7話「黄金の鎧の話」
鎧の話 43
雨が急に強くなる。視界が白く濁り、雨音が耳朶を小刻みに叩く。
手を伸ばした先から大切なものが崩れ、溶けてなくなっていく。そんな感触を直也は以前にも味わったことがあった。3年前、咲を失った時のことだ。
青白い顔をしてストレッチャーで運ばれていく恋人を前に、直也はその手を強く握り、祈ることしかできなかった。子どもの頃、自分を闇の中から助け出してくれた探偵のようになりたい。そんな憧れをもってこの東京に来たはずであったのに、現実は、愛する人さえ守り抜くことができなかった。
直也はそんな自分に深く絶望し、それからある決意をした。もう大切な人を失うことはしたくない。今度こそ、この手で守ってみせるのだと、直也は幼き日に見たあの探偵の力強いまなざしを思い出しながら、そう心に誓ったのだった。
だがその想いに反して、今、直也は再び3年前の感情を呼び覚まされている。血に塗れ、地面に横たわるライ。その首に爪を突き立て、死を与えようとするデベスクリーム。直也はその光景を、背筋の凍る思いで視界に収めている。
ライの首を飛ばす――そのあまりに残酷な言葉の響きに、直也は首筋が凍えるような感触を味わう。旧鉈橋邸の和室に置かれていた女性の生首が頭に過ぎった。フェンリルによって八つ裂きにされた扇風機怪人の哀しげな悲鳴が、直也の心を揺さぶる。側に転がる鳥のお面の男たちの死体が、至極身近なものとして感じられた。
オウガのプレートが急に手の中で重たくなったような気がした。直也は手元を一瞥する。そのプレートの表面には大きな亀裂が入っていた。直也の血液と泥土が付着し、ひどく汚れている。直也は負傷のせいで生じている手の震えを封じ込めるように、固くプレートを握りしめた。
咲さん、俺とライを守ってくれ。
心の中で祈り、願う。その想いが通じたのかどうかは分からないが、直也はふと背後に咲を感じた。彼女の声が耳元に囁く。それは気のせいで済ませるには、やけに現実味を伴った気配だった。
直也は足を止めた。ほんの1秒、呆然としたあとで「そうか」と呟いていた。閃きが頭の中に広がっていく。
「おい、待て!」
皮膚が裏返るのではと思うほどの激痛が腹部を過ぎり、口の端からごぼりと血液が溢れ出す。この状況で大声が出せたことに、直也自身が一番驚いていた。全身の力を振り絞り、腕を振り上げているデベスクリームの背中目がけて、声を張り上げる。発する絶叫は、苦痛を置き去りにした。
「そいつは……鉈橋、きよかだぞ!」
呼気や雨音に混じってしまわぬように、直也は一文字一文字を明瞭に読み上げる。吐血混じりの声は宙に浮かび、大きな音をたてて弾けた。
「お前の、姉だぞ!」
デベスクリームにではなく、その内に潜む「鉈橋そら」に向けて訴えかける。この怪人が彼女の生前の姿を持つのならば、ひょっとしたら、その魂や記憶もささやかながら残されているのかもしれない。それは希望的観測に過ぎない。だが、直也は暗闇の中に1つ灯るその可能性を信じた。
ライに向けて今にも爪を振り下ろそうとしていたデベスクリームは、直也の声にびくりと体を震わせて反応した。腕を前に突き出した姿勢のまま硬直する。その爪はライの喉元を貫く寸前で止まっていた。恐る恐る、といった様子で顔をあげるライの前で、デベスクリームは虚ろな調子で呟く。
「鉈橋、きよか……?」
デベスクリームはそれから自分自身の右手首を掴み、見つめ、信じがたいものを目にしたかのような表情を浮かべる。その挙動は怯えているようにも見えた。
直也はデベスクリームが動きを止めたことを確認すると、ポケットから四つに折り畳まれた黒い布を取り出し、それを腹部の傷跡に押し当てた。
それは以前、速見拓也から譲り受けた、傷の治癒を速める効力のある不思議な布だ。その恩恵を直也はこれまで幾度となく受けた経験があった。そして今回もその力は発揮されているらしく、その布に触れているだけで何となく、痛みが遠ざかったような気がした。
直也は片手で布を押さえたまま、息を吸い、駆けると、全身でぶつかってデベスクリームを横に突き飛ばした。地面に転げたその姿を確認する間も惜しみ、すぐさまライに駆け寄る。一瞬、意識が白く混濁し、倒れかけるがギリギリで踏みとどまる。
「ライ!」
「おっさん……」
ライは白い顔で直也を見上げた。直也は彼女を背にすると、腰を屈めた姿勢のままデベスクリームに視線を向けた。デベスクリームはうずくまったまま、なかなか起き上がれずにいる。生身の直也がぶつかったくらいでは大したダメージを与えられるとは思えない。むしろ直也が言葉に載せて放った、精神的な衝撃のほうが身に沁みたのかもしれない。
「ライ。お前、大丈夫か」
布を背中で固結びにしながら、ライに無事を問う。手が血と泥で滑ったが、何とかきつく体で結ぶことができた。
「おっさん」
細い指が直也の肩を掴んだ。返ってきたライの声音は、ひび割れ、暗澹としたものがこびり付いているかのようだった。
「あいつの言うこと、聞いた? 私、怪人なんだって」
その声は今にも泣き出しそうに聞こえた。直也はライを一瞥する。ライは直也の肩をさらに強く掴みながら、さらに捲くし立てた。
「化け物なんだって。死体なんだって。嘘じゃないの、分かるんだよ。こんな人間、いるわけないじゃん。こんなの、いるわけ」
嗚咽混じりの声が直也の胸を衝く。頭を押さえ、苦悶の表情を浮かべながらようやく顔をあげるデベスクリームを視界の端に捉えながら、肩越しに振り返ると、そこには血と土に塗れ、目に涙を溢れさせたライの顔が間近にあった。直也に触れる指の爪には土が多く入り込んでいる。その体は薄く黄金色に発光していた。
「傷だって、もうあんまり痛くないんだ。こんなに血が出てるのに、痛くないんだよ。こんなのおかしいよ。こんなの……嫌だよ」
確かにライの肩は血に濡れてはいるものの、そこに傷口を認めることはできなかった。切り裂かれた肩を掴み、掻き毟るライの姿はひどく痛ましく、そんな彼女を見つめる直也もまた悲しくなる。
心を塞き止めていたものが崩壊したかのように、ライは泣き崩れた。その爪が直也の皮膚に食い込む。彼女の嘆きが、悲観が、怒りが、痛みとともに体の中に伝ってくる。
直也は目を瞑り、そしてある決意を胸にしてから、瞼をあげ、立ち上がった。ライの頭に手を載せ、笑みを零す。
「そんなこと、知ってたよ」
ライが涙で濡れた顔をあげた。直也は目を細め、その金髪を掌で撫でてやった。
「黙っててごめんな。だけど怪人だとか、人間だとか、俺にはどうでもいいんだ。俺が守りたいのは、お前なんだよ」
ライを撫でるのとは逆の手で、プレートに刻まれた深い傷をなぞる。亀裂に入り込んだ微かな雨が、冷ややかな感触を直也の指に運んだ。
「人のために悲しむことができる、怒ることができる。そんなお前のことが、黒城ライのことが、俺は好きなんだ。だから俺は、お前を命がけで守るって、そう決めたんだ」
柳川を殺した怪人に怒りを顕わにし、彼の死を悲しんでいたライの横顔を直也は脳裏に呼び覚ます。あの時、直也はライが咲の娘であって良かったと心の底から思った。ライは人間よりもずっと人間らしい怪人だ。そして絶対にこの娘を守りたいと願った。この少女を離したくないと祈った。その望みはいまや、直也の胸の奥で強い光を放っている。
「だから待ってろ。すぐに、終わらせてくる。お前は俺が、絶対に死なせない」
地面に素早く視線を這わせる。すると数歩先に、ホテルの残骸であろうガラス片が落ちているのを見つけた。二等辺三角形に近い形状をした、それなりに大きなものだ。
同時に、視界の範囲でデベスクリームが身を起こした。こめかみのあたりを片手で押さえながら、呻き声をあげている。その瞳は炯々とした光を帯びていた。
「お前は、私に何をした」
いつもの、余裕のある口調をかなぐり捨て、デベスクリームは直也を睨む。直也はその問いかけを無視し、ガラス片に近づくと、体を屈ませた。鉄の臭いする呼気を震わせながら、直也はプレートごとその右拳をガラス片に突き立てる。
