10話「4体目のマスカレイダー」
2010年8月13日
切れかけの外灯が、死にかけの虫が発するものに似た、気味の悪い音を鳴らしている。
明滅する光が夜道に跳ねる。汚れたアスファルトには車のタイヤの跡が刻まれ、そこに羽虫の死骸が陰湿な模様のように散乱している。
月のない夜を途切れ途切れに照らす外灯の光は、まるで闇を恐れる何者かが、微かな光を求めて必死に縋り付いているかのようだ。その仄かな明かりは絶望の淵に立たされた人間が、何とか希望を見出そうと必死になっている様子を彷彿とさせた。
その外灯のすぐ側には、古めかしい洋館が建てられている。住宅街を臨むその建物は、霧の海に浮かぶ幽霊船のような迫力と不穏さを抱き、闇の中で黙々と佇立していた。
数週間前、11人もの女性の死体が発見されたこの洋館には、警察の手が入り、そのため一切の家財が引き払われていた。もともと長年、人が住んでいなかったため、家の中はひどく埃っぽく、そして外の世界から大分置き去りをくらっていた。本棚に並ぶ年季の入った書物や、ただ歩くだけで軋んだ音をあげる廊下が、この建物の孤独を何よりも如実に伝えていた。
そんながらんどうと化した洋館の廊下を、不意に何かが過ぎった。
足音もなく。気配を残さず。姿さえ見せず。不可視の何かは一定のスピードを維持したまま、カーテンの敷かれた窓の前を駆けていく。
やがてその透明の影は、玄関前の広間に出た。全く淀みのない、しかし周囲への警戒を密かに滲ませた足取りで、階段の脇を通過していく。壁には姿見鏡が掛けられていたが、その鏡面は透明の影が目の前を通り過ぎても、まるで波風の立たぬ湖畔のように、これまでと同じ景色を映すだけなのであった。
鏡にすら自らの容貌を晒すことなく、広間を通り過ぎた影は、やがてひとつのドアの前で立ち止まった。呼吸を整えるように一拍置いてから、ドアノブに手を伸ばす。ドアを少しだけ開くと、壁との間に生じた細い隙間を縫うようにして、室内に侵入を果たした。
その室内にもまた何も置かれていなかった。元々は客間だったらしいが、今となってはその機能ばかりでなく体裁すらも失っており、単なる空洞と化している。
ドアの前で一旦、立ち止まってみせたあの慎重さとは対照的な大胆さで、影は部屋の中を歩き回り始めた。その挙動は室内に隠されている何かを探すようでもあったが、特別な目的もなくただ単に時間を潰しているようでもあった。
不気味な舞いを披露していた影は、不意に窓の前で足を止めた。腰を屈め、閉めきられたカーテンの縁に触れる。その指が何かをかすめ取った。
体を起こした影が、闇の中で色彩を帯び始めた。今までおぼろげだった輪郭が実線で結ばれ、その全体像が明瞭な姿を描く。もはやそれは透明ではなく、影ですらなかった。
頭部を三角巾に似た形状の鎧で包み、表情を白に近い銀色の仮面で覆った戦士が、薄暗い空間に姿を現した。首には二股のマフラーが巻かれ、背中を這っている。その胴体にはベルトが巻かれ、バックル部分には黒い長方形の板がはめこまれていた。
戦士は薄紅色に光る双眸で、自分の指をじっと見つめている。その視線の先には、1ミリ程度のガラス片があった。
やがて人差し指の腹に載ったそれを親指で弾き飛ばすと、戦士は窓の方に顔を向け直した。その表情は何も映し出さず、黙々とカーテンを睨んでいる。
そのうち、そうしていることにも飽きたかのように戦士はローブを翻すと、窓に背を向け、入ってきたドアに引き返していった。そしてその姿は闇に溶け、色を失い、再び透明の影と化して誰もいない廊下に消えていくのだった。
2010年8月17日
死人の話 3
時刻は18時を過ぎていたが、社内のロビーはいまだに大勢の社員でごった返していた。
日本でも指折りの大企業、『黒城グループ』の本社は3棟の高層ビルから成り立っている。それぞれが三角形の頂点を担うような位置関係で建つビルは、分野や機能によってその役割を分担している。その事実だけでも、黒城グループの規模の大きさを物語るには充分だった。
広く清潔なロビーを、真嶋は早足で進んでいた。その表情は険しく、眉間には深い皺が刻まれている。真嶋が歩いているのは、3棟の中で最も中心的な役割を担っている、グループの玄関とも呼ぶべきビルの内部だった。当然、そこで働く社員は他のビルで働いている人間たちよりも、立場的に位の高い者が多い。
「専務、お久しぶりです」
「お疲れ様です、真嶋専務。今日戻られたのですか?」
「こんばんは。お元気そうで、何よりです。僭越ながらお尋ねしますが……あのプロジェクトの件、了承していただけましたでしょうか?」
自分にかけられる社員たちの猫なで声を、真嶋は歩を緩めることさえせず、しかめ面のまま無視していく。振り払っても追いすがり、必死に会話を試みようとしてくる者もいたが、それも真嶋がひと睨みすると萎縮し、それ以上ついてくることはなかった。
重いため息を吐き、エレベーターに乗り込む。エレベーター内でも真嶋に話しかけてくる社員は多く、その度にうんざりしたが、真嶋が話に取り合うつもりがないことを知ると、やがて皆一様にそそくさと離れていった。
1人減り2人減り、真嶋が目的とする階層にたどり着く頃には、エレベーターの中には他に誰もいなくなっていた。滑らかに開かれたドアを潜り抜け、外に足を踏み出す。真っ赤な絨毯の敷かれた廊下を歩き、その果てにある両開きのドアの前で立ち止まると、ノックをすることすらせず、いきなり開け放った。
そこは会議室だった。室内の中央には長机が、細長い長方形の形に並べられている。大学の講義室で使われるような、壁にはめこまれた巨大なホワイトボードには経済の専門用語がいくつも書き殴られている。
部屋の入り口から最も遠い、長方形の短い方の辺に腰掛けているのは、赤茶けたスーツに身を包んだ天枷紅一郎だ。色の入った眼鏡の向こうにある目つきは、獲物を前にした猛禽のように鋭い。その真っ白に染まった頭は霞を食べて生きる仙人を思わせた。
「……次はノックをしたほうがいいな。上に立つものとして、部下に示しがつかないだろ。この会社を無秩序な場にするつもりかな、真嶋専務?」
「こんな場所にわざわざ僕だけ呼び出したのは、マナー講習をするためだったのか? それなら間に合ってる。帰らせてもらうが」
「まさか。そんなことを今更始めても、何の意味もない。まぁ、それほど時間はかからない。とりあえず座れ」
自分の前に広げられたバインダー・ファイルを片付けながら、天枷は席を促す。真嶋はもやついたものを胸に感じながらも、手近にあった椅子に腰掛けた。天枷と正面で向き合う席だ。椅子を引き、それから背もたれに大きく寄りかかった。傍から見れば、随分とふてぶてしい格好だった。
「まず、話の前に訂正してもらおう天枷。僕は、真嶋じゃない」
そんな力強い真嶋の言葉に、天枷は信じられないことを聞いたとでも言うように両眉を上げた。
「なんと。おかしな事を言うようになったな。お前が真嶋であることは、そのIDで社に入れたことが他の何よりも証明してるじゃないか」
真嶋は自分の首に下がったIDカードを手に取り、忌々しい思いで見つめた。そのカードに貼られた写真と記された名前は、間違いなく真嶋のものだった。
「お前は俺と同じ、黒城四天王の一角だろう。そんなことも忘れてしまったのか?」
口元に笑みを宿しながら、天枷は真嶋を揶揄する。真嶋は目を見開くと、机を握り拳で力一杯に叩いた。
「その名前を出すのを止めろ!」
頭の奥底に封じておきたかった記憶が、鮮明に蘇り、それと共にかつて味わった屈辱が津波のように押し寄せてくる。それは怒りと表現するには、あまりに生々しく、そして凶悪な感情だった。名前を持たない自らの感情を前に、真嶋は困惑し、そして打ち震えた。
「僕はあいつの部下ではない!」
席を立ち、怒鳴り声を発する。広い部屋の中にその声は、静々と響き渡った。
「確かに、一理ある」
真嶋の激昂にも全く動じる素振りをみせず、天枷は両肘を机に付くと、組み合わせた手の甲に顎を載せた。
「今の社長、黒城清次は信用できない。まともに仕事もせず、身分と立場を利用して女性を囲っているとの噂だ。俺が慕い、この人生を捧げることを誓ったのは。あんな男ではない。俺がこの企業を世界に通じるまで成長させた創立者、永久のカリスマ、黒城和弥だ」
天枷の声は済み入るようで、そこには追慕の感情が少なからず含まれていた。真嶋は肩でしていた息を深呼吸で整えると、席に座り、それから荒れ狂う感情を持て余すかのように、何度も舌打ちをした。
「昨日も説明しただろうが。真嶋という男はな、半年前に死んだのさ! 式原という男に連れ去られて殺されたんだ。僕はキャンサーだ!」
「なるほど、半年前」
天枷はにやりと、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ということはお前はその間、真嶋のふりをして――いや、そうじゃない。真嶋として生きてきたと、そういうことになるな」
