4話「黒い鳥が死んだ日」
魔物の話 44
15分ほど室内を検めてから、レイと佑は家を出た。でき得る限り探索をしたつもりではあったが、結局、式原の居場所を特定できるものは見つけることができなかった。
ここに式原がいたということは確からしいが、一時のアジトに過ぎなかったのではないか、というのがレイの考えだった。おそらくあの家に元々住んでいたのは、あの絵本の持ち主である『なたはしそら』の家族だったのだろう。その家族がいまどうしているのかと考えると、それだけで暗澹とした気持ちになる。おそらく生きてはいないだろう、というのがレイの見立てだった。
早くあの男の居場所を突き止めなければ、さらに被害者は増えていく。自分たちが止めなければならないのだ、と覚悟を新たにした。
とりあえず唯一の収穫である黒い鳥の羽を佑と2人で拾って、駅に戻った。改札口をくぐり、電光掲示板を見上げ、次の電車の到着時刻を確認する。到着までには4,5分程時間があった。
「レイちゃん、ちょっと寄り道したいんだけど、いい?」
レイは隣の佑に顔を向けた。今の佑からは、怪人を殺した時にみせた、冷たく暗い影を背負ったような印象は感じ取れない。いつも通りの、悠と一緒にいる時の彼にすっかり戻っていた。
「いいですけど……今度は、どこにいくんですか?」
「うん。まぁ、そんなに遠くはないよ。時間には間に合うようにするから。ね?」
佑は行き先を曖昧に答えると、眉を上げて笑んだ。レイは不審に思いつつも、彼の申し出に了承する。いまだ彼に対する恐怖は心にこびりついており、佑から逃げ出したい、という気持ちもなくはなかったが、断るための口実も見つからなかった。それに、ここで彼に背を向けてしまえばもう一生、目を合わせて会話をすることができなくなるのではないか、という不安がレイの心にじわじわと焦りをもたらしていた。
自分は佑に嘘を付いている、騙しているという事実がレイの胸を否応なしに絞めつける。 私は怪人です。あなたが憎むそれと、まったく同位の存在です。
そうはっきりと言えたら、どれほど楽だろうと思う。だが、真実を告白する勇気は持てなかった。怪人の肉塊に容赦なく剣を突き立てるフェンリルの姿、そして怪人の向けたレイを恨むような眼差しが頭から離れない。もし正体が彼にばれてしまえば、自分は一体どうなるのか想像することすら恐ろしかった。
ホームに降り、行きとは別の電車に乗った。車窓を眺め、しばらく乗ること数十分。レイは佑に連れられるがままに今まで降りたことのない駅に降り立った。彼が言うには目的地までは、ここから少し歩くらしい。
高いビルの少ない、都内でも比較的閑静な場所らしかった。歩道と車道とが色の薄い白線だけで区切られた幅の広い道を歩く、両側には弁当屋や薬局など、老舗らしき個人商店が軒を連ねていた。都心のスクランブル交差点に比べるとはるかに歩きやすい。
金属バットがボールを叩く、軽やかな音色が空に爆ぜる。前方に高いネットによって区切られた学校のグラウンドが見えた。どうやら野球部の練習中のようだ。快活な声が夏の空気に響くのは、なんだか聞いていてひどく心地よかった。
「でもさ」
グラウンドに沿った道を歩いていると、数歩前を行く佑が歩みを緩め、そう口を開いた。レイに歩幅を合わせてくれたのだろう。佑が隣に並んだ事で、レイは身を強張らせた。彼と少し距離を取って歩いていたのは、意識的にとった行動だった。心を竦ませながら、恐る恐る、彼の方を見やる。
「まさかマスカレイダーズがレイちゃんを殺そうとするなんて、思いもしなかったよ」
佑は前を向いたまま言った。レイは佑を一瞥し、それから目を伏せる。マスカレイダーズの罠にはめられ、危うく死にかけたということは、1週間ほど前にすでに佑に話してあった。レイはまだ腕輪の感触の残る手首を指で撫でながら、眉をひそめた。
「私もです。なんだかんだいって、あの組織のこと、信じてましたから……ショックですね」
「みんな今、どこにいるんだろう」
「さぁ……船見の家はもぬけの殻で、ケータイも繋がりませんから。どこかに隠しアジトでもあるんですかね。まぁ、私はそんなもの知らされた覚えさえないんですけど」
「そっか……でもさ、いきなり捨てられるなんて、思いもしなかったよ。俺なんてまだメンバーの皆さんにも挨拶してなかったのに」
「それはいいですよ、別に。私を除けば他はみんな変態ですから。3割が変態で、4割が変人で、残りの3割が変質者で構成されている組織ですから。挨拶なんかしたら、毒されます」
「なんだそれ、恐ろしすぎる」
「驚いているところ悪いですけど、そこにはお兄さんも含まれてますよ」
「え、どこが?」
「それは自分の心に聞いてください……そういえばフェンリル、お兄さんに預けたままですよね。ゴンザレスさんは取りにこないんですかね。あんなに執着しているみたいだったのに」
やはり佑とはまだ向き合うことはできず、喋りかけてもどこかよそよそしい態度になってしまう。佑はそれに気付いているのか気付ないのか、あぁ、とレイの顔を見て頷いたあとで、困惑顔を作った。
「それは俺も気になってた。まぁ、これがマスカレイダーズとの最後の繋がりだし、そのうち回収しに来ると思うけど……ま、絶対渡さないけどな」
佑はポケットからフェンリルのプレートを取り出し。その目には微かな怒りが帯びている。しかし先ほど怪人に向けた時のような憎悪に取りつかれたものではなく、純粋な義憤からくるものであることがはっきりと分かって、レイは思わず佑の顔を見つめた。
「来たら言い返してやるんだ。なんでこんなことをしたんだって。レイちゃんを殺そうとするなんて、酷過ぎるよ。絶対に許せない。こんなこと……絶対に」
フェンリルを握る手を佑は震わせる。彼の怒りに間近で触れ、レイは思わず顔をあげた。佑がマスカレイダーズに酷い仕打ちを受けたという話は聞かない。そればかりか佑にとってあの組織は、悠を守るための力を差し出してくれた、いわば救世主のような存在だったはずだ。
それなのになぜ佑は額に青筋を立ててこれ程までに憤慨しているのか、とレイは不思議に思った。だが、すぐにその意味に気付く。
彼はレイのために心を燃やし、身を震わせ、怒ってくれている。思えばマスカレイダーズに殺されかけたという話は佑にしてみれば証拠すらないことで、それは自分を助けてくれた組織に対する侮辱であり、信じ難い話であり、妄言として言い捨てられたとしてもおかしくはなかったはずだった。だが、彼は怒ることもなく、疑うこともなく、すんなりとレイの話を信じてくれた。
彼の気遣いに、ようやくレイは気付く。思わず頬が綻ぶのを感じた。
「……ありがとうございます」
暗く翳った心に、ふわりと胸に舞いこんだ温かな感触を告げると、佑は怒りを収め、不思議そうに目を丸くした。
「え、なにが?」
自分のために怒ってくれていることが、自分を信じてくれていることが、レイにはたまらなく嬉しかった。だがそれを言葉にするのも何だか気恥かしく、レイは佑から視線を逸らすと、空に目を細めた。
「別に。なんでもないですよ」
知らず知らずのうちに頬が緩む。佑は隣でまだ釈然としないような顔をしていたが、「ま、いっか」と呟くと、彼も唇の端から息を吐きだすようにして笑った。
久しぶりに佑との穏やかな時間が帰ってきたような気がした。佑を騙している事に対する罪悪感も、彼に対する恐怖も、絶えずレイの胸を突き刺している。こんな和やかな時間が長く続かないことは分かっている。しかしそれでも、今だけは佑と過ごす時間を大切にしたい。レイは心からそう思った。
次第に周囲を構築する景色は、下町のような風情からやがて、自然の多い並木道へと移り変わった。虫や鳥の鳴き声が耳元を心地よく撫でていく。木でまわりを囲まれているためか、蒸し暑さも若干ではあるが収まっている。穏やかでまるで時間の概念を忘れてしまうかのような雰囲気が、この場所には漂っている。そしてレイは自分がここに至るまで、いまだに佑から目的地を聞いていない事に気付いた。
林を切り開くようにして伸びる1本の道を2人で並んで歩く。自転車に乗った老人や、犬の散歩をする女性などがすぐ横を通り過ぎていく。
風がそよぎ、頭上の葉がかさかさと音をたてて揺れる。地面を滑るその風の匂いに、レイは突然、記憶を喚起された。木漏れ日が2人を照らす。少し離れた場所から車の駆動音が聞こえてくる。夏の気温が体をじわりと湿らせる。
――しっかし静かな場所だよなぁ。マイナスイオン出まくりっていうかさ。こんなところに怪人の手がかりなんかあるのかよ。
