12話「ひどく透明な夢の果て」
誰かに追われているような感覚だけがあった。
動悸が激しくなる。息が切れて苦しい。だが足を止めることはできなかった。少しでも走る速度を緩めれば、頭から食い殺されてしまう。その気配はぴったりと背後に付いてきていて、隙を見せるその時を虎視眈々と狙っているのだから。
天も地も、朝も夜も、夢と現実も、何もかもが曖昧に混ざり合って、周囲を流れていく。溶けていく景色は、まるで紙に滲んだインクのようだ。まるで自分自身が光になってしまったかのようだった。己を形作るものは何もなく、ただ突き動かされるような感情がざわついている。
だがそんな急いた気持ちとは裏腹に、その足は突然、硬直してしまう。前につんのめり、派手に転げる。両手をついて立ち上がろうとするが、全身に力が全く入らなかった。
突然、胸元に激しい痛みが突き刺さる。それはすぐに全身へと伝染していき、たまらずうめき声をあげた。体の内側を無数の刃物で刺され、抉られるような、耐え難い痛みだ。地面に爪を立て、陸に上げられた魚のように悶えるが、痛みは少しも収まらなかった。症状は悪化の一途を辿っている。気を失えば楽になるだろうが、意識が薄れることはなく、むしろ時を経るごとに頭は冴えていくようだ。
気付けば、苦痛の中で世界は再構築されていた。藍色の空があり、土肌が剥き出しになった地面があり、周囲には木々が並び、そこを温かい風が吹き抜けている。だが相変わらず、ここが夢か現実かまでは判然としなかった。
これが夢なら、覚めてくれ。
歯を食いしばり、地面を掻き毟りながらそう願う。逼迫した状態がどのくらい続いただろうか。数時間にも、数ヶ月にも、数年にも思える、無限の時間を越えて、ようやく意識が薄らいできた。
激痛がゆっくりと体から遠ざかっていく。地面と一体になるような気持ちで横たわる。目の前の景色は鎖されていき、世界は再び崩壊を始めた。
「白石さん」
誰かの声が聞こえる。男女の区別も、それが人のものなのかさえも分からなかった。ただ、懐かしさを感じた。きっと自分はこの声を聞いたことがあるのだろうと思う。だが思い出す前に、意識はテレビの主電源を落としたときのように、ぷつりと途切れてしまった。
死人の話 4
時刻は午前3時。泥酔した真嶋は、千鳥足でくたびれた町を歩いていた。バーで久々に飲みすぎてしまった。バーテンダーの言葉に耳を貸さず、黙々と酒を喉に流し込んでしまったのが悪かった。記憶ではこの程度の量では全く酔いもしなかったはずなのだが、今では真っ直ぐ歩くことさえ困難だった。ガードレールに寄りかかり、頭上を見上げる。星一つない、濁りきった空だった。
「……あれは僕なのか、それとも、真島だったのか?」
真嶋は――蟹の怪人、キャンサーは、二つの記憶を持ち合わせている。すなわち黒城グループの重役だった真島という男の記憶と、二条裕美によって生み出された怪人、キャンサーとしての記憶だ。いつの間にか二つは混ざり合い、境界線も曖昧になっていた。こうして酒をあおったときなど、特にそうだ。そんな時、真嶋は自分というものの存在が分からなくなる。
「一体僕は、誰なんだ。僕は、どこにいるんだ」
それは真嶋にしては、ひどく弱気なセリフだった。脳裏に天枷の勝ち誇った顔が浮かび、彼の放った言葉が耳の奥に反響する。
――真嶋の記憶と姿をもったお前は、外から見れば一寸も違わずあの男だよ。お前がどれだけ否定しようとも、お前が偽者だとは誰も信じようとはしないだろうな。
「……くそ! 好き勝手言いやがって!」
真嶋は怒号を吐き散らし、ガードレールを拳で叩いた。その音に通行人の視線が集まる。真嶋は周囲を睨み付けると、舌打ちをし、その場を後にした。大きくよろめいた拍子に、道端に放置してあった自転車を蹴倒してしまったが、そのまま無視して通り過ぎる。
苛立ちと虚しさが交互にやってきて、真嶋の心の中はひどく慌しい。深夜だというのに、繁華街には人の姿が大勢見受けられる。そのほとんどが酒気を帯びているようだった。肌を赤らめ、似たような顔をした集団の中に真嶋は混ざりこんでいく。理由の分からない焦燥が、その足を自然に速めさせていた。
そうして気付けば、宿泊をしているホテルの前にたどり着いていた。天枷に宛がわれた高級ホテルで、一般的なビジネスホテルと比べると、段違いのセキュリティを有している。顧客名簿もしっかりと管理されているため、万が一敵が客として入ってきたとしても、ある程度ふるいにかけることができるようだった。
真嶋はロビーで警備員による簡単なチェックを受けると、エレベーターを使い、部屋のある階層に向かう。到着すると、ずらりと立ち並んだドアが出迎えてくれた。そのうちの一つの前に立ち、カードキーをリーダーに通す。
だが、ロックの外れる音が鳴ることはなかった。真嶋は顔をしかめ、ドアノブを握る。力を入れて引くが、ドアはびくともしなかった。何度もカードキーを通し直すが、一向にロックは外れない。真嶋は憤懣やるかたなしに、リーダーを拳で叩いた。
「なんだこれは、くそ! ドアまでもが僕を馬鹿にするのか!」
喚き散らしながら悪態を吐き、ドアを強く蹴り飛ばす。するとほどなくして、そのドアが内側からゆっくりと開かれた。中からセーラー服を着た少女の、人形じみた顔が覗く。ドアチェーンが掛けられているため、ほんのわずかな隙間しかそこには生じない。
その何かを訴えるかのような視線に、真嶋は唇を噛んだ。思考能力が精彩を欠いた状態であっても、今の状況を理解することは容易にできた。つまり真嶋は、部屋を間違えたのだ。
だが、ここで自分の非を認め、引き下がるのにはあまりにも決まりが悪い。この少女の前とあっては尚更だった。
真嶋はしばらく無表情を浮かべる少女と見つめあった。それから咳払いをし、これ以上閉められないようドアの縁を掴み、近づける限界まで少女に顔を寄せた。
「……なぜお前がここにいる。今からここは、僕の部屋だ!」
鼻先で鎖が揺れるその向こうで、少女が目をぱちくりさせる。やがて彼女は視線を床に移し、それからため息を零してチェーンを外した。
「ずいぶんと、物分りがいいじゃないか」
真嶋はドアを開け放つと少女を押しのけ、室内に足を踏み入れる。真嶋の泊まっている部屋とレベルが同じということもあり、中の間取りは全く一緒だった。ベッドランプと常夜灯の明かりだけが照らす室内は、どこか落ち着き払った色を帯びている。深夜という時間帯もあり、周りの世界から隔絶されたかのような、非現実的な趣があった。
ベッドの上にはコピー用紙に印刷された、数多くの資料が広がっている。マスカレイダーズの居所を突き止めるための参考資料だった。その他に、走り書きがされているノートも置かれていた。おそらく少女のものだろう。彼女なりに考えた結果を、まとめているのかもしれない。
立ち止まり、その資料を見つめながら、真嶋はこみ上げてきそうになる笑いを噛み殺す。少女も、組織すらも知らない、マスカレイダーズに関する有力な情報を、自分は得ているという優越感からだった。
だが、組織にはその情報をまだ明らかにはしていない。もう一押しされるか、または、他の手段が手詰まりになるまで待つつもりだった。組織に対して、何らかのアドバンテージはあったほうがいいという考えからだ。功を焦り、全てを明かしてしまうのは何となく癪だった。楓葉花のことは心配ではあるが、真嶋にとっては己の矜持を守ることもまた、同じくらい大切なことだった。
ソファーチェアーに腰掛け、大きなため息をつく。手近に冷蔵庫があるのを見つけ、中を開けて外国産の缶ビールを取り出した、プルタブを引き、口を付ける。アルコールのせいで渇いた喉が、アルコールによって潤されていく。
一気に缶の半分くらいまで飲み干し、深く息を吐く。ゆったりと背もたれに身を埋めながら、室内に戻ってきた少女の方を見やった。
ガンディによって受けた彼女の傷はすっかり癒えているようだった。とは言っても、ダメージを受けたのは怪人体のほうであり、この少女の体の方は傷一つつけられていないのでそれも当然といえば当然のことだった。
少女はベッドの上に腰を下ろすと、広げられた資料をかき集め始めた。相変わらずの涼しい表情だ。良くいえば精錬された、悪くいえば面白みのない顔立ちは、美しい日本人形そのものだった。