「なにが言いたい」
含みのあるその口調に、真嶋は奥歯を軋ませ、眉を寄せた。
「いや、疑問に思っただけだ。半年もの間、我々を欺いてこの会社に出入りしていたような男が、どんな心変わりだ。なぜ今更になって己の存在意義を問う? そこにどれだけの意味がある?」
「それは!」
声を荒らげてはみたものの、釈明の言葉など用意しておらず、すぐに押し黙る。自分の心の急激な変化に、真嶋自身が他の誰よりも困惑していた。しばらく前から、見知らぬ自分が胸の内で少しずつ成長を始めているような、奇妙な感覚に囚われている。真嶋は自らの心に芽吹くその気持ちの正体を見抜けずにいる。
決まりの悪さを覚え、真嶋は机に視線を向けた。怒りとは違う、言うなれば焦りに近い感情が冷静さを次から次へと啄ばんでいく。
「真嶋はすでに死んでいる。お前はその死体を使って生み出された怪人。なるほど。理解しているよ。お前は真嶋ではない。だが俺は、黄金の鳥を崇める同胞としてお前を迎え入れようと思っている」
「……僕に、真嶋として生きろということか。これまでと同じように」
事も無げに言う天枷の口元を真嶋は見つめた。その薄い唇が嘘を吐いているのかどうかを見抜くことは、とても困難なことのように思えた。
「お前にとってもそのほうが都合は良いはずだ。それに真嶋の記憶と姿をもったお前は、外から見れば一寸も違わずあの男だよ。お前がどれだけ否定しようとも、お前が偽者だとは誰も信じようとはしないだろうな」
真嶋は目を見開いた。まるで背中に電流を流されたかのような衝撃が、全身を伝う。呼吸が詰まり、声を出すことすらできなかった。天枷の放ったその一言は、真嶋をひどく動揺させた。真嶋自身、なぜここまで自分が心をかき乱されているのか、心底不思議に感じる。だが事実、その心臓は早鐘を打ち、声音は震えを帯びている。
「さて、話はここまでだ」
天枷は話を打ち切ると、席を立った。クリアファイルをわきに抱え、長机を大きく迂回して、ドアに向かう。彼の迫りくる足音を耳にしながらも、真嶋は顔を上げられずにいた。机に広げた掌に、じわりと汗が浮かぶ。
「黒城グループ繁栄、そして黄金の鳥のため、これからの活躍に注目している。俺の期待を裏切るような真似だけはするなよ」
真嶋の横を通り過ぎていく最中、天枷はそう呟いた。真嶋が顔を上げたのと、背後のドアが小気味のいい音をたてて閉められたのは、ほとんど同時だった。
「……くそが!」
会議室に一人取り残された真嶋は煮え切らない思いを胸に、机を拳で打ち据えた。衝撃音が室内に爆ぜ、微かな振動が机上を伝染していく。
机に爪を立て、ホワイトボードの方を憎憎しげに睨みつける真嶋の脳裏には、崩落するホテルの中でこちらに背を向けて立つ、銀色の戦士の姿が過ぎっていた。
仮面の話 1
誰かが気を利かせたのだろう。周囲で窓にブラインドの敷かれる音が聞こえた。広々とした食堂にわずかながら影が落ちる。外から聞こえる学生の騒ぎ声も幾分か遠ざかったようだ。夏特有の跳ね回るような活気が、大学のキャンパス全体には満ちている。
窓際の席で、分厚い本を傍らにノートと向き合っていた瀬野原雅人は、安堵の息とともに顔を上げた。握っていたシャーペンを転がし、シルバーフレームの眼鏡を外す。眉間を二本の指でぐっと押すと、疲労の澱のようなものが鼻筋から滲み出てくるようだった。
眼鏡は講義中や読書中など、意識して目を使うときだけかけるようにしていた。そのため裸眼の時と比べて、眼鏡を使用しているとどうしても疲労を強く感じてしまう。彼が眼鏡を常用しない理由には、日常的にかけるほど視力が落ちているわけではないということももちろんあったが、それ以上に、自分の顔に特徴や個性を付与するものを置きたくない、という気持ちのほうがより彼の中で勝っていた。
窓の外の景色はその仔細に至るまで悉く藍色を含んでいる。そうと思えば羊雲の散らばった空は橙を帯びていて、その二色のコントラストは実に芸術的な優美さを醸し出していた。そんな夏と秋の過渡期にある空をしばらく眺め、それから雅人は肩関節を鳴らした。
腕時計を見る。午後7時前だった。2時間ほど前に軽食をとったが、すでに胃袋の中は空だった。先ほどから低い音が内臓を震わせている。雅人はゆっくり首を回し、肩を小さく上下に揺らした。また重いため息を吐きながら、ノートと本を閉じる。
眼鏡をケースに入れ、シャーペンを布製の筆箱に収める。それらとノート、さらに分厚い本をまとめてトートバックに突っ込むと、それだけで帰り支度は整った。雅人は机上に散らばった消しゴムのカスを掌でかき集め、床に落としてから席を立った。窓際の席には雅人を除けば、なにやら難しそうな参考書を広げ、そこにマーカーペンで線を引いている女子学生以外に人の姿はなかった。椅子をテーブルの下に引っ込め、振り返る。途端に笑い声の塊が雅人の鼓膜に衝突した。
食堂内の人影はまばらだったが、その反面、やけに騒々しかった。ほとんどの席は使用されておらず、まるで寂れたレストランのような景観だったが、男女混同のグループが一組、中央付近のエリアを陣取り、周囲の目も憚らず先ほどから大声でふざけあっていた。
どうやらどこかのサークルの一団らしい。皆同じ、黒色のTシャツを着ていた。その声の大きさといったら食堂の隅々まで響き渡り、反響して、空気中を跳ね回っているかのようだった。彼らは皆、今という瞬間を心の底より楽しんでいるように見えた。そこには遠慮や自重、未来への憂いや過去への悔恨の情などは一切存在していなかった。彼らは自分を愛し、仲間を愛し、今、仲間とすごしているこの時間を愛しきっている。そんな気がした。それは雅人にとってはどれも理解に程遠いことだった。
雅人は厨房に立つ中年の女性に軽く会釈をすると、その一団を横目に食堂を出た。人生を謳歌しているだろう、彼らの姿はとても輝いて見える。だが彼らに憧れを抱いたり、または自分の境遇を呪ったりするような気持ちは、雅人の中に塵一つなかった。彼らが日向を生きるものなら、自分は誰からも褒められず、しかし疎まれず、日陰でひっそりと人生を終えるべき人間なのだという自覚があった。脚光を浴びる役割は、自分にそぐわない。舞台で例えるなら、雅人は役者たちの演技を最後列で見つめる観客の一人でありたかった。
廊下や玄関にも数人の学生はいたが、それでも食堂の中よりは大分静かだった。むしろ食堂内で起こった爆笑や蛮声が玄関まで漏れ聞こえてきて、耳障りなくらいだった。
大学は今夏休みの真っ只中であり、補講のある講義を選択しているか、あるいはサークル活動に参加しているか、登校しているのはそのどちらかに含まれる学生くらいのものだった。雅人は無論、前者だ。今日は朝から学校に来て講義をいくつか受け、終了後はこのまま帰るのもつまらないと思い、軽食を頬張りながら食堂でレポートの草案をまとめていたのだった。雅人はひとつのことに集中すると、時間を忘れて熱中してしまう性格だった。今日もブラインドを閉める音さえなければ、ひょっとしたら大学が閉まる時間まで居座っていたかもしれない。
丸い玄関の隅で友達同士で群れを成している学生たちのすぐ側を横切り、早足で売店に向かう。雅人の通う私立重林経済大学の中には学生たちの間で売店と称される、全国チェーンを展開しているコンビニが一軒入っていた。玄関から近いため、利用する人も多い。
自動ドアをくぐって店内に入ると、売店は意外に込み合っていた。レジにはちょっとした行列が連なり、ペットボトル類の置いてあるショーケースの傍では女子学生が騒いでいる。クーラーが効いているため、ひどく空気は冷え切っていた。
雅人はざっと店内を眺めたあとで、雑誌コーナーに足を向けた。手を彷徨わせ、やがて近くにあった週刊の漫画雑誌を引っ掴む。特に追っている漫画はなかったが、眺めているだけでも暇つぶしにはなった。
10分ほど立ち読みをし、雑誌を閉じると、背後に男が立っていることに気づいた。髪を茶に染めた、たれ目の青年だった。雅人は彼の顔を知っていた。だが名前は見当もつかなかった。今朝の講義で、入り口付近の席に座っているのを見かけただけだったからだ。
彼は飴やガムなどが陳列されている棚の前にいた。レジに背を向けている。しばらく品定めをしたあとで、その手は上段の棚にある緑色のパッケージに伸びた。
次の瞬間、ガムを掠め取ったその手は、男の履いているカーゴパンツのポケットの中に消えた。彼は素知らぬ顔でポケットから手を抜き取ると、そのまま出口の方角に向かっていった。
今、雅人の目の前で起きたそのあまりに鮮やかな出来事は、他に間違えようがないほど明らかに、万引きという犯罪行為だった。男はレジに一切目を向けることなく、マスカット味のガムを得た対価を支払うこともせず、自動ドアをくぐって去っていった。その姿には罪悪感も、そして愉悦を感じている様子もなかった。その平然とした態度は、店の売り物を黙って持っていくことが世界の常識であると主張しているかのようだった。
