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11話「L.エッジ襲撃」

タンポポの塔 5

 タンポポの塔の3階には、管制室が設けられている。とは言っても機能は後付けされたもので、その部屋が本来どのような役割を担っていたのかは明らかになっていない。

 その部屋が管制室として選ばれた理由は、ただ単に床が傾いていなかったからという、至極単純なものだ。

 タンポポの塔は斜塔である。地続きの場所はいいのだが、上の階層にいけばいくほど、人の立ち入ることのできる場所は限られてくる。実際、3階のフロアでは管制室以外の部屋はそこで過ごすのはもちろんのこと、中に踏み込むことすら難儀を極める場所ばかりだった。

 周囲と比べればひどく異例の場所に構えられた管制室には、常に気配がある。それは紫の体色と人型のシルエットをもつ、不気味な怪物のものだった。

 怪物は金に着色された豪奢な椅子に腰掛け、壁に無数に並べられたモニター画面に目を光らせていた。椅子の背には鎖にくくられる形で、鞘に入った黄金の剣が備えられている。そこにちりばめれらた宝石が、まるで深淵から覗く目のように不気味な輝きを宿す。

「紫苑さん」

 部屋の中に、掠れた少女の声が響く。怪物は椅子の背もたれ越しに背後を振り返ると、弾んだ声をあげた。

「あきらちゃん! 待ってたんだよ!」

 怪物の口から出たのはその外見には到底ふさわしくない、少女の声だった。管制室に足を踏み入れたあきらは、一歩一歩を踏みしめるような足取りで怪物のもとに近づいていった。

 ようやく自身のもとにたどり着いたあきらに、怪物は椅子に座ったまま前屈みになって、抱きついた。細い腕を彼女の首に回し、頬と頬とをすり寄せる。あきらはくすぐったそうに身を捩らせた。

「あきらちゃんいい匂い。私のオアシスだよ」

「紫苑さん……」

 鼻をひくつかせる怪物に、あきらもまたその胴体に腕を回し、強く抱きしめ返した。そうやって2人はしばらくの間、互いの体の感触を確かめ合った。それは互いの孤独を埋め合い、その揺るがぬ体温を確認し直すような、長い抱擁だった。

 やがて怪物は離れると、あきらの頬を手の甲でそっと撫でた。その指先には鋭く銀に光る、暴力的な爪が伸びていた。だが反面、あきらを見つめるその瞳には、ただ一心に他者のことを想う、温かな気持ちが宿っている。

「でもあきらちゃん、またやつれたみたい。とっても心配だよ。少し、頑張りすぎじゃないのかな」

「これくらい、黄金の鳥のことを想えば何でもありません。それにこれでも、休んではいるつもりですよ? こんなことで負けてらいられないんです。この体にはもうちょっと頑張ってもらわなければいけませんから」

 心配そうな声を出す怪物に、あきらは決然と告げる。しかし痛みをこらえているのかその顔は歪み、その声音もひどく弱弱しかった。くたびれたあきらの様子に、怪物はたまらず声を上擦らせた。

「……やっぱり私は反対だよ。そんなこと、あきらちゃんはしなくてもいいんだよ。ずっとあきらちゃんが巫女でいれば、それで何も問題ないんだよ」

 怪物は命綱を求めるように彼女の手を探し当て、その体温を強く握り締める。怪物の声や表情には決死さが滲んでいた。だがあきらは怪物の提案に対し、無言でかぶりを振る。その手はしきりに腹を丸く撫でていた。

「残念ながら、そういうわけにはいかないみたいです。自分の体のことは、自分で一番よく分かってますから」

 あきらの発した言葉に、怪物は肩を落とし、目に見えてうなだれた。「すみません」とあきらは顔を俯かせて、申し訳なさそうに言う。

 表情を伏せたあきらが、激しく咳き込んだ。口にあてがった掌が鮮血に染まる。その肩は崩れてしまいそうなほどに震えている。「あきらちゃん!」と怪物が動揺した声をあげる。椅子から身を乗り出す怪物を手で制すと、あきらは顔をあげた。

「大丈夫です。……死ぬことなんて、怖くありませんから。そんなことより、お父さんから受け継いだものが、ボクのところで途絶えてしまうこと。黄金の鳥という存在がみんなの記憶から消えてなくなってしまうこと。そのほうがずっとずっと、恐ろしいです」

 唇を染めた血を指で拭いながら、あきらは声を震わせる。怪物は静かにあきらを見つめ返した。その真紅の瞳は、湖に映った月の虚像のようにおぼろげだった。

「だから、紫苑さん。分かってください……そして、黄金の鳥を、信じてください」

 あきらの語調は強く、はっきりとしていたが、そこには強がりが透けて見えていた。それでも彼女は使命感や決意といった感情で、揺らぐ自分の心に蓋をしている。そんな感情の機微までもが、彼女の挙動からは手に取るように分かる。

「あきらちゃん……」

 怪物は体を前のめりにすると、その灰色の唇であきらの唇を塞いだ。あきらはその瞬間こそわずかに目を見開いたが、抵抗することはしなかった。怪物の口づけは執拗であり、濃艶だった。その爬虫類じみた紫色の舌で彼女の口腔を嘗め回し、舌を絡めて自分の唾液を流し込む。あきらは喉元を上下させ、躊躇うこともなくそれを飲み干した。

 ぴちゃぴちゃと唾液が弾け、舌同士の絡み合う音が部屋の中に反響する。しばしそうして官能的な時間を過ごしてから、怪人はようやくあきらから唇を離した。その舌に唾液が糸を引く。

「……あきらちゃんがそうしたいって言うなら、もう私から言えることはないんだよ」

 頬を紅潮させたあきらに向けて、怪物は悲しみを口にする。あきらは湿った口元を指の腹で拭うと、唇を軽く噛んだ。

「でも、これだけは覚えておいて。あきらちゃんがいなくなることを考えるだけで、こんなに辛くて、悲しい気持ちになる人がいるってことを」

 あきらは頷いた。その瞳は潤んでいた。取り繕うように目元を擦り、それから怪物を元気付けるように笑ってみせた。

「分かってます。紫苑さんの気持ちは、痛いほど。とりあえず今は、葉花さんを取り戻すことと、白石さんを再生させることのほうが先決です。キャンサーさんから連絡は?」

「……それがね、まだ進展がないみたいなんだよ。なにをのんびりしているのか良識を疑うよ。やっぱりそのうち、誰かを送った方が良さそうだよ」

 怪物は語気を荒らげる。肘掛を固めた拳で叩く音を耳にしながら、あきらは顎に手を添え、「そうですね」と曖昧な返事とともに天井を見つめた。

 そうやって少しの逡巡をみせたあとで、ローブの内に手を差し込むと、彼女はそこから二等辺三角形の石版を取り出した。厚みがあり、その黄土色の表面には不可思議な文様がびっしりと刻まれている。怪物は怒りの気配を消し、それから目を瞠った。

「これが……例の?」

 怪物はあきらの手の上に載せられたそれをまじまじと見つめた。あきらは小さく頷く。

「はい。とりあえず菜原さんの死体から石版を摘出して、冷却、精錬の段階まではいきました。あとはこれを……白石さんの体に入れるだけです」

「そうなれば彼も、私と同じになるかもしれないってことだよね」

 怪物は石版を見つめたまま、ため息を吐き出した。自分の頬を手で触り、その瞳に、哀しみの光を射し込ませる。

「確かにそれしか彼を救う方法がないのも分かるけど、ちょっと心苦しいんだよ。同じ立場として考えるとね」

「……紫苑さんの段階までいければ、むしろ大成功ですよ。実際、こんなこと前例がありませんから。……最悪、白石さんはもう二度と、白石さんは目を覚まさないかも」

 あきらは石版を握り締めた。その様子はお守りを手の中で握り、奇跡を請う無神論者のようだった。

「でも、それでもこれしか方法がないなら。やっぱり、やるしかないと思います。立ち止まっている余裕は、もう、ありませんから」

 あきらはローブの内側に石版をしまい直した。怪物は床をじっと見つめたまま、何かを考えているようだった。やがて顔をあげると、躊躇いがちに言葉を切り出す。

「……実はね、ルクスからちょっと、分かったことがあるんだよ」

「分かったこと」

 怪物の言葉に、あきらは目の色を変えた。その頬が強張り、表情に神妙さが宿る。

「それは黄金の鳥を復活させる方法、ということですか?」

 あきらの真剣な眼差しに、怪物は深く頷いた。

「ルクスの元となった怪人のデータを集約したものと、書物から得た黄金の鳥の情報とを照合させてみたんだよ。そうしたらね、始めは分からなかったんだけど、ある矛盾が見えてきたの。もちろん私は見えないから、助手にお願いしたんだけどね」

 怪物は手近にあるプラスチック製の机の引き出しを片手で開けると、手探りで中から、A4サイズのコピー用紙を取り出した。あきらはそれを受け取った。1枚にまとめられたそのデータの内容に素早く視線を運び、それから怪物に目をやった。

「まさか……これって……」

「最高の怪人ちゃん、レイちゃんっていったっけ? あの可愛い女の子がね、言ってたんだよ、黄金の鳥には何かが足りないって。ずっとその言葉が引っかかってたんだけど、このデータを見て、ようやく理解できた」

「……河人さんも言ってました。黄金の鳥があんな鎖で囚われているのが信じられないって。世界を崩壊に導くほどの力を持っていた、はずだって」

 あきらと怪物は顔を見合わせた。静寂に満ちた室内に、緊張感が広がっていく。2人は一切の言葉を交わすことなく、自分たちの考えが一致していることを把握していた。確信に満ちた沈黙こそが何よりもそれを証明していた。

