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6話「もう1人の魔王」

鎧の話 40

 直也とライが次に向かったのは、船見家の所有するはなれの家だった。

 以前、直也が馬の怪人によってひどい怪我を負わされた際、船見トヨによって運び込まれた場所だ。

 目的地には船見家から5分足らずで到着した。民家のひしめく住宅街から少し離れた位置に聳えるそれは、外見だけみれば町外れに建てられた小さな診療所のようでもある。

 ここもどうせ施錠が成されているだろうとはなから諦観を抱いていた。しかしその予想に反し、引き戸の取っ手に手をかけると、いとも簡単にドアが開いたので直也は戸惑った。罠かもしれないとも思うが、飛び込まなくてはどうにも立ち行かず、これは自分たちに与えられた数少ない恩恵なのだと前向きに解釈をして、直也はドアを完全に開け放った。

 家の中に足を踏み入れると、いきなり真っ直ぐな廊下が直也たちを迎えた。30メートル程先に果てが見え、白塗りの壁で仕切られている。視界の限りに階段は見当たらない。左手側にはドアが3つ、等間隔に並んでいる。その構造はどこか、それほど大規模ではない田舎のカラオケボックスを彷彿とさせた。

 室内は蒸し暑く、そして懇々とした静寂に満ちていた。外の喧噪も、この中にいるとどこか遠く聞こえる。長く換気がされていないようで、うだるような暑さが滲み、カビと薬品が混ざったような刺激臭が充満している。

 そのあまりに濁った空気に、思わず直也は立ち竦んだ。ライも隣で鼻をつまみ、くぐもった声で「あっちぃし、くさいし、酷い部屋だなおっさん」と顔をしかめている。

「こりゃあ、しばらく使ってなさそうだな……でもまぁ、一応調べてみるか」

せっかく中に入れたのだから、という気持ちもあった。しばらく背後のドアを開け放したままにして、家の中に風を通わせる。そのまま1、2分もすると室内の熱気と悪臭はだいぶ薄まった。直也は額の汗を拭い、「行くぞ」とライを促すと、足下に落ちている蛾の死骸を避けながら進んだ。

 一番手前のドアと奥のドアは鍵がかけられていたが、中央の少し古ぼけたドアだけはノブを捻ると、蝶番を軋ませながらゆっくりと開いた。

 開け放たれたその部屋の中もまた熱気とかび臭さに満ちていたので、すぐに2人で窓に走り、素早く換気をする。外も非常に湿度が高く、汗が滲み出てくるような暑さであるはずなのに、室内にそそぐその外気はひどく心地よく感じられた。

 空は気付けば灰色の雲を背負い、ひどく淀んだ色に彩られていた。これはひと雨きそうだ。直也は夏の風に潜む湿り気を嗅ぎ取りながら、顔をわずかにしかめた。見上げる視界の先に、電線に並んで止まったカラスの群れが映る。

「でもさ」

 奥の壁に沿うようにして置かれたベッドに腰掛けながら、ライは周囲を見渡す。直也は彼女を振り返った。

「ここって、さっきの場所よりはなんだか秘密基地っぽいよな」

「そうか?」

 ライの発言に首を傾げ、眉をひそめながら、直也もまた周囲に視線を運ぶ。ベッドとパイプ椅子、そして空のキャビネットを除けば、他になにもない部屋だった。床はリノリウムでできており、隅の部分がめくれ上がっていて、虫の死骸が墨痕のように点々と転がっていた。以前、ここで休ませてもらった時に感じたように、やはりこの部屋の内装はどうしても病室をイメージさせる。がらんどうで、どこかもの哀しい。空虚なイメージが滲んでいる。

 ベッドのシーツは剥がされ、布団は几帳面に畳まれていた。直也はパイプ椅子に腰掛けると、重苦しいため息を吐き出す。相変わらず体は鉄のように重く、座っただけで膝が小さく震えた。

「そうだよ。いかにも隠れ家! って感じじゃん、ベッドもあるから泊れるし」

「お前の感覚はよくわかんねぇよ。ま、確かに隠れ家ではあったのは事実だけどな」

 椅子の背もたれに寄りかかりながら、直也は聴覚を研ぎ澄ます。しかし人の発する音がその耳朶を打つことはなかった。直也はもう1度深いため息を零すと腰をあげ、正面に置かれているキャビネットの扉に手をかけてみた。それを開き、中を確認してみたが、雪のようにこびりついた埃くらいしかそこにはなかった。

 直也はベッドに放っておいた自分のバッグの中を探ると、黒のTシャツを引っ張り出した。不思議そうにこちらを見つめるライをよそに、直也はそれを黙々とベッドの上で畳みなおした。

「なにそれ?」

 直也の手元を覗き込みながら、ライが尋ねてくる。直也は小さく畳んだTシャツを持ち上げ、キャビネットの上に置いた。

「マスカレイダーズの……この家を所有する組織の偉い人が前に貸してくれたもんだ。死んだ息子の遺品なんだってよ」

 怪人と戦った際、汚れた衣類の代わりにトヨが直也に着せてくれたこのシャツは、老婆の一人息子、船見幸助のものだ。幸助はマスカレイダーズの前身である、“白馬”という組織のリーダーであり、そして7年前の戦乱の最中、命を落としたらしい。

 彼の亡き後の組織を継いだのは、その妻である船見琴葉という人物らしいが、彼女もまた去年、あきらの手によって殺害されたという。当の本人であるあきらが認めていたのだから、それは紛れもない事実なのだろう。その事実を胸の中で認めようとするほど、口の中で噛み締めようとするほど、苦い汁が喉奥から競りあがってくるようだった。

もしトヨと顔を合わせることができたのなら直接手渡そうと考えていたが、不在ならばしかたない。しかし船見家の庭に置き去りにするのはさすがに憚られ、そうなればトヨからシャツに込められた思いを聞かされた、この部屋に返しておくのが妥当に思えた。

「へぇ。そんなもん、よくおっさんに貸してくれたじゃん」

 ベッドの端にちょこん、と腰掛けながらライはあっけらかんとした様子で言う。直也もその隣に腰を下ろした。2人分の体重を受けて、ベッドのスプリングが悲鳴をあげるように軋む。

「ああ。俺も驚いた。だけど、その時は本当にありがたかったよ。改めてお礼を言いたかったけど、いないならしょうがない」

 トヨならば直也たちを、けして見捨てはしないだろうという根拠はそこにあった。少なくともあの老婆は直也の敵ではない。船見家のリビングでみせたあの涙、そして息子を愛するあの気持ちが偽りだとは絶対に思えなかった。だから直也もトヨを信頼することができる。愛する人を尊び、命を大切にする人間を、敵視するほど剣呑としていないつもりだった。

 再び視線を部屋の至るところに向けながら、何かないだろうか、と探る。マスカレイダーズの行き先を窺い知ることができるものを見つけられれば一番良い。それ以外のものでも、何か些細なことでも発見できれば、と気持ちを急かす。

「何か、手がかりが……」

 直也はベッドの上から降りると、隅のほうに積まれた布団をどけてみた。直也の行動に促され、ライも床に飛びのく。折り目正しく畳まれていたそれをベッドの上に広げながら、この部屋を最後に使っていたのはどのような人物なのだろうと想像する。マスカレイダーズの一員か、それとも直也のような部外者か。イメージの余地は大いにあった。

 指紋やDNAなどを感知する術があればよかったのだが、そんな装置を生憎直也は持ち合わせていなかった。使えるのは探偵としての仕事で鍛えた勘と、生まれ持った五感だけだ。そのくたびれた布団を指先で撫でながら、直也は窓の外に視線を移す。

 この部屋のドアだけ鍵がかかっていなかったことが、ずっと頭に引っ掛かっていた。この部屋には何かがある。それだけは確信できる。だがいくら部屋中を探ろうとも、何の痕跡も現れてこなかった。一応廊下や家の周りもざっと調べてみたが、結果は同様だった。

 元のように布団を畳みなおし、今日何度目かになるため息を直也は吐いた。背後でライも腰をさすりながら、眉間に皺を寄せる。

「あーあ。やっぱりここにはなぁんにもないよ。どうする? また画用紙置いとく? 私5枚くらい作ってきたんだ」

「……あぁ、残念だけどそうするか。これ以上、ここにいても時間を浪費するだけかもな」

 自分の勘が外れたことを残念に思いながらも、直也はこの場を後にする判断を下した。

 ここがダメでもあと1つ、心当たりならばある。1つの場所に執着するのはあまり効率的な手段ではなかった。時間をいくらでも使えるというわけでもない。あのペンギンの怪人はこうしている間にも、着々と直也たちの背後に忍び寄っているかもしれない。

ぞくりとふと背筋に寒気を感じ、背後を振り返ってそこに何もないことを確認してから、直也はライを見た。まだ諦められないのか、彼女は床に這うような姿勢で、ベッドの下を必死に覗き込んでいた。あまり褒められたものではない、そのはしたない格好に、直也は顔をしかめた。

「おい、あんまり女の子がそういう恰好するなよ。パンツ見えてるぞ。水玉が」

「そんなの気にしてる場合じゃないだろ。いいよいいよ、好きなだけ見て。目の保養に使ってくれよ」

「ならねぇよ、うるせぇよ。もうここから出るぞ。あんまりだらだらしてる時間はないんだ」

 直也は頭を掻くと、ベッドの上のバッグを持ち上げた。

 そこで直也は、指に何か細いものが絡まる感覚を得た。そのまま掬いあげ、目を近づけてみると、それが毛髪であることが分かった。それは指の腹で、薄日に美しく瞬く金髪だった。布団の間に挟まっていて、広げた時に出てきたものかもしれない。

「金色の毛髪……」

 それは直也にとって、実に馴染みの深い単語だ。3年ぶりに解放されたオウガの指に貼りついていた毛髪は、ライが咲の娘であることを直也に気付かせてくれた重要なアイテムだった。さらにそれは、咲のライに対する想いを雄弁に告げてくれる温かい贈り物でもあった。

 だが今、直也の手に掴まれたそれは昨日、風呂場で見つけたライのものよりも、いくらか長いように感じた。中央で折り、左右が均等になるように手首に載せると片方だけで10センチあまりにもなる。