突然頭の奥の方から声が聞こえてきて、レイは思わず立ち止りかけた。実際には少し躓いただけで歩みに滞りはなかったのだが、それでもひどく動揺したのは確かだった。
この林の中に入ったあたりから、レイは自分が前もここに訪れたような気がしてはいた。だが思い出せず、気のせいだと納得しかけたところで、何の前触れもなく閃いた。
頭にバンダナを巻いた、横柄だが嫌味のない喋り方をするあの男の顔が想起される。前に来た時は、彼の走らせるバイクの後ろに乗っていたから歩くのとはまた感覚が違っていたために気付かなかった。
「もしかして、ここは……」
完全に記憶に火が灯り、レイが呟いたその時、その店は視界に現れた。道に寄り添うようにして得られた、下生えの短く刈り取られたそのスペース。その少しだけ奥まったところに、一軒の喫茶店が見えた。
『喫茶店 しろうま』
ゴンザレスに命じられ、悪魔の娘――華永あきらを観察するために、レイと秋護が訪れた店。その中にいた華永あきらと、彼女の友達の楓葉花という少女と、なぜそうなったのかの経緯はあまりよく覚えていないが、黒ひげ危機一髪で遊んだ事は記憶に新しかった。
この店の前で立ち止まった佑は、レイの呟きを耳に捉えるなり、目を見開いた。
「この店、知ってるの?」
「えぇ、まぁ……」
驚いたのはレイも同様だった。まさか佑にこの店に連れてこられるとは思いもしなかった。
以前、マスカレイダーズの任務でここに訪れたことを説明すると、佑は険しい表情で「やっぱり」と低い声で頷いた。レイは佑のその反応に、純粋な疑問を感じた。
「やっぱり?」
「俺さ……ちょっと前まで、ここに住んでたんだよ」
「えっ」
レイは改めてその店名通りの白い外観をもった、瀟洒な喫茶店を見上げる。よく見ればドアや窓ガラスのあたりの壁だけが妙に新しい。どうやらつい最近改修されたようだ。この店のドアを藍沢秋護が蹴破ったことを思い出し、なぜか忸怩たる気持ちになる。
「俺、悠が入院している間、親父の知り合いのところに下宿してたって前に言っただろ? それが、ここだったんだよ」
佑は店を指差し、小さく笑んだ。そういえば以前、悠が入院している間、佑は今住んでいる家ではなく、父親の知り合いのところで世話になっていると言っていた覚えがある。
「ははぁ」
しかし、それにしてもまさかその下宿先がこの店だったとは思いもよらなかった。三角の屋根を仰ぎながら案外、世界も狭いものだな、と感慨深く思う。しかしふと佑に視線を転じ、店を見つめる彼の目に悲しみの陰が射しているのを見つけると、そんな気持ちは一瞬で吹き飛んだ。
レイの自分を見る視線の意味に気が付いたのだろう、佑はレイの方を向き、それから表情を強張らせた。
「実はさ、オウガと戦ったあと、俺はここに連れてこられたんだ。……この家は、すでに怪人に乗っ取られてる。そう、言われてさ」
レイは目を剥いた。改めて『しろうま』に目をやった。長閑な風景を背負い、純朴なまでに佇立するその建物は、怪人などという不穏な単語とは無関係であるような気がした。
「俺も最初は半信半疑だったんだ。だけど、実際行ってみたら、それは本当だった」
佑の声がひび割れていく。いつ砕けて破片をばら撒き、あらゆるものを傷つけてもおかしくないほど、そしてそれが許されるほど、彼の声音は後悔に歪みきっていた。
佑はため息をついた。熱の孕んだ大気に重圧を加えるような、淀んだ呼気だった。
「怪人はいた。この家の人が……襲われてた。だから俺はフェンリルになって、戦った。それで」
言葉の終わりのほうは消え入るようだった。彼は宙に浮いた言葉の先を委ねるように、包帯の巻かれた自らの左手を一瞥する。レイもつられるように彼の傷ついた箇所に視線を移し――慌てて目を逸らした。
「その人たちは、どうなったんですか」
この家の人たち、というのだから、おそらくそこに該当するのはこの喫茶店の主人なのだろう。任務で行った時は、偶然出払っていたようで会うことはできなかったから、その人物の顔も名前もレイは知らなかった。そしてもう1人。華永あきらと一緒にいた少女、楓葉花もそこに含まれるかもしれない。あきらは葉花のことをこの家の人、と紹介していた。彼女と佑が同じ屋根の下で暮らしていたという事実にレイは少しだけ、動揺する。
「分からない」
佑は短く言った。そしてドアの脇、佑が輪の壁に布テープで貼られている1枚の紙に目線を移す。そこには臨時休業の四文字がはっきりと記されていた。ワープロ打ちの、やけに機械的な字体だった。この木漏れ日を宿した温かみのある風情の喫茶店に、その掲示物はひどく不釣り合いな気がした。
「でも、ここにいないことは事実だよ」
佑はドアノブに手をかけ、力をこめてそれを動かそうとした。だが無骨な音が返ってくるだけで、そのノブが回ることはなかった。佑はここに来てから何度目かのため息をつき、そしてドアから離れた。
「鍵とか、持ってないんですか? もしかしたら帰ってきてるかも」
「それは多分、ないよ。鍵は持ってるけど、いいんだ。ただここに来て、もう1度確かめたかっただけだから」
「でも……」
「多分、連れて行かれたんだ。みんな。マスカレイダーズか、それか……怪人、に。分かってたんだ。多分そういうことなんじゃないかって。この家にもう誰も帰ってこないことくらい、分かっていた、はずなんだ」
寂寥感を言葉に滲ませる佑を前にして、レイは彼がなぜマスカレイダーズことを先ほどから気にかけていたのか、ようやくその本当の意味を理解した。
マスカレイダーズが佑のもう1つの家族を、大切な人々の身柄を確保している、そんな一縷の望みに彼は賭けたいのだと思った。それがもしただの虚しい期待に終わっても、それでも、手掛かりにはなる。何も分からず、暗中模索を余儀なくされている現状に比べれば、たとえ望まぬ結果が届く事になろうともはるかに救われるだろう。
しかし今の状況ではレイたちに彼らの安否も、そして居場所でさえも確かめる術はない。佑もそれは承知しており、それゆえに、無力を痛感しているに違いなかった。
そして怪人が悠のみならず、佑から彼にとってかけがえのない人たちを奪い去ったという事実は、レイをさらに暗澹たる気分にさせた。
「俺が戦ったせいで、この店、かなり壊しちゃったんだけど。いまは大分直ってる。マスカレイダーズがやってくれたのかな」
「多分、そうだと思いますけど……」
「だったら、ちょっとは希望が持てるかな。マスカレイダーズのところにいるなら、まぁ怪人よりはマシかなって思うんだけど」
「……そうですね」
ゴンザレスの本音を知ってしまったレイにとっては、いまやマスカレイダーズも式原たちと同様にまったく信頼の置けぬ組織へと成り下がっているのだが、確かに式原たちと比べればまだ信用には足りる気がした。
マスカレイダーズは自分たちと怪人の存在が衆目に晒されるのを何よりも嫌った。秋護らを使って、戦いの爪跡の隠ぺいに力を注いでいたくらいだ。だから、店をわざわざ元の通り補修したのも、おそらくここで起きた異変を人々に悟らせないようにするための配慮なのだろう。
だが、佑と怪人との戦いは規模が大きかったのか彼らにしては珍しく、破壊の跡を完全には隠しきれなかったようだ。
レイは背後を振り返った。道を挟んで向かい側、店とちょうどあい向かいの位置にある木々は根こそぎ倒され、その地面は広範囲に渡ってめくれ上がり、まるでそこの周囲だけ大災害に見舞われたかのような様相が露呈されていた。
レイの視線の先を佑もまた窺い、そして目を細める。再び店に向き直った時も、その表情は変わらなかった。
「なんでこの場所が怪人に狙われたのか、ずっと不思議だったんだけど、レイちゃんの話を聞いて、やっと分かった。ここは最初から、奴らに狙われてたんだな。ここは、そういう場所だったんだな」
佑の瞳が険しい色を帯びる。訂正するならば、ゴンザレスたちマスカレイダーズが狙いを定めていた華永あきらは佑の恨む怪人とは別の存在なのだが、そこを注釈したところで何が変わるとも思えなかった。レイもあきらも、大きな括りでは異形の存在である事に違いはなく、そして佑がそこに差異を見出すことは想像できなかった。佑にとって肝要であり、許容できないのは、この世界に異形が跳梁しているという事実なのだから。
「もうあいつらのせいで、滅茶苦茶だよ、全部。本当に、返して欲しいよ、みんな」
そう嘆く佑の声は切実で、その痛みが伝わるようで、レイの胸もぐっと絞めつけられるようになる。
「やっぱり……店、入ってみたらどうですか?」
