13話「羊飼いと情報屋」
2010年8月19日
ひたひたと足音が聞こえる。それはリノリウムの床を革靴の底が叩く音だった。昼間から続く雨によって湿りきった空気は、夜に深みと厚みを与えている。
「ついにリリィ・ボーンまであと3日というところまできた。復活の時も近い」
男の低い声が暗闇の中に響く。その声音はひどく冷ややかに夜を伝っていく。
「生け贄の頭数は揃いましたし、準備にぬかりはないですわ」
男の言葉を受けたのは、女性の気品漂う声だ。かつん、と鋭い足音が鳴る。彼女の履いているハイヒールのものだ。
「しかし我々の計画は外部に漏れた可能性があります。どこかの抜けた姉のせいでね」
先ほどとは異なる女性の声だった。甘ったるく、人の感情を逆撫でするのが得意そうな語調だ。言葉の内容とは裏腹に、その態度には愉悦が滲んでいる。
「どうしますか、兄様。計画を知った者たちを、始末致しますか?」
ハイヒールを履いている方の女性の声が、男に意見を求める。男はふぅ、と鼻に空気を通すようなため息を吐いた。
「いや、こうなったものは仕方ないだろう。それよりも俺は、この状況を逆に利用させてもらおうと思う」
「……と、いいますと?」
後に口を開いた方の女性が、声に疑問符を付ける。そこにはわずかな苛立ちがあった。だが彼女の感情など少しも気づいていないだろう、男の口ぶりはひどく明るかった。
「あえて巣穴に導き、そこで一網打尽にしてやろうというわけだ。障害が無くなるのは、早いうちがいい。俺にいい考えがある。耳を貸して欲しい」
男は声を潜め、部屋の中にいる二人の女性に向けて提案をした。夜の森を流れるせせらぎのような、抑揚のない話し方だった。
「……なるほど、面白いですわね。マァズのおかげで、最高の怪人に脅える心配もなくなりましたし。いいと思いますわ、お兄様、冴えていますわね」
「私はあまり快く同意はできません。そう都合良く事が運ぶかどうか……。それに、生贄を無駄にすることになります。あの方が良しとしてくれるかどうか」
男の策略を聞いた女性らの反応は、両極端だった。だが男はそれらの揃わぬ反応すら楽しむように細かな笑い声をたてると、手近にあった椅子を引いた。きぃ、と床を引っ掻く音が、闇に染みる。
「なに、父さんも許してくれるさ。そうすればお前も納得せざるを得ない、誰が何を知ったところで、我々の計画は何も変わらないし、止めることなどできないさ」
どこかで換気扇が回っている音が聞こえる。まるでこの部屋の中に満ちた不穏な気配を、外に掻き出す役割を担っているかのように。そして世界に吐き出されたその暗澹たる空気は、確実に人々の心を濁らせていくに違いなかった。
鎧の話 46
2006年8月27日という日付を、坂井直也は忘れることができない。自分の全てとも言えるものが奪われ、壊され、蹂躙された日だ。港に打ち付けられた楔のように、または廃墟に建てられた墓標のように、その日起きた出来事は直也の胸に深く突き立てられている。
事件のあった日の数日前から直也は仕事で、事務所にも、住んでいるアパートにもしばらく帰っていなかった。だから咲や太田所長が一体どのような道程を踏んで死に至ってしまったのか、直也には計り兼ねている部分が大いにある。その時期に抱えていた事件の内容さえ不鮮明なのだから、どうしようもなかった。
――そういえばあの日の朝、出勤してくる太田さんを見かけたんだけど。フードを被っていたのよね。確かに小雨がぱらついていた気はしたんだけど。ちょっと珍しい恰好だなぁって。それに挨拶をしても、険しい顔をしてたし。なにかあるなぁとは思ってたの。
事件について聞き込みをしていった中で、ある主婦がそんなことを話していたのを思い出す。今の今まで、記憶の奥底に埋没していた情報だ。実に他愛もない情報だったし、詮索する必要はないと当時は判断したからだ。
太田が険しい顔つきをしていたのは、殺されてしまうような事件に巻き込まれていたからに他ならないし、当日の朝は軽く小雨がぱらついていたから、雨避けにフードを被っていたのは別段不思議には思わない。
だが、直也はふと頭に浮かんだこの話に、今さらながらどこか引っかかりを感じていた。理由は分からない。なぜだと問われれば探偵の勘だと大真面目に答えるしかない。しかし直也には確信があった。この違和感を解消することこそが、事件を解決に導くための糸口になるに違いない、という確信だ。それは話を聞いた当時には、全く覚えることのなかった感触だった。もしかしたら探偵として、人間として、成長した証なのかもしれない。そう己を鼓舞するように思うと、自信が心の底から湧きあがってくるような気がする。
「……ここか」
思考を一時中断させ、目的としていた病室の前で立ち止まる。救命救急センター内にあるその部屋のドアを見つめながら、直也は鼻から息を吐き出した。病衣の胸のあたりを整えるようにする。薄い緑色をしたそれは、入院した際に病院から借用したものだった。
白いドアの脇には病室に振られた番号を示すプレートが貼られている。それを確認し、呼吸を整えてからノックをすると、少し間があって中からか細い声が返ってきた。
「坂井です。入っても構わないですか?」
「あぁ、入りたまえ」
許可を受け、直也は片手で病室の引き戸を開けた。腕をあげるだけで腹部が引きつるように痛み、顔を歪める。こんな状態でよくも雨の中、戦うことができたものだと、過去の自分を今さらのように疑った。
病室は一人部屋だった。ベッドと床頭台、小さなテーブル、キャビネットとテレビだけが整然と置かれた簡素な内装だ。テレビの脇にはファイルがいくつも積み重ねられている。
ベッドをさながら塀のように、ぐるりと取り囲むのは、様々な医療用の機械だった。
その中心には、それらの機器と無数のコードによって繋がれた黒城和弥が寝そべっていた。
直也は自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。間違いない、という確信が脳内に流れ込む。青色のパジャマを着こみ、ベッドに伏せた状態であっても、強烈な印象を持つこの男の顔や、滲み出る気配を見間違えることなどあるはずもなかった。
「……お久しぶりです、所長」
男は直也の顔を見るなり、管の入った鼻を鳴らし、たくわえた髭を揺らした。直也は後ろ手にドアを閉めると、ベッドに近づいた。黒城は「あぁ」と不機嫌そうに直也を迎える。
「びっくりしましたよ。一体、なにがあって、こんなことに」
「色々あってな。この私が、随分としくじったものだ」
声を震わせる直也に対し、黒城の態度は毅然としたものだった。声こそ力がこもっておらず、囁くようであったが、病床に伏してもなお、依然と変わらぬその様子に、直也は少しだけ安堵を覚える。だが、掛布団の上に載った彼の左腕が視界に入った瞬間、再び言葉を失った。無意識に、目を剥いてしまう。
