表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/17

16話「愛抱く男たち」

仮面の話 8

 弾丸のように降り注ぐ雨を青い大判の傘で防ぎながら、瀨野原雅人は大きなあくびをした。ひとたび瞼を閉じようものなら、立ったままでも睡魔に負けてしまいそうだった。強い雨のせいで白く混濁した景色も眠気を誘う。足元ににじり寄る湿り気だけが、雅人の意識を現実に引き留めてくれていた。

 昨晩は結局一睡もできなかった。ベッドの上で目を瞑り、眠りに落ちようとしても、瞼の裏に楓葉花の顔がちらついて離れなかった。妄想の中に彼女が現れたのは一度や二度ではなく、ほとんど毎晩雅人は葉花を夢の中に浮かばせる生活を送っていたのだが、昨晩はその色合いが少し違っていた。

 一言で表すならば、頭の中に現れた彼女は始めて、血肉を含んでいた。温もりがあり、漂ってくるだけで心臓が高鳴るようないい匂いがあり、陶然と立ちつくしてしまうほどの美しい声を持っていた。

 その全てはこれまでの虚実で形作られたものではなく、明確な実体を伴ったものだった。手を伸ばせば触れることができ、目を開けば間近にその黒目がちの目を見つけることができる。自然と頬は熱くなり、身体は強ばり、感情ばかりが昂ぶっていく。

 しかし期待を膨らませて目を覚ませば近くに彼女がいるはずもなく、単なる幻想であったことを知って愕然とする。そんなことを繰り返すうち、気づけば朝になってしまった。

 傘を持ち替え、自分の右手を見つめる。昨晩、楓葉花と触れた手を、彼女と繋がることのできた指先に、視線を這わせる。その実感をゆっくりと、唾液を編みこみながら咀嚼していく。意識を集中させれば、彼女の温もりがまだ残っているような気さえした。

 楓葉花に会いたい、と思った。彼女の温もりに触れたいという衝動がまるで竜巻のように心を揺らしている。こんな気持ちを味わうのは、生まれて初めてのことだった。

彼女を知れば知るほど、彼女に近づけば近づくほど、かえって幻滅するだけだ。そう心の中でもう1人の雅人が叫んでいる。どれほど可憐に見えても一皮剥けば、人は皆、悪意に満ちた生き物なのだから。その本質を知らずに生きるのが幸せなのだ、と。

そんなことは重々承知だ、と雅人は反論する。幼少時から雅人は、そうやって仲間や友達を作らず、自らを孤独に追いやりながら日々を過ごしてきたのだから。今までもこれからも、その信念は揺るがない――はずだった。

だが膨らみきってしまった楓葉花への思いを偽ることは、もはや不可能だった。気づけば昨晩から、彼女に会いたいという気持ちだけが積もっていくばかりだ。自分が自分でないような強烈な違和感を覚えるが、払拭することはできなかった。

「僕は……」

 その時、どこかで聞き覚えのある、しかし名前までは知らない軽やかなメロディーが耳に入ってきた。ハッと顔を上げると、周囲の雑踏が一斉に動き出す。メロディーを奏でているのは、歩行者用の信号機だった。あたりを軽く眺めまわし、遅れて雅人は自分が横断歩道の信号待ちをしていたことを思い出す。

 傘を右手に持ち替え、歩き出す。横断歩道を早足で通り抜けた先で、老夫婦の背姿が目に入った。楽しげに顔を綻ばせながらレストランを指さし、何事か話している。さらに視線を横に移せば高校生らしき制服姿の少年たちが、ビルの壁際に集まって笑い声をあげていた。さらに20代前半と思われるカップルが手と手を絡ませ、顔を寄せ合って言葉を交わしながら、雅人の前を通り過ぎていく。

 流れていく人ごみの中心で、雅人はそれらの景色を見つめたまま、ほんの暫くの間硬直した。またさらに新しく芽生えた感情が心を揺さぶっている。それは昨晩までの雅人ならば、抱くことは絶対にあり得なかった感情だった。

 年老いても尚、互いを気遣い愛し合う夫婦。そして信頼の置ける友達と笑い合い、楽しい毎日を送っているであろうことが容易に想像できる、高校生。愛を誓い、躊躇なく口にし合うことのできる恋人たち。

 薄汚れた東京の空の下で、雅人は彼らのことを心底羨ましく思った。




死人の話 9

「みんな、ただいま。新しいお友達を連れてきたよ」

 コンクリートの壁によって塞がれたアジトにたどり着くと、真嶋は抱えていた石像を床に降ろした。6つの眼差しが真嶋を迎え入れる。それは幼い女の子たちの石像だった。

 真嶋の体が空気に溶け込み、変わりに黄金の怪人、キャンサーの姿が現れる。マントを翻し、にたりと口元を歪めた。

「ライちゃんというんだ。みんなより少しお姉さんだけど、仲良くできると思うんだ」

 自分の隣に降ろした石像をタオルで拭きながら、キャンサーは他の石像たちを眺める。雨に濡れたライは、他の石像と比べると体色が若干黒ずんでいる。さすがに外から帰ってくると建物内にひしめく湿度と温度の高さにげんなりした。

 もう少し快適な場所を選んでも良かったかもな――

 暗闇に沈んだ景色に目を細め、キャンサーはため息を零す。どのみち、こんな狭く暑苦しい場所にいつまでも居座るつもりはなかった。四人も石化できれば初日としてはまずまず上等だろう。タイミングを見計らってこの建物を飛び出し、もっと快適な場所で彼女たちを存分に愛でたかった。

「しかし、やっぱりこの子はなかなかいいな」

 にやりと歪な笑いを浮かべながら、キャンサーはつい先ほど石化したばかりの少女を見下ろす。少女の勝ち気な目と開き掛けた口は迫力に満ちていて、今にも動きだし、叫び声さえあげそうだ。キャンサーは甲羅のような体表に鳥肌がたつのを感じ、両腕を撫でつけながら快楽に淀んだ呼気を吐き出した。

「君のことは特別大事にしてあげよう。こんなしけた場所、一緒に抜け出して早く体を綺麗にしような」

 ライというのが、この子の名前らしい。かつて石にしてやりたいと願った少女、黒城レイと一文字違いというのが、キャンサーの気持ちをさらに昂揚させた。いつか黒城レイも石化し、その美しい姿を家の中に飾って、毎日存分に眺め回してやろうなどと決意を新たにしつつ、キャンサーはライの頬を撫で回す。腰を屈め、彼女の視点に立って正面からその美貌を見つめることも忘れない。

「あぁ、可愛い……最高だ。爆発してしまいそうだ。この時のために僕は……」

 その時、キャンサーは彼女に触れる指先に微かな痺れを感じた。同時に、頭の中を角の生えた装甲服が横切る。やがてそれらの感覚は音もなく、ぼんやりとした光の中に消滅していった。ほとんど一瞬の出来事だった。

 キャンサーは顔を歪め、素早くライから手を離す。周囲を見渡し、それから首を傾げた。

「何だ今のは……僕の情熱が滲み出てしまったか?」

 痺れの走った指先を擦りあわせるが、別段違和感はない。気のせいだと思い、再びライに意識を向けようとすると、単調なメロディーが突然奏でられた。

 びくりと顔を上げ、それから不愉快を表情に出す。床に置いておいた携帯電話を手に取るとディスプレイを見てから通話ボタンを押し、この場に似つかわしくない音楽を止めた。

「うるさい奴め。この僕のユートピアを汚すつもりか」

 舌打ちし、キャンサーは携帯電話を電源を切ってから放り投げた。床に落ちるけたたましい音を耳にしながら、自らが生み出した、美を模る芸術作品たちを眺め、気を鎮める。

「そうさ。この場所は絶対に見つからない。ここは、僕だけの場所なんだ」

 自分に言い聞かせるように呟き、キャンサーは頭に生えた触覚に触れ、そこに浮かんだ汗を掬い取る。コンクリートによって四方を塞がれた部屋には、扉や窓の類は一つもなく、行き場をなくした熱気がひどくこもっていた。




鳥の話 49

 タンポポの塔という名前に反して、塔の周囲にはタンポポどころか植物の影一つさえ見つけることは叶わない。あらゆる生を剥奪された荒廃の地が、数キロという範囲に渡って広がっている。削り取られ、とこどころ陥没した地面はひどく痛々しい。あちこちには墓標のように、人の腕に似た金属片や衣類の切れ端に似た肉片が散らばっている。

死を具現化したかのような凄惨な地で、V.S.トールと飯沼の変化した姿であるE.リゲアは対峙していた。吹きすさぶ風が、どこからか赤い粒子の残差を運んでくる。紫色の怪物の話を聞いた後だとそれはひどく忌々しいものにしか思えず、体表を掠めていく粒子をV.S.トールはたまらず手で払いのけた。