レイが言うと、佑は少し目の周りを赤くしながら、こちらに首を捩った。レイは自分の胸に手を置きながら、努めて微笑みを口元に宿す。
「せっかく来たんだし。何か、新しいことが分かるかも。それに、そんなに大切な場所なんだから、やっぱりもう1度、ちゃんと見ておいた方がいいですよ。なんかうまく言葉にできなくて、すみません」
佑は唇を結んだまま黙った。レイは上目づかいに、そっと彼のそんな表情を窺う。鳥が木の上から飛び立ち、空気が震えるような音が周囲に鳴り響く。背後を通りかかる自転車をやり過ごしてから、佑は店に目をやった。
「……そうだな。せっかくだし、ちょっと、入ってみようかな」
「はい。それが、いいと思います。私はここで待ってますから」
ポケットを探り、小さな銀色の鍵を取り出す佑を見つめ、レイは今度は心から微笑んだ。佑がかつて住んでいたこの思い出の場所で、何か希望を見つけることができたらいいと願う。佑がレイのために胸を痛めてくれたのと同じように、レイも佑がちょっとでも笑えるように祈ってあげたい、そう思った。
彼に対する恐れはあるけれど、彼を騙している痛みも感じているけれど、彼のことを想っていたい気持ちもまた、レイの中では真実だった。
佑が店の中に消えると、広場にはレイ1人だけになった。振り返り、あたりを見回す。そこでふと気配を感じた。左前方のあたりだ。そこには木々に紛れるようにして植え込みが並んでいる。
誰かに見られているような、許可のない観察を受けているかのような、何とも嫌な視線が肌の上を這う。そちらに目線だけを送ると、店のすぐ隣にわだかまる植え込みがわずかに揺れたように感じた。
誰かがいる、と直感的に思った。それは怪人の反応ではなく、鋭い視線に射抜かれるような違和感だった。
「誰……?」
尋ねても、もちろん反応はない。レイは今度は目線だけなく顔ごとそちらに向けた。茂みは沈黙している。だが、そこに誰かが潜んでいるという確信だけは変わらずにあった。
「誰なの?」
レイは影を鳥の形に変えると、怪人としての本能を揺り起こしながら、植え込みに足を進めようとした。そして一歩、距離を縮めようとしたその時、茂みが大きく揺れた。
風はなかった。ただがさがさと大きな音をたてて葉が擦れあい、それから植え込みが根元ごと左に大きく傾いた。
その時、レイは植え込みの上に過る白い影を見た。それは小動物のような形を成していた。その影が木々の暗がりを貫き、通り過ぎたあとに鮮血が舞った。どさりと、質量のある何かが地面に落ちる音がする。レイは数秒黙りこみ、今目の前で起きたことを頭の中ですばやく整理してから、植え込みに近づいた。
恐る恐る、しかし躊躇する間も惜しんで、植え込みを上から覗きこむ。そしてレイは小さく目を見開いた。
「なにこれ……」
思わず声が漏れ出る。吐き気がこみあげ、思わず両手で口を塞いだ。
覗きこんだ植え込みの向こうに、首のない人間の体が2つ転がっていた。
どれもまた千切りとられた切断面から生々しく、おびただしい量の血液が流れ出している。どの体も高価そうなスーツを着込んでいた。2つの死体は頭部を失っているにも関わらず、まるで生にしがみつくかのように、胴体をびくりびくりと痙攣させている。
体型などから予測するに、2人とも性別は男らしかった。逆にいえば、首から上を略奪された彼らから性別を知る方法はそれ以外になかった。寸断されたすぐ真下に残された彼らの首筋には、人間の目を象ったタトゥーが彫り込まれている。その目は真紅の液体で染まり上がっていた。
レイはこの凄惨たる光景を前に、ただただ、絶句する。
彼らの首は一瞬で捩じり切られている。およそ人間業ではなかった。レイは先ほど見た、この植え込みの真上を横切っていた白い影を思い出す。おそらくこの惨状は、あの影の仕業だろう。そしてレイはその影の形に、自分の知己するあるものを連想していた。
あれは、まさか。
その時、レイの思考を遮るかのようにまた白い影が左の方から過った。その小柄な、獣の形をした何かはその両腕で素早く男2人の足を掴むと、ずるずると林の奥に引きずり始めた。凄まじいスピードだ。レイは身を凍らされたような思いで、思考も意識も追いつかず、その光景をじっと眺めているしかない。
その小柄な獣は両腕に男を抱えたまま一度だけレイを振り返った。日陰だったのでその相貌は薄ぼんやりとしていたが、確かにそれはレイを見つめ、そして――笑いかけてきた。
レイが呪縛から解かれたのは、その白い獣も、2人の男の死体もすでにどこかへ行ってしまった後だった。レイはふらふらと後ずさり、『しろうま』の壁に背を預けた。
そんなわけはない、と心の中の自分が懸命に否定している。だがそれを上手く呑み込む事ができない。あの白い影。2人の男を殺し、その死体を持ち去った、あの小動物然とした輪郭。大きな耳、前に突き出した鼻。そして、そのつぶらな瞳に、レイは確かに見覚えがあった。
そんなわけはない。しかし、あれは。
「まさか、ディッキーなの……?」
声に出すと、さらにその確信はレイの中で強まった。だがディッキーはレイを庇って死んだはずだ。そして、たとえ生きていたとしても、人間の首をねじ切るような、そんな残酷な事をするはずがない。それを分かっていても、それでもレイはあの白皙の影に自分の愛する、今は亡き息子の姿を重ねずにはいられなかった。
鎧の話 35
柳川の遺したレシートが発行されたであろうコンビニには、歩いて10分足らずで到着した。駐車場のない、国道に面した店だった。雑踏の中に気配を探るが、怪人の気配はない。これほど人通りが激しく、賑やかな場所では怪人もそう簡単に姿を見せられないだろう。日中、人ごみの中にいる限りは、怪人に狙われる心配はなさそうだった。
店に向かう途中で靴屋に寄り、サンダルを購入して、片方だけの靴はゴミ箱に捨てた。ついでに帽子も買っておいた。その場しのぎにしかならないかもしれないが、怪人に顔が割れている以上、素性を隠すに越したことはないと判断したからだった。だから直也はキャップを、ライは麦わら帽子を選んで、被っている。日除けにもなり、一石二鳥だ。
コンビニの中はよく冷えていた。それほど広くはないスペースの中に、2、3 人の客の姿が見受けられる。本の品出しをしている、この店のアルバイトであろう少女がこちらを見て、いらっしゃいませ、と笑顔を振りまく。続けてレジの内側に立つ中年の男も、同様に朗らかな挨拶をしてくれる。直也はおそらく店長であろうその男に会釈を返した。
「おい、なんか好きなもん買ってやるから。選んでこいよ」
自動ドアの前で棒立ちになり、きょろきょろと店内を見回すライに、直也は声をかけた。要領の得ないような表情を浮かべるライに直也は眉を上げた。
「聞くだけ聞いて、何も買わないで出るわけにもいかないだろ。俺は生憎、それほど欲しいもんはないから。菓子の一個や二個くらいなら、買ってやるよ」
直也がそう提案すると、ライは目を輝かせた。その表情からはまったく緊張感を窺うことができず、直也は肩を落とす。
「いいの? じゃあちょっと探してくるけど」
「あぁ、そのうちに俺は聞きこみしとくよ。その代わり千円以内に抑えろよ。いいか?」
分かったよ、とぞんざいな口調で言い、ライは店の奥へと大股で進んでいく。彼女の後姿を見送り、直也はレジに客が立っていることを確認すると、雑誌コーナーの方に足を向けた。
「なぁ、ちょっといいかな?」
直也は雑誌コーナーにいる女性アルバイトに声をかけた。あきらと同じ年くらいの少女の顔がこちらを振り返る。鼻が大きく、目が細い。美人とはいえないが、その笑顔は明るく、気だてのよさそうな雰囲気を纏っていた。
「はい、どういたしましたか?」
屈めていた腰を起こし、少女は頬にえくぼを作る。直也は尻のポケットに手を入れ、中のレシートを握りしめながら尋ねた。
「今日の朝なんだけど、君はこの店にいたかな?」
少女は直也の質問に不思議そうな表情を浮かべた。それから店の時計に目をやり、申し訳なさそうに眉を曲げる。
「すみません。私はさっき来たばっかりなので……あの、なにか店の者にご用事でしょうか?」
「いや。ちょっとその時間帯にこの店に来た人を探してて。柳川健悟さんっていうんだけど、知ってる?」
柳川の名前を出すと、不審げな色を纏っていた彼女の顔がパッと明るいものになった。
「あ、柳川さんのお知り合いですか」と声を高くする。どうやら知り合いらしい。直也は勘が的中したことに心の中で快哉を叫んだ。
「警察の、ですよね。いつもうちの店に来てくれるんですよ」