包帯の巻かれたその部分は肘から下が消失しており、明らかに直也のそれよりも短かった。まるでコンテナを引いていないトラックを目にした時のような、強烈な違和感が頭に叩き込まれる。見てはいけないと思いつつも、直也は彼の不格好な左手に釘付けとなった。
「そんなにこの腕が珍しいかね?」
直也の視線に気が付いたのか、黒城は眉を顰めて――とは言っても、直也の目にする彼はいつも不機嫌そうな顔をしているのだが――険を示した。
「あ、いえ。そういうわけじゃ」
直也は慌てて目を反らした。黒城はまた鼻を鳴らし、床頭台に置かれたテレビのリモコンに右腕を伸ばした。テレビの画面には騒がしいワイドショーが映し出されている。
「ライから聞いたぞ。まさか同じ病院に入院しているとはな。私も驚きだ。これも運命というものなのだろうか。それとも、必然か」
それはこっちのセリフだ、と直也は心の中で言い返す。まさかこの男が入院しているとは、ライから話を聞き、こうして実際に確かめるまで、想像すらできなかった。病気や怪我などとは、無縁の存在だと思っていた。常に孤高で尊大で、強大で、直也の立っている次元とはまったく異なる場所に生きている、そんなイメージを常日頃から抱き続けていたからだ。
しかし――
タオルケットを首までかけ、仰向けに寝そべったままテレビの電源を切る黒城に、直也は違和感を覚える。腕のことだけではない。この男はこんなに小さかっただろうか、と思ってしまう。直也の知っているこの男はもっと大胆不敵で、傲岸不遜であったはずだった。ベッドの中で小さく収まってしまうような男ではないはずだった。
それなのに、この目の前で起きている現実は何なのだろう。まるで暗闇の中に置き去りにされたかのような心許なさが、胸中を包む。機械によって生かされ、頬をやつれさせた黒城和哉の姿は、不安を喚起させるには十分すぎた。
直也は不意に、その姿を昔の上司である太田に、そして咲に重ねてしまう。それがまた新たな不安を呼び起こす、
「どうやらライが世話になったようだな」
何も映っていないテレビを見つめながら、黒城は口を開いた。直也は目を丸くする。
「……えぇ、まぁ」
「危険な目にもあったと聞いている。そのけがも、戦いで負ったものか」
「……聞いたんですか、あいつから」
黒城は直也を一瞥すると、小さく顎を引いた。
「大体はな。お前たちがひどく厄介なことに巻き込まれていることは把握できた。だが、よくライを守りきってくれた。お前には感謝をしなければならないな」
「いえ。守られたのは俺の方です。あいつがいなければ、俺はここにいません。感謝をされるようなことは、何も」
土砂降りの雨に打たれながら、直也は自分よりもずっと幼く、ずっと小柄な少女の叫びを聞いた。その嘆きを耳にした。大切な人を失いたくない気持ち。過去に犯した過ちを決して繰り返すまいという決意。その感情の揺らぎを、昂ぶりを受け入れ、差し出した。
その瞬間から直也は、ライを守ってやるなどという、うぬぼれた一方通行な考えを捨てることにした。守り守られ、持ちつ持たれつ、支えあう関係。自分とライとを繋ぐ絆の正体について、直也はそう見出したのだった。
「私はずっと、ライのことを娘のつもりで育ててきた」
相変わらず黒城は直也の方を向かずに喋る。まるでそうすることを誰かに強いられているかのように。またはそれが黒城を黒城たらしめている最後の砦とでも言い張るように。
「だが……あいつに本当の母親や父親がいて、そこに本当に幸せがあるというのならば、私はあいつをいつでも手放す、そういう準備はできている……無論、ライ自身の意思を尊重するがな」
黒城の口調に淀みや乱れはなかった。ただ淡々と自分の胸の中に書かれた文字を読み上げているかのようだった。直也は黒城の痩せた横顔を見た。それから彼が先ほどからずっと一心に見つめ続けている、テレビの画面に視線を転じた。電源を切ったままの黒い画面は、まるでドラム缶に並々と注がれたタールの液面のようだった。
「……いずれ、あなたにもライにも、そして俺にもそのことを問われる時はくると思います。ですけど、今はそれよりも先にやらなきゃいけないことがある」
「リリィ・ボーン、だったか。怪人どもが何を始めようとしているのかは分からんが。そいつを突き止め、阻止すること。それがお前やライに課せられた使命か」
直也は驚きつつも、頷いた。ライからもう話は受けていたのだろう。先回りをされてしまったことで、何だか決まりの悪い気持ちになったが、それを顔には出さない。
「はい、そうですけど……所長、信じて、くれるんですか? こんな漫画の中みたいな話」
「愚問だな。私を、誰だと思っている?」
あまりに彼らしいその物言いに、直也はハッと息を呑んだ。懐かしいものを覚えると同時に嬉しくなる。
「なに、お前やライが考えて決意をしたことなら私は止めない。いや、止めることは許されない。この私でさえも。自分の道は自分で決めるものだ。私はそうやって生きてきた」
「……ありがとうございます」
直也が頭を下げても、黒城は何も言わなかった。顔を上げ、彼のわずかに陰の射した頬を見つめながら、直也は迷った末に本題を切り出した。
「実は所長。ここに来たのは……力を貸していただきたいと思ったからなんです」
すると黒城は顔を向け、初めて直也をしっかりと見た。その瞳には以前と変わらぬ、力強い光が宿っていた。
「敵の力は強大で、底が見えない。俺たちだけじゃ、情報収集にも限界があります。こんな状態なら尚更だ」
直也は疼くような痛みを発する腹部を撫でる。まだ熱も下がりきってはいない。この不調を引きずりながら行動しても、あまりいい成果は生まないだろう。黒城の協力を得ることができれば、これほど心強いものはなかった。
だが――
「しかし、残念だ。今の、私では役には立てん。直接力を貸すことはできんな」
――黒城の反応は、直也の予想を完膚なきまでに裏切った。
「は?」
直也はその言葉が彼の口から出たということを、すぐには信じられなかった。
自分は役に立たない。
それは、黒城から最も遠く、隔たりのある響きを伴っていた。
「妙な顔をするな。この通り、私は寝床に縛り付けられた、いわば生ける屍だ。こんな男が、何をできるというのか。お前とて、分からぬわけではあるまい」
「でも!」
困惑に、直也は頬が熱くなるのを感じた。腹部の痛みも忘れて足を踏み出し、声を張り上げる。
黒城は瞼を閉じた。その表情から真意を読み取ろうと見つめる直也の前で彼は静かに言った。
「そう慌てるな。協力しないと言った覚えはない。部下を見捨てるような男になるつもりはないからな。お前の求めている答えを持つ人間を、紹介してやろう」
「答えを?」
黒城は目を開いた。呼吸こそ細かったが、眼差しは鋭く、その眼力は少しも衰えてはいなかった。黒城は深く息を吸うと、ひどく擦れた、しかし聞く者に無類の自信を植え付けるような、迫力に満ちた言葉を発した。
「情報屋だ。私が知る限り、最高の腕を持っている。その男に声をかけておこう。きっと役に立つ。世界大統領が言うのだから、絶対だ」