「お前は本気で、黄金の鳥と会話をするつもりなんだろうが」

 E.リゲアが、一振りの斧を右手に構える。V.S.トールは腹部に備わった一対の石板のうち、右側の方にそっと手をかけた。

「だが、断言してやろう。お前には無理だ」

 戦いのゴングはなかった。E.リゲアは語気を強めると同時に跳躍し、V.S.トールの眼前に着地した。間髪入れずに片腕で斧を振り回す。V.S.トールは体をわずかにそらすことで、刃先をかわすと、背後に跳び、距離を取った。

「なぜ、そう言い切れるんだい? 君は僕を恨む理由は、それなのか?」

 自分に向けられる強い敵意の正体が見えず、困惑しながら、右側の石板を下に押し込んだ。ほどなくして右腕を、光によって構成された青の刃が包む。

「教えてくれ。僕が君に何をしたのかを。僕は君を、憎まなきゃいけないのか?」

「黙れ! 俺が憎悪するのは、お前の全てだ! お前という存在が俺の心を逆撫でする!」

E.リゲアはV.S.トールに急迫し、斧を横に薙いだ。V.S.トールは自身の右腕と一体になった光刃で衝撃を受け止める。光の滴が飛散し、刃先がわずかに震えを帯びた。

「鳥との対話のために、お前には決定的に足りないものがある。分かるか?」

「何?」

「お前には何もかもが足りない。だがその中で一番許されねぇのが、敬意のなさだ!」

 ぎりっ、とE.リゲアが牙を軋ませる。周囲に明滅する粒子の渦が飛散する。

「敬意の欠片も持たない馬の骨に、鳥が心を開くわけねぇだろうが!」

 V.S.トールは硬直した。“心を開くわけがない”という言葉が頭の中に反響し、心を切りつけていくかのようだった。なぜ自分がこれほどまでに衝撃を受けているのか理解できず、それがさらにV.S.トールの動きを鈍らせていく。

「お前に黄金の鳥と対峙する資格はないことを教え込んでやる……その肉体にな」

 義憤すら含んだE.リゲアの叫びはそのまま力に転換され、V.S.トールの体は容易く弾き飛ばされた。続けざまに斧で胸を切り裂かれ、たまらず背後によろける。すぐに姿勢を立て直し、光刃を振るうがその時にはすでにE.リゲアは懐まで入り込んでいる。

「これは愛の裁きだ」

 E.リゲアの全身が、ブラウンの光に包まれる。音を置き去りにする速度で放たれたその拳が、V.S.トールの腹部を抉った。痛みを覚える前に体は宙に浮いている。地面に落ち、方向感覚が狂うほど激しく転がりながら、男の自信に満ちた声を聞いた。

「ひれ伏すがいい、黄金の鳥の前に」




タンポポの塔 14

 ひどく狭く薄暗い、まるで独房のような部屋の中でベッドに横たわった華永あきらは、お面の男から渡された用紙を見ていた。上半身を自分で起こすこともままならないため、ギャッジを上げたベッドに寄りかかっている恰好だ。紙を摘まむその指は折れかけた木の枝のように、細かく震えている。

唇を緩めたその表情はひどく歪で、枯れていた。かつての彼女にあったような、16歳らしい若々しく、瑞々しい表情はそこに欠片も残されておらず、落ち窪んだ目と影を纏った表情、ひどく痛んだ白髪はいずれも死人を彷彿とさせるものだった。

「……これが、マスカレイダーズのアジトに?」

 紙面から顔を上げ、囁くような声であきらは尋ねる。近くに立っていた、もずのお面を被った男が無言で頷いた。

 その反応を認めると、あきらはもう1度、紙に視線を戻した。

 キャンサーの報告によって明らかとなった、マスカレイダーズのアジトに貼ってあったものだという。湿気を吸ってひどくよれたそのA4サイズの用紙には、女の子を思わせる丸文字でこう書かれていた。

『SOS! 黒い鳥に狙われている! ペンギンもやってくる!  21日に何かが起こる。気付いた人は頑張れ! みんなも頑張れ! ――ニートのおっさんより』

 一見すると、よく分からない文章だ。一体誰が、どういった理由で、何の意味があって貼ったものなのかも釈然としない。マスカレイダーズの罠にも思えたし、本当に誰かが救いを求めているようにも見える。

だが、把握の難しいその文中の中で、“黒い鳥”という単語だけは、あきらの目を引いた。黒い鳥といえば、何者かが黄金の鳥を模して製作した怪人を生み出す源泉のことだ。かつて組織ではこの鳥を捕え、研究し、黄金の鳥を復活させるための条件を知ろうと奮闘していたが、とりあえず研究も一段落した今では、もはや興味すら失っていた。そもそも東京の決戦後の組織では怪人を索敵し、戦い、捕えるだけの体力は残されていなかった。

 だが、この紙がマスカレイダーズのアジトにあったというのなら話は別だ。

 あきらは顔を歪め、割れた唇を噛んだ。その指先は紙面の一番下に記された、奇妙な記号をなぞっていた。

 長方形の中に『3』と羽のマークが書かれたその記号は、あきらの脳裏にある映像を呼び起こさせる。

 7年前、裏切りの戦士としてかつてのマスカレイダーズから寝返り、あきらの父を全力で守った英雄の姿。そして愛する人が所持していた、傷に塗れた鉄の板。

「……直也さん」

 側に立つお面の男にさえ聞き取れないほど小さな声で、あきらは呟く。その痩せた頬にはいつの間にか透明の滴が流れ落ちていた。




鎧の話 55

 台風が東京の空にいよいよ近づいているらしい。

 ニュースキャスターの冷静な声を耳にしながら、直也は胸にざわめきを覚える。先ほどからライ、佑、菅谷と電話をかけているが誰にも繋がらなかった。まるで漂流したかのような気分を味わい、落ち着かず、苛立ってベッドから降りようと何度も思ったが、腹部に痛みが走ると踏みとどまった。窓の外では景色が見えないほど激しく雨が降りしきり、強い風の音が誰かの叫び声のように轟く。

「誰か出ろよな……くそ」

 携帯電話を握りしめ、吐き捨てる。不安だけが胸に降り積もっていく。脳裏を巡る想像は、嫌な方向へと着々と傾いていく。

 こんなことなら自分も病院を飛び出すべきだったか――思った矢先、手の中の携帯電話が震えを帯びた。

 びくりと顔をあげ、それから慌ててディスプレイを見やる。天村佑からだった。ボタンを押して耳に当てると、受話口の向こうからもやはり激しい風の音が聞こえてくる。

「おい、どうした」

 尋ねるが、声は帰ってこない。眉を顰め、「おい」と語気を強めて呼びかけるが、聞こえるのは相変わらず、荒れ狂う風の叫び声だけだった。

「おい。返事をしろ。おい、あ――」

「坂井さん」

 ようやく佑が言葉を返した。呼吸音に紛れてしまいそうな、喘ぐような声だった。その語調に直也は不穏なものを嗅ぎ取り、送話口に口を寄せた。

「何があった。話せ」

 すぐに返事はなかった。風の音と混じって、彼の荒い、引きつるような呼吸音が耳に届く。15秒ほど沈黙したあとで、ようやく佑はひどく重たそうに口を開いた。

「……間に合わなかった。あと、もう一歩だったのに」

「何の話だ」

「ライちゃんが、やられた」

 頭から一斉に血の気が失せていくのを感じる。だが小さく息を吸い込むと、あくまで冷静で在るように努めた。ここで取り乱してしまえば、正しい情報を得ることが難しくなるということを、直也は経験から察していた。

「……どういうことだよ。それは、ライが死んだ、とか、そういうことなのか?」

 心を平静に保とうとすればするほど、声や体は震えを帯びていく。佑の答えを聞くのは恐ろしかったが、それでも勇気を心の底から振り絞る。

「分かりません。何というか……石になってるみたいでした。石像だったんだ。でもあれは、ライちゃんに間違いない……」

「じゃあ本当に怪人が……」

「……はい。人の姿をしてましたけど。あれは、間違いなく」

 直也は息を呑んだ。「ライの言ったことが正しかったわけか」と思わず呟く。後悔に似た感情が胸を絞めつけるが、佑の話を整理するだけの冷静さは残されていた。

「……つまりライが石化能力をもつ怪人にやられたと、お前はそう言いたいわけか」

 はい、と佑はため息を零すように短く言う。直也は目を細めた。怪人が多種多様な固有能力を備えていることは承知している。人間を石化させる力を持つ個体がいたとしても、何らおかしくはなかった。