正常に機能してくれるのか一抹の不安が過ったが、それは杞憂に終わる。一瞬の間があって、明滅する光とともにガラス面に波紋が浮かび、そこから無数の装甲片が飛び出してきた。
直也の行動を阻止しようと、デベスクリームが右の掌中から電撃を放射してくる。だが、その青白い槍先が届くよりも先に、オウガの装甲は直也を包み込んでいた。電撃を胸で受け止めたオウガは多少、体をふらつかせたものの、両足をしっかり踏みしめて姿勢を保ち、改めてデベスクリームと対峙する。
「お前は、私の何を知っている」
答えろ。デベスクリームは舌鋒鋭く吐き捨てる。オウガの内側で直也は、深呼吸をし、重苦しい体に酸素を取り入れた。腹部を撫で、疼くような痛みを覚えつつも、まだいくらか動けることを確信する。直也は改めて、あの布の力に驚愕した。
奥歯を噛み、歯の隙間から血の味のする呼気を吐き出すと、直也は刀を構えた。己を鼓舞するように、雄叫びをあげながら、地面を蹴りやる。跳躍し、デベスクリームに刀を振り下ろした。
その一撃は敵の胸を確かに打った。しかし、デベスクリームには全く効いている様子はない。仮面の下で瞠目する直也の前で、そのペンギン型の怪人は刀をいとも簡単に払いのけると、お返しとばかりに腹に蹴りを打ち込んできた。さらに続けてその鋭い爪で力任せに胸を切り裂かれ、オウガは火花を散らしながらよろめく。
「私はデベスクリーム。鉈橋きよかなんて知らない。私は私」
大声をあげながら、デベスクリームは右手から青白い電流が放った。それは蜘蛛の巣のように空を掻き、オウガの体を絡め取る。電撃の直撃が生み出した熱と衝撃は装甲の内部にも伝わり、直也は肌を焼く痛みに苦悶の声をあげた。
「……だからさっき、手を止めたのは何かの間違いですー。その証拠に、ほら、こうやったお前を痛めつけることはできるですー」
「……お前が知らなくても、お前の中で鉈橋そらは生きている。お前の痛みは、彼女の痛みだ!」
反論をあげた瞬間、背筋が凍えるように寒くなり、まるで宙を浮いたように直也の体から下半身の力が消失した。直也は自分の体が限界を訴えているのだと知る。片膝を突くオウガを前にして、デベスクリームは歓喜の表情を浮かべた。
「へん。ヘタレが何を喚こうと痛くも痒くもないですー。ごちゃごちゃ言い腐りやがって。いい加減に地獄に堕ちろですー」
デベスクリームの手から電流が飛ぶ。反応が一瞬遅れ、避けようと体を動かす前に、オウガの装甲を衝撃が揺さぶった。爆音が耳を劈き、熱が胸の上で破裂する。その体はかなぐり倒され、宙を浮く。視界が回転し、どちらが天でどちらが地なのかさえ分からなくなる。
地面をごろごろと転がり、暗転した世界へと落ちていく直也の耳に、声が聞こえた。仮面の中で目を細め、顔をあげると、ライが涙に濡れた顔でこちらを覗き込んでいた。その丸い目が、直也の中でかつての恋人の姿と重なる。
「ライ……」
「おっさん!」
ライは涙と雨で濡れた顔で直也に手を伸ばしてくる。視界の端ではデベスクリームが掌をかざしているのが見えた。しかし、腕を前に突き出したその姿勢のまま、硬直している。先ほどと同様に頭を片手で抱えるようにし、その口からは低い呻き声も聞こえてくる。
やはりか、と直也は平静さを取り戻しながら得心する。やはり鉈橋きよかは、あの怪人の中で生きている。そして直也とライを守ろうとしてくれている。自分の死体から生まれた悪魔が暴走し、自らの姉を殺めることのないよう、手綱を握ってくれている。
「なんだこれは。なぜ、なんで、あいつに攻撃できない!」
デベスクリームは荒々しい口調で、苛立ちを顕わにする。思い通りに動かない自分の体に困惑しているに違いない。その目はライを恨めしそうに見つめている。ライもまたデベスクリームをきつく睨み返していた。
「偽物が……私に楯突こうというのか!」
「うるさい! もうお前なんか怖くない! これ以上、おっさんを虐めるな!」
ライは激しい口ぶりで果敢にも言い返すと、再び直也の方に顔を向けた。
「おっさん、大丈夫?」
問われ、直也は思い出したようにライに視線を戻した。彼女の体は相変わらず、うっすらと金色の光を纏っている。ほら、とライは直也に差し出した手を軽く揺らした。掴まれ、ということらしい。その頬はまだ紅潮していたものの、すでに目に涙は浮かんでいなかった。
彼女の手と顔とを見比べているうち、直也の脳裏にふと蘇るものがあった。
似たような状況に最近陥ったことがあるような気がした。デジャブにしてははっきりしていると思考を練らせた瞬間、すぐに、その記憶に思い至る。
あの時と同じだ――直也はオウガのマスクのひび割れた隙間から外界を覗きながら、1週間前の情景を脳裏に呼び覚ます。
鳥と化したライの影。オウガ。大きなダメージを受けたライ。
そうだ。直也は思わず息を呑む。フェンリルに追い詰められた直也を救ってくれた、あの不思議な力。それが発現した時と現在とは、偶然なまでに全く同じ状況をなぞっていた。
もしかしたら――。
直也は期待を胸に身を起こすとオウガの掌を見つめ、少しだけ躊躇をしたあとで、ライの手を握り返した。それは思い出すよりもずっと小さな、しかし温かい手だった。鼻先を懐かしい匂いが過ぎる。それは思い出の中にある、咲の香りだった。
まるで指のすき間から零れ落ちる水滴を辿るように。宙を舞う光の残滓を掴むように。直也は咲から受け継いだその装甲服ごしに、彼女が愛した娘の仄かな体温を確かに感じる。
それを自覚した途端、体に力が漲っていった。1週間前、旧鉈橋邸で感じた時と同じように、ライの体からオウガの装甲に向けて凄まじい力が流れ込んでくる。装甲の表面を電撃が滑り、その全身をあますことなく包み込んでいく。電撃が舞い散る埃のようにオウガを取り巻き、そしてその装甲を変質させていく。
直也はライの手に引かれるようにして、立ち上がった。電撃をその身に踊らせながら、手をそっと離し、彼女を向き合う。
「ライ、ありがとな。力、もらったぜ」
その細い肩に軽く触れ、礼を告げると、ライは「これくらい、お安い御用だって」と弱弱しく笑った。「後は頼んだよ」と消え入るような声で言い残し、脱力したかのようにその場で両膝を地面に付く。
「あぁ、任せとけ。お前は、そこで休んでろ」
直也は頷くと、デベスクリームに顔を向けた。ライを背後に置いたまま、3歩ほど歩みを刻む。デベスクリームは虚を衝かれたかのように硬直していたが、ライが視界から失せ、頭痛が治まったことを知るや否や、掌から電撃を吐き出してきた。
だが、強化されつつあるオウガの装甲はその青白い光を、棒立ちの姿勢のまま弾いた。
そして熱く輝く光に纏われながら、直也の外側で、オウガは完全なる変化を果たした。
電撃が通過した箇所は黄金色に染まり、元の色である銀色と相まって実に絢爛な姿と化している。首から上に目を向ければ、もとより後頭部から前頭部にかけて構えられていた大きな一本角に加え、新たに黄金に彩られた小さな角がこめかみから伸びており、計3本の角がオウガの頭には出現していた。
装飾を増やし、大きくフォルムを変えた装甲の中でも最も目を引くのが、胸元に刻まれた鳥のマークだった。雄々しく翼を広げ、天に向けて吼える鳥の姿は、ライの影と、地面に掘られた印と、咲の体を汚していた痣と、同形状のものだった。
だが変化が訪れる一方で、同時に崩壊も始まっていた。
体のあちこちで火花が散り、次々と装甲が弾けとんでいく。まるで岩石が風化させる様子を、早回しで観ているかのようだ。おそらくオウガにとって、今、纏っている力は規格外のものなのだろう。自重に耐えきれず、オウガは自ら崩壊への道を突き進もうとしている。体のあらゆる部分で響く破裂音を、どこか他人事のような思いで耳にしながら、直也は拳を握りしめた。
砕けずにいる片目を金に輝かせたオウガの内側で、直也は体内に燻る力の澱を散らすように、空を仰ぎ、咆哮した。
それは直也にとって、精神を焼かれ、体力を消耗し、血液を失いすぎた満身創痍の体を無理やり動かすための儀式だった。
「……角が増えたからといって、なんだっていうんですかー!」