結局、黒城の案を聞き入れ、直也は病室を出た。黒城が推す情報屋は“シャーフ”というコードネームを持つ男らしく、手が空いていれば1時間もしないうちにこの病院に来てくれるとのことだった。
あの男が推すほどの人物だ。間違いはないだろうと思う。だが、彼の発した弱気な一言が、直也の心を思いもかけず動揺させていた。
「……所長」
煮え切れない感情を抱えたまま、部屋の前から離れる。そろそろ直也自身の検査が始まる時間だった。病室に戻らなければ、また看護師に嫌味を言われてしまう。
病院の廊下では色々な人とすれ違う。看護師や医者、杖を付いた老人や、寝間着姿の幼い子供や、ストレッチャーで運ばれていく人。さらに見舞いに来たのだろう人々の姿も多く見受けられる。さながらここは生と死の交差点だ、と直也は何ともなしに思った。
その時、ふと前の方からやってくる少年が目に入った。高校生くらいの年齢で、髪は金に近い色に染めてある。左腕には、手首から肘にかけて包帯が巻かれていた。背後には妹だろうか。彼よりもわずかに年下であろう少女を連れている。彼女は胸の前に花束を抱えていた。
直也がその少年に視線を止めたのは、過去にどこかで会ったような気がしたからだ。だが、一体誰なのかは思い出せない。そして少年の方は直也に面識がないらしく、何の反応も見せずに、すぐ横を通り過ぎて行ってしまった。
直也は足を止め、振り返った姿勢のまま少年を見つめる。考えを巡らせるものの、あと少しのところで出てこないのがもどかしい。
そのうち少年は、ある病室の前で立ち止まった。誰かの見舞いに来たのだな、と思った次の瞬間、直也は瞠目する。
少年がノックをし入っていった、その部屋。
それはつい先ほど直也が出てきた、黒城和弥の病室だった。
鳥の話 42
人としての肉体を失い、精神をも脅かされたV.Sトールが運び込まれたのは、あまりにも狭く汚れた部屋だった。室内面積は6畳程あるのだが、その半分は捻れ、崩れていて、とてもではないが使い物にならない。部屋の中には足のぐらつくテーブルと煤けた暖炉だけが、まるで時間に取り残されたかのように配置されている。
「……そんな馬鹿な」
壁に寄りかかり、うなだれていたV.Sトールは弾かれたように顔をあげた。
その胸に声が響き渡る。戦いの中で命を落とし、そして今は白石仁の中で精神の残渣となって生きている、菜原秋人の声だ。肉体を共にした二人は言葉を使わずとも、心で会話をすることが容易くできた。昨日から今日に至るまで、V.Sトールの話し相手は華永あきらでも、紫色の怪物でもなく、自分自身の中に漂うもう一つの精神に限られている。
そして今、菜原の記憶を内包するその声が、衝撃の事実を告げた。V.Sトールは自己を否定するかの如く、ゆるゆるとかぶりを振る。心の端が、じわりと麻痺しているかのようだ。
「船見琴葉は、だって、葉花のお母さんで……」
心臓の鼓動が高鳴り、呼吸が苦しい。指先は微かに震えを帯びていた。動揺が冷静さを浸食していく様を、肌で感じる。
「まさか、そんな葉花のお母さんが……」
その時、唐突に部屋のドアが開かれた。V.Sトールが顔を上げると、燃えるような金色に頭を染めた男が目の前に現れる。上はTシャツ、下は紺のスラックスという装いだ。その体は赤い輝きで仄かに包まれている。男はこちらに視線を留めるなり、眉を顰めた。
「昨日はとんだご挨拶だったな。まだ体の節々が痛むよ」
男は頭と首元に包帯を巻いていた。頬にはガーゼが貼られている。男はドアを閉めると、片足を引きずりながら近づいてきた。V.Sトールは突如現れた、その得体の知れない人物を前に、警戒心を滾らせる。
「そんなに構えるなよ、怖いじゃねぇか」
男は両手を挙げ、冗談めいた態度をとった。その表情には軽薄な笑みが浮かんでいる。
「なに、別に仕返しをしてやろうってわけじゃない。たとえ、そのつもりでも返り討ちにあうのが落ちだろ? 今日はお前に教えてやろうと思ってきたんだ。この組織に関係する、些末なところをな」
そう言って無防備な姿勢で足を止める男に、敵意がないことを察知し、V.Sトールは少しだけ気を緩めた。男の言う通りだと思った。例え男が敵愾心を奮わせ、襲いかかってきたとしても、逆に捻り潰してやればいいだけの話だった。そうするだけの力が今の自分にあることを、V.Sトールは知っている。
「君は?」
壁に背を預けたままの姿勢で尋ねると、男は眉を上げ、意外そうな顔をした。短い髪を手で撫でつけながら口を開く。
「俺か? 俺は、立浪良哉だ。この組織に入ってから、7年になる。よろしくな」
男は手を差し出したが、V.Sトールは腕を上げることさえせず、呆然と彼の顔を見つめていた。「たつなみ、りょうや」と彼の発した言葉を、口の中で含むようにして復唱する。
「そうだ、立浪良哉だ」と男も笑みを浮かべながら、もう1度、自分の名を口にした。
鎧の話 47
窓が激しく揺れている。外では背の高い木が、大きく傾いでいるのが見て取れた。そういえば台風が接近しているとニュースで報じていたな、と直也は廊下を歩きながら思い出す。注射針の跡を押さえていた指を離すと、当てていたガーゼを近くにあったゴミ箱に捨てた。
頭がぼやっとし、熱がまた上がり始めていることは分かっていたが、何分喉が乾いていた。ジュースでも買ってから部屋に戻ろうかと考え、自動販売機に向かう。直也の入院している3階には簡単な休憩用のスペースがあると、今朝説明を受けたばかりだった。
両腕で抱えるように腹部を守りながら数分して、それらしき場所にたどり着く。白い丸テーブルが三つ、ソファーが一つ、それに自動販売機が三台並んだ簡素なスペースだった。
怪我を負った状態では数メートルの道のりも、途方もないもののように感じるものだ。手近にあった柱に手を付き、一息をつこうとしたその瞬間。
直也は「あ」と声をあげた。丸テーブルの一つに、見覚えのある背中を見つけたからだ。パーマのかかった金髪に、黒いTシャツ。左手に巻かれた包帯。小柄なその体格は、間違いなく先ほど黒城の病室に入っていった少年だった。傍らには、廊下で彼と一緒にいた少女の姿もある。
「じゃあ、たぁくん。ちょっとおトイレ行ってくるね」
「え。じゃあ俺も中まで付いていくよ」
「やめて。病院におまわりさんが来ちゃう!」
「じゃあトイレの前まで」「もう、大丈夫だよ。トイレくらい、1人でいけるもん」
直也のところにも聞こえてくるくらいの声で、二人はそんなやりとりを交わすと、やがて少女の方が背を向け、その場から立ち去っていった。少年は「あっ」と声を漏らしながら立ち上がり、憂い顔で少女を見送る。その横顔は今にも崩れてしまいそうで、見ている直也まで不安になってしまいそうだった。
少しの間逡巡したが、やがて直也は意を決すると、少年の方に足を進めた。
「君、黒城さんの知り合いか?」
少年はびくりと肩を震わせ、振り返った。要らぬ警戒心を与えぬよう、直也は目元を緩め、唇に笑みを浮かべた。
「さっき、病室に入っていったのが見えたからさ。ちょっと気になったんだ」
「あなたは……」
「ああ。俺は」