「なら、永久的に石化したままのか、それとも何らかの方法を満たすことで石化を解くことができるのか……問題はそこだな。怪人とライは今、一体どこに?」

「分かりません。……逃がし、ましたから。周りを探しても全然行方が分からなくて……」

 ぎりっ、佑が奥歯を噛みしめた音が耳に届く。さらに「くそっ」と怒りに荒んだ声を漏らした。何か固いものを殴りつけるような音も聞こえてくる。

 佑が己を悔いているのだということは、直也にも察することができた。怒りの矛先を向けるべき相手として、真っ先に自分自身を選出している。ライを助けられず、怪人を逃がしてしまった自分に腹を立てている。そういう人間を直也は嫌いではなかった。全てを他人のせいにし、非難することしか知らない人間と比べればずっとまともだ。

「助けられなかった。怪人がすぐ側にいたのに。俺は……弱い。俺にはやっぱり、フェンリルを持つ資格なんか……」

「落ち着けよ。だけど、とんだ心変わりだな。どうした。自分の妹のことばかりじゃなくなったのか? 昨日喋ってたお前の信念はどこにいったんだよ」

 彼の真意を確かめるため、あえて揶揄するように言うと、佑は間を置いたあとで「放っとけるわけ、ないじゃないですか」と語気を強めた。時間の間隙を雨音が埋めていく。

「俺より小さい女の子が、頑張ってるのに。しかもレイちゃんの妹が。……それなのに力を持ってる俺が見てるだけなんてそんなの、できないですよ。悠を守りたいだけじゃない。俺は……怪人を倒したい」

「それが、お前にとってのライを助ける理由ってわけか」

 危ういな、というのが直也の正直な感想だった。まだ海に出てまもない船頭に舵を預ける気分だ。直也は時計を見やり、それから頭を軽く振って自分の体調を測る。口元を強く締めると、掛布団に手を掛けた。

「それに、好きだったから」

 耳に届いた佑の声に、直也は動きを止めた。彼は今にも泣きだしそうだった。

「こんなこと、俺が言うのも坂井さんにとっては許せないかもしれませんけど……好きな女の子の大事なものを守りたいっていうのは、男なら、当たり前ですよ」

 直也は目を見開いた。携帯電話を耳から離し、まじまじと見つめる。

 彼の発した言葉は、何の滞りもなく、驚くほど滑らかに直也の心に入り込んできた。膨張を続けていた不安がその瞬間、ほんの少しだけ収縮した気さえする。

 直也はふっ、と思わず笑みを零した。携帯電話を耳に当てる。雨がアスファルトを叩く音が、遠巻きに聞こえてくる。

「むかつくくらい、よく分かってるよ。それは本当に、お前が吐いていいセリフじゃない」

「……すみません」

「だけど嫌な気分はしないそれに、お前のことを試してみたいのかもしれない」

 不快な気持ちはなかった。咲を死に追いやった殺人者を、全面的に信頼することは不可能だったが、それでもこの少年に賭けてみる価値はありそうだなと、その程度には思った。

「俺にいい考えがある」

 布団を片手で腹部のあたりまで引き上げると、直也は床頭台に視線を移した。オウガのプレートがしまってあった引き出しに焦点を合わせる。咲から預かったあの力は今、ライが手にしているはずだ。

――母さんの声が聞こえるんだ。

 そしてライがうわ言のように発した思いもかけない言葉に、直也は発想を得る。まさに博打だった。

「……フェンリルの力を使え。装甲服を展開していなくても、今のオウガならそれでも微弱な気配を察知できるかもしれない。それも近くにまだいれば、の話だけどな」

「そんなこと……」

「無理と言い切るか? 見せてみろよ、お前の力を」

 佑はなかなか踏ん切りのつかない様子であったが、最終的には「はい」と頼もしい返事をしてくれた。

 彼が装甲服を展開するのを、そして気配を探りオウガの在り処を知るまでを、直也は固唾を呑んで待った。1秒が無限に感じるほどだった。何回も深呼吸し、手を汗で濡らしながら佑の反応を待つ。窓の外で唸る風の音も全く気にならない。全神経を携帯電話の向こう側にある世界に集中させる。

「咲さん……頼む。ライを守ってくれ」

 かつての恋人。そしてライの母親に祈りを捧げながら、瞼を閉じる。そうやって念じているとやがて歓喜の声が直也の鼓膜を震わせた。

「分かります……坂井さん。ほんの少しだけど、鎧が、震えてるんです。分かる。これなら。ライちゃんは、この近くにいるんだ」

 直也は頷いた。彼の嬉しそうな、しかし泣き出しそうな、今にも感情が弾けてしまいそうな声はひどく印象的だった。耳にしているうち、直也の心にも喜びが沸いてくる。「よし」と呟き、携帯電話を耳に当てたまま思わず胸の前で拳を握りしめた。




鳥の話 50

 遠い記憶を他人事のように思い出す。それは人の身を捨ててから何度も味わった感触だ。それらの記憶は透明な膜を帯びているのに、いつだって胸を抉るような痛みを与えてくる。傷に塗れた心から血液が溢れている。苦悶の叫びは虚空の闇の中に解き放たれ、ぼんやりと消えていってしまうのだった。

 あれはおそらく十年程前の話だ。

 何週間にも及ぶ高熱に苦しんだ末に、白石仁は大いなる力を手に入れた。

 物の魂を読む力――触れた物質に残された記憶を、ランダムに読み取ることができる力。仁は奇妙であまりにも不思議な能力を唐突に、望まぬ形で得てしまった。

 その日を境として、仁にとっての地獄は始まった。

 わけのわからない力に翻弄され、混乱するうち、友達は次第に離れていき、気付けば仁はクラスから孤立していった。教師からも腫物のような扱いを受け、いじめの対象にもなった。周囲から拒絶を受ける中で仁もまた他人に心を開くことはなくなった。学年があがっても、学校が変わっても、状況は一向に改善することなく、むしろ年を負うごとに悪化の一途さえたどった。

 絶望に荒れ果て、鎖されてしまった世界の中で、なぜ自分がこんな力を得てしまったのだろうと仁は何度も己の境遇を呪った。その力の意味も意義も不透明な中で、仁の中では生に対する執着さえも失われていった。

 この世に神などいない。自分の頭上には二度と光が射すことなどない。入り口の鍵をこじ開けて入り込んだ学校の屋上で、曇り空の下に広がる街並みを眺めながら仁はこの世界の本質を悟っていた。

 混濁した悪意を浴び、荒みきった仁の瞳はもはや希望を映すことさえ忘れていた。この世に幸福などはない。苦しくて辛くて恐ろしくて、ひたすらに凄惨で。それが世界の本当の姿なのだと、確信する。地獄と自分の立つ場所とにどれほどの違いがあるというのか、仁にはもはや分からなくなっていた。

――白石!

 フェンスに足を近づけようとしたその時、仁は自分の名を呼ぶ声を聞いた。虚ろな目で振り返ると、そこに逆光を浴びて立つ何者かのシルエットを見つけた。

 初めて聞く声ではない。その立ち姿にも見覚えがあった。だが、彼が自分の見知った人物かどうかなどということは、仁にとってすでにどうでも良かった。

 心の中に柔らかな光が滑り込んでくるのを感じた。太陽に向けてすくすくと伸びあがる、草花の様子を想像する。その瞬間、仁は暗転する視界とともに全てを理解した。

光が仁を拒んでいたのではない。希望から目を反らし、光を閉ざしていたのは仁の方であったということを。光はいつでも頭の上に射していたにも関わらず、見ない振りをし続けていたのだということを。

 覚えている。気付けばその頬に、生暖かい感触が伝っていたことを。生きる意味を久しぶりに見出したことを。その場で崩れ落ちた時、膝に感じたアスファルトの熱を。

 そして塞ぎ込んでいた仁の心にゆっくりと手を差し伸ばし、希望を与えてくれた、あの男の表情を――

「……京助!」

 V.S.トールは顔をあげると、右腕に素早く青い光を纏った。前方より放たれた茶褐色の光線を、収束させた光の膜で弾き飛ばす。左腕を突き出した姿勢で立つE.リゲアは、V.S.トールの様子が変わったことを敏感に嗅ぎ取ったようだった。

「いいねぇ。顔つきが、変わったじゃねぇか! ようやく信心を得ることに決めたか?」

 E.リゲアは舌なめずりすると、また全身に茶色の粒子を纏った。片足で地面を踏み切ったと思いきや、その銀の体躯はまるで矢のように動き、V.S.トールの眼前まで移動している。固められた拳が即座にV.S.トールの腹部を抉った。

「ぐっ」

腹の底に溜まった空気を無理やり吐き出されながら、V.S.トールは背後に跳ぶ。その姿を一筋の光線が追ってくるが、右腕の青いエネルギー刃で薙ぎ払い、両足で着地する。

前方に視線を向けると、わずか数メートルという距離にいつの間にか詰めていたE.リゲアが戦斧を振りかざしていた。まるで処刑台に置かれたギロチンの如く、振り落とされた凶器をV.S.トールはすんでのところでエネルギー刃を用い、受け止める。そのまま鍔迫り合いに持ち込み、顔面にE.リゲアの荒い鼻息を浴びながらも、V.S.トールは京助という名前の男について思考を巡らせていた。

