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15話「石造りの少女」

黄金の鳥 3

 陰湿な気配を帯びた風が、窓ガラスを震わせる。月のない夜に渦巻く空気は不吉な予感を代弁するかのようだ。ガラスを這う無数の水滴を指でなぞりながら、天枷紅一郎は眉を顰めた。彼の背後にはバスケットボールサイズの黒い球体が、禍々しい瘴気を纏って浮遊していた。球体の表面には四角いモニターがあり、紫色の怪物が映し出されている。

「前にケフェクスという怪人が手土産に持ってきた、ガラス片なんだけどね。あれはやっぱり、魔鏡の破片らしいんだよ。もちろんそのままじゃなく、特殊な加工が成されていたけどね」

「そんな技術が奴らに……」

「まぁ、黒い鳥なんて紛い物を生み出しちゃう人たちだからね。それも不思議じゃないんだよ。ガラス片の中には怪人が入っていたんだよ。どちらも頭が足りてなかったから、すぐにルクスの部品にしちゃったけどね」

「ガラス片のほうは、魔鏡の修繕に使ったのだったな」

「うん。でも、これではっきりしたよ。魔鏡は複数存在する。ハクバスは別の魔鏡から逃げて……」

「そして、楓葉花嬢にとり憑いた……というわけか」

 天枷は窓の外を見下ろす。黒城グループ本社ビルの3階にある、小会議室で残業をしている最中だった。時刻は午後9時をまわっている。しかし視界に臨むことができる新宿の町はいまだ活気づいていた。

「それで、巫女はどういった決断を? 親友と黄金の鳥とを天秤にかけるのは、さぞ辛いと思うが」

「うん。あきらちゃんも、随分悩んでるみたいなんだよ。とりあえず、トールの意見を汲むらしいけどね」

「信心も、黄金の鳥を尊ぶ心もない男が対話とは片腹痛い。この私ですら、鳥の真理にたどり着けてはいないというのに」

「彼は特別なんだよ。黄金の鳥に見初められた唯一の人間だからね。確かに黄金の鳥と会話をするには、彼以上にうってつけの存在はいないかも」

 天枷はモニターに映る娘を睨みつけた。だが怒りの矛先を彼女に向けても仕方がないことに至り、何とも煮え切らない気分にため息を零す。

「……それで、トールをこれからどうするつもりだ。東京によこすのか?」

「まだそれはできない、というのがあきらちゃんの判断だよ。マスカレイダーズにこちらの居場所が見つかったようなんだよ。またいつ攻めてくるか分からないし、そうなったらトールは一番の切り札だからね。おいそれと手放すわけにはいかないんだよ」

「そうでなくとも、今の奴は高濃度の粒子下でなければ活動できないという話を聞いたが」

「そっちは慣れで少しは改善されるだろうけどね。一応、こっちも緊急用の装置を作っているし。まぁ、あとはあきらちゃん次第というわけなんだよ」

 黄金の鳥の巫女、華永あきらの命令は絶対だ。彼女は天枷や他の構成員を追従させるだけの力と血筋を持っている。黄金の鳥に選ばれた存在であろうと、例外はありえなかった。

「そういえば、お父様の方はどうなんだよ。マスカレイダーのことで進展はあったのかな?」

「あぁ……そうだ、お前には真っ先にそれを伝えるべきだったな」

 天枷はテーブルの上に置かれた桃色のファイルを手に取った。表紙を片手で捲る。

「マスカレイダーズのアジトらしき建物が発見された。キャンサーからの報告でな」

「……へぇ。あのロリコン怪人もやるもんだね。見直したよ」

「父親の件は、奴にまだ話していない。いずれ話さなくてはならない時がくるだろうが、今はそのタイミングじゃない」

「まぁ、その通りだよ。真相を知ったら、あの男は絶対に裏切るもん。それは組織にとっても痛手だよ。猫の手も借りたいくらいなんだもん」

 重傷であり、タンポポの塔で治療中であったキャンサーの父が佐伯稔充襲来と同時に姿を消した。佐伯かえでは稔充がやってきて男をさらったと証言していたが、その話も眉唾ものだった。なぜならその時間帯、佐伯はL.エッジとなって戦っていたからだ。何人もの目が、それを認めている。

 真相はともかく、キャンサーの父親がいなくなったことは確固たる事実であり、時がくるまでは、そのことをキャンサーに伝えるべきではないというのが組織の共通認識だった。娘の言うとおり、父親がいなくなったことを知れば彼が組織を裏切ることは明白だった。キャンサーには貴重な人材としてまだ働いてもらわなくてはならない。

「……それで話を戻すが、先ほどから、お面の男たちに家捜しをさせているところだ。いい報告を期待したいところだがな」

「だね。そういえば、私のペットちゃんは、なんだかコンタクトが切れたみたいなんだよ。もしかしたら死んだかもしれないんだけど、お父様は何も聞いていないかな?」

 娘の――紫色の怪物の言葉に、天枷はファイルのページを捲る手を止めた。

 キャンサー、真嶋とともに現れたセーラー服姿の少女を頭に思い浮かべる。正体が怪人とはいえ人間にしか見えないあの少女のことを、何の悪気もなくペットと呼称する娘の精神を、天枷は不快に思う。しかし彼女から人間としての肉体と心を奪い、おぞましい化け物に変えてしまったのは他の誰でもない、天枷自身だ。責任を転嫁することなどできない。

だがそれでも生まれて間もない頃の、すなわちまだ人間だった頃の娘を思い出すと、いたたまれない気持ちが微かに沸いてしまうのだった。

「さあな。キャンサーは何も言っていなかった。明日にでも聞いてみることにしよう」

「お願いするんだよ。可愛い可愛い、私のペットなんだから。お墓くらいは作ってあげないと、可哀想だよ」

 心配しているような言葉の内容とは裏腹に、怪物の声にはどこか愉悦が滲んでいる。

天枷はファイルを閉じると、テーブルの上に置いた。ため息をつき、それから球体に足を近づける。

「……それはそうと、キャンサーが妙なものを見つけてきた。あとで転送しておく。巫女に見せてくれ」

「妙なもの? 今見せてくれてもいいんだよ?」

「今は都合が悪い。なに、1枚の紙だ。それくらいならヤドカリを通じて送れるだろう?」

「でも」

「忙しいんだ。おやすみ。通信を切るぞ」

 怪物の反論を許さず、天枷はほとんど強制的に会話を断ち切った。球体の上部を叩くことでモニターが閉じ、球体は空間の歪みへと帰っていく。天枷は踵を返すと、窓の外に視線を戻した。新宿の夜景が、蝋燭の灯のように揺らめいている。

「……どうしてこうなった。私が間違っていたとでもいうのか」

 およそ10年前、天枷はまだ幼かった娘を黄金の鳥に捧げた。当時のリーダーであった華永の指示であったが、天枷は娘を生贄に送り出したことに対し、一度も後悔をしたことがない。むしろ誇りにさえ思っていた。娘は黄金の鳥によって選ばれた人間だったからだ。

それは華永の娘でさえ達しえなかった領域だった。今まで何十という人間が黄金の鳥に関わってきたが、黄金の鳥に見初められた者は娘を合わせても、たったの3人というのが現状だ。天枷にとって娘は誇りだった。たとえ醜い体に変貌し、心が腐り果ててしまったとしてもその気持ちに変わりはない。

「……いや、私は間違ってなどいない。黄金の鳥は至高なのだ。私も紫苑も幸福に思うべきなのだ」

 その時、建物の前に車が一台止まったのが見えた。ビルの3階にいる天枷から見ればちょうど足元を見下ろす形になる。

 街灯に照らされたそれは、黒塗りの外車だった。やがて運転席が開き、中からスーツ姿の男が現れる。続けて助手席から、正装に身を包んだ女性が現れた。黒いフレームの眼鏡をかけていて、髪を後ろで縛っている。頭に挿した一輪の白い花が、黒髪に映える。天枷の位置からでは、明瞭な顔かたちや、年齢までは分からなかったが、おそらく若いだろうと予測をつけた。