 直也は目を細めた。

 それはこの部屋を使用した人物のものなのではないか、という予感が直也の胸の内にじわじわと広がっていく。そして毛髪を眺めていた直也の耳に、ライのすっとんきょうな声が飛び込んできた。

「おっさん!」

 ベッドの下から顔をあげ、ライが片手を掲げて叫ぶ。直也はその毛髪を左手の中に封じると、彼女に近づいた。腰をあげたライは掲げていた手を直也の前に差し出すと、その掌を開いた。その表情は歓喜に満ち溢れていた。

「やったよ、見つけた! ベッドの下にこれ、落ちてたんだ」

「これは……」

 ライの掌に載せられていたそれは、1枚のプリクラだった。ベッドの下に放置されていたためかひどく埃を被って汚れている。直也は指で汚れを拭うと、そこに写っているものに目を凝らした。その矩形に切り取られた小さな空間の中で、4人の少年が楽しそうな笑顔を浮かべていた。




魔物の話 49

 レイは悠を連れて、デパートに向かうバス停までの道を歩いていた。天村家からバス停までは徒歩で30分と案外遠い。それはあの家が大きな道路に面していない、移動するためにバスや電車を使うことなどしない人たちが多く住む、高級住宅地に建設されているためなのだが、車の運転をすることのできず、また頼れる大人も周囲にいないレイたちは徒歩で移動手段を求めてさまよわなければならなかった。

 あけすけな話をしてしまえば、立場上、大企業の幹部の娘である悠ならばお金で雇ったお付きやお抱えの運転手がいてもおかしくはないのだが、悠自身がそういった人間を使うことを嫌っている節があった。佑もそれは同様で、レイは2人のそんな世間一般の学生でありたいという意地に常々好感を抱いていた。

 そういった諸々の理由があって、レイは悠と並んで、夏の上り坂をせっせと登っている。それほど陽射しが強くないのは幸いだった。今日の空は湿り気が強い。灰色の雲が頭上にはかかっていて、まだ降り出してはいないものの、いつ天気が崩れてもおかしくはなかった。

汗を拭いながら周囲の気配を探るが、とりあえず今のところ、怪人の迫ってくるような感覚はない。平穏な空気が肌に心地よかった。車の駆動音もどこか安らかな響きとしてレイの耳には届いた。ガードレール越しに、すぐ隣を走り抜けていく大型トラックを横目で見送る。

 ショルダーバッグを肩に斜めにかけた悠は、薄いクリーム色のシャツにスカートを履き、頭にはツバの広いガーデンハットを被っていた。それは中学3年の女子があまり被る類の帽子ではなかったが、悠から漂う微かな気品がそうさせるのか、やけに彼女には似合っていた。その姿は外国映画などで時折目にする、草原で踊る令嬢そのものだ。

 病院に何年も篭りきりで、そこから出てきて間もない割に悠は元気そうだったが、それでもまだ病弱の影は引きずっているレイは悠の頬を伝う汗を認め、彼女の呼吸が荒れ始めていることに気付き、一度休憩をとることを提案した。ちょうど、歩道側に公園の石造りの門が見えていた。

「うん、ありがとう。レイちゃん」

 休憩を切り出した時こそ悠は気丈に振る舞い、「大丈夫だから早く行こう」と答えていたが、レイが粘り強く説得すると、悠は青白い顔をしながら「じゃあお言葉に甘えようかな」と弱弱しくほほ笑んだ。

「今日も暑いからね。無理は禁物だよ」

 バス停に繋がる道から脇に逸れ、立ち入ったその場所は公園というよりも、広場に近かった。遊具はなく、タイルの道とそれに囲われるようにして広大な芝生が広がっている。人の姿はそれなりに見える。門をくぐったレイの脇を、アイスを手にしてはしゃぐ小さな女の子が通り抜けていった。

道の脇に自動販売機があり、その隣に真新しいベンチが置かれている。レイは缶ジュースを2本買うと、林檎ジュースを悠に手渡した。レイ自身はコーラを購入した。

「ありがとう」と悠はまるで壊れ物でも受け取るかのように、大事そうに缶を両手で包んだ。太陽の光と帽子の影を表情に宿した悠は、頬を膨らませるようにして笑う。その姿がたまらなく愛おしかった。

「どういたしまして」とレイは言った。そして2人並んでベンチに座り、ジュースを飲んだ。遊歩道を挟んで向かい側に植えてあるひまわりは、その3分の1くらいがすでに枯れ、その花弁もひどく黒ずんでいた。

 最近では日が落ちるのも早くなってきた。虫の音も蝉より、夜の鈴虫の鳴き声のほうがどことなく強くなってきたような気がする。これまでと比べ、あまりに色々なことがありすぎた今年の夏も、徐々に終わりに近づいているのだ。

 どことなく感傷じみた思いに浸りながら、乾いた喉をコーラで湿らせる。隣ではまるで水を飲むハムスターじみた動作で、ちびちびと悠がジュースを飲んでいる。レイは前髪を手持ち無沙汰にいじりながら、自分でも驚くほどに、彼女のそんな姿に引き込まれている。

「お父さん、心配だね」

 缶から唇を離し、口の周りにその小さな舌を這わせて悠が尋ねてきた。レイもまた缶を持つ手を下ろし、ゲップを1つする。それから悠の口から出たお父さん、という単語が黒城和哉を指していたことに遅れて気付いた。

「うん。まぁ」

 病室に横たわる父の姿を脳裏に浮かばせながら、レイは空を見つめる。口の中がそれだけで渇き、缶を傾ける。

「でも静かになって、ちょうどいいよ。少しはまともになって帰ってきてくれることを私は望んでるんだけどね」

 動揺を振り払うように、早口で何でもないように言う。それでもやはり父のことを考えると缶を持つ手が震えた。レイは両手で缶を包み込むようにすると、膝の上に置き、それから悠に顔を向けた。

「だから、大丈夫。心配しないで。あんなことで、うちのお父さんはやられるタマじゃないんだから。それよりも悠は、自分の体のこと、心配した方がいいよ。まだ治って間もないんだから」

「でも……何か困ったことがあったら、いつでも言ってね。私、ずっとレイちゃんに助けられて、だからここまで頑張ってこれたから、だから、今度は私がレイちゃんを助けたいの」

 悠は真剣な顔で、憂いをわずかにその瞳に宿して、レイを正面から見つめてくる。その表情は力強くて、レイの身を案じる気持ちに溢れていた。本当に悠は強くなったな、と感じながら、レイは一言、「ありがとう」と微笑んだ。

「じゃあ本当に困った時は、悠のお世話になるよ。その時はよろしくね」

「うん。いつでも好きな時に、うちに泊っていいからね。そのほうが、たぁくんも喜ぶよ。私もレイちゃんと一緒にいられて嬉しいし」

「私も悠といられて、嬉しいし、楽しいよ。ありがとう」

 悠は相好を崩し、それからジュースに口をつけた。レイもまた缶を口に近付ける。もう震えは収まっていたので、片手だけで飲み干し、もう一方の手でむずむずする膝頭を掻いた。缶から口を離すと、レイは悠のほうをみて尋ねた。

「悠、バイオリンは、楽しい?」

 悠は一瞬驚いたように目を丸くしたあとで、小さく微笑んだ。彼女が一挙一動するたび、その体から甘い桃の香りが発散される。それがまたいい匂いで、悠の可憐さを際立てせるのに一役買っているのは間違いなかった。

「うん、楽しいよ。みんないい人だし。お友達もできたんだよ。今度、レイちゃんにも紹介するね」

「うん、楽しみにしてる。先生も、いい人そうじゃない」

 レイは昨日の夕方、駅で悠と一緒にいた背の高い、赤髪の女性の姿を思い浮かべる。丸っこい顔は愛嬌があり、その笑顔は弾ませたタンバリンのようで、一緒にいて心地よさを覚えるような人だった。あの女性からも今の悠とまったく同じ、桃の香りが漂っていたことを思い出す。

「うん。なんか結構いっぱいコンクールとかにも入賞してて、凄い人なんだって」

「ふぅん。そんな人に教われるなんて、なかなか運がいいじゃない。うまくなったら、私にも聴かせてよ、悠のバイオリン」

 帽子のツバの陰で嬉しそうに話す悠を見つめながら、レイは本心から言った。悠は恥ずかしそうに手の中の缶をもじもじと撫で回したあとで、顔をあげ、快活に頷いた。

「うん! ちょっと恥ずかしいけど、私もレイちゃんに一番に聴いてほしいなぁ」

「今のセリフ聞いたら、きっとお兄さん、嫉妬するね」

「もちろん、たぁくんにも聴いてもらうつもりだよ。みんなに、みんなに聴いてもらいたいなぁ。レイちゃんにも、たぁくんにも、いっぱい迷惑かけたし、いっぱい面倒みてもらったから、せめて私にでもできる恩返しがあればって思ってたから」

「そんな気にしなくていいよ。私もお兄さんも、別に迷惑だなんて思ってない。悠のことが好きで好きでしょうがないから、色々してあげたくなっちゃうんだよ」

「そ、そういうこと言われると、照れちゃうよ……」

「本当のことなんだから、しょうがない。可愛いし、優しいし。私、悠のこと大好き」

 陽炎の立ち昇る前で立ち止まり、悠の瞳を覗きこむようにして、レイは言う。悠はしばらくぽうと見惚れるようにレイを見つめ返したあとで、顔をさらに赤く染めて視線を逸らした。

「……私も、レイちゃん、好きだよ」

「ありがとう。とっても嬉しい」

「わ、私も!」

「じゃあ私たちは、両想いだね」

 レイが告げると、悠はきょとんとしてから、笑顔を咲かせた。レイも笑みを返す。そうしてしばらく笑い合い、それから色々な話をした。そのほとんどは学校に関することで、悠からそれらの話を聞くと、なんだかレイの過ごすこれからの日常も彩られるような気がした。9月から悠と一緒に通学路を歩けるのかと思うと、それだけで胸が踊る。

