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14話「憎悪の檻」

仮面の話 5

 ジーンズのポケットに入れていた携帯電話が震えたのは、雅人がゲームセンターで遊んでいた時のことだった。

 雅人が遊んでいたのはUFOキャッチャーでも格闘ゲームでもなく、壁に向き合うようにして置かれているシューティングゲームだった。1人プレイ専用の筐体で、じっくりと腰を据えてやり込める素朴さが雅人は好きだった。キャッチャーゲームはすぐに終わってしまって暇つぶしにならないし、対人用ゲームは無用なトラブルに巻き込まれそうで抵抗がある。そうやって考えていくと、結果的に1人で遊べる古めかしいコンピュータゲームに落ち着くのだった。

 動かしていた自分の機体が爆発し、画面に『GAME OVER』の文字が浮かぶ。雅人はジーンズで手汗を拭うと、携帯電話を取り出した。蓋を開かずとも、その電話が誰からなのかは察しが付いた。このジーンズのポケットを震わすことのできる人物は、たった一人しかいない。

「随分、騒がしいところにいるようだね」

 予想通り、受話口からはゴンザレスのがらがら声が聞こえてきた。雅人は電話を当てていない方の耳を手で押さえると、送話口に唇を寄せた。確かにゴンザレスの言う通り、周囲は聴覚を麻痺させるような爆音で満ちており、耳を澄ませ、大きな声を出さなくては満足に受け答えもできなさそうだった。

「ちょっと待って」

 雅人は椅子から立つと、携帯電話を耳に当てたまま、出口に向かって歩いた。雅人の興味を引くゲームはブームが去り、店の隅に追いやられているようなものばかりだったので、ゲームセンターから出るためには随分歩かなくてはいけない。ゴンザレスが電話を切らないことを祈りつつ、早足で進む。自動ドアをくぐり抜け、外に出ると、汗がじわりと胸元に浮いた。空には灰色の雲が渦巻いていたが、湿度が高いせいで快適にはほど遠い。雅人はとりあえずゲームセンターから離れ、道を挟んで向かい側にある喫茶店を目指した。

「もしもし。もう大丈夫だけど」

「本当だ。声が、クリアに、なったね。これなら話しやすいや」

「それで、何の用事? また仕事?」

 雅人はうんざりとした調子で尋ねる。二日前、シャドウを纏って怪人と交戦したことを思い出す。その際に負った傷は、まだ体に残っている。もうあんな目に合うのはたくさんだった。

「実はね、面白いことがあるんだよ」

 まったく面白くなさそうに、恬淡とゴンザレスは言う。どうせ大したことはないだろうと、雅人は心の中だけで検討を付けた。

「一体なに? 僕にも関係があること?」

「まぁね。驚かないほうがいいよ。なんと、オウガとフェンリルが、接触したんだよ。つい先ほどね」

 それのどこが面白いのか、どこに驚く要素があるのか、雅人は眉をひそめる。だがゴンザレスの考えが読めないのはいつものことなので不信感はなかった。

 雅人は喫茶店には入らず、店の前に建っている街灯のポールに寄りかかった。視界を通り過ぎていく人々に目を細めながら、「それで?」と話の先を促す。こうして電話してきた以上、報告だけで済むとは思わなかった。雅人に何か用事があって、すなわち仕事を与えようという魂胆で、連絡を取ってきたに違いない。

「それで、って。悲しいね。冷たくされると、ゴン太くん、泣いちゃうよ。えーん」

「いや、それと僕に何の関係があるのかなと思って……」

「何を、言っているんだい。大ありさ。むしろ君にしか、関係のないことさ。だってね、オウガとフェンリルが出会うことの意味ぐらい、瀨野原雅人くんなら分かるだろ?」

 オウガ。フェンリル。2つの単語を――装甲服の名前を、雅人は脳裏に浮かべる。するとこれまで記憶の地層に埋もれていた映像が、おもむろに蘇ってきた。

「立浪、良哉……」

 7年前。オウガを纏って戦場を駆け、そして組織を裏切り、親友のビルによって殺された男の名を、雅人は囁くように口走る。苦い痛みが胸を占める。それはなるべくならば、あまり思い出したくない人物だった。

「君に、やって欲しいことが、あるんだ」

 雅人にとっては実に型どおりのセリフを、ゴンザレスは口にしてくる。待ちに待った、と言い換えてもいい。焦らされるのはあまり好きではなかったし、これ以上、あの男のことを考えたくはなかった。

深く息を吸い込み、掘り起こした記憶を再び埋める。そして雅人は胸の内で覚悟を決めると、携帯電話を握る手に力を込めた。

「……いいよ、戦いじゃなければね」

 雅人が応じると、少しだけ間を開けたあとで、ゴンザレスは「それはね」と前置きし、仕事の内容を告げ始めた。その語調は弾んでいて、少なくとも「面白いこと」を話していた時よりは、はるかに楽しそうに聞こえた。




鎧の話 49

 直也は深く息を吐き出した。

嵐の海のように荒ぶり、撹拌する心を鎮めるためだ。指を解すように掌を開いたり閉じたり繰り返す。筋肉が解れるのを意識すると、徐々に気持ちも落ち着いてきた。

 直也は自分にあてがわれた病室に帰ってきた。黒城のいる部屋よりも一回り狭い一人部屋で、自分ともう1人、見舞い客でも入るだけで少し窮屈になってしまう。しかし視点を変えれば、誰にも邪魔されず、密会を行うのにこれほど好都合な場所もなかった。直也は青い顔をした天村佑を部屋に招き入れると、後ろ手でドアを閉めた。

「とりあえず、座れよ」

 畳んだ状態で壁に立てかけてあったパイプ椅子を手に取り、ベッドの前で広げる。直也自身はベッドに座り込んだ。佑はしばらくの間、床をぼんやり見つめたまま立ちつくしていたが、やがておずおずとその椅子に腰を下ろした。ぱらぱらと窓の外で音がする。背後を見やると、窓には無数の水滴が付着しており、細い木が右に左に揺れていた。天気予報で台風が接近していると報じられていたが、どうやらその片鱗がやって来たらしい。

 嵐の気配に自然と昂ぶる気持ちを、深呼吸で抑えながら、直也は佑と向き合った。彼は相変わらず直也に視線を合わせようとはせず、微かに体を震わせている。手に汗を掻いているのか、ジーンズでしきりに掌を拭っている。

「俺もお前も、人を待たせているんだ。速やかにいこう」

 直也はそう前置いてから、消灯台の引き出しに手を掛けた。そこを開き、中からオウガのメイルプレートを取り出す。掌で掴み、かざすようにすると、顔をあげた佑は目を丸くした。

「お前が今のフェンリル、なんだな?」

 その反応を見て、直也はさらに確信を強める。だが佑は肯定も否定もせず、ただ脅えた表情で直也のことを見つめるだけだった。その瞳は不安のためか、ひどく揺れている。

「お前が咲さんを、殺したんだ」

 険を言葉に含ませ、尋ねると、佑は下唇を噛み、直也から視線を外した。そのはっきりとしない、目の前のことから逃れようとするかのような態度に直也は苛立ちを覚えた。振り上がろうとする拳を、すんでのところで抑え込む。だが声が上擦るのだけは、そこに怒りが滲み溢れるのだけは堪えきれなかった。

「……黙るな。違うなら違うと言えよ。早く答えろ」

 佑の挙動は直也の感情を逆撫でし、焦らさせる。佑の喉元が動く。額を光らせた彼は無言のまま、時間が過ぎるのを待っているかのようだった。直也は歯を軋ませる。あと腕を少し伸ばすだけで、真相まで手が届きそうな感覚がもどかしい。直也は膝の上で拳を握りしめた。

「……お前なんだろ? お前が……」

 咲さんを。太田所長を。直也の日常を。

 お前がその手で、壊したんだろ?

