。
本来ならば、佑の援護をするべきなのだろう。
佑は装甲服を纏い、悠を守るために必死で戦っている。レイがここで突っ立っていていい道理は何もない。それこそ、この家にいる理由が分からなくなる。
だが、レイは動けなかった。できなかった。まるで自分の本能がこの戦いに介入することを拒んでいるかのようだった。
膝が笑っている。額にじわりと脂汗が浮かぶ。満身創痍の怪人の姿が、フェンリルに八つ裂きにされた怪人と、そしてディッキーの死にざまと重なる。
フェンリルと怪人。怪人と人間。激突し合い、擦り減らし合う、命。
目の前で行われているこの光景は、自分の心の中で起きている葛藤の再現だ――レイはよろめき、壁に背を預けた。
一体どちらの側に付くのか、この場で問われているような気がした。人間か、それとも、怪人か。底の方にあるレイの本質が試されているように感じた。
悠を守りたい気持ちに嘘はない。式原が最大の敵であることに何の変わりもない。
だがディッキーも、レイも、そして――フェンリルと戦っているあの怪人も全て同一の存在なのだと一旦考えてしまうと、ここで自分が佑に力を貸すことが、なんだかとてつもなく大きな過ちであるように思えてしまうのだった。
「そんなの、違うに決まってるじゃない」
自分の本能が導き出した答えに、レイは抗う。自分がここにいるのは、悠を守り、佑と共に戦う道を選んだからではなかったのか。式原明を探し出し、これ以上災厄が町にはびこることがないよう、その野望を阻止することが目標ではなかったのか。
この怪人は悠を狙った。そして今もまた、彼女に危害を加えようとしている。ならば佑に加担して、一緒にこの怪人を討伐するべきではないのか。何よりも、自分自身には、それをできるだけの力があるのだから。
しかし、いくら自分を言い聞かせようとも、体は動いてくれなかった。自分が怪人の味方なのか、それとも佑の味方なのか、自分自身で分からなくなる。怪人としての本能と、人間としての感情が、レイの内側で拮抗していた。
怪人の悲鳴があがる。フェンリルの回転する刃によって胸の肉を抉られたのだ。紫色の羽毛が散り、薄紅色をした細かい破片が飛散する。レイは暗澹とした思いで怪人に攻撃を畳みかけるフェンリルを眺めている。レイの背後に引く影は、人でもなく、鳥でもない、曖昧な輪郭を描いていた。
その時、レイは頭の奥底から接近する光の渦を感じた。こめかみを押さえ、強く目を閉じて、その感覚を自分の五感と繋ぎ合わせる。そして脳裏に滑り込んできたその情報を読みとると、レイは身を凍らせた。冷や汗で背中が湿っていくのを感じた。
「まさか……」
土の中で伸びた木の根のようだったレイの足が、そこでようやく動きを取り戻した。レイは激しく高鳴っていく自分の心音を感じながら、踵を返し、リビングから飛び出した。背後で大太鼓が叩かれるような激しい衝撃音が響く。
レイはリビングから漏れる光を背に、暗く淀んだ廊下を駆け抜けた。一段抜かしで階段を駆け上がる。
「まさか、そんな」
声が裏返る。言葉が荒い呼気の中に紛れていく。間に合ってくれ、と心の中で祈った。焦りが胸の内を騒がせる。
レイの脳裏に届いた怪人の出現場所を知らせる映像。それは何の疑いもなく、確認し直す必要すらないほどに、悠の寝室を明瞭に映し出していた。
魔物の話 55
「悠!」
レイは不安に誘われるがままに、悠の寝室のドアを開け放った。悠の無事を願い、切迫した思いで彼女の名前を叫ぶ。
しかし室内に足を踏み入れると、薄闇の静寂に響く悠の寝息と、夜をかどわかすような桃の甘い匂いが漂ってきたのでレイは拍子抜けをした。この騒ぎにも関わらず、悠はこちらに顔を向けて先ほどと変わらぬ可愛らしい寝顔を浮かべている。
足元で絶えず聞こえてくる喧噪がまったくの別世界に思えるほど、そこは深沈と夜を刻む空間だった。そのギャップにレイは肩で息をしながら、ドアの前でしばし立ち尽くす。
その時、レイはふと奇妙な物を視界に捉えた。闇にただ一点灯る蝋燭のように、常夜灯の照らすこの部屋の片隅に小さな白い塊が置かれていた。
レイの腕の中にぴったり収まるくらいのサイズをもったそれは、微かに蠢いているようだった。その物体が生き物であることに気が付くのには数秒かかった。蠢いているように見えたのは、その動物の体に生えた純白の毛が風にそよいでいたからだった。
レイは目を見開いた。落ち着きかけた心臓の鼓動が再び高まっていく。生暖かい風が耳元を掠める。見れば、窓ガラスに数センチ隙間が生じていた。その窓は寝る前に、しっかりと施錠をしたはずだった。
「ようやく来たか。遅すぎだぜ、あんた」
白い塊が言葉を発した。レイの目の前でその漠然としていた輪郭が明確な形を切り出していく。大きな耳。前に高く突き出した鼻。小動物の割に発達した2本の手足の先にはそれぞれ5本の指が備わっており、人のように二足で起立している。