 そして建物の中から、ワイシャツにスラックス姿の中年男性が現れる。

 天枷は嘆息した。夜の闇の中でも、その肥えた体と卑しさに満ちた風貌を見ればその人物の正体は明らかだった。

 黒城グループ、現社長、黒城清次。黒城和哉の従弟にあたるその男は、その立場を利用して、夜な夜な女遊びに励んでいるとの話だった。

 だから黒城清次が浮ついた様子で女性に手をとられ、一緒に外車に乗り込んでいく光景を目撃しても、天枷は対して驚きはしなかった。

 ただ呆れ果てた。この会社ももう長くはもたないだろうな、とため息を零す。前社長が長い時間と努力を重ね、発展させたこの企業も腐敗した人間一人によって滅んでしまうのだから非情なものだ。ただ、後任を選んだのは黒城和哉自身なので、大きく見れば自業自得ともいえた。

 くすんだ景色の中に、外車は去っていく。天枷は窓に背を向けた。心に重いものを感じながら、先ほど娘に出しかけたファイルに手をかける。表紙を捲ると、一番はじめのページには真嶋がマスカレイダーズのアジトより持ち帰ってきた、拙い文章の書かれた画用紙が挟み込まれていた。




鎧の話 52

 直也は病室のベッドの中で寝つけずにいた。天井を見つめながら闇の中に考えを巡らせる。床頭台の上に置かれたICレコーダーを一瞥し、目を細めた。

 レコーダーに記録されているのは、SINエージェンシーの事件に関する佑の証言だった。自分の病室に呼んで協力を仰ぎ、断られた後、直也は佑に対し、続けて尋問を行った。

 直也は目を閉じた。日中、この部屋で展開された光景を、脳裏に浮かべる。

本当に咲を殺したのか?

――はい。俺があの人を、オウガを持っている女の人を、殺しました。

 なぜ殺した?

――あの人に、鳥の痣があったから。悠は……妹は昔、同じように鳥の痣を付けた人に襲われたことがあって。……あの人も、仲間だと。

鳥の痣のある……男?

――はい。男です。車に連れ込まれそうになったんです。何とか助けましたけど……だから、あの痣が女の人にもあるのを知った瞬間、すごく怖くなって。あの人たちが生きている限り、悠も、俺も、安心してこの町で暮らすことなんかできないって。そう思ったんです。その予感は的中でした。

 そいつが連続女性殺人事件の犯人。怪人たちの親玉だから、か?

――やっぱり、もう、そこまで掴んでたんですね。男の名前は式原明。もう1人仲間がいて、そっちは分からないですけど。主犯は間違いなく式原です。

 式原……1週間くらい前に、あの家にいた中年の男のことか。

――そうです。奴は生きてたんです。死んだと思ったのに。そして今も……俺たちは、苦しめられてる。怪人なんか作って。悠は、苦しめられている。

 ……話を戻そう。咲さんを殺したことに理由があるのは、理解こそできないが、とりあえず分かった。でもそれじゃ太田所長を殺した理由にはならない。それにお前は建物にも火をつけた。どうしてだ?

――それは……知りません?

知らない?

――俺は公園でオウガと戦って、刀をへし折って、その後、意識を失ったんです。あの人が死んだ……俺が殺したという話は、後から聞きました。

 そんな馬鹿な。じゃあ、太田所長は誰が。

――信じてもらえないかもしれませんけど、俺は知りません。オウガは確かに俺が殺しました。でも、その他は、全然。

 お前、さっき、公園で殺したって言ったよな? おかしいだろ。咲さんはビルの前で倒れてたんだ。死体が動いたとでも……

――あの……

 ……そういえば、お前さっき、後から聞かされたって言ってたよな? 誰にだ。誰に聞かされた?

――ゴンザレスっていう、狼の着ぐるみを着た変な人から。その人から、フェンリルももらったんです。女の人に痣があるって、教えてくれたのも……

「初めから、気付くべきだったな」

 記憶を探り終え、直也は瞼をゆっくりと上げた。胸中にはどろどろとした、嫌な気配が渦巻いている。

 直也はずっと、咲は事務所の中で殺されたと思い込んでいた。拓也が船見家から拝借をしたイミシャドの装着記録を知ることのできる機械が、咲がオウガを纏った時間を克明に記録していたためだ。直也が燃えているビルを見た時間と、咲がオウガを使用した時間にそれほど間がないので、咲は倒れていたその場で殺害されたのだろうと特に深く考えることもなく確信していた。

 だがもし、その記録がでたらめだとしたら?

 自分は気付いていたではないか。そして拓也は教えてくれたではないか。装着記録を示す機械を製作したのは、あのゴンザレスなのであると。

ゴンザレスの悪意を知っているはずなのに、虚飾に満ちたその姿を理解しているはずなのに、それにも関わらず直也は彼の作った機械を無意識に信頼してしまった。そこに大きな過ちが生じていた。

「……そうなると、天村佑が言っていたことも信憑性が薄らいでいく」

 咲を殺した、というのは佑の言葉から想像するに、彼の具体的な経験ではなく、人づてに聞いた――言い聞かされた事実らしい。そしてその相手は、またしてもゴンザレスだ。

「本当に咲さんを殺したのは、あいつなのか?」

 咲を殺してしまった後悔に嗚咽し、妹を守らなくてはいけないと叫んでいた天村佑の顔を直也は忘れられない。身内とはいえ、あれほどまでに人を愛し、人を守りたいと願う少年を、咲や所長を殺害したフェンリルとどうしても重ねられずにいる。

 昨日の夜、鉈橋きよかとなったライは3年前に起きた出来事の断片を明かしてくれた。本人いわく鉈橋きよかはマスカレイダーズの前身、“白馬”のリーダーであった船見琴葉に殺害されたという。ならば彼女から黒い鳥を受け継いだ咲が、琴葉に狙われてもおかしくはない。

「マスカレイダーズ、か……」

 まるでパズルのピースが一つ一つ、はめ込まれていくかのように。頭の中でざっくばらんに散りばめられていた情報たちが真相を導き出していく。

 マスカレイダーズとコンタクトが取れれば事は早いのだろうが、今の直也はその手段を持たなかった。仲間であった佑を切り捨て、一体彼らがどこを目指そうとしているのか直也には想像することすらできなかった。

 ゴンザレスの卑屈な笑い顔が目の前を過る。周囲の全てを嘲るような、虚飾に満ちた、あの狼の着ぐるみの姿が、脳裏に蘇る。

 直也は眉を顰めた。ゴンザレスを思い出すと同時に、彼がよくやっていた仕草もまた、海面に浮きあがる水泡のように浮かんできたからだ。

 ゴンザレスはよく自分の手首を擦るような、妙な動作を行っていた。

 その動きがふと直也の中で、腕時計の盤面を指でなぞっていた菅谷と重なった。

 偶然の一致だろうとは思う。そうであって欲しいと願っているだけなのかもしれない。菅谷が“狼”という単語を用いたものだから自然、連想してしまっただけだろう。だがそのイメージを一致させることは、佑とフェンリルを重ねることよりもはるかに容易だった。

「……まさかな」

 しかし突如舞い込んできたその考えを、直也は胸まで掛けてあったタオルケットと一緒に払いのけた。勢いをつけ、ベッドから上半身を起こす。腹部の引きつるような痛みに耐えながら腕を伸ばし、床頭台の引き出しを開ける。そこに保管されていたオウガのプレートを掴むと、伸ばしたままの足の上に置いた。

 無数の傷が彫り込まれたプレートは、常夜灯の光を薄く反射している。その表面に手を重ね、ゆっくりと鼻に息を通わせた。

「咲さん。もう少しだから……もう少しで、ゆっくり休ませてあげるから。だから」

 叩きつける風で、窓ガラスが激しく揺れている。雨の音が小刻みに聞こえてくる。まるでこの部屋だけが、周囲の世界から隔絶されているかのようだった。

 閉鎖された空間で直也は祈りをこめる。プレートに残った僅かな体温が、直也の心をさらなる決意へと導くのだった。




死人の話 6

 埃とカビの臭いが入り混じった毒々しい空気が、その倉庫の中には充満していた。

人間が長時間滞在するには適さないこの空間に、照明器具の類は存在しない。鍬や救命用の浮き輪など、様々なものが雑然と置かれているだけだった。

 熱気を孕んだ鈍重な空気が、まるで水に浮かぶ波紋のように広がっている。心を惑わせ不安定にさせるかのような、不快感がこの部屋には満ち溢れている。なにか、ただならぬものが潜んでいそうな――強烈な違和感。