 甲高い警告音が静寂を打ち破ったのは、次の瞬間だった。

 怪物とあきらはハッと我に返り、ほとんど同時に壁に並んだ無数のモニターを見た。怪物が指を鳴らすと、そのモニターたちは次々と壁の上を滑り、重なり合って一つのモニターのもとへ集結していく。あきらは焦りを帯びた顔つきで、その慌しい大移動を見つめる。

「……どうやら、アラートが鳴ったのはここのようだね」

 そうやってただ一つ壁に残ったモニターは、塔の入り口付近を映し出していた。周囲は夜の闇に包まれていたが、モニターの映像は鮮明だった。その映像は地面を覆い尽くすタンポポを踏みにじり、こちらに接近してくる人影を捕らえていた。

 その男は白衣にスラックスという格好をしていた。かけているシルバーフレームの眼鏡が月明かりを反射して鈍く光る。あきらも怪物も、その男の顔には見覚えがあった。

「ついに来たようだね」

 椅子の肘掛で頬杖をつきながら、怪物はモニターを見上げる。

「……佐伯さん」

 あきらは塔に迫る男の名前を呟いた。その声が聞こえたわけではないだろうが、モニターの中に映る佐伯は、何かを感じ取ったようにその口元をわずかに微笑ませた。




タンポポの塔 6

 佐伯稔充は視線を素早く背後に走らせた。次の攻撃を察知したからだ。案の定、地面を突き破って現れた紫色の触手は、その鋭く尖った切っ先を佐伯目掛けて振り下ろしてきた。

「随分と手荒な歓迎じゃないか」

 空気を裂くその一撃を、体をよろめかせるようにしてかわす。地面に打ち付けられ、悶える触手を見つめる佐伯の頬に、一筋の血が流れた。佐伯はそれを指先で拭うと、舌で舐めとった。

 その攻撃を発端に、佐伯を取り囲むように次々と地面から触手が飛び出してくる。その様子はまるで、池に放り込まれた餌に群がる鯉の群れのようだった。紫、黄緑、赤、と触手の色は多種多様であったが、どれも不気味な、けばけばしい色合いであることは共通している。佐伯はそれらに視線を巡らせ、そして表情に険を纏った。

「罠か……くだらない真似をする」

 触手が鎌首をもたげ、夜空にその身をくねらせながら刺突を繰り出してくる。しかし自分を滅多打ちにしようと襲い掛かってくるそれら一つ一つの動きを、佐伯は冷静に観察し、紙一重でかわしていった。その動きには一切の無駄がない。ステップを踏み、左右へと身軽に跳躍し、身を屈め、時には飛び上がって、触手を一つのこらずいなしていく。背後で大きくしなる気配を察した佐伯は、眉間に皺を寄せながら振り返った。

「こんなもので私を止められると、本気で思っているのか?」

 不遜に言い放ち、その右手に赤い閃光を纏う。それに伴って全身からは同色の粒子が噴出し、周囲の闇を強烈に剥がし取る。

 佐伯はその手で力強く宙を薙いだ。するとその掌中から真紅の閃光が放たれ、彼の背中を貫こうとしていた触手は粉々に吹き飛ばされていった。

 さらに腕を横に動かし、残りの触手も次々と閃光の内へと呑み込んでいく。塵と化して果てる触手らの中心に立ちながら、佐伯は眉一つ動かさない。やがて夜の闇は佐伯の発する赤色の粒子によって一色に染め上げられていった。

 その時、塔の方角から佐伯に向かって歩いてくる人影があった。佐伯は触手を回し蹴りで粉砕しながら、そちらの方向を見やる。

「なかなかの使い手のようだな。お前が佐伯か」

 その男――飯沼はスーツの上に、金色で縁取られた漆黒のケープを羽織っていた。髪はぼさぼさで、その瞳は獲物を前にした猟犬のようにぎらついている。彼は背広のポケットに手を突っ込んだままの格好で、着々と佐伯との距離を詰めていった。

「この瞬間を何よりも待ち望んでいた! 楽しませてもらうぜ……」

 口元に笑みを浮かべながら叫ぶ、飯沼の体を茶色の粒子が纏う。ケープを脱ぎ捨てると彼は夜闇に咆哮し、そして閃光の中に消えた。

 衝撃波が空気を這い、地に咲き乱れていたタンポポの花をまんべんなく吹き飛ばしていく。地面が砕かれ、触手の残骸が宙を舞っていった。佐伯は荒れ狂う風を浴びながら、無表情のまま、飯沼が変貌を遂げるのを待つ。

 やがて閃光が晴れた後には、二本足で立つ怪物が顕現していた。

 全身を銀色の装甲で固めた異形だ。顔には稲妻型のスリットが配置され、まるで巨大なサングラスをかけているかのようだ。その全体像をあえて喩えるなら、“鰐”以外になかった。輪郭としては整っていながらも、その全体的なイメージから伝わってくる荒々しさは、巨大な肉食爬虫類を思わせるからだ。

 “Eの石版”によって飯沼が変化を遂げた怪物、E.リゲアは、目の前に散る粒子の残滓を手で払いのけると、その表情に愉悦を宿した。

「さぁて。マスカレイダーズのリーダーがどれほどのものか。お手並み拝見だな!」

 E.リゲアは左手首に腕輪と一緒に装着された、二等辺三角形の石版に手をかけた。前にスライドさせてそれを腕輪から外すと、右手で掴み、佐伯にかざす。

 やがてその石版は、茶の粒子によって包み込まれた。強烈な光の中で石版は尋常ならぬ変化をたどり、やがてそのシルエットは、湾曲した柄をもつ小柄な斧へと姿を変えた。

 試し切りでもするかのように、その場でぶんと斧を振りながらE.リゲアは、何かを誘うように佐伯を見つめた。佐伯はため息をつくと、その体表から大量の赤い粒子を発生させた。

「それは、私のセリフだ」

 飯沼と同様に、佐伯の体もまた閃光によって包まれていく。真紅の粒子はまるで鮮血のように地を濡らし、空を濁らせていった。そうして人の体を保っていた佐伯の輪郭は異形のそれへと変貌を果たす。

 鮫を彷彿とさせるシルエットの怪物、L.エッジとなった佐伯は、体表を覆っていた粒子を衝撃波として周囲に解き放った。

「うおっ!」

 斧で衝撃波を切りつけながらも、その膨大な力量を抑えきれず、E.リゲアの体は背後へ弾き飛ばされた。空中でとんぼを切り、両足で着地した時にはすでにL.エッジが接近を始めている。打ち出された拳をE.リゲアはすんでのところで、蹴り出した足を使って防ぐ。

「なかなか、いい攻撃をしてくるじゃねぇか、よ!」

 そのままつま先を蹴り込み、E.リゲアは続けざまに斧を大きく薙いだ。L.エッジは身をわずかにそらしてその一撃を回避すると、凝った肩をほぐすように軽く首を振り、それからその両腕に赤い粒子を纏った。

 L.エッジの両腕には手の甲から前腕までを覆う、大きな篭手のようなものが装着されている。粒子が絡むとその篭手の先から、片手三本ずつ、両手を合わせて計六本の刃が発生した。それは粒子によって構築された、真紅のエネルギー・ブレイドだった。六本の刃を両腕に構えるその姿は、まるで巨大な鉤爪を両腕に装備しているかのようだ。

 L.エッジはその刃を用いて、刺突と横薙ぎを繰り出す。E.リゲアもまた斧を力任せに振り回すことで応じた。衝撃音が空気を震わせ、甲高い金属音が悲鳴のように響き渡る。一進一退を繰り返しながら、二人の怪物は己の得物を激突し合わせ、火花を宙に舞わせていった。

「そうこなくちゃ、面白くはねぇよなあ!」

 突き出された三本の刃を斧頭で防ぐと、E.リゲアは後ろに飛び退いた。両足を地にしっかりと踏み込み、斧を両手に構える。ただならぬ気迫を察したのか、L.エッジは深追いすることを止め、その場に立ち止まった。

 斧に、その柄を握る両腕に、茶の粒子が収束されていく。まるで空間に歪が生じたかのように、どこからか潮の引く音が聞こえたような気がした。

 やがてその輝きが斧全体を満たすと、E.リゲアは高笑いをあげ、同時に斧を大きく地面に向けて振り下ろした。すると、斧の切り裂いた軌跡をそのままなぞるように、光の刃が宙に出現する。それは半月の形となってL.エッジに放たれていった。

 L.エッジは右腕に赤い粒子をかき集めると、その掌中を前方にかざし、そこから太い光線を撃ち放った。真紅の直線は、光の斬撃と正面から激突する。

競り合ったのは一瞬だった。光線は瞬く間にE.リゲアの放った攻撃を飲み込んでいった。小さな爆発が木々を震わせ、周囲に大音量を走らせる。

晴れていく爆煙の、その向こうに視線を走らせながら、L.エッジは息を呑んだ。視界に敵の姿が影も形もなくなっていたからだ。だが、周囲を探るような余裕はなかった。鼻を掠めるような距離に、地面から巻き上げられた砂埃に紛れて、突然、E.リゲアが出現したからだ。

足元から突き上げるようにして現れたE.リゲアは、何の躊躇いもみせず、L.エッジの腹に頭突きをくらわせた。あまりに咄嗟のことで対応することができず、腹を抱えて後ずさる敵の前で、E.リゲアは斧を頭上に放り投げる。そして空いた両手に茶の粒子を纏わせると、急迫し、強化した拳を間断なく打ち込んでいった。