それはネズミ――否、レイの息子、ディッキーに酷似した生き物だった。
しかしレイはもう息子と、この目の前に現れた生物とを間違えることはない。それは悪魔の化身。そして、式原明の使い魔たる怪人。
「……あなたは、マァズ」
首筋に冷たいものを覚えながら名前を呼ぶと、マァズは顔の中心から左右に針金のように伸びた髭を撫で、ふん、と鼻を鳴らした。
「名前を覚えてくれて光栄だね。だが、その力の貧弱具合は噂通りだったみてぇだな」
悪態を吐くと、マァズはその赤子のように細く、短い中指をゆっくりと立てた。それは挑発のポーズにも、1を示すサインのようにも見える仕草だった。
「俺がこの家に進入してから、あんたがここにたどり着くまで1分だ。遅すぎるぜ。俺のマザーならその半分の時間で用が足りる」
勉強机の上に座り込み、足をぶらぶらとさせるマァズを視界の端に捉えながら、レイはそっと悠に目を走らせた。マァズもまた悠のほうを見る。その瞳に埋め込まれた宝石が、瑠璃色に妖しく光る。
「一体、なにをしにきたの」
レイは警戒し、影を鳥の形に変えた。床が揺れる。ガラスの割れるような音が階下で響いた。
「今、下にいる怪人もあなたの差し金?」
「まさか」
レイの問いをマァズは笑って捨てた。「あんなやつ、俺は知らないね」とあくまで無関係を主張する。その言葉の真偽を確かめる術は、今のレイにはなかった。
「この前と同じだ。俺はあんたに用があってきたのさ。どうだ、あれから心変わりをしたか?」
昼間、マァズの口にしたセリフがふと脳裏を過ぎる。レイはその言葉を軽く頭を揺らすことで振り払った。無言のレイに、マァズはあからさまに大きなため息をついた。
「まだ分からねぇのか。これこそ本当に宝の持ち腐れだな」
マァズの体が揺らめく。闇に躍るそのしなやかな体躯は、その軌跡だけ追えば、まるで蛍の光のように見える。その動きが、レイの不安を加速させる。
「うるさいな。あなたは私の何を知ってるっていうの。私のしたいことは、私が決める。口を出さないで」
「知ってるさ。だから口出しするね。あんた、今、下で戦ってるあの男に惚れてるんだろ?」
ぽつりぽつりと、雨の音が部屋の中に沁み入っていく。マァズは顎をしゃくり、悠を示した。
「この女ものこともか。とにかく、この生活を手放したくないと考えている。だから本当の力を求めない。こんな小さな器で、満足していられるんだ。あんたは最高の怪人でありながら、ただの死体でありながら、人間の生活に漬かりすぎたんだ」
マァズの一言一言が、レイの心を裏返し、切り刻み、開け広げるようだった。心音とともに痛みが身を刻む。レイはたまらず顔をしかめていた。
「そんなこと」
「いいや。それがあんたの犯した最大の過ちだ。なまじ人間の姿をしているから、自分が人間だと思い込んでしまった。あんたの最大の不幸は、自分が怪人であることを知らされず、人の中で生きすぎたことさ。怪人は人の幸せを得られない。怪人が得られるのは、怪人の幸せだけだ」
鳥の影を壁に映し出したまま、レイは全く動けずにいた。手足の鉄の枷をはめこまれているかのようだ。この場から逃げ出したい衝動にかられる反面、マァズの視線に捉われて身動きがとれずにいる。自然、呼吸が荒くなり、指先が冷えた。
「いい加減自分の立場を理解しろよ。見たんだろ、あの男が怪人を八つ裂きにするところを。あんたがいくら好きになったところで、お前の正体を知れば、奴はあんたを殺すぜ? それはあんたも重々承知のはずだ。それなのに、なぜ一緒にいたいと願う。羊と狼が隣り合わせにいるようなもんだ。怖くねぇのかよ?」
マァズの言葉に、レイの胸は震えた。ようやく薄らぎつつあった佑に対する恐怖のイメージが、マァズの言葉に喚起され、再び鮮明さを取り戻しつつあった。
佑が自分を殺す。そんなことがあるはずはない。だが佑の言葉によって形作られた、そんなかりそめの安堵は、根本の方から揺らぎ出している。フェンリルによって切り飛ばされた怪人の腕。レイに救いを求める怪人の眼差し。二条に殺されたディッキー。次々と映像が脳裏を過り、胸の内をかき乱す。
レイはよろめく体を二本の足で何とか支えながら、唇を強く噛んだ。マァズは立ち上がると、悠の方を見やった。その手の内側からまるでハリネズミの針のように、黒く光沢を帯びた5本の爪が生え伸びる。10センチはありそうなその鋭い切っ先を背後の悠に向けてかざすと、白い歯を覗かせた。
「なあ。もしこいつを殺せば、お前は本当の力を求めるのか?」
レイは目を見開いた。マァズの爪から発せられる鉄の臭いが、微かな風に乗ってレイの嗅覚を刺激してくる。心拍数が急撃に跳ね上がり、頭の隅が白ずんでいくのを感じる。