 長閑に流れゆく時間の中に身を置きながら、レイはコーラを飲み干した。悠もまた缶を傾ける。少しだけ口に含んだところで、悠は慌てた様子で腕を下ろした。ベンチに缶を置き、それからバッグを探りだす。何事かとレイが見つめていると、悠は中から水色の携帯電話を取り出し、それを丁寧に開いた。画面を見て表情を綻ばせ、目を輝かせる。

「メールがきたの。さっき言ったお友達から!」

「へぇ。やったじゃん。なんだって?」

「明日のレッスンも頑張ろうね、だって。終わったらご飯食べようって書いてある。でもたぁくん、許してくれるかな?」

 気分を昂揚させながら、レイに尋ねる悠は今までのどの瞬間よりも興奮しているように見えた。ここまで悠を喜ばせる相手に、レイは小さな嫉妬を覚える。だがそれも悪くない感情だと自分自身を宥めた。悠はいつまでもレイの手の届く範囲にいてはいけない。悠にもレイの知らない友達がいて、生活がある。それが普通なのだから。

「大丈夫、私が説得しておくよ。もし反対したら脛蹴っておくから大丈夫だよ」

「そ、そこまでしなくてもいいよ! でもありがとう。楽しみだなー」

 翌日のことを思ってか、悠は空を仰ぎ、ほお、と柔らかなため息を零す。それからレイに顔を向け、手の中の携帯電話を軽く顔の前で振った。

「ごめん、レイちゃん。メール、お返事してもいい?」

「どうぞどうぞ。私はどこにも行かないから大丈夫だよ。ゆっくり打ってるといいよ」

 レイの返事に悠はとびっきりの笑顔をみせ、「ありがとう」と体を弾ませると、携帯電話の画面に目を戻した。レイは空き缶を握りつぶし、それからメールを打つ悠の姿を眺める。携帯電話を両手で抱えるようにする彼女が、なぜかレイには大人っぽく映った。

成長していく悠を、変わっていく親友をいつまでも見ていたい。そんな思いを抱く悠の頭に、何の前触れもなく、突然閃光が瞬いた。

久々に来た、と身構える。それはレイの体内に存在するセンサーが、怪人の出現を捉えた印だった。瞠目し、レイはじっと地面の一点を見つめる。自然に手に力がこもり、缶に指が食い込んでいく。怪人の所在を突きとめるため、頭の中に割りこんでくる景色の判別に神経を研ぎ澄まさせた。

怪人の気配が、凄まじい速度で移動しているのが分かる。その実像はまるでモザイクでもかけられているかのように、まったく窺い知ることができず、そんなことはこれまでなかったので少し不審に思いはしたが、それは怪人の反応に違いなかった。10秒を待つことなく、怪人の出現場所を特定する。

「……悠、ごめん。ちょっとお兄さんに電話していい?」

「ん。いいけど、どうしたの?」

「ちょっと伝え忘れたことがあったの。すぐ終わるから、ごめんね」

 あまり悠長に話している時間はなく、ほとんど一方的に言い遣ってレイは携帯電話を取り出した。だが、佑の連絡先を呼びだそうとして、指を止める。

怪人を惨殺していた佑の姿、そしてこちらを睨む扇風機怪人の眼差しが脳裏をよぎり、そのイメージが心を衝いた。しかし止まったのは一瞬で、レイの細い指は再び携帯電話のキーを叩き始めた。悠を守るという使命がある以上、怪人に対処するためには佑に頼るしかない。これ以上、式原の手にかけられる犠牲者を増やすわけにはいかなかった。

 数回の呼び出し音のあと、佑の声が聞こえた。ここで自分にかけてくる電話の意味を察してか、「レイちゃん、どうした?」と告げる彼の声はすでに強張っていた。

「怪人です」

 レイは悠に背を向け、口元を隠しながら短く伝えた。悠のほうをちらりと見てから、電話は失敗だったことに気が付き、「場所はメールを送ります」とだけ素早く言って通話を切った。

「ごめん。ちょっとお兄さん、電話に出づらい場所みたいだから、メールにするね」

「たぁくん、電車にでも乗ってるの?」

「うん、そんな感じ。男はいつでも、人生という名の電車に乗っているもんなんだよ」

 適当に答えながら、携帯電話に視線を落とし、今度は新規メールの作成を開く。悠をやきもきさせてはならないと思い、素早く文字を打ち込んだ。怪人の出現場所を手短に伝え、さらにそれが移動していることも伝える。そしてメールを終わりまで打ち終わってから、レイは目を見開いた。

 怪人の気配越しに見た景色に、レイは見覚えがあった。それはおよそ1週間前、華永あきらたちと、マスカレイダーズとの激しい戦いが繰り広げられたホテルの跡地がある場所だった。

 おそらく偶然だろう、と思いながらも何となく不審な気持ちが拭えない。それはおそらく、あの戦場で日常と著しく乖離した経験をしたためだろう。異の力を溜め込んだあの場所ならば同じ異の存在である怪人が寄せ集まってもおかしくはない。

 そんなことを考えながら、メールを送信し、携帯電話を畳んだ。

「レイちゃん」

 悠が、震える声でレイの名を呼んだ。それだけで何か悪い予感を察し、レイは心臓を鷲掴みにされるような思いで悠の方に顔を向けた。

「どうしたの、ゆ……」

 悠の手には開いたままの携帯電話が握られていた。しかし、その目は画面を捉えてはいなかった。

 悠は怯えた表情で、自分の足元を見つめていた。その震えた指先はレイの肩先を摘んでいる。ただならぬものを感じ、レイは恐る恐る彼女の視線の先を追う。

 そしてレイは息を止めた。現実感が消失する。一瞬、目の前が白く混濁し、それから暗転して、目の前のシルエットに焦点を合わせた。

 そのシルエットは小動物の形をしていた。それはネズミだった。いや、それはネズミの姿をした怪人に違いなかった。

3歳児くらいの大きさで、アニメ画のようにデフォルメされている。それだけでそのネズミがただの動物でないことは明らかだった。毛並みは抜けるような白で、鼻の先だけが赤い。耳はぎざぎざの形をしている。

 それら常識的な範疇を超越した身体的特徴の中で、最も特筆すべきはその両の眼だった。

 そのネズミに目というものは存在しなかった。目があるべき場所に、青い宝石が埋め込まれている。それは灰色の空の下で妖しく光り輝いていた。




鎧の話 41

 次に頼るつては、黄金の鳥を崇めるあの組織だった。そのリーダーは直也の元恋人――青髪の女子高生、華永あきらであることを直也はすでに知っている。

 直也はあきらと1週間前、組織のアジトである『ホテル クラーケン』の中で会話を交わし、そして別れた。その瞬間からあきらとの関係は恋人ではなく、ただの他人と化した。

 別れ際にあきらをこれからも助けたい、と宣言したにも関わらず、逆に彼女に救いを請わなければならない現状と化していることに情けなさを感じたが、くだらない見栄や矜持はこの際捨て去らなければならない。マスカレイダーズの居場所が見当もつかぬ今、もはや縋ることができるのは彼女以外にいない。直也は最後にみたあきらの悲しげな眼差しを脳裏に引き連れながら、燻るような胸の痛みとともにバイクを駆った。

 『ホテル クラーケン』には船見家から20分近くかかった。信号待ちや、人気の少ない道を通らなければならない時は、いつ怪人が襲いかかってくるものかと肝を冷やしたが、結局気配を感じることもなく目的地まで辿りつけたのは幸運だった。

 国道から逸れ、細く入り組んだ道に入る。突き当たりにはラーメン屋があり、その脇に伸びた小道にバイクを進ませた。コンクリートの壁に挟まれた狭い道をしばらくくぐっていくと、やがて開けた場所に行き着く。

 その地に踏み入れた瞬間、直也は少し奇妙な感触を得た。空気が一変し、ざらざらとした風が肌を撫でていくような感覚だった。つい数秒前まで立っていた世界とは、別次元に来てしまったかのような不安が胸を衝く。しかしその嫌な感覚も数秒もすると消え失せ、運転に集中できるようになる。今のはなんだったのだろうと思うが、そんな疑問はすぐに頭の中から失せた。そんな些細な感覚を吹き飛ばすほどの衝撃が、直也の胸を冷たく満たしていく。

 乾いた土を後輪で掻き出し、背後にもうもうと砂煙を生み出しながら、直也は目を疑った。ブレーキを踏み、車体の動きを止める。急停止したせいで、慣性に流されるままにライが背中に勢いよくぶつかってくる。ライの呻き声をどこか遠くに聞きながら、ヘルメットのバイザーを押し上げ、しかし目の前に現れたその景色が変わらぬことに、改めて身の芯が震えるほど驚愕した。

「なんだ、こいつは……」

 以前、直也はマスカレイダーズの一員である藍沢秋護という男に連れられてこの場所に訪れたことがある。その際、この開けた地に建つ寂れたホテルの中にあきらがいることを知らされたのだった。

 しかし今、そのホテルは影も形もなくなっていた。

 直也はライと一緒にバイクから降りると、ヘルメットを脱ぎ去り、バッグをハンドルにかけて、ホテルが“あったであろう”場所に駆け寄った。

 位置も場所もそこで間違いないはずだ。それなのにあの威容だけが。廃れたシルエットだけが、目の前から消え失せていた。

ある意味で思い出深いその場所が、直也の立つ前で瓦礫の山と化していた。うず高く積まれたその中には、折れた槍のようなものや、切り刻まれた薄いプラスチック製のカードの残骸が混じっている。コンクリートの破片やガラスの欠片などが周囲に散らばっていた。

瓦礫の頂にはどういう理由なのかは見当がつかぬものの、鳥の頭部が載せられていた。見るからに作り物だ。木でできており、日に焼けたためなのかその表面は少し赤らんでいた。見上げると、その光のない眼窩と目が合ってしまい、直也は素早く視線を逸らす。

直也は驚愕に心を揺すられたために呆然と、周囲を見渡した。

その茫洋と広がる灰色の地面は、ところどころがめくれ上がり、または陥没し、または巨大な穴が穿たれて、まるで大災害でも過ぎていったかのような無惨な傷跡が刻まれていた。木は根こそぎ倒され、以前訪れた時には存在していた草むらは姿を消し、視界の限りにはひたすらに焦土が広がっている。この地に立つ命は、直也とライ以外になかった。なにもかもが死に絶え、なにもかもが終わっていた。