彼女は相変わらず、どこの学校のものなのか分からないセーラー服に身を包んでいる。膝上まで短くしたスカートから、白く瑞々しい太腿が覗く。痩せすぎもせず、太すぎもしない、ちょうど優美な線をその足は描いていた。
真嶋は不鮮明な視界で彼女を足先から頭の上まで眺め、それから眉根を寄せた。
「……お前はなんで制服のままなのだ。こんなホテルに高校生が泊まるのは不自然すぎるだろうが」
少女はそれまで精密機械のように、黙々と資料を数えていた手を不意に止めた。そして顔をあげると、首を小さく傾げた。
「さっきまで、上に羽織っていたけど」
「……違う、そういうことを訊いているんじゃない!」
怒鳴り声を発してから、真嶋はハッとなった。酒に溺れるのも、怒りを吐き出すのも、この胸に漂う不安を忘れ去るためだ。少女の心を見透かすような視線と向き合ったせいだろうか、真嶋はふとそんな自分の本心に気がついた。そんな自分が気に食わず、何だか後ろめたい気持ちに陥る。
真嶋はビールをさらに喉に流し込むんでから、少女を改めて見やった。
「それらしい服装に着替えろと言っているのだ。この僕のようにな」
真嶋は両腕を広げ、胸を大きく張り、着ているポロシャツとスラックスを彼女に見せつけるようにする。
少女はじっとしばらくの間、自慢げな真嶋の顔を見つめていた。だがやがて、顔を俯かせると、上着のファスナーを外し、セーラー服の襟口を緩めだした。
まさかここで着替えるつもりなのかと、真嶋は頬を固くする。幼い女の子にしか興味を持てない真嶋であったが、男である以上、女子高生がいきなり服を脱ぎ始めると、やはり動揺してしまう。
少女は上着の裾を胸元まで一気にたくし上げた。あまりに大胆な少女の行動に真嶋は目をそらしかけるが、すぐにハッと息を呑んだ。セーラー服の下から出てきたのは、乳房でも、下着でも、白い肌でもなかった。
そこにあったのは、紫色をした、怪人としての肉体だった。その質感はまるで作り物のようだ。胸元には微かに鳥の絵が描かれているのが確認できる。服がたぐられている場所と肌との境界線は、薄い光を帯びていた。真嶋は目を瞠り、思わず立ち上がった。
少女は真嶋の反応を認めるかのように小さく頷くと、服の裾を元通りに下ろした。
「もうこれ以上服を脱ぐことは、できない。脱ぐとこの人間の姿を維持できないんだ。この通り。私は、未完成な怪人だから。滋野アヤメは学校帰りに車で拉致されて、制服姿のまま惨殺された。だから私は、この外見以外の記憶を持たない」
「馬鹿な。怪人が死体の記憶から作られた存在といっても、その程度の改竄は許されているはずだ!」
「だから私は不完全なんだよ。あなたにできることが、他の怪人にできることが、私にはできない。この姿と怪人の姿を切り替えるのだって、倍の時間がかかる。私は、欠陥品なんだ」
そういえばガンディの一撃を浴びたとき、少女はしばらく九官鳥の怪人のままだった。記憶を纏えば、すなわち少女の姿になれば、ダメージもなくなるというのに、なぜその姿のままなのかと疑問に思ったが、話を聞いて真嶋はようやく納得がいった。
「でも、それはずっと仕方がないって考えていた。今からどうにかなるものでもなかったから。でも……これを埋め込まれてから、だんだん自分が分からなくなった」
少女は自身の喉元に彫りこまれた、人の目を模ったタトゥーをその細い指で撫でる。
「私は滋野アヤメという少女が生きていた頃の記憶を持っている。だけど同時に、彼女が死ぬ瞬間も覚えている。恐怖に震えて、殺さないでと命乞いをしながら、生きたまま刃物で足を切断されたのを、知っている。なら、私は一体誰なのだろう。一体、どこからきたのだろう。そんなことを、つい考えてしまう」
少女は、これまで無口でいた時間を取り戻すかのようによく喋った。だが表情は相変わらず色褪せたままだ。瞳を揺らし、わずかにベッドから身を乗り出す彼女は、やはり死人のようだった。
「私は単なる死体の記憶? それとも生き返った彼女? でも、たくさんの姉さんたちに囲まれて、父さんに命じられて頑張っていたのは、確かに私のはずなんだ。でも私は、滋野アヤメの記憶も姿も持ってる。なら一体、私は何なんだろう。どういう物として、この世に存在しているのだろう」
捲くし立てられる少女の言葉に、真嶋は喉奥が狭まるのを感じた。まるで心の中に住まうもう一人の自分にその命題を突きつけられているような気分だった。
少女はくっきりとした目で、こちらを見つめてくる。真嶋は何気なく冷蔵庫に目をやり、そうやって考えをまとめてから口を開いた。
「そういえば、式原から聞いたことがある。怪人の起源を知る手がかりとなる存在を、生み出そうとしているとか、なんとか。そうだ、……その怪人には、名前がないらしい」
「名前が?」
少女は声を上擦らせた。その挙動に不審なものを覚え、真嶋は眉を顰める。少女は頬を擦りながら視線を下向かせ、迷うような表情をみせたあとで、顔をあげた。
「……それはきっと、姉さんだ」
「姉さん?」 思わず聞き返したが、真嶋はすぐにその言葉の示すものに思い至った。「まさか、式原の長女のことか? お前たちの中でもたった一握りしかその正体を知らないという、あの有名な」
少女は頷いた。どうやら真嶋の予想は的中したようだ。
「でも、起源を知る? そんな話、私はこれまで聞いたことがない」
「おい、僕はこれまで一度も嘘を吐いたことがない男だぞ。奴は確かに、そう言ってたさ」
缶ビールを傾け、中に残った最後の一滴を飲み干す。空き缶を片手でくしゃくしゃに潰し、ゴミ箱に投げ入れた。宙に弧を描いた缶はゴミ箱の縁に当たって弾かれ、かつん、と音をたてて床に転がった。
少女は不安げに、上目遣いで真嶋を見る。真嶋がソファーチェアーに再び腰を沈めようとしたその時、彼女はその艶やかな唇を開いた。
「あなたもまた、私と同じ悩みを抱えているんじゃないのか?」
真嶋は腰を浮かせた姿勢のまま、硬直した。少女は神妙な表情を浮かべ、言葉を紡ぐ。
「一体自分が何者なのか、一体どこに向かうべきなのか分からない。そういう顔をしている。あの天枷という男に会ってからだ」
腰を下ろすのを止め、真嶋は立ったまま少女を見つめる。胸のざわめきが一際強くなった。ビールの含まれた苦い唾を飲み込む。
「天枷はあなたを知っていた。あなたもまた天枷のことを知っていた。……いや、知っていたのはあなたじゃない。あなたの元となった、真嶋という男の死体だ。天枷に名前を呼ばれたことで、あなたの中の境界線が曖昧になりつつあるんだ」
表情を変えず、少女は言う。真嶋は拳を握り締めた。頭に沸騰した血が昇っていく。
「苛立っているのも、そのせいだろう? あなたは不安なんだ。自分の居場所が分からないから。私と、同じなんだ」
少女の目は真っ直ぐで、体の皮膚を剥がし取り、内臓の隅々までを観察するかのようだった。そんな彼女の人を見透かすような態度が、真嶋にはどうにも我慢ならない。
真嶋は歯を強く噛んで軋ませた。そして胸の内で膨張しきった怒気に背を押されるがままに、少女を睨みつける。すでに我慢の限界はとっくに超えていた。
「だから、その気持ちはすごく分かる。あなたの不安も苛立ちも。だから、私と一緒に」
「ふざけるな!」
真嶋は感情を爆発させ、声を荒らげた。地団太を踏み、唾を吐き散らす。
「お前が僕と同じ? 戯言を吐くな! お前みたいな欠陥品と、僕を一緒にするな!」
その剣幕に少女は押し黙り、きょとんとした顔をする。真嶋は手近に落ちていた四角いクッションを掴むと、それを少女目掛けて投げつけた。
「急に喋りだしたと思えば説教しやがって! ふざけるな! お前に僕の何が分かる! 知ったような口を利くな!」
飛んできたクッションを、少女は避けることも防ぐこともせず、顔面で受けた。衝撃に少し体をのけぞらせたものの、ぶつけられた後に現れたその表情は、平然としたものだった。その淡々とした眼差しには憐れみのようなものが浮かび、真嶋の感情をさらに逆撫でする。
真嶋は鼻息を荒くしながら少女に近づき、その腕を掴むと、力任せに立ち上がらせた。そしてドアの方に向かって、強く肩を押しやる。困惑を浮かべて振り返る少女に、真嶋はさらに語気を強くした。
「ここから出て行け! 僕の前に二度と姿をみせるな!」