「俺はあんたを本気にさせなくちゃいけないんだ。マザーからの命令でなぁ。競争相手がいなけりゃつまらないだろ? 最高の怪人同士、切磋琢磨してより高みを目指す。そんな関係をマザーは望んでいるのさ。そしていずれかは、どちらかが世界の創造主となるのだ」
「馬鹿馬鹿しい。私はそんな話に乗るつもりはないよ。あなたたちの思い通りには、絶対にならない。それに、私はそんなものになるために生まれてきたんじゃない」
「あれ? おかしいな、その割に力に飢えているように見えるぜ? じゃあなんで1週間前、あんたは鳥の羽根を自分で自分に刺したんだ? なぜ自分を進化させたんだ? え?」
マァズの指摘に、レイは言葉を詰まらせた。
1週間前、あの戦争で、レイは最高の怪人としてのレベルアップを果たした。仲間を守る力が欲しかった。自分だけ守られているのが嫌だった。だからレイは、怪人としての力を受け容れた。その事実に嘘偽りはない。後悔もしていない。だから、マァズの指摘は的を射たものに違いなく、だからこそ、レイは自分自身の矛盾を覆せない。
「あんた、本当は力がもっと欲しいんだろ? だったらちゃんと掴めよ。あんたの本当の姿をみせてみろ。最高の怪人の力はこんなもんじゃないと、何度も言ってきたはずだぜ?」
これはマァズの挑発だ。真に受けてはいけないことはレイも分かっている。だがそれでも、鉄のヤスリで胸を削られるような痛みを感じた。その通りだ、と胸の奥で声が聞こえる。本心では、レイは力を望んでいる。悠を守れる力を。佑を笑顔に変える力を。式原の野望を止められる力を。怪人が苦しまなくていい世界を作り出せる力を。
「あんたがこの話に乗ってくれるまで、俺はなんだってするぜ。悲しみや憎悪は一番大きな発火剤だ。その火を灯す役割を買ってやってもいい」
マァズの瞳が常夜灯の光を反射して不気味に光る。その爪の先端には、いまにも悠の首筋を掻き毟ろうとするかのような明確な殺意があった。げっ歯類の口元が、三日月のように鋭く吊り上がる。
「憎め。怒れ。そして求めるんだ。最高の怪人としての、本当の存在理由を」
「……うるさい。私は……私は、そんなものになるために、生まれてきたんじゃない!」
急いた心に押されるがままに、レイは叫び、マァズを睨みつけたまま、足元から伸びる自分の影に集中を注いだ。鳥がその巨大な翼をはためかせ、壁を滑り、床を撫でながら、部屋の中を移動していく。さながらその様子は、懐中電灯の光を目的のものに向けてかざすまでの工程に似ていた。
鳥の影はレイを軸にして、悠の体の上を過ぎ去り、大きく迂回しながらマァズに迫った。レイの影は少し触れるだけで怪人の力を奪い、その心さえもコントロールする力を備えている。この状況で逆転のチャンスを握るのは、あまりにも容易い。
だが、翼の切っ先がマァズの足元を掬いかけたその時、レイは全身に不思議な感触を覚えた。悠を背後に立つ、マァズの勝ち誇ったような顔がレイの網膜に焼きつく。その足元からは、巨大な鳥の形をしたシルエットが広がり、レイの体を包み込んでいた。
急に意識が朦朧とする。視界が闇に閉ざされ、頭の奥の方で星が瞬いた。まるで崖から突き落とされたかのような、または足元の床が抜けたような、急激な浮遊感が襲いかかる。
「えっ」
抗えぬほどの強烈な脱力感に襲われ、レイは床に膝を落とした。自分の体の奥底に眠っていた何かが引きずり出されていくような感覚がある。それを押しとどめようとするものの、身に全く力が入らず、頭の先端を天井に向けて引かれるような感覚と共に、レイの中から何かが抜け落ちた。
「随分と苦しそうじゃねぇか。どうだ、力を奪われる側になった感想は?」
レイは顔をあげてマァズを見た。それだけで精いっぱいだった。体が鉛のように重く、立つことすらままならない。胸にじりじりと焦燥感が滲み寄り、頬には汗が伝った。マァズはにやにやと笑みを浮かべながら、ブックスタンドに頬杖を突いている。
「他の怪人の力を奪えるのが、自分だけだと思うなよ。俺にもあるんだよなぁ、それ。マザーから受け継いだ、とっておきだけどな」
レイは困惑した頭で、それでも己の浅はかさを悔いた。油断していた。他の怪人を掌握する力は自分だけの専売特許であると驕っていた。
「そんな、それは、最高の怪人の力じゃ」
「疑うのはかまわねぇけど、それが正しいってことは、何よりもあんた自身の体が一番知ってるんじゃないのか? 体に力が入らないだろ?」
マァズの言う通りだった。まるで床と膝が繋がってしまったかのように、身を起こすことができない。カーペットに爪を立て、レイはマァズを見上げた。力を奪われたのは確かなようだったが、どうにもそれだけではないような気がした。感覚が遠く、心の隅に穴が穿たれたような痛みがあった。するとマァズはレイの疑問を察したかのように口を開いた。