そのパワーは凄まじく、L.エッジも両腕を胸の前で交わらせ、防ぐのがやっとの様子だった。それでもその体からは、絶えずぎしぎしと金属の軋むような音が聞こえてくる。その群青の皮膚に鈍器で殴られたような傷が滲み、それを確認する間もなく、その部分にさらに拳が埋められていく。

そのあまりに容赦のない攻撃に、L.エッジは防戦一方だった。その鮫の表情に苦悶の色が浮かぶ。E.リゲアは仕上げとばかりに、振りかぶった拳でボディーブローを叩き込むと、手を空に突き上げ、先ほど投げ放った斧をキャッチした。そして手首を捻り、予備動作を限りなく省いた動きで斧を一振りする。

だが、拳の連打が途絶えたことで、L.エッジは一瞬の隙を得た。左手から伸びる三本の刃に粒子を加えさせると、その刀身をぐんと伸ばし、E.リゲアの胸を貫いた。

だが、同時にE.リゲアもまた攻撃を終えていた。自らの胸を真紅の光が穿つのも構わず、斧を叩きつけ、L.エッジの右腕を破壊した。それはまさに、肉を切らせて骨を断つ、という言葉をそのまま実現させた行為だった。

L.エッジの右の籠手には、まるで地割れによって被害を受けたアスファルトのような裂け目が生じ、そこから赤と茶の入り混じった煙がもうもうと吐き出されている。L.エッジはその腕に何度か粒子を纏わせ、そこに刃が形成されないことを確認すると首を傾げた。

一方でE.リゲアは、空をざわつかせるような高笑いをあげていた。穴の空いた胸を押さえ呼吸を乱れさせてはいたものの、そこに悲愴のこもったものは窺えない。歓喜の表情を浮かべる彼の脳は、その痛みさえも快楽として捉えているらしかった。

「この苦痛、このぶつかり合う肉体の昂ぶり! まさしくこれだ……俺が求めていた戦いは!」

 興奮しきった様子で言い放ち、E.リゲアは斧をその場で振り回す。ぶん、と空気を震わす音を周囲に轟かせると、その鰐のような相貌で舌なめずりをした。

「もっと俺に聞かせてみろ! お前の筋肉の喘ぎを!」

 全身に光を帯びながら、E.リゲアは躍りかかる。片足で着地すると、待ちきれないとでも言いたげな、急いた動作で斧を大振りにした。

 だが、対するL.エッジもまた俊敏だった。その身に刃先の触れる寸前まで相手を引きつけておき、タイミングを図って、大きく跳び上がったのだ。少しの助走をつけることもなく、L.エッジはE.リゲアのはるか頭上を軽々と飛び越える。着地すると振り向きざまに、その左手から赤色の光線を撃ち出した。

 空間を穿つ一筋の光条をE.リゲアは拳に粒子を収束させることで難なく防ぐ。その口元に大きな笑みが広がっていく。それは三日月の形をした、あまりにもおぞましい愉悦の表情だった。

 E.リゲアが昂揚しきった挙動で足を踏み出そうとした、その時、その背中に人影が急迫した。興味を全く別の方向に取られていた彼は、その気配に気づくことが遅れ、背から首にかけて刃物のようなもので斬りつけられた。

「なんだ!」

 突然の襲撃に声を荒らげるその体に、再び一刀が浴びせかけられる。それもまた先ほどの方向とも、L.エッジのいる方向とも、まったく異なる位置から放たれた攻撃だった。

 よろめき、不可解な攻撃に苛立ちながらも、E.リゲアは次なる気配を敏感に察知していた。振り返り、斧を振りかざして、しかしその姿勢で硬直する。佐伯の軽やかな笑いが夜風に乗って広がった。

「どうやら、お前は、随分と戦いに飢えているように見えるな。なら……ちょうどいい道化をあてがってやろう」

 表情を固まらせたE.リゲアがその視線の先に捉えたもの。それは装甲服に身を包んだ戦士の軍勢だった。

 ざっと目算しただけでも数十体は姿を確認できる。今までどこにこれだけ潜んでいたのか疑うほどの数だった。闇に紛れているだけで、実際にはさらに多いのかもしれない。

 その装甲は、どれも皆、夜の海のような深い黒で一色に染め上げられ、薄い青のラインが体の各所に走っている。その全体的なフォルムはL.エッジ同様、鮫を髣髴とさせる。頭には魚のヒレを模したのであろう突起物さえ認めることができる。皆一様にその手には、ノコギリのように刀身がぎざぎざと尖ったナイフを握りしめており、それを用いて先ほど、E.リゲアを斬りつけたのであろうことは明らかだった。

「私の作った軍隊だ。人間は入れてないがね。ちょうどいい機会だ。お相手を願おう」

 自信に満ちた態度で、L.エッジがそう言い放つのをきっかけとして、装甲服の戦士たちは攻撃を開始した。口を閉ざしたまま、しかし明確な殺意を身に宿して、一斉にE.リゲアへと襲いかかってくる。

 E.リゲアは突撃を仕掛けてくる軍勢を前にして、その身を震わせた。それが恐怖によるものではなく、昂揚した気分によるものであることは、彼のその輝かんばかりの表情を見れば一目瞭然だった。

「なんでも、誰でも構わんさ。俺をもっと、ぞくぞくさせてくれるならな」

 E.エッジは夜空に吠えた。そして斧の刃先に粒子を纏わせると、片手に構え、真正面から多勢に立ち向かっていった。

 衝突を始める己の軍隊とE.リゲアを前に、L.エッジはほくそ笑む。そして重なり合う木々の葉によって塞がれた空を――隙間からわずかに覗く月を見上げた。するとそこに木々を揺らし、なぎ倒しながら進む巨大な何かが現れた。

「いいだろう。ではついでに……こちらも試すとするか」

 夜空に現れたあまりに物々しい、鴻大な輪郭。

 それは戦艦だった。

 全長は15メートルほどと、本式のものと比べれば、はるかに小型ではあるが、それでも山中という環境の中ではひどく大きく、そして異質な物にみえた。流線型のボディは先端が鋭く尖っており、それもまた鮫を彷彿とさせるデザインになっている。左右に展開した両翼は、まるでヒレのようだ。戦艦は地上から10メートルほどの高さを浮遊し、駆動音を一切たてることなく塔に接近していた。

「黄金の鳥を慕う諸君、見るがいい。これが私の粒子戦艦、ファイナル・ランスだ」

 L.エッジは赤い粒子に紛れながら、不敵に宣言する。そして、その体も粒子の一部となって混ざり、宙にうっすらとした影を残しながら散っていった。




タンポポの塔 7

 ひどい光化学スモッグに覆われたかつての都心の風景のように、管制室の窓から見える外の景色は赤茶けた色で濁りきっていた。

佐伯と飯沼の戦いで散った粒子の残骸だ。そのため視界はほとんど塞がれていて、装甲服の大群を相手に一人で立ち向かうE.リゲアの姿と、宙を浮き、その船首をこちらに向けて迫ってくる戦艦の威容だけがおぼろげに認められる。駆動音を一切たてることなく、茫々たる挙動で浮遊するその船は、戦艦よりもむしろ幽霊船と呼んだ方が余程正しい。

その甲板の上にはいつの間にそこに移動したのか、襲撃してきた張本人、L.エッジが立っていた。彼の表情は何の感情も映さず、淡々とこちらを見据えている。

やがて戦艦は塔との距離を数十メートルまで詰めたところで、その動きを止めた。管制室に緊張が走る。

「あきらちゃん、私でも、自分の身を守ることくらいはしてもいいよね?」

 紫色の怪物の問いかけに、あきらは頷いて応じた。「当然です、それは構いません」という彼女の承諾に怪物は薄く笑うと、その身に紫色の瘴気を発生させた。

「でも、あんなものを動かすなんて、どれほどの力があればできるんだろう。私でもちょっと、想像がつかないんだよ。あきらちゃん、本当にあれは、佐伯さんなのかな?」

 怪物が指を鳴らすと、窓の外にサッカーボールサイズの奇妙な球体がふわふわと、いくつも漂いはじめた。怪物がそんな疑問を吐き出したのは、そうして着々と応戦の準備を進めながらのことだった。

 あきらは思案するように視線を斜め上に向けてから、ゆっくりと顎を撫でた。

「……人間の体から石版を取り出すためには、魔鏡が必要です。あれが別のどこかにあれば他の人がLの石版を使うことも不可能じゃありません。……ですけど、ボクは見たんです。赤い粒子の中から、死んだはずの佐伯さんが出てくるところを」

 その時、管制室の扉が物々しい音をたてて開かれた。続けて中に険しい顔をした金髪の男が入ってくる。背後には鳥のお面を被った男たちを大勢、引き連れていた。その様子を紫色の怪人は椅子の背もたれ越しに認め、満足そうな笑みを浮かべた。

「言われた通り集めてきたが。一体、どうするつもりだ?」

 お面の一団を親指で指し示しながら、金髪の男は怪訝そうな声をあげる。紫色の怪物が肘掛けに備えられたボタンを押すと、椅子が半回転し、くるりと男の方を向いた。

「それはね、こうするんだよ」

 次の瞬間、生肉を食い破るような、鈍く凄惨な音が部屋の中に響いた。

 紫色の怪物の両肩から蛸の足のように、吸盤のびっしり付いた触手が数本伸びてくる。怪物と同色のそれらはなまめかしい動作で鎌首をもたげると、目にも止まらぬ速度で前方に射出された。