「僕は……」

 彼の顔を思い出そうとも、脳裏に浮かぶのは精彩をひどく欠いたイメージだけだ。声も、姿も、彼とどういう関係にあったのかも明瞭としない。しかしあの男が白石仁にとって、かけがえのない人物であることは分かる。心がそれを訴えていた。京助のことだけは忘れてはならないぞという警鐘さえも聞こえてくるようだ。

 愛も、夢も、未来も。全てを奪われてしまった灰色の記憶の中で、彼の姿だけが鮮やかな色を纏っていた。あの男の存在が白石仁にとってどれほど大きかったのか、そのワンシーンを拾い上げただけでも充分に理解できる。彼は間違いなく白石仁にとって、この世に舞い降りた光そのものだった。

「……そうか、こんなこと。僕は前にも経験していたんだ」

「何を、ぶつくさ言ってやがるっ!」

 E.リゲアは憤然と吐き散らし、V.S.トールの脇腹に蹴りを打ち込んだ。バランスを崩したところに、追い討ちとばかりに斧を振り回してくる。腹から胸にかけて逆袈裟に切りつけられたV.S.トールは吹き飛び、左腕を下にして地面に叩きつけられた。頬に鈍い痛みを覚えるが、顔をしかめるころにはすでに消失している。だが脳を揺さぶる衝撃が飯沼の言葉を想起させた。

――敬意の欠片も持たない馬の骨に、鳥が心を開くわけねぇだろうが!

「そうだよな。君の言うとおりだ……心を開かなきゃならないのは僕の方なんだ」

 光を待つだけでは、愛を請うだけでは何も変わらない。自分が心を開かなければ、愛は得られない。答えは掴んでいたはずなのに、人間を捨てたと同時にすっかり忘れていた。

「人だって、鳥だって、怪人だって。一緒だ。何も変わってなんかいなかったんだ」

 変わったのは。塞いでしまったのは。自分の心の方だった。

 V.S.トールは自らの体の所在を確かめるように、ゆっくりと身を起こした。E.リゲアが雄叫びをあげ、斧を片手に突っ込んでくる。先ほどは射られた矢のように見えたその動きも、今ではまるで徐行する自動車のような速度として、V.S.トールには視認できていた。

自らに迫りくる銀色の軌跡を噛み締めるように見据えながら、腹部にある左側の石版を上から押し込んだ。同時に下にスライドしてあった右側の石版が元の位置に戻る。するとV.S.トールの右半身を包んでいた青い光が消え、成り代わるように今度は左半身から緑色の閃光が噴き出した。E.リゲアは鋭い牙を見せる。

「出たな。それが菜原秋人の力。もう1つの、石版か! 面白い!」

「そうか。憎んでるだけじゃ、ダメなんだ。僕を形作るのはもっと大きなものなんだ」

 E.リゲアの凶刃を左腕で受け止める。その半身が強い輝きを放つと、E.リゲアの体は何かに弾かれたように大きく吹き飛ばされていった。

「な、なに……」

 自分の身に何が起きたのか理解できないのだろう。E.リゲアは顔だけをV.S.トールの方に向け、驚愕を口にする。V.S.トールは左半身の光を燃え上がらせ、その背に翼を生み出した。閃光を引き連れながら二歩、三歩と倒れたままのE.リゲアに近づいていく。

「君が僕を恨んでいるのは分かった。だから」

 固めた左拳に緑色の光が収束する。慄いた顔でこちらを見上げるE.リゲアに、その腕をかざした。

「僕の気持ちを、受けてくれ」

「なにを、わけのわからねぇことを……!」

 E.リゲアは左手を地面に衝いた反動で立ち上がると、跳びあがりながら右手の戦斧を振るった。V.S.トールは素早く左腕を横薙ぎにする。流星のように煌びやかな光の尾を引いたその拳は、向かってきた敵の得物を粉々に打ち砕いた。

「な……」

 まるでガラスのように、粉々になって飛散する鉄片を浴びながらE.リゲアは目を丸くする。V.S.トールは拳に付着した光の残滓をため息とともに振り払った。

「誰だか知らないけどありがとう。おかげで僕は大事なことを思い出せた」

 感謝を告げ、V.S.トールが睨みつける前でE.リゲアは突然、笑い出した。斧を投げ捨て、右拳に茶の粒子を纏う。その牙の並ぶ口元が、妖しく歪んだ。

「……面白ぇ。やっとお前の本気がみれたな……そうこなくちゃあ、面白くないよなぁ!」

 足元に砂埃をたて、E.リゲアはまるで戦車のような獰猛さで突進してくる。V.S.トールは拳に緑の火を揺らめかせた。そして息を静かに吸い込むと腕を引き、解き放つ。

 宙に残像を描いたその拳はE.リゲアの右ストレートと正面からぶつかると、敵の体ごと強引に空中へと弾き飛ばした。




鎧の話 56

「でも……何だか、妙な感じです」

 数分ぶりに口を開いた佑は、警戒を滲ませながらもそんなことを言った。少し声が遠く、くぐもって感じるのはフェンリルを身に纏っているせいだろう。

「どうした? なんか違和感でもあったか?」

「あ、そうじゃなくて……3年前を、何となく思い出しちゃったんです。オウガを必死になって探してた、あの頃を」

 佑の言葉に直也は二度、三度瞬きをしたあとで、「あぁ」と力なく応じた。

 話を聞くことによると、佑は咲を式原の一味だと思いこみ、オウガを所持する彼女を追い求めたのだという。その思いこんだ原因がゴンザレスの発言にあるという部分は、佑のことをどうにも理解しがたいところだが、彼も彼なりに当時は逼迫した状況だったのだろう。佑の妹に対する愛情の深さは、まだ出会って間もない直也にもひしひしと感じられる。

 溺れたものは藁にもすがる、とはよくいったものだ。直也がオウガを片手に事件の真相を追い求めたのも、考えてみれば似たようなことだった。

「でも、今度はこの前とは違います。殺しにいくんじゃない。オウガの持ち主を、助けにいくんだ」

「……俺も妙な気分だよ。まさかずっと追い求めてた、許せないと怒り続けてた人間に、自分の大切なものの命を託すことになるなんてな。本当に、皮肉だ」

 思わず顔が歪む。なぜ佑にライを託すことになってしまったのか、多少の後悔が心に滲む。佑は「本当に、すみません。そんな言葉じゃ足りないのは分かってます」と微かに声を震わせた。

「どうやったって購えないかもしれません。だけどどんな罰も、俺は受ける気でいます」

「ああ。当然だ。だけど勘違いするな。ライを助けられても、それでお前の罪が許されるなんて思わない方がいい。どんな理由があろうとも、お前のやったことは悪だ」

「分かってます。さっきも言った通り、今、ライちゃんを助けたいのはそういうことじゃありませんから」

 佑の態度には確固たるものを感じる。なんだか気持ちの収まりが悪く、直也は鼻を鳴らした。

「それならいいけどな。ただ、言っておきたかっただけだ」

 テレビのニュースは相変わらず、連続幼児失踪事件について報じている。現場で中継をしている女性レポーターが声を張り上げている。何やら騒々しい雰囲気だ。そのただならぬ様子に直也は携帯電話を耳に当てたまま、テレビを見やった。

 そして言葉を失った。画面の右上に記された『容疑者と思われる男を逮捕』という文章が目に飛び込んでくる。

「どうしたんですか?」

 電話越しであっても直也の緊張が伝わったのか、佑が怪訝そうに問いかけてくる。

「犯人が逮捕されたらしい……車が検問に引っかかったんだそうだ。子どもたちの持っていたカバン類も見つかったらしい。ここまでされちゃ、言い逃れするのは難しいな」

「え、それじゃあ」

 左耳で佑の声を、右耳でリポーターの話を聞きながら、直也は顎を撫でつける。頭の中は自分でも意外に思うほど冷静だった。

「……いや、おそらくダミーだ。この捕まった奴は何も知らない一般人だろう」

 佑の話を聞くに、相手は相当自意識の高い男らしい。そんな怪人が、いかなる策略があろうとも、これ程容易に捕まるとは思えなかった。

「犯人もライも、子どもたちも、おそらくフェンリルの向かう先にいるはずだ。それでお前、今はどこにいる?」

「あ、はい。さっき報告したのと同じ、倉庫の中です。反応は多分このあたりだと思うんですけど」

 佑は言葉を濁らせる。反応を追ってきたはいいものの、姿を見つけることはできないようだ。言葉には焦りが滲んでいる。だが、直也は彼の行く道が正しいことを確信していた。

「間違いなくその近くにいるはずだ。諦めるのは、全てが終わってからだ」

 力なく返事をする佑の声を耳にしながら、直也はテレビの画面に目をやる。犯人を捕まえる決め手となったのは、やはり目撃証言のあった不審車両だったらしい。白いセダン車で、ナンバープレートこそはっきり分からなかったらしいが、現場付近に停まっていたのを何人もの人が目にしていたらしい。