「そうさ。お前の中の怪人を察知する力を奪ってやった。まぁ、あってもなくても同じだろ、今のままじゃな」
レイは息を呑んだ。怪人の存在を感じ取ることができなくなる。それが一体どういうことなのか、考えるよりも先に焦りが胸の内で膨らんだ。
「……返して」
懇願する声も消え入るようだ。なにしろ体に力が入らない。睨もうとするが目元に皺を寄せる力さえない。マァズは困憊するレイを前にして腰をあげると、その長い尻尾を鞭のように机に叩きつけ、その反動を利用して跳びあがり、窓ガラスの縁の上に着地した。
「いつでも返してやるよ。あんたが心から望むなら、いつでも俺のところに来るがいい。待ってるぜ。いい答えがでることを願ってるよ」
そう不敵に言い残すとマァズは片手で窓ガラスを開き、颯爽と外に飛び出していった。追いかけようとするものの、立ち上がろうとした足は震え、たたらを踏み、勉強机にしがみつくのがやっとだった。とてもじゃないが、俊敏な動きをみせるマァズにはついていけそうにもない。
しかしその時、レイは自分の影が風にそよぐ湖畔のように揺れるのを見た。怪訝に思う間もなく、その内側から青色の体躯が飛び出してくる。小さな翅を震わせ、宙を舞うのは、蠅型の怪人ベルゼバビーだった。
「ぶんぶーん。お母ちゃん、大丈夫―?」
ベルゼバビーはその顔の大半を占める巨大な双眸で、レイを不安げに覗きこんでくる。レイは机を支えにして立ち上がると、開け放したままの窓に近づいた。外は細かな雨が降っており、湿気の高い空気が肌に粘りつく。
「ベルゼバビー……お願い、私は大丈夫だから、あいつを追っかけて」
たどたどしく発したその言葉に、ベルゼバビーは「あいよー!」と元気一杯に応じる。擦れるような羽音をたてながら外に飛び出していくその後ろ姿を見送ると、レイは大きく深呼吸をした。
酸素を取り入れるだけで、少しはまともに動けるようになった気がした。ただ単に力の欠けた状況に慣れてきただけなのかもしれない。
窓を閉め、鍵をしっかりとかけてから、悠に視線を移した。この騒動の中でも悠は囁くような寝息をたてていた。余程疲れているのだろう。長らくベッドに収まっていた悠にとって、久しぶりの買い物は、少しの時間であってもかなりの労力を消費したに違いない。
レイは自分の手が細かに震えていることに気づいた。拳を握りしめ、その不安的な感情の揺らぎを抑え込もうとする。
「……私の力、怪人としての、力」
そっと呟きながら、悠の顔を見つめていると、胸が張り裂けるようだった。急に泣き出したくなり、レイは唇を強く噛みしめる。
「私の、やらなきゃいけないこと」
レイはバランスを取りつつ机から手を離すと、悠に近づいた。形のいい眉。濁りのない肌。少しつんと上を向いた鼻筋。彼女のもつ全てが、レイには愛しかった。
――あんたがこの話に乗ってくれるまで、俺はなんだってするぜ。
「私のせいで、悠も危ない目に……」
レイを最高の怪人として本当に覚醒させるためなら、周囲の人を傷つけることさえ辞さない。マァズはそう言った。これまでレイは悠を守るという確固たる意思を支えとして、罪悪感に耐えてきた。しかしレイの存在が彼女を危険に晒すことになるというならば、その前提も容易く崩れることになる。
それに、レイにはもはや怪人を察知する力はない。もはや自分は佑にとっても、悠にとっても、ただのお荷物であることをレイは自覚している。
悠の頬に指先でそっと触れた。悠はううん、とくすぐったそうに身を捩らせた。彼女の吐息が温かく、皮膚を伝い、胸の中でいっぱいに広がっていく。
「悠。私、もうなにがなんだか、分からないよ」
心の呻きを声に載せるが、夜は答えを返してはくれない。しばらく悠の顔を見つめたあとで、レイはドアの方へ歩き出した。迷いを引き連れながらも、レイは心のどこかでこれから起きるであろう最悪の事態を覚悟していた。
魔物の話 56
沈黙の糸が張り巡らされた廊下は、1人で歩くとひどく不安定に感じた。どこからかぬるい空気が流れ込み、家の中を循環している。リビングが煌々と照らされているおかげで足下に不自由は感じなかった。先ほどまで家を揺さぶるようだった、激しい戦闘音はすでに聞こえない。レイは自分の足音だけを耳にしながら、廊下を進む。
外も廊下も、リビングを取り囲む他の全てが夜闇に閉ざされている中、レイの目指す先にあるリビングだけは大きな光に包まれていた。傍から見ると、それはまるでスポットライトによって照らされた演劇の舞台のようだ。他の主演者は全て出揃い、レイだけが遅れて、そこで演じられているシナリオに飛び入ろうとしている。
たどり着くまでの間、レイはすでに嫌な予感のようなものを覚えていた。胸の奥がざわめき、皮膚の内側を何かが突いているような気がする。足取りは当然のように重かった。だが、行かなければならない。開け放したままのドアを潜り抜け、胸を手でさすりながら、リビングに足を踏み入れる。