デベスクリームは一瞬、怯んだ様子をみせたが、すぐにいきり立つと右手を前にかざし、そこから先ほどと同様に、蜘蛛の巣じみた形を描く電撃を放った。
応じるように、“三本角のオウガ”もまた右の掌を前方に突き出す。するとそこから赤味を帯びた電撃が迸り、中空でデベスクリームの放った電撃と激突し、爆ぜた。
なぜ何の予備知識もなしにそんなことができたのか、直也自身も正直なところあまり把握できていなかった。ただオウガの内側から声のようなものが聞こえた。その声に誘われるがままに体を動かした、それだけのことだった。脳裏に鳥のイメージが滲む。そのイメージに意識を傾けるよりも先に、目先の状況が頭を占めた。
「……気に入らないですー。そこのパクリも、お前も、全部、目の前から消えろですー!」
デベスクリームは右腕を下げると、一歩下がりつつ、今度は左腕をかざした。その掌から白い煙が噴出す。それが触れたものを一瞬で凍結させる恐ろしい冷気であることは、すでに経験から把握していた。
しかし強化されたオウガは、その凍える風を蝿でも追い払うかのように、軽々しい動作で払いのけた。熱に負けた冷気が水蒸気と化し、オウガの仮面を濡らす。直也は瞬きをして視界を晴らし、そして腰だめから刀を素早く引き抜いた。それは相変わらず半ばから折れており、刀本来の役割を捨てた中途半端極まりない武器であったが、その柄もオウガ本体と同じように金の装飾に彩られていた。
デベスクリームの舌打ちが聞こえる。それと同時に掌から投じられた青白い電撃を、オウガは躊躇なく刀の柄で殴り飛ばした。空中で撃墜された電撃は散り散りとなり、地面に触れて弾ける。
そして青白い光を全身に浮かせながらオウガは片足を踏み出すと、手にした刀を素早く突き出した。それは直也の鈍りきった感覚をはるかに置き去りにするスピードで放たれ、回避させる暇さえ与えず、デベスクリームの腹部を轟音とともに穿った。
「腹が弱いって、この間言ってたよな、おい」
息を詰まらせ、後ずさるデベスクリームに一歩で接近し、左拳をさらにわき腹にねじ込む。拳が爆ぜ、衝撃が怪人の肉体を揺さぶった。悲鳴をあげるその体目掛けて、さらに二度、三度と拳を突き立てる。そのたびに爆発音が空気を劈き、デベスクリームの体は皮膚を剥がれ、肉片を撒き散らしながら破壊されていった。
「命がけなんだ。悪いが、遠慮は一切しないぜ」
体が軽い、と直也は確かな感触を拳に覚えながら思った。体調は確実に悪化しているのだが、今のオウガはそれを補うだけのパワーに満ちていた。いつもの半分の力で倍移動ができるし、ほんの少しの膂力で敵に致命傷を負わせることもできる。そして装甲の内側に宿る光は、こうしている間にも破滅を誘うほどに膨れあがっている。
よろめきながら後ずさるデベスクリームを、オウガは半歩で追った。がむしゃらに放たれた電撃を間近でかわし、突き出された爪を左手の甲で受け止め、なぎ払う。姿勢を崩したその体目がけ、青白い光の帯びた刀を一閃した。
これまで刃物として役に立たなかったオウガ唯一の得物が、直也が手にしてから初めて、その真価を発揮した。
刀身に帯びた電撃が刃の役割を担った。その先端がデベスクリームの腹に突き刺さり、さらに切り裂く。いかにも強固そうなデベスクリームの体に大きな裂傷が開き、オウガが刀を振り抜いた瞬間に、その傷口から盛大に火花が吹き出した。
「これが!」
体をのけぞらせつつ、後退しようとするデベスクリームに刀を投げつける。電撃を纏い、光を孕んだ切っ先はその胸を衝き、動きを硬直させた。
「俺と、咲さんと!」
最低限の脚力で、オウガを乗せた直也の体はデベスクリームに肉薄する。かざされた右腕に、直也もまた右のストレートを打って返した。
「ライの力だ!」
オウガの拳はデベスクリームの右腕を破壊した。そのままその体をかなぐり倒す。怒濤の反撃にデベスクリームはたまらず吹き飛び、瓦礫の山に背中を叩きつけられた。コンクリート片に横たわるその姿を見つめながら、直也は自分の荒い呼吸を耳の奥で聞いている。心臓が破裂しそうな速度で脈打っているのを肌で感じる。口の中は血の味でぬめり、布のおかげで大分収まっているもの、いまだ腹部の痛みは激しく脈打っていた。
装甲の爆ぜる衝撃が骨の芯を揺さぶる。背中の装甲が剥がれ、地面に落ちて鈍い音を鳴らす。角がへし折れ、破片が肩の上を滑り落ちていった。
ふっと意識が遠ざかる。それに呼応するかのように、直也の体から一斉に装甲が離散していった。
オウガは砕け、散り、無数のパーツに分かたれてどこかへ飛び去っていく。直也の腹から支えを失ったプレートが落ち、地面を跳ねた。
ぐるぐると渦をかく装甲たちの中心で、直也は崩れ落ちた。反射的に両手を突いたため、完全に倒れ込むこととはなかったが、それでも地面に両膝、両の掌を付けた姿勢のまま顔をあげる体力すら残されていなかった。
視線の先に刀が落ちているのが確認できる。装甲は皆どこかへ消えていったのに、それだけ取り残されているのは実に妙だった。そういえば先ほどオウガが解除された時も、刀だけは反応が鈍かった。ひょっとしたらプレートの機能が弱まっている影響なのかもしれない。だがその雨に打たれ、鈍い輝きを帯びる刀を手に取る力さえも、直也にはなかった。
装甲が鈍い体の動きを補助してくれていただけに、それを失った反動も大きい。体にのしかかる重みは何倍にもなって直也の身に降りかかる。
そんな直也の憔悴しきった体に。
「……まったく、本当に、厄介で、しぶとい。最悪の獲物ですー」
絶望的な声が降り注いだ。
首を僅かに上向かせ、視線だけで前方を窺う直也の目に飛び込んできたのは、腹部を片手で押さえながら表情を歪ませ、瓦礫の山から飛び降りるデベスクリームの姿だった。
刀で切り裂いた傷口からはいまだ白い煙が立ち昇っている。だがわずか数刻前と比べて、その傷がかなり塞がっているのを認め、直也は驚愕した。骨を割り、爪をへし折ったはずの右腕も、みるみるうちに再生していく。デベスクリームは確かに致命傷だった腹の傷を指先でなぞるようにすると、ふふん、と小馬鹿にするように笑みを漏らした。
「でも場所が悪かったようですねぇ。言ったでしょう? ここにいると、パワーが満ちあふれてくると。ダメージもすぐさま回復。体力万全ですー」
さすがに息はあがっているものの、それでも浴びせたダメージから換算すればかなり軽快な口調で。デベスクリームは鼻を鳴らす。直也は目を見開いたまま硬直する。目の前の光景が現実だとは思いたくなかった。
「紙一重ですー。危うく死んでたところですー。日頃の行いの良さがここで出たに違いないですー」
直也は地面に落ちたプレートを見つめる。もう1度装甲を纏わなければ、と本能が囁いている。だが頭の隅に残された理性が、たとえ纏ったとしても戦う力がないだろうと反論する。その通りだった。腹部の傷は思うよりも深く、直也の体力は著しく削られている。この銀色の板を手に取ったとして、この状況を打開できるとは思えなかった。
デベスクリームは跳躍し、いとも簡単に直也のもとにたどり着く。そして新しい玩具を手に入れた子どものような純粋な輝きを瞳に宿すと、足下に落ちていたオウガの刀を拾い上げた。ひどく汚れ、傷ついた刀を眺め、それからゾッとするような笑みを浮かべて直也を見た。
「自分の武器で死ぬなんて、馬鹿にはうってつけの死に様ですー。そう思いませんかー?」
嘲るように笑い、そして唇を噛む直也の顔目がけて、何の躊躇もなく刀を振り下ろす。もはや思考さえ纏まらぬ直也の目に、その刀の割れた断面が仄かな光を帯びた。
直也は思わず目を背けた。
その時、直也は自分のすぐ横を通り過ぎる足音を耳にした。頭の上に影が覆い被さる。誰かが自分とデベスクリームの間に立っているのだとすぐに察した。直也は顔をあげ、そして息を呑んだ。目の前にはデベスクリームの胸に飛び込んでいくライの姿があった。
「やめろ!」