「……白?」

――車だ。グレーだよ。停まってる。

 ライの声が脳裏に蘇る。そうだ。確かにライは通話を切る前に、虚ろな調子でそう言っていた。不審車両と報じられていたのは白い車なのに、グレーの車に注目してどうするんだ、と感じたのを覚えている。だが、ライの直感が正しかったとしたら……

「おい、倉庫の前に車は停まってたか?」

「え、車?」

「グレーの車だよ。普通車の。どうだ? あったか?」

「え。いや……車なんか、停まっていた覚えはないですけど……」

 やはりか。閃きとともに直也は頭の中で呟くと、テレビ画面に視線を移した。ちょうど、犯人のものと思われる白のセダン車が映っている。

「おい、ライは石にされていたって、お前言ってたよな?」

「はい。確かに石みたいに……だけどあれは確かにライちゃんでした。間違いはないです」

「ならもし、怪人の石化能力が生物だけじゃなく、物体にも適用できたとしたら、どうなる? それを応用して車のボディーやナンバープレートまでいじれたとしたら」

 佑の息を呑む音が聞こえる。直也は胸の奥で、心音が少しずつ高鳴っていくのを感じていた。体中で脈打ち、血流の巡る音が指先にまで響いてくるかのようだ。

「そしてそれが可能なら……ドアや窓を壁に仕立てあげることだってできるんじゃないのか? 鍵なんていらない。ドアを壁に変えちまえば、お手軽に密室の完成だ」

「だとしたら、犯人はこの壁の中に……」

 フェンリルが振り返ったのだろう。金属同士が擦れ合う音が聞こえた。直也はあえて答えを口に出さず、唾を呑んだ。解答は直也が提示するまでもなく、もうすぐ佑の前に姿を現すはずだった。




死人の話 10

 キャンサーがその音を耳にしたのは、ちょうどタオルでマリちゃんの体を拭いていた時のことだった。しかしどこかで小石が跳ねたのだと思い、気にも止めなかった。

その頃、キャンサーは彼女の体の凹凸や、触れれば折れてしまいそうな小さな手足や、その外側に跳ねたまま固まった髪を掌でくまなく感じ、その様子を石像と化した女の子たちに眺められているというシチュエーションに至福を覚えていたので、空気を小さく震わせる程度に終わったその衝撃を半ば無視していた。

「さぁ……順番に綺麗にしてあげるからね。そんなに急かさないで、待っていておくれよ」

 自分を取り巻く3人の幼少女たちを見回し、キャンサーはタオルを片手に白い牙をみせる。マリちゃんを持ち上げ、数センチ後ろに移動させると軽く頭を撫でてからライの方に向き直った。

「……さて、今度は君かな。迷い込んだ子猫ちゃん」

 ライの頭に手を乗せ、舌なめずりをする。その瞳の輝きを覗き込むだけで、やはり体中に電撃が走るようだった。この娘とこうして出会えたことに、運命めいたものさえ感じる。彼女なしで満足していた過去の自分を叱責したいくらいだった。ここにいる幼少女たちは皆可憐で美しいがライと比べると、やはり物足りなく思えてしまう。彼女の存在自体がキャンサーにとっては新境地だった。

「そうか。でも君はさっき、体を拭いたばかりだったね」

 ライを見下ろしながら、キャンサーは首を捻る。つい先ほど、雨に濡れたライから水気を拭き取ったばかりであったことを思い出したのだった。何度も体を拭くばかりでは芸がないし、意味もない。顎に手を当て、思考し、悩み続けた果てに閃いたのは――

「よし、舐めてみよう。頭の先から、足の指までたっぷりと」

 ぽん、と掌を叩き合わせ、キャンサーはライの前に両膝を付いた。彼女を正面からじっと見つめたあと、深々と頭を下げる。自分とこのあまりに愛くるしい少女とを巡り合わせてくれた、この世の全てに感謝を込めながら。

「それでは、いただきます」

 顔をあげたキャンサーがライの両肩を抱き、その灰色の頬に口を寄せた――次の瞬間。

 衝撃が、爆ぜた。

 耳を劈くような破砕音が鳴り響いたと思うと、キャンサーが背にしていた壁が粉々に吹き飛んだ。飛んできたアスファルトの鋭利な破片が次々とキャンサーの体を貫き、砂埃とともに灰色の床に薙ぎ倒す。

「な、なんだ!」

 何が起きたのか到底理解できないキャンサーの視界に、悠然と立つ戦士の輪郭が浮かび上がる。鈍い銀色に彩られたその戦士の肩には、凶暴そうな龍の頭部が備わっている。首周りには何の毛で作られているのかファーが巻かれ、その尊大な雰囲気を強調しているようだった。

 右手に握られ、埃に抱かれながらも煌めくのは装飾剣だ。先端が黄色に塗られているのが特徴的で、血に飢えた獣の瞳のようにその刀身は鈍い輝きを帯びている。

 腹部に構えた鉄板に振られた番号は、『5』

 キャンサーは記憶を慌てて掘り起こし、ケフェクスから受けた説明を思い出す。

「あれは……確か、フェンリルとかいう」

 フェンリルは首を巡らし室内にあるものを順々に、その目に捉えているようだった。

部屋の隅で雑多に積まれた農機具。石化したドラム缶。そして、石と化した小さな女の子たち。彼女らはフェンリルが壁を壊した衝撃で軒並み倒れ、床に寝ころんでいる。それを目にした瞬間、キャンサーは悲鳴をあげかけた。早く元通り立たせて、体を改めて拭いてあげたいという衝動にかられるが、それをフェンリルは許さないだろうということも瞬時に理解していた。

「ライちゃん、それに他の子たちもやっぱりここに……」

「倒したのはお前だぞ! 僕は可愛がっていたんだ。ちゃんとタオルで拭いてあげてな」

 フェンリルの顔がこちらを向く。硬質の仮面越しにも伝わってくる憎悪の大きさに、キャンサーは息を呑んだ。その剣呑を纏う立ち姿が人間のものだとは、到底思えない。

「お前……元に戻せるのか、この子たちを。元の人間の姿に……」

 低く、押し殺した声でフェンリルは問いかけてくる。だが、これに脅えるキャンサーではなかった。どれだけ凄もうとも人間は人間だ。怪人との間には圧倒的なまでの力量差がある。

「ああ。もし僕を倒すことができれば、戻るかもな」

 キャンサーの挑発に、フェンリルは怒り顕わに剣を構えた。右足を前に踏み出す。

「ならここで俺が、お前を斬る!」

「やってみろよ、人間風情が」

 低く腰を沈め、フェンリルが飛び込んでくる。キャンサーは背中のマントを翻すと振り抜かれた剣を腕で受け止め、弾いた。

「蟹座の英雄に勝てるか? 僕は一筋縄じゃいかないぞ!」

 姿勢を崩したフェンリルに、キャンサーは鋭くボディーブローを放つ。だがフェンリルは素早く後方に跳ぶことで、それをかわした。剣を中空にひと薙ぎし、再び構える。

「何座だろうと勝つ! お前みたいな化け物は1人残らず消えればいい!」

「消えるのは貴様だ馬鹿者! 僕のユートピアに土足であがりこむんじゃあない!」

 キャンサーが鋏を召喚したのと同時に、フェンリルも動いた。剣を抱え込むようして構え、全体重を載せた突きを繰り出してくる。

「ふん……」

 真嶋は鋏で肩を軽く叩きながら、笑みを零した。

 雄叫びとともに放たれたその攻撃は確かに気迫十分であったが、あまりにも単調だった。攻撃を読んでくれ、と言わんばかりだ。あまりの稚拙さに相好が崩れる。

「やはり所詮人間だな! そんなものでこの僕を!」

キャンサーは軽く跳びあがると、空中で足を力任せに振り抜き、フェンリルの顔面を蹴り飛ばした。くぐもった声を漏らし、床に叩きつけられる銀色の装甲服目がけて、キャンサーは両手で握った鋏を振り下ろす。

 だが、その切っ先が貫いたのは装甲服でも人間の肉でもなく、部屋の床だった。深々とコンクリートに突き刺さった鋏を引き抜くよりも早く、回避を成功させたフェンリルが身を起こす。足首を覆う装甲がスライドし、内部から三日月状の刃が出現するのを目にすると、キャンサーは身構えた。さらに刃はまるでドリルのように高速回転を始める。