男の背中に店員が、ありがとうございました、と張りのある挨拶を告げる。雅人は無言のまま、ガラス越しに遠ざかっていく男と、忙しそうにレジを打つ店員とを見比べた。しばらくそうしてから入り口の側に置かれた買い物かごを手に取り、弁当コーナーに向かった。
店員のことを不憫には思ったが、彼のことを追いかけて糾弾し、その罪悪を問う理由は雅人にはなかった。他所は他所、うちはうち。昔、生みの母親からよく言い聞かされたことだ。あの両親のことはあまり覚えていないし、極力思い出したくもないのだが、彼女のその言葉だけは魂に深々と掘り込まれ、疎ましいほどに彼の耳に残っていた。
かごの中におにぎりを3つとインスタントの味噌汁を放り込むと、空いたときを見計らってレジに並んだ。最近は3日に1度くらいのペースでコンビニのおにぎりが恋しくなる。元から大食らいではないので、夕食はそれだけで十分だった。今日は1時間目から講義がみっちり組まれており、ひどく疲れていた。自炊をする気にもならないのでちょうど良い。
買い物を終え、店を出る。ちょうどサークル活動が終わる時間に重なったのか、玄関前は帰宅する学生で溢れかえっていた。おにぎりの入ったビニール袋を揺らしながら、雅人はその騒々しさの中を突っ切っていく。途中、柱の陰から飛び出してきた男と肩がぶつかったが、振り返ることさえせず、謝罪もおざなりに黙々と玄関に足を運んだ。人がたくさんいる場所は嫌いだった。一刻も早くこの場所から脱したい、という気持ちが足を自然に逸らせていく。
外に出ると、粘つくような熱気が体を包んだ。真夏の突き抜けるような暑さではなく、いつの間にか、わずかに秋の香りを含んだ残暑らしい暑さに空気の色が変わっていた。その疲れを助長するかのような気候に急に体が重たくなり、一瞬、足取りも鈍る。だが、大きく深呼吸をすることで背にのしかかる倦怠感を振り払い、再び足を動かす。新鮮な空気を肺に取り込むと、少しだけ不快感が引いていった。
「お、瀬野原じゃん。今帰り?」
聞き慣れた声に名前を呼ばれ、雅人は足を止めた。振り返ると、玄関の脇に設けられた喫煙スペースで手を振る、黒髪の男の姿を見つけることができた。男は指に挟んでいた吸いかけの煙草を灰皿に押し付けると、雅人に近づいてきた。
「……猪澤君」
雅人は彼の名を呼んだ。表情全体に人当たりのいい微笑を称えた猪澤司は、雅人の手に下がったトートバッグに視線をやり、尋ねてきた。
「まだ学校にいたのか。レポート?」
「ああ。食堂で書いてたんだ。本文を書くのはパソコンだけど、構想を練るのはノートのほうが性に合ってるからね」
「そうかぁ。すげーな。俺なんか、一夜漬けだよ、一夜漬け。筆の向くまま、パソコンでバーって書いちゃう」
「それはそれですごいと思うけど。俺にはとてもできないよ。アドリブとか、そういうの苦手なんだ」
雅人が一夜漬けをアドリブ、と表現したことに司は大きな笑い声をあげた。その爽やかな声は、夕暮れの空に弾けて響き渡った。
司は雅人と同学年の学生だった。専攻が同じなので、自然、取る講義も重なることが多い。そのうちよく会話をするようになった。
耳に被さるくらい程度に伸ばした黒髪と鼻筋の通った顔には男らしい清潔感が漂っている。大きな瞳には力強い輝きが宿り、その相貌は男である雅人から見ても非常に美しく、整っていた。性格は人懐っこく、明朗で、裏表もない。その上話術に秀で、話題も豊富なため、一緒にいてまったく飽きを感じなかった。そのため同姓からも異性からも評判が良く、友達も多い。こうして率先して雅人に話しかけてくる学生も、彼くらいのものだった。
喫煙所では司の友人たちが一斉にこちらに視線を向けている。雅人の動向を窺っているようだ。その中には司の恋人である女性の姿もあった。白のポロシャツに丈の長いスカートを履いた彼女がこの大学の4年生であることは、以前司から聞かされていた。今年1年生になったばかりの司と、最終学年に属する女性とがどういう巡り合わせで出会ったのか、雅人にはあずかり知らぬことなのであるが、改めて尋ねるほど興味がないのも事実だった。その女性は突然道行く男に話しかけ始めた彼氏の行動を、どこかおどおどした態度で見守っていた。
「そういや瀬野原、今日、暇?」
だが司は背後で見守る仲間たちの態度に気づくこともなく、これが本題だと言わんばかりに話を切り出した。
「今からさ、亡霊の屋敷、見に行こうと思ってるんだけど。一緒にいかね?」
笑顔でわずかに首を傾ぐ司に、雅人は眉を寄せて応じる。
亡霊の屋敷。それは近頃、週刊誌で取り上げ、人々の間で騒がれている場所のことだ。彼の発した言葉の意味を雅人は素早く察してはいたが、一応、念のために聞き返しておいた。
「亡霊の家、って、あの死体が見つかった?」
「そうだよ。それ以外にあるかよ」
司は軽やかに笑い飛ばす。他の人がすれば、特に雅人が同じことをすれば、それは嫌味を含めた言葉に聞こえてしまうだろうが、司の口から吐き出されるとなぜか爽やかな響きさえ伴うのだから奇妙なものだった。
数週間前、都内にある寂れた洋館の中で11の凍結死体が発見された。死体はどれもガラスケースの中に収納されており、そのいずれも体の一部が切り取られていたらしい。それだけで人々に衝撃を与えるには十分すぎるほど残酷で猟奇的な事件なのであるが、警察の捜査によって判明したある事実が、さらに社会を恐怖に陥れた。
死体が発見される一月前から都内で、女性が次々と行方不明になる事件が起きていた。被害者はまさに老若問わず、3歳児から齢80を越える老婆までいたらしいのだが、洋館で氷漬けになって見つかった亡骸は全て、信じられないことに、この一ヶ月以内で行方不明になってしまい、警察が捜索していた女性たちのものだった。
そして最近――この事件について、週刊誌やネット上ではさらにある事実が加えられた。
出自は全くの不明であるし、真実味も不確かなのであるが、死体の見つかったあの洋館が、かつて大量殺人を行った男が所有していた建物であるという話が蔓延しているのだった。
その殺人鬼の名前は、式原明。3年前に彼は逮捕され、独房の中で自殺をしたと当時の報道は伝えている。人の命を次々と奪い去った男の亡霊が、女性を狩っている。そんな縁起でもない都市伝説が今、人々の間で噂されていた。
だが、これらの事件の真相を把握している雅人にとって、妄想に限りなく近い記事を書き連ねるマスコミも、それに踊らされる司のような人々もひたすらに滑稽でしかなかった。
彼らは知らない。式原という男は亡霊でも何でもなく、生きた人間であり、彼が何人もの人間を誘拐し、残酷な死に追いやっているということを。そして彼らは信じない。人間の能力をはるかに超越した異形、怪人と呼ばれる存在が密かに跋扈し、社会を恐怖に陥れているということを。
司たちがこれから行こうとしている洋館にも、雅人はすでに幾度となく侵入していた。もはや建物の中は警察の手が余すことなく入り、ほとんど空洞になってしまっていることも把握している。だから今更、あの場所に行こうという気にはなれなかった。それにあんな危なげな場所に、金で依頼されたわけでもないのに不用意に近づくなど、まっぴらごめんだった。
「みんなも一緒に?」
雅人は司の背後を一瞥した。それだけで彼らは警戒心を露にする。だが司の表情には陰がなく、雅人とのやり取りにも何の含みもみられなかった。
「ま、みんなで行けば怖くないっていうかさ。それに一人で行くより、みんなで行ったほうが楽しいだろ? な、瀬野原もどう?」
雅人は冷め切った思いで、彼の快い提案を耳にしていた。
人の繋がりというものが、雅人には理解できなかった。
家族、友達、恋人。
その絆を、係わり合いを、世間や周囲の人間たちは声を合わせて主張し、推奨する。友達は人生の宝だと称え、家族の絆に涙し、恋人を早く作れと脅す。だが雅人にとって、それらの繋がりはただただ不気味なものでしかなく、そして信頼に値しないものだった。
家族だろうが、友達だろうが、恋人だろうが、結局は他人でしかない。互いの心を覗くことなどできず、その絆とやらもまた目に見ることはできないものだ。そんな不確かなものをなぜ、みんな恐れることもなく崇拝することができるのか、雅人には不思議でかなわなかった。
物心ついたときから、雅人は人の悪意に触れていた。だから雅人には、すべての人間は悪意の権化としか思えなかった。自分のそんな思想が屈折し、捩れていることは自覚している。だが、それを正そうとは思わない。誰も愛することをせず、誰に愛されることもなく、生きて死を迎えていく。そんな人生が自分には似合っていると雅人は本能的に察知しており、最近ではそんな生き様に焦がれてすらいた。
だが、そんな雅人の思考にふと、黒髪の少女の姿が過ぎる。雅人は瞬きを意識して数度行うことで、そのイメージを振り払った。焦りを呑み込み、早鐘を打つ心臓を胸に手を置くことで宥めようとした。