ライの勇敢な声が爆ぜる。突き出されたオウガの刀はその脇腹を殴った。先が尖っていないとはいっても、殺傷能力をもった金属の塊であることに違いなく、傷つけられたライの肉体からは血飛沫があがった。ライはうめき声を漏らすが、それでも怪人の鎧じみた胴回りに腕を回し、そのまま抱きつく。体格差も相まって、その構図はまるで感動の再会を果たした親子のようだった。
「もうこんなことやめろよ! 良くないよ! 私と同じ顔で、人を殺すなよ!」
シャツに血の染みていく傷口を拭うこともせず、ライはデベスクリームを真下から見上げる。直也の目に、デベスクリームは困惑しているように見えた。その証拠に懐に飛び込んできた敵に対して、攻撃を加える素振りさえみせなかった。
「頼むから、もう止めてくれよ!」
ライの悲愴の叫びが空を伝う。これ以上は危険であることは明白で、直也はいてもたってもいられなくなる。プレートを手に取り、全身の力を奮わせて身を起こす。視界が大きく揺らぎ、バランス感覚の失った体を、左右に揺れながらもどうにか制御する。
ライとデベスクリームは間近で見つめ合う。ライはさらに抱きしめる腕に力を込め、自分の胸に怪人の体を引き寄せる。デベスクリームは食い入るように、沈黙を守ったまま、ライの顔を見据えている。その手から刀が落ちた。
デベスクリームの虚ろな視線が、ライの傷ついた脇腹に移ろう。そのタイミングを見計らったわけでもないだろうが、ライは怪人の腹に頬を押し当て、彼女の口から出たとは思えぬ柔和な口調で囁きかけた。
「頼むよ、そら、もう止めてくれよ。私、もう嫌だよ」
ライの声に、デベスクリームの目がカッと見開かれた。異変はすぐに起きた。デベスクリームは力任せにライの体を振り払うと、胸を掻きむしり、狂ったような絶叫を始めた
「私は違う。私は違う。私は違う。私は違う。私は違う。私は違う! 私はお前じゃない!」
デベスクリームは片方の手で胸を、もう一方で頭を抱え、悶える。その姿が怪人のものからライと瓜二つの少女のものへと戻る。かと思えば怪人の刺々しいシルエットに変貌を遂げ、ぬかるんだ地面をのたうち回る。それからもまるで切れかけの蛍光灯のように、怪人から少女へ、少女から怪人へと変化を繰り返し、その最中も絶えずその口から絶叫を吐き散らしている。その呼気は荒く震え、その体は心臓発作に見舞われた時のように痙攣を起こしていた。
それでもデベスクリームが時折顔をあげて、直也たちを睨む眼差しには存分な殺意がこめられていた。体が言うことを効かず、意識の錯乱した現状においても、その凶暴性が朽ちることはないようだ。近づけば、確実に殺される。その戦慄が、呆然としていた直也を我に返す。
「ライ!」
地面に座り込んだライに背後から近づく。ライは振り返り、立ち上がろうとして、苦痛に顔を歪めた。先ほど傷を負った脇腹は、すでにぐっしょりと赤く濡れていた。
「お前……こんな、無茶しすぎだ!」
焦りが胸を占め、思わず声を荒らげる直也に、ライは眉間に皺を寄せながら、それでもぎこちない笑みを口元に宿した。
「大丈夫。心配すんなよ、おっさん。私、怪人なんだから。こんな傷、なんてことないよ」
「馬鹿かお前は!」
直也は自分の腹に巻きつけていた黒い布を鷲掴みにし、勢いをこめて横に裂いた。力ずくで破いたので、それは不格好な三角形の形に切り取られた。
「こいつを押しつけとけ! とにかくここから離れるぞ。この場所にいる限り、奴には勝てない!」
ライに布を押しやると、直也は彼女の腕を掴んだ。バイクを停めた所に向かう途中、転がっていたライのリュックサックを拾う。
バイクのエンジンをかけたままだったのは幸いという他なかった。ヘルメットを適当に被り、座席にまたがって、ライを背中にしがみつかせ、アクセルとクラッチを操作してタイヤを転がす。濡れた土を背後に掻き出しながら、バイクは直也の手の中で動き出した。
ライの傷のことを考えればここにしばらく留まっていればいいのだろうが、それは敵も同様だ。デベスクリームが勝ち誇っていた通り、この場所は直也には余りにも分が悪すぎた。それ以前にもはや直也には、装甲を纏い、立ち向かうだけの体力が残されていない。バイクを運転することさえ、不安を覚えているくらいだった。
駆け出した直也の背後で、電撃と冷気とが周囲で舞い踊る。デベスクリームが苦しみながらも無茶苦茶に攻撃を撒き散らしているに違いなかった。直也は明滅する光を背後にその場から離れ、そして再び不思議な気配を肌に覚えながら、この荒地からの脱出を果たした。後にはデベスクリームの叫び声だけが響き渡っていた。
人気のない裏道をフルスロットルで駆け抜ける。国道に繋がる通りに飛び出した瞬間、高校生くらいの少年とすれ違った。危うく轢きそうになるが、直也はハンドルを操作し、何とか彼の横をすり抜けて国道に乗る。
縮れ毛を金に近い色で染めた少年だった。彼は半袖のポロシャツを着ていたが、その左手の掌から肘にかけて包帯が幾重にも巻かれているのが印象的だった。右手には何かを握り締めているようだ。そのためこの小雨の中で彼は傘を差していない。少年は直也のことをじっと見ていた。険しい顔をしている。荒っぽい運転をする直也に怒りを感じているのだろう。それも当然のことだと思った。直也もその視線に申し訳なく思う。
本来ならばバイクを停め、謝罪をするべきなのだろうが今はそんな余裕はとてもではないが、なかった。軽く左手を上げ、謝罪の気持ちを伝える。それからさらにスピードをあげた。目の前を走る赤いワゴンを追いながらもう1度ミラーを確認すると、少年はまだ立ち止まり、直也の背中を一心に見つめ続けていた。
魔物の話 51
レイは天村家のリビングに置かれたソファーに身を沈め、先ほど遭遇した出来事について思いを巡らせていた。テレビに目を向けてはいるが、内容は全く頭に入ってこない。
ソファーは高価なものらしく、スプリングも弾力も非常に心地良い具合で、いつもならば寝転がるだけで意識もまた夢の世界に転げ落ちていきそうになる。だが、レイの頭は少しも霞んでいく様子がなく、また気持ちも休まることはなかった。数時間前に邂逅を果たした、あのディッキーと酷似した、しかしその内面や機微は似ても似つかぬネズミのことを考えるだけで、胸の内にもやもやとしたものが立ちこめるようだった。
かさり、とカブトムシがケージの中で音をたてる。軒下から雨の滴が落ち、庭石を叩く音が絶えず聞こえてくる。
リリィ・ボーン。もう1人の最高の怪人。そして世界の変革。
マァズの口から飛び出した単語が頭の中をぐるぐると彷徨って、レイの心をかき乱す。そのどれもが精彩を欠き、ひどく抽象的なイメージを纏っていることが余計に薄気味悪かった。
何か嫌な予感がする。レイの心模様を投影するかのように、窓の外には灰色の空が横たわっていた。
結局あのあと、しばらくして悠は目覚めた。悠は当然のことながら眠っている間に起きた物事の顛末を全く理解しておらず、自分が気を失っていることにもひどく当惑している様子だった。だがとくに後遺症などはなく、すぐに笑顔をみせてくれたので、レイは酷く安心した。
軽い熱中症かもしれないとレイは伝え、デパートまで遠出するのは諦め、予定を変更して近所の商店街を回ることにした。ちょうど空は雨が降り出しそうな気配に満ちており、そのことも口実にすると、悠は不承そうだったが、どうにか納得してくれたようだった。終わりにスーパーに寄り、夕食の食材を買い集め、帰宅し、現在に至るというわけだ。
悠が希望していたデパート行きを変更せざるを得なくなったのは、苦渋の決断だった。だが白昼堂々と怪人がレイを狙って現れ、悠がその巻き添えになってしまった以上、遠出の外出を避けるに越したことはなかった。本心を明かせば、その後も近場での買い物すらせずに、即刻自宅に引き返すのが正しかったと思っているくらいだ。
やはり佑の言う通り、怪人のいない世界が構築されない限り、悠は自由に生活することができないのだろうかと考えると、レイは憂鬱になる。自分がこの家にいて、悠や佑と一緒にいること自体が許されぬように感じてしまう。
――あんたが怪人であることを知れば、こいつもあの男も、あんたを拒絶するぜ。あんたも分かってるだろ?