それは考えるまでもなく戦闘の跡だった。巨大な力を有する複数人が力を加減することもなしに争い合ったような、乱暴な痕跡がこの地にはあまりに深く刻まれている。

直也はしばしその凄惨な景色の中で茫然と立ち尽くすことしかできなかった。空気には霧の残滓のようなものが漂っている。それは赤色だったり、青色だったり、または白だったりして、まるでクリスマスのイミテーションのように視界をちらちらと瞬いている。それらが直也の鼻先を掠め、足元を掬っていく。

これはおそらく黄金の鳥の組織と、マスカレイダーズによる抗争の跡だろう、と直也の頭は判断していた。おそらくアジトがマスカレイダーズに見つかり、あきらたちは必死に抵抗を試みたのだろう。そういう図式が、砕かれたホテルの残骸を見るだけで浮かんでくるようだった。双方とも、直也にはまったく歯が立たない怪人を瞬く間に倒してしまえるほどの力を有している。それらの力同士が激突した結果がいかなる状況を導き出すかは、いま、目の前に広がる景色が何よりも雄弁に示していた。

野次馬がなく、報道された形跡もないのは、おそらくこの事実を隠ぺいしたからだ。ここに始めてきたとき、ホテルは厚い霧に閉ざされて直也が視認することは叶わなかった。あれを応用し、または範囲を広げて、一般人の目に戦いが触れぬよう考慮したに違いなかった。

「あきらちゃん……」

 不安が胸を詰まらせ、たまらず1週間前まで恋人だった少女の名前を呟く。直也が苦戦していた怪人を一撃で葬り去るほどの力をもつ彼女が、簡単に倒されるとは考えにくい。しかしそれでもこの崩落したホテルを目の当たりにすると嫌なイメージが脳裏を過ぎった。彼女の安否を確認することの叶わぬ現状を、今更ながらに呪う。今の直也には、彼女が無事であることを祈る以上のことはできない。それが何よりも歯がゆかった。

 マスカレイダーズが不在であったことも、この状況をみれば納得だった。

2つの組織はかなり激しく争いあったのだろう。この情景から予想するに、どちらもひどく疲弊しているに違いなかった。メンバーに死者が出た可能性も大いにある。そうなれば、自分たちのことに必死で、直也の手助けなどしていられないだろう。怪人の行動を察知できているのかさえ、今となっては疑問だった。

はは、と思わず乾いた笑みがこぼれた。自分の不運さを嘆くしかなかった。目を細め、瓦礫の山を見つめる。あきらを裏切った罰かもしれない、と自虐的な感想が胸を過ぎる。

「もう、運にも見放されたってわけかよ……」

口に出すと、さらなる絶望感が押し寄せてきた。眩暈がし、たまらず額を抑える。目をぎゅっと瞑り、開いてから、顔をしかめた。この土地では、何もかもがすでに終結している。ここにいることに、もはや意義を見出すことはできなかった。

嘆息をしながら踵を返す。それだけでこめかみに疝痛が走った。だが、砂礫の上で片膝をつき、俯いているライを目にすると――その痛みも一気に消し飛んだ。

「ライ!」

直也はうずくまるライに素早く駆け寄った。見ている前で彼女は汗を滴らせ、肩で息をしている。直也が呼びかけると顔をあげるが、その瞳に光は薄く、表情もどこか虚ろだった。

「おい、ライ……どうしたんだよ、おい!」

 いつも明朗活発なライが苦しげにしている様は、直也の心に大きな焦りを生じさせた。胸の奥がざわめき、いてもたってもいられなくなる。両肩に手を置き、名前を呼びながら軽く揺すると、ようやく彼女はその目の焦点を直也に合わせた。しかし体は熱く、耳元は薄く紅潮していた。

「おっさん……」

「おい、大丈夫かよ。いきなりどうしたんだよ」

 直也の問いに、ライはゆるゆるとかぶりを振った。ひどく気怠そうだった

「わかんない。ここにきたらさ、なんかくらくらしちゃって。体も熱いんだよ……おっさんの風邪がうつったじゃないかな?」

「そんなわけ……」

 直也は途中で言葉を切り、それから息を呑んだ。遮蔽物の排除されたこの地には、人から伸びる影が別の物の影に被さるということは基本的にない。陽光は薄いものの、それでもこの地にわずかながら光を注いでいた。

 そうでなくても、ライの影は直也のものや瓦礫の山が生み出したものよりも、明瞭とした形を伴っていた。まるで己の存在を誇示するかのようだ。周囲に比べて、その影は零れたタールのように色濃い。

だから直也の目は余計に、ライの足元から伸びた彼女自身の影に釘付けとなった。思わず彼女の肩を掴む手に力が入る。

 赤茶色の地面に貼りついたライの影は、人間の形を成していなかった。

 それは――翼を広げた鳥の形をしていた。咲や式原の肌に刻まれていた痣、そしてリーフレットの中央にでかでかとプリントされていた絵と全く同種、同形状のものだ。

 瞠目する直也の前で、ライは顔を伏せ、くたびれた吐息を漏らす。どうやらライ自身は、自分の身に起きているこの変化に気付いていないらしい。

どういうことなのだ、と頭を捻らせたその時、直也はさらなる事実に気が付いた。

「これは……」

 ライをそのままにして立ち上がり、大地を眺める。思わず感嘆の声が漏れた。少しだけ後ずさり、その全体像を視界に収め、今度は息を呑む。

 視線の先に、黒い鳥がいた。

 縦横1メートルくらいの大きさの、翼を広げた鳥の絵――ライ自身の影とまったく同じ形をしたものが、今度は地面に描かれていた。

 直也は絵の輪郭を形成している線を足の先で軽く拭ってみたが、それは子どもが悪戯で引いたものでは断じてなく、特殊な道具を使って地面に強く彫り込まれたものであることが分かった。数十センチの幅を持って彫られた溝に、黒炭のようなものが流し込まれている。直也はペルーの高原にあるナスカの地上絵を想像した。

「なぁ、おっさん」

 顔をあげ、上目遣いでライは直也を見た。直也は動揺する気持ちを抑えきれぬまま、彼女に視線を転じる。

「仲間、またいないの? 私たちの味方、ここにいるんじゃないのかよ」

 ライの絞り出すような声に、直也は胸を衝かれる。無言のまま見つめていると、それだけで状況を察したようで、ライは弱々しく笑んだ。

「なんだよ、またいないのか。運がないよなぁ、私たちも。じゃあまた、秘密兵器、出さなくちゃ」

 そう言って手を地面につけ、何とか立ち上がろうとする。直也は咄嗟にライの肩を掴み、その小さな体を支えた。

「おい、無理すんな」

「無理してんのは、おっさんのほうじゃないか。熱、今もあるんだろ?」

 額に手を当て、よろめきながらも地に足を着けるライを、直也はハッとして見つめる。軽く頭を振って額に浮かんだ汗を吹き飛ばすようにしてから、ライはへへ、と口の端を緩めた。

「私は大丈夫。すぐに元気になるって、こんなの。バカは風邪を引かないって言うじゃないか」

「……どう見ても大丈夫には見えねぇし、どう見てもただの風邪には見えねぇよ」

「人のこと言える立場かよ。おっさんは自分の体のことだけ心配しろよ。顔色、悪いよ」

 指摘され、直也は思わず自分の頬を触った。ライのそれよりも熱い感触が掌に伝う。直也は額に浮いた脂汗を拭うと、「とにかく」と取りなすように口を開いた。

「どのみち、ここはなんだか奇妙だ。ひとまずここから退散しよう。こんなところにいたんじゃ、奴らの格好の的だ」

 直也はライの背後にある、地面に描かれた黒い鳥の絵を一瞥する。もしやライの異変はあの絵の影響かも知れない、と直也は薄い根拠の中で推測する。何にせよ、ライの体調不良はこの場所にたどり着いた時から始まったに違いない。それならばここから離れることが、今できる何よりの特効薬であるはずだ。

 ライの手を取り、バイクの止めてある場所まで引き返そうとする。無人の車体は細かく震え、エンジン音をまき散らしている。それを目にして直也は、キーを抜き忘れていたことを思い出す。もうもうと吹き上がる排気ガスが風に溶けて消えていく。

 その時、直也は背中に突き立てられるような視線を感じた。

立ち止まり、振り返ると、そこにいつの間に現れたのか、男が3人並び立っていた。身を固くし、いつからそこにいたのかと当惑する暇もなく、直也はまず彼らの外見に目を奪われる。

 男たちは良質な生地のスーツに身を包んでいた。8月にも関わらず厚手の背広を着込んでいる。それだけですでに不自然であったが、彼らにはその違和感を払拭する要素がさらに存在していた。

 まず、その顔はお面によって覆われていた。直也から見て左の人物から家鴨、鶏、椋鳥のお面をそれぞれ被っている。見る限り、それらはかなり精巧な造りのようだった。幼稚さと気品をアンバランスに兼ね揃えた彼らの立ち姿に、直也は寒気を覚える。男たちと向き合っているだけで現実感が揺らぎ、どこか心許ない気持ちになる。

 さらに彼らは首筋にタトゥーを彫っていた。動脈の通っているだろうその部分に、人間の眼の形をした彫り物が施されている。その眼差しは深く、直也の心を抉り出すような迫力に満ちていた。

「なんだ、お前らは」

 ライを背後に庇うようにしながら、直也は男たちに尋ねる。男たちの纏う雰囲気は、明らかに一般人とは一線を画している。それ以前に人間であるという確証もなかった。お面に厚塗りされた鳥の鋭い眼窩が、直也の魂をもぎ取ろうとするかのように怪しく光る。

 直也は掌に汗を浮かばせながら、ジーンズの尻ポケットに手をやった。中にあるプレートを掌で包む。相手がいかなる行動をとろうとも、ライだけは守ることができるように備える。プレートを半分ほど抜き取ったところで、鶏のお面を被った男が動いた。一歩前に足を踏み出し、掌を直也のほうに突き出す。