たった数時間前まで悠と一緒に過ごしていたとは思えぬほど、その部屋は乱雑に散らかり、凄惨な傷跡があちこちに刻まれていた。
悠たちと向き合い、オレンジを食べながら会話を交わしたテーブルの足は折れ、その上に載っていたものは全て床に落ち、散らばっている。昼間、座って色々な考えを巡らせていたあの、高級品であろうソファーはもはや皮と綿の集合体と化していた。フローリングの床にも何かを引きずったような跡が、年月の経過だけでは消えないだろうと思えるほどに強く、濃く引かれていた。キャビネットや本棚もひっくり返り、ガラスは割れて破片を周囲に飛散させ、部屋の片隅には本が山のようにうずたかく積まれていた。壁は大きくへこみ、大きな亀裂が入っている。
その壁の至る所に、赤黒い何かがゼリーのように分厚くこびりついているのが気になった。さすがに触れる気にはならなかったが、近くによるだけで血生臭さが鼻先を過った。それが何であるか、意識下ではおそらく気付いていただろうが、レイはそれについて深く考えないようにした。そうでなくても口の中には酸っぱいものが漂い始めていた。
レイはもの悲しい思いで、凄惨たる姿と化した部屋をしばらく眺めた。倒れ、踏み砕かれた写真立てを見つけると、喉の奥がぎゅっと絞めつけられるようだった。
「お兄さん……」
室内にはフェンリルの姿も、九官鳥の怪人の姿もない。ただ争いの痕跡だけを残して、室内は沈黙の帳が下りていた。
レイはガラス戸の方に視線を移した。
昼間閉めたカーテンは途中でちぎれ、その向こう側のガラス戸は粉砕されていた。戸のフレームも捻じ曲がり、佑らがガラスを突き破って外に出たということはそれだけで明白だった。それはもはや窓としての外観をとっておらず、そして役目も担っていなかった。生ぬるい風はそこから入ってきている。吹き込んできた雨で、フローリングはひどく濡れていた。
レイはしばらくガラス戸を見つめたまま立ち尽くしていた。だがやがて硬直した体を揺り動かすようにして踵を返すと、リビングを出て、廊下に引き返した。玄関にたどり着くと自分の靴を足で探り当て、外に出た。家の中にいるのとはまた厚みの違う蒸し暑さが、レイを迎える。
もはや嫌な予感は感覚の域を超え、実体を伴ったものへとすり替わっていた。心臓が高鳴る。自然、足は速まった。家を回りこみ、リビングに面した庭へとたどり着く。
リビングから漏れる光を浴びて、雨が宙できらきらと輝いてみえる。灰色の雲から零れだす最後のひと搾りという風な小雨だった。ぬかるんだ地面を踏みしめ、髪を濡らしながら、レイは警戒する。そっと周囲に視線を巡らせ、浅く息を吸い込む。
黒と灰が奇妙な比率で混在した空から降り注ぐ雨は、レイに1週間前の戦争のことを思い起こさせた。多くの人が死に、傷ついた戦いだった。彼らの血がこの雨の中にも微量ながら混じっているような気がした。
その時、衝撃とともにレイの前に何かが飛んできた。それは足先で跳ね、傍らの木にぶつかって止まった。
レイは悲鳴を呑み込みながら、恐る恐るそちらを見た。初めは塀の外からごみ袋でも投げ込まれたのかと思った。だが、それが微かに声を漏らし、呼吸をし、さらに身じろいでいることに気付くと、すぐにその考えを改めた。
地面に横たわり、ぜえぜえと喉を鳴らすそれは、先ほどまでフェンリルとリビングで戦っていた九官鳥の怪人だった。
体中を抉られ、毟られ、裂けた皮膚から骨や肉の断面が露出していた。片足は膝から下がちぎれ、そこからおびただしい量の灰が零れ落ちている。その目に宿る光は乏しく、ろうそくに灯されたわずかな残り火のようだ。その姿は自らの体から抜け落ちていく命に必死にしがみつき、何とか生を保っているようだった。
怪人の金色の目がレイを捉える。レイの頭に、顔から扇風機を生やしたあの怪人の姿が過ぎった。レイを疎み、恨み、羨む、死に際の眼差し。
「レイちゃん、もうすぐ終わるよ」
慄然と立ち尽くすレイの耳に、闇の中から佑の声が届く。顔をあげると、淡い光の中にフェンリルが姿を現した。右手に持った剣の先端を地面に引きずりながら、そうするようにプログラムされた機械のような感情のない動きで、怪人に近づいていく。そんな人間味の薄れた佑の様子にレイはぞわりと、全身の肌が粟立つのを感じた。
緩やかに歩を刻むフェンリルもまた傷付いていた。胸元の装甲に引っかき傷のようなものが刻まれ、汚れのようなものがところどころ付着している。仮面にも軽くヒビが入っているようだ。だが動けるだけ、怪人よりもダメージが少ないことは明らかだった。
その憔悴し、不気味なオブジェのような姿と化した装甲服は、レイの本能に恐怖をもたらした。
「お、兄さん……」