直也は病衣のポケットから財布を取り出すと、その中から名刺を1枚引き抜き、少年に手渡した。少年はおずおずとそれを受け取ると、名刺と直也の顔とを交互に見比べた。
「坂井さん……探偵?」
「ああ。黒城さんの会社で雇われてる。……本当はあんまりこういうこと、言っちゃいけないんだけど。隣、いいか?」
椅子を指さすと、少年は「あ、はい」と慌てた風に席を差し出した。直也は礼を告げ、椅子に腰掛ける。少年も先ほどまで自分が座っていた場所に座り直した。
「あの俺は、天村佑といいます」
直也が名乗ったからだろう。少年――佑は少し緊張した様子で言った。なかなか礼儀正しいじゃないか、と直也は微笑を零す。
「黒城さんは……その、友達の父なんですけど」
「へぇ。娘さんは二人いると聞いているけど。君の友達は、どっち?」
「あの。姉のほうです」
黒城レイのことか、と直也は黒城の娘の名前を思い浮かべる。彼女とは、咲の写真を見せに行ったきり会っていない。そういえばライは、レイとディッキーのことで喧嘩をしたと言っていた。父親とは会話を交わせるだけの関係修復ができたようだが、姉とはどうなったのだろう。
「そうか。何度か顔を合わせたことがある。大人しそうで、賢そうだった」
「あれでいて、気が強くて、頑固なんですよ。でもすごくしっかりしてて、優しくて……それに」
少年は口元に笑みを浮かべながら、楽しそうに話す。だがその口元に浮かべた笑みは、すぐさま消失した。途端に、眼差しに暗澹としたものが籠る。彼の頬に射す影は、深く、濃く、粘り気を伴っていた。
その左手に巻かれた包帯に視線を過ぎらせると、直也は「そっか」と短く応じ、席を立った。追いかけてくる佑の視線を背中に感じつつ、自動販売機に向かう。財布の中から千円札を取り出した。
「そういえば、話は変わるんだけど」
細い切り傷のような入り口に札を入れるが、吐き出されてしまった。札の皺を伸ばしてからもう1度挑戦すると、今度はすんなり呑み込んでくれる。透明な板越しに羅列した飲み物たちを、ざっと眺めていく。
「さっき週刊誌で見たんだけど、例の連続猟奇殺人、どう思う?」
びくり、と佑が体を震わせたのが振り向かずとも分かった。彼の緊張が、焼きつくように背中を伝ってくる。直也はそれに気付かぬふりをしながら、350ミリの缶コーラを選んだ。
「あの事件、ちっとも進展している様子がないよな。犯人も分かってない。実は仕事の依頼人にも、あの事件で知り合いを亡くした人がいてさ。だからなんか、凄くやりきれなくて」
「俺も、そう思います」
佑の声は、思ったよりも明瞭としていた。確固たる意思のようなもので縁取りを固めているかのようだった。直也はもう1度、缶コーラのボタンを押し、それからお釣りのレバーを捻る。小銭の落ちる音が、けたたましく響く。
「あいつらのせいで、何人もの人が命を奪われてる。そのせいで、みんな悲しんでる。あんな化け物がのうのうと生きていい理由なんて、少しもないんだ」
佑の語調は強く、鋭い。その言葉は自分自身に言い聞かせているかのように、直也の耳には届いた。振り返る直也に、彼はハッとした表情を見せると、感情の昂ぶるままに発言してしまったことを恥じるかのように、暗い顔で俯いた。
「あんな風に人を殺している奴が、この町にいるなんて。こんなんじゃ、落ち着いて生活することなんて、できないです。早く……いなくなればいいのに」
「だけど俺たちはあまりにも無力で、小さい。それは事実だ。警察の手に負えないことが、一般人の俺たちで何とかできるわけもないだろ。気持ちは俺にも分かるけど」
直也は両手に1つずつコーラ缶を持つと、席に戻った。右手に握っていた方を佑の前に差し出すと、彼は顔をあげ、わずかに目を見開く。「おごるよ」と伝えると、躊躇する様子を見せたが、最終的には頭を下げ、缶のプルタブに指をかけた。
「……坂井さん。もしも、の話、していいですか」
直也もまたプルタブを開け、泡の立つ音を聞きながら缶を傾けようとしたところで、佑はそう切り出してきた。直也は戸惑いを覚えながらも、缶を持った腕を下ろし、「ああ」と短く応じる。
「もしも……もしも、奴らを殺すことができる手段と力が、目の前に合ったとしたら、坂井さんなら、どうしますか?」
直也は胸にざわめきを覚えた。直也に問いかける佑の目には暗い光が滲んでいる。その態度には必死さが宿っていて、仮定の話をしているにしてはあまりに思い詰めていた。
「それは……怪人全て、ということ?」
尋ねると、佑は小さく顎を引いた。その目は射抜くように直也を見つめている。なんだが尋問を受けているかのようだ、と直也はこの状況に違和感を覚える。
佑は焦燥しているようだった。同時に憎悪に燃えてもいた。感情のざわめきが、直也のもとまで伝ってくる。
「……俺か。俺なら」
しかし、直也はそれに気づかぬ振りをする。表情にも態度にも出さず、テーブルに視線を運んだ。鋭利な感情を曝け出す少年に、どんな答えを差し出すが、迷った。少し間を空けてから、口を開く。
「俺なら、躊躇いもなくそれを手に取る。誰かが止めなきゃ、これからも被害者は増え続ける。そんな悪魔みたいなものを野放しにすることなんてできない」
だけど。
直也は続ける。面を上げ、暗澹たる佑の顔に視線の焦点を、合わせる。
「だけど俺なら力を手に入れると同時に……信頼できる他の誰かに、俺の命を委ねる」
「自分の、命を?」
直也の発した答えを、佑は明らかに訝しむ。直也はコーラを一口、舌の上で転がすようにしてから飲みこんだ。
「人間なんて、自分の視線でしか物事を見ることができないからな。人の気持ちを考えろ、とか言われたって、そんな単純なものじゃない。だから独りよがりは危険だ。大きな力を持っているなら、尚更だ」
それに直也はつい最近、気付かされた。
1人では本質を見誤ってしまう。矛盾に気づかず通り過ぎてしまう。
2人なら正すことができる。取り戻すことができる。1人では見ることすらできない光が、この世には確かに存在する。直也はそれを知らなかった。認めようともしなかった。だからずっと一人で、足掻き、もがき、苦しんだ。しかしその先に光などなかった。
「もちろん、信念を持つことは大切だ。芯が通ってないんじゃ、話にもならないからな。だから俺が言いたいのは、そういうことじゃない。もっと、大きな目で世界を見ろってことだ。俺がもし過ちを起こしたとき、間違った道に行こうとしたとき。指摘して正してくれる存在は必要なんだ。それが欠けたら、俺は人殺しをしている奴らと、同じになる。それだけは……絶対に避けなくちゃいけない」
「あいつらと……同じに」
「君だって、そうなりたいわけじゃないだろ?」
佑は少し間をあけてから、噛みしめるように頷いた。
数センチ、わずかに空いた窓の隙間から風が吹き込み、二人の髪を揺らす。
佑は直也から視線を反らし、包帯の巻かれた自分の左手に目をやる。その顔色には相変わらず濃い影が射し、眼差しは憂いを表現していた。