 闇の中に突如、笑い声が弾けた。それは引きつるような笑いだった。数十秒続いたあとで息を切らし、止む。

「さて、準備は整った」

 部屋の中心で石臼の上に腰掛けながら、全身を金の装甲で包んだ怪人が呟く。胸には蟹を模った絵が描かれ、背中にはマントを着けている。声は男性のものだ。

 怪人の周囲には彼が腰掛けているのと同じような石臼が、五つ六つ転がっていた。だが子細な部分を見ると、それらは石臼というよりもドラム缶によく似ている。

 石造りのドラム缶だ。白っぽい色のものや限りなく黒に近い灰色のものまで、色に差異はあるものの、そのどれもが石のような色と質感をもっていた。

 さらに部屋の隅に目を向けてみれば、眩いばかりの銀に染められたビニール袋や本が複数置かれている。そちらはまるで金属のような質感だった。金属細工のようにも思えるが、それにしては精巧すぎる。まるで本そのものが金属と化してしまったかのようなのだ。

「さて始めるか……僕の怪人としての本領を、発揮する時がきたな」

 怪人は再び笑う。歪んだ笑みを、その口もとに宿す。卑屈な声が部屋の中に跳ね回る。やがて彼は笑い声を収めると、瞳を爛々と輝かせた。

「……僕の時代の始まりだ」

 怪人――キャンサーは自分の本質をついに見出した。彼の心の中に、もはや迷いや苦しみはない。あるのは遠く広がる青空のような、澄み切った爽快感だけだった。




鳥の話 47

 鷹を彷彿とさせる仮面で顔を伏せ、全身を黒い布で包んだ何か。

V.S.トールが今、対峙しているその物体こそが“黄金の鳥”と呼ばれるものだった。

封印されていることを自ら示すかのように、体中には鎖が巻かれ、胸の前で南京錠を使って留められている。マントから飛び出した手は赤錆色をし、ミイラのようにやせ細っていた。頭には銀色に光る剣が、痛々しくも突き刺さっている。

あきらたちにしてみれば崇拝の対象。マスカレイダーズにしてみれば討伐の対象。V.S.トールにしてみれば、それは葉花の命を縛り付けている“悪”に他ならなかった。

広い目で見れば、鳥は10年に渡る戦いを生み出した根源なのだろう。一体どれほどの人間がこの鳥によって惑わされ、脅かされ、狂わされたのか、考えただけでも吐き気を催すようだった。

不快感を堪えながらV.S.トールは手を伸ばす。南京錠のある5センチ上に、指先でそっと触れる。まるでマネキンを服の上から撫でているかのような感触が、指を伝った。

目を瞑ると、暗闇の奥に淡い光の塊が見えた。少しずつ、それは緩慢な速度で近づいてくる。黄金の鳥の内に潜り込むイメージを、脳裏に浮かべる。それは神経をやすりで削られるような、大変な作業だった。先を急ぎすぎれば散り散りになって壊れてしまう。かといって慎重になりすぎていると、瞬く間に光は消えていってしまうのだから難儀なことだった。

「……君は誰だい? 一体、どこからきたの?」

 まるでガラス細工を扱うように、V.S.トールは静かに囁く。光の中に人の顔のようなものが見える。その口が動き、何事かを発していることまでは分かる。だが、今の段階ではそこまでだった。半日でそこまで近づけたのを成果と呼ぶべきか、比較する対象がないので何ともいえない。あと少し音量を上げてくれれば声を聞くことができそうなのが、実に歯がゆかった。

その時、V.S.トールは背後に気配を感じた。

微かな苛立ちを覚えながらも集中を解き、現実世界に心を戻す。振り向くことはしなかったが、視界の端に紫色が過ったことで正体を即座に見抜くことはできた。

「……何の用だい? 生憎、まだ時間はかかりそうだけど。それとも、監視のつもり?」

 すると紫色から、ふふ、と色気のある笑い声があがった。その陰湿な気配が、背中ににじり寄ってくるかのようだ。

「別に。単なる興味本位だよ。ただ、黄金の鳥と話すなんて芸当、そう見られるものじゃないからね」

「そんな大したことじゃない。東京に帰るほうが、僕にとってはよっぽど難しいよ」

「そりゃあ、あなたにとってはそうかもね」

 V.S.トールは首を捩り、背後を見た。そこには予想通り、昨日、V.S.トールが完膚なきまでに叩きのめした紫色の怪物の姿があった。あきらとは異なり怪物の体には傷一つない。呼吸も平常だった。やはり“偽物”である彼女とは、根本的なところから違うのかもしれない。彼女は宝石の散りばめられた、煌びやかな椅子に腰掛けていた。その椅子の足元を見れば数センチ宙に浮いている。おそらく粒子の力だろう。

「黄金の鳥の声が聞こえる、といった人はあなたで二人目だよ。1人目は可愛い女の子だったんだけどね。でもあの子は、すごく漠然としたことしか分からないみたいだった」

「そう」

 自分以外に、鳥に話を聞こうなどと思いついた奴がいるのには驚いたが、別段興味は沸かなかった。

「ところで君は、第二食堂の魔女だろ?」

 白石仁の記憶なのか菜原秋人の記憶なのか、それともその両方なのか判然としない知識を頭の底から拾い上げ、V.S.トールは口にした。すると紫色の怪物は「へぇ」と感心した風な声をあげた。

「随分懐かしい名前を出すんだよ。そうだね。そう呼ばれていた時代もあったんだよ。ここには食堂がないから。今はもうその呼び名は使えないけどね」

「それで、君は、“本物”なのかい?」

 何の脈絡もなく放った問いかけに、紫色の怪物は息を漏らした。嘆息ではなく、笑いが堪えきれなくなり、吹きだした感じだった。

「どうして、そう思うんだよ?」

「君からは、僕と同じにおいがするから。君もまた、人としての成り立ちを失ったんだろ? だからその姿でいる。僕と同じだ。その姿以外の形を、持たないから」

「半分正解、ってところなんだよ。ということは、もしかしてあなたも昔から、物の魂が読めたのかな?」

 V.S.トールはびくりと体を震わせ、思わず立ち上がった。完全に怪物の方に向き直り、動揺のままに詰め寄る。

「あなた“も”って、それはどういう……」

「……やっぱり。そうなんだよ」

 紫色の怪物は懐かしむように目を細めた。

「そうじゃないかな、とは思っていたんだよ。黄金の鳥に話しかけるって言葉を聞いた時からね。確かに今のあなたのポテンシャルなら、可能かもしれないんだよ」

 すぐには言葉が出てこなかった。

 確かに仁には、物質の記憶を読み取る、すなわち物の見た景色や、聞いた音を知ることができる。そういう力がある。小学生の時に目覚めたこの力のせいで、白石仁はあらぬ誤解を受け、孤独な学生生活を強いられた。

 なぜ自分が、と何度も思った。どうして自分だけがこんな目に、と何度も境遇を呪った。

 まるで原因不明の病のように、突如襲い掛かってきたこの災厄を、白石仁はずっと恨んできた。憎悪の中で自分と同じような人間がいるという可能性は、知らず知らずのうちに頭の中から消失していた。

「……まさか、あの力と黄金の鳥に関係が?」

「さあね。でも考えてもみるんだよ。初対面であろう私とあなたが同じ力を持って、こうして同じ結果を生んでいるんだよ? それ以外に答えを見出すことのほうが、難しいんだよ」

 確かにな、とV.S.トールは小声で呟く。そして一体、いつから白石仁はその悪魔のような能力を身につけてしまったのだったろうかと思考を巡らせた。だが人間としての肉体や精神さえ喪失してしまった今では、もはやどうでもいいことだと気づく。些細なことで悩んでいたかつての白石仁を、今では愚かしく思えるほどだった。

「他にそういう人と、君は出会ったことがあるのかい? 立浪は何人か僕らのような存在がいると言っていたけど」

「あなたが初めてだよ。物の魂が読めると言ってきたのはね。何百人もの人間を見てきたけど、その素質があるのは、あなただけだった」

「……そうか、君なのか。僕をこの組織に引き抜いたのは……」

 紫色の怪物を睨みつける。華永あきらに対して向けたのと同種の憎しみが沸く。だが、怪物の態度は平然としたものだった。

「そういえばあなたは随分、あの女の子が大切らしいんだよ」

 怪物は小首を傾げると、急に話題を変えた。はぐらかすような口調ではなかった。むしろ話はまだ終わっていないことを示すかのように、彼女は語気を少しも乱さなかった。

「話には聞いていたんだよ。黄金の鳥を再生させたいのは組織のためでも、あきらちゃんのためでも、ましてや鳥のためでもない。全てはあの子、楓葉花ちゃんのためなんだよね」