店長、と少女がレジの向こうで揚げ物を調理している男に呼びかけた。その男がこのコンビニの店長らしい。店長はこちらを見て目を丸くすると、レジ台を迂回し、こちらにやってきた。かしこまった態度で直也と少女を見比べる店長に、少女はいきさつを簡単に説明する。
「あぁ、柳川さんですか」
痩身の男は眼鏡を指で押しあげながら、直也の方に向き直る。胸には少女が呼んだ名の通り、『店長』と書かれたネームプレートが提げてあった。
「確かに今日の朝はいらっしゃいましたよ。仕事のある日は毎日ですね。家が近所なんですよ、柳川さん」
なるほどな、と直也は納得した。だからこそ、柳川はこの店のレシートをポケットから探り出したのだろう。ここが彼にとって行きずりの店ではなく、馴染みの深い場所であるという事実が、やはり柳川は直也に何かを託したくてレシートを残したのだということを確信させた。
直也は尻のポケットから財布を取り出すと、そこから名刺を抜いた。店長に手渡す。少女がその脇から、名刺を覗きこむようにした。そして2人とも目を瞠り、それから直也を見た。
「なるほど、興信所の方ですか」
「俗にいうところの探偵ってやつです。まぁ、漫画の世界みたいに恰好よくはいかないですけど」
直也は簡潔な自己紹介を告げると、それからいきなり本題を切りだした。
「柳川さんには仕事で色々お世話になっていまして、今回もその馴染みでちょっとした相談事をされたんです。でもそれから柳川さん、忙しくなっちゃったみたいで、なかなかまとまった時間をとれなくて」
フィクションの世界ならまだしも、探偵と警察が関係を密にし、1つの事件の解決を図るというのはあまり現実的ではないが、一般の人々に説明をするのにはそのくらいオーバーなほうが逆に信憑性を生むような気がした。探偵という言葉の響きに、ほとんどの人が持っているイメージが、フィクションのそれだろうからだ。
直也は淀みなく2人に事情を説明しながら、頭をフル回転させ、次の言葉を捻りだす。柳川が死んでいて、自分はその死体をも発見しているという事実を、今ここでは伏せなければならない。あまり事態を混乱させたくはなかった。事実の一部を隠蔽しながら、いかに不自然のない説明をするか。嘘の吐き方に細心の注意を払う。
「それで今日少しだけ話をしたら、このあたりのコンビニの店長に少し打ち明けておいたから、概要だけでも知っているかもしれない、みたいなこと言われたんです。まぁ、正直眉つばものですし、もっとちゃんと時間がとれたら、柳川さんに聞きなおそうと思っているんですけど
「ははぁ」
すみません、とレジの方から男性の声が聞こえた。Tシャツ姿の若者が、レジ台の上に籠を置き、こちらを振り返っている。アルバイトの少女は直也の話に興味があるような態度をみせながらも、明るく返事をし、レジの方に駆けだしていった。
「でもひょっとしたら何か話してなかったかな、って思いまして。どんな小さなことでも構わないんですけど」
いかがでしょう、と直也は男に尋ねた。いかがでしょう、と言われても、とでも言いたげな顔をして男は鼻白む。名刺と直也とを交互に見比べるようにしている。
「確かにこの時間、レジを打ちながら一言二言会話はしましたけどね。世間話でしたよ。当たり触りのない」
「別に今日じゃなくてもいいんです。ここ一週間くらいの……こんなような事件を追ってる、とか、こんなようなことに関わって、とか」
「そう言われてもね……」
男は腕を組み、首を傾げる。悩んでいる様子だ。この調子だと本当に記憶にない可能性が高かった。まさかここで行き止まりか、と直也は暗澹たる気分になる。結局、柳川が死に際に何を伝えたかったのか分からなかった。それとも初めから、直也の解き間違いだったのだろうか。ダイニングメッセ―ジなどではなく、レシートを握っていた意味は他にあったのではないだろうか。
思い悩む男の前で、直也もまた考えを募らせる。その時、直也は背中に固いものがあたる感触を覚え、振り返った。
「おい、おっさん。これでいい?」
視線の先に買い物籠の角を直也の腰あたりにぶつける、ライの姿があった。プラスチック製の籠の中には、アニメの絵が描かれたウェハースチョコらしきお菓子が大量に積まれている。文字通り、山のようだった。
「おい、それで千円か?」
「がってん! 半額セールやってたから、買い占めた」
「マジかよ」
疑いをこめてライの得意げな顔を見やり、それから確認の意をこめて男に視線を転じる。男は腕組を解き、苦笑を浮かべながら「本当ですよ。在庫処分セールの対象です」と言った。
「ほらな、これでギリギリ1800円なんだぜ! どうだおっさん、参ったか!」
「待て、全然ギリギリじゃねぇ! 軽く予算オーバーじゃねぇか! お前の頭は何進法だ!」
直也はその山盛りのお菓子を見下ろし、ただただ脱力感に襲われる。
しかし寝込んでいる間、ライに身の回りの世話をしてもらった以上、あまり彼女の要求を無下にすることは憚られた。直也はしばし立ちつくしたあとで観念し、がっくりと肩を落とした。直也が抵抗できないことを分かっていてやっているなら、彼女はとんだ策士だ。
直也はため息をつくと、財布を取り出し、そこからなけなしの金を取り出した。千円札が2枚、ちょうどあった。
「ありがと。あ、お菓子はおっさんにあげるよ。私はシール担当だから」
「別にシールに興味はないけど、なんかすごく不公平なものを感じる」
直也の手から金を受け取り、レジに向かうライとほとんど入れ違いに、アルバイトの少女がこちらに近づいてくるのが見えた。レジ台の上に乱暴に籠を置くライを背後に気にしながらも、少女はいまだ頭を捻っている店長の脇に立った。
「店長。そういえば最近、柳川さん、田辺さんのことを凄く気にしてましたよね。私もちょっと怪しいなぁって思ってたんですけど」
男は少女を肩越しに振りかえり、戸惑いを形相に宿した。直也はそれを見逃さなかった。少女はまだ何か言いたげではあったが、レジのほうで「ヘイ、カモン! ヘイカモンレジ!」と騒ぎ立てるライに辟易して、レジの方に再び引き返していった。気づけば、直也たち以外に客の姿はなくなっていた。
「田辺さんっていうのは?」
少女が口にした人名を、直也は男に素早く尋ねる。男はちらと店の外を見るようにし、それから観念したように頷いた。
「この辺りに住んでる独居老人です。今年で81になるんだっけかな。去年傘寿を迎えたって言ってたから。柳川さんはね、結構面倒見がいいんで、地域の人たちにうけがいいんですよ。田辺さんもその1人で、新米時代から付き合いがあるそうですよ」
そうなのか、と柳川の人柄を思い出し、納得をすると同時に、多くの人々から熱い信頼を受けていたその警官はもうこの世にいないのだという事実が改めて心に沁みた。ライの言葉を借りる形にはなるが、本当に心の底から残念だと思う。
「その田辺さんはね、結構厳格な人で、私も店のことでしょっちゅう怒られてるんですけど、柳川さんには心を許していてね。柳川さんもそれを分かってるから、結構ちょくちょく家に行くようなんですよ。老人の1人暮らしは何があってもおかしくないですから。警察として地域住民を守る使命、みたいなのも感じていたんでしょうね」
「まぁ、確かに悪い事じゃないし、別にそういう関係ならちょくちょく家に窺う事に不自然さはないですけど。でも、それのどこが変な話だっていうんです? 俺には単なる美談に聞こえますけど」
レジ台を介してライと向きあい、やり取りをしているアルバイトの少女は田辺老人への柳川の気遣いに対し、怪しい、という言葉を使っていた。男の話を聞くに、どうも彼女の発したその言葉は似合わないような気がする。
男は一瞬、迷うような挙動をみせたあとで、胸に抱えていたわだかまりを吐き出すように、直也の顔を見て言った。
「一昨日だったかな。久々にその田辺さんが店にいらっしゃったんですけど、何というかね。非常に、明るかったんですよ」
「明るかった?」
「ただ明るいだけならいいんですけど、気分が昂揚してる、といいましょうか。田辺さんっていうのはさっきも言ったようにとにかく厳格な人でしたから、少しでも何かが気に入らないと怒鳴り散らすような、そんな人だったんですけど。この前見たあの人は、とにかく人が変わったように浮足立っててね。お客さんにこんなこというのは失礼ですけど、少し、気味が悪いくらいだったんですよ。私やアルバイトの彼女も、どうしたんだろう、って心配をするくらいに」