直也はコーラを口に運んだ。痺れに似た感触が口内に伝わり、舌をじわりと焼いていく。
鳥の話 43
元々は机や椅子だったのだろう残骸を足で除けると、金髪の男――立浪良哉は、床に直接座り込んだ。V.Sトールと向き合う形である。彼は壁に寄り掛かると左足を立て、右足だけで胡坐をかくような格好をする。人に話をしようとしているとは思えない、実に不遜な姿勢である。
「お前、まだ俺たちを恨んでいるのか?」
嘲るようでも、恍けるようでもなく、男は真剣そのものの顔つきでV.Sトールを見つめてくる。V.Sトールは拳を固め、努めて平静を保ちながら口を開いた。
「当たり前だよ」
怒りがじわじわと足先から這い寄り、体を侵食していくかのようだ。呼吸を整えながらも、V.Sトールは立浪を睨む。
「この姿になった時だって困惑して……悩んだんだ。ましてや、もう人の姿になれないと知らされれば、恨みもするし、恐れもするし、怒りもする」
「だがお前は覚悟をし、願いを持って、この組織に入った」
「そうさ。僕には戦う理由がある。願うもののために自らを投げ打つ覚悟も。だけど感情は、理屈じゃないんだ」
V.Sトールは自分の手を見つめた。その黒く悪魔めいた不気味な掌が、自分自身のものであるという実感は未だにない。心が認めることを拒否しているようだった。
「それに……人がみんな、そんな理路整然とした感情の上で成り立っていれば、こんな戦いも起きないよ。君もそう思わないか?」
「まぁな。そりゃ、そうだ。人の気持ちほど、危ういものはないし、信頼できないものはない。ここにいるとそれを何より実感できる。社会勉強になるぜ? 人も信じられなくなるけどな」
何が可笑しいのか、立浪はふふ、と声をたてて笑った。その態度がV.Sトールの気持ちを逆撫でにする。もう二度と憎悪に取りつかれまいと必死に衝動を抑え込む。
「……君にとっては笑いごとでも、僕は真剣なんだ」
吐き捨てるように言い、さらに強く立浪を睨む。心の中に囁いてくる声が一層、ざわめきを増していく。
「こんな姿で、恰好で、僕はこれからどうやって生きていけばいい!」
胸を絞めつけられるような思いにかられながら、V.Sトールは再び自分の手を見下ろす。爪を立てて力いっぱい、その拳を握りしめるが掌には傷一つ付くことはなかった。
「同情してやるよ。だが、お前にも責任はある。お前は東京での戦いで粒子を使いすぎた」
「何……」
その言葉に、V.Sトールは弾かれるようにして顔を上げた。立浪はふっと鼻を鳴らす。
「言ってなかったか? 粒子は有限だと。お前はそれを忘れ、使ってはいけないところから切り崩してしまった。お前の中の人間と化け物のバランスが、そこで完全に崩壊した」
粒子は有限だ。だから使いすぎてはいけない。確かにそんな説明を、組織に加わって初めの頃にあきらから受けた覚えがある。だが、彼女はその詳細まで――すなわち、粒子を消費しすぎた結果、一体何が起きるのかまでは言ってくれなかった。当時、疑問を覚えることすらしなかった自分自身が、今になって恨めしく思える。
「そんなことをすれば、普通の人間なら死んでるところだ。粒子は人体にとっては猛毒だからな。だから例え、そんな化け物じみた姿になっても生きていられるのは、この場に生を抱き続けていられるのは、ただ単にお前が特別だからだ」
「僕が特別、だって?」
「そう。お前の体の中には今、石板が2つ入っている。死んだ菜原秋人のものがな。一つだって、人間には過ぎたものなのに、そんなことができる人間は、そうそういない」
「……ちょっと待って。今、なんていった?」
V.Sトールは耳を疑った。さも当然のように立浪が話すので聞き流しかけたが、看過することはできなかった。鮮烈な感触が、胸を掻き毟る。
「菜原君が……死んだ? 君は今、そう言ったの?」
口を伝って出てきた声は、震えを帯びていた。途端に菜原の顔が脳裏に浮かぶ。仁を好きだと言ってくれたあの笑顔が、心を占める。心音が異様な速度で刻まれていく。
「ああ。この前の戦いで、マスカレイダーに殺されたんだ。死体はもはや人の形を留めてはいなかった。残されたのは、Sの石板だけだった。その石板は今……お前の体の中にある」
V.Sトールは腹部に対になって浮き出た二つの石板を見下ろし、掌で撫でるようにした。わずかな温もりが、指の上を螺旋状に舐めていく。
「僕の中に、菜原君が……」
口にすると、遅れて理解が忍び寄ってくる。立浪の言葉よりも、V.Sトールは実感をもって菜原の存在を確信することができた。彼の声ならば目覚めた瞬間からずっと、頭の中で鳴り響いている。今、胸を蝕んでいくようなこの強い憎悪も、悲しみも、怒りも、おそらく菜原のものなのだろう。その苦しみを、今、V.Sトールは些末な部分に至るまで理解することができる。痛いほどに。狂おしいほどに。
「お前は黄金の鳥に見初められたということだ。華永あきらでさえも、たどり着けなかった境地にお前はいる」
「……あきらちゃんにも?」
「彼女は黄金の鳥に選ばれなかった人間だ。あの珍妙な髪の色を見れば一目瞭然だ。あいつは幼い頃から石板の毒素にやられている。そして」
もうじき、死ぬ。
勿体つけることもなく、特別な感情を含ませることもなく、立浪はそう続けた。
しかし冷静なのはV.Sトールも同様だった。菜原が死んだことを伝えられた時に比べて、あきらの死が近づいているという事実は、あまりV.Sトールの心を揺らさなかった。頭のどこかでは気付いていたからかもしれない。自分をこんな目に合わせたあきらに対し、まだ恨みを抱えているからかもしれない。彼女のことなどどうでもいい、という諦念も事実、心の中にはあった。
「そう。あきらちゃん、死ぬんだ。もうすぐ」
だからV.Sトールは何の感慨もなく、そう短く応じた。冷たく思われただろうが、構わなかった。この状況で、この姿で体裁を繕おうとすることの方が惨めで愚かだ。
「黄金の鳥を敬い、他者に信仰を促す立場にあるはずの自分が、選ばれた存在でないことを華永あきらは気にしている。そんな自分を憎んでさえいる。だから躍起になってもいるんだ。黄金の鳥に選ばれた存在を、自分の味方につけようとしている。河人真やお前のような」
「……だから彼女は、僕を誘ったんだね。僕がこうなることを分かって……」
スーパーマーケットの店内で彼女に声を掛けられた日のことを、今では遠い過去、もしくは別世界の出来事のように感じられるあの日のことを、V.Sトールは想起する。あの瞬間から彼女の構想する壮大な野望は、すでに幕を上げていたのだと思うと、背筋に冷たいものが伝うようだった。
「どうだ? 話を聞いたら、少しは自分の存在価値ってやつが分かってきたんじゃねぇか? お前は、特別なんだ。俺たちとは違う。俺たちには許されない生き方は、お前にはできる」
「特別、ね……」
粒子でじわじわと体の内側から嬲り殺されていくのと、人としての体を取り上げられ、残りの人生を化け物の姿で生きることを強いられるのと、どちらがより辛いのだろう。少なくともV.Sトールの頭には、死んだ方がマシだろうという気持ちが膨らんでいる。