「この家には絶対に近づけさせない。悠に手出しなんか、させるか」
佑の呼吸はひどく乱れていた。疲労と興奮のせいだろう。剣を引きずる音を響かせ、殺意を周囲に振り撒くフェンリルを前に、レイの足は竦んだ。恐怖が頭の先から体を貫き、血の気が失せる。フェンリルはレイに近づいてくる。その刀身が反射する不気味な輝きが、レイの心臓を射抜く。自分にその切っ先が向けられていないにも関わらず、レイにはその刃が自分の命を狙っているようにしか思えなかった。
その時、白い影がフェンリルの股下を通り抜けた。何かが駆けてきた、という残像しか認識できない速度でそれはレイの体を掠め、九官鳥の怪人をまたいで背後に消えていく。
その一瞬の間で、レイは笑い声を聞いた。人を嘲るような、または挑発するような、くぐもった笑み。げっ歯類のおぞましい相貌が頭の中に浮かぶ。
そこでレイはハッとなった。まさか、と思う。そしてレイの予感を裏付けるようにして、フェンリルは不意に足を止めた。
かしゃん、と金属同士が擦れ合う音をたててフェンリルは振り返る。彼の目の前には、青い体色をもつ怪人の姿があった。全身にはびっしりと細かい刺が生えていて、背中の翅を細かに震わせ、宙に浮いている。その胸には元となったモチーフを示す、蠅の絵が描かれていた。
「お前は……!」
頭を押さえ、宙で呻くベルゼバビーを前に、フェンリルは声音を荒らげる。剣の柄を握る手に力がこめられるのが分かった。拳が低く唸る。殺意の滲んだ音だ。
レイは棒立ちになったまま、目の前の光景を信じられずにいた。これほどまでに最悪の状況が他にあるだろうかと思った。指の先まで冷え切り、意識が黒々と濁る泡のようなものと一緒に掻き混ざっていく。
「お兄さん、ダメ」
その怪人を殺してはダメだと叫ぶ。
その怪人はあなたの敵じゃない、と彼に訴えかける。
しかしそのいずれも声にはならなかった。体に纏わりつくようなこの陰湿な気配が、レイの声をことごとく遮断しているようだった。
確かにベルゼバビーは1週間前こそ、レイに襲いかかってきたが、今は全くの無害だ。人間の友達だってできた。まだ外見も考え方も口調も幼い、本当に小さな女の子だ。
そんな子を、佑は殺しちゃいけない。自分をお母ちゃんと呼んで信頼し、慕ってくれるあの子を――。
「姉さん……」
レイのものではない、少女の声が宙を這う。振り返ると、九官鳥の怪人がわずかに上半身を起こし、ベルゼバビーの方を見ていた。怪人はもう1度、先ほどよりも少し強い調子で「姉さん」と声をあげた。その先にはベルゼバビーの姿があった。彼女はきょとんとした表情で九官鳥の怪人を見つめ返していた。
「そういうことか」
視線を交し合う2体の怪人の間に、佑の低い声が割って入った。
「お前が、あいつの言っていた姉なのか」
フェンリルは、ゆらりと、アスファルトから沸き起こる陽炎のような動作で顔をあげた。その狼を象ったマスクが、不気味な光を帯びる。そしてその剣の切っ先を鋭く、ベルゼバビーの胸元に突きつけた。
「お前がこいつをここに呼んだのか! 悠を……殺そうとしたのか!」
フェンリルの怒号が雨の中に響き渡る。その次の瞬間には、フェンリルの身体は動いていた。片足を踏み込み、剣を握る右腕を後ろに引いて、前方に打ち出す。その様子には慈悲も躊躇もなかった。憎悪と義憤に取り込まれた佑は装甲服の力を借りて、怪人の命を1つでも多く、1秒でも早く奪おうとする。その容貌は、まさに魔獣に等しい。
逃げて、とレイが叫ぶのと、姉さん、と怪人が擦り減った声をあげたのは、ほとんど同時だった。そして重なった声を正面から断ち切るようにして、フェンリルは突きを繰り出した。空を裂く音が鳴り、その着色された剣先がベルゼバビーの顔面目がけて穿たれる。
しかしその剣が肉を裂くことはなかった。
ベルゼバビーは以前、レイを翻弄したあの俊敏さを発揮し、すんでのところでその攻撃を足下にくぐらせたのだ。「なんだこいつはー!」と脳天気な、しかし彼女なりに必死であろう声をあげながら、ベルゼバビーは今よりも更に激しく、背中から生えた両翅を振動させる。その青い体躯の両側を掠めるようして、円環状の衝撃波が放たれた。それは地面を削ぎ、大木に生えた葉を散らしながら宙を進み、フェンリルの体を容易く弾き飛ばす。
「舐めるな!」
フェンリルは自らの体を圧しようとしてくる力を、体を強く揺することで振り払うと、右手首の刃を展開させた。回転を始める刃から流れ出したエネルギーを剣に載せ、一息に宙を薙ぐ。射出された螺旋状の力は空を掻き、迫る衝撃波さえ取り込んで、ベルゼバビーの胸を衝いた。
甲高い絶叫をあげてふらつくベルゼバビーに、フェンリルはすかさず近づくと、剣を袈裟懸けに振り抜いた。
ベルゼバビーの体がレイの見ている前で、したたかに地面に叩き伏せられる。ベルゼバビーはすぐさま顔をあげると、その二対の翅から再び衝撃波を飛ばした。