直也は顎を撫でつけた。堅物なことで有名な老人の突然の豹変。それは確かに異変、と言うべきことのかもしれないし、不審に値するものなのかもしれない。だが、直也にはそれらと黒い鳥の痣との関係性がまったく見出せなかった。
「柳川さんも、それを気にかけてた?」
「はい。今日もちらっとだけ、その話をしましたねそういえば。田辺さんはどうしちゃったのかねぇ、って訊くと、気の迷いだからすぐに戻るだろう。あんたもしばらくは叱られずに済みそうで良かったじゃないか、って笑いながら言ったりしてましたしね。最近はあの人のことを、それまでより余計に気にしているみたいでしたよ。しかも田辺さん、妙なことも言ってましたしね」
「妙なこと?」
直也は男の言葉の切れ端を掴み、眉根を寄せた。店長はえぇ、と頷く。
「人は生き返る。また俺はあいつらと会える。一緒に旅行に行くんだ――そんなことをおっしゃってたんです。すごく陽気な感じで」
人は生き返る。
その言葉に直也は、不思議な感触を覚えた。何か踏み入ってはならない領域に忍び込んでしまったかのような、怖気を伴う違和感。真っ先に頭に浮かんだのは、死体を怪人に変える白衣の男の姿。そして鉈橋そらと同じ顔をした、あのペンギンの怪人の姿だった。
「……あいつら、っていうのは?」
その不穏な感覚を顔に出さぬよう努めながら、直也はさらに尋ねた。店長は沈鬱な表情を浮かべると、周囲を気にしてから、直也の耳に口を寄せた。
「実はね、1週間くらい前に田辺さんは身内を亡くしているんですよ。私も少ししてから知ったんですけどね。田辺さんはさっき言ったような性格ですから、家族にも結構厳しくあたっていたらしくて、それでみんな田辺さんを置いて、田舎にひっこんでたんですよ。息子の嫁のほうの実家って言ってたかな。奥さんも4、5年前に亡くしてね。それでもって息子夫婦とも折り合いが悪いもんだから、田辺さんは一人ぼっちだったんです。まぁ、嫌っていたのは息子夫婦の側だけで、田辺さん自身はそれほど目の敵にしていたわけではないんですけどね。正月とかに息子たちが挨拶に来た時なんかは、なんだかんだ言いながらも嬉しそうだったし、孫も可愛がってましたから」
「その状況で、さらに身内を失ったってわけですか。亡くなったのは、息子ですか? それとも孫?」
どちらにしても悲劇には違いない。齢80超えた自らよりも、ずっと年下の家族に先立たれてしまった孤独な老人の事を思うと、それだけで胸が痛んだ。そしてその事象を加味したうえで、先ほど聞いた最近の田辺老人の様子や言動を思い出してみると、確かにそれは異常と呼ぶにふさわしかった。
“人は生き返る”
だが、男から返ってきた言葉は、さらに直也の不審を膨張させた。
「いえ」 男はかぶりを振った。それから暗澹としたものを含んだ眼差しで直也を捉え、指で4の数字を表した。「全員です」
直也は目を瞠った。男は苦痛なものを喉奥から捻りだすようにして、顔を歪めた。その表情は、今にも泣き出しそうだった。
「息子夫婦の家が火事で燃えて。原因は煙草らしいんですけど、孫2人も巻き込まれちゃって。だから全員です。田辺さんの家族は、一晩で、全員亡くなってしまわれたんですよ」
魔物の話 45
『しろうま』から歩いて駅に戻り、電車に乗って、しばらく沈黙の時を過ごした。佑と2人で車両に揺られている時間がひたすらに長く感じた。佑からいくつか話しかけられ、レイもその度応じたものの、正直、自分がどんな返答をしたのか、まるで記憶にない。彼が白い紙袋を片手に持っていたことが、なぜか鮮明に脳裏を過る。
先ほどの一件については、佑に話していない。話題に出したとしても死体も小動物の影もすでにない以上、どうにもならないだろうと判断した。それに、あの白い影のことを話せばまた佑が興奮し、憎しみの顔に戻るのは目に見えていた。
あの殺された男たちは何者だったのだろうと考えを巡らす。レイを見張っていた以上、ただの通りすがりとは思えなかった。だが、なぜ彼らが殺されたのかもレイには見当もつかない。
レイはあの小動物の影を、自分でも分からぬうちにディッキーと重ねていた。ディッキーはすでにこの世にいないのだということは、当然承知している。しかしそれでも、あのシルエットは自分の愛する息子にしか思えなかった。確信もなく口で説明できる要素を持ち合わせてはいないが、言うなれば、レイの心にある母親としての誇りがそれを告げていた。
だが、あらゆる意味でそれはあり得ないことも、レイの冷静な頭は理解している。しかしそれを分かっているからこそ、レイは尚更に悩んでいた。事実でないのであれば、この頭に浮かぶ確証はどこからやってくるものなのか、どうにも判断がつかない。それは希望的観測だとか、予感だとか、そういった生易しいものではなく、もっと捉える形のある、絶対的なものとしてレイの心中に君臨していた。なぜそこまで、自分があの影をディッキーだと確信できるのか、それが分からない。
愛する息子の面影を持つあの影が、佑の討伐対象に加えられてしまうことをレイは恐れた。あの白い家での怪人のように、佑によってディッキーが腕を切断され、両足をちぎられることを想像すると、それだけで身を切られるような思いになる。
そんなことをずっと電車の中にいる間も考えていたので、佑の言葉への返答も全ておざなりになっていた。茫然と、まるで現実感を欠いた空間の中を漂っていた気分だ。
だから電車から降りて駅のホームに足を着け、階段を昇り、改札をくぐろうとした時も、佑の声にまるで気がつかなかった。
改札を抜ける寸前でハッとなり、立ち止まり、振り返ると、紙袋を肩に担ぐようにしながら、柱に寄りかかってこちらを見ている佑の姿があった。物思いにふけっていたせいで周囲を気にする余裕もなく、1人、先走ってしまったことを今更ながらに気付いた。彼のところまで慌てて駆け戻る。軽く謝罪をしてから、雑踏の中で向き合った。佑は少しの間だけレイから視線を外し、口をもごもごとさせてから、視線を戻して、ようやく言った。
「もしかしてレイちゃん、怒ってる?」
彼の口から発せられたあまりに意外な言葉に、レイは瞠目し、その後で首を傾げた。
「だってさっきから怖い顔、してるからさ。ずっと目を合わせてくれないし。なんかいつもより、よそよそしいし。無理やり引っ張っていったのに結局、あの家で有益なことはそんなになかったから、怒ってるんじゃないかって」
佑は憂鬱を滲ませ、俯く。レイは小さく縮こまった彼の体を見つめ、何度か瞬いた。
「別にそういうわけじゃないです。あの場所教えてくれたことも感謝してます。ただ……」
怪人を八つ裂きにし、乾いた笑みを浮かべていたあの姿。何度も怪人に執拗に剣を突き立て、飛び散った肉を被っていたあの後姿を、レイは忘れられない。恐怖として心に深く刻み込まれてしまっている。いつか自分も佑に刃を向けられるのではということが、それがいつか現実になるだろうということが、恐ろしくてしかたがない。
怪人を倒さなければ、という彼の言い分は理解できる。怪人たちによって悠を狙われ、彼の大切な場所も破壊された。佑にとっては絶対に許すことなどできない、斟酌の余地もない存在であることは承知している。現に怪人たちは式原に命じられるがままに人間を襲い、多くの命を打ち捨てている。その行いは間違いなく悪で、この世から淘汰されるべきものだろう。怪人は間違いなく、人類にとっては敵に値する存在だ。
しかしそれでも、レイはあのフェンリルによって屠られた怪人の悲しげな眼差しが忘れられない。一瞬でも佑の行いを非道だと思ってしまったのはおそらくレイ自身もまた怪人だからだ。人間とは違う。レイは怪人を憎みきれずにいる。“最高の怪人”という称号をこの身に刻まれている限り、レイにはその感情が付き纏い続ける。
どれほど一緒にいても、どんなに彼のことを想っても、レイが怪人で、佑が人間であるという種族の壁が間に立ちはだかる以上、互いの心を通わすことなどできるはずがない。レイが怪人であることを知れば、佑のレイを見る目も一変するに違いない。
だが、レイはほんの少しだけ佑との間に見える、小さな光に思いを託したかった。悠の病室で約束を交わしたこと、白い家の前でレイを気遣ってくれたこと、レイのために本気でマスカレイダーズに憤慨してくれたこと。彼からもらったたくさんの優しい気持ちを、レイは信じたい。価値観も考え方も種族も違うけれど、その壁を乗り越える奇跡が、起こって欲しい。それを願う。
「お兄さん」
雑踏の中で佑と向き合いながら、レイは彼の名を呼んだ。佑はレイをその大きな目で見つめてくる。レイはほんの少しだけ迷ったあと、結局、その問いを口に出した。