「怖がらなくていい」

 お面越しに聞こえてきた声は直也が想像していたよりも高かった。短く刈られた髪には白髪が見える。意外と年を食っているのかもしれない。男はさらに続けた。

「君は坂井直也だろう」

 その思いがけぬ言葉に、直也は目を剥いた。唾を呑みこみ、それから男を睨みつける。

「なぜ、俺の名前を」

「当然だ。君が知らなくても、こちらは君のことをよく知っているからな」

 家鴨のお面を被った男が鶏の男と並び立つ。この男の声は鶏とは対照的にひどく低く、どこか地鳴りを彷彿とさせた。

「あのお方と深い関係にあったと聞いたことがある。手に持っているのはオウガだろう? 全てお見通しだ」

 椋鳥の男もまた前に出る。3人の中では明らかに背が低く、声も一番若々しかった。

 直也はプレートを掴んだ手を止めた。男たちのお面に塞がれた顔を見渡す。困惑に言葉を失う直也に、鶏の男は直也の背後に視線を向けた。直也は振り返った。そこには苦しそうに肩で息をし、うずくまるライの姿がある。

「どうやってここに入ってきたのか謎だったが、なるほど。どうやらそのお嬢さんが関係しているらしい」

 鶏の男が抑揚のない語調で言う。男たち全員の視線が直也ではなく、ライに集中した。

「……悪いが、見世物じゃねぇんだよ」

 男たちの視線に嫌悪を覚え、直也はライに集中した彼らの視線を遮るように立った。直也のとった行動に対し、鶏の男は首をすくめた。椋鳥の男は整髪料で鶏冠のように固めた自分の髪をいじりながら、一歩前進する。

「巫女の関係者だ。手荒な真似ができるはずもない。さっき言ったじゃないか。怖がらなくていい、と」

「アイラブ・バード、アイラブ・リビング、アイラブ・ホウプ、アイラブ・オールザシング」

「鳥は欲するものを救う。逃げぬものに光を注ぐ。その運命を決定付けるのは他でもない、あなた自身なのだ」

 鶏の男が突然、呪文のように唱える。続けて家鴨の男も意味深な言葉を述べる。警戒していいのか安堵していいのか分からず、直也はライを庇う姿勢をとりながらも混乱する。一体この男たちが何者なのか、窺い知ることのできないことが直也を戦慄させた。

 だが、男の発した“巫女”という単語が直也の胸に光を灯した。

 直也は男の被っている鳥のお面に――否応なく目に入るそれに――改めて注目した。

 “鳥”という特徴から直也に連想できるのは、黒い鳥と黄金の鳥だった。彼らが怪人ではないということと、この場所に元々あきらたちのアジトがあったという前提をそこに照らし合わせると、それほど考えこむこともなく、答えは見えてくる。

 3人の男たちは直也たちに敵意を向けることなく、むしろ迎合するかのような姿勢をみせている。

 もしや、と思った。直也の予想が正しければ、暗澹としたこの道の先に希望の光が生まれたことになる。自然と心臓が高鳴った。期待が胸で膨らみ、堪え切れない。

「もしかしてお前たちは、黄金の鳥の……」

しかし、直也の発した問いは相手に届くことなく、宙で砕けた。

「やれやれ、ようやく見つけたです―」

聞こえてきた、この場に似合わぬ軽妙な声に、直也は背筋を凍らせた。背後でライがびくりと体を震わせたのが分かる。お面の男たちは視線を彷徨わせ、声の主の姿を探る。

ぽつりぽつりと降り出した生温い雨が、地面に染みを作っていく。その痕跡を踏み潰す足音が直也の耳朶を叩いた。荒れ果て、退廃的なこの地の中を、こちらに向かって歩いてくるのは、黒のパーカーを身に纏い、フードで顔を隠した少女だった。

少女はお面の男たちではなく、そして直也でもなく、さらにその向こうにいるライをまず一瞥した。「なるほど、そういうことかですー」と得心している。それから頭からフードを取り去り、唇を舐め、この場に立つ一同を見渡した。フードの下から現れたその相貌は、やはり髪の色以外に差異はなく、ライと同一のものだった。

「しかし先客ですかー。どうにも奇妙な取り合わせですねぇ」

 躊躇いもなく近づいてくる少女とライとを、鶏の男は一瞬見比べた。それから少女の方を向き、顎を引く。残りの2人の男も少女の方を向いた。その挙動に警戒が滲む。

「何者だ。そこで止まれ」

 男の発した険呑な語調に、少女は足を止めた。可愛らしく小首を傾げ、前髪を指に巻きつける。

「なんですかー。私はお前らに用事はないですー。そこをどくですー」

「質問に答えろ。何者だと聞いている」

鶏の男は緊張したまま背広の内側に手を入れた。そこを探り、何かを取り出そうとする。そんな男の様子に、少女はため息をついた。その目が暗澹とした色を帯びるのが、直也には分かった。

 そして、わずかな風のどよめきを残して、少女の姿は一同の目の前より消失した。直也は目を見開いた。ライは呆然としている。鶏の男の口から、「なっ」と驚嘆の声があがる。

椋鳥の男が視線を素早く周囲に巡らせ、家鴨の男が身構える。

「……まったく、本当に面倒臭え奴らですー」

 怒気を含んだ声が宙を舞う。ハッとなり目を向けると、わずか数メートルという場所でペンギンの怪人の爪に体を貫かれている家鴨の男の姿を見つけた。その怪人はあの喫茶店でも確認した通り、先ほどまで数十メートル前方を歩いていた少女が変化したものに違いなかった。

「どの道、私の姿を見た奴らは生きて帰さねぇですー。全滅ですー」

 怪人は逆の手の爪を振るい、男の首を切り飛ばすと、血の滴るその体を投げ飛ばした。頭部を失った体は地面を跳ね、あたりを血で真っ赤に染めた。まるで汚れたスイカのように見える頭部に怪人は右手をかざし、青白い電撃を浴びせかけた。電流はその皮膚や毛髪を焼き、それから生首はたちまち炎に包まれた。

 椋鳥の男が何事かを叫びながら、背広の内ポケットに手を突き入れる。取り出したのは小型の拳銃だった。男は照準を合わせようともせず、無我夢中で引き金を振り絞る。空を裂く破裂音とともに、その銃口から硝煙が立ち昇った。

 怪人はその弾丸を胸で受け止めた。一瞬、立ち止まりはしたものの、撃たれた後を手で軽く拭うその姿にはその一撃が通じているような様子は全くなかった。家鴨の男も拳銃を取り出し、2人で発砲するが結果は変わらない。

怪人は鼻を鳴らすと両腕を広げ、右手を椋鳥の男に、左手を家鴨の男にかざすようにした。男たちが身をかわす隙さえ与えず、怪人はそれぞれの手から電撃を、冷気を、同時に放射した。青白い光と白い気体が間隙を埋め、空に散る。

椋鳥の男は先ほどの生首と同じように火に包まれた。もがき、のたうちまわるその体に怪人は爪を突き立て、黙らせる。家鴨の男は身に着けているスーツや髪の毛を真っ白に凍らせ、まるで魂が抜けてしまったかのように後ろ向きに倒れた。

 ここまで一瞬の出来事だった。直也が判断し、動き出す前に全ては終わった。出来上がった3つの死体を前に怪人は満足げに息を鳴らす。家鴨の男の頭を軽々と足裏で踏み砕き、それから直也たちに体を向けた。

「さて、これで邪魔者は消えたですー」

 怪人の体がしゅるしゅると縮まり、そのシルエットが少女のものへと戻る。少女は胸の前で百合の造花を揺らしながら、一歩半、前方に歩を刻んだ。直也は思わず後ずさった。

 もう少しで掴めると思った希望を寸前で砕かれてしまったことで、直也の心は大きく揺さぶられていた。胸のざわめきが止まらず、頭から引いた血の気が戻ってこない。

 愉しげに笑みを浮かべる少女を前に、直也は身を凝らせる。何も得ることができないままに、直也はタイムリミットを迎えてしまった。荒廃の地に横たわる3人の死体に視線を運ぶ。自分やライもあんな死を迎えるのかと考えると、骨の芯まで震えが走った。

下唇を血が滲むほどに噛む。体の内側から畳みかける震えを無理やり胸中に押し込める。脅えてばかりもいられないのだ、と己を鼓舞させた。覚悟を決めなければならない。今を乗り越えられなければ、自分にも、ライにも、明日はない。

柳川の黒く淀んだ瞳が、田辺の病的な眼差しが、脳裏に過る。洋館で出会った11の死体が、旧鉈橋邸に置かれていた女性の生首が、胸を掻き毟る。

俺たちだけではない。直也は敵を睨む。ここで倒れれば、多くの人の命が危機に晒されることになる。それだけは絶対に阻止しなければならない。だから、こんなところで死ぬことはできない。直也は決心を宿し、大きく息を吸い込んだ。

「デベスクリームってのは、お前のことか」

 田辺が口にした奇妙な単語を思い出しながら、問いかける。少女は驚いた風に目を見開いたあとで、眉間に皺を寄せた。

「一体それをどこで知ったですかー。恐ろしいですー。気持ち悪いですー。プライバシーの侵害ですー。ストーカー野郎ですー」

 わざとらしく脅えるような挙動を少女はとる。直也はそれに取り合わず、さらに言葉を続けた。

「人を蘇らせてくれる。そう誰かに吹き込まれ、それを信じていた爺さんに会った。“リリィ・ボーン”の真の目的とは、なんだ」

「……へぇ、こいつは驚いたですー。そこまで知られているとは思わなかったですー」

 少女は口角を上げる。その瞳がぎらついた光を帯びる。直也は粟立つ体を掌でそっとさすった。

「それなら、もう逃がすわけにはいきませんねぇ。まぁ、もとよりここで終わらせるつもりでしたけどー。私に狙われたのが、運の尽きですー」

「おっさん」

 肩を叩かれ、そちらに目線をやると、そこには直也の体を支えにして立ちあがるライの姿があった。彼女はまだ具合悪そうに、体をふらつかせていた。

「お前……」

「こいつを、使って」

 そう表情を歪めながら言って、彼女は蓋の開いた携帯電話を差し出してくる。直也はその意図を瞬間的に理解した。

「……あぁ。サンキュ。ちょっと借りるぜ。お前はそこでじっとしてろ」

直也の返答にライは力なく頷き、再び地面に屈みこんだ。直也は携帯電話を受け取ると、顔をあげた。右手にプレート、左手に携帯電話を握りしめ、少女と相対する格好となる。

 毅然とした直也の姿勢に、少女は不快そうに小鼻をひくりと動かした。その輪郭は空気の中に溶け込んでいく。少女の全身が煙のように失せ、入れ替わるようにして全く同じ位置から、ペンギンの絵を胸に構えた、刺々しいシルエットをもつ怪人が再び姿を現した。