それを口に出そうものなら無いものねだりだと、おそらく立浪は揶揄してくるだろう。だが白石仁がそもそもあきらの言葉に誘われ、組織に入り、石板を埋め込まれたのは、楓葉花を窮地から救い、元の日常に戻りたいという目的があってのことだった。確かにどんな姿になろうとも、生きてさえいれば、葉花を救うことはできる。その部分だけを取り上げるならば、あきらに感謝しなければならないだろう。
だが後者の願い。一か月前と同じように、葉花や佑と一緒に暮らしたいという願いは、もはや叶うことはない。あまりにも醜悪で暴力的な化け物の身では、人としてはもう生きられない。少し前までは願わずとも叶っていたことが、今ではなぜこれほどまでに遠い理想に成り果ててしまったのか、いつから歯車は狂い出してしまったのか、それさえももはや定かでなかった。
「……そうだ、葉花」
V.Sトールは身を乗り出した。途端に、不安と焦燥が腹の底から這いあがってくる。記憶に色が帯び、徐々に鮮明さを取り戻す。
葉花。守らなくちゃいけない女の子。なぜこんな大事なことを忘れていたのだろう。
「葉花は今、どこにいるの? ちゃんと、無事でいるよね?」
唾を呑みこみ、顔を近づけながら、V.Sトールは立浪に尋ねる。だが尋ねてから、この男が葉花のことを知っているとは限らないことに気づく。
だが、立浪は楓葉花という黒髪の、小柄な少女のことを知っていた。そして彼はあきらがもうすぐ死ぬということを告げたのと同じように、あまりにあっさりと彼女の置かれている状況について口を開いたのだった。
「そうだ、俺はそれをお前に伝えるためにここに来た。楓葉花は今、マスカレイダーズに捕囚されている」
「は?」
思わず、訊き返してしまう。もちろん立浪の声は聞こえていたし、その内容を理解できてもいた。だがここですんなり「そうですか」と認めてしまえば、それが確固たる事実として、揺るがぬ現実として、世界に根づいてしまうような気がした。
実際には認めようが認めまいが、事実が塗り替わることなどない。それを証明してやると言わんばかりに、立浪は耳元を指先で掻きながら、もう1度言った。
「だから楓葉花は捕まったんだよ。お前が戦ったおそらく直後に。マスカレイダーによって。だから……どこにいるかは分からない。無事であることは願いてぇが」
「願いたいって……そんな馬鹿な。君たちは、あきらちゃんは一体、何をしてきたんだ」
床を叩き、それから弾かれるようにして立ち上がる。眉を顰める立浪を真っ直ぐに見下ろした。V.Sトールの声は、体は、小刻みに震えている。怒りと困惑と恐怖とがかき混ぜられた感情が、心に渦巻く。
「僕が気を失っている間に、何もしてこなかったのか! 葉花の無事が分からないなんて、そんな! そんな馬鹿なこと!」
「落ち着けよ」
立浪は嘆息すると、V.Sトールを見上げた。V.Sトールとは対照的に、実に落ち着いた態度だった。その物腰が、かえって感情を逆撫でする。
「別に俺たちだって、手をこまねいたわけじゃない。今だって東京に仲間を出して、捜索しているところだ。だがなかなか上手い具合にはいかん。奴らだって間抜けじゃない」
「マスカレイダーズがどんなことをする連中なのか、君だって分かってるだろ! 葉花が無事である保証なんて……」
たまらず拳を握りしめる。どんなに堪えようとしても、その体から粒子は噴出してくる。感情の昂ぶりを、増長していく不安を、抑えきれなかった。V.Sトールは唸り声を喉から漏らすとドアの方に足を向けた。
「おい、どこに行くつもりだ」
座ったまま、顔だけをこちらに向けて、立浪は尋ねてくる。V.Sトールはドアを押し開けながら、叫ぶようにして答えた。
「決まってるだろ! 東京だ! 葉花を探しに、救いに行くんだ!」
もはや答えている時間も、考えている時間さえもじれったい。今こうしている間にも、葉花が死に向かっているかもしれないということを考えると、冷静になることなどできなかった。
「……それは止めておいた方がいいな」
立浪は壁に手を付きながら立ち上がった。V.Sトールはすんでのところで足を止める。制止を振り切ってまで部屋の外に飛び出さなかったのは、立浪の声に、彼の言葉を無視してはいけないような、聞き逃すことは許されないような、そんな迫力が備わっていることを感じ取ったからだった。
「……どういうことだい」
「お前の体は人と怪物。その過渡期にあるということだ。覚えていないのか? お前は昨日、本能のままにこの場所を飛び出し、そして岩手の森の中で気を失ったことを」
ずきり、と疼くような痛みがこめかみに襲いかかった。それと同時に、まるですすきの穂で撫でられるようなむず痒さが胸を占めていく。まるで雷が落ちたような衝撃が背骨を伝い、足先に突き刺さった。その場から動けなくなる。硬直したまま、荒い息を吐き出し、立浪を睨みつける。
「どうやら体の方が先に、恐怖を思い出したようだな。外見だけ見ればお前は立派な化け物だが、精神や内臓はまだ人としての形をかろうじて残している。この塔の周囲は黄金の鳥の力に満ちているからな。ここで体を少しずつ、慣らしていかなければならねぇ。だからお前はしばらく、この塔から出ることは許されない」
「そんな!」
声を張り上げるが、その調子はわずかに上擦っている。立浪に詰め寄ろうとするが、足は少しも動かない。がくがくと、体の芯から震えが走る。
「だから、東京に行こうなんて考えるな。その前にどっかの山奥で気を失うのがオチだ。俺たちの手を、あまり患わせるなよ」
立浪の突き放しているのか気を遣ってくれているのか、よく分からない発言は、それでも心を深く抉った。
彼の言葉を信じず、この塔から脱出しようという気持ちはもはや皆無だった。この体に、心に、恐怖が叩き込まれている。全身を食い破られるような激痛が、現実のもののように蘇ってくる。
V.Sトールは叫び声をあげた。精神がひどく揺さぶられる。発狂しそうになるのを、危うげな自制心でほとんど無理矢理に押さえ込む。
「僕は……僕は、葉花を助けることもできないのか? こんなところで、指を加えて見てることしか、できないのか!」
誰の言葉よりも明瞭に、V.Sトールの体は立浪の話す事実を肯定していた。それが何よりも苛立たしい。何よりも先に自分が自分の限界を認めてしまっている――認めざるを得ないこの状況が、狂おしい。
語気を強くしたV.Sトールに対しても、立浪は落ち着き払っていた。彼はこちらに向かって歩み寄ってくると、目の前で立ち止まり、囁くように言った。
「そうだ。いわばお前は、カゴの中の鳥だ。まずは体を慣らせ。話はそれからだ」
にやりと笑い、横をすり抜けていく立浪に、V.Sトールは硬直したまま反応することさえできなかった。
「今のお前は……化け物となったお前は、永遠に近い命を手にしている。そこに無限に連なる苦痛を加えてみろ。まさに地獄の苦しみだろ」