「……僕はいいや。ごめん。また次の機会に誘ってくれる?」
雅人の言葉に、司ははっきりと寂しげな表情を浮かべた。眉を曲げ、肩を落としてみせる。雅人の目にそれらの行動はわざとらしく映った。
「そっか、残念。じゃあまたなんか合ったら誘うよ。次こそは来てくれよな?」
「うん。じゃあ気をつけて。そうだね。また今度遊ぼう」
司に手を軽くあげて、雅人は踵を返した。自分の吐いた言葉の嘘くささに思わず、心の中で苦笑する。司にはこれまで何度か遊びの誘いを受けたが、雅人は何かと理由をつけて、それらを全て断ってきた。これからもおそらく、彼と遊ぶことなどないに違いない。
歩き出しながら背後を一瞥する。雅人と別れた司を見て、彼の友人たちが安堵の表情を浮かべたような気がしたのは、きっと雅人の見間違いではないだろうと思う。ただ司の年上の恋人だけは、何かを憂うような表情を浮かべ、こちらを見つめているようだったが、それこそ自分の気のせいであると、雅人は判断した。
校門を出て、歩道を歩く。町は残り少ない夏休みを満喫しようとしているのか、もう夕飯時だというのに小学生や中学生の姿をよく見かけることができた。スクランブル交差点に敷かれた横断歩道は、仕事帰りのサラリーマンでごった返している。ガードレール越しの車道は渋滞し、長蛇の列を成していた。
馴染みのあるスーパー・マーケットの前に、焼き鳥の屋台が来ていた。灰色の煙とともに、甘いタレの匂いが漂ってきて、なんとも胃袋を刺激する。屋台の周りに人はなく、捻ったタオルをはちまきのように巻いた店員が、汗で額を光らせながら必死に団扇を扇いでいる。
そのあまりに香ばしい誘いに負け、もう一品くらい夕飯に加えても罰は当たらないだろうと思いながら屋台に足を向ける。
その時、ジーンズのポケットに入れておいた携帯電話が突然、震えを帯びた。我に返り、慌ててポケットの中を探る。取り出すと、電話の着信を知らせるランプが青く点滅していた。
その蓋を開く前から、すでにそれが誰からの電話なのか、雅人は分かっていた。雅人の携帯電話に連絡をしてくる者など、一人しかいない。
ディスプレイを見ると、そこにはやはり予想した通りの人物の名前が表示されていた。雅人は静かに息を吸い込むと、少しだけ迷ってから、通話ボタンを親指で押した。電話を耳に当て、「もしもし」と呟く。受話口の向こうから聞こえてきたのは、ボイスチェンジャーを通したかのような、ひどく甲高い、無機質な声だった。
仮面の話 2
その薄暗い部屋は雅人の住んでいるアパートの地下にあった。
まるで植物の蔦のように色とりどりのコードが床に伸びているため、非常に足元が頼りない。中央に置かれた3つの大きなテーブルに、室内のスペースはほとんど取られていた。テーブルの上にはパソコンや使い方の分からない機器が所狭しと並べられており、床に張り巡らされたコードはそれらに使用されているものらしかった。
天井には粗末な傘を被った白熱電球がいくつかぶら下がっている。3日前に訪れたときはなかったので、昨日今日の間に設置されたものだろう。それまでは部屋を照らす明かりは何もなく、懐中電灯を使って足元を探らなければならなかったから、これでも大分室内の環境は快適になっているのだろう。
それでも視界が覚束ないことに変わりはない。白熱電球の仄かな明かりでは部屋の中央部分をぼんやりと照らすことしか叶わず、隅には濃い色の闇が寄せ集まっていた。
「おめでとう。ようやく奴らに、出会えたらしいね」
先ほど電話越しに聞いたとの同じ、機械的な音声で、ゴンザレスがそんなことを言った。ゴンザレスは相変わらず、汚い狼の着ぐるみで全身を覆っており、薄暗い中で見ると、まるでお化け屋敷にある凝った仕掛けのようだった。あまりにアンバランスなその大柄な体で丸型のパイプ椅子に腰掛けている様は、見るものを何となく不安にさせる。
雅人がこの部屋に到着すると、ゴンザレスは雅人よりも先に来ていた狩沢洋二と会話をしていた。狩沢はテーブルの角の方に腰掛け、岩のように動かない表情を向けて話を聞いている。その筋肉で縁取られた二の腕は丸太のように太く、雅人はいつも目にするたびに圧倒される。がっしりとした体格と長身も合わさって、本当に自分と同じ人間なのか、と疑いたくもなった。
「どうだい。奴らの力は。1週間前とは、違っていたのかな?」
ゴンザレスの声音には脅迫めいたものが宿っている。その表情を語らない着ぐるみの顔が、うっすらと陰を帯び、狩沢を威圧的に睨んでいるようだった。
だが、狩沢はまったく尻込みをしない。平然とした無表情でゴンザレスの顔をしばらく、息を詰めて見つめると、数分したあとにようやく口を開いた。
「今のガンディは、左右のバランスが悪すぎる」
抑揚のない声で、彼は自分が新たに手にした装甲服をそう評した。イミシャド1号機、“ガンディ”の所有者が、1週間前に戦死した藍沢秋護から、狩沢のもとに移ったことをすでに雅人は知らされていた。しかしもともと7年前においてガンディは狩沢が使用していた装甲服だったから、この場合、元の持ち主に戻ったと表現した方が正しいのかもしれない。
「それに装着時間があまりにも短すぎる。あれでは実戦では使い物にならない」
狩沢は筋肉ではち切れそうな腕を組み、その頑なに変化しない顔の中で唯一、口元だけを淡々と動かしていく。それは雅人にベルトコンベアで運ばれてくる部品を組み上げていくロボットを想像させた。ガンディの所有者からの遠慮のない苦情に、ゴンザレスはううん、と苦しげなうめき声を漏らした。
「苦情いっぱい夢いっぱいだね。ゴン太くん、いっぱいがんばったんだけどね。やっぱり、限界ってものがあるよね。ガンディは1週間前まで、75パーセントが塵だったんだから。そこから、今の状態に持ってくる、それだけでも、いっぱい苦労したんだよ」
「……御託はいい。次のときまでに改善させておけ。今のままでは絶望的だ」
言い訳するゴンザレスを一蹴し、狩沢は腰を上げた。テーブルの上に転がっていたルービックキューブを、巨大な手で鷲づかみにする。ゴンザレスはため息を零した。
「ずいぶん、厳しいんだね。そうかぁ、やっぱりあの力が必要かな。ガンディを変えた、あの、黄金の力が」
正面に置かれたノートパソコンの方を、ゴンザレスは見た。雅人もまたそちらに顔を向ける。煌々と光を放つパソコンのディスプレイには『3』と『5』の文字が縦に並び、損も横にそれぞれ3本の棒グラフが伸びていた。
「今のところ、フェンリルに変化はないんだけどね。彼は黒城レイ君と一緒にいるから、何かあれば真っ先に変化を促すはず、なんだけど」
画面を見つめながら、ゴンザレスは独り言を口にするかのようにぼやく。雅人は彼のその話に疑問を覚えた。1歩前に足を踏み出すと、意を決してその会話に口を挟んだ。
「でも、なんでフェンリルを待つ必要がある? 狩沢さんが直接、あの娘に接触した方が早いんじゃないの?」
突然会話に参加をした雅人に対して、ゴンザレスも狩沢も困惑をみせることはなかった。ゴンザレスはその巨大な頭を、ゆらりと、大きく傾げた。
「それは、できないよ。黒城レイくんは怒ると怖いことで、有名だしね。それに、彼女はゴン太くんのことを許さないだろうし。ゴン太くんはね、怒るのも、怒られるのも、どっちも嫌いなんだよ。だからこうやって、遠くから見守っているんだ」
盗聴器と発信機を使ってか、と雅人は彼の話に心の中で一言補足する。満足げに上体を起こすゴンザレスの前で、狩沢は興味なさそうに踵を返した。その手にはしっかりとルービックキューブが握られている。
「……何かまた情報があれば、連絡してくれ。ガンディはそれまでお前に預けておく」
どっしりと地を踏みしめるような声で呟くと、狩沢は狩沢は雅人の横を通り抜け、この部屋に唯一存在するドアに向かうと、ノブを捻り、それを開けて外に出て行ってしまった。
彼の去っていった鉄製のドアを、雅人はしばらくの間、呆然と見つめる。まるで市街地を通過する嵐のような人だなと、狩沢のことを思った。そんな彼のことを、雅人はけして嫌いではない。
ようやく我に返ったのは、ゴンザレスに話しかけられたからだった。雅人はきょろきょろと周囲に視線を巡らせ、室内に他の人がいないことを確認すると、それから前に向き直った。
「最近この町にね、死神が現れるらしいんだよ」
片目の外れた顔で雅人を見据え、ゴンザレスはそんなことを言った。死神なんてものが実在するとしたら、それは彼自身ではないのかと素早く指摘したくなるが、その気持ちは喉の奥に呑み込んでおく。
「死神?」
「うん。死神はね、人の死んだ家に現れるんだ。姿は白髪の男らしいよ。とはいっても、ゴン太くんが直接この、二つのお目目でみたわけじゃないんだけどね」