マァズの声が頭の中を巡る。レイはソファーの腕掛けに頬杖を突きながら、ガラス戸の外を見つめ、呟いた。
「分かってるよ。でも、一緒にいたいんだから、仕方ないじゃない」
レイは腰をあげると、窓に近づき、ひと呼吸を挟んでからカーテンを閉めた。これ以上、暗く淀んだ景色を眺めていると、さらに心が落ち込んでいきそうだった。
カーテンを閉め切ってからもその場で立ちつくし、レイは不意に佑の声を思い出す。
佑からはスーパーの入り口に差しかかったところで電話がかかってきた。急いた様子で「怪人を取り逃がした。いまどこにいるのか分からないか」と彼は尋ねてきた。
しかしレイには分からなかった。どれだけ神経を研ぎ澄まし、気配を探ろうとも、頭の中に光が浮かんでくることはなかった。そのことを伝えると、佑は電話越しにも伝わる程に落胆し、それでもレイを傷つけまいと「分かった。気にしないで。このへん探して見るから」と心ある言葉をかけてくれたのだった。
友達との久々の会合を投げ出し、佑は汗まみれになりながら怪人を追ってくれているというのに自分は一体、何をしているのだろう。カーテンを皺が寄るほど強く掴みながら、レイは無念に打ちひしがれる。
あんたが不甲斐ないからだ。マァズの辛らつな言葉が胸を衝く。その通りに違いないとレイ自身も思う。怪人としても、人間としても、レイは中途半端だった。いっそどちらかに傾けば楽であることは分かっていたが、そのどちらにも浸かることのできない自分の優柔不断さが、レイは情けなくてしかたがなかった。
佑に殺された怪人の、怨嗟をこめた眼差しが脳裏を過る。悠が気を失ったときに感じた不安が胸をざわめかす。こんな生き方が長く続くわけはない。いつか破綻するのは目に見えて明らかだった。それでも、全てを捨てきれない自分がいる。それを自覚していながらも、レイにはどうすることもできない。
足元が揺らぐような気分に脅かされながらため息を零す。
背後にある廊下側の引き戸が開いた。トイレに行っていた悠が戻ってきたのだ。レイは鬱屈とした気持ちが外に出ないよう注意を払いながら、口元に意識して笑みを浮かべ、振り返った。
だが努力をする必要もなく、レイは自然に自分の表情が綻ぶのを感じた。ドアを後ろ手で閉め、レイを見て微笑む悠が、目の前に立っていたからだ。レイが目を留めたのは彼女のその恰好だった。
悠は白を基調とした赤いチェックのエプロンを身に付けていた。Tシャツと丈の長いスカートという清楚な服の上から纏っていることも相まって、その姿はとてもよく悠に似合っている。このままファッション雑誌に載せられていてもまったく違和感がなかった。悠はいかなる時においても悠には気品があり、そのせいか、どんな格好をしていようともレイには輝いてみえる。そんな親友の雰囲気を、素直に羨ましいと感じるときが度々あった。
そのあまりに可憐さに、レイは一時、暗澹とした気持ちを忘れて、晴れやかな気分になる。悠は恥ずかしそうに頬を紅潮させた。
「どうしたの悠、それ、すっごく可愛いよ」
「えへへ、ありがとうレイちゃん。そろそろ夕飯作らなきゃと思って。たぁくんは外で食べてくるって言ってたから」
悠は右手に青いチェック柄のエプロンを抱えていた。レイの目線に気が付いたのか、「これたぁくんのなんだけど」と口添えをしたあとで、悠はそのエプロンをレイの前にかざした。
「レイちゃんも一緒に作ろうよ、ハンバーグ。きっと楽しいよ」
レイは呆然と悠を見つめた。その飾らない笑顔がレイの喉元を強く絞めつける。まるでコルクを詰められたかのような息苦しさが体を硬直させた。
レイは自分の体の異変に戸惑いを覚えながらも悠に歩み寄り、エプロンを片手で受け取った。柔軟剤の匂いが鼻先をくすぐる。エプロンに沁み込んだ悠の甘い温もりがレイの腕を包んだ。
その体温は、悠の何の裏もない無邪気な笑顔は、同時にレイの胸奥を削いだ。それは親友を騙しているという罪悪感から生じる痛みに違いなかった。
レイの正体を知れば、悠はそのあまりに魅力的な笑顔を表情から消し、脅えた目でレイを見ることだろう。佑はそんなレイを絶対に許さず、フェンリルの刃でレイを殺そうとしてくるに違いない。あの扇風機の怪人と、同じように。
昨日、佑がレイを信じると言ってくれた時は嬉しかった。緊張し、凍りついていた心が氷解していくのを感じもした。だが、我を忘れて怪人に何度も剣を叩きつけていたフェンリルの後ろ姿を見た今では、怪人のいない世界を作るという彼の理想を聞かれた現状では、その言葉さえ完全に信じることができないのがひどく悲しかった。
目頭が熱くなる。佑のことも、悠のことも、レイは好きだった。離れたくないと心の底から思ってしまっている。いつか別れなければならないと分かっていたはずなのに。それでも、微かな希望を求めてしまっている。
悠や佑と別れることは想像するだけで辛い。そんな日が必ず来るだろうということなど考えたくもなかった。嘘と欺瞞に塗れた今を送っていることを理解しており、それがいけないことは分かっていつつも、それでもここにいたいという気持ちは止められない。
その沸き上がる想いが、感情のダムを決壊させた。顔全体が熱くなり、咄嗟にレイは悠に背中を向けた。昨日、悠を心配させるような顔をするなと佑を叱った手前、彼女の前で涙をみせるわけにはいかなかった。
「ど、どうしたのレイちゃん。ハンバーグ嫌いだった?」
悠は慌てふためいた様子で、戸惑いの声をあげる。レイは強く瞼を閉じ、それでもとめどなく溢れてくる涙を必死で手の甲を使って拭った。
「ううん、大丈夫。ちょっとカブトムシが目に入っただけだから」
「カブトムシ! そ、それはちょっと大丈夫じゃないと思うんだけど……」
「大丈夫だって。ごめんね急に。一緒に作ろう、ハンバーグ。とびきり美味しいの」
ごしごしと瞼を擦り、鼻を啜ってから、レイはようやく振り返った。おそらく目が赤く、鼻も出ていて、泣き顔の名残があることは明らかだったが、それは微笑むことで帳消しにしようとする。レイは温かい感触の伝う頬をもう1度、掌で拭うと、エプロンを両手で体の前に広げた。
自分らしくない、とエプロンの紐を首にくぐらせながら己を窘める。今更泣き言を言っても後戻りはできない。だからこそ、2人と過ごしたこれまでを、2人と過ごせるこれからの時間を大切にするべきだと思った。後悔している時間が、あまりにも惜しい。
腰で紐を縛り、レイは膝のあたりにかかったエプロン生地を軽く叩く。顔をあげると、桃の香りがふわりと漂った。見開いた目の先に悠がいた。悠はレイの右手首を掴むと、その真剣な表情を寄せてきた。
「レイちゃん。何か悩みとかあったら、その、私なんかじゃ何にもできないかもしれないけど! でも、その……話してくれたら、嬉しいなって」
悠の間近に迫る殊勝な眼差しが、レイの息を詰まらせる。悠はレイの手首を引き、自分の胸の辺りに引き寄せると、さらに語調を強いものにした。
「私、今までいっぱいレイちゃんに助けられてきたから、だから恩返ししたいの。こんな小さくて、力もなくて、体の弱い私だけど、レイちゃんのために何かがしたいから。だからね、困ったことがあったらいつでも話して。私はいつだって、レイちゃんの味方だから」
唇をぎゅっと結び、眉間に皺さえ寄せた彼女の表情は、いまにも泣きだしてしまいそうに見えた。レイは自分の手を掴む悠の掌を、その腕を見つめる。つい数週間前まで入院生活を送っていただけあり、その肌は病的に白く、少し力をこめれば折れてしまうのではと心配になる程、その腕は細かった。
しかしそれでも、悠はレイの身を案じ、何かをしたいと言っている。悠の気持ちは痛いほどに伝わってきて、まるで漏斗で水を差すように心の中にむず痒い感覚が流れ込んできた。
「ありがとう」
悠の目を見つめ、本心を口にすると、また胸が震えた。唇を噛んで涙を堪える。悠は強い。彼女に生きる力にずっと支えられてきたのは、実はレイの方だったのかもしれない。
「こんなに優しい友達をもって、私、本当に幸せだよ」
悠は相好を崩し、「私も同じ気持ちだよ」と恥ずかしそうに言う。レイも軽く笑んだ。
しかし悠の言葉に弾む心の内で、密かに色濃い不安が滲んでいくのを感じている。