声を低め、最後の忠告とばかりに男は告げる。部屋の外に立ち去っていく立浪の後ろ姿に、V.Sトールは反論することも、彼を追いかけることも、できなかった。
「そんなの……待てるわけが、ないじゃないか」
もう死んでいるかもしれない葉花と、そんな彼女の元に駆けつけることのできない自分。その歯がゆさに、情けなさに、虚しさに。
V.Sトールは押し潰され、狂ってしまいそうだった。
鎧の話 48
「それで、君はどうするんだ?」
直也が問いかけると、隣に座る佑は何だか不安そうな顔をした。なぜそんな顔をするのか、直也には少しも分からない。
「えっ」
「俺は君の質問に答えた。今度はそっちの番だろ? それで君はどうする。力を差し出されたら、受け取るのか?」
直也はわずかに目を眇めた。彼の一挙一動を確認するためだ。その懐疑心が露出しないように注意しつつ、彼の返答を待つ。佑はしばらくテーブルの上のコーラを見つめていたが、ほどなくして顔を上げ、直也を見た。
「……俺は、受け取らないかも、しれません」
「そいつは意外だな。話の流れからして、てっきり受け取る派だと思ってたよ。それは、どうして?」
直也は淀みなく質問を続ける。そうしながら五感を怠慢なく研ぎ澄ませる。さらに同時に、頭の中で情報を検索し、拾い上げて整理していく。まるで海面に浮かぶ漂流物の持ち主を洗い出していくかのように。
佑は少しだけ迷いを、その瞳に浮かばせた。しかし、すぐに。
「不安になると、思いますから。自分が正しいことをしているのか、その力の使い道は間違っていないのか。ミイラ取りがミイラになるじゃないですけど……悪意に呑み込まれないかどうか、きっと」
そんな持論を、どこか寂しげに述べた。
「坂井さんはさっき、信頼できる誰かを捜せと言いました。だけどそうやって選んだ人が、もし、悪意に取り付かれていたら……どうすればいいんですか?」
佑は真剣な表情で、直也を見つめる。その顔にはどこか鬼気迫るものがあった。まるで実在する悩みを相談されているかのような、深刻さが窺える。
「それは」
直也は慎重に唇を開く。1秒か2秒、間を空け、それから言葉を紡いだ。
「もしそうなったら……相手の本質を見抜けなかった自分を憎むべきだ。怨むのは、力じゃない」
直也はライの顔を脳裏に過ぎらせる。あの実直で、素直で、意固地な彼女のことを思うと、心の底から活力が涌き出てくるようだった。
「自分の信頼した相手が悪意を振るうなら、まず何か理由があるはずだと疑うべきだろ。少なくとも、俺はそうするよ。それでもし間違った方向に進みそうだと思ったら、指摘してやる。声を掛けてやる。それが信頼関係ってやつだと俺は思う」
「信頼……」
佑はどこかぼんやりとした調子で、直也の言葉を復唱する。「そうだ」と頷くと、佑は「信頼……」と何かを思うように、宙に視線を向けた。
「まぁ、俺の持論だけどな。別に君に押しつけるつもりはない。だけど、面白い質問だったよ。自分の気持ちの整理ができた」
複雑に絡み合い、錯綜し、その形を見失いつつあった気持ちをはっきりとさせることができたのは収穫だった。心がごわついていると、体調が優れない時は特に頭の回転が鈍ってくる。それをこのタイミングで精算する機会に恵まれたのは、とても大きい。
「たぁくん。ただいまー」
佑が何か言おうと、口を開きかけたその時、可愛らしい声が直也の背後から聞こえてきた。振り向くと、先ほど佑と会話を交わしていたあの少女が、手を振りながらこちらに歩み寄ってくるところだった。少女は目を丸くして直也のことを見つめると、それから佑と直也を交互に見比べるようにした。
「こんにちは……ねぇ、たぁくんの知り合い?」
「こんにちは」は直也に、その後に続く言葉は佑に向けて発せられたものだ。佑は決まりの悪そうな顔を浮かべ、鼻の頭を掻きながら「うん、まぁ。レイちゃんのお父さんの知り合いなんだってさ」と直也のことを簡潔に説明した。
「どうも、こんにちは。彼が黒城さんの病室から出てくるところを見かけたもんでさ、ちょっと暇つぶしの相手をしてもらってたところなんだ。二人は兄妹?」
「あ、はい。私は悠といいます。いつもレイちゃんのお父さんがお世話になってます」
悠は折り目正しく、きっちりと頭を下げる。友達の父親の知り合いのためにここまで礼儀正しい挨拶をされると、逆にこっちが戸惑ってしまう。「いや、どうも」と、いまいち締まらない挨拶を返すのがやっとだった。
悠はにっこりと、向き合う人の心を温かくさせるような笑みを浮かべると、それから佑の方に顔を向けた。ぴょん、と軽く跳びはねるようにして体の向きを変える姿は、どこか小動物を思わせ、実に可愛らしい。
「じゃあ、たぁくん。そろそろ帰ろうよ。明日の準備、間に合わなくなっちゃうよ」
「あ……うん。そうだな」
佑は直也をちらりと見てから、席を立った。その視線がどういう意図をこめられたものなのか、はっきりとは分からなかったが、どうも心残りがあるのだろうということは判別できた。だが直也は特別、彼の内面を探るようなことはしなかった。「じゃあ、すみません。用事があるんで、お先に失礼します」と会釈をし、背を向ける佑を快く見送る。
「レイちゃん、いなかったね。電話もメールも繋がらないし……」
「……ごめん。俺がこんな時に喧嘩なんてするから。本当に悪いことした」
兄妹の声が背後をすり抜け、徐々に遠ざかっていく。直也は深く息を吸い込んだ。
大きく胸を張り、体の隅々まで酸素が行き渡っていくイメージを浮かべる。心を氷のように研ぎ澄まし、精神を雲のように解き放つ。
「……なぁ」
直也は振り向かなかった。だがその声に、二人が足を止め、こちらに体を向けたのは気配で察することができた。
わずかばかりの逡巡を振り払い、直也は首を背後に捩る。佑は表情に疑問符を浮かべ、次に続く言葉を待っているようだ。
直也は唾を呑み込んだ。そして確信を胸に――躊躇いなく、口を開いた。
「お前、フェンリルだろ」
直也の放った言葉の矢は、確実に、着実に、佑を射抜いたようだった。彼の息を呑む音がこちらまで聞こえてくるかのようだ。その虹彩が広がり、黒目が丸く、大きくなる様子が子細に至るまで見て取れるようだった。それ程までに、佑は動揺を顕わにしていた。
まるで茨のような緊張感が、直也と佑を包みこむ。佑は瞠目し、微かに指先を振るわせたまま直也を見据え、硬直している。直也は振り返った。首だけを背後に向けた姿勢のまま、視線で佑を貫く。佑の隣で悠は首を傾げている。
その瞬間、二人の間に流れる時間は、確かに動きを止めた。どちらとも動くことなく、喋り出すこともなく、ただ見つめ合っているだけの時が脈々と過ぎていく。忙しなく歩く看護師の気配も、鼻をくすぐる消毒液の臭いも、鼓膜を震わせる救急車のサイレンも、そのすべてがひどく遠いもののように感じられる。そんな瞬間だった。
「あ……」
無限にも感じられたその硬直を解いたのは、佑の発したか細い声だった。彼は忙しなく視線を動かし、憐れにも思えるほどに狼狽えている。口火を切ったは良いが、続く言葉を考えていなかったのか、それとも動揺のあまり忘れてしまったのか、彼は躊躇うように口を開きかけ、また閉じることを繰り返すだけで、それ以上、何も言おうとはしなかった。