 そう尋ねる直也の声は歪んでいて、平静さを十分に欠いていた。佑は瞳を震わせ、目元を赤く染めて、今にも泣き出しそうな顔をする。泣きたいのはこっちだ、と直也は心中で呻く。深く吸い込んだ呼吸も、微かに歪みを含んだものになった。

「……プリクラを拾ったんだ。マスカレイダーズのアジトで。そこにお前が映ってた。映っていたのは4人。確立は4分の1。俺はそこに賭けた」

 怒気を剥き出しにしながら半ば叫ぶように、直也は佑をこの部屋に誘った経緯を告げる。

「鉈橋家であったフェンリルとお前は、身長も足のサイズも似ていたからな。だから俺はかまをかけた。怪人という単語を織り交ぜたりしてな。俺たちの間では、怪人の存在は揺るぎないけどな。世間的には、怪人はただの都市伝説どまりだ。だけどお前は、それを指摘しなかった。当たり前のように受け入れた!」

 それこそが、佑がマスカレイダーズと関係を持っている何よりの証明だった。だが、これだけではまだ都市伝説を盲信する、男子高校生という線もあり得なくはない。だから直也は思いきって、次の手段に出た。この機会を逃したら、二度と咲の魂は浮かばれなくなるという思いが、直也を普段以上に大胆にさせた。

「だから最後の仕上げに俺は、お前に問いかけた。お前はどうした? フェンリルとはなんだ、と聞き返すこともなく、疑問を浮かべるわけもなく、動揺し、立ちつくしたんだ。その瞬間、俺は確信した。お前が、フェンリルだってな」

 直也は射抜くように、彼の心に直接訴えるように、直也は語気を強める。佑の目が潤んだ。睫毛に透明の滴が浮く。直也は冷静さなど捨て去り、昂揚感に乗っ取られるがままに、言葉を叩きつける。

「やっとここまで来たんだ。何も分からなくて。何もできなくて。このオウガと一緒に。だけど……やっと、ここまで行き着いたんだよ! 頼む、答えてくれ。お前が!」

「……そうです」

 直也の言葉が終わらぬうちに、佑はようやく口を開いた。実に長い沈黙だった。静寂を横切って喉から絞り出されたのは、涙に濡れた声だった。後悔と悲壮に塗れた顔だった。その震える瞳は、直也のことを真っ直ぐに見つめていた。

「俺が、フェンリル、です」

 佑の呼気は荒い。不安に押し潰された心の隙間から、まるで空気の抜けていくゴムボールのように、感情が漏れ出している。そんな様子が、目の前に浮かんでくるようだった。

「俺が、あの女の人を……殺しました」

 佑は細い声で告げ、ジーンズのポケットに手を入れた。そこから――『5』の数字が表面に振られたプレートを、抜き取る。彼はそれを自分の膝の上に置いた。

 その瞬間、直也は心臓を鷲づかみにされたような感触を覚えた。胸が締めつけられるように苦しく、荒れ狂う暴風雨が心に畳みかけてくる。理性など追いつかない速度で、ほとんど衝動的に直也はベッドから腰を上げていた。腹部の痛みも忘れて前のめりになり、佑の胸ぐらを掴む。その小柄な体を、パイプ椅子から無理矢理に引き剥がした。フェンリルのプレートが床に落ち、けたたましい音を立てながら跳ねていく。

「やっぱり、お前が……!」

 佑の生温い息が、鼻先にかかる。その切迫した表情が視界を埋める。左手に握りしめたままのプレートが、まるでその存在を顕示するかのように重たくなる。

 急に動いたからだろう。腹部の傷が鋭い痛みを発し始めた。直也はうめき声を漏らし、佑から手を離した。支えを失った佑の体が、すとんと椅子の上に落ちる。直也もまたよろめくようにして、ベッドに座り直した。ゆっくりと呼吸をし、痛みを鎮めるようにしながら、平静になれ、平静になれと、呪文のように胸の内で唱える。傷だらけのプレートに視線をやり、呼吸が整ってくると、ようやく頭が冷えてきた。

 直也は足元に転がったフェンリルのプレートを拾い上げた。少しの間、躊躇いのようなものを覚え、掌に乗ったそれを眺めてから、彼に返す。佑は手を出さず、むせび泣いていたので、膝の上へ無造作に置いた。

「……お前を警察に突き出すことは簡単だ」

 佑の体がびくり、と引き攣るように震えた。その恐怖を湛えた形相を、直也は見て見ぬ振りをする。構わず先を続けた。

「だけど、今はそれをしない。お前の力が、フェンリルの力が、俺たちには必要なんだ」

 佑は唾を呑み込んだ。その音は直也の耳まで届く。相変わらず彼の頬には分厚い影が射していたが、それでも少しだけ安堵が滲んだような気がした。

「頼む。少しでも自分の行いを後悔するつもりがあるなら……俺に、力を貸してくれ」

 直也は頭を下げた。

最愛の人を殺した張本人に。3年もの間、憎み、呪いながら探し続けた人物を前にして。

本来ならば、ありえないことだ。咲の無念を思えば、あってはいけないことだ。

しかし直也は、深く、頭を垂れる。全ては未来のために。もう愛する人をなくさないために。怪人の被害に泣く人を、これ以上増やさないために。

 直也は佑に協力を請う。佑の荒い息づかいが、直也の心を激しく揺さぶった。




鳥の話 45

 突きつけた刃を受けるあきらの瞳は、強い覚悟と自信を秘めていた。弱々しくも揺るがない、その気概。V.Sトールは彼女に暴力を伴った脅しが通用しないことを再認識し、青い刃の伸びる腕を静かに下ろした。

 V.Sトールが殺気を解いたことで、あきらは少なからず安心したようだ。彼女は自分を取り巻くようにして立つお面を被った男たちに、席を外すように伝えた。その命令に彼らは始め拒否を示していたが、結局はあきらの意固地さに負け、渋々といった様子でV.Sトールの脇を通り抜けていった。

 あきらは枕に頭を預けたまま、脆弱に微笑む。どうやら上半身を起こす気力もないようだった。声を出すことさえも苦しそうに見える。息を吸い込み、体中の筋肉を奮い立たせながら言葉を捻りだしているようだ。

「あきらちゃん。随分、苦しそうじゃない。もうすぐ死ぬって聞いたけど。本当らしいね」

「……死ぬんじゃありませんよ、白石さん。黄金の鳥と、一つになるんです。それはとても幸福なことなんですよ」

 皮肉ではなく、強がりでもなく、ましてや誇るわけでもなく、あきらはさもそれが当然のような口ぶりで喋る。V.Sトールは無言で彼女を見つめた。痩せた顔に、目ばかりがぎらぎらと奇怪な光を放っている。

「ただ、ボクの跡を継ぐ存在……黄金の鳥を蘇らせ、繁栄させ、その御姿を知り、鳥の魅力を広めてくれる人物の所在だけが心残りだったんですけど……」

 あきらは瞳を細くし、魅せられたような目でV.Sトールを見る。それは実に嫣然とした視線だった。腹の上に置いた細い指が、しなやかに動く。うっとりとした表情を浮かべるあきらは青白い頬をしていても、なお艶っぽく、何よりも幸せそうだった。

「……白石さん、自分を取り戻したようですね。良かったです。安心しました」

 彼女から向けられる羨望の眼差しに、V.Sトールは強い憤りを覚えた。破裂しそうな感情をすんでのところで抑え、腕を下ろしてもなお、絶えず青色の光を発し続けていた光刃を深呼吸とともに収めた。そして、あきらを強く睨みつける。