「……葉花は僕の生きがいだ。彼女は僕の全てなんだ。彼女のために生き、彼女のために死ねる。その覚悟が、ある」

「そう。じゃあ、私も同じなんだよ」

 V.S.トールの怪訝を浮かべた視線を紫色の怪物は真紅の瞳で受けた。その瞳は水たまりに映る外灯の光のように、輪郭が揺らいでいた。

「実はね、私も黄金の鳥なんてもの、本当はどうでもいいんだよ」

 怪物は椅子の肘掛けで頬杖を掻き、また、自嘲しているようにも聞こえる、淫靡な笑みを零した。

「私はあきらちゃんが大好き。愛してる。あの娘のためなら、死んでも構わない。私の人生全てを、捧げる覚悟でいるんだよ」

 諧謔を弄しているようでもなく、至極真面目に、当然のように、そう口にする。

 どうしてそこまで、という言葉が喉元まで出かかったが、V.S.トールは寸前でそれを呑み込んだ。「あなたも私と同じ」と怪物が言っていたのを思い出したからだ。愛の理由を問い詰めるというのは、あまりにも野暮だろう。

「あきらちゃんはね、お父さんの意思を継いで、黄金の鳥を復活させようとしているの。みんなを幸せにしたい。鳥の生み出す幸福を、1人でも多くの人に分けてあげたい。ただそれだけを望みにしているんだよ」

「……うん。聞いたことが、あるよ」

 菜原秋人が、かもしれない。白石仁も耳に挟んだことくらいはあるかもしれない。あきらの戦う理由。黄金の鳥を盲信する意味。彼女が望む願い。

――ボクが欲しいのは、誇りなんです。

「あきらちゃんのお母さんはね、瓶の中にいるんだよ」

「瓶?」

「うん。あきらちゃんはいつも、お母さんに話しかけている。自分の芯がぶれないように。だからあんなに強くあれるんだよ。あの娘には両親と、私がついてるもん」

 あきらの母親についての話を聞くのは、これが始めてだった。組織の創世者として彼女の父親の名前は度々、話題に上がっていたが、母親のことは一切耳にしたことがなかった。

まるで、故意に情報を伏せているかのように感じるほどに。

底知れぬ闇を、立ち入ってはならぬ境界を、V.S.トールは瞬時に嗅ぎ取る。

「あなたも、私も、あきらちゃんも、命より大事なものを知ってる。それを守り抜きたいって願ってる。それはすごく大事なことだよ。時に愛は悪意を超越するんだよ」

「悪意を」

 V.S.トールは自分の掌を見つめた。他者を傷つけ壊すことに特化した、その鋼の肉体を改めて目にする。

 不意に、その脳裏に白石仁の父親の顔が浮かんだ。父といっても生みの親ではなく、義父の方だ。紫色の怪物が、あきらの家族のことを口にしたからかもしれない。

あの男のことを思うと胸が詰まった。まさか自分の預かり知らぬところで、息子が人間でなくなっているとは夢にも思わないだろう。可哀想だな、とV.S.トールは他人事のように思う。妻を亡くし、養子に迎えた息子も化け物に変わってしまったのではあまりに救われない。

鬱陶しいほどに胸を絞めつける寂寥感を、ため息とともに吐き出すと黄金の鳥の方に向き直った。光を宿さぬ洞のような二つの目が、何かを催促するかのように睨んでいる。

「だから、少しでもいいから、あきらちゃんの考えも汲んであげて欲しいんだよ。あの娘はボロボロになって頑張ってる。葉花ちゃんとお父さんの間で揺れてるんだよ」

――仁。男は有言実行だ。自分の尻拭いは自分でしろ。大事に思ったものは、最後まで守り抜け。俺はそうやって生きてきた。お前も男になれ。

 白石仁の義父である、あの男の声が頭の中に響く。そういえば有言実行というのが彼の口癖であり、信念だったなと擦れた記憶の中から呼び起こす。彼の言葉はV.S.トールの心を激しく揺さぶった。

「その愛は確かに歪んでいるかもしれない。だけど私と、あなたと、あきらちゃんは一緒なんだよ。だから、あなたにはあきらちゃんの気持ちを、分かってあげて欲しいんだよ」

――白石仁。それが今日からお前の……

「僕の……父さん」

 V.S.トールの発した呟きは、重厚な響きをもってその内に打ち鳴らされる。自分自身の耳の奥で跳ね回るその音は、驚くほど甘美に聞こえた。




2010年8月20日


鎧の話 53

 決戦前日の空は、幼稚園児が塗りたくったような汚い鼠色をしていた。雨は止んでいたが、今にも崩れて落ちてきそうな不安的な空気が漂っている。何か事件でもあったのか、パトカーのサイレンがその空の下に響き渡り、不吉なものを運んでくる。

 今日も憂鬱な一日になりそうだ――直也は病室のベッドの上から窓の外を見て、ため息を吐き出した。昨日、佑を相手に興奮したせいで昨晩から高い熱が出ていた。頭の中は霞がかり体がひどく重い。湿度の高い気候が不快感に拍車をかけている。腹部の傷は再び疼くような痛みを発していた。

 拓也から受け取った、例の黒い布を使ってもなかなか症状は改善されなかった。傷があまりに深すぎるせいなのか、それとも布の効力自体が薄れているのかは何とも判断がつかないが、決戦の日を明日に控えた直也にとっては由々しき事態だった。

 直也は少しばかりの焦りを感じながら、正面の壁に掛かった時計を見やった。それから携帯電話を手に取ると、昨日教わったばかりの番号を呼び出し、耳に当てた。病院の中での携帯電話の使用は基本的に禁止であることは分かっていたが、少しだけならと自分に言い訳をする。

 ほどなくして通話は繋がり、受話口から「……はい」と、天村佑のか細い声聞こえてくる。直也は掌で胸を撫でると、充分に心を落ち着かせてから口を開いた。

「今、電話しても大丈夫か? 側に妹は?」

「はい。いません。今、外にいるんですけど」

「外?」

「妹のバイオリンのレッスン、今日は午前中なんです。午後は予定があって……それで今、送ったところで。終わるまで廊下で待っていようかなって」

 言われてみると彼の背後が何やら騒がしいような気がする。

「周りに人は?」

「えっと……大丈夫、みたいです。とりあえず、誰も」

「そうか」

 周囲を窺うような間を空けてから佑は言った。その反応に、直也は本題を切り出すことにした。

 深呼吸を、一つ。

「……それで、一晩たっても、気持ちは変わらないか?」

 式原を追いつめるのに協力してほしい、という直也からの申し出を、佑は断った。夜が明ければ、もしかしたら心変わりをしてくれているかもしれない、という一縷の望みにかけ、まだ午前9時をまわったばかりではあったが彼に連絡をとってみようと思い立ったのだった。

 だがその結果は――芳しくない。

 受話口越しに伝わってくる、佑の呼気は震えていた。答えを聞かずとも、それだけで彼の気持ちが不動であることは明白だった。直也は携帯電話を強く握る手に力をこめると、わざとらしく大きなため息を吐き出した。

「そうか。やっぱりダメなんだな。残念だ」

「すみません……」

「いや。そういえばお前の妹……悠ちゃん、だっけ。怪人に狙われてるって言ってたけど。それは確かなのか?」

 電話の向こうに、一瞬の空白が生じた。少しして、「はい」とか細い声が返ってくる。緊張に強張った、今にも泣きだしそうな声だった。

「心当たりは? なんであいつらに狙われる?」

「分かりません。そもそも、なんで3年前に悠が襲われたのかも……」

 佑の言葉に嘘は混じっていないような気がした。この状況で物事をごまかせるほどの気力が彼に残されているとは、直也には到底思えなかった。

 天村悠のことを脳裏に思い浮かべる。礼儀正しい、兄思いのいい子だった。何の変哲もない、ごく一般的な女子中学生だ。式原たちに狙われる理由はどこにも見当たらない。

 何の変哲もない、少女。

 そのフレーズを心の中で、噛みしめるように唱える。丁寧に頭を下げる悠の姿、そして手を繋いで去っていく兄妹の背姿が、目の奥にちらついた。

「……分かった。もういいよ。お前は、妹のことだけ守ってろ」

 直也が投げ放つように言うと、佑は動揺した様子で「えっ」と声を漏らした。

「あの……」

「いや、いいんだ。お前がどれだけ妹が大切に思っているかは分かったし、それに大切な人を守り抜きたいその気持ちは俺にだって分かる。……俺は咲さんを、お前から守ることができなかったからな」