 金髪の男のすぐ脇を通り抜け、触手は次々と鳥のお面を被った男たちの胸を突き刺していく。太く不気味な管によって体内に何かを注入され、全身を痙攣させながら悶える一同を前に、紫色の怪物は軽やかに嗤った。男は背後を一瞥し、そこで行われている凄惨な儀式に眉をひそめる。

「向こうも大勢連れてきたみたいだからね。こっちも自慢の兵士で相手をしてあげようってわけだよ。私の粒子を打ち込んだ、最強の軍勢だよ」

 お面の男たちの強化を終え、怪物は触手を全て自分の体へと引き戻す。力をその身に漲らせ、紫色のオーラを纏って、音程の狂った叫びをあげる一団を横目で見やりながら、あきらはそっと壁から背を引き剥がした。

「ボクは……白石さんのところに行ってきます」

あきらの発言に、金髪の男と紫色の怪物はほとんど同時に彼女を見た。あきらはそんな二人を順々に見やり、それから大きく頷く。

「牽制という意味でも、ここで私たちの圧倒的なパワーを、佐伯さんに見せつける必要があると思います。それに……」

 そこまで言ってあきらは俯き、次の言葉を呑みこんだ。だがすぐに顔をあげると、苦痛のために引きつった表情で弱弱しく笑い、ローブの内側から石版を取り出した。

「ただの勝利では意味がありません。やるなら、圧倒的に叩きのめしましょう」

 強気な発言も満身創痍なあきらの口を通すと、単なるつよがりにしか聞こえない。その語尾は掠れてそのまま虚空に吸い込まれた。爪でガラスを引っかいた時のような、何とも不快な音が、あきらの声に覆い被さったからだ。その耳を劈くような大音量は、窓の外で鳴り響いている。

 顔を歪め、両耳を手で塞ぐあきらや金髪の男の前で、戦艦の巨体に変化が生じた。船首の真下に位置する部分が横にスライドして開き、穴から顔を覗かせるモグラのように、その内側から筒状の黒い大砲が姿をみせた。

 その砲口に強烈な光が宿る。それは血の色に似た、死を連想させる真紅の閃光だった。




タンポポの塔 8

 タンポポの塔を臨むログハウスの中で、佐伯かえでは外の景色を不安げに見つめていた。その表情には困惑が色濃く滲んでいる。

 窓の外には闇が広がり、さらにそこには赤味がかった砂嵐のようなものが吹き荒れていて、かえでのような常人の目では外で何が起こっているのか全く視認することができない。しかし先ほどから聞こえてくる男の雄たけびや、肉の潰れる音や、岩に金属がぶつかるような甲高い音が、物騒な状況を彼女にはっきりと伝えていた。

 小屋の外で戦いが繰り広げられているのは、確かなことだった。かえでは唾を飲みこみ、それからお祈りでもするかのように胸の前で指を組み合わせた。見ることが叶わないだけ、恐怖と不安は心の内で膨らむばかりだった。

 ここから逃げたほうがいいのか、それともここに留まっていたほうがいいのか、かえでは結論を迫られていた。何が起きているのかも分からない闇の中を進むのも、小屋の中で怯えながら過ごすのも、同じくらい恐ろしいことだった。あきらたちからの連絡はまだない。いつもは側にいるお面を被った男たちも、今は全て出払ってしまっていた。

 この小屋は見えない膜のようなもので包まれており、攻撃の対象になることはほぼないだろうというのが、あきらの説明だった。さらに万が一のときに備えて、周囲には幾つもの罠を仕掛けておいてあるらしい。安心だ、安全だとは言われている。信用するしかないことも分かっている。だがそんな不透明な情報は、かえでにとって気休めにもならなかった。

 かえでは大きく体をそらし、深呼吸をしてから、奥の部屋を見やった。電気の点いていないその部屋にはベッドに横たわり、無数の管によって繋がれた二条裕美がいた。彼の容態は最近では落ち着いてこそいるものの、意識を取り戻す片鱗はない。それでも生命を維持できているのは、この場所のせいだろうとかえでは思う。あの天を突く塔の周囲は神聖なもので溢れ、限りない命の呼吸に満ちている。かえでもそれを肌で感じていた。

 華永あきらの言葉を借りるならば、ここは黄金の鳥によって護られた地なのだろう。だがその鳥の力をもってしても、彼の命を維持することはできても、回復させることまではできないようだった。

 かえでは二条裕美という男に対して何の義理も持たなかったが、それでも医者として患者を守らなくてはという使命は持っていた。逃げるにせよ、留まるにせよ、彼のことを第一に考えなければならない。非常時には身を挺してでも彼の身の安全を確保しなければならない。その強い気持ちが、かえでの中に巣食う恐怖を退けてくれるようだった。

 かえでは真島のことを思い出す。彼は幾度となくかえでのことを怒鳴りつけ、脅迫さえもしてきたが、その目にはいつだって自分の親を救いたいという純粋な気持ちが宿っていた。

 かえでが真島に従うのは彼が恐ろしいからではない。彼のその純なる気持ちに応えてやりたいからだった。かえでには、大切な家族を救ってやることができなかったという負い目がある。二条裕美を助けることができれば、その罪悪感も少しは薄らぐのかもしれない。かえでの中には少なからず、そういう思いがあった。

 口元を引き締め、手首に通してあったヘアゴムを使って、髪を後ろで束ねる。窓の方を確認し、それから二条の眠る部屋に足先を向けた。だが歩き出そうとした途端、小屋全体が衝撃に大きく揺れ、バランスを失ったかえでの体は後ろによろめいた。

 わずかに傾いだ床から両足が掬い取られる。かえでの口から悲鳴が漏れた。その体は宙を浮き、激しく床に叩きつけられる。眼鏡が外れ、壁に当たって落ちた。

 衝撃は続くことはなく、それ一回でとりあえず収まったようだった。苦悶の声を漏らしながらかえでは身を起こし、顔をあげて、そこで視界がぼやけていることに気づいた。遅れて自分が眼鏡をかけていないことに気づき、慌てて床を手探りでたどりはじめる。四つんばいの姿勢で必死になるが、なかなかその手に眼鏡が触れることはなかった。

 不意にかえでの耳元を生温い風が過ぎった。不穏なものを覚え、振り返ると同時に、かちん、という音が膝の辺りから聞こえてきた。その部分に手をやると、プラスチック製品どくどくの感触が、掌に伝った。間違いなくそれは探し求めていたものだった。

「あ、あった……良かった、眼鏡、眼鏡」

 かえではそれを拾い上げると、一人呟き、安堵の息を漏らしながら眼鏡をかけ直した。

 そして、目の前に奇妙なものを見つけた。棒が二本並んでいる。その末端に革靴が置かれていることを認めて、かえではあぁ、これは足なのだなとようやく掴めてきた。目の前に足がある。ということは、自分の前に誰かが立っているのだ――そこまで考えが至るのに、かえでは数秒の時間を要した。

 ゆっくりと顔をあげていく。その人物は黒いスラックスを履いていた。上半身には白衣を羽織っている。顔にはかえでと似たような眼鏡をかけていて――

「えっ」

 かえでは呆けた声をあげた。立ち上がり、その人物の顔をまじまじと見つめる。その手は汗ばみ、震えていた。そんなわけはない、と頭の中で自分自身の声がする。だがわずか数メートルの距離にある現実は少なくとも、幻のようには思えなかった。

「あなた……」

 かえでは胸がひどくざわつくのを覚えた。たまらず掌で心臓のあたりを押さえる。彼女の平静さを奪うほどに、その人物はあまりにも似ていた。

 3年前、娘を亡くした直後に後を追うようにして姿を消した夫。それからしばらくして、黄金の鳥を救い出し、その際に犠牲になったという事実をあきらから聞かされた。

 その夫が、佐伯稔充が今、かえでの前に立っていた。涼しい顔で彼女を見下ろすその目には、生前と同じような光が宿っている。佐伯はしばらく、かえでを見つめたまま無言でいたが、やがて「かえで」と口の中の感触を確かめるようにそっと呟いた。その声を聞いた瞬間、かえでの中で張り詰めていたものが、ゆっくりと解けていった。まるで雪の中で眠っていた草の芽が、春の息吹とともに地から這い出してくるかのようだった。

 かえではたまらず、佐伯の胸に飛び込んだ。胸が詰まって声が出なかった。ただその温もりを思い出そうとするかのように、彼がもうどこかに行ってしまわないように、その細い両腕で強く抱きしめた。なぜ死んだ夫がここにいきなり現れたのかという疑問は、歓喜の情の前では容易く埋没していった。

「あなた……もう会えないって、思ってた……」

 ようやく搾り出した声も涙に滲む。かえでは涙ぐんだ目で愛する夫を見上げると、その背中を撫で回した。温かくて大きな、久しぶりに触れる彼の背中だった。

「あなた、本物なのよね? 幻なんかじゃ、ないのよね?」

 感激に身を震わせるかえでに対して、佐伯は依然、冷淡な表情を崩さぬままだった。問いかけにも応じる気配のない佐伯に、かえでは少しばかり疑問を覚えた。

「……あなた?」

 佐伯はじっと、かえでの手元を見つめていた。その薬指にはまだ新しい指輪がはめられている。佐伯が死ぬ前に残していったものだと、あきらから手渡された物だった。彼は食い入るように、だが相変わらずの無表情でそれに視線を合わせている。