彼の話す“死神”が何かの比喩なのか、それとも実際のものなのか判断がつかず、雅人は押し黙るしかない。先ほどは狩沢が間にいてくれたおかげで間接的に話をすることもできたが、この男と2人きりで、しかも正面切って会話をするのはやはり苦手だった。
「かといって、彼らが自分の殺した人間たちの家に戻ってくるとは、思えないんだよね。彼らはいうなれば病原菌みたいなものでね。不特定に、無選別に、無慈悲に、悪意を振りかざしてくる。犯行現場に戻ってきちゃう、一般論的な愚か者とは、違うんだよ。だからさ、素敵なんだよ。ゴン太くんは、大好きなのさ」
ぱきり、とゴンザレスの尻のあたりから破損音が聞こえてきた。ゴンザレスの体重にいよいよ椅子が悲鳴をあげ始めたのかもしれない。雅人はその叫びに心を封じ、耳を塞いで、ゴンザレスの語る奇妙な話の内容に思考を傾ける。彼の言葉は始めこそ、実に散漫としていて、加えてひどく抽象的なため、全く理解することができなかったのだが、先を聞いていくうち、次第に雅人は一体ゴンザレスが何を言わんとしているのか把握できてきた。
「あのさ。それはもしかして、式原のことを言ってんの?」
そんな雅人の発した解答には答えることなく、ゴンザレスは椅子から立ち上がった。椅子の足がわずかに浮き、次の瞬間にはけたたましい音をたててそれは倒れた。ゴンザレスはディスプレイに棒グラフの並んでいた、例のパソコンに近づくとそのキーボードの上に手を載せ、操作を始める。そのアオギリの葉のような大きな手は細かい作業を行うには不得手なはずなのだが、ゴンザレスはそんな懸念を全く感じさせない器用さで、文字を打ち込み、エンターキーを押している。
「瀬野原雅人くん。君は、オウガとフェンリルに仕掛けた発信機のこと、知ってるよね?」
ディスプレイに顔を向けたまま、ゴンザレスは雅人に尋ねてきた。薄闇の中、パソコンから発せられる強い光に浮かぶ着ぐるみの顔は、陰影がはっきりと彫りこまれ、不気味な迫力に満ちていた。影の中で笑うほつれた狼の表情に、雅人は背筋に寒気が走るのを感じた。
「まぁ、それは」
雅人は遅れて頷いた。その2つのプレートに、盗聴器としての機能も兼ね揃えた小型の発信器が仕掛けられているということは、大分前から聞かされて知っていた。小指の爪よりも小さく、ラミネート紙よりも薄いその機械は肉眼ではまず発見できないだろう。それでいて大きさの割に頑丈で、性能も高く、これまでも様々な情報をマスカレイダーズに与えてきた。
オウガを所持しているのは坂井直也という20代の男性で、マスカレイダーズと黄金の鳥の組織のどちらにも属していない、いわば中立の戦士だった。しかし行動力は旺盛で、1週間前、黄金の鳥の組織の隠れ家を暴いてくれたのも彼であるとの話を聞いていた。
フェンリルを所持しているのは男子高校生で、名前は天村佑といった。一応、この組織のメンバーだったらしいのだが、雅人は一度も彼と顔を合わせたことがない。現在は以前より知り合いであった、黒城レイと行動を共にしているらしかった。
ゴンザレスの操作するパソコンのディスプレイが、別の画面に切り替わった。これを見ろ、と言わんばかりにゴンザレスが横に体を避けたので、おずおずとディスプレイを覗き込むと、そこにはここ近辺の地図が表示されていた。雅人の知っている店や道路の名前もある。ゴンザレスはその着ぐるみの腕をゆらりと持ち上げると、その指先で地図の上の方を指した。そこには個人経営らしい、聞き慣れぬ名称の喫茶店があった。
「実は今日のお昼過ぎに、この場所で、オウガが怪人と戦闘になったらしいんだ」
「こんな場所で? しかも昼間に?」
雅人は怪訝な顔を作った。怪人はこれまで人気の少ない場所や、夜などを狙って行動を起こす傾向にあったが、今回は街の中、しかも昼過ぎだという。しかも怪人はここ1週間ほど、音沙汰のない状況が続いていた。なぜここに来て姿を見せ始めたのか、そういう意味でも非常に不可解な出来事ではあった。
「うん。まさかだよね。ゴン太くんも、見逃しちゃったよ。この店に向かわせてみたんだけどね、後の祭りってやつだったよ。店の中には、もう何もなかったんだよ」
ゴンザレスは着ぐるみの内側で嘆息する。だがすぐに気を取り直すように顔をあげると、腕を地図の下方に向かわせていった。
「それでオウガはね、そのあと、コンビニに行ったらしいんだよ。お買い物でも、したくなったのかな。彼の盗聴器は、あまり調子がよくなくてね。彼の性格を表しているのかもね」
次に彼は指し示したのは、全国チェーンのコンビニだった。国道沿いにある店で、この時間はさぞ賑わっていただろうと雅人は想像する。怪人と交戦を果たしたあと、なぜ坂井直也はこんな人通りの多い場所に直行したのか、謎は尽きなかった。
「さらに問題は、その次なんだよ」
ゴンザレスはそう前置きをして、さらに腕を動かした。コンビニよりさらに南側にある建物だった。何も名称が記されていないところをみると、単なる民家らしい。雅人はゴンザレスの顔を見た。
「ここは?」
「誰かのおうちさ。誰のおうちかは、知らないけどね。でもね、ここで坂井直也くんは面白いことを話しているんだ」
ゴンザレスはディスプレイから指を離すと、雅人の方に顔を向けた。その不穏な笑顔は、内に大きな愉悦を秘めているように見えた。
「“リリィ・ボーン”、“人は生き返る”。どうだい、あまりにも怪しいセリフだろ?」
リリィ・ボーン。雅人は彼の発したセリフを、口の中に含めるようにして復唱してみた。だがそれはいくら記憶の底をほじくり返そうとも、聞き覚えのある単語ではなかった。直訳すると百合の骨だろうか、とぼんやりと思うだけだった。一体ゴンザレスは、自分に何を伝えようとしているのか。その意味を、再び見失う。
「もしかして、この家には死神が来たのかもしれないよ。彼の言うことが本当ならだけどね」
今にも高笑いでもあげて部屋の中を跳ね回りそうな昂揚が、ゴンザレスの声音にはあった。またも彼の口から出てきた、死神、という言葉に雅人は釈然としないものを覚える。これまで得た情報と、ゴンザレスが雅人に求めているものと、彼が話している事柄が、上手く頭の中で結びつかなかった。
「それはその……つまり、どういうこと?」
「嫌だなぁ、そんなに難しいお話は、していないつもりだよ。そのままの、意味ってことだよ。彼らは人間の死体を使って、怪人を作れるんでしょう? ならそれは、大きな意味で、生命の再生と呼んでもいいんじゃないのかな?」
ううん、と雅人は曖昧に返事をした。何となく輪郭のぼやけた、掴み所のない話だった。
「そして坂井直也くんが見つけたということは、それなりに意味のある場所なのかもしれない。うん、きっとそうさ。ゴン太くんの勘は、今日は、きっと冴えてるんだ」
雅人を置き去りにして、ゴンザレスは勝手に一人で納得をしている。眉を寄せながら、ぼんやりと頷く雅人をゴンザレスは下から覗き込むようにして見上げると、それから、ふふ、と混濁した笑みをよこした。
「だからさ、瀬野原雅人くん。今から、この家を見張ってきてくれないかい? 数時間だけでいいよ。本当に見張るだけでいいからさ。お礼は、弾むからさ」
雅人は瞠目した。なぜそういう結論になるのか、全く思考が追いつかなかった。一体いつそういう話になったのか、と聞き返したくなるが、そこにどれだけの意味があるのだろうと考えると、反論する気も起きなくなった。
「なに、いつもの偵察任務さ。君の、得意分野じゃないか。君を、信頼しているからこその、お願い事なんだよ。ね? いいでしょ? いいよね?」
首を傾げ、詰め寄ってくるゴンザレスに、雅人は目を細めた。
礼を弾むと言われれば、とりあえず断る理由はない。今は少しでもお金が欲しい。それに雅人は大学に通うための資金を無償で援助してくれているゴンザレスに、多少の恩義を感じてもいた。戦いが嫌い、という雅人の性格をゴンザレスは配慮し、偵察任務を主に与えてくれる。だから司からの誘いとは真逆に、雅人は組織からの任務をほとんど断ったことはなかった。
「なんだかよく分からないけど……まぁ、戦いじゃないなら」
雅人はディスプレイに表示された地図に目をやった。坂井直也が行き着いたとされる民家の位置を強く目に焼き付けると、ゴンザレスに視線を戻し、小さく顎を引いた。
「分かった、やるよ。報酬はいつもの口座に頼む」
仮面の話 3
残暑の時期特有の生温い風が、髪を撫でる。そういえばしばらく散髪にも行っていないな、と雅人は肩に触れるほどに伸びた自分の髪を見やり、思った。
雅人は住宅街を見下ろすアパートの屋上にいた。目標とする一軒家は肉眼でもはっきりと確認することができる。双眼鏡を用いれば、その庭に植わった樹木の数でさえも細かく数えることが可能だろう。雅人はTシャツの襟口を手で摘んで広げ、服の中に空気を通すと、フェンスに背を預けた。汗がじわりと皮膚に浮かぶような、嫌な暑さだった。七分丈のジーンズのポケットに無理矢理突っ込んだ、350ミリリットルのペットボトルを手に取る。中に入っているのはお茶だった。ここに来る途中、立ち寄ったコンビニで購入したものだ。