「白石って、君はまだ僕のことをそう呼ぶんだね。白石仁を殺したのは君自身なのに」

「でもボクはそれ以外に、あなたを呼ぶ名を知りませんから。あなたはトールではなく、白石さんのままですよ。ボクの中では、ですけど」

 ふん、とV.Sトールは鼻を鳴らす。その発言は彼女の自己弁護にしか聞こえなかった。

「別に。何も取り戻してはいないさ。おかげさまでね。僕は何もかもを失ったままだ。自分の体も、記憶も、生活さえも」

 わざと悪意をこめた言い方をする。そうやって暗い感情を小出しにしていかなくてはならない自分をどうしようもなく、矮小で卑劣な存在に感じるが、そうでもしなければ衝動のままにあきらに手をかけかねないので、そんな自分の姿を受け入れるしかなかった。嫌悪しているのは、いつだって、内なる自己だ

「ただ、忘れないようにしているだけさ。僕は君の人形になる気も、組織の人柱になる気もないからね。僕には僕の意思があり、守るものもある。この心は君に渡すつもりはない」

「その言い方……やっぱりまだ、ボクを恨んでいるんですね」

「感謝はしているよ。東京での戦いの前に、ホテルで話した通りだ。今もその気持ちに変わりはない。僕だって、自分から戦いに望んだ以上、ただじゃ済まないことは覚悟していたんだ」

 でも。

V.Sトールは拳を握りしめる。ぎりぎりと軋んだ音が鳴る。今の握力ならコンクリートの壁だろうと、数十トンもの重量をもつ鉄塊だろうと、まるで絹ごしの豆腐のように軽々しく粉砕することができるだろう。この手に壊せないものといえば、自分自身の体ぐらいではないかとさえ思える。V.Sトールの肉体は、その存在自体に矛盾を内包していた。

「だけど、それとこれとは別問題に、僕は君を恨んでいる。君を憎まなくちゃ、嫌悪しなくちゃいけないと思う。そうじゃないと、僕は僕を失う気がするんだ」

「失う、ですか」

「僕は白石仁であった頃の記憶を、断片的にしか思い出せない。その記憶もそれが本当に自分のものなのか、それとも菜原君のものなのか、また別人のものなのか、はっきりしないんだ。分からないんだよ。僕が僕自身を証明できる手がかりは、ほとんどない」

 V.Sトールは掌を上にして、“空”を表現する。言葉を吐き出す側から、その内容はまるで他人事のように聞こえてしまう。だからV.Sトールは自分自身の境遇に対し、悲しいとも苦しいとも感じなかった。ただ物語の粗筋を話すように、言葉を紡ぐ。わずかに残された人としての部分さえも、緩やかに削られていく恐怖と戦いながら。

「僕が白石仁だと……白石仁だったと自分自身に証明できるもの。それは君への憎しみと、葉花を救いたい気持ちだけだ。だから、それだけは忘れられない。捨てるわけにはいかないんだ」

「……葉花さんのこと、聞いたんですね」

 あきらの瞳が細くなる。その口元が初めて、苦痛に歪んだ。

「立浪って人からね。僕が寝ている間に、随分ひどい状況になっているみたいじゃないか」

「正直、かなり旗色は悪いです。葉花さんを守れなかったことは、本当に、申し訳ないと思ってます。ボクは親友を、守り抜くことができませんでした」

「ねぇ、あきらちゃん。僕が東京に出ることは……本当に無理なのかい?」

 口にしながらも、ここから出ることを考えるだけで、怖気が血流を巡るようだった。あきらの答えを聞かずとも、V.Sトールの体がより雄弁にその結末を語っている。

「しばらくは難しいでしょうね。こうしてあなたが動いていられるのも、黄金の鳥の膝元にいるからです。まだまだあなたは、安静にしていなくちゃいけない状態なんですよ、白石さん」

「でも、そうも言っていられないじゃないか。ねぇ、何か……どうにかならないのかい? ほんの少しの時間だけでいいんだ。僕は葉花を助けにいきたい。僕なら、彼女を救うことができる」

「白石さんの気持ちは分かります。早く自由にさせてあげようと色々試してはみてますけど……そう上手くは、いきませんよ。あなたは特異な存在でもありますから。色々と、デリケートなんです。この問題は」

 あきらは深く息を吸う。V.Sトールは嘆息した。あきらを憎み、組織に縛られまいともがく一方で、ここ以外に居場所のない現状に苛立ちを覚える。焦りだけが体内に積もっていく。逼迫した状況に耐えかね、たまらず頭を抱えた。

「葉花にもしものことがあったら……僕は、何をするか分からない」

「それは、ボクたちを殺すってことですか? そんなことをしても」

「……ねぇ、あきらちゃん」

 あきらはわずかに眉を上げた。「はい」とその薄い唇が動く。V.Sトールはゆっくりと顔をあげると、こめかみに両手で触れたまま慎重に口を開いた。

「君は、葉花を助ける気が本当にあるのかい?」

 V.Sトールの発した言葉に、あきらは目を瞠った。信じられない、とでも言わんばかりの表情だ。やがてその瞳は元の大きさを取り戻し、悲哀の色に染まる。今にも泣き出しそうに見えた。

「……何を言ってるんですか。当たり前ですよ。葉花さんはボクの」

「でも君は知ったんだろ? 葉花の母親の、正体を」

 彼女の言葉を途中で遮る。あきらは口を噤んだ。V.Sトールは腹部にある左側の石版を、掌で撫で回す。

「……ボクはついさっき知った。菜原君が教えてくれたんだ。彼の声は、いつも頭の中に響いてくる。彼は僕で。僕は彼だ。だからそれが嘘かどうかくらいは、分かる」

 その話を耳に――心に受けた時こそ、真偽を疑ったが、すぐに意味がないことに気付いた。それは違うことなく、V.Sトール自身の記憶だったからだ。どんなに熾烈な事実だろうと受け止めなければ、自分自身に嘘を吐くことになる。

「葉花の母親……船見琴葉。彼女はマスカレイダーズのリーダー。そして、新宿の事件の、首謀者だ」

 脳裏に、ある青年の笑顔がちらつく。視力と足を失った男だ。同時に、こちらに向けて怒りの表情を顕にする少女の顔も、心を切りつけるようにして過った。彼が、彼女が、一体誰なのかまでは思い出せない。白石仁の関係者なのか、菜原秋人の関係者なのかすら判別がつかないのだから難儀だった。

 だが二人の存在は、重く、辛く、悲しい色をもってV.Sトールの心にじわりと痛みを与えている。その鈍い痛みに、腹部をたまらず手で覆った。

 あきらは目を伏せる。隈のせいもあって、その表情はまるで夜の沼のように、ひどく暗澹として見えた。その細い肩が震えている。随分と痩せてしまった彼女の身体は、それだけでばらばらに砕け、崩れ落ちてしまいそうだった。

 だが、V.Sトールは彼女に斟酌を加えることなどしない。心には憎しみを抱いて、頭にはいつの日にか目にした古い新聞記事を過らせて、あきらを追いつめる。

「……そして、君なんだろ? 彼女を殺したのは」

 あきらの睫毛が、ぴくりと動いた。V.Sトールは深いため息を吐く。

「葉花の母親を、君が殺したんだ」

 その声は驚くほど重厚に、部屋の中に落ちた。あきらの表情が苦しげに歪む。その唇から漏れたのは血なまぐさい呼気だった。




鎧の話 50

 天村佑がマスカレイダーズから追放されている、という事実は直也にとって最大の誤算だった。佑を通じて組織に働きかけてもらい、仲間を増やすという算段があっただけに正直、落胆を禁じ得ない。フェンリルを持つ人間に会えたことだけが、唯一の慰めだった。

 直也と佑は揃って病院の廊下を歩いていた。直也の一歩後ろをついてくる金髪の少年の表情は重く、暗い。目の周りはまだほんのりと赤みが残っている。病室を出てからというもの、互いに一言も口を利くことはなかった。二人の間にひしめく空気は、嫌な緊張感で彩られている。

 そうしてひたすらに長い沈黙を越え、天村兄妹と出会った休憩室がようやく見えてくると直也はおや、と思った。そこに菅谷の姿はなく、天村悠と同じテーブルには代わりに黒城ライの姿があったからだ。2人で向かい合って座り、楽しげに談笑している。