「だってここ私の部屋……」
「早く出て行け! 石にされたいのか!」
少女はわずかに眉を顰めた。だがすぐにドアの方に向き直ると、彼の言うとおり部屋から出て行った。一人取り残された部屋の中で、真嶋は行き場を失った怒りを抑えきれぬように、ベッドを蹴り飛ばした。
「ちくしょう!」
誰もいない部屋で、荒々しく吼える。だがそれを受け止めるものは、すでに何もない。
怒りも、不安も、恐怖も。
それらの衝動を何一つ制御できない自分を、真嶋は愚かしく思った。
鳥の話 40
嵐の海に浮かぶ難破船の夢を見た。
空を覆う暗澹と濁った空は、まるで人々の嘆きを凝縮させたかのようだ。狂ったスクリューは甲高い悲鳴のような音を漏らし、沈みゆく船体からはいくつもの部品が海に散りばめられていく。それらの鉄屑たちは救いを請うかのように、長い時間をかけて、ゆっくりと、海中に引きずりこまれていくのだった。
白く浮かぶ泡と、闇に落ちていく脈動。それらのイメージは徐々に擦れ、遠ざかっていく。
そうして、水面に浮き上がってくるかのような浮遊感を覚えながら、白石仁は目覚めた。
瞼を上げ、意識を少しずつ覚醒させていく。ゆっくりと鼻から息を吐き出し、体の隅々まで気力を通わせていく。
だがそこで仁は、自分自身に不審なものを覚えた。
体がやけに重たい。まるで石を背負わされ、海に突き落とされたかのようだった。倦怠感によって意識が侵食されている気がする。指先一つ動かすのさえ億劫に感じた。
感覚もどこかおかしかった。何を言っているのか分からない囁き声が、耳元で絶えず聞こえてきて騒がしい。視界にはところどころ丸い光が浮かんでいて、何だか眩かった。嗅覚が捉えるのは灰の臭いだ。
身を取り巻く全てが新鮮に思える。なぜそんな感想を覚えるのかは仁自身、不思議だった。これまで自分が過ごしていた世界とあまりにも乖離しすぎていて、ここは天国なのではないかという考えが一瞬過ぎる。
仁の脈絡のない思考を打ち切ったのは、部屋に入ってきた足音だった。仁は顔をあげ、正面を見た。そこには白装束に身を包んだ、青髪の少女の姿があった。
「……白石さん、目覚めたんですね」
「……あきら、ちゃん」
この少女の名前がすらりと自分の口から出たことに、仁は思いもかけず動揺した。同時にそれは懐かしい響きだな、とも思った。彼女の全身は、この部屋に漂っているシャボン玉のような丸い光と同じように、薄く発光していた。色は白だ。その光はよく見れば、激しい明滅を繰り返しているようだった。
あきらは仁の前で屈みこんだ。なんだかしばらく見ない間に、彼女は大分やつれたようだった。単なる疲労というわけではなく、まるで大病を患った人が己の人生の終わりを悟った時のような、達観めいたものがその表情にはあった。
目の白い部分は青みがかり、その肌にも唇にも、張りがなかった。記憶ではあきらは16歳だったはずだが、それよりも大分老けて見えた。
「白石さん」
あきらはもう一度仁の名前を口にすると、体を大きく広げ、全身を使って抱きついてきた。仁はすぐ間近にあるあきらの頬を、そっと視線だけを動かして見やる。その体温も、彼女の体から伝わる弾力も、まるで薄い膜を通したかのようにどこか遠くに感じた。はっきりとしているのは、その体から血の香りがすることくらいだった。
「良かった……本当に、良かった。白石さんが、目を開けてくれて」
あきらの頬に透明の雫が伝い、仁の肩に触れる。皮膚の上を弾けたその微かな温もりは、仁の脳裏からある少女に関する記憶を呼び覚ました。
「あきらちゃん……葉花は? 葉花はどこ?」
あきらが身を強張らせたのが、仁には分かった。彼女は体を離すと、正面から見つめてきた。その瞳は揺れ、恐れと迷いがありありと映しこまれている。
その何かを諦めたかのような表情に、仁は背筋に震えが走るのを感じた。訊いてはいけなかったのではないか、という後悔が胸をどよめかせるが、やはりその真意を問わないわけにはいかなかった。
「あきらちゃん」
焦りに蝕まれ、体をわずかに震わせたその時、仁は左手の方で金属同士が擦れ合うような音が鳴るのを聞いた。一拍、呼吸を挟んだあとで、そちらに目をやる。
そして――息を呑み、目を見開いた。ぞわりと、冷たいものが足先から頭上まで昇りつめる。目の前にあるものが果たして現実なのか、意識が揺らぎそうになる。しかしこれが夢だろうが、現実だろうが、どちらにしてもそれが実際に存在していることは間違いなかった。
仁の左手には金属製の枷がはめこまれていた。それは鎖によって壁と繋がれ、身動きを固く封じている。さらに枷は左手だけに留まらず、右手や両足にも同様のものが装着されていた。
だがそれ以上に仁の胸を絞め付けたのは、その枷によって抑えつけられている自分自身の体のことだった。
それは何をどう解釈しようとも、人間のものからはひどくかけ離れていた。鉱石のような質感を持ち、夜よりも深い色の黒と、陽だまりよりも明るい白によって彩られたそれは、明らかに怪物の四肢だった。慌てて体を見下ろせば、胸も腹も、そのどこにも人間らしい肉体を見つけることはできなかった。
仁はその体について知っていた。V.トール――石版の力によって得た、仁のもう一つの姿。だがいつもと違うのは、仁の意思に関わらず、その姿が発現していることだった。
まるでそれが当たり前のことのように。仁の本当の姿であるかのように。
「あきらちゃん、これ……」
嫌なものを感じ、仁は上擦った声を発して、あきらの顔に答えを探す。あきらは沈痛な表情を浮かべて、立ち上がった。後ずさり、それから足元を見つめる。
彼女の表情には迷いがあった。仁は不安に押しつぶされそうになりながら、彼女が告げる言葉を待つ。その間も頭の中はひどく混乱し、心は乱れていた。正常な思考や判断など、到底できなかった。
やがてあきらは顔を上げた。その頬は強張っていて、怖いくらいだった。その瞬間、仁は全てを悟る。湧き上がる恐怖の中に諦めが膨らんでいく。
自分は、もう――
「白石さん……あなたはもう、人間じゃ、ないんです」
血色の悪く、乾いた唇であきらは絶望を紡いだ。部屋の中に一層色濃い静寂が満ちる。
「白石仁という人間は、もう、この世から消滅しました」
あきらはさらっと断言した。その観念したかのような呟きは、仁の胸を鋭く衝いた。恐怖と不安とがざわめきとなって背筋を上りつめ、脳内を揺らす。
「……嘘だ」
発した声もひび割れている。仁は首を振り、それから涙声で叫んだ。
「そんなの、嘘だ!」
体を激しく揺らす。鎖が床や壁と擦れ合ってけたたましい音をたてた。あきらは神妙な面持ちで仁の拒絶を前にしている。その諦観のこもった眼差しが、仁の中で荒れ狂う感情を、さらに行き所もないほどに暴走させた。
「嘘だ、嘘だ、嘘だぁぁぁ!」
仁の慟哭が、部屋に、そして塔全体にまで響き渡っていく。その体から青と緑の混じりあった粒子がとめどもなく吐き出され、光が空気を舐め尽した。その強烈な閃光を、あきらは棒立ちのまま、避けることさえしなかった。
仮面の話 5
自分の部屋に帰ってくるなり、雅人はベッドに体を投げ出した。夕飯の入ったコンビニのビニール袋が、床で崩れる。消し忘れた豆電球だけが照らす薄暗い室内で、雅人は天井の染みをじっと見つめた。
レイトショーで映画を観た後、帰りにコンビニで適当に時間を潰していたら、こんな時間になってしまった。眠気が体の芯にこびりつくかのようだ。そのくせ頭は変に冴えていて、このまま自然に意識が落ちるということもなさそうなのが厄介だった。
今日行ったのは、公開初日からずっと観たかった映画だったのだが、その内容は少しも頭に残っていない。雅人の脳内を占めていたのは、昨晩、携帯ゲームの画面に現われた甲冑の男、ハクバスの発した言葉だった。
――このままでは彼女は死んでしまう。俺と一緒にだ。あなたの協力が、必要なんだ。
切迫した様子で、ハクバスは頭を深々と下げ、雅人にそんなことを懇願してきた。あの疲労の滲んだ、必死な声は、今でも鼓膜にこびりついているかのようだ。ところどころボロボロに砕け、無残な姿を晒した甲冑が脳裏を過ぎる。
――黄金の鳥を復活させようとしている奴らの仕業なんだ。あいつらのせいで彼女は……ゴンザレスは俺のことを嫌っている。頼りになるのはあなただけなのだ、瀬野原雅人!