「あの、これ、あなたから貰った指輪……結婚記念日の。あきらちゃんに預けておいたんでしょう?」

 鼻をすすりながら問いかけるかえでの顔に、佐伯は茫洋とした表情を向ける。彼の何とも釈然としない態度に小首を傾げるかえでの肩を、佐伯は掴んだ。そして軽い力で自分から彼女を引き剥がす。いきなり突き放され、何が起こったのか分からず、呆然とするかえでに、佐伯は口を開いた。

「長い間、寂しい思いをさせてすまなかった」

 佐伯の手が、かえでの髪を撫でる。その目には、憂いが浮かんでいた。

「……だけどすまない、私はもう、元には戻れないんだ」

 かえでは目を見開いた。一体彼が何を言っているのか、その意味が全く分からず、困惑する。頭の中が白に塗りつぶされ、正常な思考能力を奪われた。

「私はお前の知っている、男ではないんだ」

 佐伯は続けてそんなことを言った。

 だが、かえでの耳はそれを受け付けなかった。さらに彼は続ける。唇の動きで始めに「お」と発声したのは分かったが、その後は読み取ろうとするのを諦めた。それほどまでにかえでは混乱し、動揺していた。

「あっ……」

 かえで自身、そこからどんな言葉を紡ごうとしたのか定かではなかった。ただ停滞したこの状況に焦りを覚え、慌てて口走ったまでだった。

 彼女の鼻先を赤い粒子が掠めた。ハッと息を呑み、かえでは宙を舞うそれを指の腹で受け止める。細かな光を帯びたそれに、しばし魅せられた。

 しかし次の瞬間、かえでは猛烈な眠気を感じた。抗うことなどできない。意識を強制的に闇へと引きずり下ろされるかのようだった。

「あなっ……た……」

 視界が揺れ、足下が覚束なくなる。床に倒れるかえでの前で、佐伯は踵を返した。その体を中心として真紅の粒子が渦を巻いている。気づけばかえでの周囲にも大量の粒子が発生し、彼女の全身を包み込んでいた。

かえでが最後に見たものは、自分の指にはめられた金の指輪だった。夫から贈られた最後のプレゼントだ。娘も夫もいなくなった世界でその指輪だけが、かえでの身と心をこの世に繋ぎ止めてくれる唯一のものだった。

佐伯は振り返ることはなく、奥の部屋に消えていった。数秒も経たぬうちに、その部屋の中からけたたましい音が鳴り響く。壁が壊され、窓を叩き割られたことが容易に想像できる、激しい物音だった。

かえでは粒子に包まれながら、ゆっくりと目を閉じた。意識の喪失はすぐにやってくる。耳のすぐ側で、幼い娘の笑い声が聞こえたような気がした。




タンポポの塔 9

 戦艦、ファイナル・ランスの主砲から放たれた一条の光は、タンポポの塔を貫いた、かと思われた。

 実際は地面からわき出した無数の触手が寄せ集まって、巨大な壁を形成し、すんでのところで砲撃を弾いたのだった。

しかしさすがに無傷とはいかず、衝撃波によって塔の表面は軽く抉られ、窓ガラスは全壊していた。弾かれた衝撃は行き場を失って地面に突き刺さり、木々を切り裂き、空を穿っていった。紫色をした光輪が広がり、空気に溶けこんでいく。どうやらあの強大な光条を防ぐことができたのは、触手だけではなく、紫色の粒子による力が大きかったようだ。

そして砲撃を終えると戦艦は少しだけ後退し、その主砲を再び内部へと引っ込めた。どうやらあのビームを連続使用することはできないようだ。それでも沈黙に伏す戦艦の威容は、不気味な迫力に満ちあふれている。戦艦に向けて触手が突き伸び、紫色の光線が塔から放たれるが、その分厚い装甲は全くそういった反撃を寄せ付けない。何か装甲自体に細工が施してあるのか、触手は巻きついた側から勝手に解かれてしまうのだった。

「俺を当て馬にして……随分なことをしてくれるな!」

 焼け焦げ、バラバラになって落ちてくる触手の残骸を浴びながら、E.リゲアは語気に怒りを含ませる。斧を片手に、左足を軸にしてぐるりと回転し、あらゆる方向から迫ってくる兵士たちを一気に吹き飛ばした。

 巻き上がる砂煙と、乱れ散るタンポポの花の中心で、E.リゲアは息をすっと吸い込む。

 そして縦横無尽に攻め立ててくる装甲服の兵士たちに、再び次々と刃を突き立てていった。斧を振り回し、大勢を薙ぎ倒しては、はぐれた一体一体を両断に伏せていく。

 佐伯が言い残した通り、装甲服の中に人間は入っていなかった。真っ二つに切り倒されるのは、ただ空洞の鎧のみだ。始めこそ大群を相手に胸を熱くしていた飯沼であったが、徐々に雲を相手取っているかのような虚しい感覚に陥り、おおよそ三十体を地に沈めたところで、興が削がれてきてしまった。

「拍子抜けだ……人形を相手の快感が、これほどまでに刺激に劣るとはなぁ!」

 苛立ちを得物に載せ、一息に振り下ろす。兵士の頭部を成している金属製の兜が衝撃に陥没し、二撃目によって破裂した。さらにE.リゲアは振り返ると、突き出されたナイフをすんでのところで回避し、斧を持っていない方の手で兵士の頭をむんずと掴んだ。その手に茶の粒子が纏われる。そのまま彼が腕に力をこめると、兵士の頭はまるで潰れた蜜柑のように弾け、汚れた金属片を周囲に飛散させた。

「やはり生身相手でなければ、面白さは半減だな」

 全身から粒子を一斉放出させ、全方向に閃光の波状攻撃を繰り出す。兵士たちはまるで箒で払われる埃のように次々と飛ばされていき、地面に衝突して動かなくなった。

 しかしE.リゲアに休む暇は与えられない。疲労を感じた一瞬の隙を狙われ、彼は背中に一太刀を浴びた。すかさず斧で応戦し、新たな亡骸を地に落とす。

 どれだけ切り伏せようとも、兵士の数は一向に減る様子がなかった。まるで砂糖に群がる蟻のように、E.リゲアを中心として見渡す限り装甲服が群れを成している。

 E.リゲアは呼吸を整え、敵を薙ぎ倒しながら、ふと空に浮く鮫型の戦艦を見上げた。いくら戦おうとも敵の頭数が減らない理由は、そこにあった。

 戦艦の腹にあたる部分には、小さなハッチが設えている。今、それは全開になっており、その内側より装甲服の戦士が降下していく様が、はっきりと見て取れた。おそらく倒された分だけ、そうやって補填しているのだろう。やがて充分とみたのかハッチは音もなく閉じていき、戦艦は再び沈黙に伏した。

 E.リゲアはその戦艦の甲板にあるものを発見し、にやりと笑む。薄い刃物のように尖った艦首付近に腕組みをして立つ、L.エッジの姿をその目が捉えたのだった。

「……あんなところにいやがったのか」

歪んだ笑いを口にすると、E.リゲアは茶の光を帯びた拳で、目の前の兵士の腹を突き破った。動かなくなったその体を投げ捨て、斧を肩に担ぐ。そしてその足を戦艦に向けた。

「困ったことに、俺は、お人形遊びの趣味は持ち合わせていねぇんだよ!」

 啖呵を切ったその時、E.リゲアは地面を踏みしめる音を背後に聞いた。

 振り返り、素早く斧を構える。だが眼前に迫っていたのは兵士ではなく、切っ先をこちらに向けて飛ばされたナイフだった。

「ずいぶんと賢い真似をするようになったじゃねぇか! あぁ?」

 投擲されたナイフを、即座に斧頭で打ち落とす。だが息をつく間もなく、背後から兵士が迫っていた。舌を打ちながら柄を握りしめ、振り向きざまに刃先を薙ぐ。

 だが、それは囮だった。正真正銘の一撃は彼から見て、右側からやってきた。ナイフを胸の前で構えた兵士が姿勢を低くした状態で、E.リゲアに突っ込んできたのだった。

すでに斧を振り抜いてしまったため、そこから体勢を変えることは不可能だった。その鋭い刃先はE.リゲアの脇腹を容赦なく貫いた。それを切っ掛けとして、他の兵士たちもE.リゲアに群がり、その体に代わる代わるナイフを突き立てていった。

E.リゲアはくぐもった越えを漏らしながらも両腕を振り回し、獲物に群がるピラニアのように飛びかかってくる兵士たちを、力任せにのけていく。その鉄色の肉体には無数の穴が開き、足下に血溜まりが生まれていた。

傷と血に塗れながら、E.リゲアは空に向けて吼えた。木々の葉を震わせ、塔の壁を粉砕するかのような、力強い叫び声だった。やがて悲痛のこめられたその声音が、喜色を帯びたものにすり替わりはじめる。そしてそのうち彼は、爆ぜるように笑い始めた。深夜に鳴くカラスのような不穏さが、その声にはあった。

「痛ぇ……痛ぇよ……あぁ、いい。最高に気持ちいい!」

彼は全身から血飛沫をあげながら、一番近くにいた兵士の頭をむんずと掴むと、そのまま力をこめて、その首を引き抜いた。動かなくなった体を地面に投げ捨て、頭部を足下に落とす。生首を足で踏みつぶしながら、歓喜に身を震わせた。