女子中学生同士で盛り上がっているところに口を挟むのは、なかなか気が引けるものであったが、直也は思いきって彼女らに足を進めた。直也が声を掛ける前にライが気づき、「おっさん!」と手を挙げてくれたので内心ホッとする。

「やっと来たのかよー。待ちくたびれたよ」

 彼女は椅子から腰を上げると、さらに大きく手を振った。悠も振り返る。その薄い唇が笑みを形作った。

「たぁくん。終わったの?」

「……悠!」

 佑の体が直也の肩先を掠める。気付いた時には、佑は前に飛び出していた。そして席を立ったばかりの悠をいきなり抱きすくめる。妹の細い体に両腕を回し、自分の胸に引き寄せた。

「良かった……悠、本当によかった……」

 悠を抱きしめ、顔を彼女の髪の中に埋めながら、佑は声音を震わす。直也も、そしてライも、そんな二人を呆然と眺めている。周囲の視線も憚らず身を寄せ合う兄妹の姿は、直也の目には異様なものにしか映らなかった。

「た、たぁくん、ちょっと、恥ずかしいよ……」

 悠は顔を耳まで赤く染め、消え入りそうな声で囁く。佑はハッと我に返ったように、慌てた様子で彼女から身を離すと、決まり悪そうに口をもごもごと動かした。

「あ、あぁ悪い……その、つい。悠がいなくなってたら、どうしようかと思って」

「たぁくんに言われたとおり、私、ずっとここにいたよ。だから、大丈夫。心配しないで。私はここにいるから。ね?」

 頬を紅潮させる兄に悠は目を細め、彼を宥める。佑は恥ずかしそうに顔を俯かせ、何度か頷いた。悠はそれを見て微笑むと、それから直也に視線を向けた。恭しく頭を下げる。

「たぁく……兄との用事は、もう終わったんですか?」

「ああ。お兄さん借りて、ごめんな。今日はとりあえず終わったよ。また後日連絡するって、約束したから。な?」

 語気を強めて、直也は佑に同意を求める。彼はびくりと肩を震わせると表情に怯えを滲ませ、力なく顎を引いた。

「なぁ、悠。この人が、さっき言ってた兄貴?」

 彼女の気性に鑑みてみれば、先ほどからいささか静かすぎていたライが、ここにきてようやく口を開いた。彼女は悠の隣に立つと、佑に顔を向けた。悠は「あっ」と短く声をあげる。

「うん! たぁくん、こちらライちゃん。レイちゃんの妹なんだよ」

「レイちゃんの……?」

 暗い表情のまま、佑は顔をあげた。その目には驚きと困惑の入り混じったものがある。しかし彼のそういった感情の機微には気付かないのであろうライは、いつもの調子だった。

「うん。兄さんは悠の兄貴で、レイの友達なんだって?」

「あぁ。まぁ……」

「おお、よろしく! 私は黒城ライ。悠の友達で、そこのおっさんとは日ごろ、チャーハンの研究に勤しんでいるんだ」

「してねぇよ」

 勢いのままに出鱈目を口にするライに、直也は思わず声をあげる。しかしライの耳は、そんな指摘を一切受け付けないらしい。

「だけどいいよなぁ、きょうだい仲良しこよしで! うちとは大違いだよ」

「仲、悪いの? レイちゃんと……」

「まぁ、色々あってしばらく会ってないんだよ。だからさっき、悠との熱いものを見せ付けられてさ、私、感動したよ。だからさ、これからも悠を守ってやってくれよ! 頼りにしてるぜ!」

 佑の手を固く握り締め、ライは瞳を潤ませる。一体お前は天村悠の何なのだ、と直也は冷めた気持ちを抱いた。佑も目を丸くし、このあまりに厚かましい少女を前に当惑しているようだ。

「じゃあ、ライちゃん。そろそろ、お買い物にも行かなきゃいけないから。……お兄さんも、お世話になりました」

 悠は再び、直也に向けて頭を下げた。先ほどから思ってはいたが、随分と礼儀の正しい、できたお嬢さんだ。両手を前で組み合わせ、両足を揃え、折り目正しく礼をされると逆に辟易する。

「ああ、こちらこそ。そういえば、ここにいた、男の人ってどこにいったのか知ってる?」

「あの人なら、トイレに行くって言ってました。ちょっと長いですけど。どこかで時間つぶしでもしているのかもしれません」

 ではここで待っていれば、落ち合うことはできるか。直也が礼を言うと、彼女はここにきてから三度目となるお辞儀をした。

「じゃあ、たぁくん、行こ。お肉屋さんが怒っちゃうよ」

「あぁ……じゃあ、失礼、します」

 明朗な悠とは対照的に、佑は上目遣いで直也とライを交互に見やると、おずおずと頭を下げた。

 手を繋ぎ、互いに支えあうようにして去っていく兄妹の後姿を、直也はため息混じりに見つめる。その隣でライは、満面の笑みを咲かせ、大きく手を振っている。

「でも驚いたな。お前とあの子が、知り合いだったなんて」

「まぁ、むしろレイの友達なんだけどさ。時々3人で遊んだりもしたし。私も友達だよ」

「そっか」

 直也は短く応じる。なんて巡り合わせだ、と毒づきたくなるのを抑えながら。本当の敵は、過去からやってくる。

「お前、あいつのこと、どう思った?」

 前を向いたまま、すなわち、佑の背中に視線を突き立ててまま、直也は尋ねる。

「あいつって?」

「天村佑。兄のほうだよ。お前、どう思う?」

「どうって……いい奴なんじゃないの? あんなに妹のことを大切にしてる兄貴なんて、私は他に知らないよ」

 直也は眉を寄せた。病室内で佑の言っていたことが、胸を疼かせる。苛立ちとも似ているが、けしてそれだけではない複雑な感情だった。


――すみません。俺には、できません。

 病室の中で頭を下げ、手を貸してほしいと懇願した直也に対し、佑は涙声でそんな返答をよこしてきた。直也にとってはあまりに意外で、そして、最悪の答えだった。

――本当に俺は後悔してます。殺してしまったあの人にも、詫びたい気持ちはある。あなたにも……。だけど、俺は、悠を、守らなくちゃ。あいつは怪人に狙われてるんだ! もう三度も襲われてる! 俺が側にいなくちゃ、俺が守らなくちゃ。

 ひどく興奮し、泣き喚きながら、佑は自分の感情を剥き出しにするかのように、叫んだ。

――俺は知ってるんです。人間の姿をした怪人がいることを。奴らはこの病院の中にも人の皮を被って潜んでいるかもしれないんだ。そんな状況で、誰を信じろっていうんですか。あなただって……

 俺も怪人かもしれない。お前やお前の妹の命を狙っているかもしれない。そう言いたいのか?

 破裂して、外に漏れだしてしまいそうな感情を必死に抑え込みながら直也が尋ねると、佑は真っ赤に充血した目を見開いた。

――考えたくないけど、考えるしかないじゃないですか! 誰が敵かも分からないのに、そんなところに、悠を一人にはさせられない!