「葉花ちゃんが、死ぬ、か……」
呟くと、ひどく呆気ない響きだと思った。雅人は体を起こすと、額を軽く掻きながら薄闇に目を細めた。正面の壁に下がった、コルクボードを見つめる。
縦に30センチ、横に90センチある、比較的大きなそのボードには隙間なく写真が敷き詰められている。
その写真に写しだされているのは、全て葉花だった。だが、彼女がカメラの方を向いているようなものは一つとしてない。
あるものは物陰から撮られ、あるものは隠しカメラを用いたとしか思えないアングルで撮られていた。写真はボードに貼ってあるだけでも、二十枚はくだらない。しかもそれらは厳選に厳選を重ねたものばかりだった。
「……人間なんて、みんな悪意の塊だ。きっと葉花ちゃんだって……」
雅人は顔を歪め、吐き捨てる。人間は多くの顔を持つ生き物だ。きっと葉花だって、可憐だだけではない、醜い素顔を持っているに違いなかった。
それをわざわざ自分から暴きにいくなど、実に愚かな行為だと雅人は思う。
美しいものは美しいままで、可憐なものは可憐なままであればいい。嫌な思いをしたくないというのは人間として、当たり前の感情だろう。この世には知らなくていい、知ってはいけないことが、思いもかけずたくさんあるのだから。
写真の中の彼女はいつでも可愛く、美しい。その記憶が自分の中で永遠に続くのであれば、葉花が死のうが死ぬまいが、雅人にとって大した問題ではなかった。
「他人のために頑張るなんて、馬鹿げてる。なんで俺が、戦わなきゃいけないんだよ」
誰ともなく悪態を吐き、雅人は自分の心に言い聞かせる。自分は人のために尽力できるような人間ではないのだ。葉花が死ぬと言われても、その気持ちに変わりはない。
雅人は枕の隣に置かれた、羊のぬいぐるみを手に取った。腕に難なく抱えられるくらいの大きさで、毛並みは崩れ、少し薄汚れている。
そのつぶらな瞳をしばらく見つめたあとで、雅人はぬいぐるみを強く、胸の中で抱きしめた。
「葉花ちゃん……」
温い吐息とともに呟き、ぬいぐるみの頭に頬ずりをする。口元に笑みさえ浮かべた雅人のその表情は、大きな幸福に満ちたものだった。
鳥の話 41
この部屋には窓も時計も存在しないので、今が昼なのか夜なのかさえもまったく分からない。だが例えそれらが存在したとしても、時間の概念などもはや仁にとっては無いにも等しかった。
くたびれた心に誰かの話し声が聞こえてくる。それは聞き覚えのある男の声だった。何を言っているのかは全く聞き取れなかったが、その語調にこめられた怨嗟と怒気は伝わってくる。耳にするだけで、奈落の底に心が突き落とされていくかのようだ。ひどく病んでいて、それでいて哀しい響きがそこには纏われている。
「そうか、そうだよね」
呟き、膝を立て、目を開く。胸の中に薄汚れた油が溜まっているようで気持ち悪かった。その不快感に誘われるようにして、仁は体を揺り動かしていく。
「うん、分かったよ。菜原くん。君の言うとおりだ。僕、分かったよ」
独り言を漏らし、顔をあげる。歪んだスリットの中に除く双眸は、闇よりもまだ深い黒に満ちていた。
「……そうだ、あきらちゃんを、殺そう」
喉奥から飛び出た二つの声が残響し、重なる。その不協和音が形作った言葉は、憎悪に塗れた決意だった。仁は瞼を閉じると、体の奥底から粒子を目覚めさせる。目を見開くと同時に青緑の粒子がその身から放たれ、体を縛り付けていた鎖を引きちぎった。
「僕の人生を壊した奴らなんか、みんな死んでしまえばいいんだ」
拘束から解き放たれ、怨嗟を纏い、身を起こすそのシルエットはもはや白石仁の欠片さえも宿していなかった。
白と黒の両方を混在させた騎士、V.S.トールは腕に巻きついた鎖を払い、手足に装着されたままの枷を、多少体に力をこめるだけで、触れることさえなく粉々にした。
足を踏み出した先から、石造りの床が陥没していく。足跡がくっきりと残された床からは、薄い光が立ち昇っていた。だがそれを意識する余裕すらなく、V.Sトールは正面の扉に向けて歩を進めていく。粒子を纏った腕をその場で軽く横に振ると、5メートルほど先にある扉が、まるで凄まじい力で殴られたかのようにひしゃげ、外側に吹き飛んでいった。V.S.トールは何の表情も言葉もなく、ただ空気を捻らんばかりの怒りだけを引き連れて、部屋から外に出た。
V.S.トールの前では、いかなる障害も意味をなさなかった。何しろ歩くだけで、周囲の瓦礫や壊れかけの階段が轟音をあげながら吹き飛び、道を開けてくれるのだ。散っていく砂埃を体に浴びながら、V.S.トールは閃光に彩られた足跡を背後に刻んでいく。歩いた後には青緑の粒子が湯気のように、立ち昇っては消えていった。
頭の中に情報が慌しく殺到してくる。それはどれも、壁や天井や瓦礫の山から伝わってくるものだった。その身を取り巻く全てものが、V.S.トールに囁いてくれる。脳裏を瞬いては消えていく映像や音声を辿り、華永あきらの痕跡を追っていく。
そうして壁を穿ち、床を切り裂いた末に、V.S.トールは開けた空間へと行き着いた。これまでの通路とは明らかに異なり、天井や床がきちんと均された場所だ。ホテルで置き換えるなら、おそらくここがロビーなのだろう。脳裏に浮かぶ情報は、この先にあきらがいることを指し示していた。
V.S.トールは足を止めた。目の前に鳥のお面を被った男たちの集団と、金髪に色黒の青年が待ち構えていたからだ。彼らの体からも淡い光が立ちのぼっており、その色もまた様々だった。それを目にした瞬間、堪えがたい怒りが心を支配した。
V.S.トールは赤い歯肉の覗く牙を剥き出しにし、咆哮をあげた。その叫びに共鳴するかのように塔全体が激しく揺れ、軋む。大地も震え、その上に立つ男たちはふらふらと足を彷徨わせる。
そこに生じた隙を狙い、右手の掌に粒子をかき集めた。腕全体が強烈な閃光によって覆われたところで、力強く前方に拳を突き出す。その先端から放たれた太い光条は空を裂き、お面の集団の中心に突き立てられた。
広間が一瞬で、火炎と悲鳴に染め上げられる。床には焦げ跡がこびりつき、光線が通過した場所の一部は荒々しく抉られてもいた。今の一撃で生き残った男たちにもV.S.トールは続けて手をかざすと、不可視の力を行使して、彼らの体を抵抗の機会さえ与えず、次々と壁に叩きつけて殺していった。彼らが命を無くしたことは、その体に帯びていた光が消失していく様から一目で分かる。その光景がさらに、苛立ちを加速させていく。
部屋中を舐め尽していく業火の最中を、金髪の男が疾駆する。焼け焦げ、上半身を無くした死体の横を跳躍し、一気に距離を詰めてくる。そして彼は右手の人差し指の先に光を収束させると、そこから灰色の光線を撃ち出した。その光は見事にV.S.トールの胸を捉えた。だが、そのモノクロの体は微塵も揺らぐことがなかった。
「平然としやがって……こいつ!」
男は舌打ちをするとさらに近づき、回し蹴りを放ってきた。V.S.トールは軽く首を傾けるだけでその鋭い足先を容易くかわす。さらに掌から連射された灰色の光線を、ことごとく体で受け止めた。それでも鉱石のような肉体には傷一つ付くことはない。V.S.トールは男の存在を鬱陶しく感じた。
かざした右手を素早く横に振ると、それだけで金髪の男は何か重いものによって殴られたかのように、軽々と真横に飛ばされていった。勢いを殺されることも無く、そのまま壁に背中を強打し、床でのた打ちまわっている。V.S.トールはその姿を何の感情も持たずに眺めながら、全身から青い瘴気を浮かび上がらせた。
だがその時。
V.S.トールは咄嗟に首を背後へと捩った。粘液を帯びた無数の触手が眼前に迫る。掌をかざし、その中心から緑色の閃光を吐き出すことで、有無をいわせずそれを焼却した。