「まったく、悪あがきもほどほどにしてほしいですー。私も多忙ですー。ちゃっちゃっと終わらせたいですー」

 両手のかぎ爪を擦り合わせ、ため息をつく怪人を視線の先に捉えながら、直也はプレートの角で携帯電話のディスプレイを小突く。数秒と待つことなく、接触を果たした箇所が淡い光を帯びる。

 怪人の右手に青白い閃光が灯る。続けてその指先から電撃が迸り、宙を滑った。

 その攻撃に応じるかのように、無数の装甲片がディスプレイの中から現実世界へと顕現を果たす。飛翔する銀色の装甲は怪人の放った電撃を、直也に届く前にことごとく打ち落とした。

 中空で途絶え、破裂した電撃の余波を浴びながら、直也はその中心で装甲服を纏う。『3』の数字を掲げるイミシャド――オウガを装着した直也は腰だめから刀を引き抜くと、再びこちらに掌をかざす怪人目がけ、雄たけびをあげながら飛びかかった。




魔物の話 50

 そのネズミの相貌は、喩えるなら悪夢のようだった。

 現れた怪人に驚く間もなく、悠の体が突然、前のめりに倒れた。まるで悠の体をずっと支えていた何かが、急にその手を離したかのように、彼女は急激にバランスを崩した。

「悠!」

 レイは身を乗り出すと、悠の体を地面と激突する寸前で受け止めた。

その体を片手で支え、ベンチにそっと横たえる。そうしながら彼女に僅かだが呼吸があり、これといった外傷もないことが分かると、その場に膝から崩れ落ちそうになるほど安心した。どうやら悠は気を失っているだけのようだ。

 親友の頬に軽く触れ、それからレイは腰を上げて、自分の足元に立つネズミを睨んだ。

 その全体のシルエットはレイの愛しき息子、ディッキーのまったくの写し身だった。ネズミにしては大きすぎるその身体や、あまりにデフォルメしすぎた、漫画にでも登場しそうな外見もディッキーを彷彿とさせる。黒い短パンを下半身に着けているところも、レイに息子の姿を連想させた。

 ただ、その顔の造形は大きく異なっている。レイを見上げてくるその眼窩には青色の宝石が埋め込まれ、その口元もどこか厭らしく歪んでいる。その佇まいはひどくおぞましい。悪夢を具現したかのような相貌だと、レイは鳥肌の立った腕を撫でながら顔を歪めた。

「悠に何をしたの」

 呼吸を震わせながらレイは尋ねる。影の輪郭を人のものから外し、鳥の姿へと変化させる。最高の怪人としての力を体の奥底から呼び覚ます。このネズミが敵であることは、状況から明白だった。

ネズミは鼻を鳴らすだけで、レイの問いに何の答えも返さなかった。脅えている様子もない。ただその感情の読みとりにくい、宝石の瞳でレイを嘲るように見つめていた。レイは息を吸い、血流に酸素を乗せて、冷静さを取り戻そうとする。そしてこのあまりに奇妙なネズミについて、頭を働かせた。

「あなたは……」

 咄嗟に思い出すのは昨日、『しろうま』で目撃した小動物の後姿だ。人間の首を狩り、その死体を引きずりながら雑木林の中に消えていった、あのシルエットが脳裏に蘇る。あれを見てからというものの、レイの心にはこれまでよりも一層色濃く、ディッキーの姿が浮かぶようになった。

「はじめまして。じゃあねーよな、これで会うのは2回目か」

突然、今まで黙りこくっていたネズミが流暢な、しかし乱暴な日本語をげっ歯類の口で突然紡ぎ出した。

レイは目を丸くし、心底驚嘆した。声をあげそうになるのを寸前で呑み込む。そんなレイの様子に、ネズミは舌打ちをした。

「おい、まさか忘れたなんていわねぇだろうな? 昨日助けてやっただろ? あんたにとって俺は命の恩人ってやつなんだぜ?」

「昨日? それって、やっぱり、あなたが……」

 レイは昨日の出来事を頭に思い浮かべながら、愕然とする。自分の予想が的中したことへの喜びは一切なかった。ただ、ひどい衝撃が体の芯を痺れさせるようだった。

「まったく、あんな奴らに気がつかねぇとは。最高の怪人の名折れだぜ? 俺がいなければ、あんたは今頃地獄いきだ。感謝してもらいてぇもんだな」

「……死んでた?」

 困惑した頭で、レイは首を傾げる。当然のことながらその怪人の言動や声はディッキーとは明らかに異なっていた。ディッキーはこんなに粗暴な物言いはしないし、毒々しいセリフも吐かない。レイはこの怪人に重ねて抱いていた微かな幻想のようなものが、胸の奥でことごとく打ち砕かれていくのを感じ、正直、そのことに大きなショックを受けた。

「奴らは黄金の鳥を崇めているところの雑魚連中さ。あんたも知ってるだろ? あんたと連れの男はそいつらに監視を受けたのさ。そこをこの俺がずばっと救ってやったんだけどな。どうだ、全然気がつかなかっただろ?」

 ネズミの勝ち誇るような表情に、レイは唇を噛んだ。図星であることを察したのか、ネズミは小馬鹿にするに声をたてて笑う。レイは静かにネズミを睨みつけた。

 黄金の鳥という単語に導かれるようにして、レイは華永あきらのことを思い出す。『しろうま』で楓葉花と共にいた、青髪の少女。その後、『ホテル クラーケン』の中で彼女と再会を果たした。しかしその後のあきらの消息はまったく掴めていない。彼女が今どこで何をしているのか気にはなっていたが、一度殺されかけている以上、迂闊に調べるのは危険であることも承知していた。

「もしかして、あの人たちは……マスカレイダーズを探している?」

 探り探りレイが自分の考えを述べると、ネズミは片耳をピンと立て、それからにやりと相好を崩した。

「あたぼうよ。奴ら、血眼になってあんたらを探してるぜ。色々なところで見張ってやがる。面倒なことに巻き込まれたくなきゃ、あんまりうろちょろしないほうがいいぜ。悪いが、俺はもう助けてやらねーからな」

 ネズミの発言に、レイは今更ながらハッとなった。

 このネズミも――すなわち式原率いる怪人軍団も、そして黄金の鳥を崇める彼らも、レイと佑がマスカレイダーズから見捨てられたことを知らないのだ。今更ながらその重大性に気付いた。どうにも厄介なことになったな、とレイは暗澹たる気持ちになる。これからもいらぬ敵意を向けられる可能性は大いにある。そしてその矛先はレイのみならず、佑にも向けられている。

「……あなたは悠を狙ってきたの?」

 相変わらず瞼を上げる様子すらみせぬ悠を一瞥し、レイは尋ねる。しかしネズミは心外とでも言いたそうに、眉間に皺を寄せた。

「バーカ。誰がそんなこと言ったんだよ。俺に用件があるのはあんただ。最高の怪人さんよ?」

「私?」

 レイは自分を指差す。ネズミはうんざりとした表情で、何度か首を縦に振った。

「そう、あんただよ、あんた。他に誰がいるってんだ。ちょっとあまり聞かれたくない、秘密の用件があるんでね。こいつには、少しの間黙ってもらっただけさ。あんたも、そのほうが都合がいいだろ?」

 うぅん、と呻き声をあげ、悠は体を震わせる。徐々に眠りが浅くなってきているようだ。あと数分もしないうちに目覚めるような予兆がある。確かにこのネズミの目的は、悠を殺しにきたこととは別のところにあるようだった。

「あなたは、誰?」

 遠い空から地鳴りに似た音が轟く。明らかに天気は悪化の道をたどっていた。温い風が髪を撫でる。蝉の声が嵐の訪れを伝えるようにひと際大きく響き渡った。

「俺の名前はマァズ」 

ネズミは自分の鼻先を指差し、その大きな耳をひくつかせた。その毛並みをわずかに風にそよがせながら、さらに言葉を続ける。

「世にも珍しい“最高の怪人”から生み出された怪人だ」

「最高の、怪人?」

 レイはわずかに首を傾げ、自分を指差した。しかし今度は素早く「いや、ちげぇよ」と返事がくる。ですよね、と同意したくなる気持ちをレイは寸前で抑え込んだ。こんな不躾で不気味な怪人を、レイ自身、生み出した記憶がなかった。

「わっからねぇーかなぁ」

 マァズはやれやれ、といわんばかりに演技っぽく肩をすくめると、その鋭い歯を見せた。その形相は明らかに不穏で、レイはゾッと背筋が凍るような感触を味わった。

「俺が言いたいのはな」

マァズは細い髭を指先で撫でつけ、それから言った。

「あんたとは違う、もう1人の最高の怪人が生まれたってことだよ」

「もう1人の……」レイは呆然とマァズの言葉を口の中で繰り返し、それからその事実の大きさに遅れて気付いて語調を強めた。「最高の、怪人」

「ああ、その通りだ。ようやく分かったかよ」

「どういうこと?」

“最高”とは自分に与えられた唯一無比の称号だと考えていただけに、もう1人、同等の位に座する怪人が存在するという事実に、レイは動揺を隠せない。レイの質問に、マァズはこれまでで一番、不快な表情を浮かべた。

「あ? どういうことも、こういうこともねぇよ。全てはあんたが不甲斐ないからだろうが! “最高の怪人”って称号はな。飾りじゃねーんだ。その気になればこの宇宙に存在する法則さえ捩じ曲げることだってできるんだぜ?」