 次の瞬間、直也は佑を殴っていた。無意識のうちに頬を狙ったのだが体がよろけ、結果的に拳は佑の肩を軽く小突くだけに終わった。

 俺から咲を奪ったくせに。彼女を殺したくせに。なぜ、お前は自分の妹を死なせたくないと喚くのか。そしてあろうことか、俺を妹の命を狙う怪人だと疑うのか。この3年間、どんな思いで俺やライがいたのか――

 何かにとり憑かれるようにして、直也はそんなことを怒鳴り散らした。看護士が駆けつけてこなかったのが奇跡的に思えるほど、その時の直也は激高していた。己の胸に巣食う憎悪を、制御することができなかった。

 直也が掴みかかっても、佑は泣きながらずっと謝っていた。まるで嘆くように。悔恨の情にかられるように。「すみません」という五文字を、擦れ声でひたすらに吐き出していた。

 そんな佑の姿を見ているうち、直也の中で昂ぶっていたものがうっすらと冷えていったのだった。


「悠は兄貴のことが大好きなんだ」

 天村兄妹の姿が見えなくなったので、直也は記憶の再生を中断し、ライに顔を向けた。彼女は嬉しそうに瞳を輝かせている。その瞳孔に映るのは、憧憬の情に違いなかった。

「悠はさ、この病院に長い間、入院してたんだよ。あいつの両親って凄く忙しい人たちでさ。あんまり東京にもいないんだ。その中で、あの兄貴だけが良くしてくれたんだって」

 その割に彼女は元気そうだったな、と直也は先ほどまでここに立っていた天村悠を記憶に呼び戻し、疑問を抱く。だが特別、不審に思うことでも、違和感を覚えることでもないとすぐに思い直した。入院中に快活であるならいざしらず、彼女はもう退院しているのだから元気になって当然だろう。長年病室に縛り付けられていたというのなら尚更だ。まるで初めて空に羽ばたいた、籠の中の鳥のような気分でいるのかもしれない。

「私のことを何度も助けてくれた、理想のお兄ちゃんなんだって。いつも私のことを考えて、想ってくれて、すごく感謝してるってあいつ、言ってたよ。なんか凄いよな。愛って感じだよな」

 ライは瞳を潤ませる。直也はたまらず自分の胸を撫でるようにした。この胸の内で渦巻くざわめきは、少しずつその強さを増していくかのようだった。

「あぁ。いいよな……幸せそうで」

 左拳を強く握り締める。掌に爪の突き刺さる、わずかな痛みでさえも今の直也には心地よかった。




鳥の話 46

「確かに葉花さんのお母さんを殺したのは、ボクです」

 鼻筋に皺を寄せ、あきらは告白する。強く握りしめた掛け布団に、大きく皺が寄る。彼女の瞳に映る光は弱々しく白ぼけていて、今にも消えていってしまいそうだった。

「でもボクは、あの人が葉花さんの血縁者だったなんて、知りませんでした。知ったのはつい最近です。菜原さんの遺したメモを見て…」

「なぜ君は、彼女を手にかけたんだい?」

「そうしなければ、ボクが殺されていたからです。彼女は蘇生という組織そのものを憎み、怨んでいました。もちろんその首謀者である華永のことも。だからその娘であるボクのことも許せなかったんでしょうね」

「なるほど。正当防衛というわけか」

想像していたよりもまともな理由だったので、V.Sトールは肩すかしを食らう。もっと壮絶な、エゴイズムに塗れた理由が存在すると密かに期待していたからかもしれない。自分の心はもう随分、悪魔に侵されているのだなと自嘲的に思う。

「驚く君の気持ちは分かる。僕もさっきそれを知らされて、驚いているところさ。随分と悪趣味な運命だよね」

「……ですね」

 あきらは下唇を噛み、心底苦しげな表情を浮かべる。激痛を堪え忍んでいるようでもあった。彼女の身体も心も、もはや健常な箇所など見当たらないほどに傷だらけなのかもしれない。

 だがそれは、V.Sトールとて同じことだった。人としての姿を保っているか否か。死にゆこうとしているか、それとも、無窮の命に束縛されているか。彼女との違いはその程度だ。

「……白石さんは、ボクを軽蔑しますか? 葉花さんの母親を、殺したこと」

 不可解なまでの自信に満ちていた先ほどまでの様子とは一変して、あきらは躊躇いがちに尋ねてくる。黄金の鳥に関することには強くても、親友のことになると不安を覗かせる。どちらが本当のあきらなのか、V.Sトールは判断に迷う。

「ボクを憎みますか? 葉花さんのお母さんをよくも殺したと、怒りますか?」

 視線を上向かせ、あきらは早口に、切迫した声を発する。V.Sトールはそんな彼女を暫しの間見つめると、それから息を零した。

「……君が何を言っているのか、僕にはよく分からないな」

 V.Sトールは壁に背を預けると、腹部に置いていた手をゆっくりと胸の前に掲げた。

「僕はね、新宿の事件で親友を傷つけられたんだ。僕はあの事件を起こした人間を、ずっとずっと憎んできた。だから君が殺してくれて、安心しているくらいだよ」

 動揺をあきらに悟らせないように、V.Sトールはあえて早口に、滑らかに、言葉を紡ぐ。

「僕が聞きたいのは君の覚悟だけさ、あきらちゃん。君はもしかして、それを気にして本気で葉花を探していないんじゃないだろうね?」

「そんなことはありません」

 あきらの否定は早かった。断固とした口調だ。その潔さにV.Sトールは僅かながらも安堵を覚える。彼女がもし返答に窮していたら、自分が一体どのような行動に出ていたのか考えるのも恐ろしい。

「もし、あなたがそれを本気で疑っているのだとしたら、それは黄金の鳥に対する侮辱です。ボクは葉花さんを助けることに、力を惜しんだことはありませんよ」

「それなら良いんだけどね。僕の今の関心はそれだけだ。黄金の鳥も、この組織の存続も、正直僕にとってはどうでもいいんだ」

「……白石さん」

 あきらは悲しげに眉を寄せる。黄金の鳥に対する無関心さを宣言され、困惑しているのだとV.Sトールは判断した。

 だが、それは違った。

 続くあきらの言葉が、その予想をすぐさま覆す。

「葉花さんには……今の状況よりももっと前から、あなたが助けなくてはいけない、なんらかの事情があったんじゃないですか?」

 V.Sトールは口を噤んだ。あきらの真剣な眼差しが、胸を衝く。危機感を、刺激する。

 彼女の顔を見つめ返しながら、一体どうすべきかと思考する。正直に話すか、それともやり過ごすか。どちらの判断が良策なのだろうか。

 強く拳を握りしめたため、ぎりっ、と指先から音が鳴る。その音は、V.Sトールに閃きを与えた。静かに息を吸い込み、心を平静に保つ。

「……実は君に、ずっと黙っていたことがあるんだ」

 あきらの表情は揺るがない。まるでこれからV.Sトールが言わんとしていることを分かっていて、全てを見透かしているかのような目をしている。だが、そのような態度をとってくれるのはむしろ好都合だった。受け入れる準備をしてくれているだけ話しやすい。

「黄金の鳥を解放するための鍵がある。君は僕に初め、そう言ったよね。どうやら、それが葉花のことみたいなんだ」

「葉花さんが……」

 想像していたよりも、あきらは驚いていないようだった。目を丸くし、語調を少し強めたもののそれだけだった。

「そうだ」

 V.Sトールは深く頷いた。念を押すかのように。彼女の心に、深く、深く、真実を植え付けるかのように。このあまりに残酷な事実を、体の奥底まで叩き込むために。

「葉花を殺せば――今の状況では直接手を掛けなくとも、見殺しにでもすれば、黄金の鳥は復活するんだよ、あきらちゃん」

 さらにV.Sトールは説明を加えた。ハクバスという、鏡にしか映らない男が葉花にとり憑いていること。そのせいで彼女は死にゆく運命にあること。黄金の鳥が解放されれば、その症状は改善されること。そしてそれが、白石仁がこの組織に入った本当の理由であるということ。

 明け透けに何の虚飾もなく、V.Sトールは自分が覚えている限りの全てを話した。頭の中から探り当てたことを、喉を通じ、口から出すと、それだけで白石仁のおぼろげな記憶に色が添えられるような気がした。少なくとも、これまでのように他人事には感じない。

「……ハクバスという男はこの世界に来た際、魔鏡を使って肉体を捨て、精神だけの存在になったそうです」

 暫しの沈黙を経て、あきらは口を開いた。“この世界”という表現や、“魔鏡”という聞き慣れない単語にV.Sトールは興味を引かれるものの、あえて追求することせず彼女の話に耳を傾ける。