「こいつは……」

 金属同士が擦れ合うような雑音に、キャンサーは嫌な予感を覚えた。だが悪寒を感じた時には、フェンリルは一歩、二歩と助走をつけると中空で腰を捩り、刃の回転する足を大きく薙いでいる。キャンサーは慌てて両手に鋏を召喚し、それらを体の前で交差させた。

しかし防具として用いるには、二本の鋏はあまりに華奢で頼りなかった。

 フェンリルの叫びが密室に爆ぜた。回転する刃によって凶悪なまでに破壊力を増した蹴りは、一撃でキャンサーの鋏を二本ともへし折った。衝撃に押しやられるキャンサーにフェンリルはさらに迫る。突き出された一撃を避ける余裕さえなく、腹に焼けるような痛みが走った。

「くそっ、なんなんだ貴様は!」

「……俺はただ、救われにきただけだ」

 フェンリルの右手首の装甲が開き、その内部から右足と同型の刃がせり出してくる。稲光と見紛うような閃光を発し、その刃もまた強烈な回転を始めた。

「何も変わらないかもしれない。だけど、この子たちを連れ出せれば……俺も少しは!」

 フェンリルは淡々と言葉を発しながら、剣を左手に持ち替えた。キャンサーは両手に鋏を召還するとその柄をしっかりと握り、同時に突きだした。

「何を、世迷い言を!」

 キャンサーの衝いた凶刃を、フェンリルは剣で大きく薙ぎ払った。あまりに力任せの一撃に指先が痺れ、鋏が二本とも宙を舞った。

鋏を弾かれたことで生じた隙を抉るように、フェンリルはさらに右拳を打ち出してくる。回転する刃が掘削機のようにキャンサーの胸の装甲を粉々に削り、破壊した。

「ぐぅ……」

 早鐘を打つ鼓動とともに畳みかける激痛に、真嶋は足をよろめかせた。足元に砂金のように散らばったその全てが、削り取られた自分の体の一部だと思うと吐き気さえしてくる。

 すると突然、フェンリルの手から剣が離れた。見れば痛そうに左手首を押さえ、震える呼気を吐き出している。どうやら左手を痛めているらしい。

 キャンサーは歯を食いしばり、上体をゆっくり起こすと、フェンリルを正面から睨んだ。フェンリルも顔をあげ、胸の前で右腕だけを構える。

「……そうか、貴様も僕と同じというわけか」

 キャンサーは唇を緩める。強がっているつもりはなかったが、胸の痛みが強すぎて、かえって笑みが零れてしまう。フェンリルは臨戦態勢を解かぬまま、低い声を発した。

「同じ……どういうことだ」

「隠さなくてもいい。貴様も僕と同じように、小さな女の子が好きなはずだ!」

 キャンサーは確信していた。先ほどのフェンリルの言動や、彼がこれほどの強さを発揮する理由にもこれで説明がつく。その体から発せられているオーラも、どこか自分と似通ったものを感じる。間違いなくこの装甲服を纏っている男は……

「ならば……貴様も僕の溢れんばかりの愛が分かるはずではないのか。僕はただ、小さな女の子を心から愛しているだけなのだということを!」

 拳を握って力説するが、フェンリルは微動だにしなかった。呆気にとられている様子だ。しかしやがて長い息を吐き出すと、体を少し屈めて右手で剣を拾い上げた。

「……お前の。お前たちのやっていることが、愛だっていうなら」

 体を起こし、一度、剣で空を切る。その瞳に帯びた怒気の色濃さに、キャンサーはひどい寒気を感じた。たまらず自分の腕を撫でやる。

「俺は、お前たちを絶対に認めない」

 認めない。その響きは、キャンサーの胸にまるで飛散したガラスの破片のように突き刺さった。頭に血が昇っていく。自分の心を土足で踏みにじられたような屈辱感が、血流に乗って全身を巡っていく。

「黙れ。貴様ごときが、僕のことを語るんじゃあない!」

 手首を軽く振り、右手に新たな鋏を握ると、キャンサーは躊躇わず横に一閃した。怒りを刃に載せて鋏を振り回すが、フェンリルの剣によって悉く弾かれていく。

「人を苦しませることが、泣かせることが愛なんて、そんなの絶対に違う。分からないくせに、その言葉を軽々しく使うな!」

「耳障りなんだよ! 貴様に、僕の愛を否定されるいわれはない! これが僕の――」

「簡単に人を殺すお前たちの、どこに愛があるんだ! ふざけるな!」

 キャンサーとフェンリルは丁々発止のやり取りを展開し、徐々に戦いの場を部屋の隅に移していく。後ずさりを強いられているキャンサーの方が押されているのは確実であったが、キャンサー自身はそれを認めなかった。胸の傷が激しく痛み、目が眩みそうになるが必死に耐える。

「僕を馬鹿にするな! 僕の女の子に対する愛は真実そのものさ。それくらい百も承知だ、少し黙れ!」

「黙るのはお前だ! 人を好きになる気持ちも、その貴さも! 嬉しさも! 悲しさも! 何も知らないくせに!」

 フェンリルの声音は微かに震え、ひどく苦しそうに聞こえた。だが、キャンサーにはとっては敵の感情の機微などどうでもいいことだった。胸の中に渦巻く怒りが、痛みが、思考を鎖す。

「だから俺は、お前たちの存在を許さない……人を好きになれないお前たちなんか、滅べばいい」

 フェンリルが剣を振り下ろす。キャンサーは逆袈裟に鋏をぶつける。火花が宙で爆ぜ、衝撃が空気を激しく震わせた。フェンリルは回転する刃の装着された足で、回し蹴りを放ってくる。キャンサーは体をわずかに反らし、危ないところで攻撃をかわした。鼻先を甲高い、怖気をも喚起させるような金属音が掠めていく。

 キャンサーは後ろに軽く跳びながら、左手に鋏を呼んだ。実体化するや否や、すぐさまフェンリルの左胸目がけて投げ放つ。

 フェンリルは左手を振り上げかける。だが、その動きを急に止めた。腰をよじり、不安定な姿勢のまま右手の剣で鋏を叩き落とす。攻撃は惜しいところで防がれてしまったものの、片足で着地を果たしたその格好には大きな隙が生じていた。

 その瞬間こそが、キャンサーの狙いだった。フェンリルが左手を負傷しているに気づいた時から、このタイミングをずっと待っていた。

「消え去れ、人間が! ごちゃごちゃとうるさいんだよ!」

 キャンサーは声を荒らげると、一気に足を踏みきり、鋏でフェンリルの顔面を切りつけた。「ぐうっ」と苦悶の息を漏らし、フェンリルは後ずさる。たまらず会心の笑みを唇に湛えながら、キャンサーはさらに鋏を突き出して追撃に出た。

「僕を愚弄する馬鹿は死んでしまえ!」

 首を――そこに這う動脈を、狙う。切っ先をかざし、まるで吸い込まれるように体ごと突っ込んでいく。

 だが真っ直ぐに向けられていたはずの矛先は、フェンリルの頬を掠めるだけに終わった。

 フェンリルは拳を軽く引くと、キャンサーの視界から姿を消した。素早く目線だけで探し、その姿を懐に見つけた時には、すでにその右手に回転する刃はキャンサーの腹を深くえぐり取っていた。

「なん、だと……」




仮面の話 9

 黒いローブに装甲を包んだマスカレイダー“シャドウ”を纏った雅人は、雑居ビルの屋上に立っていた。フェンスに捕まっていなければ、足元が覚束ないほどに風は荒れ狂っている。仮面に大量の水滴が付着するため視界が霞み、実に鬱陶しい。初めのうちはその都度手で拭きとっていたが、この矢のように降り注ぐ雨の中に立っている以上、いたちごっこにしかならないことに気付いて止めた。

 頭上にはこの世の終わりを表したかのような、どす黒い雲が広がり、空気はおどろおどろしい気配を孕んでいる。眼下を通り抜ける車が水たまりの上を通りぬけ、水しぶきをあげていった。

 雅人がゴンザレスによって与えられた任務は、フェンリルの後を追い、その動きを監視することだった。プレートに仕掛けてある発信機と盗聴器のおかげで、天村佑の動きは筒抜けだ。どうやら今は、雅人のいるビルのちょうど正面に建つ古い倉庫の中で、戦闘が行われているようだった。

「愛、か……」

 耳に手を当てながら、雅人は仮面の内側で声を零す。スピーカー越しに聞こえてきた天村佑と何者かのやりとり。感情を剥き出しにしてぶつかり合う二人の攻防に、雅人は喉元に熱いものが衝きあがってくるのを感じていた。