だが背後に忍び寄っていたのは、それだけではなかった。頭上を仰ぐその視線の先には、両足をだらんと投げ出した姿勢で宙を浮遊する、紫色の怪物の姿があった。
顔は銀色の仮面によって鎖され、その右目にあたる部分のみが真紅の輝きに彩られている。全身はその体と同色の光によって包まれ、まるで炎そのもののような様相をみせている。V.S.トールは瞳を細め、その見慣れぬ荘厳な姿を仰いだ。
「随分、手ひどくやられたみたいだね。もう全滅かな」
紫色の怪物は地面に転がった金髪の男に目をやり、ため息を零す。男は壁に背を預けるとその場に座り込み、苦痛に顔を歪めた。
「少しは抵抗できると思ったが、まるで歯がたたねぇ。まるで別次元だ」
「だろうね。もし成功していたら、あれに勝てるものなんかこの世にいないんだよ。あれは、私と同じものなんだから」
紫色の怪物を取り巻くようにして、妖しく揺れる火球が空中に次々と出現する。数秒も経たない内にその数は二十を軽く超え、そのうち燃え盛る炎の群れによって怪物の周囲だけが強い輝きに満ち溢れた。
「あなたたちは下がってるといいよ。身内でのいさかいに、傍観も何もないんだよ」
怪物は背中に手を回し、一体その痩身のどこに隠し持っていたのか、身の丈ほどもある巨大な剣を取り出した。鍔に宝石の散りばめられた、黄金の剣だ。刀身は透き通り、汚れや刃こぼれ一つない。
「……こいつを引き抜くのも、久しぶりだね」
紫色の怪物は片手でそれを一振りすると、その切っ先を前に突き出した。
「全力でいかせてもらうんだよ」
途端に、宙を漂っていた火球が動き出す。縦回転を加えながら放たれたそれらの燃え上がる弾丸は一斉にV.S.トールへと迫った。
V.S.トールは全身に粒子を滾らせた。行く手を阻むものは何であろうと全て敵だ――その胸の中は敵愾心に満ちている。そこに生じた悪意を腕に乗せ、真っ先に迫ってくる火球の一つに向けて、拳を振るった。
だが、拳が触れる手前で火球は途端に姿を消す。その行方を探す間もなく、脇腹を衝撃が抉った。爆発によってバランスを崩したV.S.トールの体に、次々と火球が飛び込んでくる。
それらはまるで生き物のようだった。銃から打ち出された弾丸のように直線的な軌跡を描くだけでなく、湾曲や下降、上昇を織り交ぜながら目標をあらゆる方向から貫いてくる。それは全く予測不可能な動きだった。
皮膚の表面に帯びた粒子を、V.S.トールは雄たけびと共に一気に周囲へと放出させる。それだけで火球のうちいくつかは空中で分解し、消滅したが、それでも全てが打ち落とされたわけではなかった。間断なく身を打つ衝撃に、V.S.トールは次第に追い詰められていく。壁に背中を打ちつけた体に、一際大きな火球が激突すると、ついにV.S.トールは膝を床に落とした。
「あなたは私と同じように、石版に取りこまれ、人の姿を失った存在だからね。だからその絶望も、悲しみも、痛いほど分かるんだよ」
でもね、と怪物はその体に帯びた光をさらに強いものにする。大剣の刃先に、赤い炎が纏われていく。それは剣の内部から脈々と湧き出てくるかのようだった。
「だからって、あなたにこの場所を壊されるわけにはいかないんだよ!」
浮遊する紫色の怪物は空を蹴り、一気に前に飛び出した。そしてその黄金に染められた大剣を、体全体を使うようにして袈裟懸けに振り下ろす。
その一撃は、V.S.トールの肩から脇腹にかけてを、容赦なく切り裂いた。よろめく体に、初めて傷跡が刻まれる。だが苦痛はそれだけに留まらなかった。
地の裂け目から噴き出すマグマのように、傷口がひとりでに燃え始めたのだ。やがて炎はV.S.トールの全身を嘗め回し、数秒も経たず、その体は炎によって包み込まれた。
文字通りの“燃える傷口”に、苦痛によって呑み込まれながら、V.S.トールは地の底に響くような悲鳴をあげ、のたうち回る。いくらもがき苦しみ、壁に身体をなすりつけてようとも消えることのない炎に、痛みは塗り重ねられていく。それはこれまで受けた最大の痛みの、何十倍にも勝る苦しみだった。呼吸することすらできず、耳の奥で自分の体が焼かれていく音が聞こえる。しかしそのくせ、意識だけははっきりとしており、遠ざかることを知らないようだった。
声さえ消え入るほどの激痛の中で、その脳裏には二つの映像が喚起されていた。
一つは白石仁の記憶だ。膨れあがる巨大な熱と光の中に溶けていく、視界。遠ざかるのは目を見開き、心底驚いた風な顔をする天村佑の姿がある。伸ばした腕。その指先が掠めるさえできなかった先には、自分が一番守りたかった少女の寝顔があった。
もう一つは、Sの石版に残留した菜原秋人の記憶だ。ざらつくような感触が胸に渦巻いている。頭には針で刺されるような痛みとともに、黒いノイズが途切れ途切れに走る。舌にこびりついているのは鉄の味だった。自分の足が、腰が、胸が、喉先が、そして口が、瞬く間に消滅していく。恐怖を覚える間もなく、気づけば意識までもが無の中に放られていこうとしている。
具体性を欠いた心情風景の中に残されたのは、無念と、憎悪、そして憤怒だった。いま行き所を失ったそれらの衝動たちは、我先にと体内を満たしていく。荒れ狂い、乱れもがき、暴れ足掻き、口から零れ出た悲鳴の奥に、白石仁だった物は巨大な力を見出した。
V.S.トールは慟哭した。その弾き出された叫びに呼応するかのように、粒子が破裂し、衝撃波となって周囲の何もかもを切り裂いていく。その体を中心として立ちのぼった光は柱に似た形を描き、天井を穿った。その時には.V.S.トールの自我や意識というものは、もはや無きに等しかった。その白黒の混ざった鎧の下には、誰の心もなかった。
衝撃波によって破壊された天井や床の瓦礫がふわりと宙を浮く。それらはV.S.トールの絶叫に呼応し、操られるようにして、一斉に紫色の怪物目がけて襲いかかっていった。
狙いを定め、砂埃をまき散らしながら突っ込んでくる瓦礫の流星群を、紫色の怪物は前方に光の膜を展開することで防ごうとするが、巨大な質量を前にしてそれは何の気休めにもならなかった。
放たれた瓦礫の群れは、怪物の体を地面にしたたかに打ち落とした。床を跳ね、転がるその体に新たな瓦礫が覆い被さってくる。しかし怪物はすんでのところで、右腕にかき集めた粒子を解放し、紫色の光線を撃ちだして、それを粉々に吹き飛ばした。
「やっぱり……尋常じゃあ、ないんだよ!」
手も足も地につけることなく、仰向けになったままの姿勢でふわりと浮き上がると、怪物は姿勢を直し、大剣を両手で握りしめた。柄にはめこまれた一際大きな赤い宝石が輝きを放つ。
怪物が大剣を振り回すと、業火がその軌跡をなぞった。太い帯となって空を撫でた火炎は、人間一人を丸々呑み込めそうな巨大な破片らをたちまちに破壊していった。
V.S.トールは片足で跳躍すると、宙を焼く炎を抜け、怪物の前に飛び出す。落下と同時に拳を打ち出すが、怪物は宙を滑るように後退し、それを回避する。紫色の粒子をばら撒きながら浮遊すると、大剣を頭上まで高く掲げた。
V.S.トールはゆらりと、陽炎じみた動作で顔をあげた。その口から陰鬱な呼吸と、鋸を研ぐ音に似た歯軋りが響く。自分の腹部に手を持っていく。そこに構えられた向き合う二つの石版のうち、右側の方を上から押して、下方にスライドさせた。
その右半身を青い粒子が包んだ。腕に強烈な閃光が走り、エネルギー状の刃が生え伸びる。そして手首をくるりと返すと、腰を低く落とし、唸り声を漏らしながら駆けた。
紫色の怪物が、猛火に揺らめく大剣を振り下ろす。だがその剣先が地面に触れる前にV.S.トールの刃が、怪物の眼前を薙いだ。