蓋を緩め、ペットボトルを傾けて、喉を潤す。一息をついてから、再び双眼鏡を覗き、民家に目を向けた。この双眼鏡は暗視スコープを搭載した、かなり高性能な一品だった。当然私物ではなく、任務の際にゴンザレスから借用したものだ。景色はすっかり夜の空気を纏っていたが、これを使えば昼間と同じように視界を見渡すことができる。
今のところ民家に異常はないようだった。来客もいないし、住民が家の中から出てくる様子もない。この家に住んでいる人の名前どころか顔さえも知らないというのに、こうして双眼鏡で覗き、監視しているというのは何だか奇妙な感覚だった。
とりあえず1時間は外から監視をしろ。それで何も起きなければ家に近づき、できれば中に侵入して偵察を続けろ。それで異変がなければ帰ってきてもよい。
掻い摘んでいえば、雅人はゴンザレスからそんな命令を受けた。
何だか透明人間を探すような、星のかけらを追うような、そんな不透明で覚束ない話だと思う。雅人自身は一体、この家がどんな異変に巻き込まれる可能性があって、なぜこの家を見張らなければならないのか少しも理解していないのだ。
この任務にどうにも気が乗らないのは当然だな、と雅人は自分の中に漂うアンニュイな気持ちをどうにか納得させる。何に着目し、何を調査し、何に成果を見出せばいいのかも判然としないこの状況で、どこに活力を見出せばいいのか分からなかった。
錆びたフェンスの網目に指を入れ、気だるいため息を吐き出す。民家を見下ろしながら、雅人はゴンザレスの思惑を、すなわち自分がここにいる理由を推測してみる。
まずはゴンザレスの話す、“死神”とやらの正体についてだ。これはおそらく式原、つまり怪人たちのことを指しているのだと思う。昼間に怪人が現れたと聞いたときは、1週間ぶりに動き出したのだと雅人は思い込んだのだが、実はもっと前からゴンザレスは怪人の暗躍について嗅ぎ取っていたのかもしれない。
しかし死神と怪人をイコールで結んでしまうと、今度は『家に死神が来る』という言葉の意味がいまいち通らない。確かに人間の姿をもつ怪人が何体か目撃されており、そのような怪人たちが組織の目をかいくぐって人々のもとを訪問するということ自体は可能だと思うのだが、一体、そんなことをして何になるというのだろうか。死んだ人間に化けて、その友人や家族などに近づき、さらなる被害者の連鎖を生み出そうとしているのか。それとも新たな協力者でも募ろうというのか。
想像することは容易く、限りなく、だからこそ着地点が揺らいでしまう。思考を巡らす要素が多すぎるというのも、なかなかに考えものだった。
「……人が生き返る、か」
ゴンザレスの話では、プレートに仕掛けられた盗聴器ごしに、坂井直也はそんなことを口走っていたという。まさか式原は愛する者が死に、悲しみに暮れる人々のもとに訪れ、死者を蘇らせて回るという慈善事業でも始めたというのだろうか。
だが、その仮説が正しいとするならば、式原はなぜいきなりそんなことを始めたのか、という理由が付きまとう。異常者の考えることなど道理が通らなくて当然だと言われればそれまでだが、これまでの犯行の手口からも、式原が賢明でそれでいて狡猾な殺人者であることは明らかだった。彼が発見される危険を冒してまで全く意味のない行動をとるとは思えない。そこには何らかの理由があるはずだ、というのが雅人の持論だった。
それに、そんな慈善事業が目的ではあの組織となんら変わらないではないか――雅人は双眼鏡を下ろし、星のない、のっぺりとした空を眺める。
“人が生き返る”
ゴンザレスの口からこの言葉を聞いたとき、雅人が最初に思い浮かべたのは、10年前、黄金の鳥という魔鳥を使って、愛する者を喪った人々の心の隙間につけこんでいた、あのあまりにおぞましい組織のことだった。
式原がとっている行動と、あの組織がやってきたこととは、雅人の中でほとんど同一に思える。どちらも怪しげな力を使って、人の命を物のように扱い、その是非を問いかける審判をあまりに身勝手に下している。違いといえば、行き着く先が、生か死のどちらかというくらいのものだった。だが人の命、というあまりに漠然とした大きな要素を前に、その差異はあまりに無意味だった。どちらも悪行であり、人が立ち入ってはならぬ領域を軽々と飛び越えているということに変わりはないのだから。
その時、雅人は背後に気配を感じた。背筋をざらざらした舌で舐めまわされるような、怖気を伴う嫌な感覚だった。雅人は息を整えると自分の中でタイミングを図り、振り返ると同時に、横へ飛んだ。次の瞬間、1秒前まで雅人が指を絡めていたフェンスが、けたたましい音をたてて吹き飛んだ。
「おっと、私としたことが。外しちまったですー」
雅人は息を呑んだ。目の前に、左右非対称な刺々しいシルエットをもつ怪人の姿があった。頭部に巨大な隻眼を光らせ、胸にペンギンの絵を宿したその怪人は、年端もいかぬ少女のような声を発し、舌を打つ。
全身の体温が一斉に夜闇に消えていくのを、雅人は感じた。それなのに胸のあたりだけは妙に熱く、焼け付くような痛みさえ生じている。その心音は少しずつ早まり、不安定な鼓動を刻み始めていた。
「お前は一体、何者ですかー? ここでなにをしているですー」
ペンギンの怪人は右の掌を雅人に向けてかざすと、語気を強めた。視界が眩み、倒れそうになって、雅人は咄嗟に背後のフェンスを掴んだ。
「変態ストーカーですかー? それとも……私たちの思惑に気づいた、愚かな野郎ですかー? 答えやがれですー」
「お、俺は……俺は何も知らない!」
ようやく喉の奥から搾り出した言葉は、自分でも驚くほどに平静さを欠いたものとなった。ペンギンの怪人は「ああん?」と、苛立ったように首を傾ける。前に突き出したその掌に、青白い光が宿った。その周囲の闇を剥がし取るほどの強い光は、怪人の相貌を不気味に照らし出す。
「ま、なんでもいいですー。今日の私に出会ったのが、お前の運の尽きですー」
死ぬですー。そう一方的に言い放ち、ペンギンの怪人はその手から閃光を解き放った。胸のざわめきに絡めとられた雅人の体は、うまく動いてはくれず、その場でよろめくのが精一杯だった。
足元で衝撃が爆ぜた。雅人の体はまるで机の上に丸めたちり紙のように、ふわりと、爆風に乗せられて吹き飛んだ。手からペットボトルと双眼鏡が離れ、地面を跳ねる。雅人自身も激しく地面を転げながら悲鳴をあげ、貯水タンクに背中を強く打ちつけた。激痛に悶えながらも、膝をたて、体を起こす。足首と腕が何箇所か擦り剥け、そこから鮮血が流れ出していた。だが状況からしてみれば、この程度で済んだのは幸いと呼べた。
ぎしり、とフェンスの軋む音が聞こえた。ぜえぜえと肩で息をしながら、雅人は不吉なものを感じ取る。痛む胸を押さえながら音のした方に視線をやると、フェンスの縁に二本足で佇立する、新たな怪人の姿を見つけた。
その怪人は頭部が丸ごと、翼を広げた鷲で構成されていた。体には縦縞模様が走っており、遠めに全身を見れば、それは籠の頂点に鷲が止まっているだけに思える。胸の絵にもやはり、その頭部と同様、鷲の絵が描かれていた。
「……グリフィン。なぜお前がここにいるですー」
突如、この舞台に参戦を果たした新たな怪人を認め、ペンギンの怪人は当惑を口にする。鷲の怪人はフェンスの縁に乗ったまま、その場で屈みこむと、膝の上で頬杖をついた。
「なぜとは随分な言い草で。決まってるでしょう? あなたの援軍にわざわざ来たんですよ、デベ姉さん」
グリフィン、と呼ばれた鷲の怪人から発せられたその声もまた、女性のものだった。その語調にはペンギンの怪人に対する軽蔑と、己の力への自信が滲み出ていた。ペンギンの怪人の顔色が途端に険しくなる。
「あぁん? お前、誰に向かってそんなセリフを吐いてるですかー。うぜぇですー。引っ込んでろですー。こんな人間1人、手こずるわけがないですー」
「そんなこと言って。あなた、今日一度、敵を見失ったそうじゃないですか」。困りますねぇ。そんなことをやられて、一番割りを食うのはお父様なんですよ。お父様の側近として、そんな間違いが二度と起きぬよう、徹底するのが私の仕事ですので」
ふん、と相手を小馬鹿にするかのようにグリフィンは鼻を鳴らす。怪人の内部事情を全く把握していない雅人にも、この2体の間に漂う険悪な空気を察することはできた。そのやり取りの中間地点に立ちながら、雅人は怪人を交互に見比べる。ペンギンの怪人は舌打ちをすると、その右手に伸びる巨大な爪をその場で一振りし、唾を吐き捨てた。
「調子に乗りやがって、気に入らないですー。お前の力なんていらねぇですー。そこで黙って見てやがれですー」
ペンギンの怪人が、雅人に顔を向ける。その殺意をはらんだ視線と、10本の指先からそれぞれ伸びる涅色の爪を前に、雅人はまるで心臓を鷲づかみにされたかのような息苦しさを覚えた。足が竦み、一瞬、目の前が白く染め上げられる。咄嗟にジーンズの尻ポケットに手をやった。だがそれと同時に、怪人のつま先が床を叩く音が、雅人の鼓膜を震わせた。