「同じ攻撃が、俺に効くと思うな!」
打ち放たれた波動を、フェンリルは右手首で細かく回転する刃によって殺した。大きく腕を振り払う小さく跳躍し、反応の遅れたベルゼバビーの顔面目がけて回し蹴りをしたたかに叩きこむ。
衝撃に押しやられたベルゼバビーの体がくるりと半回転をし、フェンリルに背中を向ける形になった。フェンリルは体を捻った勢いを利用して剣を振り回す。
その鋭利な刃は、ベルゼバビーの両羽を即座に切断した。自らの身体を浮遊させるための機能を喪失し、ベルゼバビーは悲鳴をあげながら地面に落下する。
起き上がろうともがく、その小さな体にフェンリルはすかさず近づくと、躊躇もなくその腹を踏み潰した。死にかけの蛙のようなうめき声をあげるベルゼバビーを足裏で踏みにじりながら、フェンリルはその剣の切っ先を彼女の喉元に突き立てる。四肢をばたつかせ、蠢く彼女の肢体を見つめる彼の呼気は荒く、その手は微かに震えを伴っていた。
「これで終わりだ。悠を守るんだ。俺が守るんだ。誰も近づけさせない。俺が。俺が!」
フェンリルは柄にもう片方の手も添えると、短い叫びをあげながら、剣を振り下ろした。その切っ先は喉ではなく、死から逃れようともがくその短い足を一息に貫く。夜闇にベルゼバビーの幼い悲鳴が舞った。
レイはたまらず耳を塞いだ。フェンリルは剣を彼女の体から引き抜くと、喉を激しく鳴らしながら再びそれを天に振りかざした。
「人の言葉を喋れるからって、お前たちの罪が許されると思うなよ。悲鳴をあげたからって、逃げられると思うなよ。お前たちは悲鳴をあげる人間を! 救いを請う人間を! 何人も殺してきたんだ!」
荒らげた呼吸の隙間から吐き出される佑の低い声が、レイの心をざわつかせる。ベルゼバビーを貫いたその剣が、自分の心臓にもまた突きつけられているのを想像する。
――お前の正体を知れば、奴はあんたを殺すぜ?
「もうお前らなんかに壊されてたまるか。ここは俺の場所なんだ。お前らなんかに奪われてたまるか! お前らは俺がみんな殺してやる。悠が安心して過ごせる世界は、俺が作るんだ!」
「助けて、お母ちゃん!」
レイの鼓膜を、胸の芯を、ベルゼバビーの悲痛な声が震わせる。
それが実際に彼女が叫んだ言葉なのか、それとも自分の頭の中に呼び覚まされたディッキーの記憶がそういう言葉を発しただけなのか、定かではなかった。
ディッキーはそんなことを言わなかったから、おそらくベルゼバビーが発したセリフなのだろう。ディッキーはレイに救いを求めることはしなかった。逆にレイはディッキーに2回も救われてしまった。
お前は怪人の王なんだろう、とマァズの指摘する声がどこからか聞こえてくる。
そうだ、自分は最高の怪人だ。凝った時の中でレイは答える。自分には怪人を守る役目が、そうするための能力がある。
だったら人間の味方をしてどうする。マァズは反論してくる。もはやそのマァズの声が、現実のものなのか、それとも自分の作り出した勝手なイメージなのか、レイの中ではそれさえも曖昧なものと化していた。
ただその声はやけにはっきりと頭の中に響いていた。まるで暗闇に射す一筋の陽光のように、逼迫したレイの心を導いていく。
「あんたに助けを求めてるんだぜ? 無視するのかよ。あんたを母親って呼んで、あんたを必要としているんだぜ。また殺すのかよ? 自分の子どもを、あんたはまた殺すのか?」
マァズの放った一言に、レイは目を見開いた。ディッキーの匂い、ディッキーの声、その小さな体が粉々になって崩れ去っていくイメージがレイの目の前で次々と瞬いていく。
息子を失ったときに受けた悲しみが、苦しみが、胸に殺到する。
フェンリルに踏みつけられたベルゼバビーが、体を存分に嬲られた九官鳥の怪人が、レイの記憶の中のディッキーを呼び起こす。耳を引きちぎられ、あまりにも惨い姿になって殺された息子。レイを庇い、守って、レイに与えられるはずだった全ての痛みをあの小さな体で引き受けてくれた。
「お母ちゃん、助けて!」
助けを請う声が、救いを求める叫びが、レイの心に空いた闇を静かに伝う。気づけば体中が汗で濡れていた。無意識のうちに呼吸も荒くなっている。煩悶と逡巡の果てに、レイは浅く息を吸い込み――それから剣を大きく振り上げるフェンリルを睨みつけた。
「……分かったよ、ディッキー」
レイは自分の影をいまにも羽ばたかんとする鳥の形に変えると、全身に怪人としての血を巡らせた。1週間前の戦争の際に奪い取ったキャンサーの能力―、体組織の硬質化を発動させ、自分の右腕にその力を一点集中させる。
金色の風を引き連れながら、レイは駆け出した。足を踏み出す側から草がちぎれ、夜風に舞っていく。立ち昇る土埃が部屋から漏れる光の中で浮かび上がり、靄のように空気に溶けて消えていった。