大剣の刀身を青い光が叩く。力が拮抗したのはほんの一瞬に過ぎなかった。V.S.トールが腕を振り抜いたのと同時に、怪物の手から大剣が弾き飛ばされる。宙を舞った黄金色のそれは、瓦礫の山に突き刺さった。
分の悪さを察したのか、紫色の怪物は素早く背後に飛び退いた。その体から粘り気のある触手が無数に射出される。刃を振りかざし、追撃を重ねようとしたV.S.トールの体を、それらはまるで甘いものにたかる蟻の集団のように群がり、絡め取っていく。それらは右腕を執拗に捉えてくるため、刃を振り回して切り払うことさえ封じられた。
「大人しくしていて……あなたの敵は、ここにはいないんだよ!」
V.S.トールは体をくねらせ、陰湿な束縛から逃れようともがく。だがそれは足掻けば足掻くほど、その体をきつく縛り付けていくかのようだった。
だが昂ぶり、暴れ狂うばかりのV.S.トールの感情を押さえ込むことは不可能だった。
V.Sトールは牙を大きく見せつけて吼えると、左腕を力任せに振り回し、拘束を少しだけ緩めた。纏わりつく触手を無理やり引きながら、腹部にその手を持っていく。そこに並んだ二つの石版のうち、右側のものを上から押し込んだ。
その体から青色の光が萎み、摩り替わるように、左半身を緑色の粒子が包む。燃えあがるような光は、眩いまでに煌めき、小さな爆発音とともに絡み付いていた触手を軒並み吹き飛ばした。
さらに右半身を覆っている触手を光で焼きながら引きちぎり、完全な自由を得る。皮膚にこびりついた触手の残骸を払いのけることもせず、V.S.トールは瞠目する怪物に急迫すると、緑色の閃光に包まれた左拳を打ち出した。
「これは……」
紫色の怪物は右の掌を前に掲げ、粒子を集めて作った薄い膜を発生させる。だがV.S.トールの拳はそれを簡単に吹き飛ばした。衝撃の余波を浴びてよろめく怪物に向けて、さらに左腕を振り上げる。躊躇無く拳を、怪物の腹部に叩きつけた。
怪物の小柄な体は成す術もなく吹き飛び、壁に激突した。びっしりと不可思議な模様の描かれたその壁面に、巨大なくもの巣じみたヒビが走る。
うめき声を漏らす怪物を視線に捕らえながら、V.S.トールは床を蹴った。緑色の粒子に巻かれながら、全身を光の槍と化して突進する。標的は壁に埋め込まれたまま身じろぐことしかできずにいる、紫色の怪物の他になかった。
怪物はまたも自身の正面に紫色の膜を発生させる。V.S.トールはそれに真っ向から突っ込んだ。緑と紫の光が衝突し合い、虹色の閃光を周囲に飛散させる。だが次第にV.S.トールの体から燃え上がる光が、膜を少しずつ呑み込んでいった。
V.S.トールの人ならざる咆哮が爆ぜる。その腕が膜を容易く貫通し、怪物に伸びた。
ところがその指先が触れる間際、怪物の体から、一本の触手が射出された。それはこれまでのものとは違い、らせん状の模様が描かれていて、濃い赤色をしていた。その触手は弾ける様な速度で放たれ、そしてV.S.トールの腹部を鋭く突き刺した。
V.S.トールは短い息を吐き出し、後ろに押しのけられた。瞬間、その脳裏に映像が飛び込んでくる。それはひどく雑多なもので、はっきりとした形を持たなかったが、それはV.S.トールの心をひどく震わせた。
その首筋に、人間の目の形を象った不気味な模様が現われる。それが瞼を上げたとき、V.S.トールの心の中に優しく、慈悲に満ちた声が流れ出した。
それはまるで海底にゆっくりと沈んでいこうとしている宝物のように、心の奥底の方にだんだんと降りていく。それがなくしたくない、かけがえのないものであることは、ずっと昔から知っていたはずだった。
V.S.トールはよろめくと、頭を抱え、天井目掛けて叫びを散らした。
それはがぁ、とも、ごぉ、とも、ぎぃ、とも聞こえた。とにかくありとあらゆる濁点混じりの声がその口からは吐き出され、同時に塔全体を軋ませていった。
「自慢の精神操作だけど……やっぱり、あのレベルには効くはずもない、かな」
怪物が呼吸も僅かに呟く。その言葉に応じるかのように、V.S.トールの首から目の形をした模様は薄れ、やがて完全に消滅してしまった。同時にその腹を貫通している触手もボロボロに砕け、散り散りとなって床に落ちていく。
だがそれでもなお、V.S.トールの叫喚は全く止むことなく、空気を裂き、地面を剥ぎ取り続けた。その声調にはこれまでどおりの興奮した響きももちろん含まれていたが、先ほどとは異なり、哀愁や寂寥に染まりきっていた。
「……俺は」
そして慟哭の果てに、V.S.トールは言葉を思い出した。だがその意識と記憶は汚濁した海の中に投じられ、黒く霞んだままだった。激しい呼吸を漏らしながら、さらに続けて呟く。
「俺は一体……」
その時、V.S.トールは頭の隅に刺すような痛みを覚えた。頭に手をやったまま素早く振り返ると、何もかもが破壊され尽くした惨澹たる景色の中に、青髪の少女、華永あきらが立っていた。
「白石さん、ボクはここですよ」
瓦礫の山の中で毅然と立つ少女の姿を認めた瞬間、V.S.トールの中に再び漆黒の感情が湧きあがり、その体を支配した。
「華永、あきらァ!」
腹部の石版を操作して、左半身の粒子を解除し、右腕から青色の刃を迸らせる。怒気を孕んだ叫びは衝撃波となり、周囲に土埃を巻き上げた。
右腕を振り上げ、V.S.トールはあきらに飛び掛る。あきらは殊勝な表情を浮かべたままで、その体に白色の粒子を纏わせた。やがてその姿は白の装甲と一対の翼をもつ怪物、Z.アエルへと変わる。振り下ろされた青色の刃を、Z.アエルは太股のベルトから引き抜いた二本のダガーで正面から受け止めた。
ぎりぎりと軋んだ音をたてるダガーの刃に必死に抗いながら、Z.アエルは口元を歪める。
「……白石さん、今のあなたを倒せる存在は、もうこの世界にいません。あなたに勝てる人は誰もういません。だから、その力を向ける矛先を誤らないでください!」
「うるさい! 俺は……俺はお前が憎い!」
怨嗟に染まったその声は、白石仁のものでも、菜原秋人のものでもなかった。V.S.トールはその膝をZ.アエルの腹にうずめると、後ろに跳んで距離を取る。着地をしながら、掌から電撃を踊らせた。Z.アエルは怯みながらも、手の甲にかき集めた粒子によって難なくそれを弾く。
「俺はこんな力、望んでなんかいなかった! 誰にも負けない力なんて! 誰とも並び立てない体なんて! そんなの欲しくなかったんだ!」
叫びながらV.S.トールは、頭上に掲げた刃を、一息に振り下ろした。Z.アエルはXの形に組み合わせた二本のダガーの中心で、それを受け止める。
衝撃を浴びたZ.アエルの口元から、鮮血が流れる。その呼吸には苦悶が滲んでいた。それでも彼女の両腕は動き、V.S.トールによる怒涛の攻撃を捌き続ける。
「俺が欲しかったものは!」
V.S.トールは軽く助走をつけると、刃を力任せに叩きつけた。Z.アエルの手からダガーが離れ、床を跳ねる。その瓦礫と衝突した甲高い音が、V.S.トールの脳裏からある記憶を呼び起こす。
――白石さん、あなたが欲しかったものは何ですか?
V.S.トールは目を見開いた。その指先が微かに震える。頭の中で散漫としていた情報の渦が、少しずつ明瞭とした形を描き出し始める。
「僕が、欲しかったものは!」
Z.アエルがよろけながらも、残った一本のダガーを一閃した。それは胸を切りつけるが、V.S.トールは痛みも衝撃も一切感じない。血流に乗って膨れあがる憤怒に力を乗せ、相手の肩を掴んだ左手から電撃を放出した。Z.アエルは喉をすり減らすような悲鳴をあげ、背後にのけぞる。その体を蹴り飛ばし、もう片方のダガーも床に弾き飛ばした。
――白石くん、ぎょーざ!