 皮肉るように語気を強めると、再び電話の向こうに沈黙が降りた。頭の中で膨らんでいく熱気を放出させるように、直也は深く息を吐き出す。

「とにかく……俺から大事な人たちを奪ったツケは、他で払ってもらう。だから今は妹を守れ。それがお前の務めのはずだ。それに俺がお前に強制したせいで、何の関係もない彼女に危険が迫るのも、違うしな」

 直也の言葉に、佑が何事か声を発しようとしたその時、病室のドアが開け放たれた。部屋に入ってきたのが看護士でないことは、ドアの扱いの乱暴さから確認せずとも分かる。

「おっさん! テレビをつけろ!」

 慌ただしく入ってくるなりライはドアを閉めようともせず、さらに直也にテレビを点けるよう命じたにも関わらず、床頭台の上にあるリモコンをかすめ取り、テレビ画面に向けた。

 直也が口を開くよりも先に、ニュースキャスターの声が部屋の中に響く。一体何事かと問おうとした直也はしかし、テレビ画面に映し出された映像に釘付けとなった。

 女性キャスターが緊迫した口調で、何かを報じている。屋外で中継をしているようだ。どこかの交差点だ。慌ただしく、不穏な空気が画面から滲み出ている。パトカーのサイレンが、その気配に拍車をかける。

 画面の左上には、『幼児3名行方不明か』と、太い文字で表示されている。

 それを目にした瞬間、直也は胸にざわめきを覚えた。喉元にコルクを詰められているかのように息が苦しくなる。

「おっさん。怪人だ」

 ライが強い眼差しを向けてくる。確信に満ちた表情だった。

「小さな女の子たちが、お母さんの前からいきなりいなくなったらしい。数秒前まで隣にいたのに、らしいよ。絶対人間の技じゃない。怪人の仕業だ」

「……おい待てよ、そう慌てるな。リリィ・ボーン決行は明日だろ? その間際に、なんでこんな行動を奴らが起こすんだよ」

 およそひと月近く、世間的には全く音沙汰がなかったのに、なぜこのタイミングで、という疑問がまず沸いた。リリィ・ボーンの前夜祭のつもりなのだろうか。それとも何か特別な理由があるのだろうか。

 だがそんな直也の迷いを、ライはたったの一言で吹き飛ばした。

「うっせぇ! 分かるわけないだろ、そんなの! もともと何をしでかしても、おかしくない奴らじゃないか。……なぁ、おっさん、私、行ってもいいだろ? 行ってみたいんだ」

 一瞬、直也はライが何を言ったのか分からなかった。「えっ」と口に出して言ってしまう。ライの真っ直ぐな視線が、より困惑を助長させる。しかし鼻白み、声も出せない直也を前に彼女はさらに続ける。

「怪人が関わっている可能性があるなら、私たちが行かなくちゃだろ?  おまわりじゃ無理だ。私はこんなところでじっとなんかしてられない!」

「でも、お前……」

「おっさんは、明日のために怪我を治さなくちゃ。動けるのは私だけなんだよ」

 買い被りか、それとも、願望か。ライは濁りのない瞳を興奮に潤ませながら、直也を説き伏せようとしてくる。直也は彼女を見つめ返し、逡巡する。雨に打たれる中、自分も戦いたいと叫んだライの果敢な姿がそこに重なる。

「おっさんが止めても私は行く。これ以上、泣く人を増やしちゃいけない。あいつらを止めなくちゃ」

 テレビから、涙に歪んだ悲痛な声が漏れてくる。顔を隠したその女性は、いなくなった子どもの母親らしかった。泣きながら話しているのだろう。テロップを見なければ何を言っているのか分からないほどに、その声はひどく、くぐもっていた。

 棺桶のようなケースの中で冷凍された、裸体の女性たちが瞳に蘇る。すると腹の奥底のから、熱く淀んだ何かがゆっくりとせり上がってくるようだった。

 彼女らの藍色の双眸が、悲しみを湛えてこちらを見つめている。助けてくれと、救ってくれと、うめき声が耳の側で聞こえてくる。この悲痛な叫びを無視することなどできない。

「……やっぱり、お前は咲さんの娘だよ」

 ぼそりと呟き、直也は床頭台に手を伸ばすと、引き出しからオウガのプレートを取り出した。表面に刻まれた大きな傷跡を指の腹で撫で、それからライに差し出す。

「持って行けよ。万が一のときのために。咲さんが、お前を守ってくれるはずだ」

 ライは直也とプレートとを交互に眺めていたが、しばらくして頷き、直也の手からプレートを受け取った。

「うん。ありがとう、おっさん。母さんの力、借りるよ」

「気をつけろよ。逐一連絡しろ。なるべく危険な場所は避けるんだ。本番は明日だ。深追いはするなよ」

「分かってるよ。今日死んだら、どうにもならないもんな」

 この部屋に入ってきてからというものの、ライの口元に笑みは少しもみられない。ひどく真剣な――言うなれば、使命に燃えた顔つきをしていた。衝動や思いつきで口にしているならまだしも、覚悟を決めている彼女を止めることは直也にはできなかった。

 病室から飛び出していくライの背姿を見やりながら、直也は下唇を噛みしめる。腹の傷さえなければ、そしてリリィ・ボーンの存在を知らなければライと共に行きたかった。報道が耳に入ってくる度、焦りと憤りとか混ぜこぜになった、不快な感情が胸に渦巻くのだ。万全の状態であったならば間違いなく、直也も現場に向かっていたことだろう。

 だが今は全てをライに託し、ここで見守ることしかできない。それば最善の策であることは理解もしていた。だがそれでも熱を出し、ベッドの中で過ごしている自分は酷く情けなく思えてしまう。“第三者”という言葉が心を苛む。窓の外から聞こえるサイレンが気持ちを急き立てる。

 重々しいため息を零し、直也は目を伏せた。そこで気付いた。膝の上に携帯電話が開いたまま放置されている。画面に表示された通話時間を示す数字は、時を刻み続けていた。

 あまりにライが騒がしく通り過ぎていったので、電話をしている最中であったことをすっかり忘れていた。直也は携帯電話を掴むと耳に当てた。息を詰めているような気配が熱気を孕んだ空気のように、じわじわと肌に伝わってくる。

「悪いな。電話の途中で。ちょっと色々あった」

「いや……いえ。あの、一体なにが……」

「病院の近くで、子どもが複数人、行方不明になっているらしい。もしかしたら怪人かもしれない。それで、ライが様子を見に出て行った」

「ライ……って、レイちゃんの」

 佑の呼吸が擦れる。直也は窓の外を一瞥してから、「そうだ」と静かに答えた。

「もう誰も泣かせたくないから、死んでほしくないから、あいつは行ったんだ。じっとしていられないんだよ。俺はそれを止めることなんてできない。俺も同じ気持ちだから」

「でも……」

「いいんだ。お前は妹をしっかり守れよ。こっちは俺とライが、何とかする」

 佑が何事か喋りかけたが、その時にはすでに直也は携帯電話を耳から離し、通話を切っている。蓋を閉じたそれを手の中で包み込むようにしながら、直也はどんよりと曇り、切りつけるような雨を降らす空に目を細めた。




死人の話 7

 暗い倉庫の中で、キャンサーは口元をほころばせていた。愉悦の笑みだ。望んでいたもの全てが、この手の届く範囲にある。閉め切られた室内に篭る眩暈がしそうなほどの熱気や、歩くだけで鼻がくすぐったくなるような埃も、全く気にもならなかった。

「いいぞ、いいぞ。そうとも……これが僕の実力だ。僕は最強の怪人なのだ!」

 へへへ、と笑うキャンサーの周囲を、3体の石像が取り囲んでいる。いずれも幼稚園児から小学生くらいまでの、幼く小さな女の子を模ったものだ。そのどれもが迫真の表情を浮かべており、中でも目などには澄んだ光さえ宿っているかのようだ。

精巧、という言葉では片づけることができないほどのリアリティが、その石像には満ちている。実物そのものの気配が戦慄を誘う。ただしそれは常人の感想であって、キャンサーにとってその気配は、興奮を喚起させるための源泉でしかなかった。