「この痛みこそ生の証! いいぞお前ら、最高の気分だ!」

 兵士たちはナイフを構えてあらゆる方向から躍りかかる。E.リゲアは装甲の残骸を蹴り飛ばすと小馬鹿にするように鼻を鳴らし、左腕を静かに引いた。

「お前らも味わってみろ! この果てしない快楽を!」

 その拳に茶の光が収束する。E.リゲアは両足を踏み込むと、その腕を、畳みかけてくる兵士目がけて打ち出した。

 だが、その拳が敵を貫くことはなかった。横から飛び出してきた何かが、彼の目の前から兵士をかっさらい、地面に押し倒していったからだ。たたらを踏み、宙を殴ったE.リゲアは、派手な音をたてて転げる兵士の姿を見やる。兵士の前には、鳥のお面を被ったスーツ姿の男が、腰に手をやった姿勢で佇んでいた。一瞬、呆気とられつつもすぐに状況を判断したE.リゲアは、そっと舌打ちをした。

「ガキが……余計な真似を」

 周囲を見渡せば、お面を被った男は一人ではなく、何十人という数が兵士の相手をしていた。そのいずれも紫色の光を全身に帯びている。その様子はまるで、幻想的な火に包まれているかのようだった。

 男たちはその光を操り、時には拳に載せ、時には光線のように掌から放射して、兵士を薙ぎ倒していく。それは、まるでオーロラのショーを演じているかのようだった。

 E.リゲアは迫ってくる兵士たちを素手で破壊しながら、戦艦に視線を転じた。その船上に立つ敵の姿を見つめる。やがて、その表情には笑みが広がっていった。

「だが今は好都合か。ならば俺は……奴と快楽を分け合ってくるとするか」

 切りかかってくるナイフの演舞をことごとくかわし、指先から茶の光線を放って兵士の上半身を粉砕すると、E.リゲアは助走もなしにその場で跳びあがった。全身に粒子を纏い、戦艦が浮遊しているのと同じ理屈で、空へ飛翔する。手を伸ばして追いすがってくる兵士を踏み潰し、足蹴にしていきながら、さらに高く舞い上がった。彼を止めようと地上から攻撃を仕掛けてくる者も大勢いたが、結局は斧で切り裂かれ、または蹴りを打ち込まれて、一人残らず地面に突き落とされる結果となった。

 E.リゲアは雄たけびをあげ、全身をさらに高濃度の粒子で包んだ。光の矢と化したその身体で、降下途中だった兵士を消滅させていき、さらに戦艦まで上昇していく。右翼を勢いのままに貫通し、さらに空を突き破ったその閃光は、やがて戦艦の上空を捉えた。

 粒子が弱まると同時に、E.リゲアの体からは光が消え失せる。同時に彼の体は落下を始めた。しかし戦艦の上に両足で着地し、足元に火花を起こしながら無理やり制動をかけた彼は、顔をあげ、船首に立つL.エッジを睨んだ。右翼に穴が開いたため、バランスを失った船体は傾いでいたが、彼はそんなことなどお構いなしとばかりに、涼しい顔をしている。

 急激に動いたためなのか、E.リゲアの鉄色の体から飛沫のように血が噴出した。吐血し、口元を手でおざなりに拭いながら、E.リゲアは高笑いをあげる。L.エッジは体を背後に向けると、その左手に三本の赤い刃を発生させた。

「なるほど。大胆かつ、繊細な粒子の使い方だ。鍛え抜かれているな」

「当然のことだ。7年間、この時のために生きてきた!」

 二人がぶつかり合うために、合図は必要なかった。どちらともなく身構え、前に駆け出した。斧とエネルギーの刃が正面から衝突し、つばぜり合いに持ち込まれる。

「今すぐお前にも、この快感を味合わせてやるよ。昇天させてやる」

「それは遠慮しておこう。しかし困る。患者がお前のような輩ばかりなら、医者は不要になってしまうな」

 肉薄し、刃と刃をぎりりと軋ませる。やがて互いに背後へ飛び退くと、さらに距離を取った。

 L.エッジは粒子を右手一本にかき集め、そこから一筋の光線を撃ち出した。E.リゲアもまた掌に光を収め、一本の光状を放つ。赤と茶にそれぞれ彩られた光の直線が空中で激突し、虹色の閃光を宙にばら撒いた。

「やっぱり生身と戦うのは最高だ……鮮度が違う! もっと俺にお前の痛みをよこせ!」

 風船から空気の漏れるような音を喉奥から響かせながら、E.リゲアはその斧を大きく頭上に掲げた。すると、その石突から刃先に至るまでが、禍々しい光によって覆われる。

 だが、変化はそれだけに留まらなかった。まるで引き寄せられるかのように、周囲に漂う粒子が次々と斧全体に吸い込まれていく。E.リゲア自身の茶の粒子だけではない。赤も、紫も、灰も、この地に残留していた光の痕跡が、ことごとく斧に吸い寄せられていく。

 力を吸収し、強い光輝に膨れ上がった斧から、一筋の光が立ち昇る。そしてその光もまた変貌を果たし、やがて巨大な斧の輪郭をなぞった。

 エネルギーで形成された戦斧は、E.リゲアの握っている本体と同期している。彼がその場で思い切り腕を振り上げ、下ろすと、おおよそ10メートルは越えるであろう、そのエネルギーの斧もまた敵目掛けて振り下ろされていった。

 E.リゲアの雄たけびが爆ぜた。L.エッジは両腕を前に伸ばすと、その先で掌同士を重ね合わせる姿勢を取った。すると重ね合わせた手の中心に、半透明の赤い膜のようなものが出現する。わずかに震えを帯びたそれは、敵の攻撃を防ぐために生み出した、急ごしらえの盾だった。

 だがそれは戦斧の動きを止めるにはいささか脆すぎた。と言うよりも、なりふり構わず粒子を集結させたその斧の威力が、およそ規定外のものだった。

 結果、E.リゲアの放った一撃は全くその勢いを殺されることもなく、L.エッジの盾をこともなげに粉砕した。

 暴力的な光の猛襲に成す術もなく、L.エッジは吹き飛ばされ、背後にあった鉄製のポールに叩きつけられる。甲板を跳ね、転がったL.エッジに、E.リゲアはすかさず急迫した。船全体が僅かに右前方に傾き、足元に傾斜が生まれていたため、移動はスムーズだった。

 駆けながら斧を左手に持ち替え、右腕全体に茶の粒子をかき集める。火球のように膨れ上がった拳を握り締めると、L.エッジに殴りかかった。

 だが、次の瞬間に衝撃を与えられたのは、E.リゲアの方だった。L.エッジは倒れ伏した体勢のまま足だけを伸ばし、自らの身に拳が叩きつけられる前に、その腹につま先を埋めたのだった。

 L.エッジはふわりと、まるで天から伸びた糸に吊られるようにして起き上がると、その左手から伸びたエネルギー状の爪を、素早く突き出した。E.リゲアは顔を上げると、必死の形相を浮かべながら、斧を逆袈裟に薙いだ。その一振りは敵の左腕の篭手を破壊し、同時に彼の手から斧をもぎ取った。

 無理な姿勢で振り抜いたがために、手に力が入りきらなかったのだろう。斧は大きく宙に弧を描き、船の外に落下していった。

 だが、武器を失ってもなおE.リゲアは怯まなかった。彼は自身の得物の行く末を気にする素振りさえみせず、野犬の如く猛々しさでL.エッジに飛び掛った。姿勢を崩され、L.エッジはそのまま甲板に押し倒される。両腕を押さえつけられ、身動きのとれなくなったその体を前に、E.リゲアは昂揚しきった吐息を浮かべた。血の香り漂う生温い息を顔に吹きかけられ、L.エッジの顔が苦悶に歪む。

「最高に気持ちよかったぜ、先生よ。だが、俺の方が一枚上手だったようだなぁ!」

 快感に身を震わせながら、E.リゲアはその全身にうっすらと褐色の蒸気を立ち昇らせた。狂った嗤いを牙の間から漏らしながら、じわじわとL.エッジの体に重圧をかけていく。その紺青の肉体が、粒子の生む重みによって軋んだ音をたてる。

「……なるほど。確かに君の方が、私よりも強いらしい」

 だが、この状況にも関わらず、L.エッジの様子には余裕さえ窺えた。さすがの飯沼もそこに不穏なものを嗅ぎ取る。そして次の瞬間、あのガラス窓を爪で引っかくような不快な音が、再び森の中に響き渡った。

「……言い忘れたが、このファイナル・ランスと私の意思とは同調しているのでね。チャージは済んだ。果たしてお前たちはもう一度、あの一撃を防ぐことはできるのかな?」

 Lエッジの言葉に呼応するかのように、戦艦全体に大きな振動が引き起こされる。そして物々しい、金属製の何かが這いずり回るような重低音が空気を震わせた。




タンポポの塔 10

 タンポポの塔の2階は、他の階層と比べてもかなり複雑な造りになっている。一体どうしてそうなったのかは分からないが、床と天井とが捻じ曲がり、螺旋を描いている箇所が多くみられるからだ。

 そんな、まるで色の合わないルービックキューブのような部屋を越えていくと、やがて、段数のかみ合わない階段が無数に現れる。足元と頭上に細心の注意を払いながらさらに前へ前へと進むと、今度は壁に空いた矩形の空洞が出迎えてくれる。

 “光来の間”はその中にあった。正方形の部屋で、畳5枚分くらいの広さがある。四方には柱のように巨大な燭台が設置されていた。中央には金色のカーペットが敷かれており、その上に巨大な円形の石版が載っている。その茶褐色の盤面には、宝石が全部で26個散りばめられ、静かな輝きを放っていた。あきらはしばし、それを見つめた後で、さらに奥へと進んだ。