髪の長い、可愛らしい少女の姿が不意に頭を過ぎる。V.S.トールは顔を歪めた。
心が、軋む。強烈な衝動が体内に押し寄せ、動きを鈍らせる。
「僕は……」
突きだした刃は、Z.アエルの右肩を貫いた。彼女は苦痛を漏らすが、逆の手で腹を殴り、それさえも黙らせる。最後の悪あがきとばかりに撃ち放たれた白い光線を、V.S.トールは青い光線を撃つことで対抗し、打ち消した。
「僕の、やりたかったことは!」
――今日も暑いよなぁ、仁さん。
人なつっこい笑みを浮かべる、少年の姿が脳裏を駆ける。
――仁くん。どうやらまた、コーヒーの腕が上がったようだな。これは美味い。
顎髭の似合う、スーツ姿の男が記憶の中で微笑む。
V.S.トールは上段蹴りでZ.アエルの頭部を打ち、床にかなぐり倒した。起き上がろうとする彼女の腹をすかさず踏みつける。その喉元に躊躇いなく、青に煌めく刃の切っ先を突きつけた。
――白石くん、ありがとう。
小柄な体を弾ませながら、葉花がにこりと頬を緩める。その純真な目が、心を深く突き刺した。
「……僕がやりたかったのは、こんなことじゃないんだ」
V.S.トールの右腕が細かに震える。これまで二重に響いていた声が、その瞬間、一つになった。それは紛れもなく白石仁の、悲しみに歪んだ声だった。
――仁といったな。僕が今日から、君の親父だ。遠慮なく父さん、とでも、パパ、とでも何でも呼んでくれ。仲良くしような。
大きな手が仁の頭を、心を包む。その優しさは、温もりは、これまで感じたことのないものだった。だが、悪い気は少しもしない。くすぐったいような感触が、胸に過ぎる。
――今日から君の名前は、白石仁だ。
「僕はここにいる」
V.S.トールは左手で自らの胸を撫でた。その体から吹き出していた眩い粒子が波を引くように消え失せていく。それは同時に戦意の喪失も意味していた。剥き出しになっていた殺意が潰え、生じた隙間に悲壮感が渦巻いていく。
「なくしたくない、なくしちゃいけない」
V.S.トールの右腕から、青の刃が霧散する。Z.アエルは苦しそうに喘ぎながらも言葉を発さず、沈黙のままにその様子を見つめていた。
「僕はまだ、ここで生きてるんだ」
Z.アエルの体から足を退けると、よろめき、彼女の隣でくず折れた。砂に塗れた右の掌を見やる。人とは随分かけ離れてしまったその硬質の肌に、透明の滴が落ちた。そうしてV.S.トールは、自分が涙を流していることにようやく気が付いたのだった。
死人の話 5
真嶋がようやくその重い腰を上げたのは、組織に急き立てられたからではけしてない。それは単なる気まぐれに過ぎなかった。
これまで抱えてきた矜持や駆け引きがくだらないものに思えるのは、おそらく体調が悪いせいだ。真嶋はそう自分自身に理由を付ける。昨晩の酒がまだ体の芯までこびりついているようだった。頭はずきずきと痛み、体の動きも何となく鈍いように感じられる。
だから、今日の天気が曇り空だったのは幸いだった。二日酔いに日光は染みる。昨日までの暑さがないだけ、幾分か動きやすかった。真嶋は重いため息を吐きながら、スクランブル交差点を歩いていく。ちかちかと点滅する信号機を見つめながら、昨日の夜、というよりも今日の朝のことを思い返す。
結局、あの少女は朝になってもホテルに帰ってくることはなかった。出ていけと煽ったのは真嶋自身なのであるが、こうも呆気なく出て行かれると、何となく決まりが悪い。だが真嶋は自分が少女に吐いた暴言を悪びれこそしたが、後悔することはしなかった。
あの時は、そうするほかになかったのだ。
そうやって自己を正当化させると、心が軽くなる一方、なんだか背中がずしりと重たくなるのが不思議だった。
「確かここだったな……」
真嶋は呟き、足を止めた。目の前には木造の一軒家が建っている。門のところに掲げられた表札には『船見』と書かれていた。
住宅街の一角に聳える、この何の変哲もなさそうな民家。しかしこの建物こそが、マスカレイダーズの所有するアジトだった。これがケフェクスから聞かされ、組織に対してアドバンテージを得るために、真嶋が秘匿していたあまりにも重大な情報だった。
横で聞いていた真嶋からしてみれば、ケフェクスは実に懇切丁寧に組織からの質問に応じていたが、それでも全てのカードを広げたわけではなかった。マスカレイダーズのアジトに関することも、その一つだ。この情報は真嶋だけにもたらされ、そしてそのまま心の中にしまわれた。
――実は僕は、あの少女のことなどどうでもいいのかもしれないな。
船見家を見上げながら、真嶋は自嘲混じりにそう思う。黒城グループの幹部である真嶋にとっては、楓葉花という少女も、黄金の鳥を崇める組織も、マスカレイダーズでさえも、全くの無関係だ。彼女を助けたいと本心から思えないのも、仕方がないような気がする。
だが――キャンサーとしては、それを簡単に認めるわけにはいかない。その事実を受け入れるということはすなわち、自己の存在を否定することになる。
「……違う。僕はキャンサーだ。小さい女の子が大好きな、蟹の怪人なんだ」
自分に言い聞かせるように呟く。肩に冷ややかな感触を覚えたため目を向けると、細い雫が肌を伝っていた。真嶋は空を見上げる。どうやら雨が振り出してきたようだった。
早いところ用事を済ませてしまおう。そう思い、錆びかけた門をくぐる。狭いアプローチを抜けて玄関に近づこうとしたその時、真嶋は人影を見つけた。
庭に面したガラス戸の前に、男が立っていた。髪は短く刈られ、白いシャツの袖からはこぶのような筋肉が浮いている。年齢は30代半ばというところだろうか。
彼はガラス戸に張られた張り紙を読んでいるようだった。この男が一体誰なのか、そして一体どんな内容の張り紙を読んでいるのかは全く把握できないが、マスカレイダーズのアジトにいるという時点で、無関係な人物とは思えなかった。
真嶋はしばらく男の様子を観察したあとで、ジーンズのポケットに手を入れ、中のプレートを握り締めた。警戒を身に滾らせ、庭に向けて足を踏み出す。
「おいお前、そこで何をしている」
話しかけると、男はゆっくりと真嶋に顔を向けた。その顔は岩のように無表情だ。だが僅かに動いた眉が、彼の動揺を示しているようだった。
真嶋は足を止め、目を細めた。この男にはどこかで会ったことのあるような気がした。知った顔ではないし、初対面には違いないのだが、その佇まいに既視感がある。
小雨の降りつける中、二人は暫し向き合った。塀の向こうを自転車が駆け抜けていく音が聞こえる。それが通り過ぎたのをきっかけとして、真嶋は再び口を開きかける。
だが、真嶋の声は意味のない音と化して宙を舞った。
突然、男が飛び掛り、真嶋を殴りつけてきたからだった。体調も万全ではなく、完全に不意を突かれた真嶋はその拳を顔面に、まともに浴びた。吹き飛ばされ、背中を強く地面に打ち付ける。身を起こしながら慌ててポケットからプレートを取り出した。だが、男の動きはさらにその上を行く。
結果、男の放った蹴りによって、真嶋の手からプレートはもぎ取られた。宙を突っ切り、植え込みの中に姿を消すプレートを視界の隅に捉えながら、真嶋は愕然とする。その胸を男の足裏がしたたかに踏みつけた。
「……貴様、やはりマスカレイダーズ」
「そういうお前は、ファルスだな。なるほど、聞いた通りだ」
男の声は低く、どこかたどたどしい。真嶋は下唇を噛み、男の足をどかそうと、その足首を右手で強く掴む。
だがそんな真嶋の挙動を黙らせるかのように、男はどこからか銀色に光る拳銃を取り出した。それは流線状で、どこか近未来的なデザインをした得物だった。
男の目がスッと細まる。その指が引き金にかけられた。太い指に一気に力がこめられていくのが、見ていても分かった。男の動きには慈悲も無駄もなく、ひどく精錬されている。今この場で真嶋を殺すことを全く厭わない目を、この男は持っていた。
「……舐めるな!」
真嶋は啖呵を切る。その両目が金一色に染め上げられた。やがて真嶋という男の輪郭は徐々に薄れ、その色もぼんやりとしたものになっていき、そして、成り代わるように黄金の鎧に身を包んだ怪人が、姿を現した。
「僕は蟹座の英雄、キャンサーだ!」
キャンサーが腕を一振りすると、頑強な男の体は紙のように吹き飛んだ。地面を転がる男に、キャンサーは雄たけびをあげながら迫る。受身を取ってすぐに起き上がり、銃を構えた男に、つま先を蹴りだした。
「人間風情が、僕を馬鹿にしやがって!」