 それもそのはずだ。この石像はキャンサーのもつ怪人としての能力で石となった、本物の人間なのだから。

 キャンサーは嗤う。止めどもない快楽に酔いしれる。自分の腹のあたりにある石像の頭を間で回し、その線の細い、冷たい体を抱きしめ、撫で回し、舐め回し、振り回す。

焼いた餅のように柔らかそうな、しかし実際には硬質な幼女の頬に、キャンサーは何度も口づけを繰り返した。生きた人間のような生気を発している一方で、幼女は空虚な、まるで深い洞窟のような目で、キャンサーのことを見ている。可愛いのに空虚。柔らかそうで固い。いい匂いがするようで、その体からは灰の匂いしか漂わない。そのギャップが、キャンサーにはたまらなかった。体の奥底から熱いものが吹き出し、血流に乗って駆けまわるようだ。

「可愛い女の子と無骨な石像のコラボレーション! 素晴らしい! 僕は素晴らしい!」

 ふははは、と部屋中に反響するほどの高笑いをあげ、キャンサーは暗闇の中で跳ね回る。これ程までに容易く、自分の欲が満たされるとは思いもしなかった。ここ数日の鬱屈とした気分が嘘のようだ。

 小刻みなステップを踏みながら、石造りの幼女を、順々に見やる。

 向かって右にいる一人目はスモックを身に纏い、黄色い帽子を被った、髪の長い幼女だった。彼女の全身は色を悉くなくし、灰一色に染まっていた。母親の漕ぐ自転車の後ろに乗せられているところを母親と自転車ごと石化し、入手したのだった。この子の名前が、まりちゃん、であることをキャンサーは帽子にプリントされていた文字から把握済みだった。

だからキャンサーは「まりちゃーん!」と叫びながら、彼女の頭を強く撫でまわしてやる。普通の人間ならば髪がくしゃくしゃになるだろうが。石化した人間からは鉱石のような。つるつるとした感触が掌に返ってくるだけだった。それはひどく心地いい。

 中央にいるのは頭の両端をゴムで留めた、おさげの幼女だった。右腕を大きく挙げたままの恰好で硬直している。母親と手を繋いで幼稚園に向かおうとしているところを、またも母親ごと石化し、さらに手を振って見送っていた父親らしき男性も不本意ながら石に変えて、彼女だけ奪い去った。大人の女性ならまだしも、男を石化するというのはキャンサーとしては自分のポリシーに反することだった。しかし目的を遂行するためには、嫌なことでもしなければならないのだ、と自分自身に言い聞かせる。

 そして三人目は他の二人よりも少し年上である、小学生の女の子だった。おそらく三年生か四年生だろうとキャンサーは鍛え上げられた眼力で予測する。登校班の列からはぐれ、一人で猫と遊んでいたところを石化した。彼女の最も素晴らしいところといえば、ノースリーブのシャツを着ていた点であり、その華奢な腕がたまらなくキャンサーの情欲を誘う。もう何度彼女の腕を、特に服と肌の境目を撫でまわしたか分からないほどだ。石の感触を纏ってしまったあとでも、その魅力が減退することは少しもない。

 キャンサーは最後の女の子を強く抱きしめたあとで、パイプ椅子に座り直した。自分の遂げた成果そのものである彼女たちを眺めながら、グラスに注いだワインを飲み干す。胸の奥底から浮き出てくるような笑みを禁じることはできず、荒い鼻息が真っ赤な水面を揺らした。

「石化した女の子を前に、うまい酒を飲む。これほどまでの享楽があるか? いや、ない! あってはならない!」

 一人で豪語し、キャンサーはワインを一気に飲み干す。すると興奮はまだ冷めやらぬ様子でありながらも、多少なりとも冷静さが戻ったようだ。積み上げられた段ボールの上に空になったそれを置くと、双眸に底知れぬ光をぎらつかせた。

「……だが、まだだ。まだ足りない! これは僕の時代が始まるための奏でられた、ファンファーレに過ぎないのだ」

 口角を鋭いナイフのように上げながら、キャンサーは腰を上げた。二番目と三番目の幼女の頭を撫でながら、彼女の間をすり抜け、正面の壁に足を向かわせる。

「もう1人くらい石にしてくるか。小さければなんでもいい」

 キャンサーの野望は始まったばかりだった。ドアも窓もない、灰色のコンクリートで塗り固められた壁の前で立ち止まると、キャンサーは不意に目を見開いた。するとその虹彩は金に染まり、たちまちその姿は端正の顔立ちをした男性のものに変化した。




鎧の話 54

 ぱらぱらと音が聞こえたため窓の方に視線をやると、真冬に吐く息のような、白ぼけた靄が町を包み込んでいた。吹きつける風は、まるでこの世の何もかもを薙ぎ倒すかのようだ。横殴りの雨が窓ガラスに次々と雨粒を叩きつけていく。

どうやら雨が本降りになってきたらしい。台風が接近していると数日前から報じられていたので、嵐がくることに驚きはしなかったが、ライのことを思うと不安な気持ちが立ち込めた。

そうでなくても、まるで爪の先を火で炙られているかのような焦燥感と危機感に心を嬲られている。大変な事件、しかも怪人が絡んでいるかもしれないことがすぐ側で発生しているというのに、ベッドで寝ているしかないという状況がこれ程までに苦しいものだとは思わなかった。

「くそっ。こんな時になんてざまだ、俺は……」

ニュースが報じている内容をまとめると、幼稚園や小学校に通う最中だった幼い女の子3人が、まるで神隠しに合ったかのように、忽然と姿を消したということらしい。ただしこの場合の“神隠しに合ったような”というのは、女の子の母親らが困惑しながら証言していたことなので、その真偽の程は確かではない。

現場では白い不審車両が目撃されており、そのために検問が敷かれているとのことだった。運転していたのは若い男性だったとの情報もあるという。ナンバーを把握できていないことが捜査の手を遅らせていると、キャスターは専門家を交えて喋っていた。窓の外では、先ほどから絶えずパトカーのサイレンが聞こえてくる。慌ただしさを孕んだ風が直也の胸をざわめかせる。

この事件に式原が噛んでいるかどうかは、かなり微妙なところだった。ライは間違いないと断言していたが、直也からしてみればこのタイミングで怪人たちが動き出すのは何となく釈然としない。事件の概略だけを聞けば単なる変質者の犯行にも思える。

しかしどちらにせよ何の落ち度もない女の子たちが誘拐され、その家族が恐怖に突き落とされていることは揺るがぬ事実なので、ライが義憤に燃えることは正しく、結局彼女の行動を直也は止める理由を持たない。

そんなことを考えていると、膝の上に置いていた携帯電話が震えた。飛びつくようにして手に取り、画面を見るとライからだった。通話ボタンを押し、すぐさま耳に当てる。

「もしもし。おい、無事か? そっちの状況はどうなんだよ?」

「うん、おっさん。大丈夫。私は元気だよ。事件現場って凄いな。おまわりがいっぱいいたよ」

 普段と何も変わらぬライの口ぶりに、直也はとりあえず安堵する。自然と右手の力も緩んだ。掌は携帯電話に滴が浮くほどに、ひどく汗ばんでいた。

「そうか。そんなところうろついてて、不審者で捕まるようなへまだけはすんなよ?」

「おっさんに言われたくないよ。でもどの道、もう現場からは離れたけどさ」

「おいおい、なんだ。何の収穫もなかったのかよ?」

 何とも頼りないライの発言に、直也は眉を寄せる。先ほどから薄々感じてはいたのだが、彼女の声にはどこか虚ろなところがあった。心ここに在らずといった様子だ。

 ライは「ううん、逆だよ」とやはり、身の詰まっていないスイカのような声で言った。「母さんが教えてくれるんだ。敵はここじゃないところにいるって」

「咲さんが?」

「うん。だからさ、やっぱりこの事件は怪人が関わってるよ。間違いない。私、感じるんだ。悪い奴の臭いを」

「……おい待て、お前今、一体どこにいる?」

 ライの背後からは、ピアノの音が微かに漏れ聞こえてくる。車の走行音やサイレンの音を耳にすることはできない。随分と閑静な場所を歩いているようだ。

 「えっと」と周囲を見渡しているような間を空け、ライはある通りの名前を口にした。直也の知識が正しければ、そこは事件現場よりも十キロほど離れた位置だった。

「お前、なんでそんなところに。事件現場にいったんじゃ」

「だからさっき言っただろ。私には分かるんだよ。なんかこう、体がびりびりするんだ。怪人がいるって、分かるんだ」

 携帯電話を握る手にまた力を込めなおしながら、直也は息を呑む。

 まさかライは怪人の気配を察知しているのだろうか、と脳裏に閃きが走った。確かデベスクリームは、そんな能力を持つ怪人がいると話していた記憶がある。ならば怪人であるライが似たような力を備えていたとしてもおかしくはない。