「もし、もしもですけど。私がお兄さんに大きな嘘をついていて、それがお兄さんを苦しめることになっていたとしても、それでもその時、許してくれますか?」
レイは言い終えると同時に、目を逸らした。彼の顔を、その答えが紡がれる口を恐ろしくて見ていられなかった。言葉を口に出したその瞬間から、レイはなぜ、こんなことを訊いてしまったのだろうと後悔を始めていた。
「許すよ」
だが、予想に反して、佑はそう短く言った。それは柔らかく、透明感を抱いて、レイの心にしんと沁み渡った。レイは弾かれるように顔をあげる。そこには殊勝な顔でこちらを見つめる、佑の力強い瞳があった。
「だってその嘘は、多分、俺のことを考えて、俺のためを思ってついてくれた嘘だと思うから。レイちゃんは、人の事を傷つける嘘はつかないよ。悠のことほどじゃないけど、俺だって、そのくらいはレイちゃんのことを知ってるから」
そう、真剣に言葉を辿る佑に、レイは見惚れた。彼の言った一字一句が胸に沈み、泡を浮かばせながら心に浸透していくようだった。佑は照れたように笑ってレイから目を逸らし、背を向けた。「とにかく、じゃあ、ちゃっちゃっといこうぜ!」と、気恥かしい気持ちを吹き飛ばすような大声で宣言し、改札に足を向ける。
彼の声を聞いても、レイはまだしばらく、ぼうとしていた。聴覚は意味をなくし、またこの喧噪にも関わらず、レイの目は佑以外のものを捉えようとしなかった。意味もなく胸がカッと熱くなる。佑に抱いていた恐怖が、少しだけ遠ざかっていった。成り代わるようにして、空いた心のすき間に安堵が流れ込む。
レイちゃん、と佑が名前を呼ぶ声がようやく耳に届いたのは、それから30秒ほど経過した後のことだった。レイは身を震わすと、改札口の横に避けてこちらに苦笑を向けている佑のもとに慌てて駆けた。
やはり尋ねて良かった、と彼の背後にぴたりとくっつき、切符を改札に通しながらレイは思う。彼がはっきりと口にしてくれたその言葉で、どれほどの安堵を得る事ができたのか分からないくらいだった。
もちろん、それは何も知らないからこそ言い放つことのできたセリフだったのかもしれないし、レイが怪人と知った瞬間、その主張は泡になって消え去ってしまうくらいに確証のないものなのかもしれない。実際、彼がどんな行動に出るのかは、その時になってみなければ分かるものではない。
しかし、今はそれでも嬉しかった。少なくとも佑はレイを見てくれている。信じてくれている。それが分かっただけで、希望を持てる気がした。
まだ不安は尽きず、未来が恐ろしくて仕方ないけれど、胸の重みが少しだけ消え去ってくれたような、そんな爽快な気分をレイは久々に手に入れることができた。
駅から出て、バイオリン教室のあるビルの前に行くと、すでに悠は待っていた。レイと佑の姿を見つけ、大きく手を振ってくる。やはり悠は可愛いな、とレイは浮かれた気分に引きずられるようにして思った。
悠の背後には、背の高い女性が立っていた。ひどく痩せていて、まるでつまようじのようだ。髪の色は茶というよりも赤に近く、それはレイの頭にテレビで見たロックバンドのメンバーを思い出させた。その手首には小さな白い花の着いたアクセサリーをくぐらせていた。その体から漂うのは、戸惑うほど強く、しかし柔らかな桃の香り。どうやら香水を撒いているようだ。悠からも同じ匂いがするのは、気のせいだろうか。
その女性に佑は恭しく頭を下げる。どうやらこの女性こそが、バイオリン教室の先生らしい。ふっくらとした頬を弛ませるその表情は何とも優しげで、レイは安心した。
「すみませんねぇ、遅くなっちゃって。悠ちゃんがどうしても練習をしたいっていうもんですから」
「いえいえ。悠は、どうですか? ちゃんと、やれてます?」
佑が怖々といった風に尋ねると、女性は掌を叩き合わせ、よく通る声を空に吐き出した。
「それはもう! 上達が早くて、こちらが参っちゃうくらいですよぉ。お兄さんと同じで、才能があるのかしらねぇ」
一緒に照れる悠と佑を遠目に見つめながら、その微笑ましさにレイもまた気分が弾む。悠も楽しくやっているようで、何よりだ。いい先生に巡り合えて本当に良かったとレイは自分のように思った。
レイは悠の手に透明のビニール袋が握られていることに気付いた。その視線に気づいたのか、悠はビニール袋を持ち上げるようにして、恥ずかしそうに笑った。
「これ、先生が作ったやつなの。ちょっと、練習中に食べすぎちゃって……いま、お腹いっぱいなの」
鎧の話 36
直也は大きなコンビニのビニール袋を腕に提げたライを従え、田辺老人の家に向かった。
老人の家は店長の話していた通り、コンビニからそう離れてはいなかった。傘寿を迎えた人間でも徒歩で行き着く事ができる距離だ。直也はブロック塀に組み込まれた表札を確認し、それから開け放したままの門をくぐって敷地内に足を進めた。
門の向こうにあったのは鬱蒼と植物の生い茂る、どこか薄暗い空間だった。松を初めとして、直也が名前の知らないような木までもが左右にぎっしりと敷き詰められ、アプローチは人が2人並んで通るのがやっとなくらいに狭い。
等間隔に敷かれた飛び石の上を歩き、玄関の前に立った。傍らには寂れた犬小屋が置かれていたが、中を覗きこんでもそこに犬の姿は見受けられなかった。地面に垂れた鎖が、まるで干からびた毛虫のようにくしゃくしゃになって丸まっている。餌皿には砂が被り、蟻が這いまわっていた。
田辺家は見るからに古びた、木造の二階建てだった。何百年も前からこの地に鎮座し続けているかのような、落ち着いた厳かさがある。その分、壁や柱も脆く、いつ倒壊してもおかしくはなさそうだった。
直也は隣に立つライに目線を向けてからチャイムを押した。だが、指先に返ってきたのが、何とも頼りない触感だったので直也は眉間に皺を寄せた。
手ごたえがないとでも言うべきか。試しにもう1度押してみるが、かすっ、と空気の抜けるような音がするだけで、何の反応もなかった。家の中に音が鳴り響いた様子もなく、このチャイムは外装だけを保ち、その実は壊れたまま放置されているらしかった。
何度か押してみるが、結果は同じだった。舌打ちをし、眉を顰める直也を見て、ライは頭の後ろで手を組みながら悪態をつく。
「古臭い家だなー。チャイムくらい直せよな。みんなが困るじゃないか」
「人の家の文句垂れるなよ。ここの爺さん、相当怖いらしいぜ。叱られないようにちゃんとしろよ。お前、ただでさえ礼儀をしらねぇんだから」
「バカいうなよ。うちの父さんより恐ろしい人が、この世にいるわけないだろ」
「それは言えてるけど、ただお前の親父は、ここの爺さんとは別の意味で恐ろしいだけだ」
直也は玄関扉に向き直ると、その戸を手の甲で叩いた。曇りガラスで覆われた扉の表面が揺すられ、けたたましい音をたてて震える。
「すみません、いらっしゃいますか」
さらに大声で呼びかける。静かな夏の午後である。直也の声は町の中にしんと沁み渡った。声が反響を止めると、また静寂に取り残される。蝉の声が遠い。頭上で旅客機のエンジン音が膨らんだ。
しかし何度声を張り上げようとも、家の中に気配が灯ることはなかった。直也はわずかに赤みを帯び拳を爪で掻き、それからドアに手をかけた。まさか、と半信半疑でそのドアを引いてみると、呆気なく横に動いたので拍子抜けする。
「開いた……」
直也は人が1人入れるくらいまでドアを開けると、家の中を覗きこんだ。古めかしい外見とは裏腹に玄関は綺麗に掃除されていた。たたきにはスニーカーとサンダルが一足ずつ置かれている。「こんにちは」と声を張り上げながら、直也は家の中に足を踏み入れた。
「随分、不用心だな。泥棒が怖くないのかな」
心なしか、後に続くライは声を顰めている。直也は背後の彼女を一瞥すると、それからもう1度「すみません」と声をかけた。
自分の声が室内に白々しく反響していくのを耳にしながら、直也はふと靴箱の方に目をやった。靴箱の上にはレース調のマットが敷かれ、そこに黄色い花の生けられた花瓶と3体のこけしが並んでいる。
その隣にA4サイズの封筒があった。色は青で、封が切れている。その隙間からカラー印刷のされた紙が覗いている。
直也は少しだけ躊躇を覚えたあとで、その封筒に手を伸ばした。目を丸くするライを傍目に、封筒の中に指を突き入れ、中を覗き見る。
そして直也は息を呑んだ。コンビニの店長の言葉が脳裏に蘇る。