胸に滾る鬱憤が憎悪と化して、その体に力を与えてくれる。キャンサーの蹴りは、一撃で男の握る拳銃を砕いた。粉々に散った破片とともに、背後の塀に激突する拳銃の方を見ることさえなく、キャンサーは手を背中に回した。
その手を次に取り出したとき、そこには高枝鋏のような形状の武器が握られている。
キャンサーはその鋭利な刃物で男の体を袈裟懸けに一閃した。男の喉からうめき声のようなものが漏れる。そして数秒遅れて、その体から大量の血液が噴出した。
「ぐっ……」
だが男は痛みに喘ぐことも、血濡れになった自分の姿に怯えることもなかった。ただその額に眉を寄せると、履いているチノパンの尻ポケットからボールのようなものを取り出し、キャンサーに放った。
キャンサーがその正体に疑問を覚える暇もなく、ボールから強烈な閃光が吐き出される。視界を白一色に塗りつぶす、その眩さに、キャンサーはたまらず両手で顔を覆った。やがて光が失せ、ようやく視線を前に向き直すことができるようになった時には、すでにあの男は姿を消していた。
庭には男の血が、まるで赤いペンキの入ったバケツを間違って倒してしまったかのように撒かれている。草も塀も木も自然のものではない色で染まっていた。特に塀には下から上に血を伸ばしたかのような跡があり、それは縁まで続いていた。どうやら男は目くらましをしている最中に、この塀をよじ登って外に逃げたらしい。おそらく道にも血痕が付いていることだろう。その跡を追えば男を見つけることは容易だっただろうが、キャンサーにはもはやその気はなかった。
「……僕の強さに畏れを成したか。それでいい」
キャンサーはしばらくその名残を見つめたあとで、自分の手に視線を移した。
それは人間のものとは明らかにかけ離れた、化け物の手だ。それをゆっくりと握ったり、開いたりしてみる。黒城レイによって力を奪われ、ガンディによって重傷を負わされて以降は、この姿になることは自然となくなっていった。
だがこの姿でいると、何だか深い安堵のようなものが心に満ちていくような気がした。それも当然のことだ、とキャンサーは気付く。この怪人としての格好こそ、本来の自分なのだから。真嶋という男は、もうどこにもいない。マスカレイダーズの一員とみられる男を撃退し、船見家の庭に立っているのは、キャンサーという唯一無比の存在のみだった。
「……そうだ。何も迷う必要など、なかったのだ」
キャンサーは口元に笑みを宿す。胸に膨らんでいく感情は、快楽だった。これまでもやもやと燻っていた嫌な感情がその瞬間一気に吹き飛ばされ、体から重みが消失する。キャンサーは拳を強く握り締めると、暗く淀んだ空を見上げた。
「そうだ、これが僕だ。僕は真嶋じゃない。僕は怪人だ。キャンサーなんだ! これが、僕の本当の姿なのだ!」
キャンサーの歓喜の雄たけびが、町の空気を伝う。その瞳は、ひどく危うげな光を孕んでいる。こうしてキャンサーは、薄汚れ庭の上で、自分というものの存在を思い出したのだった。
はじまりの話 4
夜の差し迫る時刻だというのに、喫茶店『風鷹』の店内には大勢の人の姿があった。老若男女様々で、そこには統一性は見られない。唯一の共通点といえば、そこにいる人々が誰一人として嬉しそうな顔をしていないことくらいだった。
『風鷹』は都会から外れた場所に建つ、寂れた喫茶店だ。普段ならばもうとっくに店を閉じている時間帯だ。そもそも休日だろうが、日中だろうが、この店に客足はほとんどない。年老いた主人が老後の暇つぶしに開いているような店で、大して利益を求めていないのだからそれも当然のことだった。
だが今、カウンターの内側に座っているのは顔に皺を刻んだ老人ではなく、まだ肌に張りのある青年だった。短く刈った髪をつんつんと立てたその青年――速見拓也は、神妙な顔つきで店の入り口のドアをじっと見つめていた。
店内には重苦しい空気が満ちている。この場所にいるだけで気が滅入ってしまいそうだ、と拓也は周囲に気付かれないよう、そっとため息をつく。
人々は皆、無言のまま、静かに時を過ごしていた。それぞれの前にはコーヒーが淹れられていたが、誰一人それには手を出していないようだ。その表情には皆一様に、困惑が色濃く浮き出ている。拓也は腕時計を確認し、足先でとんとんと床を小突きながら、縋るようにドアを見つめた。
「あの……そろそろ、ここに集められた理由を、教えていただけないでしょうか」
男の声が聞こえたので、拓也はそちらに目をやった。カウンターを挟んで拓也と向かいあっているのは、40歳半ばと思われる、頭にパーマをかけた男性だった。拓也は頭の中でその男の名前を思い出す。
「……滋野さん、でしたっけ。申し訳ない。もうちょっとだけ、待っていただけませんか? もう少ししたら、私よりも事情を知っている人間が来ますので」
拓也は眉をハの字に寄せ、顔の前で手を合わせる。滋野は脅えたような顔を浮かべたまま、ははぁ、となんとも要領を得なそうな声をあげた。
拓也はゆっくりと顔をあげ、ドアに視線をやる。職業柄、大勢の人の前に出ることは苦手ではなかったが、いかんせんここは空気が重い。咳払いさえ満足にできず、空気はぴんと張った糸のように張り詰めていた。とにかくあの男が来ないことには、この場から解放されないのだと思うと、落ち着くことはできなかった。
「雨、本降りになってきましたね」
窓の方に顔を向けていた滋野が、唐突に言った。彼は拓也との会話が終わったあとも、席に戻らず、カウンターの前に立ち尽くしていたのだった。
「そうですね。天気予報でも、今日は午後から天気が崩れるって言ってましたものね」
まるで爆竹がところ構わず破裂しているかのような大音量が、店を絶えず揺らしている。それは屋根に叩きつけられる豪雨だ。その音の隙間を縫うように、時折雷も鳴っている。窓の外の景色は白み始め、ひどくぼやけてほとんど何も見えなくなっていた。
「あの日もね、こんな雨だったんですよ。だけどあの子は傘を忘れてね。学校でしばらく雨宿りをしてたそうなんです」
滋野は窓の方を向いていたので、拓也には彼がどんな顔をしていたのかは分からなかった。しかしその声音はわずかに上擦り、苦悶を含んでいるように聞こえた。自分の行いを心から悔いているように、体を貫かれ、裂かれるような痛みを宿しているように、その声は、拓也の心に伝わってきた。
拓也はたまらず、彼に声をかけようとした。だがその時、軽やかなベルの音とともに、入り口のドアが開かれた。拓也が視線をやると、そこには先ほどからずっと待ち望んでいた男の姿があった。
「佐伯さん」
拓也は現われたその男の名前を呼んだ。チェックのワイシャツにジーンズという格好の佐伯稔充は、自分に視線を集めてくる一同を見渡すと、咳払いを零した。
「遅れて申し訳ない。すっかり天気予報を見逃していてね。渋滞に引っ掛かった」
佐伯の髪は雨でぐっしょりと濡れて潰れ、紺色をしていたであろうジーンズはすっかり色が変わってしまってた。佐伯は水滴の浮いた眼鏡を外すと、ポケットから取り出したハンカチでレンズを拭き取った。
「どうも、今日はわざわざこんな場所までご足労いただき、ありがとうございます。こんなにたくさん集まっていただいて、私も慌てて来た甲斐があったというものだ」
佐伯は眼鏡をかけ直すと、今一度、店内の人々に視線を巡らせた。人々は皆、当惑と不信感をこめた眼差しで佐伯のことを見つめている。
「……なるほど。皆さんのお気持ちはよく分かります。なぜここに集められたのか、それは不思議に思っていることでしょう。ですが、皆さんにはある共通点があるはずです」
佐伯は苦笑すると、右の人差し指をぴんと伸ばした。拓也はその指先に注目する。その表情は自然に固く、決意を纏ったものに変わっていった。
「そう。あなた方をこの場に誘う際、ある言葉を用いました。ここまで言えば、もうお分かりですね?」
佐伯が唇を緩めながら告げると、人々の間でわずかながらどよめきが起こった。それぞれ顔を見合わせ、互いの身の上を言葉をほとんど交わすことなく確認し合っているようだ。
一度、佐伯はゆっくりと目を閉じた。それから呼吸を整えるようにして、瞼を上げる。その表情は殊勝だったが、拓也の目には、この状況を面白がっているようにも見えた。
「教えてさしあげますよ。あなた方の家族や恋人、友人の命を奪った者の本当の正体を」
ざわめく一同に、佐伯はそんな言葉を投じた。拓也は口を固く閉じ、窓の方を見やる。何か悪いものを知らせるかのような雷光が、滲む景色を照らした。