レイは跳躍すると、右腕を大きく後ろに引き、腰を捻り、体ごと前方に飛び込んで、フェンリルの背中を、黄金の光を纏った腕で力一杯に殴りつけた。
金属の軋む音がじわりと空気を濡らし、続けてフェンリルの体が宙を舞った。直後、その鋼鉄の肉体が地面を揺らす。手にしていた剣は彼のもとから離れ、宙に曲線を描き、草むらの中に消えた。
沈黙が、夜に広がった。
レイは息を切らし、右腕の力も解かぬまま立ち尽くした。その足元から伸び、部屋からの光によって暴かれた影は、人間のものとはかけ離れた怪鳥の姿を塀に張り付けていた。
「レイ、ちゃん……?」
身を捩るようにして上半身を起こしながら、フェンリルは信じられぬものを見るような目で、レイに視線を据えている。ベルゼバビーも地に這いつくばった姿勢のまま驚きの顔でレイを見上げている。背後では、九官鳥の怪人の微かな呼吸音が聞こえた。彼女もまた目を瞠って、この状況に困惑しているに違いなかった。
細かな雨がレイの頬を濡らした。
泥にまみれ、膝立ちの姿勢でこちらを見つめるフェンリルと対峙しながら、レイは自分の顔に不思議と笑みが広がっていくのを感じていた。
レイに後悔はなかった。むしろもう佑を騙さなくてもいい、隠し事は何もないのだ。それを思うと自分でも意外に思うほどに、爽快なものが胸に満ちていった。
「……レイちゃん、それ」
佑はフェンリルの内側で震えた声を発した。レイは目を細め、それからすっかり変わり果てた自分の影に視線を移した。
「すみませんお兄さん。こういうことなんです。今まで黙ってて、すみませんでした」
そう言葉を紡いだレイの耳に、佑の息を呑む音が聞こえる。レイは小さく微笑むと、動揺した様子のフェンリルに向けて、深々と頭を下げた。
「悠を、よろしくお願いします」
身を凍らせた佑が何らかの反応をみせる前に、レイは自分の内に燻っていた怪人の力を爆発的に解放させた。全身から黒く淀んだ光を発散させ、ホースから吹き出した水が渇いた地面の色を変えるように、息を呑む間もなく、天村家の庭を闇色に染めていく。レイの影はもはや人間の形を容易く超え、鳥の形すらとらず、ただの巨大な面と化して、その上に立つベルゼバビーと九官鳥の怪人を深淵の中に引きずり込んでいった。
2体の怪人を音もなく呑み込んだレイは、呆然と立ち尽くすフェンリルを置き去りにして踵を返し、門の外に出た。リビングの明かりから壁を隔てた道路は、雨に濡れているせいか、ひどく暗く感じた。視線の先に外灯の明かりが点々とぼやけている。
夜道を覚束ない足取りで進むレイの背後に、ついてくる足音はなかった。佑が追いかけてこないのは、今のレイにとっては都合が良かった。今、彼の声を聞いてしまえば、彼の顔を目にしてしまえば、せっかく決めた心が揺らいでしまうから。
このまま別れるのが、お互いにとって一番良いに違いない――レイは己を納得させるように、その想いを胸に響かせる。
「そう。これで、良かった。これ以上、あんな生活が送れるはず、ないもの」
心からそう思っているはずなのに、なぜか胸の奥が軋んだ。それはじわりと血が滲んでいき、徐々に傷口が広がっていくような痛みだった。そんな苦痛から逃れるように、レイは足を速める。沈黙の夜道に、レイの足音だけがアスファルトに反響していく。
途中、足を止め、一度だけ天村家を振り返った。その豪邸の2階には悠が何の疑いもなく、何も知らずに夢の中で夜を過ごしていることだろう。朝起きてレイがいなくなったことを知れば、彼女は困惑し、悲しむに違いない。悠の気持ちを思うと胸が痛む。だが、それでいいのだ、とも感じていた。
悠は何も知らなくていい。この佑との間に生じたこの軋轢も、悲劇も、真実を吐きだすことの残酷さも知らぬまま、光で満ち溢れた未来に向けて歩んでいけばいい。そこに自分は、きっと必要ない。
ふっと悠の顔が頭に浮かんだ。悠とこの家で過ごした数日間が、走馬燈のように過ぎっては消える。それは今となっては夢の中の出来事であったかのようだった。彼女の可愛らしい笑顔を、その体から香る桃の匂いを思い出すと、目頭が熱くなる。彼女が幸せになってくれることを一心に願う。悠ならきっと、それができるはずだから。そして佑なら、あれほどまでに妹を大事に想い、愛してくれている彼ならば、きっと悠を幸せにしてくれるだろう。
雨は降り続いている。
レイは頬を拭った。
灰に閉ざされた空が視界の果てまで続いている。レイは見つめた掌を力強く握りしめると、顔をあげ、孤独な道を着実な足取りで歩み出した。その背後には仄かな光を帯びた、天村家の巨大な輪郭が浮かんでいる。
さようなら。
レイは闇夜に向けて別れの言葉を呟く。その声はくぐもった音となって、雨音の中に埋もれていった。
こうしてレイは、佑との決別を果たしたのだった。