 愛。

 これまでの雅人の人生にはなかったものだ。だが今ではその言葉の響きに動揺し、感銘を受け、挙句にそれそのものを欲している。

 衝動と言い換えてもいいその感情を抱き、振りかざす彼らを心底羨ましく思う。正邪の分別はこの際、どうでも良かった。他人を想うがあまり、怒り、泣き、苦しむ様に雅人は惹きこまれる。気付けばフェンスを掴む手には力が入り、装甲服の腕力に負けてスチールが歪んでしまった。

「手に入れられるかな、僕にも……」

 脳裏に浮かぶのは闇の中に浮かぶ、楓葉花の白い肌だ。艶めかしく床に垂れる黒髪を想像すると、雅人は生唾を呑みこんだ。

「葉花ちゃん……」

 その時、雅人は何の気もなしに巡らせていた視界にあるものを捉えた。あまりの衝撃に頭から一瞬で葉花の姿は消えた。フェンスに顔を寄せ、目の前に突如現れた“それ”を凝視する。

「あれは」

 雅人はシャドウの腰に挿してある短刀のダイヤルを操作すると、能力を発動させた。自らの輪郭が空気に溶け込んでいくのを確認すると、強化された跳躍力でフェンスを飛び越える。ビルの壁面を蹴り、倉庫の脇に降り立った。水たまりを踏まないよう注意を払いながら、二つ並んだ倉庫の間に伸びた細い路地に侵入する。

 そこに彼女の姿はあった。ビルの上から確認した通りだ。大きな麦わら帽子に、純白のワンピース。瞳は虎視眈々と何かに狙いをすませているかのように鋭く、口紅の引かれた唇は固く結ばれている。

 彼女との距離を十分に保ってから、刀のダイヤルを再び操作した。シャドウが姿を見せると彼女はびくりと体を震わせ、それから後ずさった。

「お前は!」

「驚いたな。まだ生きてたなんて……不死身か?」

 彼女は歯肉を剥き出しにし、くしゃりと顔全体を歪ませるとその瞳を金に輝かせた。数秒を置くことなく、彼女の人間としての姿は藍色の景色の中に消え、代わりに鷲を胸に描いた怪人が出現した。

 鷲を丸ごと一匹用いた頭部と、鉄格子のようなデザインの体をもつその怪人が“グリフィン”という名前であることを雅人は知っていた。数日前に戦闘し、倒したはずの怪人だ。

 グリフィンは荒々しく叫ぶと頭部の翼をわずかにはためかせ、いきなり殴りかかってきた。シャドウは素早く後ろに跳んで回避する。続けざまに上段回し蹴りが繰り出されるが片腕で受け止め、力任せに押しのけた。グリフィンは空中で一回転し、両足で着地すると右手の掌に白い光球を浮かばせる。雅人は慌てて手を顔の前で仰いだ。

「ち、ちょっと待て。俺は戦いにきたんじゃない。用があるんだ。少し喋らせろ!」

「用?」

 グリフィンは光球を維持したまま、訝しげに首を傾げる。どうやら交渉の余地は与えられたようだ。雅人はシャドウのローブの中から一通の封筒を取り出すと、グリフィンにかざしてみせた。

「とにかくこれを見てくれ。うちのボスからの伝言だ」

 手首に捻りを加えて投げつけると、グリフィンは左手でそれを受け取った。

「戦いたいって言うなら、受けて立つ。だけどそれを読んでからだ。お前が読んで納得できれば……それをお前たちのボスに渡して欲しい」

「お父様に? なぜ私がそんなことを?」

「僕が説明するまでもない。全てはその手紙の中にある。どう感じるかは、お前次第だ」

 シャドウは短刀を腰から引き抜くと、それを背後に投げ捨てた。両腕を広げて無防備を示すと、グリフィンは困惑している様子で手紙とシャドウとを見比べ、やがて意を決したように掌から光球を消失させた。

 封筒を乱暴に破り、中から折り畳まれた紙を取り出すグリフィンを見つめながら、雅人は胸騒ぎを感じていた。もしや自分はとんでもないことをしているのでは、とも思うがその心に罪悪感はない。自分の事以外はどうなっても構わないという思想は愛を欲し、楓葉花を求めるようになった今でも大して揺らぐことはなかった。




死人の話 11

 キャンサーは床に散った自らの肉片の上で激しく悶えた。猛火の如く襲い掛かる激痛に視界が暗転し、意識が途切れそうになる。口から漏れ出る悲痛の声を、奥歯を強く噛みしめることで封じる。

アスファルトの床が抉れるほど強く爪で引っ掻きながら、キャンサーは崩れゆく思考の海の中に真嶋の姿を浮かべる。するとほどなくして体に薄い布のようなものが被さる気配を感じ、体中から痛みが引いていった。

真嶋の体を得たキャンサーは、肩で息をしながら体を起こした。掌にべったりと金粉のようなものが貼りついているのが分かると、それだけで気が遠くなる。唇を噛み、探るような目でこちらを見るフェンリルを睨み返す。

「貴様……よくもこの姿に僕を戻させたな!」

 周囲を見渡せば石像たちはあちこちに投げ出され、全身に砂埃を浴びている。真嶋は自分の額に青筋が浮かぶのを感じた。怒りで体が熱くなる。

「それだけじゃない。可愛い石像たちを無下に扱いやがって! 絶対に許さん!」

 真嶋はジーンズのポケットからプレートを取り出した。手の中にそれを強く握りしめ、怒りのままにフェンリルに突進する。フェンリルは困惑した様子で剣を振り上げたが、人間の姿をした者相手では躊躇があるらしく、その刃が真嶋を切りつけることはなかった。

「おらあっ!」

 真嶋は拳でフェンリルの胸を殴りつけた。指の関節の皮膚が破け、血が噴き出すのも構わず、さらに蹴りを加える。そして後ろに押しのけられるフェンリルの体がわずかに光を帯びたかと思うと、そこから勢いよく無数の装甲片が飛び出した。

「僕に一矢を報いたことは褒めてやる。だが、そこまでだ……貴様を嬲り殺してくれる!」

 真嶋がプレートを腹部にかざすと、フェンリルから放出された装甲片は空中で渦を掻き、真嶋の体の周りに寄せ集まっていった。やがてそのパーツ同士は組み合わさり、一着の装甲服を誕生させる。

 黄金に輝く体躯。両腰に収められた鞭。左手首にはガントレットと一体化した鋏が装備されている、全身で蟹を表現したような装甲服だ。

「このハイパーファルスが、貴様を地獄に送ってくれる!」

 ファルスを纏った真嶋は啖呵を切ると、左腰に下がった緑色の鞭を手に取った。紐の部分にまるで有刺鉄線のように、びっしりと棘が生えた代物だ。ファルスは片足を踏み込むと、肩を大きく回して鞭を放った。

 フェンリルは右手の刃を回転させると身構え、鞭の軌道を読もうとしている。そのいかにも真剣な様子に真嶋は内心、ほくそ笑んだ。この緑色の鞭の前では、どんな予想も判断も役には立たない。

 ファルスは柄に搭載されているダイヤルを、親指で軽く捻った。すると宙を走っていた鞭の軌道が急激に変化し、じぐざぐの軌跡を描いて、フェンリルの胸を貫いた。

「次ぃ!」

 さらにダイヤルをいじり、跳ね返ってきた鞭を再びフェンリルに向かわせる。大きく弧を描くように飛んだ鞭は、フェンリルの脇腹を抉りながら切り裂いた。返す刃で今度は足を切りつける。宙を踊るように移動する鞭は、抵抗する暇も与えずフェンリルを蹂躙していった。

「見たか! これが僕の愛だ。この高尚さ、貴様には理解できまい!」

 返す言葉も持たないのか、よろめくフェンリルにファルスは鞭を収め、飛び掛かった。悲痛の吐息を漏らしながら振るわれる剣を軽く回避し、左腕の鋏で袈裟切りを放つ。火花をあげながら吹き飛ぶその体に左手を振りかざし、接近する。

「……理解できるか。お前らの、ことなんか!」

 壁に肩を叩きつけられながら、フェンリルが叫ぶ。その構えた剣で、ファルスの攻撃を防いだ。腕に力をこめるが圧倒することはできず、鍔迫り合いに持ち込まれる。

「理解なんか求めていない! はなから、僕の愛は僕だけのものだ!」

 フェンリルの剣が軋んだ音をあげる。足を痛めつけたのは大きかったらしい。呼吸は乱れ、その指先も微かに震えている。真嶋の姿になって気付いたのだが、倉庫内の高い温度と湿度はそれだけで体力を削られる。フェンリルの装着者も限界に近づいているはずだ。