 牢獄と同様にその部屋の壁もまた薄く発光しているため、視界に不自由はなかった。遠くの方から塔全体を揺るがすような轟音が聞こえてくる。戦闘は激しさを増しているらしい。

 あきらの向かう先には、部屋の中で一際強い光を帯びた場所があった。

 その場所にだけ天井から一筋の光が射し込んみ、さらに床からも束ねられた太い光線が立ち昇っていた。まるで舞台上に射すスポットライトのようだ。

 二重の光によって照らされているのは、黒い鉱石めいた質感を持つ、何かの塊だった。

 しかしよく見れば、それが両足を前に伸ばした姿勢で座り込み、頭を垂らした人であることが分かる。だがその石像のような外見は、人間そのものではけしてなく、人型の何か、と称するほうが正しいように思えた。

 強い光の中に浮かび上がる石像は、ひどく神々しいもののように見える。ぴくりとも動かない石像の前であきらは身を屈めると、その額から伸びた一本の角をそっと撫でた。そうしながら、石像に向けて話しかける。

「白石さん。覚えてます? 近所のスーパーで会ったときに、訊きましたよね? あなたの願いはなにか、って」

 あきらは過去を懐かしむように目を細める。角の先端で手を止めると、軽く握った。

「ボクはまだ、あなたの願いを叶えていません。だから、まだ死んじゃいけないんです」

 強烈な衝撃が塔に襲い掛かった。両足が宙に浮くほどの震動に、あきらはバランスを崩し、そのまま横に転げた。衝撃が収まるのとを待ってから両手を床に付き、身を起こす。あきらは爪にこびりついた砂を、物憂げな目で見つめた。

「……正直、ボクは迷っていました。あなたを復活させる方法には、ずっと気が付いていたんです。だけど、その事実からずっと目を背けてきた。……河人さんと話をして、そういう自分の愚かさを知ったんです」

 だから。

 そう呟き、立ち上がると、あきらはローブの内側に手を突き入れた。しばしの迷いをみせてから、思い切った動作で、中から石版を取り出す。その表面はわずかに緑色の光を帯び、まるでこうなる時を待ち望んでいたかのようだった。

「菜原さん。あなたの愛した人を、救ってあげてください」

 あきらは目を瞑ると、その手に白い粒子を発生させた。粒子はすぐに石版の内部へと、滑るように流れ込んでいく。やがて石版全体が強く発光を始めた。あきらは苦痛に眉を寄せながらも、唇に笑みを宿らせ、前方を鋭く見据えた。

「その願いのため。ボクたちの未来に、光を」

 あきらは唱えると、静かに息を吸い込んだ。そして気持ちを整えると、腕を軽く振りかぶり――光を帯びた石版を、漆黒の石像目掛けて放り投げた。




タンポポの塔 11

 河人真は牢獄の中で、不意に顔をあげた。首輪に繋がった鎖が擦れ合い、耳障りな音をたてる。

それだけでなく彼を閉じ込めている鉄柵や、牢の外側にある砕けた小石までもが跳ね回り、物音をたてていた。無論、河人の所為ではない。塔が身悶えるように激しく震えているのだ。

 外で行われている戦闘の影響で、先ほどから断続的に衝撃はあったのだが、今、塔を揺らしているこの震動は、それとはまた違った感触だった。

 このどこか異質な衝撃の正体を、河人は感覚で察していた。その無表情にわずかながら不機嫌さを含ませ、大きなため息をつく。

「……ついに始まったか。これからどうなるか、見物だな」

 どこか遠くで、絹を裂くような叫び声が聞こえたような気がした。その声音に含まれた、黒く混濁した色を聴覚に捉え、河人は自分の腹のあたりを見下ろした。

「……だが、あまりいい予感はしない。恐らく、蘇るのは、白石でも、トールでもない」

 震動は続いている。むしろ、徐々にその威力は高まっていくばかりのようだった。地面に落ちていた砂埃が一斉に舞い上がり、天井からぱらぱらと石の破片が降り注いでくる。髪やコートを真っ白に染め上げられながらも、河人自身は関心一つ寄せぬ目つきで、牢獄の外を睨んでいた

「……そこに復活するのは、ただの、悪意だ」

 またも暗澹とした叫びが、夜を伝ってくる。その悪夢のような絶叫と、錯乱した妻の悲鳴とを河人は不意に重ね合わせ、辛い思い出を心の中に封じるように瞼を閉じた。




タンポポの塔 12

 強烈な閃光が夜闇を一瞬で剥ぎ取っていく。

 その瞬間、佐伯はL.エッジとしての顔に勝ち誇った笑みを浮かべた。右足でE.リゲアのわき腹を蹴りやり、その体を自分の上からどかす。そしてポールを掴んで起き上がると、期待に胸を膨らませながら、タンポポの塔を振り返った。

 だが、その表情からはすぐに笑みが消失した。主砲が放たれ、塔を木っ端微塵に破壊しただろうという確信めいた予想は、目の前の光景によって覆された。

「何だと……」

 タンポポの塔は、先ほどまでと全く同じ外観をみせていた。それ以前に、砲口から光線が放たれた痕跡すらもそこには残されていなかった。L.エッジは甲板から身を乗り出し、半壊した塔を見下ろす。

「馬鹿な。主砲は放たれたはずだ」

 そうでなければ、先ほどの強い光に説明がつかない。それに砲口にエネルギーが残っていないことを、感覚として捉えていた。そこに嘘はない。

 一体何が起きたのか分からず、混乱するその目に、塔の中から出てくる人影が映りこんだ。それを視界に捉えた瞬間、佐伯は心臓を鷲づかみにされるような感覚を覚えた。

 静謐さを宿し、沈黙を引き連れながら戦いの舞台に現れたそれは、黒と白の入り混じった鎧に全身を包んだ怪物だった。

 その外見は一言で表すなら、西洋の騎士のようだった。

 深淵を示す黒と、骨を彷彿とさせる白。その姿は死のイメージを多分に含んでいる。

 額からはユニコーンを思わせる白く長い角が伸びていた。その根元のあたりに鉄格子のようなスリットが広がっており、内側から漆黒の双眸が覗いている。暗く淀んだその色は、苦痛や悲愴といった負の感情に支配されているようだった。

 一方で、胸部や手足の一部は金色の模様が彫られ、非常に煌びやかだった。胸元には、黄金の鳥を模した大きな装飾品が飾られており、それは怪物がもつ退廃的なイメージからはひどくかけ離れている。

「まさか、あいつが砲撃を……」

 怪物の身体からは、絶えず黒々とした瘴気が溢れ出ていた。その気配には明確な殺意と憎悪が露となっている。もし悪魔というものが実在するならば、おそらくこの怪物こそがそう呼ばれるにふさわしいだろう――佐伯はL.エッジの硬質の肌を冷や汗で濡らしながら、そんなことを思った。これほどまでに凶悪な波動を発する存在と対面したのは、初めてのことだった。この怪物が、戦艦の主砲から放たれた一撃をかき消したというのならば、納得だ。

 腹の中心には二等辺三角形の石版が据えられている。それはL.エッジの右足や、E.リゲアの左腕にあるのと同じものだった。つまり、あの騎士めいた怪物は佐伯や飯沼と同様に、人間が粒子の力で変貌した異形の姿ということになる。

 そこまで理解したところで、L.エッジは己の目を疑った。怪物の腹部を凝視する。だがそれは見間違いでも、勘違いでもなかった。

 怪物の腹には、石版が二つあった。二等辺三角の頂点同士が向き合う形で、横倒しに配置されている。その形状は、無限を表す記号にひどく似ていた。

「馬鹿な……」

 L.エッジの声に驚愕と畏怖が滲む。思わず後ずさり、その場でよろめいた。

「人間が複数の石版を同時に宿すなど。そんなこと、できるはずがない」

 それは本来ならば到底あり得ないことだった。だが、その症例が目の前に実在してしまっている以上、否定はもはや何の役にも立たない。

「……本当にやったのか。あのガキ、やっぱり狂ってやがるな」

 困惑するL.エッジの背後で、喘鳴混じりの声があがる。体をよろめかせた血濡れのE.リゲアもまた地上を見下ろし、呆れたような声をだした。

「V.S.トールってところか……名づけるとするならな。石版二つを抱えて起き上がったのは見事だが、これからどうなるかのほうが問題だ」

 釈然としないものを抱えながらも、佐伯もその意見には同感だった。一瞬に限定するのならば、人間の体に複数の石版を埋め込むことは別段不可能ではない。だが、その状態で十分に活動するとなれば、その理論には陰が射してくる。

「……すぐに果てるのがオチだろう。そんな人間が、この世界にいるはずがない」

 佐伯は自分に言い聞かすように呟いた。その時、これまで沈黙を貫いていた怪物――V.S,トールの口から、初めて声が吐き出された。

 ただしそれは、意味のある言葉としての形を持たなかった。それは、空を真っ二つに引き裂くような慟哭だった。

 聞くものを不安にさせ、恐怖の底に引きずり下ろすようなその絶望の唄は、衝撃波に姿を変えて、周囲のものをことごとく薙ぎ倒した。

 巨大な光芒が大地を削り、空を抉り、木々を蹂躙して、視界の限りにあることごとくを粉砕していった。当然のことながら、そこで鎬を削り合っていたお面の男たちや、装甲服の兵士たちも対象の外ではなく、無差別な破壊の渦に巻き込まれていく。