――人は生き返る。また俺はあいつらと会える。一緒に旅行に行くんだ。そんなことをおっしゃっていたんです。すごく陽気な感じで。
封筒の中に入っていたのは、旅行会社のパンフレットだった。さらに中には白く横に長い封筒も同封されており、そこにはチケットが5枚入っていた。今から1週間後の出発になっている。
――息子夫婦の家が火事で燃えて。原因は煙草らしいんですけど、孫2人も巻き込まれちゃって。だから全員です。田辺さんの家族は、一晩で、全員亡くなってしまわれたんですよ。
店長の話はおそらく確かだろう。この家に住まう老人の家族は少し前に亡くなっている。それなのに老人は旅行の計画を立てている。すでに旅行会社にも連絡をし、チケットさえ入手している。しかもその枚数は、死んだ4人と老人自身を含めた人数と合致していた。
「これ、旅行? 爺さん、誰と行くつもりなんだよ。家族、いないのに」
ライが不安げに尋ねてくる。コンビニで得た話はライにも掻い摘んで話してあった。問いを直也に投げるまでもなく、彼女自身、その答えに気付いているに違いない。
ちりんと、どこかで風鈴が鳴った。直也は背筋に寒気を覚えて、その青い封筒を下駄箱の上に戻した。
「誰だ? こんな昼間に騒々しい」
廊下をひたひたと歩く音が聞こえ、家の奥から人影が現れた。直也は一歩後ろに下がり、玄関に現れたその人物と正面から対峙した。
「見ない顔だが、何かの勧誘かな? うちに来るとは、いい根性してるじゃないか。あぁ?」
そう低い声で直也を睨んだのは、頭の禿げあがった老人だった。間違いなくこの男が、コンビニの店長が言っていた田辺だろうと一目で分かった。
額に刻まれた太い皺。ごつい顔つき。目はぎらつき、鼻の下に生やした白い髭は不遜な印象を与える。見るからに短気そうな顔つきをしていた。若い頃はさぞかしいい男だったに違いない。田辺は年に合わずポロシャツにだぶだぶのスウェットを履いているというスタイルだったが、それがまた柄の悪そうな風貌によく似合っていた。
田辺は来客者を見渡すようにすると、不審げに目を眇めた。ライは体をびくりと引き攣らせ、そそくさと直也の背中に隠れた。
「子連れとは、最近は業者も色々な手を使うようになってきたな」
ぴくりとも顔を動かすことなく、田辺は廊下に唾を吐く。慄き、直也の背中を掴むライに瞥をくれてから、直也は帽子を頭から取り去り、男の迫力に呑まれないように緊張しつつ足を一歩、前に踏み出した。
「突然すみません。でも俺たちは勧誘じゃないです」
コンビニの時と同じように、財布から出した名刺を田辺にも渡す。田辺は名刺をちらりとだけ見ただけで、直也に突き返してきた。胸を軽く押され、直也は戸惑いながらもそれを受け取るほかない。
「興信所の奴が一体何の用だ。俺には何も話すことなどないがね」
田辺はふん、といかにも不機嫌そうに鼻を鳴らす。
おい、全然明るくないじゃないか! と耳元で囁く声がする。ライだ。確かに柳川やあのコンビニの店員が危惧していたような陽気さは田辺にはない。むしろ厳格な印象の方が、今の彼には色濃いように思えた。油断すれば怒鳴り散らされそうだ。
だが、店員たちがいつも通りと評する田辺の調子も、直也の目には違和感として映った。田辺の様子からは家族や親しい者を失ったことに対する悲観的なものが、欠片もみられなかった。田辺は初体面の直也にもそう思わせるほど、あまりにも平静すぎた。言葉を変えれば、状況にふさわしい感情が伴っていないような気がしてならなかった。そしてそれを直也はとても不気味に感じる。
彼の表情から時折かいま見ることのできる影は、子どもを巻き込んでの自殺を図った息子夫婦への怒りや、そうまでさせるまでなぜ自分が気付けなかったのだろうという後悔、自分に断りもなく死んでいった憎しみ、そして全てを失った悲しみ――そういった、有体な種類のものでは、けしてなかった。
直也は田辺を注意深く観察する。柳川は彼のその影に違和感を嗅ぎ取ったのかもしれない。ならば直也もまた、正体を見定める必要があった。
「柳川さんって方、ご存知ですよね? 柳川健悟さんです」
柳川の名前を出すと、田辺はじとりと直也を睨みつけるようにした。
「知ってるよ。柳川の坊主とは、長年の付き合いだ。一昨日あたりにもうちに来たっけな」
「その柳川さんが、俺にある相談事をしてきまして。……これ、知ってますか?」
直也はポケットに折り畳んであったリーフレットを開き、田辺に差し出した。黒い鳥が中央に描かれ、『LILY BONE』という英単語の添えられたあの紙だ。
その紙を提示した次の瞬間、直也の手からそれは消えた。2度3度瞬きをし、それから慌てて顔をあげると、リーフレットを片手に握りしめ、口元を固く結んだ田辺の姿があった。
「おい、ちょっとそれ」
「なるほど。柳川の坊主が持っていたのか」
ぐしゃり、と田辺はその老人らしからぬ岩のような拳でリーフレットを握りつぶした。その目が完全に据わっているのを見て、直也はぞくりと、爬虫類に首筋を舐められたような気分を味わう。先ほどとは色の異なる威圧感が、直也を重苦しく取り囲む。
「好奇心か、それとも警察としての勘か……どちらにせよ、本当に馬鹿なことをしてくれた」
田辺は独りごち、それから直也とライの方にぎょろりと目を向けるといきなり前に飛び出し、裸足でたたきに降りてきた。ぎょっとした直也が身を退ける間もなく、田辺は直也の体を後ろに押しやった。直也の背後にいたライも一緒になって、力ずくで玄関のドアから外へと弾きだされる。
「届けてくれたことには感謝をする。だが、もう関わらないことだ」
ドアを片手で掴みながら、田辺は間近で直也を睨む。直也は蒸し暑い空気の中で怯んだ。
「うちにきた、あの男はこう言った。“盗人は許されない”」
にぃっ、と田辺の口元が可笑しげに歪む。その表情は明らかに正気を欠いていた。ライが殊更強く、ぎゅっと直也の背中を掴む。シャツ越しに彼女の手の中の汗の感触が伝わってくる。
「全ての人間にはそれぞれ役割がある。盗人を捌くのは妹の役目だと。デベスクリームの役目だと」
デベスクリーム。その言葉は、直也の耳には何らかの複雑な用語のように聞こえた。リリィ・ボーンと同じく全く聞き覚えのない単語に、直也は困惑する。田辺は表情から急に笑みを消し、真顔になって言った。
「せいぜい気を付けるんだな。俺が言えるのは、それだけだ。柳川の坊主にも忠告しておけ」
「……その紙は、あんたのものなのか? あんたはどこでそれを手に入れた? リリィ・ボーンとは一体、なんなんだ! あの男とは一体誰だ!」
慌てる心に誘われるがまま、畳みかけるように直也は問いを重ねる。田辺はしばらくじっと直也の顔を見つめ、それから真顔で言った。
「人は生き返る。あの男は、確かにそう言った。今お前がいる、その場所でな」
指をさされ、直也は誘われたように自分の足元を見た。薄汚れた石のタイルがそこには敷かれている。直也が顔をあげると、田辺は緩やかに口元を緩め、ひどく不気味な笑みを浮かべた。
「俺の家族ももうすぐ蘇る。みんなで旅行に行くんだ。これから始まる俺の新しい生活を、邪魔するな!」
田辺は一方的に怒鳴り散らすと、力強くドアを閉めた。内側で鍵の閉まる音がする。焦りを感じてドアを揺するものの、びくともしなかった。またドアを叩き、声を張り上げようかとも一瞬思うが、結局止める。家の前に取り残された直也は茫然と、田辺の言葉を頭の中で反芻させていた。
「生き返る、人が、蘇る」
少し考えれば、それはあり得ないことだ。あまりに荒唐無稽。明らかにファンタジーの世界に片足を突っ込んだ考えだ。良識のある大人なら、特に田辺のようないかにも厳格な人物ならば、そんなことは百も承知のはずだ。
しかし、田辺はそれを信じ込んでいる。疑うことすらしていない。それは明らかに異常だった。まるで田辺自身の意思とは別の、外部からの意識がそこに介在しているかのようだった。
その時、直也の頭に少し昔の映像が突然に蘇った。“人が生き返る”という言葉の響きが、記憶の中のあるスイッチを入れたらしい。それは1週間前、旧鉈橋邸でのこと。気を失ったライと、麦わら帽子を被った女性を背後にその男は直也に向けてこんなことを言った。
――そしてバラバラにしたあと、死体を切り取って怪人にした。右足だっただろうか。とにかく、そうやって彼女は蘇った。このグリフィンという怪人として。
「怪人、蘇る……」
呟き、直也は目を見開いた。頭の中に一点の光明が射した。黒く濁った脳内が晴れ渡っていく。
「まさか、奴の目的は……」