生身の人間に対しても、怪人に全く容赦はなかった。ペンギンの怪人はたった一歩で雅人の間近まで急迫すると、その腕を力ずくに振り回してきた、
だが、時に恐怖は思いもかけぬ力を肉体に与えるものだ。雅人は怪人の襲撃を、後ろに飛ぶことでかわした。左手による追撃も身を屈ませ、紙一重で頭上を掠らせる。思考能力と冷静な振る舞いをもぎ取られた雅人は、慌てふためきながらフェンスに駆け込み、網目にその体を食い込ませた。
「……うろちょろしやがって。いい加減、往生際が悪い!」
雅人が本能的にとった忌避的な行動は、却って敵の怒りを買ったようだ。ペンギンの怪人は五本の指をぴったりと揃えると鋭い爪を収束させ、まるで太い杭のような形となったその腕を、一息に前方へ突き出した。
それは雅人の頬を掠め、耳の近くのフェンスを一撃で突き破った。鉄の破片を地面に散らしながら、フェンスから腕を引き抜き、さらに続けて、今度は雅人の顔面に照準を合わせる。
怪人の口元が笑みを形作るのを、雅人は見た。その腕の先端が眼前に迫る。体に受ければ上半身と下半身で真っ二つに裂かれ、頭部に受ければ首から上が砕け散るだろうということが容易に想像できた。
怪人がその腕の一撃を解き放つ。雅人は無我夢中で、自らの腕を振り回した。その掌には、つい数秒前にようやくポケットから取り出すことの叶った、長方形の形をした、黒い何かが握られていた。
突然、ペンギンの怪人の体が宙を舞った。その様子はまるで、突如目の前に現れた見えない壁に激突し、弾き飛ばされたかのようだった。
地面に激突する怪人を前に、雅人の全身が強い光に包まれる。パスケースのような厚みと形をもった、“メイルプレート”と呼ばれるそれを片手に握り締め、静かにさざめく光の内側から、雅人は敵の当惑する表情を見つめた。
胸のあたりで宙に浮かぶ光の曲線は、雅人が先ほど振りまわした腕が、空に描きだした軌跡をそのままなぞったものだった。
その曲線は帯のように変化し、雅人の胴周りをベルトのように囲んでいった。やがて光は収縮し、そしてそれほどかからぬうちに周囲は元通りの暗がりを取り戻す。
しかしその中で、雅人だけがあまりにも急激な変化を遂げていた。
全身を強固に覆うのは紫色の鎧だ。頭部には頭部には三角頭巾に似た漆黒の兜が被せられている。それは痩身の装甲服だった。
銀色の仮面に薄紅色の相貌を光らせた戦士――“マスカレイダー・シャドウ”を纏った雅人は、空気中に舞う光の残滓を腕で払いのけ、首に巻かれた二対のマフラーを大きくはためかせた。
「なるほど! やっぱり、そういうことでしたかー」
ペンギンの怪人は、雅人が装着を終えた直後こそ虚を衝かれたような様子だったが、その挙動もすぐに消え、青白い電撃の乱舞を浴びせかけてきた。
雅人は空いている左手で、シャドウの腰背部に携えられた短刀を手に取ると、それを体の前で構えた。宙を穿つ電撃の槍は短刀の鞘に収まったままの刀身に着地し、甲高い音とともに周囲に弾けた。
短刀を片手に握り、身構える雅人の耳を、風切り音が切りつける。空を振り仰ぐと、視線の先には、フェンスから飛び降り、空中でドロップキックの姿勢をとった鷲型の怪人、グリフィンの姿があった。シャドウは床を蹴ると、生身の状態とは比べものにならないスピードで、敵の攻撃を即座にかわす。つま先で着地し、アスファルトの地面に爪痕を突き立てたグリフィンは、その掌を返して上に向けた。
「ただの人間だって? ……そら、言わんこっちゃありませんね」
その掌に白い球体が、まるで特大の蛍のように浮かぶ。野球ボールくらいの大きさまでそれは膨張すると、グリフィンの手によって投げ放たれた。
シャドウは先ほど電撃を弾いたのと同じ要領で短刀を振りかざそうとするが、今度は状況が違っていることにすぐに気づいた。その球体はどこにも触れることなく、雅人に到達することもなく、強烈な衝撃波を周囲に発散していた。まるで暴風雨に吹かれたかのような衝撃に見舞われ、シャドウの体は荒々しく吹き飛ばされた。何度も床を跳ね、方向感覚も三半規管もひどく乱された末に、フェンスに当たって止まる。
だが、雅人に休む暇はなかった。起き上がろうと顔をあげた、その視界にペンギンの怪人の太く尖った腕先が迫っていた。シャドウは間一髪、短刀を薙ぎ払って敵の腕を弾くと、その腹部に両足で蹴りを打ち込み、反動を利用して後ろに逃げた。
背面に飛ばされていく途中、適当な位置でフェンスに短刀の先端を引っ掛け、制動をかける。すぐさま立ち上がり、追いすがるように撃たれた電撃を回し蹴りで受けると、宙に霧散させた。
シャドウの胴体を覆う装飾品には、腹部のあたりに長方形の窪みが空いている。雅人は右手に握ったままだったメイルプレートをそこにはめ込んだ。プレートを腹部の台座にはめこんでいる途中も、空を泳ぐ電撃と、低空飛行で突っ込んでくるグリフィンの襲撃とを、短刀とけして軽やかとは呼べないフットワークで、いなさなければならなかった。
「邪魔くせぇですよ、グリフィン! 私だけで十分ですー」
怒鳴りながらペンギンの怪人が爪を振りまわしてくる。その勢いは激しく、疲労を覚え始めてきたシャドウには攻撃を捌ききることはできなかった。二撃、三撃と間髪いれずに体を切り裂かれ、雅人はその都度、痛みと恐怖に悲鳴をあげた。
「まだそんなことを言っているのですか、あなたは。この私が! 手伝ってやっているというのに!」
逆側からはグリフィンが待っていた。その手にもまた、凶悪な爪が備わっている。短刀で応戦するよりも早く、その先端はシャドウの胸を穿っていた。さらにまたも白い球体を投げつけられ、衝撃に負けたシャドウは地面に全身を叩きつけられた。
装甲で身を包んでいるので、致命的な負傷を追うことはなかったが、このままではダメージが蓄積し、限界を迎えた装甲が強制解除されてしまうのは目に見えていた。
胸を絞めつけるひどい苦痛は、時間を追うごとに悪化しているようだ。息は切れ、意識も怪しかった。視界の焦点が合わず、目の前の景色は先ほどからぼやけたり、明瞭となったりを繰り返している。
「どけですー。お前なんかに助けられる筋合いはねぇですー」
ペンギンの怪人がシャドウに向けて掌をかざす。これまでとは違い、それは左手だった。
そこまで認識したところで、雅人の思考は意識を飛び越えた。ほとんど反射的に短刀の鍔に手をかけている。そこは回転式のダイヤルになっており、その周囲には四箇所の目盛りが振ってあった。
「やっぱり……これしかないか」
そのダイヤルを1目盛り分、移動させる。シャドウの装甲が薄く発光したのを確認すると、雅人は少し横に跳んでから、地面を蹴り、前方目掛けて飛び込んでいった。
ペンギンの怪人の左手からは薄い靄のようなものが吐き出され、触れた地面を瞬く間に凍結させていった。
雅人はその怪人の真横を通過する。間近を横切っているというのに、ペンギンの怪人は、まるでシャドウのことが目に入っていないとばかりに無反応だった。
どよめきが生じたのは、それからわずか二秒後のことだ。ペンギンの怪人は「そんな馬鹿な、ですー」と驚愕の声を漏らし、グリフィンは「消えた?」と雅人の姿を求めて、周囲に視線を巡らせている。両者の反応とも、先ほどまでシャドウが倒れ、極寒の冷気を浴びせかけられそうになっていた場所を指してのことだ。しかし、すでに雅人は二体の横を通過し、グリフィンの背後に移動している。足音などたてない。一つ跳躍し、その身を綿毛にみたて、軽やかに着地する。体を捻り、グリフィンの背中を視線の先に据えた。
これがシャドウに備わった能力だった。一定時間のみ自らの姿や気配を周囲から完全に隠蔽することができる。この力はシャドウをシャドウらしめている、いわば、核とも呼べるものであり、雅人の戦闘は通常、この状態を基本として展開される。
体力に乏しく、戦闘における術をほとんど知らない雅人には、真っ向からのぶつかり合いには向いていない。そしてそれはシャドウにおいても同様だった。
首を左右に振って周囲を探るグリフィンに、シャドウは素早く接近する。短刀の鍔に手をかけると、今度はダイヤルを二目盛りに合わせた。左手で柄を、右手で刀身を握る。装甲の不可視を解除し、その全身が輪郭を取り戻すと同時に、短刀の鯉口を切った。
直接戦闘を嫌い、苦手とする戦士が取るべき常套手段。装甲を不可視にさせ、敵から姿をくらます能力を備えた装甲服が得意とする行動とは、偵察、監視、そして――闇討ちだ。
「……さようなら」
鞘より引き抜かれたその刀身は膨大な光量によって形成されている。シャドウの手によって振るわれた刃は、グリフィンの体を夜ごと真っ二つに切り裂いた。