 これまでそんな力などおくびにも出さなかったのに唐突になぜ、と疑問も覚えるが、その答えは瞬時に直也の心に浮かび出てきた。

 深夜。ライの口から出てきた、彼女が知るはずもない出来事、真実。そして彼女は自分をこう名乗った――鉈橋きよか、と。

 ライの中にきよかの魂が灯ったことが原因で、ライに新たな力が芽生えた。そう推測するのは、少々乱暴だろうか。

 だが何にせよライのその力は有用である一方で、彼女を危険に追いやる力でもあった。直也は嫌な予感めいたものを頭の隅で感じている。どうしても最悪の結果を映した光景が、頭から離れなかった。

「あっ」

ライが声をあげる。「車だ。グレーだよ。停まってる。ここなんだろ、倉庫かな」と彼女は独り言のように呟く。その空虚な、どこか意識を遠いところに持っていかれてしまったかのような喋り方に、直也はぞっとした。

「おっさん。とりあえず集中したいから、もう切るよ。またなんかあったら連絡するから」

「おい、お前待て。もっと慎重に」

 直也の言葉を打ち消すように、通話が切れる。直也は舌打ちし、すぐにかけ直そうとするが、その瞬間、携帯電話に着信が入った。天村佑からだ。直也はじれったい気持ちを抱きながらも軽く息を吸い込み、震える指で電話に出た。

「あ、あの……」

 受話口から聞こえてきた佑の声は熱気を孕み、ひどく急いていた。ごうごうと音をたてて吹く風と、彼の荒い息遣いに邪魔されて、声が聞き取りづらい。直也は顔をしかめ、「おいお前、なにをやってる」と思わず声量を上げた。

「あの、俺……今、現場に向かってて」

 ガラスを爪で引っ掻くような甲高い音が響く。どうやら佑は自転車に乗っているらしい、と直也は推理した。携帯片手に自転車で走るのは違反だし、なにより危険だと指摘するが、佑は「そんなことよりも」と直也の注意を一蹴する。

「だからあの、ライって子は、今どこにいるか、教えてもらえませんか?」

「ちょっと待て。俺は妹を守れと、さっきお前に言ったはずだ。離れていいのかよ? 怪人に狙われてるんじゃなかったのか」

「悠は……とりあえず、大丈夫です。バイオリン教室の先生も、生徒も、いるから」

「おい、人が信じられないんじゃなかったのか? お前にかかれば、みんな自分の命を狙う怪人なんだろ? 昨日自分で言ってただろうが」

 彼の真意を測るため、直也はあえて突き放した言い方をする。唾を呑みこむ音が聞こえた。途切れ途切れになった言葉を紡ぎ合わせるようにして、佑は何度もつっかえながら、声を絞り出す。

「でも……やっぱり、このまま放っておけないから。悠のことも大事だけど、俺にはやらなければいけないことがあると思うんです」

 俺は、フェンリルだから。

 噛みしめるように発せられたその言葉には、強い信念が込められているようだった。

 直也は目を閉じ、暗闇の中に散る光の数を数えてから瞼を上げた。体内に漂う、むず痒いものを払いのけるように息を吐き出す。

「勝手な奴だよ……お前は」

 なぜ今さら手を貸す気になったのかと理不尽にも思うが、佑が手を貸してくれる心強さもそこに同居していた。テレビではニュースが切り替わり、ピザのコマーシャルが流れている。最近、よく顔を見せるようになった女性アイドルがこちらに笑顔を向けていた。

 直也は少し考えてから意を決して、佑にライの居場所を伝えた。最後に彼女が“倉庫のような場所”と言い残したことを話すと、それだけで佑には見当が付いたようだった。今、走っている場所からならば、全力で漕げば5分以内にたどり着けるという。

「なんとかやってみます!」と果敢な叫びをあげ、佑は通話を切った。ツーツーと無機質な音を繰り返す携帯電話から耳から離しながら直也は、咲を殺した少年が、彼女の娘であるライに手を貸すことになるとは、いかにも皮肉な巡り合わせだと思った。

「だが今の俺には、あいつに頼るしか……」

 キーを押し、ライに何度か電話をかけてみたが一向に繋がらない。苛立ちと焦燥に直也は布団を強く握りしめる。窓の外に目をやれば、どす黒い雨雲が空には渦巻き、大粒の雨が散弾のように降り注いでいた。




死人の話 7

 寝ぼけた顔をした男の乗る車が発進したのを見送ると、真嶋は唇の端を上げた。

 真嶋が指を鳴らすと、グレーのボディだった車はまるで水彩絵の具に水をかけた時のように見る見る色が落ちていき、真っ白な色に塗り替わった。

 完璧な計画だと思った。車を盗み、それを使って石化させた女の子たちを運搬し、今度は車を石化してアジトまで戻る。そして再び車の石化を解き、元の持ち主にすべての罪を押し付け、発進させる。もちろんナンバープレートも石化と金属化を駆使して隠ぺい済みだ。能力を解除した現在では、その数字もはっきりと読めるようになっている。

 なんと素晴らしい美技だろうと真嶋は自画自賛する。一寸の隙もない、自分の頭脳が恐ろしくなるほどの抜かりのなさだ。あと数分もすれば、容疑者が逮捕されたとのニュースが日本中に流れることだろう。

「見たか、これが蟹座の英雄――いや、王の力だ」

 端正な表情に邪気を宿し、真嶋は一人、宣言する。自分は生きているのだ、という実感が胸の内より湧き出てくるかのようで、実に清々しい。こんな感覚を味わうのは生まれて初めてだった。自分の存在意義を認められたかのような快楽に真嶋は高笑いを禁じ得ない。雨に濡れて髪が潰れ、シャツが透けるほど濡れたとしても、少しも不快には思わなかった、

「これが僕というものだ。僕は真嶋ではない。キャンサーという化け物なのだ!」

 組織との煩わしい関係も、人間社会に横たわる確執も、怪人には通用しないはずだ。怪人は怪人らしく、快楽に甘えて生きればいい。それが怪人らしさ、自分らしさというものだ。真嶋は自分の存在している意味、生まれてきた理由をそう解釈し、理解した。

 倉庫に面する通りには、この雨のせいか、人の姿も車が通る様子もない。もともと人気のない場所なので、辺りはけたたましくアスファルト叩く雨音にさえ耳を閉ざせば、ひっそりと静まり返っていた。

 声を収め、にたにたと笑いながら真嶋は踵を返すと、浮ついた気持ちで倉庫に引き返した。二つ並んだ倉庫の間を縫うようにして伸びた小道に侵入する。人が二人すれ違えないほどの狭所を塞ぐように、そこには鼠色の人影が置かれていた。

「さぁ、君もお友達のところに早く連れて行かなくちゃ、可哀想だな」

 真嶋は口端から零れそうになる涎をすすり、人影に歩を進めていく。情欲に満ちた男の目に晒されてもなお、その少女の人影は身じろぐことさえしなかった。

 両端で縛った髪に、花柄のワンピース。年齢は中学生というところだろうか。

 出会った時こそ、その髪は燃えるような金であり、その肌は傷1つない健康的な色をしていたが、今はその肌も、髪も、服さえも灰色一色に染め上げられている。口は何かを叫ぶようにぽかんと開かれ、目には何かに立ち向かうような強い光が滲んでいる。彼女の表情は、まるで本物の彫刻のように硬直していた。

「他のみんなは君よりも年下だけど、心配ない。きっと仲良くなれるさ。いや、僕がたくさん大切にしてあげるよ……」

 恍惚とした表情で真嶋は少女の頭に触れ、頬をそっと撫でる。さらにその微かに膨らんだ胸を軽く叩き、それから唇の形を指先でなぞる。彼女の身体はどこを取っても真嶋好みであったが、やはりこの勝気な目がより興味を誘った。他の女の子たちは、脅えた顔をしていたり、何があったのかさえ認識していないような顔をしていたりだったのだが、この少女は違った。感情を剥き出しにした、真嶋の目からすれば、実にリアリティのある表情だ。

 彼女は数分ほど前、倉庫の周りをうろついていたのを、出会いがしらに石化させたのだった。彼女は足元から石と化していく現象から逃れようと抵抗する様子を見せたが、結局もがきながら、真嶋のことを睨みつけた表情で石像と化した。その時のことを思い出すと、真嶋は肌がざわつくほどに興奮する。少女が、かつて石化させようとして叶わなかった最高の怪人、黒城レイにどことなく似た雰囲気を持っていたことも気分を高揚させる要因となった。