「精神だけの存在。それはつまり、永遠に近い命を手にしたも同然なんです。その特性を利用して、ハクバスは自分自身を鍵とし、黄金の鳥を封じ込めたと聞いています」

「それはハクバス自身から聞いたよ。そして君たちに毒を浴びせられたとね。体が徐々に石化していく……」

「ODプロテクター……それが、このタンポポの塔に置かれていた、肉体を持たぬ相手を“殺す”、唯一の切り札でした」

「佐伯さんは、それを使って黄金の鳥を取り戻したんだね。……自らの命を絶ってまで」

「はい。そこでハクバスも死んだはずでした。鏡の間での中のことです。逃げ道もないはずでした」

「だけど、何らかの方法を使ってハクバスは逃げた。そして……葉花のもとにたどり着き」

 もはや最後まで言う必要はなかった。その先のことはV.Sトールも、そしてあきらもすでに知っている。

 その結果、生じてしまった最悪の結末を理解している。

「……まさか、葉花さんがそんな目に合ってるなんて。ボクたちが使った毒が、そんな」

「あれに解毒剤とかは……ないよね」

 あきらは下唇を強く噛み、それから弱々しく頷いた。

「あれは特殊な毒で、ボクたちも土壇場で使いましたから……分からないんです。すみません。もう少し、慎重に使っていれば……」

 その事実に、V.Sトールはそれ程落胆しなかった。いくつもの眠れぬ夜を越えてきたこの問題が、容易く解決するとは始めから思っていなかったからだ。期待すらしていない。大切なのは、ここからだ。

「懺悔の言葉を聞いている暇はないよ、あきらちゃん。問題はこれから、君がどうするかだ。どうだい? それでもまだ葉花を、君は救ってくれるのかい?」

 あきらは俯き、暗く淀んだ目で自身の膝の辺りを見つめながら、頭を抱えた。事情を知ってしまっただけに、先ほどのように即答することは不可能なようだった。

 だが、V.Sトールの心は自分自身でも意外に思うほどに落ち着いている。まるで星のない夜のように。それはおそらく、あきらが嘘偽りのない感情をみせてくれているからだろう。

 黄金の鳥のことが本当に大切で、それと同じくらいに葉花を愛しているからこそ、あきらはこうして思い悩んでいる。彼女の中で天秤が大きく左右に振れている最中なのだろう。そんな逡巡を、V.Sトールは不快には思わなかった。

 だからこそ――

「あきらちゃん、僕に考えがあるんだ」

 ある可能性を彼女に提示する。あきらは淀んだ目を静かに上向かせた。

「考え、ですか?」

「ああ。黄金の鳥を復活させたいのは、僕だって同じだ。そうしなければ葉花を救えないからね。だから、君に提案したい。葉花も黄金の鳥も救う方法は、おそらくそれしかない」

 あきらは首を小さく傾げた。半信半疑の顔だ。V.Sトールは自分の腹部に手をかける。

「君や立浪という男の話を聞く限り、僕は黄金の鳥に選ばれた人間という奴らしいじゃないか。ならば――本人と話してみればいい」

「……まさか白石さん。黄金の鳥と」

 それこそが、V.Sトールの脳裏に過ぎった答え。この逼迫した状況をひっくり返すための思いつきだった。成功するかどうか、その確率がいかなるものなのかさえも、分からない。だが、悪い考えではないような気がした。

「僕ならできる。もはや人間に戻ることができないなら、僕はこの姿となって得た力を、存分に発揮したい。僕は葉花を……救ってみせる」

 それはこの常闇に満ちた世界で探し当てた、あまりにも小さな光だった。相変わらず絶望で染まりきった世界に立たされているには違いないが、希望が一筋でもあればそれだけ心が軽くなる。

「確かに、不可能ではないと思います。でも、それは……」

 あきらは瞳を揺らし、思い悩む顔になる。だが、すぐにこの提案を受け入れるだろうとV.Sトールは確信していた。目的を達するための方法を取捨選択できる余裕はおそらく、この組織にはないはずだった。




鎧の話 51

 しばらく休憩場でライと話していると、菅谷がハンカチを片手に戻ってきた。悠が話していた通り、トイレに行っていたらしい。初対面となる男性を前にして怪訝そうなライに、直也は菅谷の素性とこれからすることを簡潔に伝えた。するとライは真剣な表情になり「よろしくお願いします」と深々と頭を下げたのだった。

直也は彼を待たせてしまったことを詫びると、自分の病室に誘い、早速仕事の話に入った。すなわち、この一ヶ月で直也が経験した殆ど全てのことだ。そして今、自分が立たされている状況について。式原という男が企てている陰謀についても、順序立てて話した。

 怪人や、それと戦う鎧の戦士や、人を蘇らせる組織の存在や、他人に話せば良識を疑われても仕方のない内容だったが、菅谷は根強く、真剣に耳を傾けてくれた。自分自身でも荒唐無稽だと思っていることを、疑うような態度もなく聞き入れてくれることは、なんだか気恥ずかしく、しかし嬉しい。

「……なるほど。例の事件の真相は、そういうことでしたか。まさか二条浩美が関与していたとは」

「俺も驚きですけど、確かです。今は鎧の組織が確保しているそうですけど。正直、何かを証言できる状態じゃないとか」

「なるほど。しかしリリィ・ボーンとは、残念ながら初耳ですね。聞いたことがない」

 菅谷は眉を寄せ、眼鏡のフレームを指で押し上げた。直也とライが並んでベッドに腰掛け、菅谷は病室のドアを背に丸椅子に座っている。それはつい先ほどまで佑が腰を下ろしていた椅子だ。

「……ですが怪人の噂も、それと戦う鎧の人物の噂も、色々なところで耳にはしていましたよ。その実体は掴めなかった。第一、こんなことを本気で話したとて、信用はされませんしね」

「おじさんは疑わないの?」

「こういう世界で生きていると、信じられないことには慣れているからね。普通に生きているだけじゃ見ることのできない景色を、私はさんざん目にしてきた。だから、疑うことはしないよ。それが原因で結果的に、真相を見失うこともあるからね」

 にこやかに微笑み、ライの懸念を解消させる菅谷の姿は気のいい親戚のおじさんのようだった。

「それに、黒城さんの娘と部下からの頼みですから。そんな失礼なことはできませんよ」

「あの人のカリスマ性も大したもんだ。俺はずっと、ただの唯我独尊で偉そうな男としか思ってなかったですよ」

「ばっか、おっさん! 父さんは凄いんだぞ! 衝撃波出すんだぞ、衝撃波! かっこよくて、凄いんだ。今はグロッキーだけど、あんなのすぐに吹っ飛ばして元気になるよ」

 拳をぶんぶんと振りながら、ライは父親の強大さについて力説する。黒城が耳にしたらきっと無表情のまま、心の中で歓喜するだろうな、と直也は思った。

「それで仕事の話に戻りますが……つまり、私はそのリリィ・ボーンが開催される場所を特定すればいいわけですね?」

「はい。すみません。本当は探偵がするべきことなんでしょうけど」

 直也は病衣姿の自分を見下ろし、締め付けられるように痛む腹部を掌で撫でつける。菅谷は顔の前で手を振った。

「いえいえ、困った時はお互い様ですよ。しかし、人を生き返らせる、ですか。そんなことを吹聴して回っているという男の話を、聞いたことがあります。喪服を身に纏っていて、家族を亡くした人々の家を尋ねてくるとか」

 直也は瞠目した。その人物が、田辺老人の家に訪問してきた男である可能性は高い。

「その詳細とか、分かりますか? どこの家に来たのか、とか」

「まぁ、全てというわけにはいかないでしょうが。そういう噂のある家を二軒、三軒知っています。それも最近のことです」

「もしかしたらその男が、リリィ・ボーンに関係しているのかも……」

 ライに目配せすると、彼女も力強く頷く。どうやら直也と同様に、菅谷の話から何かを感じ取ったらしい。その鋭い視線に触発されたわけではないが直也は先ほど得たばかりの知識を、ここで打ち明けることにした。