この悠の優しい笑顔が、レイに対する恐怖を浮かべたものに変わることを想像するだけで、視界が溶けて歪んでいくような気がした。
鎧の話 44
前方の景色が霞んできた。ハンドルを握る手にはとっくに感触がない。雨に晒され続けていることもあって、体力は大きく削られていた。もはやいつ気を失ってもおかしくはない。先ほども危うく赤信号を渡りそうになったところだった。
これ以上の運転は事故になりかねない。直也はわき道に逸れると、人通りの少ない路地に侵入した。感覚だけを頼りにしばらくバイクを走らせる。
数分もそうしていると、小さな公園に突き当たった。幸いとばかりにバイクのまま公園内に侵入し、中にある東屋の前に止める。ようやく雨を凌げる場所にたどり着けたことで、直也は安堵のため息を吐き出した。
「ここで、休憩しよう。これ以上はさすがに危ない」
直也が言うと、ライは無言で頷いた。ライの体からはすでにあの金色の発光は消え失せ、その影も人間のものを取り戻しているようだった。
ヘルメットを脱ぎ去り、短い石段を昇って、東屋の下にあるベンチに腰かける。その隣にライも座った。濡れて色の変わったリュックサックを傍らに置く。直也もバッグを椅子の上に転がした。
雨が東屋の屋根をぱらぱらと叩く。本降りになってきた雨によって、周囲は薄く霧がかかっていた。ネズミ色の空の下、こうして人気のない公園にいると、なんだか別世界に迷い込んでしまったかのような気分になる。近くに川があるのか、ごうごうと唸るような音が周辺の物音をかき消していた。
屋根の軒下から水滴が点々と零れ落ちてくるのを見つめながら、直也はひどい寒気を感じた。歯の根が合わず、ぶるりと全身を震わせなければならない程の悪寒だった。シャツは肌にべったりと貼りつくほど水気を含んでいた。気分が悪く、吐き気もする。頭痛も酷い。体温計を使わずとも、高熱が出ているのは明らかだった。
腹部に受けた傷の痛みは大分軽減されていた。胴に巻いた黒い布の効力に違いない。それでもその痛みは明瞭で、今になって思えば、デベスクリームと戦い、あの場所から逃げられたことが奇跡のように感じた。
今にも眠気に負けてしまいそうな意識を深呼吸でごまかし、直也はライを見た。
改めて意識して目にすると、ライは凄惨な恰好をしていた。
彼女の着ている服はところどころ破れ、肩口や脇腹の生地には血が塗りたくられていた。雨で全身がぐっしょりと濡れていることが、さらにそのみすぼらしさに拍車をかけている。人通りの多い場所を歩けば、それだけで通報されそうだ。バイクに乗っている間は、直也の背中でそれら全てを隠せていたため、人の目に付くことがなかったのは幸いだった。
ただそんな見るも無残な格好に反して、ライ自身は実にけろりとしていた。最後に受けた傷もすでに痛みを感じていないらしい。だがその華奢な体にはさすがに疲労が色濃くこびりついているようで、彼女は俯いたまま地面の一点を見つめ、沈黙を決め込んでいた。
直也はその青白い横顔を見つめ、それから彼女の胸元に視線を移し、ため息をついた。
「ライ。俺を助けてくれたことには、とりあえず感謝はする。本当に……助かった。お前がいなけりゃ、今頃命はなかった」
ライは顔をあげ、直也を見た。その瞳には不穏な揺らぎがあった。その不安そうな眼差しを受けながら、直也は「だけど」と眉を顰め、続ける。
「だけどな、無茶しすぎだ。いくら治るっていっても、痛みは感じるわけだろ? それに死なないわけじゃないんだ。頼むから、無謀な真似だけはしないでくれ。お前に何かあったら、咲さんに申し訳が立たないんだ」
ライはしばらくの間、直也をじっと見つめていた。それは諦観のこもった、ひどく暗い眼差しだった。だがすぐに再び顔を伏せ、唇を噛むと、ベンチに手を付き、苛立った様子で立ち上がった。
「……おっさんは、勝手だよ」
呟く言葉は憤りを孕んでいた。鼻白む直也を置き去りにして、ライはリュックサックを引っつかむと踵を返し、東屋から抜け出そうとする。草むらに繋がる石段を下っていこうとする途中で、直也は慌てて腰をあげた。柱に片手で掴まり、東屋の中からライの背中に声を投げる。
「おい、待てよ! どこ行くつもりだ!」
ライは足を止め、雨に打たれながら振り返った。その目は相変わらず、光の届かぬ深海のような色を帯びていたが、その顔には凛としたものが宿ってもいた。それは覚悟を決めた者がみせる表情だった。
「おっさん、あいつの話、聞いてたのか?」
ライの表情が哀しげに歪む。彼女の足元に広がる水たまりに、降り注ぐ雨によって無数の波紋が浮かぶ。
「あいつは私の気配を追っかけてきたんだって、そう言ってたじゃないか! あいつはまだ生きてる。すぐに追っかけてくる。私が一緒にいると、おっさんも危ないんだよ。だから……私は離れなくちゃいけないんだ」
直也は目を見開いた。石段を降り、自分も雨に晒される。段を2つ介して、ライの脅えきった顔と向き合う。
「おい、お前……だから、なんでそんな無茶を」
「無茶してるのはおっさんの方だろうが! そんなボロボロの体で、今度あいつが襲ってきた時に、何ができるんだよ! 仲間だっていなかった。オウガだって勝てなかった! もう打つ手なんかないじゃないか!」
直也は唇を噛んだ。ポケットの中のプレートの感触をジーンズの上から確かめる。もはやオウガの装甲は直也と同じくらいに満身創痍だった。しかも唯一の武器であった、あの折れた刀も置いてきてしまった。今までであれば刀は自動的に反射物の中にしまわれていたが、今回はその望みは薄いのでは考えていた。明らかに装甲は不調だ。あの三本角の力を発現させたことで、さらに負担がかかったに違いない。
ライの言っていることは至極当然のことだった。その意見は正しい。今の直也には、怪人と対抗するだけの力がなかった。
しかし、だからといってここでライに単独行動を許すわけにはいかなかった。
「でもだからって、お前が1人になったところで状況は何も良くならないだろ。単なるその場しのぎだ」
「それだって今すぐ、やられるよりはいいじゃないか! このままじゃ私のせいでおっさんが死んじゃうんだぞ!」
生温い雨が頬を撫でる。ライの震える瞳と対峙する。滞りなく天から注がれ続ける雨のせいで、直也もライも、すでに頭からつま先までぐっしょりと濡れていた。
「俺はいいんだ。お前さえ無事ならそれで。さっきも言っただろ。お前が怪人だろうが人間だろうがなんでもいい。お前は咲さんの娘なんだ。俺はお前だから守りたいんだ」
「そんなの、私だって同じだ!」
足元がふらつき、直也はすんでのところで錆びた鉄の柱を掴んでバランスを保った。ライの息も荒い。炯々と目を輝かせ、直也を睨むその様は、いかにも真剣だった。
「私が人間じゃないって、怪人だって知ってて、ずっと一緒にいてくれたんだろ? 私のことを好きだって、守りたいって言ってくれた。そんな人が私のせいで死ぬなんて、絶対に嫌だ!」
「お前」
「申し訳がたたないなんて、私も一緒なんだよ。せっかく母さんを知ってる人に会えたのに、母さんを好きだった人に会えたのに、おっさんが死んだら、母さんになんて言えばいいんだよ!」
ライの荒々しい口調が直也の胸を打つ。やはりライは咲と、そして何よりも直也自身とあまりにも似過ぎていた。似ているからこそぶつかり合う。直也がライを守りたいのと同様に、ライの直也を守りたいと思う気持ちも堅牢なものだった。これまでの行動を、そして直也に必死に訴えかける今の彼女の目を見れば、その想いの強さは嫌というほど伝わってくる。
ライが守られる対象として甘んじるような性格でないことは、承知しているつもりだった。だが結局、自分は一方的に己の感情を押しつけているだけだった。ライの感情など無視していた。直也を失いたくないというライの叫びに、耳を塞いでいた。自分が守られる対象になるなどとは、思いもしていなかった。これまで何度もライに命を救われていたにも関わらず。
「父さん、入院したんだ」
ライの発した言葉に、直也は目を見開いた。彼女は足下を睨み、その拳は小刻みに震えを帯びていた。
「所長が? まさか」
「本当だよ。事故に遭ったんだって。レイに呼ばれて病院に行ったらさ、父さん、へんてこな機械に囲まれてて……腕が――腕が1本、なかったんだよ」