 マァズに非難の言葉を浴びせられ、レイは声を詰まらせる。数週間前に戦った貝型の怪人、イストのことを思い出す。あの怪人もまたレイを成長させ、怪人としての力を覚醒させたがっていた。レイはその場では反抗したものの、結果的にその数日後、自ら自身の体に羽根を突き刺し、怪人としての進化を遂げてしまったのだから、彼の目論見にうまくはまってしまったことになる。

「だが、お前はどうだ?」

 記憶を探るレイに、マァズの辛辣な言葉は続く。彼は悠をちらりと見た。彼女は指先をぴくりぴくりと時折動かしているものの、まだ意識は戻っていないようだった。マァズは悠を顎でしゃくるようにすると、それからレイを見て、唾を吐きかけた。

「そんなことも忘れて、人間の中でぬくぬくと生きて、仲良しこよしだ。もったいねぇと思わないのか。お前とこいつらとは、生きている場所が違うんだぜ? こんな生活がいつまでも続くと思ってんのかよ」

「……そんなの、私の勝手じゃない」

 足元に落ちた唾に眉を寄せ、畳みかけるようなマァズの難詰にやっと答えながらも、その声はどうしても弱弱しく、芯の不確かなものになってしまう。昨日の光景が瞳に瞬いた。怪人の怨みがましい目。肉片の中に立つ佑の後姿。途端に恐怖が内臓に沁みてくる。

「あんたはそんな姿をしているが、人間じゃない。怪人なんだ。それをもっと理解してほしいもんだね。第一、あんたが怪人であることを知れば、こいつもあの男も、あんたを拒絶する。あんたもそれくらい、承知してるはずだろ?」

 まるで、胸に楔を打ち込まれたかのような激痛が走った。

 マァズの放った一言はレイの心を容赦なく抉り、嬲った。意識が揺らぎ、目眩で倒れそうになる。すんでのところで踏みとどまり、胸の奥から声を絞り出した。その声音は裏返り、今にも崩れ、宙で散り散りになってしまいそうだった。

「そんなことないよ」

 レイは自分の言葉に縋りつくように、または、暗示をかけるように、声を紡ぐ。指先は微かな震えを帯び、頬を冷たい汗が伝った。

「そんなこと、あるわけない」

「ま、なんでもいいけどな」

 呼吸を乱すレイを、マァズは耳を指でほじくりながら横目で見つめる。耳から取り出した指にふっと息を吹きかけると、改めてレイと向き合った。

「まぁとにかく、最高の怪人は俺たちの支えであると同時に、大きな脅威なんだ。そんな奴が人間の中で生きてたんじゃ、示しってもんがつかねぇんだよ。だから式原は生み出したのさ。俺のマザー……お前とは違う、もう1人の最高の怪人をな」

 そこでマァズは一旦言葉を切った。偶然だろうが、木々の葉が擦れる音が、車の駆動音が、その瞬間、周囲に存在していた音が全て消失した。レイはまるで世界から取り残されたかのような孤独感に支配される。自分と、マァズと、そして足の先から詰め寄ってくる大きな恐怖だけが、レイの世界に存在する全てだった。

「“リリィ・ボーン”」

 不意にマァズが奇妙な単語を呟く。それはレイにとって聞き覚えのない、不思議な発音だった。

「マザーはそこで真の力に目覚める。その時は、マザーはあんたをはるかに凌駕する存在となるだろうな」

 真の力。目覚める。

 一方的にマァズの口から吐き出されていく言葉の連打に、レイは全く付いていけずにいる。だが、その話の内容がレイに利をもたらすものでないことだけは確かだった。

「最高が2人いるってのも、奇妙な話だろ、決着の日はすぐにくるだろうな。リリィ・ボーンが過ぎ去りしとき、あんたと俺のマザー、この地に立っていられるのはどっちだろうな?」

 それがレイの耳にした、マァズの最後の言葉だった。気付けば、その不遜な態度をみせるネズミはレイの前より消え失せていた。まるで幻であったかのように、影も形もどこにもない。全ての感覚は元に戻り、長閑な公園の風景と、いまだ気を失ったままの悠の姿が、レイの五感をゆっくりと目覚めさせていく。

 正常な働きを取り戻していく世界の中心で、レイは身動きもとれず呆然と立ち尽くした。

 その頭には、いつか佑と悠はレイを拒絶するというマァズのセリフが、重厚に響く鐘の音のように響き渡っていた。




鎧の話 42

 空から零れ落ちてきた小雨が、ぱらぱらと装甲服の上を跳ねる。オウガは片足で踏みきり、刀を振りかざすと、ペンギンの怪人――デベスクリーム目がけて一閃を繰り出した。

 しかし大振りの一撃は容易く避けられ、逆に拳を胸に撃たれ、手痛い反撃を受けてしまう。両足で着地し、後ずさりながら、直也は仮面の下で大きく咳き込んだ。

「……お前たちは、一体何をしようとしているんだ! 目的はなんだ! なぜあんな方法を!」

「馬鹿ですかー。そんなことお前に話す義理は、1ミクロもないですー」

デベスクリームは両の爪を擦り合わせ、直也を鼻で笑う。その体に黄金色の瘴気が纏われていく。

 次の瞬間、直也が反応するよりもはるかに早く――その体は背後にかなぐり倒されていた。

 自分の身に起きたことを理解できぬまま顔をあげ、体を起こす。だが立ち上がろうとしたところで膝が崩れ、再び地面に倒れ込んでしまった。

「な……!」

まるで体の支柱を揺さぶられたかのように方向感覚が歪んでいて、まともに動くことすらままならない。もがくオウガの前にデベスクリームの輪郭をなぞった影が射し、顔面を蹴りあげられる。今度は仰向けに突き倒された。

「なんだかとっても気分が良いですー。体の底からどんどん力が沸いてくるようですー」

 天を仰ぎ、快感に満ちた声をあげるデベスクリームの声を、濁りきった聴覚で捉えながら、オウガは、直也は立ち上がった。息が詰まり、呼吸がひどく苦しい。先ほどの攻撃によって仮面にヒビが入り、そのため視界にも亀裂が映り込んでいた。

衝撃に負けて手放してしまった刀を見つけ、拾う余裕は残されておらず、触角をもがれた蟻のような気分でよろめきながら立ち上がる。

 気を奮わせ、全身の骨が軋むような痛みに耐えながら直也は駆けた。息を切らし、叫びながら拳を怪人に叩きこむが、全く効いている様子はない。反対に平手打ちを耳元に受け、オウガの装甲服はいとも簡単に弾き飛ばされた。すぐに姿勢を立て直し、再び殴りかかるが、今度は怪人の体を掠めることさえ許されず、寸前で蹴りのカウンターを入れられる。地面に叩きつけられたオウガは、地の上を激しく転がった。

「こりゃあいいですー。元気百倍。殺気も百倍ですー」

 今にも歌でも歌いだしそうな、怪人の明朗快活な声が直也の耳朶を疎ましく打つ。

 怪人の攻撃がオウガを穿つ度、その体からは装甲の破片が埃のように舞っていった。肩のパーツは根元から折れ、胸の装甲がぱっくりと割れ、わき腹のあたりでねじれてぶら下がっている。

 ひどく痛ましい姿をオウガは晒しているが、それを纏う直也はさらに輪をかけて満身創痍だった。元々の体調不良にも加わって、怪人の力は喫茶店で戦った時と比べものにならないほど強化されており、その一撃一撃を身に浴びるたび、骨の髄まで苦痛が差し込まれてくる。もはや呼吸をするのも辛く、立ち上がるのがやっとの状態だった。回避することすらままならず、反撃などできるはずもなかった。

 そんな直也にデベスクリームは左の掌を向ける。ハッと顔をあげた直也の顔面目がけて、白く濁った霧のような冷気が掌の中心より吐き出された。

 当然、反射的に避ける余力など直也にはなく、後ずさろうと片足を後ろに引いたところで冷気に捕えられてしまった。装甲に霜が降り、さらに瞬く間もないスピードで凍結されていく。足から胸を伝い、首を抜けた冷気はオウガの仮面を素早く凍らせ、直也の視界を白く塗り潰した。

「なっ……」

 まずい、と冷や汗をかいたときにはすでに怪人の気配を間近に感じている。腹部にずしりと重みを覚えた。怪人の掌の感触が、装甲越しに伝わってくる。対抗しようとするが関節を凍結されているせいで、まったく身動きがとれなかった。

「私はリリィ・ボーンの暗殺者」

 耳元で死神の声が囁く。体のどこかで油の切れた車輪のような鈍い音が聞こえた。

「私の姿を見て、生きて帰れた者はいないですー」

 アルミ板を力強く殴りつけたような大音量が鳴り響いた。遅れて、至近距離から電撃の槍を打ち込まれたのだと悟った。神経が痺れるような感触と、腹部を打つ激痛とが直也の神経を切り裂く。

 直也は装甲服の内側で、絶叫をあげた。

吹き飛ばされ、地面に背中から落ち、もんどり打つ直也の体から装甲片が散り散りになって離れていく。直也の姿が装甲の内より暴かれ、そうしてオウガは解除された。刀だけは少しだけ戸惑った風に地面に残っていたが、数秒もするとようやく他のパーツと同じようにどこかへ消えていった。頬に落ちる雨の感触に、直也は自分が生身に戻ったことを知る。顔をあげるが、すでに装甲は周囲から姿を消していた。

 纏う度に装甲の構築、再構築を繰り返すマスカレイダー・システムとは異なり、イミシャドはダメージが超過したとしても勝手に装甲が体から離れることは通常ない。それが直也の意思にかかわらず解除されたということは、怪人が放った先ほどの一撃で、プレートに内蔵されたシステムそのものに障害が発生した可能性が高かった。

 プレートは直也の体から放り出され、数メートル先に転がっている。その表面には今まではなかった深い傷が刻み込まれ、そこから黒い煙がゆらゆらと立ち昇っていた。直也は唇を引き攣らせながら、自分の恋人が残した、そして数多くの戦いを共にしてきた、相棒とも呼べるその金属板に向けて腕を伸ばす。