「……そういえば菅谷さん。式原明という男をご存知ではないですか?」

「式原……」

「この事件の首謀者である可能性があります。二条浩美とともに怪人たちを作り、人々を苦しませている、おそらく張本人」

「おっさん……なんだよそれ、私は初耳だよ!」

 ライがぎょっと目を見開く。直也は「俺だってさっき聞いたんだ」と注釈を加えてから、菅谷に向き直った。 

 式原明。

その名前を、直也はずっと待っていた。待ち望んでいた。

鉈橋家で出会い、直也の目の前で女性を怪人に変えて去って行った、あの男。愛する者の死に悲しむ人々を騙し、欺き、柳川を殺害し、リリィ・ボーンなる集会を開こうとしている、怪人たちの親玉。

これまで所在どころか、名前すら不明だったのだが、ようやくその一端を掴むことができた。教えてくれたのは天村佑だ。病室の中で話した際、彼はこともなげに直也がずっと追い求めていた男の名前を口走ったのだった。

直也の脳裏に、肌色の悪い男の顔が過る。気味の悪い笑みが肌を粟立たせる。

「知りませんか? 俺が思いつく限りでは――」

「私もあなたと同じです。というより、日本国民であれば、式原明と聞いて、ほとんどの人が同一人物を思い浮かべるでしょうね」

 式原明。それは4年前、世間を騒がせた連続殺人鬼の名前でもある。何十件もの殺人を隠蔽しておきながらある日、ひき逃げ事件を起こし、自らの罪を警察に白状して捕まったという稀代の犯罪者だった。

「……だけど、あの男は独房の中で自殺をしたはずですよね? 確か当時、ニュースでも報じられていました」

「しかし、最近ではそれも揺らいではいるみたいですよ」

 菅谷はあまりにあっさりと、直也の話を、世間の常識を、否定した。

「最近、あの男の目撃情報があることにはあるんですよ。それも多数の人から。それに、あの死体が見つかった屋敷は、式原明が住んでいたこともあったらしい。式原の亡霊が起こしている犯行、と表現するには少し現実味が過ぎていると思いませんか?」

「式原が実は生きている、ということですか? 捕まったのは別人とでも……」

「DNAは確かに一致していたというのが警察の話です。本来ならばあり得ない。死んだのは確かに式原明本人です。ですが、私はその可能性を否定することは危険だと思っています。突然、自首をしてきたというのも何か妙だと思いませんか? それにあの男は燃えるような金髪をしていた。それまで、あの男が髪の色を染めたのを誰も見たことがないらしいですよ。何か、ひどくちぐはぐなものを感じるのは私だけなんでしょうかね?」

「そうか……」

 直也は顎を撫でた。死人が蘇る。死んでいるはずの人間が生きている。そんな常識の欠如した事象を、直也は何度も目撃してきた。隣に座るこの金髪の少女が、何よりも事実を証明している。もはや死んだものは蘇らない、という常識は直也の中で崩壊していた。

 式原明は生きている。そして4年前と同じように、社会に大きな衝撃を与えようと何かを企てている。直也は自らが立ち向かおうとしている敵をそう理解した。ようやく射るべき的を見つけたような気分だった。

「……おじさん」

 ライが真っ直ぐに菅谷を見つめる。それから立ち上がり、彼の手をとると、両手で強く握り締めた。

「頼むよ。この事件で、たくさんの人が泣いて、苦しんでるんだ。絶対見逃しちゃいけないんだ。絶対止めなくちゃいけないんだ」

 ライは深く頭を下げた。誠意と懇願を引き連れた、重みのある礼だった。

「だから、お願い、します。私たちに力を貸してください!」

「俺からも……よろしくお願いします」

 直也もベッドから腰を上げ、彼女と並んで頭を下げた。あれほど粗暴で礼儀知らずなライが、必死になって頼み込んでいる。叶って欲しいと思う。目の先に微かに現れたその光が本物であることを願う。頭の先からつま先まで、直也は祈りをこめて菅谷に取り縋った。

 その強い気持ちは、菅谷に伝わったようだった。

「お二人とも、頭を上げてください。私は頭を下げられるような人間ではありませんよ」

 菅谷は慌てふためいた様子で言うと、顔を戻した直也とライを正面から見つめた。

「あなた方の気持ち、よく分かりました。少し調べてみることにします。明日には良い話が持ってこれるように、最大の努力をさせていただきますと。これほど拝まれたら、私も生半可な仕事をするわけにはいきませんからね」

 唇を崩すように、菅谷は頼りなさげに笑う。だがその目には、あらゆる局面を乗り越えてきたことに裏打ちされた、絶対的な自信が見え隠れしていた。

「ありがとう、おじさん」

 ライは声を低め、感謝を告げる。

「よろしくお願いします……あなたの力を、俺たちに」

 直也もまた己の感情を伝える。菅谷は腕時計の盤面を指先でなぞりながら、神妙な表情で首を立てに振った。

「何かあれば、すぐに携帯電話に連絡します。そちらも、お気軽にどうぞ。私はあなた方の、味方です。安心してください」

 その言葉は底抜けに穏やかで、大きな慈愛に満ちていた。胸の中に優しい陽だまりが落ちたような気分だ。直也は涙腺が緩みそうになるのを堪えた。

「それでは、また後日。実りのある収穫があるといいのですが」

「……シャーフ」

 踵を返しかける菅谷を、直也は呼び止める。それは情報屋としての彼がもつ、もう一つの名前だった。

「それって、ドイツ語で羊のことですよね。あなたの偽名。なぜそんな名前に?」

 ただ単に、好奇心が疼いただけのことだ。他意はなかった。自分たちに快く手を貸してくれるこの心優しい男のことを、一つでも多く知りたいという気持ちが沸いたせいかもしれない。

「おじさん、羊なのか?」

 ライが大真面目な口調で、そんなことを言うので直也は思わず吹き出してしまった。これは失礼だったか、と慌てて釈明しようとするが、当の本人である菅谷を見ると彼もまた笑い声をたてていた。

「ええ。そうですね。私は羊なんですよ」

 菅谷は冗談めかした態度で、ライの意見を肯定した。ライが誇らしげに鼻息を荒くするので直也は肩を竦める。

「優しい子、穏やかな子、大人しい子……子どものころから、ずっとそう言われてきました。だから私もそれに見合うように生きてきた。目立たないけど、すごくいい奴だって、クラスメートも私をそう評していたし、恋人からもそんなことを言われたことがある」

「俺も、そう思います。菅谷さんとは、まだほんの少しの時間しか過ごしていないですけど。あなたと話していると、なんというか、心が休まる」

 直也が正直な感想を述べると、菅谷は目を細めた。その表情は、少なくとも嬉しそうではなかった。むしろ辛苦を噛み締めているかのようだった。

「でもね」

 菅谷は眼鏡のフレームを押し上げると、その瞳に影を射しこませた。

「時々、気付くんですよ。常に優しく、常に穏やかに、常に良い人として生き続けることなんて、不可能です。人は悪意に触れ、悪意によって感化されていく。良い人間として評価され、それを強いられて生きることは、ひどく苦しく、辛いことなんです。私は子どものときから、それに気付いていました」

 訥々と話す菅谷の語調は、実感がこめられていた。そこにある全ては彼自身が経験したことなのだろう。この男の心に広がる闇の大きさを、直也は微かに嗅ぎ取る。

「だから時々、私は狼に憧れていたんです。子ども特有の、ないものねだりですよ。強くて、かっこよくて、乱暴で、粗悪で、悪意に溢れている。私とは対照的な、そんな狼に、なりたいと毎晩のように願っていました。変わっているでしょう?」