ただひたすらに純粋な幼稚園児も素晴らしいが、幼さと大人っぽさの融合した中学生くらいの年齢の子も、なかなかいいなと実感していると、不意に真嶋は背後に気配を感じた。

 少女を背にし、素早く振り返る。小道の入り口に、肩で息をしながらこちらを睨み付けて立つ少年の姿があった。

「お前……」

 喘鳴を漏らしながら少年は何かを言いかける。だが真嶋の背後にあるものを見つけると、目を見開き、声を詰まらせた。

 少年が気を逸らしたその瞬間を、真嶋は見逃さなかった。

地面を蹴り、即座に距離を詰めると、少年の腹部に拳を叩き込んだ。歩道に弾きだされるその体に、容赦なく続けて右足を振り抜く。革靴の踵は少年の左肩に突き刺さった。左手に握られていた何かが衝撃によって彼の掌から離れ、アスファルトを跳ねて側溝に落ちていった。

「覗き見とはよくないなぁ、少年」

 真嶋はさらに右拳を放つ。少年はよろけながらも体を捩ろうとしたが、人間を超越した動きの前では、それは何の意味も持たなかった。拳は少年の頬を張り、さらに左拳は彼の胸を激しく衝いた。彼の内臓の蠢きを、骨の軋みを、真嶋は肌で感じた。少年は彼自身が乗ってきたのであろう、スタンドを立てて停めてあったマウンテン・バイクを巻き込んで、道に大きく転げた。

 雨に打たれながらうめき声をあげ、苦悶に顔を歪める少年に向けて、真嶋は唾を吐き捨てる。自転車に乗られ、アスファルトに横たわる少年の姿は、ひどく惨めに感じた。

「警察にでもなんでも、通報するがいい。弱き者め。僕は簡単に捕えられんぞ」

 真嶋は小道に引き返すと少女の石像に近づいていった。彼女の太ももを這う二匹のナメクジを足で払いのけると、真嶋はその細い胴体に腕を回した。

「こんなところで雨に打たれて可哀想だ。今、中に入れてあげるからね。僕の可愛い娘」

 額に口づけをし、石造りの少女を軽々しく持ち上げると真嶋は最後に少年の方を一瞥した。額から血を流し、雨の中でもがく少年は、先ほど少女が見せたのと似たような目で真嶋のことを恨みがましく睨みつけていた。「ライ、ちゃ……」と、荒い呼吸を交えながら、彼は声を発している。真嶋は自分が抱え上げている石像の少女に目を移した。その鋭い視線を受けていると、昂揚感に鳥肌がたつ。自然、呼吸が荒くなった。

「ふふう。そうか、この娘はライというのか。いい名前だ。感謝しよう……趣味の悪い少年よ」

 微笑みを浮かべ、真嶋は小道を奥へと進んでいく。その頭の中は少女のことでいっぱいで、もはや自分に敵意を向ける少年のことなど興味さえ失せていた。




鳥の話 48

「実はね。佐伯稔充、L.エッジの粒子について少し調べてみたんだよ」

 自分の懇願には一切耳を貸さず、黄金の鳥と再び向き合い始めたV.S.トールに痺れを切らせたのか、紫色の怪物はため息混じりに言葉を切り出した。

「不思議には思わなかったんだよ? 東京で戦っていた時にはぴんぴんしていたあきらちゃんが、何でこの数週間であそこまで弱ったのか」

「……それは、まぁ」

 V.S.トールは怪物に顔を向けた。確かに疑問ではあった。石板の吐き出す粒子が人間にとっては毒であるとしても、白石仁が接していた頃の華永あきらは、至って健康に見えた。薄汚れた部屋のベッドで満身創痍になっている彼女は、まるで別人のようだ。粒子に犯されたからという理由こそ分かるが、それにしてもあまりに急激な反応である。

「この間攻めてきたとき、L.エッジが残していった粒子を一部採取して、私の粒子と接触させてみたんだよ。するとね、どうなったと思う?」

 両手の掌を上に返し、どこかおどけた調子で怪物は言う。クイズに付き合うつもりはなかったので、V.S.トールは何も口に出さず、ただ怪物をじっと見据えて答えを催促した。

 視線の意図を察したのか、怪物は不平を顕すように首を軽く傾げ、両手を下ろした。

「つまらないの。何とね、成長したんだよ。強く、大きく、ほんの少しなんだけどね。だけど、これが私たちの体の中で起きると、どうなるか……大体、分かるかな?」

「まさか、あきらちゃんの症状が急激に進行したのは、佐伯さんのせいだとでも?」

「一因にはなり得るだろうね。あなたが人間に戻らなくなったのも、あの粒子を間近で浴びすぎたことが、少なからず影響しているだろうしね」

 V.S.トールは身を凍らせた。他人事のように考えていたが、粒子の成長を促されたのはあきらだけではない。V.S.トール自身もまた、東京ではあきらとともに佐伯と戦い、つい先日、この場所でもしのぎを削りあったばかりなのだから。

 V.S.トールは脳裏に、血飛沫のように真っ赤な、L.エッジの粒子を思い浮かべる。空気中に、無数に散布されたあの粒子は東京の一角で、またはタンポポの塔の周囲でいまだに漂い続けているのだろうか。

 あの男はまだ生きているだろうとV.S.トールは直感で捉えていた。だからこそ怪物の話をより恐ろしく感じる。緊迫感が胸を絞めつけるようだ。

 V.S.トールが徐々ににじり寄ってくる恐怖の波に竦んでいると、まるで心を見透かしたかのように怪物が「佐伯さんはまだ生きてる。倒されたのはただの囮だよ。あなたもまた、それを感じているよね?」と強張った口調で言った。

 はっきりと肯定してしまうのも癪に思え、「多分ね」と曖昧に答える。「あんなことで、あいつが死ぬはずはないさ。だって……」

 その時、部屋のドアが急に開かれた。V.S.トールと怪物は会話を止め、弾かれたように同時に振り返る。ドアの方から飛んできた布のようなものがV.S.トールの体に被さった。つまみあげてから、それが白いローブであることを認識する。

「選ばれし者同士、こんなところで密談か。なるほど。偽物の俺たちはのけ者ってわけだ」

 ぼさぼさの髪を強く掻きながら、意地の悪い笑みを浮かべるその男は獰猛な肉食獣のような目をしていた。タンクトップに七分丈のジーンズという姿で、腕や胸部には包帯が巻かれている。

 V.S.トールはその男と会うのはおそらく初対面だったが、怪物の方は「飯沼さん」とその男の名を口にした。

「飯沼さん。今、大事な話をしているんだよ。入ってこないで欲しいんだよ」

「うるせぇ。お前に用はない。おいお前……よくも俺をコケにしてくれたじゃねぇか」

 飯沼、と呼ばれた男はV.S.トールに顔を向け、歯をぎしりと軋ませる。全く心当たりのないV.S.トールは自分に向けられている怒りの正体が分からず、困惑した。人の姿を失って、抜け落ちてしまった記憶はたくさんある。その男が青筋を立てている理由も、そこに含まれていたのかもしれない。

「そんなどこの馬の骨とも分からん奴が、黄金の鳥と会話だと? はっ、笑わせる。表へ出ろ。どちらが黄金の鳥を知るにふさわしいか分からせてやる」

 飯沼は吐き捨てるとV.S.トールに中指を立て、踵を返した。紫色の怪物はあきれ顔で、大きなため息を零した。

「どうするんだよ? 無視する? 彼が何を言おうとも、黄金の鳥と会話できるのは」

「やるよ」

 怪物の言葉を遮り、V.S.トールはローブを床に投げ捨てた。積まれていた埃が飛び散る。

「彼が怒っている理由、僕が悪いのかもしれないしね。忘れてるだけなんだ。だったら受け止めてあげなくちゃ。僕が、あきらちゃんにそうしたように」

 黄金の鳥を一瞥してから、ドアに向けて歩きだす。体の調子は悪くない。鳥との対話は膠着状態だっただけに気分転換にはちょうど良い。全身に流れる粒子を滾らせ、体表に淡い光を滑らせる。

 憎悪は憎悪の向く先に。怒りは怒りの収まる場所に。

 V.S.トールは自分の掌を見つめる。もうその手から何も零れ落ちてしまわないように、指を一本一本折り曲げるようにして、強く、しっかりと拳を握りしめた。


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