 そこに敵味方の区別などなかった。V.S.トールがようやく、その暗い洞のような口を閉じた時、塔の前の景色は一変していた。

 一言で表現するならば、それは焦土だった。あれほど咲き乱れていたタンポポは根こそぎ消滅し、地面は子どもが暴れた砂場のように、ところどころ陥没し、削られている。

あちこちに人間の手足や頭部や内臓の一部が散乱し、金属の破片もまたそれと同数程度転がっていた。

 全滅だった。佐伯の用意した兵士も、お面を被った男も、一人残らず死骸と化した。

 わずか数秒という間に、その地は死に絶えた。唯一、二本の足で立ち、この場所で命を紡ぎ続けているV.S.トールは、何を思っているのか、荒廃した景色を無言で見渡している。しかし突然、弾かれたように上空を振り仰ぐと、その目で船上のL.エッジを射抜いた。

 睨まれた瞬間、佐伯は体温が一気に冷えていくのを感じた。なぜこれほどまでに慄いているのか、自分自身で理解できない。

 V.S.トールは悪夢のような雄叫びをあげた。腹部にはめられた二つの石版のうち、左の方に手をかけると、それを荒々しい動作で上から押し込む。するとその石版だけが下方にスライドし、V.S.トールの左半身が緑の粒子によって一色に覆われた。

 続けてその背中から、鷲のものに似た双翼が発生する。ただしその色は体と同じ深い黒で、それは寄せ集まった粒子によって形成されているようだった。

 V.Sトールは胸の前で一度、腕を横に薙ぐと、地面を蹴って飛び上がった。翼を大きくはためかせ、地面に衝撃波を叩きつけながらさらに上昇する。そうして、対策さえ講じさせない飛行スピードで戦艦の上に着地すると、翼を消滅させ、それからあたりを探るような動作をみせた。

 唸り声をあげる騎士を前に、L.エッジは怯んだ。遠くから眺めていたのとは段違いの威圧感が、つま先の方から身をゆっくりと削り取るかのようだった。先ほどまで底なし沼のように濁っていた双眸は、今や鮮やかな緑に染まっている。その光を宿した眼差しを彷徨わせ、やがてその視線の矛先はL.エッジではなく、E.リゲアに向けられた。

 V.S.トールの動きは、熟練した狩人のそれだった。相対する者に反応を許さない速度で接近すると、E.リゲアの胸を右拳で衝いた。さらに続けざまに回し蹴りを顔面に打ち込む。その二撃が放たれ、終えるまでには一秒もかからなかった。

 予想だにしなかったであろう攻撃の連打にE.リゲアは、反応することすらできず、甲板に背中から叩きつけられた。起き上がろうともがくその首をV.S.トールは掴んで引っ張り上げると、そのまま頭上に大きく掲げる。その右腕全体に火花が弾け、やがて青白い電撃がV.S.トールの全身を包み込んでいった。電撃はその指先を通じて、E.リゲアの体にも否応なしに流れこんでいく。

 その鰐のような口から初めて悲鳴があがった。身動きのとれないまま強烈な電流を間断なく叩き込まれ、E.リゲアの体はところどころ爆発を起こして痙攣する。やがてぴくりとも動かなくなり、何の声も漏らさなくなると、V.S.トールは玩具に飽きた子どものようにE.リゲアを空に放り投げた。その白銀の身体は、自らの得物を追うかのように弧を描いて戦艦から落下していく。受身をとらず、空中で何の抵抗もしないところをみると、どうやら気を失っているらしかった。

 地面に轟音が突き刺さるのを待つこともなく、V.S.トールの目は、L.エッジを次なる生贄として認識したようだ。L.エッジは粒子を体の内より呼び覚まし、身構えた。両腕に真紅の光を纏い、そして先手必勝とばかりに飛び掛かる。

 だが、その時にはすでにV.S.トールは、L.エッジの眼前まで急迫していた。L.エッジが反応し、拳を振り回すのよりもはるかに早く、その蹴りは腹をしたたかに穿っていた。

その衝撃を軽減させることなどできず、成す術もなく上空に吹き飛ばされるL.エッジが最後に見たものは、甲板上で静かに構えをとるV.S.トールの姿だった。

 V.S.トールは左足一本に緑の閃光を収束させると、軽く跳躍し、空中でドロップキックの形をとった。そして全身から吹き出す緑の粒子の助けを借り、上空に飛ばされたL.エッジ目掛けて、下方から突っ込んでくる。

その左足のつま先に、緑の光が螺旋を描いていく。やがて細い杭のような形状を成したその閃光は、V.S.トールの足と一体化し、そのままL.エッジの体をしたたかに貫いた。

 痛みを感じる間もなかった。穿たれた胸部の穴から、粒子が体の内へとなだれ込み、やがてその内臓や骨や皮膚を内側から砕き、引き裂く。強大なエネルギーによって自分の体が凄まじい速度で食い破られていくのを、佐伯は遠ざかる意識の中で感じていた。

 L.エッジの体が爆発によって呑み込まれていく。閃光の蹂躙を受けたその肉体は粉々となり、赤い粒子を宙にばら撒きながら消滅していった。


 

 

タンポポの塔 13

 L.エッジを粉砕したV.S.トールは翼を空中で再構築させると、それを大きくはためかせ、くるりと宙返りをした。それから腹部に手をやり、今度は右側の石版を下方にスライドさせる。するとまるで天秤のように、左側の石版が上に持ち上がり、元の位置に戻った。さほど時間を要することもなく、V.S.トールの右半身が青色の粒子で染め上げられる。

 その背から翼が消失する。同時に、粒子によって形成された青色の刃が右腕を覆った。

光輝に包まれるその様は、まるで最大出力に合わせたガスバーナーの火のようだ。自身の身長をはるかに超越し、30メートルほどの長さまで伸びた刃を、V.S.トールは落下しながら、戦艦目掛けて振り下ろした。

 まるでホールのケーキをナイフでカットするかのように、そのエネルギーの刃は戦艦を縦断し、真っ二つに切り裂いていく。強固な装甲が、その刃の前では何の役にも立たないようだった。

 戦艦は巨大な爆発音をあげ、炎に包まれながら落ちていく。粉々に砕け散った残骸から噴出す真紅の粒子は、さながら鮮血のようだった。

 V.S.トールはその後を追うようにして森の中に落下していく。この世の全てを呪うような絶叫が、空を裂く。

 そうして夜に沈黙が戻った。後に残されたのは、絡み合って舞い散る、二色の光だけだった。V.S.トールが再び姿を見せることはなく、その気配も失せた。

 タンポポの塔を取り巻く特殊な霧の影響で、山の中に墜落する戦艦が周囲の目に触れることはない。地面と激突した際に生じた轟音も、おそらく聞こえてはいないだろう。

 佐伯は塔を見下ろすことのできる、なだらかな丘の頂でその光景を目にしていた。

 体内から一度に発生させることのできる粒子のうち、およそ半分を消費することで佐伯は自分の分身を生み出すことができた。V.S.トールによって撃破されたのはL.エッジ本体ではなく、単なる身代わりだ。

 粒子自体は少し休めばすぐに補填されるので、実質、佐伯自身は痛くも痒くもない。だが、自分と同じ姿をした者が屠られるというのは、あまり気分が良いものではなかった。

 それにしても――佐伯は二つの石版を同時使用する化け物のことを思い出し、目を眇めた。まさかあんな隠し玉を持っているとは想像していなかった。人の心をやすりにかけ、ゆっくりと削っていくかのような、あの絶大な殺意は脅威だ。佐伯は腕を軽くさすりながら、一つ身震いをする。自分がこれほどまでに大きな恐怖を覚えていることに、苛立ちを感じる。

 だが、今の段階でその存在を知れたことは幸運だったのかもしれない。

 佐伯は眼鏡を外し、白衣の袖でレンズの汚れを拭き取りながら、状況をそう評価した。戦艦を壊され、そして苦心の末に作り上げた装甲服の兵士たちも全滅させられてしまったが、この襲撃にはそれだけの価値があったと思っている。敵の力量を測れただけ、収穫は十分にあったといえるだろう。

 佐伯は眼鏡をかけ直すと、足元の雑草を踏みにじり、白衣を翻しながら振り返った。その得意然とした視線の先には、草むらに横たえられ、シーツにくるまった二条裕美の姿があった。その顔は包帯で幾重にも巻かれ、テレビのワイドショーで弁を振るわせていた頃の面影はどこにもない。

 生命維持装置を外された二条の顔色は悪く、呼吸もか細い。おそらくこのまま放置しておけば、一時間も待たずに絶命することだろう。

 死にかけている二条を見下ろしながら、佐伯は人間の脆さに同情する。これほどまでに弱い生き物がなぜこの世を支配しているのか、常々不思議だった。その答えは今でも見つけられてはいない。そしてこれからも解は導き出せないだろうと思った。

 塔のある方向を振り返り、しばらく闇に沈む森を見つめてから、二条の元に歩き出す。

 あちこちで軽やかな虫の音が聞こえてくる。風の気持ちいい夜だった。佐伯は風にそよぐ前髪を手でかき上げ、鼻を鳴らした。

 ふと、胸に痛みを覚えて立ち止まる。その刺すような痛みは、小屋を出てきた時から次第に強くなっているようだった。掌でそっと胸を撫で、視線だけを背後の塔に向ける。

 縋り、泣き腫らした目で自分のことを見上げてくるかえでの表情。

安堵、歓喜、寂しさ。揺れる彼女の瞳からは様々な感情が読み取れた。その全てが佐伯の心をざわつかせる。その脳裏からは彼女の泣き顔が、こびりついて離れなかった。


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