 時計の盤面を撫でていた、菅谷の指の動きがぴたりと止まる。菅谷の口元が妖しく笑みに彩られた。その瞬間、直也は首筋を冷たい手で撫でられるような、背中に氷の塊を押し付けられるような、ひどい悪寒を覚えた。




仮面の話 7

 ハンバーガーのくるんであった紙をゴミ箱に投げ入れると、雅人は霞がかった景色に浮かぶ黄土色のアパートを眺めた。

小雨のぱらつく夜の公園に、人の姿はない。

東京に台風が近づいているらしい。湿気の多い淀んだ空気と、木々を強風が大きく揺らす最中、用もなく外出しようなどという物好きもいないだろう。雅人もアパートの部屋に帰るための近道としてこの公園に立ち寄っているまでで、別段、置かれた遊具で遊びたいわけでも、夜道をそぞろ歩きたいわけでもなかった。

もったいぶった物言いをしたものの、ゴンザレスは結局、あれから連絡をよこさなかった。とりあえず待機をしていろ。出番になったら呼ぶから。その言葉を最後に通話を切られたので、朝から漫画喫茶にこもり、全部で30巻もある長編漫画を一気に読み終えたのだが、結局午後8時を過ぎても音沙汰なかった。

痺れを切らせて電話をすると、「今日はごめんね。何も起こらなかったよ。きっと明日が楽しいことがあるはずさ。きっとね」とゴンザレスは全く悪びれもせずに言うのだった。雅人としては嘆息をする他にない。時間を潰すことには慣れているが、半日以上、緊張しながら連絡を待っているのは、心身ともに堪えた。

雅人は少々駆け足で、公園の入り口に置かれた車止めの間をすり抜け、アパートに駆け込んだ。想像していた以上に、シャツはぐっしょりと濡れている。こういう時、髪が長いのは鬱陶しいなと雅人は顔をしかめた。一刻も早く熱いシャワーを浴びたい。

しかしそんな欲求に反して、雅人の足は自分の部屋とは逆方向に向いていた。すり減った心に呼ばれるかのように、その場所によろよろと吸い寄せられていく。体が冷えたせいか、頭がぼうっとしていた。

雅人が立ち止まったのは、301号室だった。何の違和感も覚えることなく、鍵穴に鍵を差し込む。開き、中に入ると、想像していたよりもはるかに涼やかな空気が迎えてくれた。

 靴を脱ぎ、ペンライトを取り出そうとする。しかしポケットを叩くが、それらしき感触はなかった。

「しまった忘れてきたか……」

 少しばかりの苛立ちを含ませ、雅人は呟く。だがここまできて、引き返す気にはならなかった。体中が彼女を求めている気さえする。もはや部屋に足を踏み入れた時点で、彼女に会わないという選択肢は消滅していた。

仕方がなく携帯電話を取り出すと、そのディスプレイの明かりをライト代わりに使うことにする。まるで印籠を掲げる副将軍のように携帯電話を構えると、いつも通り、足音を忍ばせながら廊下を進んでいく。目的とするドアには、すぐにたどり着いた。

普段であれば中の様子に耳をそばだて、のぞき穴から中を確認し、慎重に慎重を重ねたうえで行動に出るのだが、何分、気持ちが逸っていた。二度、刺す鍵を間違えてから、深呼吸をして、ドアを開く。何の滞りもなく、そのひどく美しい世界は雅人の前に開かれた。

空気が変わったのを、肌で感じる。続けて頭がふわりと重力を失う。雅人は生唾を呑みこむと、部屋の中に足を踏み入れた。

心臓が何かのリズムを刻むように、鼓動を打っている。しかし日中の緊張感とは大違いだった。心はひたすらに軽やかで、歓喜が血流を巡っているかのようだ。

雅人は部屋の中央で寝そべる、小柄な少女を見下ろす。こちらに背中を向けているので顔を見ることは叶わないが、その扇情的に思えるほど美しい黒髪や、後ろから抱きしめたら軽々と胸の中に収まってしまいそうな小さな背中を見ているだけで、十分だった。疲労ですり減った精神が、元の形を取り戻していくのを感じる。疑惑と悪意に満ち、確執によって構成され、憎悪を纏ったこの世界の中で唯一、ここが優しさに溢れた場所だった。

ひどく幸せで、安らかで、この世のものとは思えない空気が室内には満ちている。

やはりここに来て正解だったな。鼻をくんくんとさせながら、雅人は笑みを浮かべる。ゴンザレスに対する苛立ちなど、もうすっかり頭の隅に追いやられていた。無意識のうちに相好が崩れ、にやにや笑いが止まらなかった。

音が聞こえた。

それはあたりが静かでなければ耳にすることもないような、衣擦れの音だった。

目の前で起き上がる。

まるで地面から這いあがる影のように。

その美しい髪は花畑を舞う黒蝶を彷彿とさせた。きめの細かい白い肌が、暗闇の中で踊る。携帯電話のディスプレイが放つ光に照らされた、“彼女”の姿はまるで精巧な切り絵のようだった。

雅人は目を見開いた。呼吸さえ止まる。心音のリズムが狂い、ただ無軌道に鼓動が高鳴っていく。世界が崩れる音を頭の奥で聞いた。

「あの……」

 目覚めた楓葉花が、声を発した。鈴の音のようによく通る、耳のあたりを優しく撫でるような、澄んだ声だった。その丸い目が、声が、意識が、全て自分に向けられているものだと気付いた時、雅人の頭は混乱した。

同時に、恐怖に似た感覚が、じわりじわりと心を侵食していく。魅入られたように、雅人はその場から一歩も動くことができない。握ったままの手の中から汗が噴き出す。喉が干上がった。

楓葉花が動く。止まったままの雅人に向けて、手を伸ばす。その白く細い指が雅人の腕に触れる。

「うわああああっ!」

 雅人は大声をあげると、彼女を振り払った。背後を確認する間もなく、走りだし、ドアを開け放って、部屋から飛び出していく。地鳴りのような衝撃とともにドアが閉められた。

 汗で滑る手で鍵を取り出し、三度失敗しながら、ようやく鍵穴に鍵を突っ込む。回転させ、かちゃりという音が聞こえると、ようやく安堵することができた。

 ぜえぜえ、と雅人は肩で息をする。ドアにもたれながら、脱力して床に座り込んだ。

「そんな……そんな馬鹿な」

 あんなこと、あってはならないのだ。雅人は頭を抱え、白に塗りつぶされた意識に色を取り戻そうとする。心音は激しく、滅茶苦茶なリズムを刻んでいる。

 彼女の瞳が自分を映すことなど、その言葉が自分に向けられることなど、その指が自分に触れることなど、そんな非現実的なことがあってはいけない。

 まるで小説の主人公と読者のように。テレビの中で観るアイドルとファンのように。神様と無神論者のように。自分と葉花の間には、絶対に埋めることのできない隔たりがあるのだから。その垣根を超えることなど許されない、はずだった

 もしそんなことがあってしまえば、雅人の信じた世界は崩壊してしまう。雅人の中の楓葉花が、悪意によって滅ぼされてしまう。

 でも――。

 雅人は手首のあたりをそっと撫でるようにした。肌が触れたのは一瞬であったが、それでも彼女の体温が残っているような気がした。

 不思議だった。自分の信じていた世界の崩壊に、本当ならば恐れ慄き、困惑するべきであるのに、今、雅人の心を満たしているのはある種の充実感だった。

「なんだあの、柔らかさ……」

 上擦った声が、喉から吐き出された。ごくり、と唾を呑みこむ。気が付けば、自分の手首を頬にすり寄せていた。

「これが女の子の、手なのか」

 初めての感触に、雅人は陶然と呟く。わずかばかりの快楽と興奮が、まるで引いては寄せる波のように胸の内をざわめかせた。


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