 あともうひと押しだ――頭に過る勝利の予感に、真嶋は思わず仮面の下で笑みを零す。両手にさらに力をこめ、一気に押し切ろうとした。

 その時。

 無数の足音が、コンクリートの床を踏みしめる音が、部屋中に鳴り渡った。

「なに……」

 ファルスはフェンリルの脇腹を強く蹴って後ずさると、音のする方角を求めて周囲に視線を巡らせた。すると次の瞬間、フェンリルの空けた壁の穴から人影が姿を現した。

 しかも一人ではない。次々と後に続いてくる。まるで蛇口から点々と落ちる水滴のようだ。列がようやく途切れると、部屋の中には五人の男が並び立った。皆一様に顔を鳥のお面で塞ぎ、黒地のスーツを身に纏っている。お面を模っている鳥の種類はそれぞれ違うようだったが、その風貌から漂う不気味さにほとんど差異はなかった。

 ファルスの背後でフェンリルは壁にもたれながら息を切らし、呆然とその異様な光景を眺めている。遅れて状況を察した真嶋はファルスの内側で舌打ちをした。

「やはりお前だったのか……キャンサー」

 横一列に並び立つ男たちの中心にいる、燕のお面を被った男が室内に目を走らせ、冷淡に告げる。気配を感じ、視線を真横に向けると、そこにいつの間に現れたのか、紫色のゴムボール、“ヤドカリ”が宙を浮いていた。

「なにをしている。大人しくしているのが東京に向かう上での条件だったはずだ。あの方が心配している」

「う、うるさい! お前たちに迷惑はかけてないだろうが! 僕は僕の欲望に素直なだけさ……お前たちに何も言われる筋合いは」

「なるほど。では、父親がどうなってもいいということか」

 真嶋はうっと呻き声を漏らし、目を見開いた。全身に包帯を巻かれ、ベッドで生かされている父親の姿が記憶に蘇る。胸がひどく締め付けられ、呼吸さえ止まった。

「キャンサー。お前がなぜ我々のもとにいるのか、その理由を忘れたわけではあるまい」

「それは!」

「欲望にかまけて、我々を裏切るというのならばそれでもいい。だが、代償は払ってもらうことになる。今のは、それを覚悟しての発言なんだろうな?」

 燕のお面を被った男の挙動は機械的で、だからこそよりその言動は脅迫めいていた。彼は暗に従わなければ父を殺すと告げているのだ。しかもその判断はこの男の独断ではなく、組織の総意なのだろう。

 全身から汗が噴き出す。喉が干上がっている。暑さのせいではない。不安が内臓をじりじりと炙るかのようだ。

 部屋の中に横たわる、幼少女たちの石像に目を運ぶ。お面の男の鋭い視線と、ヤドカリの気配を頬に感じながら、ライの美しい鼻筋を見つめ――

「……分かった。お前たちの、言う通りにしよう」

 心で揺れていた天秤が、父の方に傾く。真嶋は不服を押し殺して呟くと、悔しさに強く唇を噛みしめた。

「だから父さんは助けろ。必ずだ。お前たちも約束は守ってもらうからな……」




鎧の話 57

 行方不明になっていた子どもたちが無事に見つかった、というニュースがテレビで流れたのは11時になるかならないかという頃だった。発見されたのは現場より10キロ程離れた雑居ビルらしい。警察は逮捕した男の供述も合わせて、さらに調べを進めているらしい。

 採血を終えた直也は、そのニュースをベッドの上で観た。罪を着せられた男が証拠不十分で解放されることを心から願う。祈ること以外に何もできない自分が、やはりもどかしい。第三者という立場はやはり直也は苦手だった。

「……おっさん、ごめん。心配かけちゃった。深追いはするなって言われてたのにな」

 電話の向こうで、ライが申し訳なさそうに言う。一時はどうなることかと不安に押し潰されそうになっただけに、彼女の声を耳にするだけで直也は胸が震えた。

「ああ。でも、無事で良かった。本当に良かった。大丈夫か? 怪我とかは……」

「全然オッケー。なんともないよ。ちょっと体の節々が痛いけど、それくらい」

 ライは、んっと伸びをした後のような声をあげる。石化の後遺症に違いないが、その程度で済んだのなら御の字だろう。

「そっか……咲さんが、守ってくれたのかもな。そうとしか思えねぇよ」

「うん。でも、もう少しやれると思ったんだけどなぁ。いきなり意識が飛んじゃってさ。びっくりしたよ。私ももう、終わりかと思った。ダメだな私も。もっと強くならなくちゃ」

「そう卑屈になるなよ。お前のおかげで子どもたちは救われたんだ。それは胸を張っていい。お前が怪人の仕業だって騒がなきゃ、今頃子どもたちもどうなっていたか分からない。よくやったよ、お前は」

 このタイミングで怪人が行動を起こすわけがないと、直也は二の足を踏んでしまった。しかしそんな直也を一喝し、正義に導いてくれたのはライだった。そのおかげで大切な命が救われたとなれば、彼女に感謝しないわけにはいかないだろう。

「おっさんに言われると、嬉しいよ。でも私、もうおっさんに心配かけないように頑張るから。だからさ、応援していてくれよな」

 ライの口調は真剣そのものだったが、その物言いにどこか微笑ましさを覚え、直也は思わず口元を緩めた。気持ちが弾んでいるのが、自分でもよく分かる。

「あぁ、期待してるよ。気をつけて帰ってこいよ。台風だからな。飛ばされんなよ」

「大丈夫だって、私が飛ぶかよ。私の方が台風をぶっ飛ばして、おっさんに太陽を持ち帰ってあげるよ」

「あんまり無理すんな。まぁ、楽しみにしておいてやるよ」

 嵐の中、長電話を強いるのも申し訳なく思い、直也はその言葉を最後に通話を切ろうとした。だが少し思いとどまり、「おい、ライ。佑に代わってくれるか?」と再び送話口に口を寄せた。

 ライの声が「ああ、うん。ちょい待って。近くにいるから」と遠ざかる。数秒してから「はい、代わりました」と佑のくたびれた声が返ってきた。

「ごくろうだった。……怪人、逃がしたそうだな」

 口元から笑みを消し去り、わざと感情を押し殺し、告げる。すると佑は「……すみません。あともう一歩のところだったんですけど、手強くて」と消え入りそうな声を発した。やはりその語調には疲労が滲んでいる。

「お前、怪我は?」

「あの、足をちょっと擦りむいたくらいです。あとは……どこも」

 何かを隠している。直也は佑の煮えきれない口調から、直感を働かせる。佑があからさまに目をそらしたのが、電話回線を隔てていても手に取るように分かるようだ。

 だが、あえてそれを指摘することはしなかった。ライと子どもたちが無事だった。その事実以外は、今の直也には必要なかった。

 だけど。

 直也は口をもごもごとさせる。唾を呑みこみ、それから天井に視線を移した。なんだか決まりが悪く、躊躇いが喉を塞ぐ。しかし、ここで言わなくてはならないと思った。

「でも、良かった。みんな生きてて。みんな守れて、それだけで俺は」

「おい佑。……一度しか言わないから、聞いとけ」

 佑の言葉を遮り、直也は少しだけ語気を強める。電話の向こうが静かになるのを待ってから直也は深呼吸をし――重い口を開いた。

「ライを助けてくれて、ありがとな」

 佑が反応する前に、直也は通話を切った。言ってから気恥ずかしくなり、携帯電話を布団の上に放り投げた。

 佑の行いを許してはわけでは、けしてない。因縁も憎悪も直也の中には絶えず渦巻いている。

 だが、今回のことと過去のこととでは話は別だ。佑は直也との約束を果たし、無事ライを救いだしてくれた。感謝を告げるのは当然のことだろう。ここでくだらない意地を張るのは、直也自身もそして佑もあまりに救われない。

 窓の外では相変わらず、風がけたたましい叫びをあげている。直也はそっと瞼を閉じ、枕に頭を預ける。嵐を耳に感じても、先ほどまでの不安は襲ってこない。現実とは正反対の、ひどく穏やかな風が直也の胸の内を撫でていくようだった。

 そこに、まるで水面の波紋を浮かべる小石のように携帯電話の着信音が流れ込む。

 ライがかけ直してきたのかと思って手に取ると、画面には菅谷の名前が表示されていた。慌てて体を起こすと通話ボタンを押し、耳に当てる。

「すみませんね。先ほどは電話をとれなくて。少したてこんでいまして」

「いえ。こちらこそ朝っぱらからすみません」

「でもちょうどいい機会でした。坂井さんに取り急ぎ伝えたいことがあったものですから」

 菅谷は声を低めた。その様子から彼が話しをしようとしていることの重大さは、察することができた。直也は受話口にさらに耳を寄せる。

「……どうしたんですか?」

「実はですね。分かったんですよ。リリィ・ボーンの、開催場所がね」

 息を呑む。心臓の鼓動が高く跳ねた。

嵐の音が耳から遠ざかる。頭に過ぎるのは、鉈橋家で出会った式原明の歪な笑顔だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