自分の頭にふと浮かびあがった答えに、直也は怖気を覚える。それはあまりにもおぞましく、人の所為では到底ない。だがあの男ならそれくらいのことは、容易くやるだろうという確信が直也にはあった。あの男は、悪意の権化だ。直也が立ち向かい、そして絶対にその企みを阻止しなければならない、最大の敵だった。
おそらく、柳川はこの企みに触れてしまったがために殺されたのだろう。そしていま、直也は彼と同じ立場に並んだ。もう引き返すことなどできない。ライのそっくりの少女のことを思い出す。あの胸の前で揺れていた百合の造花が脳裏に浮かぶ。そういえば、LILYとは百合の英訳であることに今更気付いた。
「おっさん、何か分かったの?」
ライが心配そうな顔で直也を見上げる。直也は田辺家を見つめ、目を細めた。
「あぁ……あいつらが、何をしようとしているのか、ちょっと分かりかけてきた気がする」
直也は下唇を強く噛む。下駄箱の上に乗っていた青い封筒のことを頭に浮かべ、そしてはぐれ雲の散る空の果てを見つめた。
「こんなこと……許しておけるか」
蝉が微かな声をあげる。排気ガスの臭いが鼻をくすぐる。直也は柳川の遺したレシートをポケットから取り出すと、その紙面を見つめ、柳川の魂に深く哀悼した。
魔物の話 46
しばらく悠の家でくつろいだ後、レイは泊っていけばいいのに、と不満げな表情を作る悠を宥めて再び駅に戻り、券売機の前に立った。
レイはもう1度、あの白い家に行き、式原の居場所に繋がる証拠を洗い直すつもりでいた。佑と一緒にいるときは人間的な感覚だけを頼りに捜索したが、単独ならば“最高の怪人”としての力を惜しみなく発揮することができる。そうすればまた新しい何かが見えてくるのではないかと期待を膨らませていた。
急にそう思い立ったのは、やはりあのディッキーらしき影に出会ったことが大きかった。あの影の正体についても、あの家を探れば何か分かるのではないかという不思議な直感が働いていた。ディッキーの生死にかかわらず、やはりあの小動物の影についていち早く正体を見極めたい気持ちがレイの背をあの家に押しやっていた。
電車に乗り、目的地で降りて、昼間佑とたどったルートを1人で歩き、大きなコウモリの絵が描かれた古いアパートの前を通過して、あの白い家の前に到着する。
数時間前にここに立ったとき、佑がそっとレイの手を優しく包み込んでくれたことを思い出す。それと同時に、フェンリルが憎悪の化身となって怪人を八つ裂きにした光景も脳裏に過る。希望と絶望。安らぎと恐怖とが混ぜこぜとなった奇妙な感覚を抱えたまま、レイは深く息を吐きだすと、意を決して足を踏み出した。レイを信じてくれる、と駅で言ってくれた佑の声だけがレイの心の中で仄かな光を放ち、支えとなっている。
レイは玄関ではなく、庭を大きく回って、叩き割られたガラス戸から家の中に侵入を果した。家財が軒並み倒され、いまだに怪人の肉片があちこちにこびり付いた、乱雑なリビングに立った。
部屋の中央に横たわる怪人の無惨な死骸も、当然のことながらまだそこにあった。
手足を切断され、肉を悉く削がれたその死体を見つめていると、全身に寒気が走った。レイはそのもはや生物としての外観をほとんど失ったそれに一歩近づくと、しばらく眺めたあとで瞼を閉じ、手を合わせた。
「……ごめんね」
謝って済むような問題でないことは分かっている。しかし謝罪をしないではいられなかった。レイに救いを求め、妬みを向けていたあの怪人の視線が瞼の裏に焼きついて離れない。結局自分は、己が助かりたいだけのエゴイストなのだと自覚すると、重たいものが再び背に覆い被さるようだった。
確かにこの怪人はレイに襲いかかってきた。殺意を振りまき、その腕を振り回し、殴りかかってきた。佑に倒して欲しくなかったとも思わないし、佑がやられればよかったなどとも当然、思わない。それでもこの朽ちた亡骸を前にすると、無念の思いが胸を衝いた。レイが救われたように、この怪人にも救いの手を差し伸べることができなかったのかと、後悔が心中に渦巻く。
レイは怪人に深く頭を下げると恐る恐る怪人の体をまたぎ、奥の部屋へと向かった。レイが今最優先にすべきことといえば、式原の居場所を突き止め、その陰謀を止め、悠や佑や多くの人々のもとに元のような平穏を取り戻すことだ。いつまでも心を痛めているわけにはいかなかった。
その畳の敷かれた和室には、悪臭が相変わらず漂っていた。レイは目を眇め、その壮観としか思えぬ黒い羽で彩られた床の前で佇む。傾き初めた日の光に照らされ、夜の色を孕んだその羽たちは、さらに不気味な光を周囲に散らしている。
畳の上、部屋の隅に積まれた、分厚い書物にレイは目を止めた。背表紙には日本語では文字でタイトルらしき文が記されていた。だが、何となく、これは医学書なのではないか、とレイは思った。身を屈め、埃だらけのそれを払いながら手に取り、ページを捲る。やはりその内容もタイトルと同じく、日本語では書かれてはいなかったが、それでもレイはページの至る所に挿入されたイラストから、自分の予想が正しいことを知った。
医者、という言葉の響きからレイは真っ先に橘看護師を想像した。あの気丈で、ぶっきらぼうだが心の優しい、悠とも仲の良かったあの女性が、まさか怪人を創造して殺戮の限りを働いているような男の仲間だったとはあの時、夢にも思わなかった。
そして次に思い浮かぶのは罪深き殺人者の名前。己の欲求を満たすために多くの人間を傷つけ、嬲り、壊し、屠った、人の皮を被った化け物のような男。
「式原、明……」
今、あの男は一体どこにいるのだろうか。日中、限られた時間内で家探しをした時はその手掛かりを見つけることはできなかった。ここにはまた幾度となく足を運ばなくてはならないな、とレイは静かに覚悟を決める。佑の発見してくれたこの場所を起点にして、捜査の手を進めていく以外に、組織から追い出されたレイたちには方法がなかった。
とりあえず今日はもう日が暮れる。最近では特に日没が早まってきたような気がする。夏が終焉に近づき、秋の到来が近づいている証だ。そこに物寂しさのようなものを感じながら、部屋から立ち去ろうしたその時、あまりに突然にそれは起こった。
初めは幻でも見ているのではないかと自分の目を疑った。がさり、と衣擦れのような音が和室に沁み渡ったかと思うと、急激な速度で視界一面に広がる黒色が萎み始めた。
萎む。そうとしか表現のしようがない、あまりに奇異な光景だった。鳥の羽1枚1枚が縮み、その輪郭が危うげになり、そして最終的には真っ白に成り果てて、散り散りと化した。まるで青々と茂る植物が時に侵され、枯れ、腐り果てていく過程を早回しで見ているかのような、そんな光景が、レイの目の前で繰り広げられていた。
何の前触れもなく始まった不思議な現象にうろたえながらも、ただ突っ立っていることなどできず、レイは腰をかがめて、その白く変色した羽を拾い上げようとした。
だが、レイの指先が触れる先からまるで炭化した紙のように、それはレイの掌に捕まることなくボロボロと床に崩れ落ちていく。
レイはポケットに慌てて手を突っ込む。昼間訪れた際に、証拠を確保するため、ワンピースのゆったりしたポケットの中に、鳥の羽を何枚か入れておいたのだ。だが、その指が羽の形を捉えることはなかった。その口を広げ、中を覗きこむと、そこにはやはり鳥の羽だったものが原形を失い、灰となってポケットいっぱいに詰め込まれていた。
「これって、まさか……」
レイは体を震わせ、慄きながら、後ずさった。足の裏で踏みつけた羽が、くしゃくしゃと壊れる音を発して潰れ、塵と化していく。信じ難い思いで事態を見つめ、そしてそのうちレイは、この現象の正体に思い至った。
自分の体中の皮膚に鳥肌が沸く。胸の裡に宿るのは、深い闇に投じられたかのような果てのない空虚だった。何か自分の中を流れていた大切なものが、瞬く間に奪い去られたような、そんな感覚が胸中に殺到し、そしてその感覚は他の何よりも真実を雄弁に語ってくれた。
口元に手を当て、目を丸くし、身を固くしながら、レイはものの数秒で白く染まった和室を見渡す。
そして――その現状から導き出した答えを、やはり自分でも信じられぬ思いで口にした。
「黒い鳥が……死んだ」
その言葉は絶望的な響きをもって、室内に沁み渡った。レイの頭の中に弔いの花が咲いた。萎れ、塵になって果てた羽たちは、すでに死骸と呼ぶほかに名称を持たなかった。
あまりに呆気なく。あまりに静かに。そしてあまりに突然に。
こうして黒い鳥という存在は、跡形もなく、この世より姿を消したのだった。