 しかし、その手がプレートに触れることは叶わなかった。両足がびくりと痙攣し、そのまままるで全身が石と化してしまったかのように硬直した。腹部に激痛が走り、呼吸を詰まらせる。その口から鮮血が零れ落ち、顎を伝って地面に染みを浮かべた。

 どうやらデベスクリームの雷撃は装甲をやすやすと超え、その向こうにある直也の肉体をも損傷させたらしい。頭が白く混濁し、正常な意識と感覚を鈍らせる。直也の伸ばした手を、デベスクリームの足が踏みにじる。直也は掠れた悲鳴をあげた。

「ここが年貢の納め時のようですねぇ。さっさと死ぬですー」

 トドメの一撃を食らわせようと、デベスクリームはその爪を振り上げる。だがその腕が振り下ろされることはなかった。見れば、デベスクリームは直也ではなく、地にうずくまるライの方をじっと見つめていた。

 ライの顔は青白く、また相変わらず肩で息をしている。直也を見つめてはいるものの、その口からいつもの勝気な言葉が出ることはなかった。その顔つきはまるで亡霊のようだ。

 デベスクリームがライに対してみせた、そのあまりに冷たい視線に、直也は全身から血の気が引くのを感じた。それと同時に怪人の後ろ姿が直也から遠のいていく。その爪の矛先にはもはや、直也はいなかった。

「お前はもういつでも殺せるですー。……先に、厄介な方を始末しておくですー」

 デベスクリームの言い捨てた言葉に、直也の心臓は早鐘を打った。あの怪人は、直也よりも先にライを手に掛けるつもりなのだ。もはや装甲服を失い、傷に塗れた直也に興味はないのだろう。怪人の本能は直也よりもライを脅威として認識したらしかった。

「私とそっくりな顔。お前に触れた時、感じたひどい胸の痛み。一体お前がなんなのか、さっぱり分からねぇですが……ここにきて1つだけ分かったことがあるですー」

 デベスクリームが嬉しそうに言う。顔をあげ、脂汗で頬を光らせたライは、脅えた目で異形を見上げている。

「……やめろ」

 やっとのことで血に濡れた唇を動かしながら、直也は救いを請う。しかしその囁くような声は怪人に届かず、その足は着実にライとの距離を詰めていく。直也は両手に力をこめ、固く目を閉じて、神経をもぎ取られるような痛みに耐える。何とか膝を地面から引き剥がし、片足を踏み込むことに成功する。

「何日か前、お前と出会った私の妹は、私と瓜二つの人間がいることに疑問を感じ、確かめる意味をこめて、鳥の羽根を刺したと言っていたですー」

「やめろ」

 口の中がぬめり、生温かい。全身を伝うあまりに強い痛みに意識が怪しい。直也の目に映るのは、ライの脅えた表情と、彼女に迫るデベスクリームの悪魔のような背姿だけだった。それ以外の景色は、全て暗幕によって切り取られているように感じた。

「そしてついさっき、この場所で奇妙な反応を察知したとの連絡があったですー。期待しながら来てみれば、何とこの通り。まさしくビンゴだったですー。お前のおかげで私は逃した獲物を見つけるに至ったですー。大感謝ですー」

「……わけのわからないこと、ばっかり、言うなよ」

 強気に切り返すライであったが、その語調には恐怖が滲んでいる。汗と雨に塗れ、立ち上がるライは直也ほどではないにしても、それでもひどく辛そうだった。

「人をいっぱい殺しやがって、ふざけるな! お前なんか、私のパクリのくせに!」

「何を偉そうに。本物なんかここにはいないですー。どっちかといえば、お前のほうがわけのわからない、みょうちくりんな偽物ですー」

「やめろ!」

「消えるのはお前のほうですー。お前の存在自体が、私にとって不快極まりないですー」

 直也の悲鳴も、制止を請う叫びもまったく意味を成さず、デベスクリームはかざした掌からライに向けて、冷気を放出した。周囲の気温が急激に低下し、雨が凍りつく際に発せられるものなのか、あちこちで何かがひび割れるような音が反響している。

 ライの姿は怪人から吐き出された白い靄の中に消えた。直也は膝を落とし、愕然とした気持ちでその光景を見つめる。オウガの装甲を一瞬で凍りつかせるほどの冷気だ。生身で受けて無事であるはずはなかった。

 絶望と諦めが直也の心を閉ざそうとしていたその時、冷気の内側から漆黒の光が突如として膨らんだ。その光は瞬く間に冷気を舐め尽くすと、地面の上を滑るようにして広がり、それからうっすらと空に残像を映しながら消えていった。

 一体今の現象はなんだったのか、はっきりとせぬまま、光が失せた先に現れたものを認め、直也は「え」と思わず声を漏らした。なにしろ意識が覚束ないのでそれが目の錯覚ではないと自信は持てなかったが、それでもそこにあったのは、揺るぎない、現実だった。

「嘘、だろ……」

 思わず呟く。その声は大きく震えた。目の前の光景が、信じられなかった。

 直也が目の当たりにしたもの。それは凍結した大地の上で、何の傷もなく、冷気を浴びる前とまったく同じ状態で立つ、ライの姿だった。

足元に置かれた携帯電話は冷凍室に入れた秋刀魚のように凍結されているにも関わらず、彼女は冷気の影響を全く受けてはいなかった。着ている服や背負っているリュックサックも同様だ。彼女自身と、彼女を取り巻く世界とに生まれた落差に、非現実な気配が漂っていた。

その体は、今のデベスクリームと同じように薄く金色の光を帯びていた。ライも自分自身に起きているその異変に気が付いたようで、薄く光る掌を茫然と見つめている。やがてその表情に少しずつ、戦慄の色が浮かんでいった。

「まさかこいつを受け切るとは、凄まじい力ですねぇ。やはりこの場所は怪人の力を増幅させる何かがあるらしいですー。だけどこれで、ようやくお前の正体が赤裸々になったですー」

私とお揃いですー。デベスクリームは黄金の色に包まれた自分の腕を撫でながら、嬉々として呟く。それから続けて言った。お前も私と同じ、怪人ですー。その言葉にライは虚を衝かれたような表情を浮かべ、その後で瞳を潤ませた。

 ライは直也を見た。直也はその救いを請うような視線に耐えきれず、黙って顔を俯かせた。

分かっていた。ライが怪人であることを。しかし黙っていた。人を苦しめる怪人に怒り、人としての生活をずっと歩んできたライに、お前は怪人なのだなどとは、とてもじゃないが言えなかった。自分に言い聞かせてきたはずなのに。納得をしてきたはずなのに。それでも直也の胸は、罪悪感で大きく軋んだ音をたてる。

 直也の反応に全てを悟ったのか、ライはゆるゆるとかぶりを振り、「嘘だ」と叫んだ。それから告げられた事実を拭い去ろうとするかのように、発光する自分の腕を無我夢中で服に擦りつけだした。

「嘘だよ、こんなの、嫌だよ……」

唇を曲げ、目に涙を浮かべて、必死になって自分が怪人であるという証拠を消し去ろうとしている。だがその肌に赤みが帯びるだけで、その金色の輝きは少しも失せることはなかった。それが分かるとライはその場に崩れ落ち、呻き声を漏らしながら頭を抱えた。彼女の発する苦悶の声は、直也の胸をどうしようもなく掻きむしった。

「こんなの、嘘だよ……私、だって、母さんの……」

「謎が1つ解けて良かったですねぇ。これですっきりとした気分でお別れできますー。その手助けができて光栄ですー」

 デベスクリームは霜の降りた地面をざくざくと踏み鳴らしながら、ライに近づいていく。ライは顔をあげ、目を丸くして自分に迫る怪人の異形を見上げた。デベスクリームはそんな彼女の表情を視線に捉え、ふふ、と笑みを漏らす。

「鉈橋そらの顔をもつ者は、私以外にいらないですー」

 デベスクリームは大きく腕を振り下ろした。その指の先には鋭い爪が伸びており、それぞれの指先から伸びた5本の刃がライの体を一閃する。

 ライは僅かに体を横に傾けるが、完全にはかわせなかった。刃は肩先を削ぎ、破れた皮膚の内側から血飛沫が舞った。リュックサックのベルトが裂かれ、ライの背中で宙ぶらりんに垂れさがる。横になぎ倒されたライは悲鳴を吐きだし、地の上をもがく。

 ライの体から零れる血と苦悶を浮かべるその表情を認めた瞬間、直也は視界が白く淀むのを感じた。痺れを帯びた体が軽く感じられ、直也はその隙を突いて一息に身を起こす。行かなければ、と思う。全身があげる悲痛の叫びに蓋をする。プレートを拾いあげ、焦りに突き動かされるように、よろめきながら歩みを進める。

 ライの服に滲んだ血を見つめ、デベスクリームは舌を打った。その右の掌を彼女に向けてかざす。

「私たち怪人は、死体から生まれた存在。ましてや場所が場所ですー。この程度じゃ、死ぬわけもねぇですー」

 だから、とデベスクリームはその鋭い爪を自分の顔の前にかざした。その先端が曇り空の下で不気味に光る。ライはぜえぜえと掠れた息を吐きだしながら、脅えた目で怪人の姿を見上げている。

「今度は確実に、こいつで仕留めてやるですー」

 デベスクリームの語調が僅かに険を帯びた。右腕を大きく引き、ライの喉元に爪の狙いを定める。直也の頭には命を請う暇さえ与えられず、首を飛ばされた男の死にざまが浮かんだ。踏み砕かれたその頭部を思い出すと、吐き気がこみあげてくる。首のないライの死体がふと脳裏を過り、頭の中が真っ白になった。

「ゾンビが首を飛ばさない限り死なねぇのは、いまや常識的なことですー」

 走る力などなく、直也は早歩きでデベスクリームの背中に迫る。焦燥した心が足をもつれさせる。腕を伸ばすが、到底届くはずもない。

「それじゃあ、ばいばーいですー」

恐怖に歪んだライの顔と、反面、楽しげに弾むデベスクリームの体躯。それらを前にしながら、直也は胸に抱えた大切なものが零れ落ちていくような、そんな感触に捉われていた。


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