ライの声がひび割れる。雨に濡れた姿はその惨めさを一層際立たせた。直也は初め彼女の言っていることの意味が分からず、呆然とその華奢な体を見つめていたが、徐々に事態を認識できるようになると、息を呑み、絶句した。あの頑強な男がそれほどまでの重傷を負い、病院のベッドに収まっているなどとは夢にも思わなかった。
「父さんだけじゃない。レイだって、ボロボロだった。隠してたけど、強がってたけど、そんなのバレバレだった。私の知らないところで何かがあったんだな、って。だけど何にも話してくれない。みんな傷ついてるのに、必死になってるのに、私だけ何も知らないでぬくぬく過ごしてるんだって思ったら、なんか寂しくて、空しくて、それで」
ライは声を詰まらせる。肩を震わせ、まるで背中に鉛を背負いこんだかのように深く俯いたその姿を前にしながら、直也はようやく得心のいった思いでいた。なぜライは直也の家に飛び込んできたのか。なぜしばらく家に帰りたくないとあれほどまでに懇願していたのか、その謎がようやく解けた。彼女と彼女の家族の間に横たわる確執は、ディッキーの件に加え、今回のことでさらに膨らんでしまったのだろう。家に帰っても父親が不在で、何か隠し事をしている姉と2人きりでは、戻りたくないというライの訴えももっともであるように感じた。
「もう、こんなの嫌なんだ」
髪の先から雨滴を垂らしながら、ライは顔をあげた。活気のない白い顔の中で、その目だけがしたたかな光を放っているようだった。
「私を止めるなら、おっさんも二度と無茶するなよ。それが嫌なら、私のやることに文句言うな。そんな傷だらけになって守られても全然嬉しくない。私のために、これ以上傷つかないでくれよ」
ライの断固とした物言いに直也はたじろぐ。彼女の瞳に宿る透き通った光は、直也の胸の内を切り開き、そこに淡い灯をくべるかのようだった。
「おっさんが傷つくなら、私も同じくらい傷つく。おっさんが私を守りたいって言ってくれたように、私もおっさんを守りたいんだ。母さんみたいにいなくなったら、嫌だよ」
己の発した言葉をそのまま返され、直也は反論の余地をなくす。直也の頭の中に死に別れた咲の、そして、喧嘩別れをしたあきらの相貌が浮かぶ。もう大切な人を失いたくないという気持ちは、直也もまた同じだった。
白く浮かんだ霧の中、直也とライは向き合い、見つめ合う。
激しく地面を打つ雨が周囲の音を遮断する。2人きりの世界で直也は、まるで自分の鏡写しと相対しているかのような気分を味わっていた。
直也は冷たい感触を額に覚えながら、そっと目を閉じた。すると瞼の裏側に咲の顔が浮かんだ。まだ元気だった頃の彼女は、懐かしい憂い顔で直也をたしなめた。
――直也くん、お願いながら無茶し過ぎないで。自分の体は自分だけのものじゃないってこと、考えて。あなたが死んだら悲しむ人だっているんだから。
それは幾度となく咲に言われたセリフだった。危険だと分かっていても、なりふり構わず、何事にも首を突っ込まなければいられない性質の直也を、咲はいつもそんな風に心配していた。
彼女の気持ちが、今の直也にはよく分かる。
目を開き、頑なな態度をとるライの、真剣な眼差しと対面する。そして直也はため息をついた。
ようやく気がついた。今のこの状況はライとの衝突であると同時に、過去の自分との対峙なのであると。だからこそこの状況と、そして真摯な目で直也を見つめる彼女と、誠意を持って向き合わなければならない。ここで目をそらすことは、自分から逃げることと同義なのだ。直也は胸に手を置いた。濁った心音が掌の皮の上を跳ねた。
直也は改めてライを見た。ライも直也を睨むようにしている。鈍く淀んだ空の彼方から、地鳴りのような音が聞こえてくる。数秒後、空に閃光が瞬いた。雨はさらにその強さを増し、傷に塗れた2人の体を洗い流していった。
魔物の話 52
時刻は夜10時過ぎ。
その夜、レイはベッドからそっと抜け出すと、音をたてぬよう注意を払いながら床に直接座り込んだ。
ひどく蒸した薄闇の中に悠の寝息だけが滔々と響いている。レイはその小動物のような可愛らしい寝顔を一瞥すると、それから常夜灯によって壁に映し出された自分の影を見つめた。その影はすでに人間のものから外れ、鳥の輪郭を描いている。
「いいよ、出ておいで」
囁きかけると、それほど時間を要することもなく、影の中から青い肢体をもつ怪人体のベルゼバビーが這いだしてきた。ベルゼバビーはその顔の大半を占める大きな双眸を暗闇に光らせ、その刺の生えた体を奮わせると、大きく伸びをした。
「うーん、やっぱり外の空気はうまいなー!」
それが静寂を打ち破るような大声だったので、レイは慌ててその口を手で塞いだ。逆の手を自分の口元に持っていき、人差し指を立てる。そのジェスチャーを理解したのか、ベルゼバビーはレイに口を塞がれたまま、何度か頷いた。
「元気そうで何よりだよ。昼間はご苦労様。あんまり相手できなくて、ごめんね」
怪人の口から手を離しながら、レイは元のように座り込んだ。天村家にいる間は、ベルゼバビーとそれほど積極的に関わることはできない。悠が席を外している間か、今のような真夜中以外に相手をすることは不可能に近かった。彼女にとっては窮屈だろうが今日だけは我慢してもらわなくてはならない。
「うん、大丈夫だよー。ねぇ、お母ちゃん、これちょっと見てよー」
レイの懸念を軽く受け流すと、ベルゼバビーは両手を大きく広げた。そのシルエットが闇と混ざり、代わりにベレー帽を頭にちょこんと載せた幼女が現れる。
両手を広げ、胸を張る幼女を前にし、レイは目を瞠った。ベルゼバビーの首に黄色い小さな花と毛糸を使って作られた、見慣れぬ首飾りがあったからだった。
「どうしたの、これ?」
ネックレスを手に取り尋ねると、ベルゼバビーはふふんと息を鳴らした。
「実はね、お友達ができたんだよー」
「お友達?」
「うん。公園でね、遊んであげてたら仲良くなったんだよー。ぶんぶーん。私といっしょくらいの女の子なんだけどさー。それでね、今日はこれもらったんだよー。どう、似合うかなー?」
ぴょんと自慢げに飛び跳ねるベルセバビーの姿を、その胸で揺れる花のネックレスを、レイは暫し呆然と見つめる。しかしやがて彼女の発した言葉の意味を理解すると、たちまちむず痒いような感触に包まれた。
「そっか、お友達、できたんだ」
人間であるべきか、怪人であるべきか、思い悩むレイの前で彼女はそんな確執をやすやすと飛び越え、人間の友達を作っている。そんなベルゼバビーの姿は少なからず、レイの心に希望を灯した。ベルゼバビーも悠と同様、新しい仲間を作って、成長しようとしている。未来に進もうとしている。その姿を見つめているのも悪くないなと思う。
「良かったね。その子と、よく遊んでるの?」
「うん! いっぱい遊んでるよー。きのあうやつなんだー。あ、でもお母ちゃんに頼まれたことも頑張ってやってるよ! その合間に遊んでるだけなんだからねー」
取り繕うに慌てて付け加えるベルゼバビーを怒る気にはなれなかった。なぜあれほど楽しそうに外へ出かけていくのか、その謎がようやく解けた。嬉しそうに丸顔を緩める幼女の顔を見つめていると、これまで以上に彼女のことがとても愛しく思え、レイはそのベレー帽の載った頭を優しく撫でた。
「うん、うん。分かってるって。大丈夫。いっぱい遊んで、大丈夫だから。今度、私にも紹介してよ。どんな子なのか会ってみたいし」
レイの言葉に、ベルゼバビーは「うん!」と元気いっぱいに答える。その笑顔は今のレイには眩しすぎた。
それから二言三言会話を交わし、ポケットに持っていたバタークッキーを渡した。背後にそっと目をやり、悠が熟睡していることを確認すると、夢中でクッキーを頬張るベルゼバビーに向けて本題を切り出した。
「ねぇ、あなた、リリィ・ボーンって知ってる?」
レイの質問に、幼女は艶のある細い髪を手で撫でつけながら、まん丸の目に疑問を浮かべながら、小首を傾げた。その角度でもベレー帽が落ちないのは、見ていてひどく不思議な光景だった。
「りりーぼーん? なにそれー? とうばんじゃん?」
「豆板醤ではないよ。知らないならいいや。いきなり変なこといって、ごめんね」