断末魔をあげる間さえ与えられず、上半身と下半身を分断されたグリフィンは、地面より立ち上った光の渦によって塵一つ残らず消滅する。シャドウはその眩さが自身を包んでいる瞬間を狙って再度ダイヤルを『1』に回し、能力を発動させると、フェンスを振り返った。
そのままわき目も振らず、ひとっ跳びでフェンスを飛び越えると、住宅街に落下していった。ペンギンの怪人も続けて相手にしようなどという欲は、雅人の中にはなかった。もはや体力は限界に近く、特に胸の痛みはもはや耐え切れないほどになっていて、これ以上の戦いは危険だと判断した。
もはやゴンザレスから与えられた任務を遂行している状況でもなかった。むしろ、あの家を監視していて怪人が実際に現れたのだから、これは大きな収穫を得たも同然ではないのか、と自分自身を納得させる。とにかくいまは、逃走することだけに意識を向けたかった。
不可視の力を発動させたまま、シャドウは夜の道を疾走する。悲鳴をあげる心臓が、その体の動きをほとんど無理やりに制止させようとするまで、それほど時間はかからなかった。
仮面の話 4
地下室に帰り、「結局戦いになった」と悪態混じりに報告すると、ゴンザレスは「それは災難だったね」と他人事のように言った。彼は雅人が逃げ帰ってきたことと、双眼鏡をなくしてしまったことには難色を示したものの、怪人と接触できたことには、まずまずといった反応をみせてくれた。
銀行にお金は振り込んでおくからね、というゴンザレスの言葉を背に受けながら、はした金では割に合わないな、と胸を掌で撫でながら思う。
時刻はすでに23時を過ぎていた。公園で体を休めているうち、気づけばこんな時間になってしまった。擦りむいた手足は痛み、出血は止まっていたものの、まだ衣類には血がこびりついたままだった。ジーンズはところどころが破れ、シャツは腕や背中の部分が裂けている。これではまるで浮浪者のようであると雅人は肩を落とし、ため息をこぼす。
心臓を重く軋ませていた体調不良は薬のおかげで多少楽になったが、疲労は骨の髄までこびりついているようだった。すぐに部屋に戻り、着替えと傷の手当を済ませてベッドに潜り込みたい欲求にかられるが、その前に、雅人にはどうしてもいかなければならない場所があった。もう少しだけ休息は我慢してくれと自らの肉体に言い聞かせ、自分の部屋があるのとは逆方向に足を向ける。
目的とする部屋もまた、雅人が住んでいるアパートの中にあった。『301』と記されたドアの前に立つと、ベルトの穴に引っ掛けておいたキーケースを外し、そこから合鍵を選んでドアノブに突き刺した。
中に入ると玄関の電気はつけずに、持ってきた小型のペンライトをポケットから取り出し、それで室内を照らした。足元の三和土には靴が一つもなかった。左手の方にある靴箱の中が空であることも、雅人はすでに確認済みだった。
靴を脱ぎ、物音たてぬよう細心の注意を払いながら廊下に上がる。正面には片開きのドアが見えた。足音を偲ばせてそこに向かう。室内が静かすぎるせいか、雅人は自分の心音がやたら大きく聞こえた。周囲にこのやかましい音が漏れてしまわないか、心配になるほどだった。
突き当たりで立ち止まり、深呼吸をしたあとで、ドアに顔を寄せた。胸が高鳴り、息苦しいくらいだった。しかしそれはけして悪い気持ちではない。むしろ心地よい感触が、体の奥底から這い上がってくるようだった。
覗き穴から中を窺い、室内に耳をそばだてて何の物音もしないことを確認する。そしてキーケースから先ほどのものとは別の鍵を取り出すと、それでドアを開けた。蝶番が音をたてることを恐れて、ゆっくりとノブを手前に引いていく。そうして目の前に現れたのは、暗闇に沈み、雅人の手にした懐中電灯の明かりによって全貌の暴かれた狭いリビングだった。
リビングとはいっても、その部屋の中にはテレビもなければベッドもなく、本棚もソファーもない。あるものといえば、壁に設置されたエアコンと小さな丸テーブルくらいのものだった。そこは人が生活していくにしてはやけに寂れ、閑散とした空間だった。
それもそのはずだ。ここは生活のためのスペースではなく、単なる監禁部屋だった。捕えた人間の生殺与奪を得て、精神を蹂躙するための場所だからこそ、生活臭をあえて希薄にしているのだった。
人質を生かさず、殺さず。希望を潰し、しかし絶望のみを与えすぎぬよう配慮する。それがこの部屋に期待されている役割の大部分だった。だから三度の食事は毎日与えられるし、トイレと風呂も自由に入れるよう、リビングと繋がった部屋に備わっている。エアコンから吐き出される冷風のおかげで、室内の気温は快適だった。
だが、それ以外のものはこの部屋では何一つとして与えられない。生きていくことはできるが、生活をしていくことは不可能に近い。ここはそういう空間だった。
部屋の中央には布団が1枚敷いてあり、そこにこの監禁部屋に閉じ込められている少女が眠っていた。
少女はまるで、幼い子どものように小柄だった。艶のある黒髪が床に広がっている。その雪よりも余程白い頬が懐中電灯の灯りで照らし出された瞬間、雅人はたまらず息を呑んだ。
彼女の名前は楓葉花。私立高校に通う、今年で16歳になる女の子だった。雅人は彼女のことについて大体のことは知っていた。趣味も、好きな食べ物も、好きな色も、星座も把握している。だが、彼女の方は雅人の顔も、名前も、その存在すらおそらく知らないのだ。
雅人の方も葉花と正面きって会ったことはない。これまで話したことすらなかった。ここに連れてこられる前はこっそりと隠れて彼女を見守っていただけだったし、彼女がここに監禁されるようになってからも、こうして深夜にそっと寝顔を見るだけだった。距離はいつでも、ドアから敷いてある布団の間に横たわる3メートル25センチだ。この距離より深く、彼女の領域に入り込むことを、雅人は望まなかった。
雅人にとって、葉花は静謐な眠り姫だった。彼女のことをこうして見つめているだけで、自然と口元が緩み、心の中を安堵が広がっていく。
葉花の周囲には漫画の単行本や雑誌が詰まれ、携帯ゲーム機が枕に立てかけられ、布団の周りには菓子が散らかっている。それらは全て、雅人がプレゼントしたものだった。彼女の喜ぶ顔が見たくて探した、選りすぐりの品々だ。雅人はポケットを探ると、そこからパックのオレンジジュースを取り出し、葉花の枕元に置いた。それもまた、彼女の好きなもののはずだった。
葉花の寝息だけが深々と響き渡る夜は、眩暈さえする生じるほどに幸せな時間だった。少なくとも、この世界には今、雅人と葉花の2人きりしかいない。彼女と自分自身の呼吸が空中で絡み合い、重なり合い、舞っているのだ。想像するとそれだけで気持ちが昂揚し、意識が蕩けそうになった。
彼女に触れたいとも、彼女と話したいとも思わない。ただ彼女がこの世界で呼吸を続けていることを知っているだけで、雅人は十分だった。それ以上を望むのは、あまりにおこがましいだろう。
そのスカートの裾から覗く細い足や、あと数センチ下がれば下着が見えてしまいそうな胸元や、その整った顔立ちや、淫靡に湿った唇をしばらく眺めたあとで、雅人は深く息を吐き出し、踵を返した。その頃になると、もはや夢とも現実ともつかぬ意識の中で、頭はぼんやりとしていた。
「おい」
雅人はびくりと体を震わせた。口から心臓が飛び出るよう、とはこのことだと思った。室内を振り返り、そして素早くその隅々まで視線を運ぶ。葉花を見下ろすが、彼女は深い眠りについたままだった。
「違う。ここだ。そう……ゲーム機だ」
気のせいかとも思い、怯えを抱きながらも部屋を出て行こうとしたその時、その声が再び2人きりの世界に響いた。雅人は唇を噛みながら、気持ちを落ち着かせ、導かれるように携帯ゲーム機を覗き込む。枕に立てかけられたそれは薄暗い画面に葉花の姿を映すとともに、もう一つ、奇妙なものの姿を捉えていた。
「久しぶりだな。俺を覚えているか。瀬野原、雅人」
雅人は悲鳴をかみ殺した。唾液と一緒に喉の奥へ飲み込み、胸のあたりを叩きながら食道へと誘導する。それでも軽くむせながら、雅人は改めてゲーム機の画面を見た。そこには現実の世界には姿のない、しかし、その画面の中から雅人に向かって語りかける存在があった。
「ハク、バス……?」
その存在は全身に鎧で包んでいた。その甲冑は傷に塗れ、全体的にくたびれた様子が滲んでいる。雅人は彼のことをよく知っていた。ハクバスという名前も、7年前、雅人が所属していたある組織の参謀を務めていたことも、そして現代科学の理論では説明のつかない不思議な力を持っているということも。
「雅人君。突然のことで面食らってるだろうが、落ち着いて聞いてくれ。……助けてくれ。今、君の力が必要なんだ」
その彼がゲームの中で、雅人にそう呼びかけてくる。雅人は呆気にとられ、ハクバスの姿をじっと網膜に焼きつけていた。だがいくら頭の中で真偽を問おうとも、この夢のような空間の中で、それが夢でも幻覚でもないことを証明することは、おそらく不可能だった。