助け舟というわけでもないが、滞った会話を滑らかにしようと直也が口を開きかけたその時、足音が耳朶を打った。革靴の底が床を叩く、小気味のいい音だ。
直也が顔を前に戻すと、そこには白いワイシャツにスラックス姿の男が立っていた。革のカバンを握っている右の腕には、紺色の背広を掛けている。顔には黒いフレームの眼鏡をかけており、きれいに整えられた顎髭がよく似合っていた。おそらく年齢は40代後半といったところだろう。
「初めまして。あなたが、坂井直也さんで、間違えはないですかね?」
「あなたは……」
男はにこりと唇を緩ませた。澄んだ目をした男だな、というのが直也の印象だった。まるで波一つ立たない夜の湖畔のような静けさが、その瞳には宿っている。まるで悪意や暴力といった言葉とは無縁であると主張するかのような、純粋な輝きを直也はレンズ越しに捉えた。
男はスラックスのポケットから黒革の名刺ケースを引き抜くと、先ほどの直也と同じように、そこから名刺を取り出した。直也は椅子から立つと、差し出されたそれを受け取る。記された文面を読んでから顔をあげ、正面から男を見た。
「黒城和哉氏よりご紹介に預かりました。情報屋の“シャーフ”と申します。またの名を」
「菅谷さん……」
ずっと黙り込んだままだった佑が、突然、声をあげた。直也が視線をやると、彼は男と対峙するようにしながら、目を丸くしていた。その背後では状況を全く把握していないのだろう、悠がおろおろとしている。
「君は……久しぶりだね。天村佑君と言ったかな。しろうまの件、驚いたよ」
佑に向かって、情報屋の男は親しげに話しかける。男の静かな湖畔に、悲愴の波紋がわずかに浮く。そのやり取りを眺めながら、この二人は知り合いなのだろうかと直也は想像する。もしそうだとすれば、あまりにでもできた偶然だ。
「今、彼に呼んでいただいたように」
男は直也に向き直ると、口元に微笑みを湛えた。その左手が、右の手首に巻いてある腕時計の盤面をなぞる。実に滑らかな、流れるような動作だった。
「またの名を、菅谷紀彦と申します。それでは坂井さん、仕事の話を始めましょうか」
鳥の話 44
雑音が頭の中に響いている。床に足裏を打ちつけるたびに、瓦礫を力任せになぎ倒すごとに、その濁ったさざめきは音量を増していくように思えた。
代わりに、耳から入ってくる現実世界の音は少しずつ、遠く、細くなっていくようだ。それは海の底に沈んでいく感覚に似ていた。海面から遠ざかるにつれ、光もまた薄らいでいく。どれだけ手を伸ばし、求めても、指先が掠めることさえ叶わない。沸き立つ無数の泡と冷たい水に抱かれながら、その体は暗い深淵の果てへと沈み、落ちていく。
立浪は、菜原秋人は死んだと言っていたが、V.Sトールにとってその情報は信頼に足るものではなかった。現実を受け止められないのではない。菜原が死んだことは十分に認識しているつもりであったし、事実を拒絶する気持ちは初めからない。だが、それでも菜原の死にいまいち現実感を見出せないのは、V.Sトールが自らの身体に、心に、菜原が住み着いていることを実感しているからだった。
菜原の体温を、心音を、感情を、自身の肌の温度よりも明瞭に感じることができていた。彼の声も、これ程までにはっきりと聞こえる。菜原と身も心も一つになっているという確信が、V.Sトールの中には満ちていた。それを思うと、とても幸福な気分になる。抜け殻同然の肉体と空虚な心の中で、彼の存在だけが仄かな明かりを放っているようで、ひどく心地よかった。
「菜原君……」
――ボスを怖がることなんてないさ。いざというときには、戦えばいいんだ。お前にはお前の夢がある。その夢を阻むやつがいるなら、なぎ倒して進めばいいんだよ。
それは生前の菜原が遺した言葉だ。あきらと戦え。そして倒せ。菜原はそう教えてくれた。まだ人間だった頃のV.Sトールは、彼の乱暴ともいえる、しかし潔いその台詞に感心したものだった。そして今、怪物となった白石仁の背を、彼の言葉が押している。
「菜原君、そうだよね。君は、正しいよ……」
うわ言のように呟きながら、腹の底に力をこめ、体表から粒子を周囲に飛散させる。スリット越しに黄金の目を光らせると、視界に現れた薄緑色の扉を睨みつけた。
その足元には鳥のお面を被った人間たちが、何人も倒れ伏している。殺してはいない。気を失っているだけだ。粒子をばら撒いただけで、彼らは次々と昏睡していった。
V.Sトールは腕を一振りする。それだけで触れてもいないのに、目の前の扉は周囲の壁ごと引き剥がされ、吹き飛んでいった。鉄製の扉が床に叩きつけられる轟音を耳にしながら、部屋の中に足を踏み入れる。昨日戦った、紫色の怪物がおそらく作ったのであろう、粒子の罠が仕掛けられているようだったが、V.Sトールにとっては障害にすらならなかった。足に絡みつこうと地面から伸びてくる触手を、緑色の粒子の波動で粉々にし、天井から襲い掛かる紫色の球体を、青の粒子を纏った右腕で払いのけた。
そうして侵入を果たした室内には、老朽化したベッドが一台置かれており、それをお面を被った人間たちがぐるりと囲んでいた。彼らはV.Sトールを見るなり、ぎょっとした様子をみせ、一斉に身構える。だがV.Sトールの眼中に彼らの存在は欠片もなかった。興味があったのは、彼らの中心でベッドに横たわる少女――華永あきらだけだった。
あきらはひどくやつれていた。満身創痍と言い換えても良かった。頬はこけ、額のあたりにはミミズのように血管が浮いている。目の下は隈で黒ずみ、唇は青紫をしていた。特徴的だったその青髪は、今やほとんど白に見える。自らの腹部を守るように置かれた手には血が滲み、指の先などは特に荒れていた。
自分と戦った時に浴びたダメージの影響だろうか――そんな考えが頭に過るものの、それだけだった。罪悪感などない。ただあきらの呼吸は明らかに苦しそうで、それには多少なりとも同情の念は覚えた。
彼女の身から立ち昇る淡い光もまた、黒く濁っている。お面を被った男たちや立浪を包んでいた光よりも、明らかにそれは弱弱しかった。
「白石、さん……」
あきらが蚊の鳴くような声で、もうこの世にいない人の名前を呼ぶ。V.Sトールの失った名前を囁く。
V.Sトールは自分の腹部に備わった、右側の石板に手をかけた。その手に菜原の掌が覆いかぶさっているイメージを浮かべる。菜原の声を頭の中で聞きながら、その石板を下方に押し込んだ。
すると次の瞬間、その右腕から青い光が吹き出し、やがて刃の形状を成した。腕を上げると、冷え冷えと煌めく刃の切っ先を寝そべったままのあきらに突きつける。
「あきらちゃん……君に、話がある」
粛然と怒気を含ませた声が、室内を伝った。あきらは眉一つ動かすことなく、脂汗の滲む額を掌でそっと拭う。V.Sトールはそんな彼女の一挙一動を、観察する目で見つめていた。