変なお母ちゃん、と口を可愛らしく尖らせるベルゼバビーに、レイは微笑んでごまかす。マァズの言っていた“リリィ・ボーン”も、式原の居場所と同様、おそらく怪人の中でも一握りの者しか知らない秘密事項なのだろう。最高の怪人に関しても尋ねてみたが、彼女は「それはお母ちゃんのことだよー、ぶんぶーん。わすれちゃったのー? お母ちゃんったら、とうばんじゃん!」と笑いながら答えるだけだった。
マァズと出会うまではレイも、解答はその1つしかないと思っていた。だが今では必ずしも、最高の怪人とレイがイコールで結ばれないということを知っている。レイは最高の怪人であるが、最高の怪人はレイだけではない。その何者かが、レイに成り代わって式原の目的を遂行しようとしている。
「お母ちゃん、ごめんねー。前のお父ちゃんのこと、よく分からないの。大お姉ちゃんにいたっては、どういう格好しているのかも知らないのー。まったく、だめだめだよー」
ベルゼバビーは両腕をばってんの形に構え、片足で立ち、珍妙なポーズをとる。彼女の言う大お姉ちゃんとは、式原の作ったものの中で、人間の姿を併せ持った最初の怪人であり、式原の居場所を唯一知っている存在らしかった。その正体もまた、相変わらず謎に包まれている。
どうにも一筋縄ではいかないな、と憂鬱な気分に絡め取られかけたレイの頭を、突然ベルゼバビーが叩いてきた。もみじのような小さな手から繰り出される力は思いのほか強く、レイは姿勢を崩される。
「ぶんぶーん! そんなことよりお母ちゃん遊ぼうよー! みかんドッジやろう!」
「しーっ。ほら、夜はお静かに。みんな寝てるんだから、さわいじゃだめだよ」
唇の前で指を立て、言い聞かせようとするもの、一体なにがそんなに愉快なのか甲高い笑い声をあげながらしきりにレイの頭を殴ってくる。
背後で悠の気配が動いた。呻くような声も聞こえる。レイは再びベルゼバビーの口を片手で封じ、恐る恐るベッドを振り返った。悠は寝返りを打ち、壁側に顔を向けたものの、再び静かな寝息を立て始めた。再び小さく上下し始めた肩を見て、レイは胸を撫で下ろした。前に向き直り、ベルゼバビーの口から手を離す。それから彼女の脇に腕を差し込み、軽く持ち上げると、自分の体のほうに引き寄せた。
「もう。明日遊んであげるから、今日は寝なさい。夜遅くに呼んじゃってごめんね」
彼女の頭を優しく撫でてやる。その感触はとても温かく、柔らかで、まるで陽光をたくさん浴び、整えられた芝生に触れているかのようだった。ベルゼバビーはその黒目がちの瞳でしばらくレイを見つめていたが、数秒思考するような間を空けたあとで、「うん」と小さく顎を引いた。
「うん、じゃあ寝るー。明日遊ぶの、絶対約束だよ! 嘘だったら、指切るからねー」
ベルゼバビーが小指をたてる。レイの手で包み込んでしまえるほど、それは小さな拳だった。レイは目を細めると、自分も小指を差し出した。彼女の指に絡める。
「じゃあ、これで、指切った。大丈夫、私は嘘を吐かないよ。また明日ね、おやすみ」
「うん、おやすみー。ぶんぶーん。お母ちゃん、いつもありがとうー」
ベルゼバビーがにっこりと頬をあげ、目を細くして、満面の笑顔を浮かべる。レイはハッとした。ベルゼバビーの姿が、なぜかディッキーの姿と重なって見えた。
レイがTシャツをプレゼントすると涙を流すほど喜んでいた、あまりに愛しい息子が――もう二度と会うことはできないと思っていたディッキーが、現実感を伴って目の前に現れる。
その灰の毛並みが、丸い鼻が、つぶらな瞳がレイの脳裏を埋め尽くす。鼻をくんくん動かすその懐かしい仕草に、レイは胸を深く衝かれた。心の奥底から込み上げてくるものがあり、口元がわななき、涙腺が緩んだ。
お母ちゃん、とディッキーは笑った。それはマァズとは違い、不気味さなど微塵もない、思わず抱きすくめたくなるような笑顔だった。
レイはこちらを見上げるディッキーに手を伸ばす。この心に積み重なった重荷を、辛さを、すべて放り投げて、息子に触れたかった。自分を守って命を落とした息子にもう1度触れることができれば、その生を確信することができれば、胸を焼くこの痛みにも耐えることができるような気がした。
レイが手を伸ばしたのに応じて、ディッキーもまた手を差し出してくれる。その指先にレイは触れようと体を前のめりに動かした。
「ディッキー」
「違うよー。私はネイだよー」
その舌足らずな声にハッとなり、目をぱちぱちさせると視界からディッキーの姿は消え失せた。なり代わるようにして、ベルゼバビーは不思議なものを前にしたような目つきでレイを見ている。
レイはその場で硬直し、それからがっくりと肩を落とした。死んだものが生き返るわけはない。時間が戻ることはない。そんなことは確認するまでもない常識であるはずで、分かっていたはずなのに、一瞬でもそれを願い、期待してしまった自分に愕然とした。
「うん、そうだよね、あなたは、あなただよね。ディッキーじゃ、ないんだよね……」
ごめんね。レイが言うと、ベルゼバビーは変なお母ちゃん、と笑い、それから、おやすみなさい、と軽く手を振って、レイの影に帰っていった。
ベルゼバビーがいなくなると、急に空虚な静けさが室内を覆った。レイは床に座ったままベッドにもたれかかり、人の形に戻った自分の影をじっと見つめる。
なぜ性格も口調も外見もまったく違うディッキーとベルゼバビーを間違えてしまったのか、自分でも不思議だった。マァズと出会って以来、ディッキーと過ごした記憶は頭の中で膨れ上がるばかりだった。その想像はもしやディッキーは生きているのではないかという妄想さえも掻きたて、しかしすぐに現実が襲い掛かってきて、レイの心を苦しめた。
レイは先ほどベルゼバビーにあげたクッキーの残りをバッグから取り出し、1枚口に放り込む。丸い形をしたそのクッキーは、歯に柔らかな感触を与え、仄かな甘みを残して舌の上で溶けていった。このお菓子もディッキーと同じだ、とレイは唾液と一緒にどろどろになったそれを呑み込みながら思う。永遠などはなく、恒久に同じ姿を保つものなど存在しないと分かっていてもそれを実感すると、ひどく虚しい気持ちになった。
何事にもいつかは終わりがくる。
ディッキーが死んだように。藍沢秋護が光に呑まれたように。マスカレイダーズがその本性を晒したように。父親が腕を失ったように。
そして、悠や佑との関係にも。
おそらく終焉の時はすぐにやってくる。出会った時と同じように、別れる時もおそらく、歯車同士のかみ合わせがほんの1ミリずれる程度のことで、状況は一変してしまうのだろう。
悠の気配を背中越しに感じながら、レイは生温い空気に意識を投げ出す。彼女と一緒のベッドで寝ることは、悠の吐息や体温や匂いを全身で感じながら眠りにつけることは、嬉しくてたまらないことであるはずなのに、いまはその気持ちが微塵も沸かなかった。
もう1枚クッキーを齧りながら、何もかけずに、ベッドに寄りかかって眠ることを選ぶ。風邪をひいてしまう可能性もあったが、それでも構わないとすら思った。レイ自身、自分らしくないと思いつつも、それでもどうしても自暴自棄な思いが心を深く夜の闇に沈めていた。
それからまた夜は深くなり、レイはベッドに背中を預けながら、うつらうつらと舟を漕ぎだした。少しずつ沈黙に吸い込まれていく意識と遊びながら、心地いいまどろみの中に入り込んでいく、その矢先、突然、部屋のドアが開いた。
レイはびくりと体を引き攣らせ、水を被った猫のように跳び上がると、反射的にそちらを見やった。夜の闇があたりを覆っていても、部屋には常夜灯が点いていたので、ドアの前に立ち、室内を覗きこんでいる人影の正体を見極めることはできた。
その人影もまたレイと同じように目を丸くし、相当、驚いている。
「レイちゃん、まだ起きてたんだ」
人影がどこかくたびれた笑みをみせる。レイは立ち上がると、口の周りについたクッキーの滓を手で拭い、それから彼と向き合った。
「お兄さんこそ、もう帰ってたんですか」
開け放たれたドアの向こうに立つ天村佑は、白のTシャツにスウェットという出で立ちだった。肩からギターケースを掛けている。淀んだ薄闇の中に立つ彼の目は落ち窪んでおり、その表情はひどくやつれているように見えた。




